カテゴリー「映画(欧州・ロシア)」の53件の記事

2012年5月21日 (月)

5月21日

 やはり早く目が覚めた。前日の小雨、予報は、曇りだったので、天気が気になっていたが、好天の部類だ。

 京都市は金環日食の北限だが、このあたりは1分足らずでも金環になる。フィルターがなかImg_8047ったので、カメラはうまくとれないのは分かっていたが、一応は撮ってみた。10㎝の反射鏡と、5㎝のボータブル屈折鏡が、倉庫に眠ったままだ。もう、観察の仕方も忘れた。日食そのものもだが、周りの変化にも興味もあった。その瞬間は、急に夕方みたいに暗くなるとか、気温が下るとか言われていた。しかし、ほんの1分ほどでは体感的にはImg_8091何も分からなかった。こころもち、暗くなったのかもしれない程度。時間差が、あるのでテレビでも観賞する。

 10分ほどしてから、七から連絡。「日食見えたか?」と尋ねたら、部屋にいて(寝ていて)見ていないという。いやー、せっかく学校で日食グラスを配ってもらったのになー。今からでも、部分日食は見Img_0917えると言うと、急いで、外に飛び出していった。よく時間が分からなかったらしい。ぼくも、もう少し備えていたらよかったなー。

 一仕事して、京都シネマに向かう。東寺近くでImg_0913人込み。今日、弘法さんで賑わっていたのだ。七条堀川の西本願寺まですすむと、巨大な仏旗がはためいている。親鸞聖人のお誕生日をお祝いする、宗祖降誕会が厳修されていた。朝から、日食のことしか頭がなくて、すっかり忘れていた。今年は50回の大遠忌にあたるのだから、90歳をくわえると、ちょうど840年前のことになる。40年前の800年の時には、盛大な法要が営まれている。

120506 映画は、ケン・ローチの息子、ジム・ローチのデビュー作。社会派映画『オレンジと太陽』を観る。なんと70年代まで続いた英国から豪州などへの、施設で保護されていた子供たちを、強制的、非人権的に児童移民させていた実態に立ち向かった女性の実話。善意の名でなされた非道を、声高に糾弾するのではなく、子供時代に大人によって虐待され、傷ついた大人たちが、「ほんとうの自分は誰なのか」を求め、悲しみ・苦しみを越えていこうとする者に、暖かく、厳しく寄り添うく姿勢が感動的だった。

 頬を涙が伝っていったが、しばらく流れるままに任せておいた。

 

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2010年11月 8日 (月)

『アイスバーグ!』と『ルンバ!』

 京都シネマで、新作なのに2本立てで映画を見た。ベルギー・フランス合作の『アイス・バーク!』と『ルンバ!』だ。2本立てなんて、久しぶりだ。1本の値段で2本も見れるんだもんなー。1本450円也。安くても、面白くないものはいやだが、これは内容がなかなか新鮮で、奇妙な驚きがあった。ある意味、拾い物かもしれない。決して、大作ではないが、オリジナリティーに溢れている。最近のヒット作は、焼き直しやリメイクばかりで、そうでなくても、なんてなく結末やネタが分かっているものばかり。その意味では、本作のストーリーは予想不可能。ある意味、荒唐無稽といれば、そうなんだけれども、「どうして」「なぜ?」なんか思っちゃいけない(というより、そんなことは問題にならない)。ある種、不条理は不条理として画面を楽しむ。第一、細かなストーリーなんか関係ないよう(セリフも説明もない)で、実は、けっこうそこに引き戻されたりする。その身体的なパーフーマンスを味わうべし。

Rumba_01 映画の前の予告編は、ウディ・アレンの新作(人生万歳!)コメディ。あいからず、知的なセリフや言葉が溢れるように出ている。見るからに面白そう。しかし一方で、こんな映画もあるんだなー。セリフは極端に少ない。笑いもズレている。斜に構えて見たなら、きっと面白くないだろう。しかしセリフが少ない分、パンタマイムや道化師のように、身体を使って笑わせる。これがなんともすごいのだ。単なるドタバタでもなくて、むしろ笑えないことも多いが、この不思議な世界に嵌まると、そのズレ具合が無性におかしくなる。まさにオフビートの笑いだ。そして、背景や小物もすごくオシャレ。服装の色使いもシンプルなデザインながら、原色が多様されて、組み合わせも鮮やかで、美しい。

 まずは、『アイスバーグ!』。アイスバーグとは、氷山のこと。
 冒頭、地球上で最後にイヌイット語を話すという女性が登場して、「どうようにして夫と出会ったかをこれから話します」というシーンから始まる。ところが、一転して、フォミレスの店長の女性が主役になる。旦那と子供二人と、郊外に住宅街に住んでいる。その彼女が、店の冷凍室に閉じ込められたことから、家族と旦那との間に溝に気付く。いや、冷凍室から戻ると、強く氷山に魅せられていく。冷蔵庫の冷凍庫の氷で氷山を造る。寢室のベットでは、あまりにも寝相が悪くて、旦那を落とし、シーツでパフォーマンスでは、シーツとからだ、無意識に氷山の形になっている。このシーンなど、前衛的なダンスだ。不法移民や港町の老人。集団の動きも奇妙でいい味。ついに、氷山を目指し、鄙びた港町へ。そこで、寡黙な(実はあまりの衝撃的な不幸で、口と耳の機能を失った)船長に出会う。船長といっても、小さなヨット。その名も「タイタニック」号。執念で追いかける旦那。三人の海上での、奇妙なドタバタ喜劇と、ダンスというか身体パフォーマンスの連続。そして、ついに船は氷山にぶつかり、知らぬ間に、冒頭の話へと戻っている。結局、収まるところに収まったようだ。

