カテゴリー「映画(欧州・ロシア)」の72件の記事

『ヒトラーの忘れもの』

  アカデミー賞受賞関連品が、数多く上映される季節になった。

 映画界の最高の栄誉のように錯覚されかちだが、ハリウッドが世界を席捲していた時ならいざしらず、所詮、英語圏(原則、あくまでもハリウッド製作で、ロサンゼズルでの上映がされているなど)の映画しか対象にはならない。しかもアメリカ人は字幕で映画を見るのはキライなようで、古代の中国が舞台で、俳優は中国人でも、みんな映画を喋っている。妙なのもで、日本では吹替え映画は子供向けのよう思われがらなのが、対照的だ。

 それはちょっと余談だが、英語圏の以外の映画は外国語映画賞という分野だ。各国代表から、さらに5本がノミネートされて、本作『ヒトラーの忘れもの』はデンマーク代表。

 これがハラハラと、観ている者も肩が凝るような緊張感たっぷりの映画だった。

 第二次対戦直後、小国であるデンマーク人が、支配層であったナチスドイツに対して懐いていた感情(憎悪)が、その背景になっている。日本人には、この感覚の複雑さは、当事者ではないので、正確に味わえないものだろう。でも好意的な雰囲気でないことだけは明かである。

 連合国の上陸に備え、デンマークの海岸線に、ナチスはは200万個以上の地雷が埋めれていた。終戦後、命懸けの除去作業をおこなったのは、捕虜であったドイツ兵である。しかも大半がまだ未成年の少年兵であった。神経をすり減らす命懸けの作業が続いてく。数センチ単位で、棒をさして匍匐前身しながら、地雷を除去していくのだが、常に死と背中合わせだ。一瞬の油断や不運で、からだが粉々になってしまう。

 しかも捕虜の待遇は劣悪だ。食べ物もろくに与えられず、上官は、彼らを罵倒し、警戒しつづけている。人間扱いされていない。回りの彼らを見る眼も、おそろしく冷たい。そんな劣悪な環境の中でも、彼らには夢がある。地雷除去が終わると、ドイツに必ず戻すという約束がなされているのだ。なんとか祖国に戻り、新しい国づくりのためにそれぞれの夢を叶えたいと願うものばかりだ。みな普通の子供(青年)たちである。しかし、仲間や兄弟が、作業中にいのちを落すものも出る。それでも、あきらめずにひたむきなに作業を続ける彼と、敵視していた監視役のデンマーク兵が、徐々に心を通わせていくようになる…。というようなストーリー。

 普通なら、きっと堪えきれずに自殺するするものが出でもおかしくないような、あまりにも過酷な任務に、こちらもハラハラのし通し。狂気や、憎悪、または冷酷さと同時に、人間的な交流が徐々に生れて、立場や民族を超えた人のぬくもりも十分に味わえる佳作だった。
 

 

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201本+8本~『独裁者と小さな孫』から『ニコラス・ウィントン』まで

年間の映画館の鑑賞数が、200本を超えた。

200本に近づきなが、ながらく180~190本(つまり2日1本)のペースだったが、映画を見出して13年目で大台達成である。

実は、昨年も、かなり多忙な1年だったが、隙間時間には映画館に通って、人生でいちばんよく映画を観た年だったと記したのに、1年で更新して、今年は初の大台達成である。

1612101本目はジョージア映画(合作ですが。旧ソ連のグルジアの新しい国名)の『独裁者と小さな孫』。政権を追われた老いた独裁者と幼い孫の逃避行の果てに起こる人間の業を描いた、イランの名監督(亡命中)巨匠モフセン・マフマルバフ監督の傑作。

