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~日程変更(7月18日)~講座「仏教カウンセリングを求めて」(3)案内

~日程変更版(6月から7月18日へ)~

講座「仏教カウンセリングを求めて」(3)~仏教カウンセリグから見た生・老・病・死~

 一昨年、昨年と大好評だった、講座「仏教カウンセリングを求めて」を、今年も、奈倉道隆先生をご講師に企画しました。これまでは、日本生まれで、独自の仏教とカウンセリグ・心理療法の統合を提唱された先哲(藤田清氏、森田療法、吉本内観法)を基盤に、浄土門の実践的な仏教カウンセリングを、参加者との対話や実践を通して学んでまいりました。

 今回は、まとめの意味を込めて、仏教カウンセリグのもつ実践性を、より具体的に深めてまいりたいと考えております。それで、「仏教カウンセリグから見た生・老・病・死」と題し、聞き手に西光義秀師を迎えて、老年科の医師であり、介護福祉士であり、また念仏者であられる奈倉先生との対談形式を予定しました。問題提起をもとに、参加者との対話やグループでの分かち合いなども通して、仏教カウンセリグ、又は真宗カウンセリグの実践的課題や、その可能性について考えてまいります。

 なお、懇親会は中止いたします。今回が初めての方も、奮ってご参加下さい。お待ちしております。合掌;

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日 時:2年7月18日(土)13時30分(13時受付)~17時

場 所:華光会館(075-691-5241)(近鉄十条駅徒歩1分)

京都市南区西九条東柳ノ内町22(?075-691-5241)

参加費:(一般)3,000円・(会員)2,000円

テーマ:~仏教カウンセリグから見た生・老・病・死~

ご講師:奈倉道隆先生 京都大学医学部卒。龍谷大学社会学部元教授。東海学園大学名誉教授(仏教概論・共生人間論担当)介護福祉士・老年科医師
    西光義秀先生(本会会員。浄土真宗本願寺派萬行寺住職)
コーディネーター 増井 信(本会会長)

〆 切:密を避けるため、20名定員になり次第〆切
    7月11日(土)までに華光会館内、増井 信まで

申込先:Eメール(mhg03073@nifty.com)、Fax(075-661-6398番)、又はハガキに、(1)氏名(2)連絡先(電話、メール)(3)会員の有無

主 催:真宗カウンセリグ研究会
〒601-8433 京都市南区西九条東柳ノ内町22華光会館内
 075-691-5241

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真カ研~月例会~リアルとZoomとのハイブレッド

   輪読法座に引き続いて、真宗カウンセリング研究会の月例会も開催。いつもの会場の龍谷大学が閉鎖中で、華光会館が会場。

   今回は、試験的にリアルな月例会と、リモートでの参加者での共同開催を行う。幸い、昨年の工事の時に事務所を教室に引っ越して、2階にもネット環境が整っていた。ノートパソコンからプロジェクターでのスクリーンに大写しにして、音声はスピーカーから、zoom参加者の樣子はよく分かった。ただリアルが複数の場合、こちら側の音声が聞き取りづらいという問題が発覚。それでも初めてにしてはよかったのではないか。

  参加者6名に、Zoomが7名、85歳の奈倉先生もわざわざ来館。発表のSさんも頑張ってくださった。また京都での学生時代、常連だった皆さんが、久しぶりに月例会に集いたいせつな指摘をくださり有り難かった。これはコロナの効果である。

 内容は「親鸞とロジャーズ」の項目。ある意味では、真宗とカウンセリングではなく、凡夫が弥陀の本願にめざめる道を身をもって明示された親鸞様と、クライエント中心セラピーを提示されたロジャーズさんとの両者の人間観についての比較である。まずは、親鸞様の人間観、そしてロジャーズさんの人間観のそれぞれを明かにされる項目である。