 5分の休憩を挟んで、『ルンバ!』。前作の、監督も主演も、同じコンビで、こちらも夫婦役。主な出演者も同じで、ふたりの間に入って、外からふたりの運命を引き裂く男も同じ。二人は、ベルギーのカップルで、フランスとベルギー合作映画だ。フランスでも、ドイツでもないところに、この映画の妙があるのかもしれない。フィンランド(アキ・カウリスマキぼかったりする。まあタチ風だったりもするが)やノルウェーとの大国に挟まれた国で、この手の映画が造られるのは、ある種、必然かもしれないなー

 ここでの二人は小学校の教師。男性は、体育、女性は、英語。ふたり趣味は、ラテン・ダンス。ルンバを睦まじく踊る。しかも、地区の大会で優勝する実力者だ。ダンスシーンが、とにかくいい。バックもおしゃれ。と、ここまでは、まったく楽しくて、美しくて、素敵な映画だ。ところが、二人の幸せなが、突然、音を立てて崩れていく。「なぜはない」。ある大会で優勝した二人。楽しげに、帰宅につく車。突然、自殺願望の男(前作の船長)が立っている。彼を避けようとした車は大破し、二人は大怪我を追う。そこからは、ただただ転落の一途。

 妻は、片足を失い、夫は、記憶を失う。過去の記憶だけでなく、短期記憶が破壊されて、すぐ前のことが記憶できなくなってしまう。妻のことも分からないし、すぐに忘れる。もうここから、いくら面白いシーンがあっても、笑えなくなる。片足のからだや脳の障がいの失敗をネタにしていくからだ。これはある意味、残酷なのだ。しかも、そのからだではお互いに失敗ばかりで学校もクビになる。妻は、過去の栄光のトロフィーや写真を焼き捨てようと、二人でお別れのたき火をするが、それが義足に引火して、家まで全焼してしまう。しかも、パンを買って戻ろうとした夫は、道に迷って、海辺の町へとさすらい強盗に襲われる。そこで、彼を助けるのは…。なんとも切ない哀愁を帯びた色に染まり、残酷ながらも、どこか温かだ。

 それにしても、海がきれいだ。これは、前作も同様だか、この映画なら、狭い部屋から窓越しに見える、海がなんともよかった。その海を舞台に、妻の回想的なダンスシーン…。うーん、哀れだけど、美しい、純愛もの。

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2010年9月21日 (火)

『楽園』絵画展で寛ぎ、『ミックマック』を観る

Img_2501 今月1日から始まった連れ合いのギャラリー展示。華光誌と布教、そして聞法旅行の準備と多忙だったこともあって、やっと訪問することができた。Img_2497

 昨日から引き続いて宿泊されたお嬢さん方をエスコートして、滋賀県湖西、比良にあるRカフェへ。連れ合いも、芸大時代のお友達と一緒だったので、5名の小さな旅。空は、小雨だったが、気分はよかった。

Img_2471 JRの湖西線で、だいたい35、6分というところか。

 目の前には、静かな琵琶湖が広がっている。

 到着するころには、晴れ間Img_2472も覗き、かなり蒸し暑い。

 さっそく作品を見せてもらう。

Img_2487_2 お店の雰囲気やシチュエーション、周りの風景にも、ピッタリと溶け合っていた。

 京芸大時代のお友達も一緒なので、ちょっと専門的なことも話している。

 ここ数日、華光の同人の方も、訪ねてくださっImg_2490ているようでした。作品もお買い上げくださる方もあって、ボチホチSOLD OUT の印が…。ちょっとは売れてもらないと、材料費もばかにならないだろうしなー…。ほんとうは、学費を稼ぐほどは頑張ってもらいたいところだけれど、それはいまのところは、ちょっと無理そう。なにせ、安いもの。

 さあ、ハワイのビールで乾杯! このために、わざわざJRで来たのImg_2488である。

 これが、フルーティーで濃厚な味。昨日も、城崎温泉の地ビールをご馳走になったが、連続で、おいしいビールにありつけた。おかわりは、タヒチのビール。こちちは、スッキリ、サッパリ系の飲みやすかった。ちゃーんと、グラスも交換しもらえる。Img_2489

 ランチはこちら。皆さんは、ロコモコ(うん、ハワイ風の定番)、ぼくは、スープパスタ。ベースはカレー味。スプーンとフォークで食べかけたら、お友達からダメ出しが…。「イタリアじゃ、誰もスプーンなんて使ったないよ。なんで、日本でこんな風習になったのかなImg_2474ー」と。彼女は、仕事の関係で、ミラノに4年近く住んでいた。あれま、そうでしたが。でも、本場のご意見ではありますが、スープパスタのスープの場合は、どうすればいいのしょうか? もちろん、ここは日本なので、スプーンを使かImg_2475_2わせていただきます。

