カテゴリー「カウンセリング・DPA」の162件の記事

ZOOM広島真宗カウンセリングWS

  9月の広島での真宗カウンセリングワークショップ。その直前に広島にも緊急事態宣言か発令された。世話人の間では、感染対策を十分にとれば開催はできると考えていたが、参加者の中にはさまざまな事情があって欠席が増え、今回は中止と決めた。緊急の中止は西日本豪雨以来。、致し方ないとは思うが、たいへん残念だった。

 代わりに、ZOOMでの開催に移行するので、案内文を急きょ作成した。この1年半、ZOOM法話や座談会にも慣れてきた。少人数での座談会の経験もあるが、2~3時間程度で、今回のように、朝、昼を通して7時間を2日間行うエンカウターグループは初めてだ。世話人を含めると10名も参加があり、初めての方もおられる。大半が1年に1度、ここでお会いする方々である。この長時間のZOOMグループはぼくにも初の試みで、うまくいくかどうか心配だった。ワークショップではなく「交流会」と名付けて、取りあえず1日だけの開催として、翌日の開催は、皆さんと相談の上で決めることにした。

 緊張しながら早めにバソコンの前にスタンバイ。皆さんがうまくアクセスできるのかの心配もあったが、不慣れな方も揃われて、スタートできた。ただ一番難しいのは、場の雰囲気を肌で感じることができないことだ。画面の上と実際に車座に座るのでは、その味わいはまったく違う。おかしなことだが、自分の顔が見えるのがZOOMである。よほどのナルシストでなければ、これが苦手だという人が多い。でも実際は悪いことではない。自分が嫌であっても、この顔、この姿こそが、相手の目に映っている私そのものなのだ。だから自分が、どんな顔で、どんな姿勢で、相手の前に立ち、接し、聞いているのかを教えていただける、たいへん貴重な機会となっている。この経験は、実際の対面にも生かされるのではないかと思っている。

 また、ZOOMのグループがうまくいくかという心配も、杞憂に終わった。ZOOMでも、内容の濃厚な集いとなった。午前中の2時間だけでも十分に堪能できた。すでに長年の関係性が構築されていること、そしてその信頼関係の中で、自分を開き、率直な自己表明がなされたこと。それを参加者が、受容的に、また共感的に関わったこと。ぼく自身の気づきのところでは、聞くことは、「受容的に聞かねばならない」「共感的に聞かねばならない」という不自由なことではないのだ。いま、目の前で自分を表明しようという方があれば、その方を尊重し、その場に身を任せて、お聞かせ頂くだけだ。その話しに身を任せていると、まったく不思議なことに、一瞬であっても相手の方の人生の一部を共に過ごさせてもらった喜び、そして暖かい、豊かな気持ちが満ち満ちてくる、不思議があるのだ。以前から課題にされていた、親しい方を亡くされたお話であったが、ほんとうに「よかったですね」と、言わずにおれない気持ちになり、それを率直に表明させてもらえた。そこには、これまで1年に1度だけであっても、何年かの間で築かれてきた関係が大きい。たとえ毎日顔を合せていても、うわべの付き合い、見せかけだけのつきあいでは得られない、深い出会いを経験させてもらったきたかもしれない。しかもその方の、飾らない、率直な態度は、外の方に伝播して、自分のところを開いた尊い話が続いたように思った。たまたまた昨年からこの1年間の間に、親しい方との別れを経験された方が多かったことも、影響があったのだろう。

 おかげでZOOMでもそれなりのWSが行へ、ほんとうによかった。来年に向けて、定期的な継続WSも開くことが決定。楽しみである。

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7月の月例会「パーソナリティ変化の必要にして十分な条件」(2)

 昨年から、メーリングリストとZOOMの活用が功を奏し、ご縁が広がっている。今回も新会員と、お試しの方の参加があり、会館に6名、ZOOM参加と合せると20名も参加があった。
 
