カテゴリー「カウンセリング・DPA」の116件の記事

「真宗カウンセリングの成立」~難しい~

 真宗カウンセリング研究会の月例会。「真宗カウンセリングの成立」を読んでいる。

 担当はTさん。ぼくやM先生以外は、まったく仏教にも真宗の門外漢の人たちだ。「真宗」や「聞法」という言葉すら、うまく読んでもらえない。

 ぼくが月例会を担当してから、30年近く立つ。当初は、西光義敞先生の「真宗カウンセリング」に関する研究や発表を聞くことを中心にした時期が長かった。そのうち、会員の発表の場となったが、参加者の中には、カウンセリングに関心はあっても、真宗には関心がないという人もあり、「真宗カウンセリング」に関しては、より深く、別組織の「DPA研究会」で研究されることになったので、当面は、カウンセリング、それもロジャーズのカウンセリングの基本を、その論文にあたりながら学ぶ場として続けてきた。
 それで、なかなか真宗カウンセリング研究会だが、「真宗カウンセリング」や「真宗」のことを話題にすることが少なくなったのである。

 それが、一昨年から西光先生の『育ち合う人間関係』(本願寺出版社)を輪読している。第二章の「真宗カウンセリングの成立」を読むと、真宗の用語や教義の話題がさけて通れなくなっている。

 いまは、「真宗カウンセリングの性格」の章。その性格を整理しなおされているのだが、その仏教や真宗用語のひとつひとつの言葉にひっかかりが出てくる。例えば、9つあるうちの8番目は次のような文章である。

真宗も人間が真の人間となる道として、独自の人間観と方法論をもっている。それは、六字の名号「南無阿弥陀仏」に集約される教法として与えられている。したがって、真宗の立場はその教法、名号法を聞く「聞法」生命としている。教法、すなわち言葉をはなれた修行によって、仏教本来の目的を達しようとする「不立文字」の「禅」とは、根本的に立場を異にする。したがって「聞法の座」すなわち「法座」を時代にマッチした新しい形で創造していこくとは、「真宗カウンセリング」の現代的使命である。

 ただでさえ難しいのに、「教法」「名号法」「聞法」「法座」などの言葉から、相手の理解にあわせて説明が必要となってくる。ましてや、なぜ真宗も「人間が真の人間」となる道なのか。「仏教本来の目的を達する」とはいかなるものか。そして、なぜ、本来称えるものである「南無阿弥陀仏」が、教法として与えられるのか。もちろんそれだからこそ、「聞法」が生命となってくるのだが、では真宗での「聞」とは何か。

 結局のところ、自分自身の理解が問われてくるかのような集りとなった。ほんとうは、単なる知識で終わっても何も分からないのだが、まず輪読であるのだから、理解していただくことから始める必要があるようだ。いや、難しかった。

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真宗カウンセリング研究会総会~愚痴~

華光も高齢化が進んできたが、もっと厳しく、深刻なのが「真宗カウンセリング研究会」の高齢化である。

特に今年の総会は困った。一人を除くと、70代、80代の方ばかりで、PCで行う事務作業ができない方し、月例会の輪読も担当も、代表を含めて「パス」という方ばかり。もっとも母と同じ年の方に、雑用をお願いするわけにもいかない。夜の会合に出席いただくだけでも有難い。

結局、あれも、これも、それも、すべての仕事がぼくのところに回ってくる。事務局長で事務のまとめと、月例会の担当、年1度の会員向けのWSと、真宗カウンセリグWSの世話人を勤めていた。それが、会計担当者が仕事を途中で放り出し、会員管理者がいなくなり、パンフレットの経費削減で担当もし、そのうえ代表代理もあって、仕事が集中してしまっている。

ますます先細りは必死なのに、元気のない消極的な発言が続いては、ぼくも不満を述べることになってしまった。

といっても、新しい方の参加があるので、その方を巻き込んでなんとか進めていきたいとは思う。が、金銭トラブル、世話人間の行き違い、そして新しい会員を巻き込む話し合いまで、すべて白紙一任ではテンションは下がり放しだ。

