カテゴリー「カウンセリング・DPA」の99件の記事

真宗カウンセリング研究会「総会」

 今年の総会で、ここ4年間続いてた会計の疑念が、解消された。その意味では、心機一転頑張ろうという気持ちにはなれる。

 ただ、その余波で事務局だけでなく、会計、パンフレット、会員管理と、ほぼすべての業務を引き受けることとなった。

 特に会計はいろいろあって立て直しがたいへんだった。
 昨年10月に、任期半ばでの前任者の退会をうけて、臨時で行うことになった。小さな所帯なので忙しくないが、懸念だった「ゆうちょ通帳」を作製したり、2年ぶりに会費請求をしたり、支出を押さえるたとめにパンフレットや会報を自前で作製したりと、とにかく仕事が集中した。

 でもその甲斐あって、一昨年、昨年と毎年7万円近く続いた赤字を、一気に解消することができたのは、うれしかった。不明だった「通帳」もできて、お金の流れも明確になった。会員整理でかなり会員数は減ったが、その分、新加入の方もあって、これからが活性化されていく予感もある。さっそく、4月にも新加入者がおられた。

 特に、今回の総会には、初参加が2名あって、お二人とも事務やPCに明るく、前向きな提案をいただいて、これまでの雰囲気とは違っていた。

 7月には「交流の集い」を開く。夕方には「臨時総会」を開催して、会員の皆様にこれまでの経緯と、代表交代を含め新体制についてご相談をさせていただく機会も考えている。

http://dbpca.web.fc2.com/2017.html

 身の丈にあった活動にはなるが、澱んだ空気を一層していきたいものだ。

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熱意と根気

 真宗カウンセリング研究会の二月の月例会。

 今年は、『育ち合う人間関係』第1章「カウンセリングの手引き」を読んでいる。ロジャーズのカウンセリングの概説が終わって、真宗者に直接つながる話題になっている。「真宗者はカウンセリングをどのように実践するか」の章である。

 今月は、「相談室を開設しよう」。カウンセリングを学んだ方は、それを留めないで、実践してください。そのためには、積極的にお寺の中に相談室(場所)を作り、カウンセリング実践を行ってくださいという、先生の熱い伝わる一節だ。

 その中、門徒や地域の方に開かれた相談室にするために、粘りづくり、熱心に、積極的なお誘いやPRをすることを勧めておられる。

「PRは、かなり長い期間、あいだを空けずに繰り返し繰り返し行わねばなりません。専門のカウンセラーをおいてPRしても、はじめ半年間はたった二人しか来談しなかったという会社の話も聞いています。短気をおこさず、愛情と誠意をもってねばりづよく、相談室の場所、趣旨、利用方法などを普及徹底するように努力します。「強制はしませんが、あなたがご希望でしたら、わたしはこれこれの時間内は精一杯ご相談に応じますよ」という、こちらの気持ちを伝達することに、どれだけ積極的であっても積極的すぎることはありません。」

とある。お寺で、何か新しい企画や集まりを持つときでも同じだ。チラシを作り、電話やメールでお誘いをしても、なかなか効果がなかったり、断られたりすることが1、2度続くと、一時の熱情も薄れ、簡単に挫折してしまい、休業状態となって生滅するケースがよくある。

 結局、伝え手に、どれだけの熱情があり、背景に深い想いがあるのかが問われてくる。どれだけ粘り強く、また根気よく、呼びかけられるのか。一見、地味な作業にこそ、伝道者の姿勢が問われるのかもしれない。

 では、飽きやすく、短気なものを、背後からしっかり支えてくださるものは何か。

 それこそが原動力なのである。

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心機一転

  真宗カウンセリング研究会の世話人会。29年度の活動プログラムを相談した。

 研究会は、ここ数年、会計上の問題で、モヤモヤした状態が続いていた。なかなか動かないまま、昨年の6月に通帳を作り直し、お金の流れを明確(普通の状態)に戻すことができた。それに伴って、臨時で会計担当することにもなった。建て直して、次ぎの担当者に引き継がねばならない。

 この間、悲しいことや失望的なこともあったが、来年は心機一転だ。
 
 2年ぶりに、研究会会員や元会員などを対象にした会員の集いの企画も持ち上がった。元研究会会員のA先生に講演をお願いすることにもなった。

 ただ、これまでの事務局だけでなく、会計、パンフレット作り、企画と、仕事が小生に集中してきたのも問題で、これはなんとか4月の総会まてに解消していかないと、研究会に拡がりが生まれないようだ。