そして、今年の締め201本目は、チェコ、スロヴァキア合作の『ニコラス・ウィントンと669人の子どもたち』

 第二次大戦開戦前夜のチェコ・スロヴァキア。他民族の豊かで自由な国は、大国の都合でナチス・ドイツに併合される。ナチスによる迫害からユダヤ人の子供達を救い、亡命を手助けるために、私財を投げ出し、自らの力をつくして、数々の困難のなかで、669人もの子供達を英国に亡命させ、里親を見つけ、命を救ったのである。しかもその事実を、奥様も含め50年間も知られることはなかったのだ。それが偶然に知られることとなり、50年ぶりに救われた子供達を感動の再開をする。
 こんな展開があるとは、、。僕も涙が溢れたが、周りの人たちもみな、、、。
 それにしても、100歳を超えても、常に新しいことにチャレンジし続けるニコラスに脱帽。こんな人がおられて、その精神がいまも生きていることは感動的だ。ナチズムの狂気も人間性なら、この菩薩のような強靭で、無私の慈愛も、また人間性。
  最後は、感動で今年も映画の旅を終えた。

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『帰ってきたヒトラー』

 ドイツ最大のタブーは、ナチスやヒトラー礼讃、ユダヤ政策に触れることだろう。タブーどころか法律で禁止された犯罪行為になる場合もある。そんな状況で、なんとも挑発的で、シニカルなブラックユーモアに包まれた映画。ヒトラーを風刺するというより、迷走する現代のドイツ(ユーロ、もしくは世界)を風刺したコメディだ。いや、コメディではないのかもしれない。そこが恐ろしい。

 突然、1945年の彼のまま、現代ドイツにヒトラーが生き返ったらどうなるのか。映画『帰ってきたヒトラー』は、小説をもとにしたフィクショッン(虚実)である。

 現実を受け入れて、いま社会状況を学んだヒトラーは、ヒトラーのそっくりさんとして、お笑い番組での人気者になっていく。別にギャグをするわけではない。しかし、彼の大まじめな命令や演説がギャグになる。テレビ業界を批判し、現実社会を皮肉り、政治を批判していく。その堂々とした態度は、過激どころか、きまめて真っ当に聞こえてくる。ただし、一つだけ禁止されていることがある。ユダヤ人問題には、絶対に触れないことを約束されているのである。彼は、政治家であるので、現状を踏まえ牙をかくて妥協する能力もあるのだ。天才的な煽動主義者は、今は、テレビの時代であり、さらにはネット社会であることに気づき、よりチャンスであると知るのだ。

 ところで、この映画の恐ろしさは、フィクショッン(虚実)でありながら、それを超えてドキュメンタリーになって、虚実が融合していくところにある。ヒトラーに扮した姿で、カメラマンと一緒にドイツ中を旅し、事情を知らない一般市民の中に飛び込んでいく。もちろん、彼らには、あくまでもヒトラーに扮した俳優がインタビューに来ていると思っているので、大歓迎して受け入れていく(もちろん、嫌悪的な態度を示す人々もいるが、少数)。そして、マイクを向けると、移民を受け入れている現実に対する不満をふちまけ人達がたくさんあらわれるのである。さらには、現実の移民(イスラム)に反対するデモに参加したり、NPD(ナチスに近いような極右政党)の実際の副党首にインタビューしたりもするのだ。フイクション部分では、NPDの本部に乗り込んで、その不甲斐なさをダメ出ししたりもするのだ。

 しかし、彼はテレビ界を干されてしまう。取材中に、言うことを効かないイヌを銃殺してしまうのだ。動物虐待であれだけ熱狂したいた人々は冷めてしまう。が、それを機会に、書物を出してベストセラーになり、映画化されていくというでのある。劇中映画のラストシーンが、またよく出来ている。

 彼が大衆を騙し、煽動したのではない。民衆の方が私を選んだというのだ。

 アメリカでは、誰もが笑い飛ばしいていたトランプ氏が共和党の候補となり、大統領選を戦っている。イギリスでも、大方の予想を反して、EUからの離脱が決まった。どらちも、世界でもっとも成熟している民主主義の国々で、民衆が選んだ道なのである。

   笑いごとじゃないよね~

 