 今回一番の収穫は、発表者が真摯に、張り切って発表されたことである。だからこそ、参加者も真摯に批判し、また率直な意見が聞けた。結論をいえば、まずは発表は、著者の述べていることをしっかりと抑えていく作業である。その時は、自分の思いは交えずにそのままを要約していく。大切なことは、著者の言わんとする意図を理解し、それう要約する力である。そしてそれができた上で、初めて自分の意見や思いを述べればいい。これはカウンセリングの聴き方や真宗のご聴聞にもつながる要点だ。往々にして、自分のこと思いか、相手の思いかがゴチャゴチャになっていくしまう。日常生活ではだれもそれを指摘されないが、カウンセリングや聞法の場合は、ここは厳密にしてく必要だある。ある意味、それができることが聞けることであるのだ。

 そのことが明かになってのも、発表者が課題に真剣に向き合っておられたからだ。その姿勢の尊さに脱帽である。

 次回も、リアルとZoomでのハイブリット開催である。一度、関心のある方は、Zoomでの参加が可能がいまがチャンス。お気軽にお尋ねください。

 日時:6月17日(水)夕方18時30分~20時30分
 会場:華光会館2階教室
 内容:「育ち合う人間関係」真宗カウンセリングの人間観~親鸞とロジャーズの共通点~

 

 

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「SKYPE」から「ZOOM」

  真宗カウンセリング研究会でもリモート月例会の話がでる。会員は、京都や大阪だけではなく、福岡や広島などの遠方の方もおられる。一方で、ネット環境が整わない方もある。「ああだ、こうだ」といっているうちに、お試しでやってみることが決まった。

 最初はスカイプで開始する。初めての方もあって、チャットで教案レジュメが受けられないとか、「ああだ、こうだ」と戸惑いもおこった。それでも、会員同志でも「初めまして」とい方もおられたが、あまり親しくなかった人とつながっていくのが、不思議である。しかし、スカイプだとまったく映像がつながらない方もある。ネット環境や電波状態、人数が増えると、不安定になるようだ。
 
 ということで、このままZOOM(ズーム)に移行しようといことになったが、またここでも「ああだ、こうだ」となった。ぼくは初めてだったが、経験済みの方が多かった。一時は、スカイプを通じてズームの樣子がうつると言う不思議な状態になったり、つながったり、切れたり、「どうするの?」といいながらも、全員がZOOMへも参加することできた。

 結局、「ああだ、こうだ」と一緒に右往左往したのが、けっこう楽しかったりもした。そして、皆さんと親しくなっていくコミニケーションでは、うまくいことばかりがいいとは限られないのであろう。気がつくと、真カ研MLも開始以来の盛り上がり。そして、次回の月例会は、数名がリアルで集い、残りはリモート参加するという形式でおこなうことになった。実験的に試行錯誤しながらいい形式をみつけていきたい。

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気概

 昨晩、 カウンセリングでお世話になっているN先生よりメール。
「明朝、6月のWS『仏教カウンセリングを求めて)』のご相談に窺いますが、ご都合いかがですか」と。
 こんな時に、わざわざお出でにるのですか?

 4月の真宗カウンセリングの月例会を中止する連絡をすると、「6名程度の人数で、あの広さの部屋で、そして十分、注意をしていたら、開催しても大丈夫ですよ」と、一番、残念がられ、一番、強気の発言をされたのだのが、一番、高齢で、お医者さんでもあるN先生だった。

 今日も、定期的なボランティのために介護施設(たまに入所者と間違えられるらしいが)から寄ってくださった。

 ぼくは、80歳を過ぎてからの先生しか知らないのだが、ますますその意気込みに驚いている。6月のWSのためのレジュメと、もし参加できない方のためにと、著書の抜き刷りをコピーを持参くださった。そして、「この道場の広さなら、十分に開催できますから」とのお話である。ぼくらのような素人ではない。京大病院の先生で、大学教授だった先生の言葉だ。

 そして、「もし、ぼくが入院でしていたり、もしものことがあったなら、このコピーを参照してWSを進めてください」とのことである。そして、戦争中の空襲の生死の境をくぐりぬけてこられたことから、今の風情をいろいろとお話くださった。一方で、無責任でとはなく、緊張感をもって臨んでおられる態度が伝わってくる。その気概、姿勢には脱帽である。

 それでも、どうぞお気を付けてお過ごしください、とも思った。

 5月のことでもよく分からない。6月のこととなるとなおさらだが、ぜひ、実現したいものだ。

講座「仏教カウンセリングを求めて」(3)

