カテゴリー「映画(欧州・ロシア)」の86件の記事

東寺からみなみ会館へ

 昨年(2022年)も、映画館で映画を200本観た。毎年の目標にする数字だがら、今年は少し達成は難しいかなと思ったが、12月29日に達成することができた。そのことでもいろいろ書きたいのだがら、今は前に進もう。

 今年の1本目は、1月3日、京都みなみ会館で『ファイブ・デビルス』というフランス映画を観った。匂いの特殊能力を持った少女が、匂いをてがかりに過去にイムスリップして、母の秘められ青春時代の恐ろしい事故(事件)を知るというもの。でもそこには、黒人や女性差別、そしてLGBTに根強い差別が背景にあった。

 映画の前、散歩を兼ねて東寺までぐると一周歩いた。東寺でも初詣客が多くて、そこそこ賑わっていた。いつものように境内地をグルッと一周した。
 今年は穏やかな正月である。

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フィンランド映画『トーベ』

 娘のリクエストで、京都シネマでフィンランド映画『トーベ』を観る。今も世界中で愛されているムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソンの半生記だ。娘は小さな時からムーミンが大好きで、二人で最初に観に行っ映画もムーミンで、劇場晩『ムーミン谷の彗星』だったと思う。10年以上前のことだ。

 さて本作は、誰もが知るムーミンは、妖精の不思議な世界での出来事だが、それがどのような背景で生まれたのか、ムーミン誕生の舞台裏を描いた作品でもあった。いろいろな分野で才能を発揮したり、伝統的な画壇の異端児だったり、私生活では、情熱的でスキャンダラスな、そしてさまざまな恋の形や結婚生活も、一筋縄ではなかったようか描かれる。北欧という開かれた地とはいっても、まだ若い女性の地位もまだ低く、同性愛に対してもいまほどの理解がなかったようだ。ただぼくには映画の流れが平板で、途中、ウトウトする場面もあったのは、残念。最近、映画の途中の居眠りが増えているのは、歳のせいか。

 終わってから廃校になった小学校を施設が芸術センターになっていて、木造の教室の雰囲気を残すカフェでお茶をした。町中にあった小学校の雰囲気がレトロな洒落た雰囲気。ほっこりした。

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新月断食の日に

 新月の前日、いろいろなことがあった。

 午前中は自力整体教室。月4回から3回になったが、18年間も続く習慣である。

 午後には消防署の査察をがある。念のため事前に会館内の点検し、消防署の職員から指導を受ける。会館の防火責任者でもあるのだ。先日、防火器具の点検での不具合は、来週に交換することになっている。消防署に書類報告も、毎回提出しているここともあって、特に指導もなく無事に終了。

 終わってすぐに佛教大学の講義。10月から再開されているが、対面はなくズームのみ。これも3月で一旦すべて終了する。仏教関係と心理学関係の講義に登録したが、例年以上に多く参加できたのは、リモートのおかげ。今日は、仏教以前のウパニッシャッドでの出家ということについて。最後は、最近のインド事情を現わす、数本のインド映画の紹介。

 その空き時間で、華光誌の最終チェックをする。大半は、昨日済んでいて細かな点を修正する。今週は予期せぬ出来事があったが、夕方には予定通りに印刷所に渡った。封筒も在庫が無くなったのでこちらもデザインを一新し、発注した。ぜひお楽しみに。

 データを渡し終え、夜の映画を観るために京都シネマへ。雨が降っていたので散歩を兼ねて徒歩で。四条烏丸までは45分強かかるが、インタバール走法で強弱をつけながら歩く。ロシア・ウクライナ映画の『DAU. ナターシャ』 を観る。
 ソ連の秘密研究所のレストランのウェイトレスが主人公。延々と続くたわいものない会話。研究所で働くフランス人科学者との生々しいSEX。そして秘密警察による尋問(拷問)によって、密告者に仕立てあげられていくのだが、バイオレレンスと、エロティックな描写、そして、2年間にも渡るセット(ソ連時代の秘密研究所を精密に再現)での生活と撮影という手法も合せて、評価と物議を醸しだした問題作だった。