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『天皇と軍隊』

  日本で大声では語れないタブーがある。前回取り上げた暴力団もそうだがhttp://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/post-5d0b.html、最大のタブーは天皇に言及することだろう。もちろん皇室礼讃なら問題はない。しかし、たとえば、昭和天皇の戦争責任を公然と語った場合、長崎市長のように凶弾の犠牲になることもある。

 2009年に作られた『天皇と軍隊は、日本人監督の撮ったフランス制作のドキュメンタリー映画。2009年の作品が、昨年から日本で上映されだした。

 160413日本本土の空襲の激化、沖縄戦、そして二度の原爆投下によって日本の敗戦は決まる。そしてアメリカによる占領政策、天皇制の存続と日本国憲法の制定の経緯、東京裁判、武力解除と戦争放棄から再軍備化への道。日米安保条約に、靖国神社、さらには三島事件と、現在の九条改正の動きなどが、貴重なアーカイブ映像と、当時を知る日米関係者へのインタビューで構成されている。タイトル以上に問題点は多岐に渡たり、戦後日本が抱える矛盾や課題を浮き彫りにしている。

 憲法(九条)、靖国、日米安保、オキナワ、自衛隊、そして天皇制…。どれもが国論を二分するような大問題ばかりで、それらを90分で扱うのだからどうしても総花的にはなる。しかし、簡単に答えを出しえない大きな課題が、実はその根のところで繋がっていることを示唆しているのだ。

 アメリカ(マッカーサー)の占領政策と、アジアでも緊迫化する共産主義との戦い。それが、日本側の天皇制維持との思惑で一致する。その文脈で、東京裁判も、憲法九条や、憲法二十条(政教分離)と靖国神社、さらにオキナワ政策を見ていくと、日本側が何を第一に護り、譲歩したのか。占領国のアメリカが何を利用し、妥協しあったのかが、よく分かるのである。

 予告映像のラストは、昭和天皇の初めての公式記者会見のご返答の一声目で終わっている。
「戦争終結にあたって原爆投下の事実をどのようにお受け止めになられましたか」という質問である。
1975年時点では、こんな質問が出来ていた事に、まず驚いたし、また率直なお答えにも驚かされた。
 本編では、この返答を結びとして、原爆ドームを前にした1947年の広島訪問の映像で、映画は終わる。
 その答えを聞いて、なぜマッカーサーが天皇制を維持し、またそのために日本側がどのような態度で臨んだのかの本質が隠されていているように聞こえた。

 衝撃的だった。

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『サウルの息子』

 2月に連続でヒットした観たぼく好みの良質の映画の紹介。

   4本目は、昨年のカンヌをを征したハンガリー映画、『サウルの息子』
 久しぶりに震えた。ほんとうにいい映画である。間違いなく、今年度のベスト10に残る1本だ。

160204 アウシュヴィッツを取り上げたホロコースト物は、年に2、3本は見る。封切られるのはもっと多くて、正直、食傷気味で、パスにもことも多い。既視感が強いからだ。しかし、この映画は、これまでみたホロコースト物とは、明かに一線を画している。

 まず、素材がいい。ゾンダーコマンダーという、ユダヤ人の中から選ばれて、同胞をガス室に送り込むナチの殺戮工場の協力者に仕立てられる、ハンガリー系ユダヤ人の男が、主人公だ。
 そして、カメラワークがいい。その彼の視線が中心なのだが、完全な主人公の一人称ではない。彼自身も映り込むからだ。といって、常に彼の視点から見える範囲の出来ごとなので、いわゆる神の視点や第三者からの映像はない。
 当然、全体の視点も異なってくる。たった2日間の限られた時間の設定もあって、緊張感が漂った不安げな雰囲気が、バンバン伝わてくるのだ。
 まさに、アウシュヴィッツは、まさに殺戮のための効率を優先された工場だ。どんどん囚人が送られ、大量殺人と、死体を始末するための流れ作業が、延々と続ていく。。ナチスも、ドンツ人に、汚い仕事はさせたくない。ユダヤ人のその仕事をさせ、普通の囚人よりも若干の自由もある。しかし、大量殺人の証拠隠滅のために、彼らもまた3ケ月ほどの周期で、ガス室に送られていくことになるのだ。
 この世に、地獄があるとしたら、ここだ。そんな中で、人間性を捨てさせられ、精神を破壊された男が、『自分の子供』の死体発見したことから、人間性を回復していくのだが、、、。謎や不可解な部分も多い。
 もう出尽くしたかと思っていたホロコースト物であるが、映画自体にも、新しい風が吹き込んだようである。