 ロジャーズのもっとも有名な代表的な論文である「セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」の2回目。
 心理療法における建設的で、意味の深い、前向きなパーソナリティ変化-人格変化が起こるためには、ある「関係」が必要であって、それが満たされているならば、それだけで十分であるという。その関係とはどういことなのかを、経験に基づいた科学的な仮説として提示されたものである。これはけっして聞き方の技術や方法ではなく、人と向き合うこと時の「態度」、姿勢を示されたもので2人の人が心理的な接触をもっていることあることだ。

  1. 2人の人が心理的な接触をもっていること。 
  2. 第1の人(クライエントと呼ぶことにする)は、不一致の状態にあり、傷つきやすく、不安な状態にあること。
  3. 第2の人セラピストと呼ぶことにするは、その関係のなかで一致しており、統合していること。 
  4. セラピストは、クライエントに対して無条件の肯定的配慮を経験していること。 
  5. セラピストは、クライエントの内的照合枠を共感的に理解しており、この経験をクライエントに伝えようと努めていること。 
  6. セラピストの共感的理解と無条件の肯定的配慮が、最低限クライエントに伝わっていること。 

 この六つの条件は、パーソナリティー変化のプロセスにとって基本的なもので、建設的なパーソナリティー変化が起こるためには、このような諸条件が存在し、しばらくの期間存在しつづけることが必要であるという。

 その六条件として示された中での第一条件の「関係」のところだ。

 「2人の人が心理的な接触をもっていること」。前提条件のようなものではあるが、この条件がなければ、以下の項目も意味を失ってしまうので、ある意味、当たり前だがもっとも重要な条件である。

 セラピストをカウンセラーと置き換えていいが、要は二人の人間関係において、その間に何らかの心理的接触、心の触れ合いがあることが重要である。この二人の出会い、心理的な接触というところに大きな意味を持つ。ここでは言語以前のノンバーバルな部分での出会いの意味も大きい。

 論文の記述とは離れるが、普段の生活においても、誰かを前にして向き合ったときの、自分の中に起こっている感覚を思い起こしてみればそれは分かるだろう。初めての方と向き合う時、安心して向き合って座れる時、または防衛的に向き合っている時などがある。そこにどんな言葉以前の感覚が起こっているのか。また相手がどんな態度で接してこられると、それはどう変わるのか。普段は意識して目を向けることはないが(実際は身で感じている)、このあたりを十分に意識して生きていくことで、これからの条件が身近になってくるのはないか。
 

 

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傾聴ではなく、態度なのだ!

 東京法座の帰路、車中で池見陽先生の講演録を読んでいた。先生とは、2、3度、お会いしたことがあって、「聞」ついてお話したことを印象深く覚えている。

 あるカウンセリング研究会の会報にあった講演会の記録で、その中にあった、ある女子高生との面談事例が出でいる。ロジャーズの中核三条件は「態度」であって、けっして傾聴の具体的な応答の方法や技法ではないことを示す事例である。

 熱い涙が流れてしばらく止まることはなかった。しずかな涙だったが、こんなに泣くのは久しぶりだ。2日間の法座後、法水のおかげで防衛的な心がほぐれていたのだろう。幸いなことに、コロナで新幹線は混雑しておらず、隣席は空いていた。しばらくその余韻を味わいつつ、その感じをからだで確かめていく。フォカーシング的にいうと「ああでもない、こうでもない」と味わっていたが、どこで、なぜ起こっているのかは明確にはなてこなかったが、別にすべてをクリアにする必要もなく、なんとなくその余韻を味わうことにしていた。深い温かいものに触れている感じがしたが、不思議なのは、いま読み返しても、それほど深い感慨がおこるような場所ではない。この文章全体から、追体験するような何かに触れたのだろう。けっしてここに涙したのではないが、核心部分のみ引用する。

 1960年代のロジャーズの自己一致の記述をみると、それは「防衛的な仮面の後ろに隠れているのではなく、体験過程として感じられている気持ちと共にクライエントにあう」となっている。「病院の臨床心理士です」みたいな仮面をかぶっているのではなく、本当の私の体験過程~眠たい、退屈~その気持ちと共にクライエントに会う、それが自己一致、「本物であること」です。

