カテゴリー「カウンセリング・DPA」の124件の記事

カウンセラーの態度

 それで、それに続いて、基本的仮説、そして態度について明瞭に言及されたあとに、カウンセリングの核心を平たい言葉で語っておられる。

 人間は、心を開いて接してくる人の前では安心感と信頼感を深め、自分はその人から、いま、ほんとうに大事にされ、温かく受け入れてもらっているなと感じ取ることができたら、そのとき、自分に対してすなおになり、自分を真底から大事にしようという気持ちがわきおこり、それとともに恵まれた命の限り、生き生きと生きようという意欲や力がうちからみなぎってくるものである。(P209)

 この人間をクライエントに置き換え、その人をカウンセラーと置き換えたならば、カウンセラーとしての私は、いま

(1)ありのままの自分であろうとしているか。
  自分と相手の存在そのものを無条件に尊重・尊敬できる心の状態になっているか。

(2)自分の内面に刻々沸き起こり、刻々動いている感情に気づき、受容できているか。

(3)相手の感情に流れ、気持ちの動きにぴったり寄り添い、耳を傾け、それをありのままに理解してしようとしているか。

(4)相手の感情と、自分の感情をまぜ合せてないでいられるか。
 つまり正しく傾聴できているか。

(5)理解できた「相手の感情・気持ち」を相手の感情にマッチした音調や語調で正確に相手に伝えているか。
 また、こちらの声が相手の人格の中枢にとどくような発声をしているか。

(6)いまクライエントにとって必要な、カウンセラー自身に関する情報を正しく伝えているか。
 例えば感情や立場の率直な表明をしているか。
 歪んだ感情をぶちまけたり、相手を脅したり、自己防衛的な言い訳をしたりしてはいないか。(P210)

 改めて援助的人間関係の上で、わが身を振りかえさせられた。単なる言葉面の理解ではなく、できているつもり、分かっているつもりでいるが、わか身の態度を振り返ると、ただ恥ずかしくなるお粗末な自分しかいない。特に、(5)の伝達の表現のきめ細かさ(これには実戦の場での指導を頂いた思いでもある)(6)の自己表明(アサーション)が自己一致の厳しさなどは、まだまだ未熟としかいいようがない。 わが態度を振り返る鏡の言葉として、定期的に頂いていきたい。さっそくPCの横に張り出した。

 同時に、ここまで大きなお育てを頂いてきことにも感謝である。

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『育ち合う人間関係』~カール・ロジャーズの功績

  『育ち合う人間関係』~真宗とカウンセリングの出会いと交流~も、第3章の「ビハーラ活動と真宗カウンセリング」に入った。

 今回は、ロジャーズのカウンセリングの核心について、8頁にコンパクトにまとめられた部分である。

 来談者中心と呼ばれるロジャーズのカウンセリングのエッセンスが、西光先生の暖かい言葉で、明瞭、かつ易しく語られていて、心が揺さぶられた。

 カール・ロジャーズの功績に始まり、その人間観、基本的仮説、そして態度について言及されている。

 まず、カウンセリングや心理療法に「静かなる革命」を起したというロジャーズの功績は、もし医療モデルでいうならば、専門的知識や経験をもった権威者、専門家が、一方的に診断し治療するという一般的な治療モデルから、非指示的とか、来談者(クライエント)中心というアプローチに、180度変革させたことにある。つまり、人間関係におけるパワーの変革である。「力のある権威者」から「無力な依存者」に上から下の治療する方法から、クライエント自身のうちに、問題解決力、成長力が祕められているのではないか。専門的、権威的な態度で、知性に訴える解決法や説明、説得、助言を行っても、クライエント自身の問題解決には役立たないことが多いという。

ある意味、衝撃的な内容である。なぜなら、現実には、相変わらず、より専門的で、権威的な態度で、知性に訴える解決法や説明、説得、助言を行うことこそが、援助的であると盲信されているのが現状だからだ。その態度以外で、人はよくならないと堅く信じられているといってもいい。
しかし、援助的な人間関係とは、クライエントをあるがままに尊重して、クライエントの問題解決力や成長力を信頼し、そういう潜在力がいきいきと発現されるような心理的な雰囲気を醸成することに意味がある。それが、カウンセラー中心のカウンセリングから、クライエント中心のカウンセリングの大転換なのである。