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『ディーパンの闘い』

 2月に連続で観たぼく好みの良質の映画の紹介。
  3本目は、昨年のカンヌの最高賞を受賞した『ディーパンの闘い』
 ただ、最後が急にヒーロー物のようになってしまうのが、気に食わない。もちろん、彼の素性が明かにるなどの伏線があってのことだけれど。
 いま、世界の喫緊の課題に、難民問題がある。この映画は、シリアからの難民がヨーロッパに大量に押し寄せる前の作品なので、その分、インパクトは強い。しかも、スリランカからの難民というテーマは、まったく予想外だった。映画でその背景にあるスリランカ内戦については、詳しく触れているわけではないが、いろいろと知る機会にはなった。
 カンボジア旅行中、添乗員からウズベキスタンの旅を勧めれた。ぼくは、スリランカに行きたいと思たりしている。しかし、スリランカの現状については、何も知らなかった。
 スリランカは敬虔な仏教国である。7割近い多数派のシンハラ系の住民は、仏教徒である。伝説では、ブッダ在世中ということになるが、実際は、アショカー王による伝播で、それだけの長い歴史と伝統がある。ところが、すべてが仏教徒というわけではない。主なものだけで3つの民族と、3つの宗教が混雑する多民族国家なのだ。その背景のひとつには、スリランカはセイロン・ティーでも有名だが、これが関係している。英国統治時代、安価の労働力として、インド南部の貧困地帯から、タミル族を連行してきた。彼らは、タミル語を使うヒィンズー教徒で、おおよそ人口の2割を占めている。そのほかにも、イスラム教徒であるムスリムが1割程ある。しかも、英国統治時代は、タミルなどの少数民族を優遇して、多数民族を統治した歴史がある(統治の常套手段。不満は、宗主国より、目の前の権力側の少数民族に向く)。独立後、多数派が実権を握ると、これまでの鬱憤を晴らすかのように、少数民族が冷遇されるようになる。すると、タミル側は、反政府勢力となって分離独立運動がおこり、内戦が続いた。タミルの虎である。紛争が完全に終結したは、ほんとうにごく最近のことである。

 紛争中は、日本でも報道されていたが、一般には関心は持たれていない。内戦終結はしったいが、こんな悲惨な難民が生まれているとは、完全に頭になかった。難民キャンプといっても、実際は、何の援助が届かない。餓死か伝染病での病死を多くの人達が、絶望し、「死」を待つ場所となっている。
 そのキャンプで、家族を失った男と、家族を殺された若い女と、孤児となって娘が、死者のパスボートを利用するために、疑似家族となり、パリに入国する話だ。ほんとうは、いろいろな困難があったのだろうが、入国までのトラブルは描かれず、物語は、同じ組織の縁で難民申請がとおり、バリ郊外の犯罪地区のアパートの管理人としての仕事を得てからの顛末が、主に描かれている。
 ここもまた、先進国でありながら、落ちこぼれた移民の子どもたちが、麻薬などを扱う犯罪者や、貧困者の掃き溜めとなっている場所だった。