まあ、こんなところに愚痴を書いても仕方がないが、今日はご容赦くださいませ。

もっとも、一般論でも言えることだが、組織の有りようとして、何故こんなことになったのかの原因も、はっきりしている。仕事が一人に集中していることだけが、不満ではないのだ。いまなら改善の余地が十分あるのが救い。

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内観を深めるシンギングボール

  今日は連続して講義を受ける。

90分間の『選擇集』講義後、休憩なしで、 別会場の120分の講座。こちらは、「仏教カウンセリングとビハーラ実践」。一方的な講義ではなく、車座での実践や発言もあるので、気分は違う。

「内観を深めるシンギングボール」と題して、45分程度の瞑想の実践があった。

 実は、シンギングボールとは初めて聞く名なので、質問して教えもらったら、チベット仏教でも使われる楽器だということだ。中には、「ネパールで求めました」という方もあった。ぼくも、ネパールは2度訪れ、そこでチベット寺院でも食事(まったく口にあわなかった)をしたことがあるのに、まったく覚えがない。興味、関心がないということは、こういうことである。

 ちょうど沙羅(さわり)のような打物だが、7つのチャクラに合わせて、7つの金属で出来ているそうだ。大小によって音の高さや響きが異なり、自分の共鳴する音を見つけることがたいせつだという。外側のフチをバチでやさしく撫ぜるように回して鳴らしていくのだが、一定の音を保つのは少し難しいようだ。

 瞑想は、大河を常にイメージし、雑念や種々の感情が湧いてきたなら、それを河に流していくのだという。不思議と、45分間、リラックしていて、あまり雑念も分かず、気持ちよく終わった。音に合わせて体が揺れるのが面白かった。

 以上。

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充実した月例会

 今月の月例会には、東海大学名誉教授で、老年科医師でもある奈倉先生がゲストとして参加してくださった。

 仏教大学の四条センターでの「ビハーラ実践と仏教カウンセリング」を受講したことから、先生とのご縁が生まれ、お誘いしたら、快くご出席下さったのだ。その顛末は、ここでも触れている。

 ご自身の歩みとして、京大病院で老年科を立ち上げられたころのエピソード。大学病院の医師でありながら、カウンセラーとしての学びを志された経緯、さらに浄土宗の僧侶としての僧籍をとられた時の気持ち、そして、お念仏との出会いは、先生の回心体験は、たいへんありがたく深い内容で、正直驚いた。

 しかも一方的にお話されるのではなく、皆さんの声を聞きながら、その時の適切な話題を提供されるスタイルで、介護と看護の違い、そこで援助的人間関係を結びとはどういことか。いかに適切な環境作りをするかなど興味深い話が続いた。

 大半の方は、先生とは初対面だったが、皆さんとても喜ばれていた。刺激を受け、興奮気味の様子だった。ここは研究会といっても、単なる知的学習に止まらず、温かい雰囲気の中で、次々と皆さんの声が続いていい集まりとなった。

 その勢いで、来年度の真宗カウンセリング研究会の半日ワークショップ(講演会)の講師をお願いした。週末(たぶんぼくの都合で土曜日になるだろう)に、日程調整をして、ぜひとも実現したい。

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真宗とカウンセリングの「出会い」

   先月から、「真宗カウンセリング成立」の章に入った。

 今回は、真宗とカウンセリングの「出会い」における三つの立場の考察する章である。

   まず第一は、「真宗とカウンセリング」との関係を問う立場である。  これには、(a)客観的考察と(b)主体的考察がある。

(a)客観的考察とは、
それぞれの歴史、哲学(人間観)、実践目標、実践方法等の比較を行い、
両者の類似点、共通点、相違点などを明かにして、
両者の交流・統合・協力を道を探ろうとするもの。