 課題も多い。が、身の丈にあった集まりに、もう少しは背伸びしながらやっていこうではないかという話になったのは収穫だ。

 

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「カウンセリングの立場から真宗に見なおそう」

 西光義敞先生の『育ち合う人間関係』から第1章「カウンセリングの手引き」を読んでいる。

 担当者が不在だったので、ぼくが司会をした。前章までは、カウンセリングの入門であったのが、今章から急に浄土真宗の話題が出でくる。第三章「真宗者はカウンセリングをどのように実践するのか」に入ったのだ。真宗にとっては、あまりにも厳しすぎるこの章を避けられたわけではないのだが、僧侶や龍大学生、華光同人も欠席である。みな、浄土真宗と無関係の方ばかり。珍しく、まったく初参加の方も交じっていて、正直、戸惑いながらの進行となった。

 別に仏教用語が羅列されたり、難しいことが書かれているわけではない。でも、短い章に中にも、「聞法」「十方衆生」「聴聞」同行」「同朋」「願力」「坊守」「御院家」「仏徳」「讃嘆」「教化」「凡夫」「在家止住」「地獄は一定すみがぞかし」……。と、皆さんには、分からない用語のオンパレードだ。「真宗」という言葉でも、うまく読んでいただけない。もっとも、「真宗カウンセリング研究会」なので、このぐらいは分かってもらいたかったが、、。そのこともあってか、先月までの活発さはなくなって沈黙が続いて、こちらもドキマギ。質問された言葉の用語解説をすることが中心となtった。中には、仏教用語ではない「人間の生地やほんね」という言葉でも、「どんな意味ですか。人間に『生地』とは初めて聞きました。パンとか服なとの物質なら分かるけれど、人間にも使うんですか」という質問が出て、逆に教えられた。なんとなく先生のお心は伝わったようで、そのことは新鮮だという声があった(何十年も一緒にやってきた方だったので、これもびっくりだった)が、やはり言葉のレベルで停滞していくこともよく分かった。

 なかでも、皆さんが驚かれたのは、「地獄は一定すみがぞかし」の一言。他力のお救いならまだ伝わるが、それが、「地獄行き」に定まる、如来さまに照らされた生地の自己ということになると、一般の内省ででてこない話だ。

 それにしても、真宗者にとっては、耳の痛い厳しい内容だった。華光の皆様に、ぜひ読んでいただきたい。といっても、読まれることはないだろうから、このプログで「カウンセリングの立場から真宗に見なおそう」の章を、しばらく取り上げていきたい。西光先生、40歳の念仏者に対しての叫びである。

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「カウンセリング手引き」~どんなカウンセリング技術があるのか~

 真宗カウンセリング研究会の「月例会」で、西光義敞先生の『育ち合う人間関係』を読んでいる。「カウンセリングの手引き」である。これが元になって名著『暮らしの中のカウンセリング』誕生している。

 今月は、「どんなカウンセリング技術があるのか」の章だたが、とても勉強になった。

 来談者中心アプローチでは、技術に走るよりも、その根底にはカウンセラーの態度が大切になってくる。つまり、技術は、本質的条件-カウンセラーの無条件の積極的尊重や共感的理解を、クライエントに伝える通路ちなることができるときにのみ、重要な意味をもつということである。どんな技術を用い、また応答をしようとも、カウンセラーの純粋で、受容的な、そして共感的な経験や態度が、クライエントに通じることが大切だというのである。同じ技術でも、逆の経験や態度を伝える場合もあるということだ。
その点を念入りに押さえた上で、場面構成やあいづちの打ち方、内容の繰り返しなどについて、具体例を豊富にあげて、分かりやすくお伝えしてくださっている。

 その中で、「感情の反射」や「感情の明確化」という項目の中に、「感情の明確化」といっても、「問題の明確化」や「内容の要約」とを混同してはいないかという指摘である。カウンセリングの焦点は、話し合われる話題にあるのてはなく、話題に対するクライエントの感情や態度にあること。時間的、空間的に果てし無く広がる可能性のある話題を追いかけて、まとめることが大事ではなく、いろいろな事柄を話題にのせて問題にするクライエントの「いま、ここで動いている感情」を受けとめ、明確化し、反射することが大事であるというのだ。

 改めて、問題の要約や明確化でまとめて、聞いた気になっていた、自分の聞き方の誤りを教えられたのである。

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たいせつな時間

   真宗カウンセリング研究会の月例会は、西光義敞先生の『育ち合う人間関係』の輪読している。 第一章の「カウンセリングの手引き」は、西光先生が40歳の時に書かれたのカウンセリングに関する最初の著作である。「カウンセリングを成功させる条件は何か」という章を読んでいる。中核条件をとても分かりやすく、丁寧に記述くださっていることを改めて感心させられた。

