カテゴリー「カウンセリング・DPA」の170件の記事

「必要・十分条件」省略されている重要なこと(3)

 以上踏まえて、諸富祥彦氏は次ように指摘している。
(『カール・ロジャーズ入門』~自分が自分になるということ~P211引用)

「重要なのはただ一点、クライエントが「この人の前では安心できるし、よい子を演じなくても受け入れてもらえる。ありのままの私を認めてもらえる。私の感じていることを一緒に感じてもらえるし、しかも単に仕事上の義務からではなく本心からそうしているようだ」と感じるような「関係の質」を提供することだと考えています。それに比べれば、知識や学位や資格などは、一切本質的な重要性をもたないというのです。しかもそれは、どんな問題を持ついかなるクライエントにも通じる真理であり、学派の相違を越えてあらゆるカウンセリングに通じる真理だというのです。
 この大胆な主張こそ、ロジャーズの「態度条件説」の真骨頂があります。」

 同 諸富祥彦氏の指摘(上同~P307引用)
「カウンセラーの態度こそ唯一本質的な重要性を持つものであり、それ以外の何ものも不可欠のものではない」と言い切ったところに、したがってそれはクライエント中心療法のみならず、あらゆる学派のセラピストに要求される特質であると断言しているところに、この論文の骨太な魅力を感じています。」

 以上の記述を読むと、浄土真宗の聞法や関わりにも、どこか通じるものを感じることを分かち合った。

西光義敞先生も、以上を適切にまとめておられるのて、ぜひ、以下をご熟読下さい。
『育ち合う人間関係』(62~66頁)「必要・十分条件の意味」

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「必要・十分条件」省略されている重要なこと(2)

(3)サイコセラピーは、日常生活の中で起こる他のすべての人間関係と種類の違う、特別な人間関 係であるとも述べられていない。
 たとえばすぐれた友情関係などの日常の人間関係においても、たとえ短期間であっても、この六条件が満たされれば援助的である。つまり日常的な人間関係にも本来存在している建設的な性質を深め、時間的にも拡大したものが、この条件だという主張である。
 ※逆からいえば、六条件は、カウンセリングや心理療法のみならず、親子関係、友人関係、夫婦関係などの日常的な人間関係が、「よい関係」であるときに当てはまるのである。「暮らしの中のカウンセリング」「育ち合う人間関係」という名称にも現われる。

(4)特別な、知的な・専門的な知識-心理学的な、精神医学的な、医学的な、あるいは宗教的な- がセラピストに要求される、ということも述べられていない。
 特殊な専門的知識の獲得がセラピストの本質的な条件ではない。特に、セラピストに求められる第3、第4、第5条件(自己一致、受容・共感的理解)は、知識ではなく経験的な性質のものである。知的な学習や知識の獲得は貴重なものではあるが、セラピストになるためには、知的学習ではなく、経験的な訓練によって獲得されていくものである。
 ※治療関係において、特殊な専門知識は必ずしも有益ではなく、むしろかえって妨げになる場合もあると言い切った。

(5)セラピストがクライエントについて正確に心理学的診断をしていることが、サイコセラピーに 必要なことだとも述べられていない。
 診断的な知識が、ある安定をセラピストに与え、それで援助を促進することもあるだろが、そのような場合においても、心理学的診断、診断的な知識が、サイコセラピーにとって必須なものとはいえないのだと主張した。
 ※決して、診断無用論ではなく、それに固執するあまり、クライエントを防衛的にしてしまい、肝心の「関係の質」そのものを破壊してしまうこともあると指摘した。

 サイコセラピーの必要にして十分なものとして私が仮説設定した条件は、主としてそこに述べなかったことによって、かえって印象的で、特異なものとなる。

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『必要・十分条件』省略されている重要なこと(1)