 ゆっくり食事をし、いろいろと談笑しているうちに、あっというまにお時間が…。お帰りのお客さんに代わって、次のお客を迎える連れ合いとは別行動で、ぼくは、京都駅に戻って、地下鉄で、京都シネマで映画を1本の予定。ところが、昨日までの疲れもあったし、めったに飲まない昼からアルコールで、ちょっと時間感覚がマヒして、「ああ…」とImg_2484_3いっている間に、電車が到着するのが、見送っていた。まあ、仕方ない。これは、無理するなというサインだろう。次の列車にして、自宅に戻ってゆっくりするつもりでいた。ところが、うまい具合に、快速に連絡した。しかも、電車で、グーンと寝たので、ちょっと元気になった。映画の20分前に京都駅に到着。ここからなら、10分あれば、京都シネマに到着Img_2485_2できる。

 結局、ひとりになったけれど『ミックマック』を観に行った。ユーモアというか、ウィットにとんだ、喜劇であって、大人のおとぎ話といっていい内容。兵器製造会社へのイタズラ(=ミックマック)たっぷりの復讐劇(ハングマンだなー)に出るお話なのだけれど、監督が『アメリ』のジャン=ピエール・ジュネなので、なImg_2502_2かなかユニーク、かつ愛らしいフランス映画だった。かなりお気に入りだったなー。

 ちょっと戻るけれど、きれいな琵琶湖(透明度が回復しているなー)を前を眺める、美熟女(?)3人組。のんびりしていて、列車は出ていくのだった。うーん。後ろ姿でも、わかる人には、完全にわかるのでした。

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2010年6月28日 (月)

映画を2本

 途中下車の合間に、京都シネマで映画2本。簡単に触れるだけ。

Khomroy_01 まずは、『空とコムローイ』~タイ、フンティップ村の子どもたち~は、タイ最北端の貧困の山岳民族「アカ族」の子どもや女性たちと、30年にわたり彼らを支援しているイタリア人神父の施設での生活を、日本女性の目で7年間に渡って追い掛けた、日本製ドキュメンタリー。昔ながら山岳生活に迫る資本主義の波。貧困のゆえに、都会への出稼ぎ、売春の誘惑、そしてエイズの蔓延という、現実も迫る。そんな中で、貧しくても、また幼いうちに母親(エイズなどで)死に別れた子どもの悲しみ。温かい施設の中で見せる、とびきりの笑顔が美しい。

 次ぎに、『あの夏の子どもたち』というフランス映画を見た。予告や批評Anonatsu_01_2などで目にしていたが、つとめて内容は見ないようにしていた。まだ映画の半ばで、予想外の展開がやってきて、展開がかわる。玄人に評価の高い、映画プロデューサーとして充実した仕事を送り、妻と、3人の娘(下の二人がほぼわが家と同じ世代)、しかも、彼の年齢は47歳の設定。なんか、人ごとのようにはおもえなかった。彼の充実した仕事の裏で、経営は苦しく、資金繰りに悩んでいた…。(内容はダメでも)大作や話題作か、もしくは助成金などもある小さなインディーズ系は乱立しているが、両極端ばかりが盛んで、真ん中の中堅どころの良心的な製作がなかなか難しいのは世界共通。いえ、出版や芸術、もしくは宗教界だって、そうかもしれないなー。前半、彼が家庭を大切にしながら、特に幼い娘との触れ合いが、あまりにも自然で、温かく、画面からも幸せ感が伝わって来るだけに、一転、主役が変わり、静かな、それでいて耐えて歩むしかない悲しみの深さ、喪失感が、ジワジワと押し寄せてくる手法は、悪くなかった。傷を負いながらも、徐々にその受け入れ難い傷を受容しながら、進んでいくしかないのである。静かな秀作。 一つだけ疑問。家族での、最後のイタリア旅行。(ラヴェンナのフレスコ画によく似ていたけど)教会に描かれる神の手(ゴッド・ハンド)が、なにを示唆していたのかなー。 

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2010年4月19日 (月)

『ジャック・メスリーヌ』~ノワール篇~,~ルージュ編~

 今年になって、社会の敵〈パブリック・エネミー〉ナンバーワンと題する映画を、米・仏両国のものを見た。まずは、米国は、ジョニー・デップ主演で、実在のギャング、デリンジャーを描いた『パブリック・エネミーズ』そして、フランスは、ヴァンサン・カッセルが、やはり実在の犯罪王ジャック・メスリーヌを熱演した、『ジャック・メスリーヌ』~part1・ノワール篇~・~part2・ルージュ編~で、こちちは、前・後半合わせて4時間を超える大作。副題は「フランスの社会の敵〈パブリック・エネミー〉No.1と呼ばれた男」だ。

 不思議なのは、社会の敵といわれる凶悪犯ながら、当時から大衆には人気がある悪の英雄で、後世においても、こうしてドラマテックな映画や小説の主人公になることだ。ジョン・デリンジャーが世界恐慌の時代、ジャック・メスリーヌは、60年代から70年代という時代は多少異なるが、両者は、何十回も銀行強盗はする、警察官は殺す、刑務所は脱獄するといった極悪犯で、女好き。末路は路上での銃殺という哀れなものであるに、人はなぜか男を感じ、魅せられてもいく。どこかで自らの平凡な人生に比して、その破天荒な生きざまが魅力的に感じたり、ダークなもの、アウトロー的なはみ出しを恐れながらも、同時にどこかで憧れるという心理があるのだろうか。平凡な堅物の一生を淡々と描いても、ドラマテックな見せ場や盛り上がりもかけるものね。