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「真宗カウンセリングの課題」

 さて、最後に、「真宗カウンセリングの課題」(P188~190)を読む。

◎「法」(Dharma)は、釈尊の悟りの智慧によって明かされた無上正覚の内容と悟りである。
 それは、悟りを実現させたダンナミックな真理そのもの。無分別智と存在の実相が一つになった不思議な境地。つまり仏教の根本=「法」「悟り」「智慧」である。
 ・仏教=法に基づき、法を中心として、法を悟って仏に成ることを目指す実践道。
 仏に成る=人間を超えて人間を貫く法に目覚め、真の人間に成る。
 ・従来、仏教は東洋固有のものであったから、今後、すべての仏道が、西洋で発達して きた心理療法に、大きな光をなげかけるであろう。

◎また、最近(昭和63年当時)には、西洋からの提言(トランス・パーソナル心理学)が注目されていた。
 つまり、ケン・ウィルバーの「永遠の心理学」=西欧心理学に東洋の「道」の考察にも広範な視野を与える意識モデル-「意識のスペクタル」である。
 意識の深層装から表層に向け、(1)心のレベル、(2)超個人的帯レベル、(3)実存的なレベル、(4)自我レベル、(5)影のレベルの5つのレベルと、それぞれの治療法を配置する。その例えがでるが、これは今は略しておく。

◎それによると、ロジャーズのカウンセリング=実存的レベルの心理学と位置づけられ
大乗仏教=二元論を超えた世界への霊的実践として、究極的に位置づける。(大乗仏教とはあまりには大きな枠ではあるが、、)

◎以上から、真宗カウンセリングの二つの課題が導き出される。
1、ロジャーズと大乗仏教や真宗との距離は何に由来し、何を意味するのか?

2、あらゆる二元論を超える大乗仏教の実践道は、現代及び将来において、具体的に いかなるものとして提示されるのか?

以上の課題に、理論的にも、実践的にも、明確な解答が引き出さた時、「真宗カウンセリング」は確固たる存在意義を獲得するだろう。

と結ばれている。

今から30年以上前の論文である。非常に慎重な態度で、「真宗カウンセリング」という用語を使われていた西光義敞先生が、満を持して初めて、「真宗カウンセリング」を題目にされたもので、その意味も再度読む返して感慨深かった。

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「真宗カウンセリング」の三つの特性

 真宗カウンセリングの月例会は、『育ち合う人間関係』から、今は、~「真宗カウンセリング」の成立~を読んでいる。

 その最後の第四章「真宗カウンセリングの客観的規定の最終回である。
                        
 前回の復習を兼ねて、「真宗カウンセリングの底」(P182~186)をおさらいすると、

◎主観内部の「真宗カウンセリング」から、客観的規定の最小限の三つの特性を挙げる。

◎まず「真宗カウンセリング」の第一特性は、
「真宗カウンセリング」は、カウンセラーが真宗の立場に立って行うカウンセリング。すなわち、真宗の教法に帰依する心を根底において行うカウンセリングである。

◎そして「真宗カウンセリング」の第二特性は、
「真宗カウンセリング」は、「法」(Dharma)を根底においた、あるいは「法」中心のカウンセリングである。
ということであった。

そこから、「真宗カウンセラーの態度」(P187~188)にはいる。

◎カウンセラーは、仏との関係で自己だけでなく、他己(クライエント)をも見る。
・真宗カウンセリングは、外見的、形態的には特別ではない。ただカウンセラーの態度=自己と他己を見る目が、「仏」の目を通すかで微妙な相違。(第三図・P185上段)
自己の内面の動きを仏の鏡を通して見、クライエントの告白を如来の大悲心をもって  聞く。それがクライエントに敏感に伝わることがある。
・カウンセラー・クライエント共に「法」を共有する時。(第四図・P185下段)