 そこで、外からは家族のように見えるが、まったく他人同士である、大きな悲しみを抱えた3人が、反発しあい、学校や仕事で困難に直面し、時にはほんとうの家族のように寄り添ってみたり、また他人に逆戻りをしながら、ほんとうの家族になっていこうとする物語である。同時に、難民の問題に加えて、移民の子供たら-貧困層の若者が抱える問題にも触れる社会派ドラマ。

 貧しくとも、家族との平和で、穏やかな、安らぎを得ることは、罪になるのだろうか。

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190本+20本

昨年は、1月と、そして8月から12月は、かなり多忙な1年だった。
それでも、隙間時間を見つけては、映画館に通った。これまでの人生でいちばんよく映画を観た年になった。

1月4日に、ポーランド映画『幸せのありか』を皮切りに、12月30日のロシア映画『裁かれるは善人のみ』(『ヴェラの祈り』『エレナの惑い』と3作を連続で上映していた、ロシアの鬼才アンドレイ・ズビャギンツェフの力作)まで、実に映画館で190本の新作を観、自宅での20本を加えると、合計、210本も観たことになる。

今年はペースダウンするだらうが、ある程度のペースは続くだろう。今年、1本目に選んだのは、ジョージア映画(合作ですが。旧ソ連のグルジアの新しい国名)の『独裁者と小さな孫』。イランの名監督(亡命中)巨匠モフセン・マフマルバフ監督の傑作。政権を追われた老いた独裁者と幼い孫の逃避行の果てに起こる人間の業を描いていた。

今年は、もう少し映画のことにも触れたいな~。せめて週1本のペースが目標でけども、、。

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『雪の轍』

京都シネマで、『雪の轍(わだち)』を観る。

重厚なトルコ映画。200分(3時間20分)という長尺だが、映像の美しさと、クラシック音楽との調和。そして、さまざまな場面、状況において起る人間関係の機微を巧みにとらえている。対立と従属、会話と沈黙、そして、その底に流れている感情や心理描写が浮き彫りになってくる。名作というのはこんな映画を指すのだろう。でもいくら名作でも、自宅のテレビではきっと面白くない。こんな作品こそ、映画館で回りに邪魔されず、一気に観るものだ。

150705名な世界遺産、トルコのカッパトギアが舞台。これだけでも美しい。

父の残したホテルや土地、家屋など継承した資産家の男が主人公。もともとは一族の期待を一心に受けた舞台俳優だったようだが、引退して、父の後を継ぎながら、大作の出版を計画している。その彼を中心にしたさまざまな複雑な人間関係が、幾重にも露わになってくる。たとえば、歳の離れた美しい妻とのさめきった関係。離婚し戻ってきた辛辣な姉との関係、社会的な成功者と脱落者、いわゆる勝ち組と負け組との関係などなど、会話やその態度を通して、観るべき場面が多かった。

その中でも、いちばん心をひかれたのは、彼の妻が、罪悪感から、家賃を未納し強制執行を受けた店子に、大金を恵む場面だ。その大金を彼女の目の前で暖炉に投げいれる、彼のまなざしに震えた。このシーンひとつとっても名作。

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『おみおくりの作法』と『悼む人』

 ちょっと昔(3月半ば)に観た温かい映画の話。

 『おみおくりの作法』150207 大作ではない。しかし、孤独な人の心に、静かに寄り添うような、いい映画だった。

 全編、フィンランドの名監督アキ・カウリスマキに通じるようなタッチと、オフ・ビートのちょっと惚けたテンポの味がある。主演のエディ・マーサンは、けっして主役タイプではないが、ここでは彼の存在なくして、この雰囲気を醸すのは難しい快演だ。
  
 簡単なストーリーはこんな感じ。

  ロンドンのある地区の民生係、ジョン・メイ。身寄りなく亡くなった人を弔うのが彼の仕事だ。事務的に片付けることもできるこの仕事を、ジョン・メイは誠意をもってこなしている。時間をかけて孤独死をした人たちの生きた証を探し、葬儀にはふさわしい音楽を流し、弔辞を読み、たった一人でおみおくりをする。彼もまた私生活は一人だったのだ。しかし彼の非効率な仕事ぶりは上司に受け入れられず、解雇が決まる。最後の仕事は、彼の向かいの部屋に住んでいた男の孤独死だった。向かいに住みながらまったく面識はなかった。男の生きた証を求めて、彼も旅に出る。規則正しい生活を送るジョン・メイにとて、あらたな冒険の旅となった。