 その人に共感的であり、そして私も自分らしくいる。退屈は退屈だと素直に言い、そして無条件の肯定的なまなざしで見ている。学校へ行かせようと思っていないし、彼女がいきたいなら行ったらいい、といった態度。でもここで注目は、一度も傾聴してない、ということです。結局、このセラビーがクライエント中心だというのはそういう態度によるもの、あるいはそういった人間関係によって人は変わるのであって、傾聴の技法ではない。本当にロジャーズ理論の見本のような事例です。

「クライエント中心療法以降発展し続けるカール・ロジャーズのカウンセリグ」より 
 

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パーソナリティ変化とは

  2009年6月19日のブログに「人格変化?」と題した記事があった。12年後の今月の月例会でも、「パーソナリティ変化とは、どういう意味か」という問いがでた。面白かったので再投稿するが、12年前の記事を一部を抜粋すると以下のとうりとなる。参考までに。

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 直接のテーマとは違ったのだか、文章にあった、「人格変化」という言葉をめぐり、ロジャーズのカウンセリングとの違和感を表明する参加者があった。 一般の宗教や政治がそうであるように、煽動されたり、治療されたり、洗脳されて、その人自身の個を失って、人が変わってしまうというイメージがあるのだという。

 この場合、問題になるのは、「人格」という訳語の持っている曖昧さにに起因しているの確かだ。しかし、「人格」のもつ定義の相違の話しで終わらず、その背景には、それぞれのもつカウンセリング観が垣間見られたようで、興味深かった。

 普通はpersonality(パーソナリティ)の訳語として、「人格」が用いられる。その場合、personalityという単語には価値的な意味が含まれていない。しかし、日本語の「人格」には、「人格者」という言葉があるように、価値まで含まれていることが多く、用語の定義を定めておかないと混乱を招くのだ。また、日本では、「性格」と「人格」とは、普通は使い分けられているが、英語ではpersonalityが両者を示すこともあって、この点でも曖昧な用語となっている。

 このパーソナリティも、人格や性格と訳さずに、そのまま「パーソナリティ」と使われることも多くある。ロジャーズ全集では、「Personality changes」を、「パーソナリティの変化」と訳されている場合がほとんどだ。第13巻は、ずばり『パーソナリティの変化』。

 外来の新しい概念を、これまでの既製の言葉の範囲で説明しようとするので、さまざまな問題や誤解が生じて来る。その点では、日本は、新しい外来語を、聞こえるままにカタカナ語で使用するという便利なものだ。でも、近頃は、専門語~経済でも、科学でも、コンピューターでも~、横文字ばかりが氾濫して、ほとんど意味がわからないことが多い。

 これは、仏教の伝来からそうであった。インドからシルクロードを通って、中国へ。中国仏教は翻訳仏教だといってもいい。インドで生まれた仏教が、一度、中国で咀嚼されている。その点、日本では、常に中国の言葉-漢訳をそのまま読む(返り点や訓点をつけて)という、なんとも賢いというか、効率的で、ある種狡賢い戦法を編み出していた。言葉の翻訳をめぐる問題は、古くて新しいテーマなのだ。

 もちろん、人格の変化-Personality changesをぬいて、ロジャーズのカウンセリングを語ることはできないのはいうまでもない。

  ところで、人格変化-Personality changesとは、

「個人の人格構造が、表層・深層両水準において臨床家が合意する方向へと変化することであり、すなはち、統合が増大すると、内的葛藤が減少すること、充実した生に使えるエネルギーが増大することである」

 と、ロジャーズは語っている。「臨床家が合意する方向」というのが、またひっかかるかもしれないが、とにかく成長と同義で使われていると見ていい。

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6月の真カ研月例会

 6月の真宗カウンセリング研究会の月例会。

「セラピーにおけるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」(ロジャーズ選書(上)収録の新訳)の輪読だ。このロジャーズの論文は、ぼくが担当を始めてからでも3度目の輪読となる。前回からは10数年が経過して、参加の顔ぶれは大きく変わった。カウンセリングに関しては、初心の方も多いので、新鮮な気持ちで関わられていただく。

 まずその冒頭。大切なのは六条件に入ってからたが、その前提となる「問題」は、その問題提起の部分で、ここが理解できないと、この先なにを言わんとするのかがボヤてしまう。その割にはあとが大切なので、読みとばされていく部分でもある。