◎以上から「真宗カウンセリング」の第三特性が導かれる。
 「真宗カウンセリング」は、相対的な存在である自己と他己との関係、
 相対的な存在である自己および他己と、絶対的存在である仏との関係
 という二重関係からなるカウンセリングである。

 この関係こそが、真宗カウンセリングの大きな特性のひとつであるといっていい。(続く)

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真宗カウンセリングの客観的規定

 西光義敞先生の『育ち合う人間関係』の中で、「真宗カウンセリング」の成立を読んでいる。

その終盤に差しかかり、「四、真宗カウンセリングの客観的規定」である。これまで主観内部での真宗カウンセリングを、最小限の客観的規定をされる、大切な章である。担当者がいなかったので、ぼくがまた担当する。その要旨である。      

~真宗カウンセリングの底~(P182~186)

 主観内部の「真宗カウンセリング」から、客観的規定の最小限の三つの特性を挙げらる章である。

 その「真宗カウンセリング」の第一特性は、
 「真宗カウンセリング」は、カウンセラーが真宗の立場に立って行うカウンセリング。すなわち、真宗の教法に帰依する心を根底において行うカウンセリングである。

 次に「真宗カウンセリング」の第二特性は、
 「真宗カウンセリング」は、「法」(Dharma)を根底においた、あるいは「法」中心のカウンセリングである。

 この二つを押さえた上で、では、真宗における「法」とは何かが簡潔に述べられる。
 法中心のカウンセリングは「仏教カウンセリング」に通じる特性であり、それぞれの「法」のとらえ方で、特色ある仏教カウンセラーが誕生することになる。
 その中で、浄土真宗では、法はは「名号」、つまり「南無阿弥陀仏」という本願の名号である。その名号を聞き、疑心ないのが信心。摂取不捨の利益で、必ず涅槃の悟りを得る身となるのである。
 
 では、「法」に生きる真宗念仏者とはどんな存在か。(図1参照・P184上段)
 真宗念仏者とは、「本願を信じ、念仏を申せば、仏と成る」との他力真実の旨を信じ受ける身となるのであり、如来の願力、大悲に生きる身。すなわち、たとえ一人で居ても、「如来と共に生きる存在」「自己の実存の根底において自己を超越した仏に支えられた存在」「有限・相対の自己が無限・絶対なものと出会い、関わり生きる存在である。つまり、人格の内面に、自己(有限・相対)の次元、仏(無限・絶対)の次元を合せ持つ存在である。

 では、その真宗カウンセラーとクライエントの関係はどうなるのか。(図2参照・P184下段)
 まず、クライエントが、真宗の示す仏と無関係の意識状態の時の真宗カウンセリングでは、
 クライエントは、カウンセラーとの人間関係のみしか意識されないていない。
  しかし、カウンセラーは、人間関係の次元でクライエントと向かい合うと同時に、自己の内面において仏と関係を感じいる。その意味で、二重関係の中にいるといえるのである。
 
 そして、ここから「真宗カウンセリング」の第三特性が導かれる。(P188)
 つまり、「真宗カウンセリング」とは、相対的な存在である自己と他己との関係、相対的存在である自己および他己と絶対的である仏との関係、という二重関係にあるカウンセリングというのである。

 最後の詳細は、来月の月例会に持ち越し。10月17日(水)夜7~9時

 先月から、参加者の顔ぶれが代わって、雰囲気も一変。かなり緊張感もある、しんどい集いになっている。でもこれまでお聞かせいだいたことの凄さを教えられている。カウンセリングの世界においても、ほんとうにすばらしいよき師にに出会わせてもらったことを喜ぶばかり。

 

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講座「仏教カウンセリングを求めて」WS

 真宗カウンセリング研究会の主催で、奈倉道隆先生をお迎えしての、仏教カウンセリングのWS。

 真宗カウンセリング研究会だけなく、華光の法座や仏青の集い、仏教大学の講座などでも、チラシを配り、お誘いをした。その結果、真カ研の会員よりも、非会員の参加が多かった。華光の方も、仏青や子育て世代のママさんなど参加があり、加えて初めてお会いする方も4、5名あった。停滞気味の研究会では、久々に活気がうまれた。