(b)主体的考察とは、
真宗とカウンセリングの双方に多少とも体験的理解をもつか、主体的関心をいだく者が、自己の内面において両者がどのように関わっているのかを問う立場。

  次に第二は、「真宗的カウンセリング」を想定する立場がある。
この中心は真宗よりカウンセリングだが、カウンセラーの基本的立場は真宗にある。
つまり、「真宗の立場に立つカウンセリング」。もしくは「真宗者によるカウンセリング」といっていい。

   ところで、カウンセリングのさまざまな種類は、二つの基準で分類できる。
(a9)クライエントの問題領域、もしくはカウンセラーの活動分野にしたがった分類。
ex「産業カウンセリング」「家族カウンセリング」「学校カウンセリング」など。

(b)カウンセリング(心理療法)をささえる理論の相違による分類。
ex「精神分析療法」「来談者中心カウンセリング」「行動療法」「ゲシュタルト療法」 「交流分析」「ロゴセラピー」など。

 当然、「真宗カウンセリング」の独自性は、第一義的に(b)の立場である。
・ここでの「真宗」とは、常識的に理解される特定の宗派(セクト)を指すのではなくて、人間と人間の変革に関する基本的な理論を示す用語である。
⇒クライエントが僧侶や信者であるとか、カウンセリングを特定の布教・伝道活動に限定す るような制約はない。
・カウンセラーが、「真宗」という語で示される人間観や人間変革の原理に究極的基盤をおいてカウンセリングを行うことを指す。

 また、この(2)には、A型、B型と、さらにA型からB型に移行するC型の三種類がある。

 (2)のA型とは、「真宗者であるカウンセラーと、非真宗者であるクライエント」とのカウンセリング。
  (2)のB型とは、「真宗者であるカウンセラーと、真宗者であるクライエント」とのカウンセリングである。

 真宗カウンセリングといっても、そのほとんどは、A型であって、外見上は、一般のカウンセリングとはほとんど変わらない。ただ、カウンセラーの対人的態度を支える人間学的基盤に、真宗による自己観や人間観、もしくは自己理解や人間理解があるというところにだけ特色があるというのである。

 そこを踏まえて、B型では、「カウンセラー、クライエント共に真宗者」であって、共にみ教えを聞くという関係でのカウンセリングと言える。
この場合、「法」を中心にしているという意味で「真宗」カウンセリングであり、「いま、ここ」の交流関係を重んじるという意味で、真宗「カウンセリング」でというのてある。

 そして、その中間に、ごく普通にA型の真宗カウンセリングが進行していくうちに、カウンセラーの醸し出す雰囲気など縁として、クライエント側に聞法に対する関心や要求が起こった時、B型の「真宗カウンセリング」へと移行していくケースが考えられる。

 ところで、今月の担当者がカウンセリングを学ぶプロセスで、あるグループでの西光先生の態度に、真宗カウンセリングの真髄をかいま見たという例えに、ぼくは心捉えられた。何でも、複雑な夫婦の関係、問題を話されていたのを聞かれた先生は、ただ傾聴されて、 声にならないような深いため息で応えられたという。そして、「夫婦の問題はほんとうに複雑ですね」と一言つぶやかれただけなのに、その場面が動いたというのである。ただ表面だけの言葉のやりとりではない、深い共感の奥に、カウンセラー自身が、何か(深く弥陀の本願)に支えられているという、そんな真宗カウンセラーと出会いの体験談を、尊く聞かせてもらった。

 

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真宗カウンセリング成立(1)