 内容とは関係ないが、今回の発表は、用語や言葉の意味の説明に努力してくださったことである。ただ惜しいことに、ここでは何が一番言いたいかのという点では、みんなよく分かっていないという印象を受けた。「木を見て森を見ず」ではないが、用語の一般的な説明も大切りが、あくまでも木の部分なので、全体像としての森をつかんでいかないと、余計迷ってしまう。レジュメの説明を聞いても、ただ本文を写しただけでどこがポイントなるのが伝わってこない。また感想を出し合っても、自分に引き寄せたところでしかモノがいえない。すると、自分に響くものがないときは、何も出てこず默るしかなくなる。もちろん、丁寧に用語を押さえることも必要だし、そのまま聞かせていただくことも大切だ。もう一段階、ぜひ、ここで何が一番言いたいのかを探る訓練をしてほしい。そのためには、読む力、読解力を磨く必要がある。そういうと、何か特別なもので、読解力があるとかないとかの問題になりそうだが、ただダラダラとすべてを聞くのではなく、何がポイントなのかを考えながら読む「クセ」をつけていくことが大切ではないか。もちろん理解力も必要なのだか、その上で、ポイントをおさることを常に努めていくのてある。そこから、始めて、自分に引き寄せたところでの問題がでてくるのではないだろうか。

 これは、ミニカン等で学んでいる「聞くコツ」と同じだと思う。もう一歩の成長を望むなら、「わからない」「難しい」「ここがかっこよかった」といった自分のところに引き寄せらた感想で終わるだけなら、いつまでも深まってはいかないのてある。

 積極的に関わるには、せめて事前に読んでくる。分からないことは、ネットで調べればだいたいは分かる。それでも分からないときは尋ねればいいので、それを前提にした上で、もう一度も読み、みんなポイントを掴み、その上で感想を述べていく。そうしないと、単なる味わいだけで終わって、輪読の意味が薄れる気がしてならない。

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5月の月例会~新たな気持ちで~

  真宗カウンセリング研究会の月例会。

 開始前に、総会報告を兼ねた会報と今年度のパンフレットの印刷、その発送作業をお手伝いいただいく。N先生が、「テキストを読んでいませんので」と、30分は早く到着されるほど、気合いがはいっている。

 ぼくが担当を始めてもう30年以上経過した。研究会が発足して今年が60周年なので、その半分の責任を担ってきたことになる。今年からは、もう一度原点に戻って、「セラピーにおけるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」(ロジャーズ選書(上)収録の新訳)を輪読する。これは、今から64年前、1957年に発表されたものであるが、カール・ロジャーズ論文の中、もっとも重要で有名なものの一つである。担当後でも月例会での輪読は3度目になるが、真宗カウンセリンーの態度でもある「パーソン・センタード・アプローチ(pca)」の基本に立ち返って、丁寧に輪読していきたいと思っている。

 昨年からは会場に加え、リモート(Zoom)での発信も行っている。年度初めの5月は、参加者が多いものだが、今回はその中でも特別だった。N先生もご参加くださり、会場に8名に、リモートでは14名で、合計22名が参加。10名足らずの月例会ではかなり活発である。久しぶりにお会いする方、今回が初参加の方、年齢層も20代から80代まで幅広く集まってくださった。

 御存じの方は御存じであろうが、カウンセリングの関わりが浅い方も多いので、もう一度、「カールロジャーズ」とはどんな方か? 「パーソン・センタード・アプローチ(pca)」の基本は何か? また彼の先駆的な役割はどこにあったのか? そしてこの論文の読む意味はどににあるのか? などをお話申し上げた。

 コンパクトにまとめるのには苦労したが、おかげ、ロジャーズが真のロジャーズになっていくプロセスを、改めて振り返らせてもらえうととになった。気づかせてもらったことも多くて、その夜は高揚感をもって床につき、朝方、早く目が覚めてアレコレと考えを巡らせることになってしまった。

 改めて、「カールロジャーズ」の生涯について振り返ってみたいと思った。
 
 