 今月は、中核条件のうち「自己一致」と、「必要・十分条件の意味」という、もっもと核心的な部分だったこともあって、活発な話し合いになった。参加の皆さんが、カウンセリング経験が豊富で、しかも教育現場や福祉、相談室の現役カウンセラーもおられたので、自身の経験も交えながら、率直な表明が多くて、実に有意義な集いだった。

 仏法でも、カウンセリングにも通じることだが、いくら知識があるということと、それがほんとうに身についているのということは、まったく別問題だ。臨床場面では尚更で、カウンセラーの態度として「自己一致、受容、共感」を覚えただけでは、何の役にも立たない。経験が大切なのである。かといって、理論の裏付けのない実践だけで進むのも危険だ。結局、自己満足で終わって(本人だけがイケている錯覚しているので厄介だ)、知らぬ間に研究会を去っていかれる。

 本書にもあるが、研究(理論)→研修(体験学習)→実践(臨床)→研究…と循環してこそ、ほんとうの深まりと拡がりか生まれてくるのである。それはときとして地道な作業である。また学べば学ぶほど、結局至らなさを知らされるばかりである。学び、実践するの間に、時には苦い経験もあるが、同時に楽しさも教えられる素晴らしい経験もさせていただく。その意味では、ぽくにとってかけがえのないものになっている。

 月1度とはいえ、月例会の学びの場もたいせつな時間だ。

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充実した3日間~広島カウンセリングWS

 週末の東京法座をおえて、広島に向った。
 3日間の広島カウンセリングワークショップである。主催は、真宗カウンセリング研究会だ。
 広島でのWSは、第1回の2泊3日のワークショッブから世話人をさせてもらっているが、今回が9年目(9回目)ということになる。3年前からメーン世話人であるが、特に今年は、このワークショップの提唱者であるM先生が欠席された初めての集いとなった。
 
 3日間をおえて、帰宅して開口一番、「いい集いだったわ~」と言っている自分がいた。

 冒頭では予期せぬハプニングもあった。しかし、決められたシナリオやプログラムにはない、その時、その場での、今の出会いがあった気がする。世話人も、僧侶だとか、門徒だかといった肩書を脱いで、各々の違いを超えて、他者の声に耳を傾け、また自分を開いてありのままの自分を伝え、そして出会っていった。華光の同人が極めて少数派であったこともよかった気がする。メンバーにもずいぶん助けられた。おかげで、これまでとは一味違った、充実した3日間を過ごすことができた。

 同時に、自らの未熟さもよくわかった。これも、先達のM先生がおられたらばこそである。その態度に出会い、先生抜きの集いであったればこそ、至らぬ自己を教えられる場面もあった。至らぬ自己、聞くことができないない自己に出会うからこそ、少しでもそこに近づきたいと願うのである。道半ばではあるが、一歩でも前に進んで行きたいと願う自分もいた。

 法話がなくても、先生の講義がなくても、また華光の同人が集わなくても、ご法を身にかけてお聞かせ預かる3日間でもあった。

 ラストに行ったサイコドラマでも、人生の実相に聞かせてもらい、その方と深いところで出会わせてもらえたのだ。

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クライエント中心のカウンセリング

『育ち合う人間関係』の中から、「カウンセリングの手引き」を輪読している。

 第2回目。核心に入って、「カウンセリングとはどういうものか」という基本中の基本を押さえる。今回のクライエント中心のカウンセリング、そして基本的仮説としての四項目を学んだ。箇条書きにすると、

1、人間は誰でも成長力をもっている。
2、知的な面より、感情的な面も重視する。
3、問題の解決より、個人の成長を目的とする。
4、現在の場面を重視し、過去は問わない。

となる。ただ並べるだけなら、なんの意味もない。これは、ロジャーズ自身が、膨大な臨床経験の中から打ち出した仮説であって、各々に深い意味合いがある。さらにそれを、西光先生がひとつひとつ言葉を選び、深い内容を、易しい言葉で分かりやすくお伝えしてくださている点にも、深く感銘した。このシンプルな基本的な仮説こそ、「クライエント(来談者)中心」というアプローチを考える基盤となる。特に1は、カウンセリング自身の人間観に深く関わる重要なポイントだ。