 新月には1日早いが、明日は法座があるので前倒して、断食をする。昼食も夕食も食べない時間を、アクティブに動くことができた。コロナ禍の中で始まった新しい習慣も、ちょうど1年。月1回で、回数はたった12回だか、自分なりには「よく頑張りました」という感じがする。今日は、次々と用事が続いたので空腹も苦にならなかった。

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『異端の鳥』

チェコ・スロバキア映画、『異端の鳥』

この映画もとてもよかった。10月後半は、いい映画が観られています。

モノクローム(白黒)映像の3時間。ホロコーストから逃れるために、暴力渦巻く過酷な状況を生き抜く少年が主人公。気合を入れて鑑賞したが、最近では珍しく居眠りすることもなく、かなり入れ込んで見入ってしまった。

東欧(スラブ圏・特定の国や地域には触れられない)のある田舎が舞台。ロードムービーであり、各章からなるさまざまな出会いが待っているが、それらはあまりも過酷で、残酷である。

映像は圧倒的に美しい。モノクロームなのに豊かで良質の叙情詩を見ているかのようだ。それでいて、人間のもつ暴力性や残酷さが容赦なく描かれている。少年にだけ向けられるものでもない。他の異質なもの、裏切り者を暴力で排除しようとする、人間の持つ本性が浮かびあがってくるのだ。もちろん戦時下というヒストリックな状況もあろう。しかし単に戦争の仕業だけで片づけられない、私たちが持っている本質的な暴力性、残酷性が、自分の脅威となりかねない異質の他者を、徹底的に排除しようと向っていくのである。少年も、さまざまな状況下、さまざまな人たちに出会い、暴力や性暴力を目撃し、また自らも受けていく。目の前で、目玉をくり抜かれる男、レイブ、ユダヤ人の大量銃殺を、有無もなく目撃させられていく。またほんの一瞬、一滴の善意や愛情にも出会うこともある。しかし大半は想像を絶するような過酷な出会いの連続だ。そして少年は、自らの身を守る為にその人間性を喪失し、感情や言葉を失くしていくプロセスがすごい。最初、共感的に少年を見ていた自分の偽善が暴かれていくかのうようだ。
そんな中で、何があっても絶対にあきらめずに生き抜こうとする、生に対するエネルギーの凄まじいさ。その目に、身震いさせられるシーンもよかった。そしてラスト。詳しくは書かないが、あるひとつアイテムを目撃してすべてを察した少年が、自らを取り戻すシーンも淡く、静かでよかった。

それにしても、今の私たちはどんな生き方をしいるのか。恵まれた環境に生きながら弱音や泣き言を繰り返し、すぐ傷つきくじけ、うわべのやさしさや偽善に覆われている虚像の生き方を痛感させられる。

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イタリア映画『幸福のラザロ』

 さて、Tジョンで観た昨年の名作、3本目は、イタリア映画『幸福なラザロ』 。再開後では初の他の観客なし。3度目の「一人がためなりけり」映画だった。

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 寓話的な要素がある不思議なストーリー。理解し難い部分もあるが、それはそれで味わうしかない。

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 欧米の映画ではしばしばあることだが、キリスト教の素養が求めれる。映画の主人公の名「ラザロ」とは、キリストの奇跡によって死後4日目に蘇生した聖人で、「甦りのラザロ」「復活のラザロ」として、ゴッホやレンブラントなどの有名画家の素材になっているという。この復活したこと、そして聖人であることが、この映画でもキーワードになている。

 舞台は、20世紀後半のイタリアの山深い渓谷の寒村。でも普通の村とはまったく違った。洪水によって村への道路が寸断されて以来、完全に孤立し、中世のままに時間がとまっているのである。小作制度の廃止を隠蔽された地主(伯爵夫人)に支配されたまま、物々交換に近い日暮らし。辛うじて電気はあるが電球程度。自給自足の生活で、村人は学校も、選挙も、電話やネットとも無縁。けっしてこの村から1歩も出ることなく、一生を終える。村を隔てる河を渡った先には、死があると代々固く信じられているだ。唯一、伯爵夫人の代理で収穫物を扱う男を通じて、収穫物と交換して最低限の生活必需品を支給され生きているのだが、村全体で多くの負債を抱えちると騙されて、支配されているのだ。
 そんな村人の中でも、人を疑わず、怒らず、欲しがらない、純粋無垢な男が主人公のラザロ。村人からは、愚か者とてし、バカにされ、都合よくこき使われていくのだ。