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真宗カウンセリング研究会総会

 真宗カウンセリング研究会の総会は、リモート開催。事業報告や決算報告などを行う。参加者からも一言をいただいく。そのなかで、カウンセリングの原点である大切な言葉を聞かせていただいた。

「ここは真宗カウンセリング「研究会」であって、真宗カウンセリング「同好会」ではない」。

 さらにカウンセリング世界から真宗カウンセリング研究会に入られた方に、「真宗のことにも積極的に聞いてもらいたい。ここでの真宗とは宗派としての名称ではなく、また信仰の有無を問うているのではない。真宗カウンセリング研究会で学んでいるのだから、カウンセリングの人間観より、さらに深く人間をとらえようとするのなら避けて通ることはできない。」

 これらはロジャーズのカウンセリングそのもののに対する言葉でもある。

 カウンセリングは誤解されやすいが、受容や共感は、同情や賛同とは違うし、評価や単純な肯定とも異なる。よく使われる「温かさ」も同様で、決して甘やかすものでもない。ありのままに尊重される雰囲気や態度とは、自己自身と誤魔化さずに向き合わねばならない厳しさがある。和気あいあいとして雰囲気とは真逆に、丁々発止する緊迫した場面も避けられない。決して、人間関係を上手に渡っていく術ではなく、逆に上辺だけで世間を渡るお上手や、仮面を被った態度の虚偽性が、浮かびあがってくる恐ろしさがある。
 それは浄土真宗の対人的態度に通じるところでもある。
 
 真実を求める厳しさをもった集いでありたいものだ。

「真宗カウンセリングに関しても、西光義敞の提言から、一歩も出ていないのではないか。それどころか、後退と思われる論考まである」。 

 

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『育ち合う人間関係』終わる

 真宗カウンセリグ研究会も、今年度(2020年)の最終回。

 西光義敞先生の『育ち合う人間関係』の輪読も、今回が最終回。2017年5月から始めたので、2021年3月まで、4年間、約40回ほどで読んだことになる。これだけ時間がかかると、最初のことはもう忘れている。輪読を始めたころのメンバーもすっかり代わっている。幸い本書は、40歳から76歳までの幅広い年代に書かれた6つの論文が網羅されており、各章は、ある程度関連はあっても、前後の直接の関連はない。「カウンセリングの手引き」というカウンセリング色が濃いものから、真宗カウンセリング、そして最後は、「浄土真宗の聞法と法座に関する一考察」という真宗色が濃いものへと移っていく。最後は、実践的法座論、聞法論で、カウンセリング畑の方にはかなり特異な内容で、気がつくと大半が華光の同人方で、カウンセリング畑の方は脱落されていったのは残念ではあったが、論文の性格から見て、致し方ないだろう。

 たぶん、普通の寺院の住職やご門徒さんにしても、儀礼と一方的な法話を聞くだけで終わっていては、信仰座談会のあり方や態度に関しては、体験的に知りうることはかなり難しいかれしれない。その意味では、カウンセリングは初心でも、華光の皆さんには身近なところで実践的に、また我が身の問題として考えることができたのではないだろうか?

 最後の「説」と「聞」の問題も、実践の場での今後の課題を頂いた気がした。
 
 次回からは、原点に帰って、ロジャーズ論文の輪読を行います。奮ってどうぞ。

 

 

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刺激

 2月の真宗カウンセリング研究会の月例会は、輪読学習会をやめて来年度の事業の相談を行う。1月の世話会だけでは決めきれたのは、今年も新型コロナの影響が大きい。緊急事態宣言発令中の最中に、宿泊研修会の予定を決めることは難しい。しかも今年は、60周年の節目の年を迎える。30周年、40周年、そして50周年と、規模はそれぞれ違うがなんからの記念事業を行ってきた。ただ、今年ご講師を招いても、いまの状況が続くと集客も難しいだろう。何か打破する方法はないか。

 悲観的なことばかりではない。何度か試験を行い、昨年5月からはZoomでも月例会を開くことができ、会員の交流が見違えるように活発になった。ならばリモートを活用して、ご講師を招いた定期的な勉強会などが出来ないか。それには、皆さんのお知恵をかり力添え必要なのだ。