 いちいちに思うところがあったが、仮説の前にあった章に教えられた。

 クライエント中心のカウンセリングについて、カウンセリングとは、相談場面におけるカウンセラーとクライエントとの関係なので、すぐれたカウンセラーになるためには、クライエントとどのような関係をつくるのか。その関係のこそが問題である。その質とは、カウンセラーの技術ではなく、態度によって決定する。
 
 ロジャーズ以前のカウンセリングとは、クライエントの訴えや悩みをよく聞き、その原因を的確に診断し、これを除去するための方法熟達した専門家が、指示や助言すると信じられてきた。いや、いまもなお、そう信じられて、あるゆる場面で、そう実践されているといってもいい。ところが、ロジャーズは、「診断はかなり的確で、治療法を指示するところまでは出来ているが、その結果はどうか。必ずしも、本人自身がよくなっていない」という指摘をする。診断し、指示や助言がどれだけ専門的な権威でなされても、それに応じた治療があがらなければ、臨床としての意味はないという根本的な指摘するのだ。

 それは、あらゆる対人的場面、たとえば、親、教師、宗教家といって権威者が、子供、生徒、信者などに対して、「命令したり、禁止したり、訓戒したり、激励したり、説得したり、助言したり、説明したり、解釈したり、教示したりする」ことが、指導であり、正しいことだと微塵も疑っていない。しかし、ほんとうにそれが有益なのか。そのことを根底から疑問視したり、相手側に立ってその効果を考えたことがあるのか。自分の説得や教示に自己満足しているのに留まっていないのか。「あれだけ言ってやったのに聞かない」と腹を立てて、威圧的な態度を強めたり、相手を支配したり、操作しようとしていないか。または、言っても変わらない相手に、愛想を尽かしてあきらめてはいないかと。

 改めて、自分の対人的態度を見直させられた。学んできたつもりで、少し話を聞いただけで「この人は、こんな人」、「あの人には、こう関わって」と、診断し、助言や教示をしている現実の自分を大いに考えさせれた。
 
 学び、分かっているつもりだったが、ぜんぜん身についていない自分に気付かせていただいた。もう一度、原点に帰ってしっかりと学び、実践していこう。

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「カウンセリング手引き」~孤独な魂~

 先月から、西光義敞著『育ち合う人間関係』を輪読する。
 先月は、A先生の「はしがきにかえて」だったので、実質、中味は、今月からである。

 しばらくは第1章「カウンセリング手引き」である。
 昭和40年(1965年)、西光先生40歳の時の、初めてのカウンセリングの小冊子で、本願寺の伝道ブックスのひとつとして出版されたものを再録されている。

 まずは、一、「カウンセリングはなぜ重要視されてきたのか」である。
 10頁ほどの章で、二節にわかれて、
 「みんな真の相談相手を求めている」は、不安な時代、仏教の反省、孤独な魂、の3編。
 「カウンセリングとは何か一口で言えない」は、むずかつし定義、グループカウンセリングと遊戯療法、の2編だ。

 50年も前の文章である。
 しかし、仏教の反省から、孤独な魂にかけては、当日の西光の深い内省と、あついあつい想いが伝わってきて、こちらも胸があつくあった。
 ここを読んだ時、触発されるように、自然とご自身のカウンセリングや仏教との出会いを、その最初から綿々とお話くださった。まるで西光先生に聴いてもらっているかのようであった。
 カウンセリングの手引きは、けっして難しいものはでないので、ぜひ、皆さんもあらためてお読みくだいさい。

 「孤独な魂」から、先生のあつい(熱いであり、篤いであり、厚い)想いを載せて、その一部を引用します。

「病める者も健やかな者も、おとなもこどもも、現代に生きるものはみんな真の相談相手を欲しています。早い話、もしも全身全霊をもってあなたの言うことに耳を傾け、共感し理解してくれ、しかもあなたを裏切ることは決してない、という人がいて、毎週一定の時間をあなたのために喜んで割いてくれるとしたなら、あなたは、その人に心の底をうちあけたいという気持が動きませんか。わたしは動くのです。わたしは真の聴き手を求めています。わたしの真の理解者を求めています。そしてその願いと同じだけの強さをもって、わたしは真の聴き手になりたい、ひとを真に理解する人間になりたいと願うのです。

 理想としては、御同行と呼び合う念仏者仲間の人間関係こそ、たがいにもっとも深いところで理解しあえる人間関係であるはずです。同朋集団こそ、たがいにありのままの自分であることに安んじきれる集団です。けれども、現実は、およそこの理想とは遠いようです。それがわたしには大問題なのです。どうしてそうなのだろう。どうすれば今までの同朋集団がもっと実質的な同朋集団になれるかということで頭がいっぱいです。