 昼間の輪読法座に続いて、真宗カウンセリング研究会の月例会。

 会館には3名だが、ZOOMは12名の参加がある。

 僕自身3度目の『必要にして十分条件』を読んでいる。終盤だが、担当することにした。六条件が終わって、「どんな意味があるか」の章である。六条件では語られなかったで、逆に深い意味があることを示す大切な章だ。レジュメがあるので、簡単に要約しておこう。

 建設的なパーソナリティ変化をもたらす必要にして十分な条件として、六条件を述べ終えた後、「セラピーの必要な条件について述べられた公式に、何か驚くべき特質があるとすれば、それはおそらく省略されているいくつかの要素にあるであろう」と続けて、省略された重要な要素、つまり述べなかったことで、逆にその本質、特質が明確になってくる重要なこととして、、以下の5点を挙げている。

(1) ここにあげた条件は、あるタイプのクライエントに適用されるものであって、他のタイプのクライエントのセラピー的な変化をもたらすためには、別の条件が必要だとは述べられてはいない。
 神経症にはある条件や方法、精神疾患にはまた別の条件や方法といったようなことが、それまでの臨床分野の常識であった。それに反してロジャーズは、ただ一つの本質的条件がどのようなクライエントにも適用できるという極めて革新的な仮説を提示した。

 ※これまでの常識を覆して、どんな問題を持ついかなタイプのクライエントに対しても、この条件さえ満たせば十分だと言い切っている。

(2)これら六条件は、クライエント・センタード・アプローチの基本的条件であるとか、他のタイ プのサイコセラピーには他の基本的条件が必要である、ということは述べられていない。
 さまざまなサイコセラピーがそれぞれの異なったパーソナリティ変化を生み出し、すべてのセラピーに違った条件が必要であると考えられてきた。それに対してロジャーズは、効果的なセラピーはどのようなものであろうと、パーソナリティと行動で同じような変化を生み出すもので、そのためには、ただ一つの前提条件のみが必要であると主張した。

 ※この条件は、あらゆる学派に通じる普遍的な理論である。もしクライエント中心療法以外のセラピーでパーソナリティ変化が起こったのであれば、それが用いられた技法によるのではなく、治療的な人間関係がその条件を満たしているからなのだ。

 

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4月下旬の法座のまとめ(1)

 4月は法座が立て込んだ。また永代経法座の準備もあって、ブログの更新が滞ってしまった。4月20日以降の法座の流れだけをまとめて追っておこう。

 4月20日(水)の昼座は、華光誌輪読法座。81-2号の「巻頭言」と「聖教のこころ」読む。共に、1400年忌に合せて聖徳太子のご持言「世間虚仮・唯仏是真」について。2月以降、たびたび法座でも取り上げてきたところ。単なる厭世的な気分や世を儚んだ言葉ではない。むしろ、唯仏是真の智慧の眼から生まれてきた如来様の言葉だと頂きかないと、ほんとうのお心は分からないのではないか。

 引き続き、夜には、真宗カウンセリング研究会の「総会」を開催。会計監査の書類の件で始まる直前にバタバタしたが、出来る限り、事務的な総会に終わらないで、メンバーの声を拾うように勤めた。今年度も、まったく予想外の新規の参加者が増えて、楽しみである。対面的なグループワークはZOOMでは難しいが、月例会や講義風の物は、遠方からも気軽に参加できるので、新型コロナのおかげ、会員が増えつづけているのは有り難い。おかげて、会計の面でも昨年度は黒字となった。

 

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2月の月利会~共感的理解~

  カウンセラーの対人的態度としての第三番目は共感的理解である。

 「共感」という言葉が巷に溢れ、共感(もしくは共感力)がキーワードになっている時代だと思う。SNS上では、「いいね!」が連発されて、共感されたい、また「分かってもらいたい」と願う人達で溢れている。しかし、この場合の共感とは、同情だったり、同意だったり、またはほんとうに私の気持ちなのか、相手の気持ちなのかも分からないままでも、とにかく批判や反対ではなく、「同感」という言葉で安心する程度のものが、大半ではないだろうか。