 事前に打ち合わせを重ね、レジュメも、2校、3校正と重ねてきたので、講座だけでなく、模擬的なエンカウンター、そして最後に一対一のミニカンを行うという流れは聞いていた。

 「カウンセラーと仏教」「目覚めを賜わる仏教徒の談合と、エンカウンターグループの類似性」という講義のあと、3グループに分かれてのエンカウンターグループ。これがなかなか興味深かったが、20分ほどしかなく、これからという時に終わってしまい、もう少し深めたかったところだ。ただ、それまでの講義で聞いたことが改めて教えられた。仏教では、原因よりも、縁起、すなわち関係性を重視するということ。つまり、教える側も、教えられる側になる。つまり話し手が、次には聞き手になり、固定化された関係はない。にもかかわらず、無常とも、無我とも分からずに、物事に執着する、自我中心性こそが苦の根源。そして「調和」こそが苦からの解放へと誘うというのである。

Img_6880 模擬では、ファシリテーター(促進役、世話人)がおいたが、これは司会役ではない。もし発言が少ないと、一般の会議では、円滑の議事運営のために、司会役が発言者指名をするのが通常だが、そのやり方は、平等ではないという。エンカウンターグループを勧めるポイントは、まずはだれもが平等であること。つまり発言の優劣や重軽はなく、司会役にもそんな権限はない。そしてもうひつは、秘密保持すること。その上で、(限られた時間なので)ひとりが独占した時は、ファシリテーターが交通整理や確認をするという役割を担うというものだった。

 ああ、そうだった。どこかでうまい進行を目指しているような気持ちになっていた自分を反省。「何もしない」という大切な仕事があった。それにはメンパー(場)を信頼するという大きな役割があり、誰もが、平等に発言できるための態度で臨むことを再認識、「ハッ」と気付かされた。20分足らずの模擬実習だったが、原点に帰っていきける、とてもいいきっかけになった気がした。

 そのあとは、1)藤田清先生の「仏教カウンセリング」、2)森田正馬博士の森田療法、3)吉本伊信師の「内観」についてのお話を頂いた。これもそれぞれ教えられることは大。そして最後に、「本願念仏に導かれる傾聴」のワーク。お相手は、ベテランカウンセラーのS先生だったのも、ぼくにとってはよかった。母と同年齢ながら、たいへんなバイタリーである。またS先生自体も、仏教や真宗に関心を寄せられているのがよく分かり、有り難かった。

 ワーク終了後の懇親会も盛り上がり、二次会ではいろいろと懸念のあった関係の修復の機会もあって、有意義な集いとなった。ただ、時間が足りなかったことだけは、とても残念。もし次回があれば、朝からでも行ってもらいたいという声も多く、また実現したいものだ。合掌 

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「いただいたいのちを生きるために」~お寺と僧侶ができること~

 『選擇集』の講義を受けて、続いて仏教大学ビーハラ研究会に出席する。先月はアメリカ同人の来館で欠席したので、今回はぜひ出席したかった。奈倉道隆先生の仏教カウンセリングWSの案内があったからだ。

 今月のテーマにも関心はあった。「いただいたいのちを生きるために」~お寺と僧侶ができること~

  浄土真宗の僧侶の方が発表で、田舎の古民家を再生して、認知症のグループホームでの活動である。「むつみ庵」の名前をどこかで聞いたことがあると思っていたら、理事長は釋徹宗師。たいへん彼らしい活動で、感心させられたし、教えていただくことも多かった。「物語を読み解く、物語に乗り掛かる」とか、「多様な関係を造る」、そして「カイロス(クロノスという物理的な時間ではなく、主観的な時間)を延ばす」。近代的な自我とは、また異なる視点が散りばめられていた。マスコミに出る部分だけでなく、地道に僧侶としての彼がどんな活動をしているのかの一端に触れた気がした。