 念仏者こそ、惱める人の真の相談相手、人間の真の理解者であるべきだ、そうなりたいと願っているのに、そうなれない、もしくはそうなっていない自分が大問題です。

 こういう時点で、念仏者としてのわたしはカウンセリングとめぐりあいました。念仏が強い力となって、わたしにカウンセリングを吸収させてくれると同時に、カウンセリングがいま述べたような問題の具体的解決に大きな力となっています。わたしの中で次第に強く念仏とカウンセリングは、結合し融合してきているように感じます。
          『育ち合う人間関係』(西光義敞著・本願寺出版社より)

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『育ち合う人間関係』はしがき(2)

 さて、『育ち合う人間関係』~真宗とカウンセリングの出会いと交流~は、5章から成り立っている。

 A先生が、コンパクトに趣意をまとめておられる。お読み頂くとそれでいいのだが、そこを簡単に押さえておいた。

第1章「カウンセリングの手引き」

*西光師40歳の小冊子ながら初出版。『暮らしの中のカウンセリング』の原点。
*趣意-仏教を体現して生きるとはどういうことか。仏教本来の同朋精神を喪失し、無意識に 権威的、閉鎖的な態度が身についた仏教者が、カウンセリングに出会うことによって、仏教者(真宗者)の本来性を回復して、真の人間としての成長を遂げるプロセス。特に、仏教者に対して、真摯なカウンセリングの学びを促し、紹介するもの。
*執筆の背景-35歳-平安高校にカウンセリングルーム設立
 教師中心授業から生徒中心授業へ。
 36歳-「真宗カウンセリング研究会」創立

第2章「真宗カウンセリング」の成立

*西光師63歳-龍大教授時代の『援助的人間関係』に収録。2冊目の編著書
*趣意-人間疎外がすすむ現代にあって、「人間とは何か」という根本的な問いを提起し、それに応える二つアプローチ、一つは東洋思想を基盤として「真実に人間に成る道」を示した実践体系である仏道と、もう一つは西洋思想を基盤として「人間理解」を示した臨床的実践であるカウンセリング(心理療法)。この両者の出会いに焦点を当てて論考する。
*晩年には、「真宗カウンセリング」から、「DPA」へと展開する。

第3章「ビハーラ活動と真宗カウンセリング」

*西光師67歳-本願寺派『ビハーラ活動-仏教と医療と福祉のチームワーク』収録
*趣意-ビハーラとは、田宮仁氏が提唱した「仏教を背景として終末期医療施設」の呼称。
 ビハーラ活動者の立場や自覚について、その自覚的主体とてしの実践を「真宗カウンセリグ」 と位置づける。

第4章「真宗カウンセリングの人間観」

*西光師69歳-中西智海先生還暦記念論文集『仏教と人間』収録。翌年の3月で龍大退職
*趣旨-仏教カウンセラーの立場とその自覚について論じる。
 藤田清提唱の「仏教カウンセリング」について。

第5章「浄土真宗の聞法と法座に関する一考察」

*西光師73歳-水谷幸正先生古希記念論文集『仏教教化研究』収録。
*趣意-仏教(真宗)カウンセラーの人間観やその態度に着目し、その仏教(真宗)カウンセラーを生み出す伝統的な土壌について、さらに「真実に人間に成る道とは何か」「共に育ち合う人間関係」の本質ないし創造について論じる。

 そして、最後に本書の趣旨として、「一人の専門家を養成より、万人の胸に人間として育ち合う心を育てよう」と呼びかける。
見せかけを捨て、自己のありのままを極めて大切にする。
「いま、ここ」の気づきを鋭くし、実感に溢れてくるところを仮になづけて「真宗カウンセリング」と名づけている。
人に誇れるものではないが、決して崩れない仏法を根底に、相互により深い人間成長・自己実現にむけて、謙虚に話し合い、分かち合い、深めあおうと呼びかけている。
と結ばれていく。 

 まずは、1年半かけて、第1章の「カウンセリングの手引き」を読んでいきたい。これは、西光先生の原点ともいえるものだ。でも残念ながら、というより悲しいことに、参加者は少なく、しかも熱意のある方もない。さっそく6月の担当者を名乗り出るひとがなかった。
 興味のある方、ぜひ、一緒に学びましょう。

*次回は、6月15日(水)夜7時~9時
*会場は、龍谷大学深草学舎の第6共同研究室です。

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