 しかし、ここでの共感的理解は、明らかに単純な同意でも、また自分の感情と相手の感情をごちゃ混ぜにして同情的に理解することでも、もちろん相手を知るために、あれこれ詮索して原因を探ったりするような診断的な理解とは明らかに一線を画している。
 
 この点を、西光義敞先生の『暮らしの中のカウンセリング』では次ぎようにまとめておられる。

 共感的理解は、クライエントと共に、クライエントが感じているかのように感じとる、しかもクライエントの感情に中に巻き込まれないような理解のしかたです。クライエントの心の内側に入りきって、クライエントの目で周囲や自分自身をみればこういうふうにみえるのだなー。クライエントの身になってみればこういう感じがするんだなーと、「感じ」を共有しあうかのようなわかり方です。こういう理解のしかたを「内部的照合枠」によるクライエント理解といいます。

 共感という感情に関わる問題なので、まずは自分と他者の気持ちに気づき、敏感でそれを分けつつも、決して「あなたはあなた」「私は私」と冷たく分かつのでなく、クライエントの私的世界を自分のことのように、それでいてその感情に巻き込まれるのではなく、「あたかも~のごとく」を見失わないで聞いていこうという態度なのである。そのとき、相手を外からの情報で客観的に理解しようという「外部的照合枠」(外側の枠組み)ではなく、どこまでも、クライエントの内側にある「内部的照合枠」による理解によるのだ。相手の「内部的照合枠」による理解というところが、大きなポイントであると思う。

 また他のカウンセラー態度条件である、自己一致や受容(無条件の肯定的配慮)とも有機的なつながり合っているのは言うまでもない。知的な理解にとどまらず、たゆまぬ努力による訓練や経験を通して、体験的にその態度を身につけていくことが必要なのである。たとえ道は険しくても、だれでも、またどんな時でも、その努力の第一歩を踏み出すことこそ、大切なのである。まず、体験的な一歩を踏み出そう。

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カウンセリグの学び~大段先生との出会い~

 8月の広島真宗カウンセリングWSから派生したZOOMワークショップの2回目。

 ミニカウンセリングの逐語録作製をめぐって、ぼくがカウンセリングに取り組むようなったきっかけを話せさてもらった。

 ぼくのカウンセリングの学びは、真宗カウンセリング研究会での先生方の導きが基盤であり、ほぼすべてだ。でもそれだけではない。同じ人間性心理学関連のグループやWS経験を通じて、有名無名の先達や先生方に出会い、ずいぶんご指導頂いた。それは単なる知識や技術を学ぶこと以上の意味があった。書物や講義だけでは得られない貴重な人生の体験である。特に、聞くということは、援助関係における対人的態度、姿勢として現われてくるものだ。つまり聞く態度に触れるとは、その方のカウンセリング観や人間観、人間性から滲み出る態度や姿勢に触れることになるのだ。そして、今から振り返っると、若いときから大きな財産になる出会いをさせてもらってきたのだ。

 中でも、大段智亮先生との出会いは、その後のぼく自身のカウンセリングの歩みに指針となるものであった。

 カウンセリングを学びだして数年たっていた。大学院の終わり頃、短大生や大学生に混じって開設された龍谷カウンセリング課程を受講した。受講に際してのいきさつもまた不思議なのだが、今は触れない。

 カウンセラーの聴き方の訓練としてのロールプレーニングを担当されていたのが大段先生だった。興正会館での3泊4日間の合宿だったと思う。

 真カ研の仲間も複数参加し、聴き方の怖さをしっておられた先生は、未熟な我々に、ロール(役割、演技)での聴き方の訓練を勧めれた。それに対して、自分たちが学んでいたミニ・カウンセリングの手法を提案したのだ。しっかり理由をあげ、難色を示された先生だたが、生意気にも反論してミニカングループを作ったのだ。なまじっかの学びだけでうぬぼれ、カウンセリング、対人関係の恐ろしさなど何も知らなかったのである。