 で、この両作品。個人的には、確かにジョニー・デップも、セクシーでかっこよかったが、断然、フランス映画の『ジャック・メスリーヌ』が、面白かった。

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 彼が堕落する背景には、アルジェリア戦争で服役と、悲惨な経験があるようだ。近代のフランスにおいて、このアルジャリアの悲劇は、それを正面からとられたものだけでなく、当時の背景としてフランスの国民(植民地も含めて)の心に多彩な影をおとしていることが、映画の格好の材料やスパイスになっている。外国映画を見続けていると、それぞれ国や国民が抱えているアキレス腱やトラウマになった出来事が、繰り返し繰り返し登場してくるがわかる。いまの中国なら文化大革命であり、先のボーランドならカティン事件といったようなものだ。

 ちょっと横道に逸れた。悲惨な経験があったとはいえ、彼には堅実な親がおり、家庭があり、それが最後まで彼を支えるにもかかわらJmpart2_01ず、結局、仕事も家も投げ出し、悪の道に染まる。その後も、大恋愛の末、結婚し、愛妻に、愛娘も生まれ、家庭をもつ。銀行強盗に失敗し、刑務所に収監後、一度は堅気になろうとするのだが、これが抑止力にはならないかった。止める妻に暴力を奮って、また裏街道へ。それでいながら、逮捕覚悟で危篤の父親と号泣の別れをし、両親に養育させている娘とは、心を通わせあうのだから、まったく人は不思議だ。

 また、どこかドキュメンタリー・タッチ風な映像が、ドキドキ感があっていい。彼の結末は最初(冒頭シーン)から分かっている。それでも、破綻へと続く道が、なぜか悲劇には見えない。銀行強盗を32回、脱獄を4回も繰り返した男が、魅力的に見えるのは、その人間味ある、おかしさや複雑さにあるのだろう。一口でいうと、個性的なのである。すぐ頭に血が昇る無鉄砲さや無計画な行き当たりばったりの大胆さ(というより大雑把さ)があるかと思えば、綿密な計画や観察で、脱出不可能といわれた(人権無視の)特殊刑務所を脱獄したりする。それでいて、脱出を手助けした仲間との約束だからと、勝算のないまま刑務所の正面から命懸けの銃撃戦を行なう。そんな大胆な強盗と、へまをして収監されたかと思うと、鮮やかに脱獄し、そしていい女と恋をする。そんな繰り返しのアンチながらヒーローは、親や子供のことを愛し、目立ちたがりやで、ブライドが高く、自己顕示欲も人一倍だ。

 時代が、左翼思想や革命が盛んになると、まったく政治的思想などもないに被れて、自らの悪事も、権力や体制への革命と位置づけたりもする。銀行や億万長者しか襲わないからだ。しかし、強奪した金で、贅沢三昧。愛人と、宝石に、車に、豪華なホテルで遊んでいては、結局は、金持ちや銀行に還元されていくだけだ。それでも、大衆に喝采される自分に酔い、同時に、彼にも、自己の悪事を正当化する必要があったのかもしれない。

 共演も豪華。ジェラール・ドパルデュー、オリヴィエ・グルメ、マチュー・アマルリックなど、フランスの大物男優、そして魅力的な女優たちが、次々と登場しては、彼の元を去っていく。主演のヴァンサン・カッセルが、中年太りの彼を熱演。なんでも、体重を20キロも増やしたそうだが、それでいてアクションもあるので大変だ。

 冒頭に字幕で出された、「一人の人間の全てを描くことは出来ない」というテーマではないが、どんな人も善悪も、性格も、行動も、人生も単純ではないということだなー。

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2010年4月15日 (木)

『カティンの森』

 最近の国際情勢で、この映画に触れないわけにはいかない。

 ソ連による、捕虜のポーランド将校の虐殺事件「カチン事件」(以下カティン)から、70年。4月7日、事実を認めた(しかし謝罪はしない)ロシア(当時はソ連)と、ポーランドの両国の首相が、70年ぶりに追悼式典をおこなった。その3日後の4月10日、現地での慰霊式典に向かった、ポーランド政府専用機の墜落事故が起きたのだ。大統領や政府首脳だけでなく、「カティンの森」事件の被害者遺族も多数が犠牲となり、新たな悲劇が生まれたという。

 70年と、一口に言っても、長い。歳月が流れ、政治体制も一新されても、長年にわたる侵攻と強権支配という背景がある、ロシアとポーランドの間での和解は、けっして平坦ではなさそうだ。

 長年にわたり、ポーランドではタブーだった歴史の暗部を、真っ正面から取り上げたのが、映画『カティンの森』である。ポーランドの世界的巨匠、アンジェイ・ワイダ監督には、初期のモノクロの名作、「地下水道」(1956)や「灰とダイヤモンド」(1958)などで知られる共に、知日派としての精力的な活動も、日本では殊に有名だ。数々の名作を世に送り出してきた彼が、82歳を過ぎて造った彼の集大成になるであろう作品だ。

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 戦争によって翻弄された市井の人々-軍人やその家族、一般市民の悲しみや痛みが、リアルに伝わって来る。彼自身が、「永遠に引き離された家族の物語である」と語るように(この言葉も重い)、彼の父親こそがその被害者であり、彼や彼の家族(特に母)こそが、当事者であるからだ。その点では、極めて個人的な意味合いをもつ映画なのだが、時代に翻弄されて生きざるえなかった生身の人間の悩みや悲しみを通して、重厚な余韻が、人類への普遍的なメッセージとして伝わってくるのだ。
 それは、単なる戦争の愚かさや恐ろしさを、ただ表面的になぞったり、単なる史実や数字的な事実を積み重ねた平凡な作品ではなく、戦争に、権力に翻弄され、残された者、待つ者、苦しみの中にうめく者、そして歪められた事実の中で自己を偽り生きねばならない者たちのリアリティある痛みが繊細に描かれ、冷え冷えとした重い映像と共に、普遍性を帯びて、観るもののこころに迫ってくるからだ。

