8月の広島真宗カウンセリングWSから派生したZOOMワークショップの2回目。
ミニカウンセリングの逐語録作製をめぐって、ぼくがカウンセリングに取り組むようなったきっかけを話せさてもらった。
ぼくのカウンセリングの学びは、真宗カウンセリング研究会での先生方の導きが基盤であり、ほぼすべてだ。でもそれだけではない。同じ人間性心理学関連のグループやWS経験を通じて、有名無名の先達や先生方に出会い、ずいぶんご指導頂いた。それは単なる知識や技術を学ぶこと以上の意味があった。書物や講義だけでは得られない貴重な人生の体験である。特に、聞くということは、援助関係における対人的態度、姿勢として現われてくるものだ。つまり聞く態度に触れるとは、その方のカウンセリング観や人間観、人間性から滲み出る態度や姿勢に触れることになるのだ。そして、今から振り返っると、若いときから大きな財産になる出会いをさせてもらってきたのだ。
中でも、大段智亮先生との出会いは、その後のぼく自身のカウンセリングの歩みに指針となるものであった。
カウンセリングを学びだして数年たっていた。大学院の終わり頃、短大生や大学生に混じって開設された龍谷カウンセリング課程を受講した。受講に際してのいきさつもまた不思議なのだが、今は触れない。
カウンセラーの聴き方の訓練としてのロールプレーニングを担当されていたのが大段先生だった。興正会館での3泊4日間の合宿だったと思う。
真カ研の仲間も複数参加し、聴き方の怖さをしっておられた先生は、未熟な我々に、ロール(役割、演技)での聴き方の訓練を勧めれた。それに対して、自分たちが学んでいたミニ・カウンセリングの手法を提案したのだ。しっかり理由をあげ、難色を示された先生だたが、生意気にも反論してミニカングループを作ったのだ。なまじっかの学びだけでうぬぼれ、カウンセリング、対人関係の恐ろしさなど何も知らなかったのである。
合宿はとにかく楽しかった。若いものが集まって、中には遊ぶ半分のものもいて夜の懇親会も盛り上がった。そんな中で、ケース検討の時の先生の態度は、鬼気せまる厳しさだった。ご病気のために、余命がないことをわかっておられたのであろう。酸素ボンベを持参し、看護師さんの介助を受けながら、未熟な学生にも、遊び半分のものにも、真摯に向き合ってくださった。指摘も容赦はなかく、泣きだすものもあったが、聴くことの厳しさ、援助的関係の真摯をお伝えくださった。
僕自身に、なにか指導があったわけではなかったが、最後のワークを終え、全体の分かち合いで、みんなが感想を述べ、先生がコメントされているそのやりとり聞く内に、その真摯な態度に、自分のうぬぼれ、未熟さをいやというほど知らされた。穴があれば入りたいと、そんな心境だった。
みんなが帰っていく中で、先生の前で号泣し懺悔した。とにかく恥ずかしかった。分かりもしないのに、分かったとうぬぼれ、いかに未熟で、聴くことが恐ろしことかということをからだで知らされたようだった。先生は黙って聞いてくださり、最後までお付き合ってくだった。もう部屋には、他にだれもいなくなっていた。温かいまなざしを向けてくださっていたが、言葉はなかった。
しかし先生との出会いは、これが今生での最初で最後、まさに一期一会だ。まもなく先生は帰らぬ人となられたのである。たぶんWSに出れるような体調ではなかったのだろう。しかも、未熟で経験もない学生相手のWSなのに、命をかけて伝えようとされたのだ。
その後、カウンセリングの学ぶことを止めようかと思ったことや挫折しかけたこともある。しかし、あの時の大段先生の真摯な態度に出会ったことが、どんな時でもカウンセリングの学び続けていく原動力となったのである。もしカウンセリング的な廻心があるとしたらば、その瞬間だったと思っている。