 輪読法座が終え、すぐにレジャメを仕上げ龍谷大学の深草学舎に向かう。

 真宗カウンセリング研究会の月例会は、西光義敞著『育ち合う人間関係』を輪読中。9月で、第1章の「カウンセリングの手引き」が終わり、今月から「真宗カウンセリングの成立」に入った。各章は、それぞれ独立した冊子や論文である。かなり浄土真宗色が色濃く、仏教用語も出てくる。テーマが代わったこともあり、ぼくが担当した。一読しても分かった気がするが、レジュメにまとめ発表するとなると、何度も読み込まなければならない。けっして難解な論文ではない。しかし、これまでに使用例のない「真宗カウンセリング」の表現を使い、その成立の可能性を問う論文なので、ひとつひとつの言葉をいろいろな角度から検討されているので、混乱する箇所もある。それだけしっかり読まないと意味がない気がする。担当したおかげてあらためて学んだこともあった。ぼくにとっては、とてもタイムリーな論文なので、もし担当者が名乗り出ない時は、担当を続けてもいい。自分の勉強になるからだ。

 以下は、今回、読んだところの要旨。

一、仏教とカウンセリングの出会い
◎根本的な”問い”

 仏教=東洋、人間に関心を向け、「人間とは何か」を実践的に追求。仏教学は、人間学。人間が真に人間になる道を示す実践の体系。
 カウンセリング=西洋、人間に関心を向け、人間に関わる臨床対応。西洋を基盤に、人間理解をめぐる宗教・哲学・科学との長い豊かな歴史で育つ。
 つまり両者は、現代の精神状況の中で「人間とは何か」の根本的に問いに、具体的、実践的レベルで直接的にこたえることのできる有力な道だといえる。
 そして、両者(東洋の諸宗教(道)と、西洋の心理学・心理療法)の出会いは急速に進んでいる。しかしながら、欧米の心理学者からのアプローチが中心で、日本側からは乏しい状況だ。

◎浄土仏教と心理学・心理療法

 さらに、日本の仏教側からとなると、さらに不十分。
 中でも、浄土教と心理療法との関係になると、皆無に等しい。

二、真宗カウンセリング成立の可能性
◎「真宗カウンセリング」という言葉

 そんな中で、仏教・真宗とカウンセリングや心理療法の実践的な出会いから、新しい「人間援助の道」もしくは「援助的人間関係の実践体系」か創造できないか。それをかりに「真宗カウンセリング」と名付け、その成立の可能性を探るのが、本稿の趣旨である。

 まず、先行する研究としては、藤田清氏の「仏教カウンセリング」があげれらる。
 藤田氏は、仏教は本来カウンセリング体系である。指示的でも非指示的でも、折衷でもない、縁起的中道的態度をとり、「相談仏教」と名付けて、カウンセリング界を批判した。しかし、十分な検討も評価もされていない。それでも先駆的な問題提起を敬意を払いたい。

 それに対して、「真宗カウンセリング」は、1961(昭和36)年「真宗カウンセリング研究会」創立に始まる。もともとは、「真宗者の行うカウンセリング研究の会」であったが、「真宗カウンセリングを研究する会」と理解されて、継続されてきた。それでは、「真宗」と「カウンセリング」の出会い、関係を理論的・実践的にどう捉えるのか。 

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「いま、ここ限定法」

 9月の真宗カウンセリング研究会。月例会は月1回、水曜日の夜に、龍谷大学の深草学舎で開かれている。今回は、新会員が担当くださる。参加者が少なかったことが幸いして、まるでエンカウンターグループの様相となって、皆さん、自分を開いた表明が続く。受容的な雰囲気が支配していたので、自分のところを構えず、自然に話すことができた。ベテランカウンセラーが涙を流しながら、いまの自分を語ってくださったのが印象的。

 そういう雰囲気になったのも、今回輪読した「育ち合う人間関係」の内容が果たした役割も大きい。

 内容を要約するとだいたいこうだ。

 グループに参加する時、自己の内面で、「いま、ここ」の人間関係と経験過程そのものだけを重視しようはと、意識的に制限を設けて、たえずそれを護るようにすると、「いま、わたしこのように感じている」「いま、あなたはこう考えているのですね」と、かんじんの「自分」を置き忘れこともなく、話題が外側に限りなく広がるのでもなく、ひとのことばかりあげつらったり、非生産的な抽象議論に流れることなどが防げて、常に、「いま、ここ」の自分や関係に帰っていけるというのである。そうなると経験と意識とが一致し、それに応じて造られる人間関係が次第についわりのないもの、真実のもになっていくにちがいない。