 映画の冒頭、ナチスドイツの侵攻で逃げてきた人々が橋までやってくる。すると反対側の岸からも同じように逃げる人々と交差する。こちら側は、ソ連の侵攻から逃れた来た人々だ。まさに、前門の虎、後門の狼の絶体絶命状態だ。1939年9月1日にドイツから、同17日にはソ連からも侵攻を受ける。

 近代以降も、ポーランドは、常に他国の侵略を受け続けて、分割統治の悲劇が繰り返されてきた。第二次世界大戦では、ヒトラーのナチスドイツと、スターリンのソ連が、ポーランドを分割・占領する(18世紀以降でも、4度目)。赤と白のポーランド国旗を二つに引き裂く場面も登場するのが、象徴的だった。

 そして、ソ連の捕虜となった約2万人近くのポーランド将校が行方不明になったのは、それから間もなくのこと。行方不明者の遺体が、見つかったのは1943年だ。カティンの森で4000体以上の遺体で見つけったのは、ナチスだった。ドイツは、ソ連を糾弾するが、まもなく敗戦。ポーランドは、そのソ連の衛星国として、共産主義体制に組み込まれていくことになるのだ。

 新たな主人であるソ連は、この事件を、ナチスドイツによる劣悪な犯罪であるとでっち上げ、証拠を捏造させ、権力でウソの証言を強いて、半世紀以上に渡って平然とウソがまかり通るようになり、ポーランド国民は、真実を語れず沈黙を強いられることになる…。

 ある種の群像劇で、しかも体制が変わると立場も変わることもあって、登場人物を把握するのが、少し厄介なのが難点ということも、おまけで一言。それでも、味わうこと多々あり。深い悲しみを秘めた重厚な(特に残酷な)映像が、圧倒的に迫って来るのだ。

 

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2010年3月 5日 (金)

『ユキとニナ』+『不完全なふたり』

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 諏訪敦彦の『ユキとニナ』は、前半の崩壊した家族のリアルさと、揺れる少女の情景と成長が、象徴的なメタファーとして描かれる後半が対照的な、なんとも不思議な作品だった。でも、間違いなく上質な佳作だと思った。

 諏訪敦彦の前作(オムニバスの「パリ、ジュテーム」もあるが『不完全なふたり』原作の直訳では「完全なふたり」?、こちらはみなみ会館)もいい映画(商業的ではなく作家主義的という意味で)で、感心Posterした。結婚15年になる夫婦が、友人の結婚式に出席するためにパリにやってくる。友人からは、「理想のカップル」と見られていた二人だったが、実は離婚を決意していた。パリ滞在も、二人は口論を繰り返し、たびたぶつかる。しかし、別れを口にした二人が、そこで気付くことは……。まあ、あらすじに触れるとこんな感じか。
 日本人監督が、フランス人をキャストに、全編フランス語、オール・パリロケの作品で、妻にヴァレリア・ブルーニ=テデスキ。夫役はブリュノ・トデスキーニといい役者を揃えている(下を噛みそうな名前、顔はすぐわかるけど、名前がなかなか覚えられないや)。

 冒頭のクルマから叫ぶシーンにしても、レストランでの友達の会話のシーンにしても、時折、騒音や小声でしばし声が聞き取れなくなる。これって、日常生活なら当たり前のこと。その当たり前さがまったく自然に、丁寧に描かれている。そして、夫婦の口論のリアルさ。何も、台詞や態度がリアルなだけではない。二人の揺れ動く感情の表出の雰囲気がいいのである。カメラのフレームから外れたり、映っていないところ(ドアに隠れていたり、スクリーンの外だったり)の空気や、もしくは何気ない態度やため息から、二人のイライラ感、不安、殺伐として雰囲気が伝わってくる演出が見事だった。

 この『ユキとニナ』の前半は、そんな映画の雰囲気がある。なんでも、あらかじめ台詞があるのてなく、その時の雰囲気で協議され創造されていくそうだ。やはり、カメラの構図から外れたところからも、離婚直前のカップルが持つ伝わる険悪ムードや、不安、イライラといった感情が伝わって来る。妻の直情的な悲しみやイライラ、夫の制御された悲しみや諦めがなんともリアルなのである。ユキが二段ベッドの上から、ドア越しから漏れ聞こえ、垣間見えるパパとママの諍いを、不安げな顔で聞いているシーンなんか、なんとも辛い。

 パリ。日本人の妻と、フランス人の夫の間に生まれた、9歳の女の子。パパも、ママも大好きなのだが、そのふたりの中は最悪。愛想をつかせて妻は離婚し、ユキを連れて日本で暮らすことを決めたのだ。

 幸せになるための結婚生活、家庭生活だったはずなのに、二人に大きな傷跡を残してしました。同時に、その間にいる子どもの心にも…。彼女には、大好きなパパであり、大好きなママなのである。いくら、ママが説明しても、納得などできない。ましてや大親友のニナと別れて、彼女にとっては異国の日本で生活するなんて…。