 合宿はとにかく楽しかった。若いものが集まって、中には遊ぶ半分のものもいて夜の懇親会も盛り上がった。そんな中で、ケース検討の時の先生の態度は、鬼気せまる厳しさだった。ご病気のために、余命がないことをわかっておられたのであろう。酸素ボンベを持参し、看護師さんの介助を受けながら、未熟な学生にも、遊び半分のものにも、真摯に向き合ってくださった。指摘も容赦はなかく、泣きだすものもあったが、聴くことの厳しさ、援助的関係の真摯をお伝えくださった。

 僕自身に、なにか指導があったわけではなかったが、最後のワークを終え、全体の分かち合いで、みんなが感想を述べ、先生がコメントされているそのやりとり聞く内に、その真摯な態度に、自分のうぬぼれ、未熟さをいやというほど知らされた。穴があれば入りたいと、そんな心境だった。

 みんなが帰っていく中で、先生の前で号泣し懺悔した。とにかく恥ずかしかった。分かりもしないのに、分かったとうぬぼれ、いかに未熟で、聴くことが恐ろしことかということをからだで知らされたようだった。先生は黙って聞いてくださり、最後までお付き合ってくだった。もう部屋には、他にだれもいなくなっていた。温かいまなざしを向けてくださっていたが、言葉はなかった。
 しかし先生との出会いは、これが今生での最初で最後、まさに一期一会だ。まもなく先生は帰らぬ人となられたのである。たぶんWSに出れるような体調ではなかったのだろう。しかも、未熟で経験もない学生相手のWSなのに、命をかけて伝えようとされたのだ。

 その後、カウンセリングの学ぶことを止めようかと思ったことや挫折しかけたこともある。しかし、あの時の大段先生の真摯な態度に出会ったことが、どんな時でもカウンセリングの学び続けていく原動力となったのである。もしカウンセリング的な廻心があるとしたらば、その瞬間だったと思っている。

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今月はフリ-トーク

   真宗カウンセリング研究会の月例会では、、ロジャーズのいわゆる「必要十分条件」の論文を読み出した。今回が4回目だが、積極的に、担当を名のり出てくださる方があった。初めての発表てのでと、早くからレジュメを準備し打ち合わせも済んでいた。ぼくも楽しみにしていたが、急に帰省せねばならない事態が起こってきて、欠席されることとなった。その場合、ぼくがレジュメを読み進めていくことになっていたが、せっかくここまで準備をされてきたのだから、来月に延長してでも、担当していただくのがいいのではないかと判断した。皆さんの了解も得られたので、今月は、輪読から離れてフリートークでの月例会となった。

 ZOOMでの参加者もあれば、会場にお出でになった方もある。全員で一言ずつのチャックインをして、それから会場組と、ZOOM組に分かれた時間をもつことになったが、ZOOM組はさらに2グループに分かれたので、6~7名での3グループでのフリートークである。

 時間は1時間程度であったが、それぞれが今、感じていること、疑問に思っている聴いてもらいたいことなどを分かち合った。それはそれで、少しずつ深まっていくのを感じていたが、ぼくは、ZOOMの操作があったり、また華光誌が終わったばかりで、心は、週末の「真宗カウンセリング」の講義の方に重心が移っていたりして、からだはここにいても、少し離れたところにいる感じもあて、乗り切れなかった。それでも、奈倉先生が、皆さんの声を肯定的に受け止めて、また自然な引き出しをしてくださり、ずいぶん助かった。