 そんな日、伯爵夫人の一人息子が母親とぶつかり、自らの狂言誘拐を決行した。そのことから、ついにこの村の存在が警察の知るところとなり、村人は解放されていくのだが…。

 前半がこんな感じのストーリーだが、なんでも80年代にイタリアで行った実話の事件が元になっているというである。

 さて後半。では、不法な小作制から解放された村人たちが、幸せで豊かな生活が待っているのか?

 ここからもストーリーは、ますます不思議度を増していく。結局は、新しい構造での弱者への搾取が続き、しかも今度の支配者は、穏やかな紳士の仮面を着けているので厄介である。自由や自己責任の名のもとに、巧みに弱肉強食の世界が広がっていくのだ。弱いものはどこまでも弱く、強いものはますます強くなっていく。そんな社会構造の皮肉も描かれ……。

 

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ポーランド映画『Cold War~我が歌、二つの心』

 Tジョイ京都で上映中の、昨年の名作の2本目は、ポーランド映画『Cold War~我が歌、二つの心』 3本のなかでぼくに一番フイットした。

  イギリス、フランスとの合作によるポーランド映画。モノクロで描かれているのに、豊かな色彩を想像させる映像美が見事。この年のアカデミー賞の外国語映画賞は逸品揃いで、『存在のない子供たち』『万引き家族』、そしてメキシコ映画『ROMA/ローマ』などとオスカーを争った。結局、受賞したのは『ROMA/ローマ』だったが、これもモノクロの見事な映像だった。

 さて、タイトルが示すように東西の緊張が高まる冷戦=cold war時代。第二次世界大戦から4年、共産圏、ソ連支配下の1949年のポーランドから物語が始まる。

 まだ復興途上のポーランドで、田舎の町を廻っては素朴な民謡やフォークソングなどの音楽を蒐集し、優秀な人達を集めて、国家歌舞団がスタート。主人公は、そのディレクターにして、音楽家、ピアニストの男だ。オーデションで出会ったヒロインは、魅力的な歌唱力に、破天荒、かつ複雑な歌手で、どうも虐待を受けていた父親殺しの過去がある。歌舞団は成功するが、国家や共産主義、ソ連を賛美するす音楽や舞踏が強要されるようになる。このあたりは、当時の共産圏の歌舞団ではよくある風景だ。
 
 そして、ベリルン公演を機会に西へ亡命する主人公だが、一緒に亡命する予定の彼女は現われなかった。

 その後、彼はパリでのジャズピアニストとなって活躍するも、パリでの公演をきっかけに再開する二人。でも、冷戦下、社会が複雑であったように、それを反映して、二人の関係も複雑で、一筋縄ではいかない。パリで活躍した彼女だが、再び夫のいるボーランドに戻ってしまう。ついに彼も自由を捨てて、彼女のために投獄覚悟でボーランドに戻り、強制収容所で労役につくのだ。この二人の関係はなかなか複雑で、妙味であることろが、この映画のキモだ。

 モノクロ映像にくわえて、説明を最小限に抑えて、描写に徹したアート系の作りになっているけれど、けっして小難しいわけではない。全編、すばらしい音楽で彩られているからだ。素朴な民謡やフォークソングに、共産圏の音楽、そして60年代パリを象徴するようなジャズに、ロックに乗って踊るシーンなど、リアリティーある音楽はすばらい。何より、タイトル(2つの心)にもなっているヒロインが歌い上げるバラッドが印象的。そして、ニヒリビム溢れるラストに、切ないピアノ・ソロと、もの悲しいアカペラもマッチしていた。