 そしてその修練を積むことで、日常生活の人間関係が、カウンセリングの学びの場となり、またカウンセリングの経験で身につけた態度が生きてくる。つまりは、いま、ここの経験事実に徹底的に忠実になろうとするとき、「一期一会」という真宗的な生き方をほんとうにしているのか、いつわりのない自己凝視や謙虚な聞法態度が一貫しているのかが、常に厳しく問われてくるようになる。カウンセリングと浄土真宗との関係が、生活的にも体験的にも一枚になるととこがあると、述べられていた。

 未熟ではあるが、僕自身もそのような「いま、ここ」の態度で臨むようにお育ていただいていることをしみじみと味わう。しかもここに、カウンセリングと浄土真宗が、、また私の生活との共通の土壌があるといっていいのだろう。

 次回(10月)からは、いよいよ「真宗カウンセリング」成立の章に入っていく。

 

 

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ビハーラ実践と仏教カウンセリング~「法然上人の一百四十五ケ条問答」に学ぶ~

 『選択集』購読に引き続き、休憩なしで、今度は2時間のカウンセリングの実践を受講する。

 1、2回目の講義を知らず欠席したのが惜しまれる。今回はその4回目。~「法然上人の一百四十五ケ条問答」に学ぶ~と題しているが、ほぼ講義はない。簡単な説明のあと、法然上人が受けれた3つの問いを、現代風にアレンジして、パネラーが自分の立場で答えを表明し、参加者もそこに加わって議論を深めていくというのである。予め決められた問いと、立場のことなる3つ答えが用意されているが、それを聞いた上で、参加者がパネラーになってディスカションをし、より深く、また多角的に問題を掘り下げていくというのである。

 参加者は少なめで、皆さん遠慮がちだったので、積極的にパネラーになって前に出た発言した。議論していく内に、どんどん深まって、要は、現代に生きる僧とは何か。何もって宗教活動をするのかという本質的な姿勢が浮き彫りになてきた。ぼくも、浄土真宗という立場を表明しつつ、かなりつっこんでことを遠慮なく発言されていただいた。またそのことで、質問が出たり、反論がでて、それを深めていった。

 とにかく面白かった。座学ではなく、ロールプレイの実践は、かかわりによって深い学びを生み出す。僧侶や大学教授の地位のある方は、一方的に知識を教えたがるものだ。それだけの経験や学びあると、確かに豊かな話題を聞かせていただくので、それもまた有り難いし、勉強になる。でも、いちばん、力がいるのは、参加者も交えた実践にある。一見、先生が手抜きというか、楽そうに見える。でも、実は、講義や法話は、こちらが用意をして一方的に話せばいいので、ある意味では楽だ。逆に、共に生み出していく歩みは、そこで何がでるか分からないので、常に真剣勝負にさらされる。ましてや、みんながイキイキした集いを造るのには、すごく力用がいる。先生が何もしていないように見えて、深まっていくグループほど、実はそれだけの促進者の器量や経験が必要なのだ。

 講師の奈倉先生の受容的な姿勢に学ばせていただくこと大である。終了後、いろいろとお話をさせていただいたが、大学の前に住んでおられたので、ぜひ真宗カウンセング研究会でも、ご指導いただきたいと願った次第である。

 来月からは、別講師の「真宗カウンセリング」の実践が始まる。こちらも楽しみである。

 

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第10回 広島「真宗カウンセリングWS」

   8月末のことだが、感想文を書いたので、ここにも一部アップする。なかなかすぐにブログが書けないのが、最近の悩みだ。

 第10回を迎えた広島真宗カウンセリングWS。広島の真宗カウンセリング学習会も15周年の節目だったそうだ。種まきをされたS先生が最後まで心を砕かれ、バトンを受け継がれたM先生が育てられた真宗カウンセリングが、今、広島の地に息づいていることが力強く思えた。そこに、小生も参画させていただけていることも、とても有り難く感謝している。