 なんとか二人を和解させることはできないか。やはり、両親が別れて、ママと二人暮らしのニナと相談して、苦心の手紙作戦に出るがうまくいかない。直接、ママを問い詰めもるが、ただ悲しみが増すばかり。

 「悲しいのにどうして別れるの!」と叫ぶ少女。一緒に暮らすことは、「もっと悲しいのだ」と伝え、あやまるママ。-食卓にあるバイキンマンふりかけのケースがいいぞ。わが家は、アンパンマンだ-。

 ママが彼女と暮らすために先に日本に旅立つ。パパと二人で暮らすユキ。

 パパも苦しみに、深夜、ひとり酒を煽り、大音量で踊っている…。

 とうとう、親友のニナと二人、家出を決意する。パリ郊外の森の中に迷いこんだ二人。そして、親友のニナを残し、ユキは、神秘の森の奥深くへと、ひとり歩きだす決意するのだ。しかも、そこは、時間も、空間も超える神秘の森の入り口だった。前半のリアルさが一転して、まるでファンタジーの世界へ。それは、日本の昔話のように。あれは、誰の夢なのだろうか。日本の森は、杜、鎭守の森、神が宿る場所なんだろうなー。ただし正直、前半の方が、ぼくは好きだ。

 子役の二人がかわいいが、特にユキを演じるノエ・シャンピーの透明で、寂しげな横顔が印象的だった(写真も横顔だ)。

 

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2009年9月25日 (金)

『ミーシャ』と『幸せはシャンソニア劇場から』

 本日は、気分転換の日。夕方のミーテングまでは、OFFにした。

 京都シネマへ映画を2本。

Mishawolf_01  『ミーシャ/ホロコーストと白い狼』は、ナチス占領下のベルギーで、時代に翻弄され、愛する両親との再会のみを願って、あまりにも過酷な3000マイルもの旅を続ける一人のユダヤ人少女のサバイバル・ロードムービィーだ。小さなからだに、身ひとつで、ただユダヤ人に生まれたことだけで受けねばらない過酷な差別と弾圧を、ただ戦争の残虐さという時代にだけに転嫁して終わることは出来ない、人間のもつ残酷さと、同時に人間性の温かさ、強さも感じた。それにしても、最後の字幕。あまりにも哀れだ。

 Chansonia_01もう一本は、『幸せはシャンソニア劇場から』。こちらは、まだ戦争前の、左翼政権時代のフランスが舞台。全編、品のいいユー モアと、ペーソス、そして人情味ある温かさが滲み出る流れているフランスの上質なエンター・テインメント作品。あの『コーラス』(サントラも愛聴してます)のスタッフ、キャストが勢ぞろいし、さらにヒットのおかげでお金もかけられるのか豪華なセット、下町の劇場の雰囲気も、またその芸や歌も良質で、これは安心して観れる万人向けの作品。父と子の情愛に、もちろん、恋もあり、男同士の友情や団結ありで、しかも単純な予定調和のハッピー・エンドかと思えば、ラスト付近は起伏にとんだ展開となって、温かな余韻を残した終わり方も悪くなかった。

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2009年7月 7日 (火)

『幼獣マメシバ』+『ユアン少年と小さな英雄』~最近みた子犬たち

 映画館で予告をみていたら、「ハチ~」と、駅から出てきたリチャード・ギアが言っていた。忠犬ハチ公のハリウッド・リメイク版だ。『ギルバート・グレイプ』、『サイダーハウス・ルール』、そして『ショコラ』と、ラッセ・ハルストレム監督は好きなのだが…。これは、ちょっとご勘弁いただきたいという雰囲気。

 でも、何も忠犬ハチ公は、日本だけの話しでないことを、昨日知った。
 洋の東西をとわず、忠犬はいるんだなー。

405pxgreyfriarsbobbyedin_2   みなみ会館の会員招待で『ユアン少年と小さな英雄』を見た。 

 1858年、エディンバラのスコットランド。ジョン・グレイ巡査が、教会墓地に葬られた。彼の飼っていた忠犬は、死去するまでのなんと14年もの間、亡くなった主人を側を離れず、その墓地を守り続けたというのだ。そんなボビーの姿を一目見ようと各地からたくさんの人が集まり、今日でも墓地には花が手向けられ、また渋谷駅の忠犬ハチ公像のように、スカイテリアのボビー像が立って、観光名所のひとつになっているそうだ。(ネットで見つけた銅像の写真を転載したけれど、ちょっと怖い感じだー。映画の犬はかわいかったです)。

Yua4  映画は、19世紀のスコットランドを舞台に、その忠犬(テリア犬ボビー)の実話をもとに、当時の下層階級に劣悪な社会状況をまじえながら、小犬を通した、ひとりの少年の成長を見守る心温まる物語に仕上がっていた。

 地元の警察官ジョン・グレイが飼っているテリア犬、ボビーは、逃走した牛に立ち向かったり、強盗犯との格闘したりと、愛くるしい小さな体ににあわず、勇敢な名犬だ。この犬に愛着を感じたのが、近所に住むユアン少年。母子家庭で育つ彼は、シャイな男の子。貧しくて、学校にはいけず、小さくして過酷な工場勤務を始めるであろう少年に、グレイは書物を与え字を教えた。唯一の友がボビーだ。