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最後の映画は『ロニートとエスティ』

 5年前から続けて学んでいる仏教大学の四条センターは、2月末から休講が続いている。その他の研究会も、3月から休みが続く。

 ただ映画館は開いていた。3月になると観客は少なくなり、4月になると目に見えて減った。京都シネマでは、だいたい10名程度、みなみ会館は、5~6名(いつものことか)程度である。逆に、大手のシネコンはさらに閑散としている。とうとう大スクリーンに、ぼく独りという事態がおこる。一度は、独りで映画を観たいと思っていたが、こんな形で実現するとは想定外だ。しかもである。それが連続して起こった。「一人がためなりけり」である。こうなると、居眠りもしないし、エンディング・ロールの最後までキッチリ見せてもらった。

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 しかし、それも今日までだ。京都の映画館も、明日からすべて休業が決定。急に決まったので、来週に見送った映画が見られなくなった。今週は、焦らずにあまり見なかったのが裏目になった。でも仕方なしだ。

 最後は京都シネマで『ロニートとエスティ』 ~彼女たちの選択~。厳格なユダヤ教のコミュニティーの中で、権威に反発し、自由に生きることを選択して飛び出した女性と、その枠の中で信仰を貫き、自己を殺して幸せになろうと女性が、厳格な指導者であり、父親の死をきっかけに、再び出会っていく物語。主演のWレイチェルが、繊細な心の機微を、または大胆な性愛シーンを激しく好演している。

 あいかわらず一神教の教えでの、厳格な父親の存在が意味を持つ。これはキリスト教やユダヤ教などの一神教の文化圏と、日本のような母性的な多神教の慈悲の寛容さ、母性が表立つ文化との違いがまざまざと出る。これは映画を見ていればよくわかる、普遍的なテーマである。日本映画の大半は、厳格な父親不在、寛容な母性がテーマとなることが多い。一方、この映画は厳格な閉鎖集団内でのタブーへの挑戦は、父親への挑戦でもあり、ぼくの心の琴線に触れるテーマでもあった。

 願わくば、これが今年最後の映画とはなりませんぬように…。

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『天才たちの頭の中』~世界を面白くする107のヒント~

『天才たちの頭の中』 ~世界を面白くする107のヒント~(英語題“Why Are We Creative?”)

“Why are you creative?”「あなたはなぜクリエイティブなのですか」という、シンプルな質問を30年以上問い続けてきたドイツ人監督。世界で活躍するクリエイティブな人物に、この疑問を問い続けた旅をまとめたドキュメンタリーだ。

 「天才」という日本語の響きと、「クリエイティブな人」というのでは少し違いを感じる。クリエイティブというと、個性的な創作者というイメージがあるからだ。質問を受けるのは映画監督、俳優、音楽家、作家、芸術家、写真家、デザイナー、建築家、科学者、発明家、宗教者、経営者、政治家など多岐にわたる。ほんとうの意味での天才だと思うが、ちょっと映画や映像に関係する人達に偏っているように思えた。初めて聞いた名もあったが、大半がぼくでも知っている世界的著名人ばかりだ。

 ほんの短い1分足らずの人も多いなかで、デヴィッド・ボウイの扱いがメーン。日本人では、写真家の荒木経惟、デザイナーの山本耀司、そしてオノ・ヨウコに、妙な扮装で、まともに答える北野武といった面々。この質問の無意味さを突きつけるスティーヴン・ホーキング博士、ダライ・ラマなども印象的だった。元アメリカ大統領のジョージ・ブッシュも、違った意味で印象的だったけど、、。

 結局、"Why are you creative?"への答えは千万差別で、画一的な答えなどない。もしあれば、その時点で模倣者ということになってしまうものね。それでも、いろいろな答え、いろいろな人たちがいる中で、クリエイティブ、つまり個性的な創作者は、こだわり、信念が強く、社会の固定観念にとらわれない変わり者が多いという印象をもった。では、天才と、単なる変わり者との違いは……。楽しめました。 