 日 時:6月27日(土) 13:30~17:30
     18:00~20:00頃(親睦会終了)
 場 所:華光会館(京都)近鉄十条駅徒歩1分
 参加費:(一般)3,000円・(会員・学生)2,000円

 詳しくは、以下をご参照ください。

http://dbpca.web.fc2.com/details/20200627.html

 

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3月の真カ研の月例会

 真宗カウンセリング研究会のパンフレットが完成。発送作業を行う。

 お手伝いの方は、この半年間に入会された新人2名と、今日が初参加の方2名という、フレシュな皆さん。正直、今年の初めにまったく想像していなかった方4名である。新人2名は、華光の集りで、1度だけお会いしただけの方。それもまた不思議。

 月例会も、そのメンバーに、もう一人と、N先生が加わってくださる。皆さん、3年以内のメンバーで、N先生も、3年目に仏教大のビハーラ研究会でお声をかけて以来のご縁。新鮮なメンバーだ。

 12月に続いての担当はSさん。自ら担当を名乗り、新しい方にその喜び語ってお誘いしてくださる。レジュメも、すごい内容。本文をさらに補強して、親鸞聖人のご生涯、釈尊から大乗仏教の興隆にいたる真精神を発揮と総花的な仏教の概観を、熱情をこめてまとめてくださっている。結局、話題も多彩で(これも面白かったが盛り沢山すぎて省略する)、結局、予定の半分も進まず、来月の総会の後で発表を継続してもらうことになった。

 最後のチェックアウト。 トリに話された85歳になられたお医者様(元京大病院で老年科を立ちあげた大学教授)でもあるN先生の、コロナウィルスの対する見解に心惹かれた。ぼくが聴いた要旨です。

 この1ケ月、先生自身も、公演や会合が中止が続いている。反対しても、大半が右へ倣えで、しかも会場等で、役所(公共)とのつながりも強く、結局、責任をとるのを恐れた、ことなかれ主義で、ほんとうに深く問題を考えてはいない。コロナは高齢者、持病をもっているのもには危険だし、まだ特効薬もワクチンもない。医者としても医療崩壊することを恐れている。しかしながら、結局、それは医者が、単なる薬屋になっているのにすぎない。薬が病を治すではない。あくまでも患者さんの生命力(体力、気力、免疫力、治癒力)なのであるが、そのことを忘れて数値ばかり観ている。もう一度、改めて未知なる病が起こった時の、医療者の姿勢が問われている。
 自分も、85歳となり、持病もある。若者に比べてもコロナになれば命の危険も増している。それでも、緊張感と、責任を持って、ここに臨んでいる。結局、今回のことは、ひとりひとりの生き方が問われているのであると。

 何か勇気づけれた気がした。対症療法も大事だし、安心・安全も大切なことだ。しかし、今回のことは、私達のこれまでの生き方が問われている。ほんとうに大切なものを見直す、いい機会なるかもしれない。

 

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「ビハーラ活動と真宗カウンセリング」~真宗者であることの自覚~

  華光誌輪読法座を終えて、夜は、真宗カウンセリング研究会の月例会へ。『育ち合う人間関係』を読んでいる。第3章の「ビハーラ活動と真宗カウンセリング」。ビハーラ活動と題されているが、主に「真宗カウンセリング」とは何かが語られている。今日は、その最後のまとめで、真宗カウンセリングの実践的諸問題についてである。
 今年に入って、新会員が積極的に参加くださている。おかげで今夜もずいぶん活気のある集りになった。
  担当者も、6月に新会員になった方だったが、西光先生の深い文章と、自らの法の喜びとが相まって、力強い発表となってずいぶん刺激を受けた。ありがとうございました。
 さまざまな刺激の中でも、冒頭の言葉は印象深い。

「真宗者であるということは、他者による判定をまつのではなく、自覚の問題でなくてはならない。
 具体的に言えば、受け難い人身を受け、弥陀の本願に遇った喜びのあるもの。あるついは、真宗の教えに惹かれ、真宗念仏の本質を知ろうとして、聞法の姿勢を失わない人である」