 私見だが、このような対人援助のケースの場合、ともすれば、援助者と非援助者の一対一の関わりのことに興味が持たれる。確かに、援助的な人間関係をいかに結ぶのか。その態度が問われているからだ。しかしそれだけならば、個人の態度や姿勢の問題、つまり個人の能力にすべて収斂されて終わってしまうことを危惧する。なぜなら、個々人の対応だけでは、限界があるからだ。援助者や職員といっても、同じ人間だ。決して、聖人でも人格者でもない。にもかかわらず過度な理想的な要求が、逆に現場を苦しめていくことになりかねない。入所者を護るように、そこにかかわる人達をいかに護っていくのか。その意味では、施設としての方針、哲学が問われていると、常々考えている。

 その点、トップである理事長の哲学、理念がハッキリしていることが、とてもすばらしく思った。見せていたいだ画像や動画からも、その仏教的な雰囲気に加えて、と宗教的スライドや、職員や援助者側の風通しがよく、護られてこそ、よい援助的な対人関係が結ばれるのだと思う。

 二重、三重の安心という意味では、真宗カウンセリングのグルーブも同じだ。一対一の関係の外に、組織として護りがある。そして、そのいちばん外側には、目には見えないが、阿弥陀さまの本願だと常々味わっている。そこに援助者やカウンセリングが触れているのか、どうかが重要になってくると思っているのだ。

 

 

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講座「仏教カウンセリングを求めて」の案内

講座「仏教カウンセリングを求めて」

■奈倉道隆先生をお迎えし、講座「仏教カウンセリングを求めて」と題したWSを企画しました。日本生まれで、独自の仏教とカウンセリグ・心理療法の統合を提唱された先哲(藤田清氏、森田療法、吉本内観法を基盤に、浄土門の実践的な仏教カウンセリングを探求します。参加者との対話、課題のロールプレイ実践も行います。初心の方も、奮ってご参加下さい。お待ちしております。終了後は会員・参加者の交流の場です。懇親会からの参加も歓迎します。合掌■

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□日 時: 6月30日(土)13時30分(13時受付)~17時

         (懇親会) 17時30分~20時頃終了

■場 所: 華光会館(075-691-5241)(近鉄十条駅徒歩1分)

   京都市南区西九条東柳ノ内町22(☎075-691-5241)

□参加費: (一般)3;000円 ・ (会員)2;000円

■懇親会: 近鉄十条駅前「來人(らいと)」(実費で4,500円程度)

□内 容: この講座では、まず先哲が開発されたカウンセリング的方法を学ぶ。『藤田清の龍樹の中観論(否定的啓発法)による目覚め』・『自身の乳児期から再出発し、あるがままを受容できる自己を再構築する森田療法』・『内観三法によって罪深く恵み多き自己に目覚める内観法』。これらを基盤として浄土門の仏教カウンセリングを探求する。
 相談では、来談者の問題解決を手伝うのでなく、問題の取り組み方を三法印に照らして改善し、三心の念仏の心【至誠心・深心・回向発願心】に依って自己改革が進むのを待つ(二種深信が中心)。如来から賜る慈悲により寄り添い傾聴するが、選択的に共感し、来談者が自灯明・法灯明で歩むのを見守る。
 参加者全員が3名の組を作り、与えられた課題でロールプレイを進める。組み合わせを変えて同じ課題でプレイする。多角的に自己を鍛錬してほしい。(奈倉)

■ご講師:奈倉道隆先生
 京都大学医学部卒。龍谷大学社会学部元教授。東海学園大学名誉教授(仏教概論・共生人間論担当)介護福祉士・老年科医師

□〆切日を過ぎましたが、まだ数名の参加が可能です。お早めにお申込み下さい。但し、懇親会は定員になり次第、締め切りますので、ご了解ください。)