  そして思いも寄らなかった結末がやってくる。これは予想外。何度か観た予告編でも、そのあたりはうまくぼかしていた。迎えたラストシーン。

 ああ、滂沱の如く涙が溢れ出て、ちょっとうろたえてしまった。

 葬儀は、死んだ人を悼みながら、実は、生きている人がそのつながりを確認するものだと思うたけれど、こういう生きるl者も死者も無限のつながりの表現もあるんだー。ハートフルな映画。

  同じ頃、同じ死者を悼むという観点で日本映画の『悼む人』を観た。

  主人公のみならず、登場人物の個々(大竹しのぶ演じる母だったり、椎名桔平演じるルポライターだったり、または夫殺しでその亡霊に苦しむ未亡人役の石田ゆり子だったり)の個性やエピーソドが、これでもかというぐらい強烈で、それぞれにスポットをあてるものだから、結局、主人公のキャラが宙ぶらりんで、逆に映画全体に中途半端な印象しか残らなくなった。原作の小説ならいいが、時間に制限のある映画で、なんでもかんでも強いエピソードを重ねればいいというものではないのだ。

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『嗤う分身』

  『嗤(わら)う分身』 は、ロシアの文豪、ドストエフスキーの初期の作品(原題は『分身(二重人格)』というそうだ)を原作だ。
 原作は読んだことはないが、この映画はとても面白くて、異色の快作といっていいかもしれない。

 映像、画質、照明もセットや美術(どこか、アキ・カウリスマキ風でもありましたが)、そして音楽にいたるまで、つまり映画のムード、タッチが、不条理劇の、無国籍で、リアリティがなく、不安定な雰囲気でうまく統一されているのである。しかも、どの国でもなく、過去のようでもあり近未来でもあり、また現実なのか、夢なのか、それとも心の心象なのかもあやふやでありながら、私の身に起こってもおかしなくない現実、つまり自分のこととして迫ってくるのである。

 音楽も、英国の映画でありながら、日本の坂本九の「上を向いて歩こう」や、ブルーコメッツの「ブルーシャトウ」など、無国籍でありながら、哀愁のあるムード醸しだしている。がっちり、日本語の、しかも60年代のものが流れるだけでも、不思議な感覚になるものだ。

 『ソーシャル・ネットワーク』の主人公として、饒舌にまくし立てていたジェシー・アイゼンバーグが、まったく正反対の性格違う主人公とその分身(ドッペルゲンガー)の1人2役を、独自の味でうまく演じ分けている。ヒロイン役のミア・ワシコウスカも、清楚でありながら、怪しく謎をもった女性を好演している。

 一方は、内省的で、要領が悪く、まったく存在感がない。同僚の大好きな女の子を覗き観する(ほとんどストーカー)ことしかてきない冴えないぼくの前に、抜群に仕事が出来、女にもモテて、いつも人気者の、まったく同じ容姿の男が現れることで、自分の分身に翻弄されて、居場所を失い、追い詰められていく姿が描かれている。
 

 要は、人生は自分の意志でコントロール出来ている錯覚して生きているが、ほんとうはすごく不条理な連続なのかもしれないし、一旦、歯車が狂うと、破綻、破滅への加速度的に進むものだということだろう。第一、「ぼくって何?」であって、病的の程度はあっても、誰もが、二重どころか、多重人格者といってもいいのである。

 ラストの結末も、謎の尾を引かせながらも、まるでメビウスの輪のような仕掛けがあって、唸ってしまいました。結局、××××(ネタバレがあるので)ってことかなー。

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