 この「自覚」という言葉が響いてきた。もちろん、真宗安心の上では、用法に注意が必要な言葉ではあるが、結局のところ、真宗者であるというとこは、先生や資格、組織といった権威から認定されるものではなくて、自らの自覚、つまり「名告り」の問題になってくる。名告る、看板をあげる以上、その責任が伴うのだ。つまり他者の責任に転嫁するのではなく、自らが一人立ちするという厳しい面である。しかも、その自覚とは、わが身は、「罪悪深重の凡夫」であり「愚者」であるという、深い自覚でなくてはならないという、奈倉先生のご指摘に、頷くばかりであった。南無阿弥陀仏

 

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「真宗カウンセリングの特質」

 大阪法座を終え、参加の同人とご一緒に、19時からの真宗カウンセリング研究会の月例会へ。奈倉先生も出席くださると月例会も厚みが増している。

 『育ち合う人間関係』の第3章「ビハーラ活動と真宗カウンセリング」の中から「真宗カウンセリングの特質」(219~224頁)を読む。

(1)真宗とカウンセリングの出会いによって生まれるカウンセリングある。
(2)「名号法」を基盤にしたカウンセリングである。
(3)構造的には二重の関係から成り立っている。
(4)実践的には二重の配慮の上で行われる。

 並べただけでは、特に(3)(4)の構造的、実践的に共にある二重性の「二重」とは何かが分からない。少しそこのみを補足すると、

(3)関係性=一般的なカウンセリングでみられる「人と人との関係」で成り立つ。
       上記に加えて、真宗カウンセリングでは「人と法(もしくは仏)との関係」

(4)配慮=カウンセリング一般に共通する「心理的配慮」で行われる。
      上記に加えて、真宗カウンセリングには「霊性的配慮」
  この場合の「霊性的」とは「スビリチュアル」のことである。一般のカウンセリングが「生」の次元や人間関係、もしくはその延長上の「死」の問題が主であるのに対して、真宗カウンセリングでは、より心理面よりも深層、高次元で、たとえば、死の問題にしても、いわば「生死」を超えるレベルでの問題で、その意味での「霊性的配慮」が必要になるといのうである。

 つまり、この二重の関係が成り立ち、この二重の配慮の上で行われているカウンセリングが、真宗カウンセリングの特質ということになる。

 皆さんで何度も読み、分からないところを確認しながら理解を深めていかなければ、なかなか理解しにいく箇所でした。勉強になりまし  

 

 

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真宗者がカウンセリングを学ぶ意義

 輪読法座を終えたら、夜は、龍谷大学の共同研究室へ。真宗カウンセリング研究会の月例会である。

 第3節「カウンセリングと真宗カウンセリング」に入った。ここはさらに、「真宗者がカウンセリングを学ぶ意義について」と「真宗を通してカウンセリングを観る」の2段の小見出しが出される。

   真宗者がカウンセリングを学んだ最大の利点は、真宗の本来性から逸脱しがちな真宗者が、自らその逸脱に気づき、実感をもって真宗の原点に立ち向かう姿勢を取り戻すことである。

 たとえば、その逸脱は、信心領解が観念的な理解にとどまったり、自らの内面にある権威主義的な態度に気づけず、本来の同朋精神から外れた閉鎖的な人間関係を結ぶ。また教義理解でも、柔軟性を失って社会的な対応力を発揮できないという。逸脱とは、なかなか容易には気づきにくいものである。つまり、

 現代の真宗は、教団・教義・儀礼・習慣といった外形に生き、真宗本来の実存性、自覚性が希薄になっている。

というのだ。しかし、そんな真宗者でも、個人的なカウンセリグ体験を経ることで、容易にその本来性、実存性を取り戻せるという。そして、

 真宗者にとってカウンセリグは、常に真宗の原点にたち戻る聞法のひとつである。

とも結論付けられている。

    まさに僕が、40年近くもカウンセリグを学び続けている意味でもある。人のためではない。今もなお、自らの非真宗的態度に気づかかされるからでる。南無阿弥陀仏

 