 ところが、飼い主は若くして病で帰らぬ人となる。ユワンはボビーを引き取ることを託されていたが、ボビーは、エディンバラの教会墓地に眠る主人のそばで暮らすことを望んでいた。だか、教会墓地には、犬を持ち込むことは、法律で禁止されていた。さらに、貧しいユワンの上に、過酷な試練が次々と遅いかかるのだった。おお、このあたりはスコットランド版「男おしん」物語。かわいそすぎるぞ。

 彼らは、豊かな資本家が、貧しい労働者を搾取し、さらに下層のひと達は、十分な社会資本の恩恵も、教育の機会も得られず、劣悪な環境の中で生きるしかなかったのだ。そんな資本家や権力者に対して、正義感に燃える神父がひとり立ち上がった。彼は、教会墓地の管理人でもある。彼の説教の合言葉は、なんと「Change」(変革だ!)(=ちなみに、オバマさんより、2005年のこの映画の方がずっと前)。そして、ホビー目当てに訪れる、多くのひとたちに、旧市街の現状を謳えるのだった。当然、守旧派にとって邪魔者のボビーは、あらゆる手を使って排除されようとし、とうとう法律を立てに飼い主不在の野良犬として、処刑されることになるのだった…。

  だが、ユエンの機転と勇気によって、思いも寄らぬ強力な助っ人があらわれるのだった。

  まあ、こんな感じかなー。要は、「小動物に、子供。過酷な試練と、成長…」、ありふれた人気の出る要素は一応揃えておりますが、それなりに良質でした。

Mame   ついでもう1本小犬つながりで、テレビ版もあり、ヒットしている『幼獣マメシバ』。これもみなみ会館で見た。

 生まれ育った小さな町から一歩も外に出られず、両親の実家で暮らしている、35歳のオタク、ニート男。ところが、人生なんて半径3キロ以内で事足りると信じ、自分の部屋で、パソコンと、うまい棒に囲まれて生きていることこそが、彼の安心、安全のリアリティーのある世界なのだ。ところが、彼の父親が突然の死亡。しかも、それを機会に、母親までが失踪してしまう。まるで、幼い日の隠れん坊で、鬼に見つけてもらうのを待っているかのように、彼女も居場所のヒントになるハガキがせっせと送ってくる。そして、もうひとつ彼のもとに届けられたとんでせないもの。それが、かわいいマメシバ(豆柴犬)だった。このマメシバに導かれ、親切な友人に出会い、母を訪ねて三千里(?)の人生初の珍道中が始まっていくわけ。

 ちょっとご都合主義でもあり、またはステレオタイプで閉じこもり男を描いているようでもあるけれど、かわいいワンちゃんと、彼の存在が、面白いと思えば、これは十分楽しめるでしょうね。ある種、鋭い観察力と、屁理屈の能力は人一倍で、存在そのものがユニーク。でも、あまりにも繊細、あまりにも微妙な人の空気まで読めてしまうんですね。こんなに感じすぎたら、確かに人づきあいはしんどいだろうなー。

Img_6177 もし、大のワンちゃん好き以外の方は、テレ ビ上映された時に、お暇ならご覧ください。わざわざ映画館に行ったり、DVDまで借りなくてもいいかなーと。テレビの題材としては、面白くて、良質と感じたけれど…。あと、大の中年ニート好きの方は、ぜひ映画館で。

   おまけ。この子は、先日撮影させてもらったM家の愛犬「願」ちゃん。でも、願ちゃんに「ブログに素顔を載せてもいい?」と、了解を取り忘れたので、後ろ姿のみでゴメンなさい。

 
 

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2009年7月 3日 (金)

『アライブ』~生還者~

  京都みなみ会館で、『アライブ』~生還者~を観た。

Ala  この事故の奇異さは、子供だったぼくも、シッキングで、センセンショナルな話題として、心に残っている。この究極のサバイバルは、たぶんにスキャンダルの部分のみが誇張されていたのだと思う。

 1972年10月の南米ウルグアイの航空機(正確には軍用機仕様)が、アンデス山脈で墜落した。山岳地での墜落に、生存者の確率は低かった。しかし、実際は、機体はバラバラになりながらも、大雪のために爆発や炎上を免れて、胴体がソリのようになって、雪上に投げだされていたのだ。その時点で、客乗員、45名の内、32名もの生存者がいた。彼らは、良家の子弟が通うウルグアイの大学ラクビーチームのメンバーと、その家族や友人たちだ。さいわい、無傷のものも多い。上空を航空機が通る。みな、すぐに援助は届くと確信していた。しかし、いつまで待っても援助はこない。そのうち、重症が次々と死んでいくという絶望の状況が襲いだす。援助も手当てもできぬまま、肉親が自分の手を中でこと切れていくのだ。それは、人の死ではない。食料もなく、一面ただただ広がる雪原と険しい山だけの、現実が広がる。彼ら以外に、生きものの気配すら皆無の厳冬の世界。それは、まさしく明日の自分自身の姿にほかならない。

 そして、10日後、絶望的なニュースが彼らに届く。唯一の情報源だったラジオが、捜索打ち切りの情報を流したのである。

 彼らはさいわい若かった。しかも、ラクビー選手としての体力もある。脚力ある数名が、救助を求めて出発した。しかし、たった一昼夜の野宿ですら、九死に一生を得るのごとくのありさまで、失敗に終わる。何一つの装備もなく、6m~10mの大雪の中、5000M級のアンデス山脈を、地図もコンパスもなく、そしてまったくあてもないままに、救助を求めることは、無謀以外の何者でもない。しかし、その無謀な行為以外に、彼らが助かる術はないのてある。(南半球の気候なので)春の訪れまでは、あと2ケ月は待たねばならない。