■主 催:真宗カウンセリグ研究会

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「真宗カウンセリングの成立」~難しい~

 真宗カウンセリング研究会の月例会。「真宗カウンセリングの成立」を読んでいる。

 担当はTさん。ぼくやM先生以外は、まったく仏教にも真宗の門外漢の人たちだ。「真宗」や「聞法」という言葉すら、うまく読んでもらえない。

 ぼくが月例会を担当してから、30年近く立つ。当初は、西光義敞先生の「真宗カウンセリング」に関する研究や発表を聞くことを中心にした時期が長かった。そのうち、会員の発表の場となったが、参加者の中には、カウンセリングに関心はあっても、真宗には関心がないという人もあり、「真宗カウンセリング」に関しては、より深く、別組織の「DPA研究会」で研究されることになったので、当面は、カウンセリング、それもロジャーズのカウンセリングの基本を、その論文にあたりながら学ぶ場として続けてきた。
 それで、なかなか真宗カウンセリング研究会だが、「真宗カウンセリング」や「真宗」のことを話題にすることが少なくなったのである。

 それが、一昨年から西光先生の『育ち合う人間関係』(本願寺出版社)を輪読している。第二章の「真宗カウンセリングの成立」を読むと、真宗の用語や教義の話題がさけて通れなくなっている。

 いまは、「真宗カウンセリングの性格」の章。その性格を整理しなおされているのだが、その仏教や真宗用語のひとつひとつの言葉にひっかかりが出てくる。例えば、9つあるうちの8番目は次のような文章である。

真宗も人間が真の人間となる道として、独自の人間観と方法論をもっている。それは、六字の名号「南無阿弥陀仏」に集約される教法として与えられている。したがって、真宗の立場はその教法、名号法を聞く「聞法」生命としている。教法、すなわち言葉をはなれた修行によって、仏教本来の目的を達しようとする「不立文字」の「禅」とは、根本的に立場を異にする。したがって「聞法の座」すなわち「法座」を時代にマッチした新しい形で創造していこくとは、「真宗カウンセリング」の現代的使命である。

 ただでさえ難しいのに、「教法」「名号法」「聞法」「法座」などの言葉から、相手の理解にあわせて説明が必要となってくる。ましてや、なぜ真宗も「人間が真の人間」となる道なのか。「仏教本来の目的を達する」とはいかなるものか。そして、なぜ、本来称えるものである「南無阿弥陀仏」が、教法として与えられるのか。もちろんそれだからこそ、「聞法」が生命となってくるのだが、では真宗での「聞」とは何か。

 結局のところ、自分自身の理解が問われてくるかのような集りとなった。ほんとうは、単なる知識で終わっても何も分からないのだが、まず輪読であるのだから、理解していただくことから始める必要があるようだ。いや、難しかった。

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真宗カウンセリング研究会総会~愚痴~

華光も高齢化が進んできたが、もっと厳しく、深刻なのが「真宗カウンセリング研究会」の高齢化である。

特に今年の総会は困った。一人を除くと、70代、80代の方ばかりで、PCで行う事務作業ができない方し、月例会の輪読も担当も、代表を含めて「パス」という方ばかり。もっとも母と同じ年の方に、雑用をお願いするわけにもいかない。夜の会合に出席いただくだけでも有難い。

結局、あれも、これも、それも、すべての仕事がぼくのところに回ってくる。事務局長で事務のまとめと、月例会の担当、年1度の会員向けのWSと、真宗カウンセリグWSの世話人を勤めていた。それが、会計担当者が仕事を途中で放り出し、会員管理者がいなくなり、パンフレットの経費削減で担当もし、そのうえ代表代理もあって、仕事が集中してしまっている。

ますます先細りは必死なのに、元気のない消極的な発言が続いては、ぼくも不満を述べることになってしまった。

といっても、新しい方の参加があるので、その方を巻き込んでなんとか進めていきたいとは思う。が、金銭トラブル、世話人間の行き違い、そして新しい会員を巻き込む話し合いまで、すべて白紙一任ではテンションは下がり放しだ。

まあ、こんなところに愚痴を書いても仕方がないが、今日はご容赦くださいませ。

もっとも、一般論でも言えることだが、組織の有りようとして、何故こんなことになったのかの原因も、はっきりしている。仕事が一人に集中していることだけが、不満ではないのだ。いまなら改善の余地が十分あるのが救い。

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