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真宗カウンセリグ研究会~9月の月例会~

 7月は、仏教カウンセリングWSの分かち合い、8月は夏休みと、3ケ月ぶりに輪読会に戻る。

 「ビハーラ活動と真宗カウンセリング」から、「カウンセリングの核心」の部分である。
 ビハーラや真宗カウンセリングの前提として、ロジャーズのカウンセリングの要点を、的確に、そして端的に述べられた箇所。要点の概観なのだが、単なる教科書的な筆記ではなく、西光生自身のカウンセリング観が滲み出る文章だ。

 それを、先生の薫陶を受けられたベテランカウンセラーの体験談を交えながら読んでいく。ますますその意味が深く感じられるようで、改めて勉強になった。

 特に、ロジャーズのカウンセリングの理論・そして実践は、「技術」よりも、カウンセラーの「態度」、そしてその態度は、「仮説」に支えられ、さらにその仮説は、深い「人間観」から導かれているのである。つまりは、小手先のテクニックや技法で接することよりも、人間性が伴う態度条件が重要になってくるのであるから、原点に戻り、基本に立ち返って、繰り返して確かめていくことの大切さを教えられた。

 

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ビハーラ研究会~SDGs、感想篇

 まずは進行の仕方。ファシリーテーターはお二人で、リーダーの風かおるさんが、リーダーショップをとってすすめられる。それを、ペアの男性が、ファシリテーターとなって、エンウカンター風に自由な議論をすすめられる。それを受けて、またかおるさんの話題提供があり、また話し合うというパターンですすめられる。この二人の組み合わせが面白いと思った。これを、いつもぼくは一人でやっている作業。しかし、分業するほうが声をだし易く、また冷静に声が聞けると思った。司会役に求めたい役割で、司会者がもう一段と力をつけてもらえれば、実現する。これは進行の上で、いちばん勉強になったところだ。

 内容についても、ぼくの言葉を交えた感想であるを一、二述べておく。

 いま社会は、大量生産、大量消費、大量廃棄の上で成り立っているが、その中での私たちの役割は、消費者であり、廃棄者であることに、何の疑問ももたない。しかし、その前にすべての人々が、「生活者」であるという事実が忘れられている。
 たとえば、きれいにバーケージされた商品には、表の顔と裏の顔があること。たとえば、表に、「おいしそうなチョコレート」の写真。しかしそのカードの裏には、児童強制就労の闇がある。そのほとんどが劣悪な環境での、ただ働きに近い。フェアートレイドよりも、安い商品を欲しいという消費者心理による搾取がある。また、表側がおいしそうなボテトチップでも、そのの裏には、バーム油のための、無秩序の森林破壊の闇がある。そんなことを具体的な例で示された。つまりは、きれいに商品化された背後にある闇には気付くことなく、踊らされているのである。要は、おかげや感謝のきれいごとの裏側に、自分の欲望(得したい、かしこくいたい、便利でありたいなど)があり、見えないところで、遠い国で搾取や破壊が行われている。つまり気づき難い罪業が隠されているのである。

 私たちは、世界とも、またた自然とも、有機的につながっていて、その中で複雑なループを形成している一員なのである。しかし、今日の風潮は、分断と対立を煽り、また大企業の画一化されたグローバルゼーションに呑み込まれている。個々のローカルゼーションの良さも保ちつつ、孤立することなく、乗り越えていく道はないのか。それは、世界のつながりの中で、その一員である私が起点、もしくは私が源泉(自らの内部から沸き上がってくるもの)となって、社会を持続可能なよりよき方向に変えていく可能性があるのではないか、という感想をもった。

 また、「仏教との接点を探ってみる」という課題で、前回も感じたことをここに触れたが、今回も同じことを感じようなことを考えた。
 阿弥陀様の本願は、苦悩する一人一人にほんとうの幸せを与えたいというものであるけれども、同時にそれは、平和で差別も、貧困もない、安らぎの国(極楽浄土)を建立することから始まっている。社会(国土)と、衆生(ひとりひとり)は、切っても切り離せない関係であるのだ。信心の問題は、もすれば個人(自己)の安心の問題、心の問題として矮小化してしまいがちである。しかし、弥陀の本願に立ち返ったなら、安心は、単なる利己主義に止まることなく、どこかで社会にも開かれていくものであることを改めて考えなおされた。

 いろいろと刺激をもらいました。

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