 さらに彼らに不運が襲う。17日目の夜、突然、雪崩がおきたのである。一瞬にして、機体ごと雪に飲み込まれて、リーダー役を含め8名が犠牲になる。

 墜落事故や雪崩で、多くの仲間が亡くなる。しかし、その死に規則性はない。まさに、アットランダムに襲って来るかのように見える。真横で、たったいま談笑していた友人が、そして後ろの座席で安からに寝ていた妹が、次ぎの瞬間には、もうこの世の人ではなくなっているのである。それは、人知で、生存者と、死亡者を峻別した基準を見つけ出すことはできないことを、彼らはまず痛感させられたのたのである。

 そして、その後も、寒さや食料不足で、体力を失い、亡くなるものが現れる。唯一の希望はあてのない援助の遠征隊を送り出すことだけだ。しかし、何度か命懸けの遠征が繰り返されては、ベース(機体胴体)にもどる失敗が続くのだが…。

 しかし、遭難から70日後、まさに奇跡がおこる。10日間ものあいだ、山岳での厳しい野宿をしながら、ただひたすら歩きつづけて、5000M級のアンデスの山々を何度も超えて、とうとう援助を求めることに成功したのである。

 遭難から72日間、16名(事故直後の生存者の半数)の男たちが、驚異的な生き残りを果たしたのである。

 まさに、現代の奇跡に、マスコミも、社会も色めきだつ。救助を求めて、フラフラになっている生還した男たちを待っていたのは、容赦ないカメラの砲列である。すぐに、興味本位のインタピューが始まった。「食料も皆無の状態で、72日間も、どうやって生き残れたのですか?」と…。

 奇跡的な生還のシーンは感動的だ。実際に、映像に残る、72日目に、援助のヘリコプターが到着した瞬間の、遭難者たちの喜びの表現をみているだけでも、涙が出るほど感動する。

 しかし、この事件を有名にしたのは、実は別にある。

 ~カニバリズム~

 そう、草木1本生えない極寒の環境で、食料の絶えた彼らは、死んでいた彼らは仲間たちの肉を食べ、骨を砕いて生き残ったのである。

 映画は、生存者の30年後の証言と、その証言をもとにした再現ドラマに、実際のニュース映像で構成されている。特に、この人肉食までのプロセスが興味深い。(映画を見なくても、上記にリンクした公式HPの生存者の証言者を読めば、その一端がわかる)。食料も尽きていく、援助のあてもない絶望的状況で、誰もの頭の中によぎっていた考えを、初めて口に出し、提案する。それが、頭の中の考えから、実際に行動となるまでのプロセス。そのそれぞれに葛藤や苦悩があり、いつしか神の恩寵(キリストの聖餐)として正当化されていく過程-それが、宗教的に昇華されたかどうかは分からないが-が、なんとも興味深いのだ。

 それにしても、人肉をガラスの破片で捌き、筋肉を取り、その断片を初めて口に入れ(当然、火もなければ、香辛料もない。生で食べる)たり、カルシウム不足で、その骨を砕き、磨り潰して飲み込み話を、淡々と、冷静に話す姿に、ある種の感銘を受ける。そんな彼らの最大の楽しみは、食後の「歯磨き粉のデザート」(そのものをなめる)。これが、美味で、かつ貴重のものなので、数ミリずつ分かち合い、時には争いにもなったそうである。

 実際、ヌクヌクとした食料の溢れたこの環境の中で、彼らを裁き、非難することはたやすいが、まったく無意味なことである。
 しかしながら、現実は、現代の人類にとって、最大のタブーを犯した彼らは、マスコミや社会の偏見と奇異な目に晒され続けることになるのである。

 神-人-動物を厳しく峻別するキリスト教の文化圏に比べると、仏教・儒教文化圏のアジアでは、多少の罪悪感が異なる気がする。たとえば、『水滸伝』などには、人肉饅頭や、切り刻まれて人を食そうとするシーンが、当たり前のように何度も登場する。子供心に奇異さを覚えながらも、ぼくの最大の愛読書だった。最近、篤く読んだ北方版『水滸伝』には、人肉饅頭屋は登場せず、このおどろおどろしさが半減しているのだが…。おっと、そちらに流れるとまたまた語りだすので、本論にもどるが、現代においては、洋の東西を問わず、人類最大のタブーであるには間違いない。

 もともと仏教においては、単に、人肉食だけでなく、生きとし生きる一切の有情を殺生したり、食することを禁じている。しかも、

 「山鳥の ほろほろと鳴く 声聞けば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思う」(行基菩薩)

 そう、いま、食卓に並ぶその魚は、まぎれなくも、「世々生々(せせしょうじょう)の父母兄弟なり」なのである。しかしながら、悲しいことに、迷いの目には食べ物にしか映らず、今日も「うまい、まずい」と平気で、過去世の父や母を共食いしているのである。私の行いは、自分の心の善悪の理性で納まるほどきれいごとではすまない。まさに、「さるべき業縁の催さば、いかなるふるまいもすべき」、この恐ろしい身で、父を食らい、母を食らい、仏を食らって生きているのである。

 いま、話題になっている脳死の臓器移植の問題点にもどこか通じる話題だが、どんどん横道に逸れてきたので、今夜はこのあたりで。

 とにかく、いろいろと考えさせられる映画だったというとこで…。

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