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『サタンタンゴ』

 映画館に行くのに、久々に気合が入った。

 ハンガリーの巨匠、タル・ベラー監督の『サタンタンゴ』 を観る。

 気合が入ったのは、上映時間が7時間18分にも及ぶ作品だからだ。その合間に2度のインターミッション(休憩)を挟むので、8時間も要する長尺作品だ。12時30分に始まり、20時20分に終わるのである。

 1本の映画では、ぼくの中での最長記録更新した。これまでは、イタリア映画『輝ける青春』の6時間6分が最長。 1960年代から40年にわたるイタリアを舞台に、ある一家の40年間の年代記を描いた大河ドラマだった。前後半で、途中1度の休憩があったので、380分も時間がかかった。同じく、みなみ会館だった。

 この監督の作品は、これまで『倫敦からきた男』『ニーチェの馬』と3本目見た。『ニーチェの馬』は、なかなかすごい作品だったが、それを最後に56歳で引退した。本作は、39歳の時の旧作で、デジタル版での上映である。

 さて、本作、とんでもない映像の連続だ。モノクロの映像は、長回しのカットで、時に延々と同じ場面(牛の群れの歩み、大風の中をただ歩き続ける。狂ったように妙なダンスを踊り続けるなどなど)で、しかも同シーンが違う角度のカメラで収められて反復される。

 だだでさえ昼食直後の映画は、眠い。特にこの頃は、驚くほどよく寝る。歳である。ましてこの映像である。1部はかなり記憶を失っていた。おかげで2部からは起きていはいたが、少々寝ていても、問題がないと思った。同じ映像や、シ-ンが反復され繰り返されるからである。

  そして最後のモノローグ。冒頭にモノローグの繰り返しである。あ、あ、もう一度、リフレインされ、循環され続くのだ、と。

 7時間18分を終えても、特に感銘も、感動もない。退屈な映画だった。それが、直後の率直な感想である。
 ところがである。同時に、もう一度観てみたい、とも思ったのには、驚いた。
 彼の世界観の中に取り込まれてしまったようである。

 

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今週の学びと映画

  さて、今週の学びである。今週といっても8日(月)~12日(金)の5日間。

  講義は、金曜日の1コマだけ。佛教大学四条センターでの「ブッダの生涯から見た仏教」の4回目で、「瞑想と苦行」。『ブッダチャリタ』を中心に、釈尊の成道に至るまでの修行を、伝統的インド世界との闘いとのしてとらえたもの。ただ、話されるエピソードが、毎回、聞かせて頂いてることの復習の要素が強くなってきて、ちょっともういいかなーというのが正直の実感。

  映画は、5日間で5本見た。先週同様、京都シネマで3本、シネコンで2本という構成。そのうち1本は邦画で、4本はヨーロッパの作。先週ほどの大あたりはなかったが、佳作が多かった。

 イタリア映画『家族にサルーテ!』は、1日だけなら表面は、取り繕っていても、予期せぬ嵐で島に取り残されて、3日間も寝食を共にすることとなった一族が、それぞれの問題が噴出する。もともと隠していたものが、嵐によって暴かれて来る。ただ、短時間に登場人物が多い群像劇で、人物把握に混乱してしんどかった。ここもまた混沌状態、カウスを味わう要素なのか。そして、嵐が収まり、スカイブルーが拡がる。ここを機縁に、それぞれの人生に何かが生まれて来るのか。

   フランス映画『アマンダと僕』は、突然の大切な人を亡くした喪失感と、つながりを扱ったなかなかの佳作。子役が自然体でうまい。

 ベルギー映画の『ガール』girlは、LGBTの映画で、Tのトランスジェンダー。体は男の子として生まれた「女の子」が、バレエの世界で、夢を実現しようというお話。前に『荒野にて』と同じく、彼女の孤独が浮き彫りになる。からだとこころの不一致は、つらいだろうなー。しかし、男で一つで育てる父親が応援し、また医療や福祉のサポートが整っているのは、日本より先進的である。それにしてこの辛さ、切なさはなんだ。

 17世紀のオランダが舞台の『チューリップ・フィーバー』

 そして邦画は、篠原涼子主演の『今日も嫌がらせ弁当』 は、お気軽に楽しめる1本。

という感じの5日間。

 

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