 残念ながら、月例会ので輪読する中身を、久しぶりにロジャーズ論文を読むこと以外は、決定事項はなかった。
 では意味がなかったかといとう、いろいろな話題から大いに刺激を受けた。ミニカウンセリングの意義、世話人の役割、そしてほんとうに実力をつけるにはどうするか。またカウンセラーの態度、そしてお互いが何を目指しているのか。話題以上に、個人的には刺激を受けて、終了後はいろいろと心が動いた。これでこそ、真宗カウンセリングの相談である。

 それにして、この30年間、理論学習会や月例会でどれだけの論文を読んできたことだろうか。また、逐語録を作製したミニ・カウンセリングでの学びで、学んできことはなんだったか。
 どれだけ身になっていると問われればお粗末ではあるが、さまざまな学びを経験させてもらってきたことに、いまさらながら驚いた。

 

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10月の学び~「カウンセリング・心理療法篇」

 10月に受講した教大学四条センター講座での「カウンセリング・心理療法篇」である。

 まず、今の話題であるコロナ関係では、大林雅之先生の「小さな死」から考える、コロナ時代の生き方~老いと孤独をめぐって~という講演聞く。フランスの思想家のジョルジュ・バタイユと、シスターでもある渡辺和子を結べ付ける論考。刻々と起こっている「小さな死」こそ、「大きな死」のリハーサルであり、別のものではないと。いろいろと仏教や真宗的に結べ付けて味わいながら聞かせていただいた。

 そしてメーンは、「心」と題するカンファレントがあり、毎週水曜日の夜に連続した講義。2コマある時は、18時から21時になるので、もし教室に参加するのなら難しかったかもしれないが、Zoomのおかけで参加することができた。

 仏教大学の臨床心理の教室には、ユング派の先生が中心のようて、同じカウンセリングといっても新鮮に聞かせてもらっている。これは11月から来年1月まで続く。

 牧先生から、「心理臨床家の人生」と題する連続講義で、「ユング」、そして「ロジャーズ」の生涯のまとめてお聞きする。

 小児科医でもある石岡千寛先生からは、「心と身体の健康」と題して、「心と体を結ぶもの」、「ストレスルの心身への影響」と題した講演。これは、医学モデルで、かなり新鮮に聞かせていただいた。特に、細胞レベルで、単細胞の場合も、老化と死(アボブトーシス)として、遺伝子に細胞死が組みこれまていること、それが多細胞生物にしても、必然の死、テロメアとして、寿命の上限が定めれ、死の必然が遺伝子レベルで定まっていることをお聞かせていただいたのは新鮮。

 また鈴木康廣先生からは、「箱庭療法入門」と題して、その基礎のお話。驚いたことは、ユング派といえば、分析や解釈が中心かと思っていたが、ロジャーズの来談者中心カウンセリングの態度とは通じるものがあって、ロジャーズの態度項目である三条件は必須で、クライエントが、安心して、自己を自由に表現できる場をいかに構築するのかの重要性を指摘されていた。そしてクライエントが如何に自己を物語り、その世界観をセラピストが受容的に、また共感的に聞きえるのかが大切であるという。

 その中でも、一番、よく知っていてるはずのロジャーズの生涯を講義が新鮮だった。講義での元ネタは、諸富先生の「カールロジャーズ入門」。途中、ロジャーズとミス・マンとの面接ビデオ、また河合隼雄先生のロジャーズの評などを、体系的にまとめて講義くださる。諸富さんの著書も、河合先生の言葉も、またロジャーズの面談ビデオも、何度も読んだり、観たりしている基本で、その文章の隅々まで覚えていることも大半だった。それでも、いやそれゆえか、短時間にまとめた講義は、改めてぼく自身の聞く態度を問われるのは充分であった。

 直線的に決めつけて解決に向うのではなく、葛藤や紆余曲折を経ながら、全人格でしっかりと悩んでいくことを援助していく。問題解決ではなく、その人自身がいかに悩む力をつけていくのか。そしてクライエントの世界を共にあたかも生きているのかがカウンセラーであると。ユング派の立場から、距離を取ってきかせてもらったことが、とても有り難かった。

 11月もしっかり学びたい。

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