 真宗カウンセリングの学びは、単なる知的学習(研究)だけではない。体験として研修し、さらに各人の実践(お寺や地域の活動、家庭問題)がなされ、その課題が再びた研修で語られ、共有されることで深められていくプロセスである。その意味では、頭の理解に、体験的な学びが加わり、それが身のレベルにまで深められて、生き方にも影響を及ぼしていくのであるから、表層的な薄っぺらいものでは決してない。

 広島では、その学びが僧侶中心ではなく、一般方や主婦も加わり、僧俗一体となって進んでいることに深く感銘を受けた。ともすれば、リーダー役の講師や僧侶・住職の存在が目立って、他のメンバーは追従することが多いのではないか。しかしそれでは、真の御同行・御同朋の体現をめざす真宗カウンセリングの精神とはかけ離れ、深まりや拡がりのないままで終わってしまう。ワークショップの休憩時間のことだったが、広島のメンバーが、次回の例会の相談されおられた。それが、僧俗・男女・老若の別なく、誰もが対等に意見交換されていた。その繰り広げられている風景だけでも、真宗カウンセリングがこの地に根付いていることを実感させられたのである。

 それにしても今回のワークショップの内容は、10周年に相応しいものとなった。今回は、前年の参加者が全員(9名に世話人2名の11名)が、遠近各地より再び揃ったこと。これはたいへん稀なことである。そこにこれまでの参加者やカウンセリング経験の豊かな初参加者が加わって、さらに厚みを増したワークあった。顔ぶりをみて、より深みのあるグループになればと願っていたが、それぞれが他のメンバーとの関わりややりとりを通じて、自分の問題と向き合い、その気づきを表明し、またそれが次のテーマを生み出していき、グループ全体も深まっていくという、たいへん有機的なつながりのあったワークになったのではないだろうか。

 ほんとうはひとりひとりの出会いのところにも触れていきたいのだが、いま割愛をさせていただく。

 ぼくのところではずっとこころに残っていたテーマがあった。ひとつは「本願とは何か」。自分のところ、つまりより自分の体験過程に引き寄せたところで、ほんとうにびったりする一言はないかを、探す3日間だったような気がする。

 そしてもうひとつは、「もし念仏のみまことならば、カウンセリングは方便なのか」という問いである。そのこともいろいろと味わった。

 結論からいうと、ある意味ではそうだあるし、ある意味では絶対に違う。そして、ぼくの中(あくまでも主観的、主体的な出会いではあるが)では、念仏もカウンセリングも分かち合うことはできず、両者は出会い、そして統合されているといっていい。その意味では、この問いは意味をなさなくなっている。これがカウンセリングで、ここからが真宗という境がなくなっているからである。

 そのあたりはもっとじっくりと皆さんと分かち合い、語り合いたかったが、まったく時間がなくて残念だった。

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カウンセリグを学ぶ浄土真宗

 来週は、広島真宗カウンセリグWSである。

 今回は定員になっている。広島だけでなく、東京、奈良、福岡、大分からの参加者もある。ほとんどがリピーターで、10回連続の方もある。僧侶の方も半数あれば、華光同人も半数ぐらいおられる。皆さん、経験豊かな方ばかりで、ずいぶん楽しみである。

 ところで、真宗カウンセリグWSは、真宗カウンセリグ研究会の主催であるが、広島の真宗カウンセリグの学習会である、みみずくの会との共催である。そのみみずくの会の紹介記事が、中国新聞の宗教欄(洗心)に掲載された。PDFで送ってくださったので、皆様にもおすそ分け。

 登場している3名の方が今回もお世話くださる方々。それにしても好意的な文章である。

「DOC170821-20170821122505.pdf」

(回転させて読んでね)

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