 来月は、通常の月例会に戻って、輪読をすることになっている。楽しみにしている。

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入門「真宗カウンセリング」講座

当初は、「念仏と黙想の集い」の計画だったが、緊急事態宣言下の中で車座で輪になって、大声で称名念仏することは避けたかった。

 それで、「壮年の集い」で要望があった「サイコ・ドラマ」が面白いのではないかと思った。ただそれだけ2日間では参加者が少ないだろう。ふと、真宗カウンセリングの入門的な講義をもつことを思いついた。と言っても単なる勉強形式の講義ではなく、自分自身の歩みに即した体験的な話をすることにした。

 初めての試みなのに、とてもワクワク感があった。始まってみないと分からないのに、なぜか不安感はなく楽しみでしかない。きっと今、一番話したいことだからだろう。
 ところか、急に、台風が進路を変えて、近畿に上陸するという。日本海を抜け温帯低気圧になるという予報が、外れたのだ。台風としては「弱い」のだが、今は警告を発する度合いが過度に増している。被害よりも、新幹線や交通機関が停まることを心配した。結局、台風の前に雨が少し強めに降った程度で、台風最接近中は、雨も降らず、風もなく、朝から交通機関も通常どおりで、皆さん、無事に出席することができて、よかった。

 ぼくとカウンセリングとの出会いは、それを体現された先達との出会いであった。同時に真宗念仏に出会い、歩む先達・得道の人との出会いでもある。具体的な人や言葉、場面を通しての思い出を、主に子供時代から青年期にかけて語らせていただいた。たった一言、たった一瞬の出会いでも、人生を決定づけるものに出会えたのことは、まったくもって幸せである。これか、少しでも皆さんの聞法や学びのヒントになればは願っている。
 
 予定では、初日の昼座が「講座」。夜座は、「こころの天気」を中心にした自己表現やワーク予定だった。しかしレジュメを作った段階で、昼座では収まらないことは分かった。自分の歩みだけで昼座を全部使うことになる。少しは「真宗カウンセリング」の理論面も話しておきたい。資料を探すうちに、本願寺のビハーラ研修会の講師として、「真宗カウンセリング」の講義と実習を受け持った時の資料に手が触れた。昔のことでほとんど忘れていたが、よくまとまっている。西光先生が作られて、それを3名で検討したものだ。新たに入力し直したが、その打ち直しの過程で、当時の出来事が甦ってくるのが不思議だった。またカウンセリングの基本の基本を確認するうちに、改めて、ぼくが人の話の何を、どのように聴いているのか。また自分の何に触れて、どう伝えているのか。そのことを再確認すると同時に、少しでも皆さんにお伝したかった。ぜひ、ご法を伝えたいと思う方には学んでいただきたい。また未信の方にとっても、自分の枠で聴くのではなく、自分のどこに触れていくのか。どのように語っていくのか。もうすでにその指針は示されているのだから、自分よがりの無駄な寄り道は勿体なさすぎる。もちろん、それを1度語ったからといって、すぐにすべて理解され、また身につくという代物ではないのは重々承知している。でも、参加された一人でも、二人でも、自らかの聞法の姿勢、伝道の姿勢を顧みて、悩みながらでも新たな一歩を踏み出してくださる機縁、もしくは刺激になればと願ってやまない。

 その意味では、ZOOMを含めると、支部長さん、役員さんの大半が、ご参加くださったことはほんとうに有り難かった。今後も、率直に、また遠慮なく発信を続けていきいたと思った。 

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ZOOM広島真宗カウンセリングWS

  9月の広島での真宗カウンセリングワークショップ。その直前に広島にも緊急事態宣言か発令された。世話人の間では、感染対策を十分にとれば開催はできると考えていたが、参加者の中にはさまざまな事情があって欠席が増え、今回は中止と決めた。緊急の中止は西日本豪雨以来。、致し方ないとは思うが、たいへん残念だった。

 代わりに、ZOOMでの開催に移行するので、案内文を急きょ作成した。この1年半、ZOOM法話や座談会にも慣れてきた。少人数での座談会の経験もあるが、2~3時間程度で、今回のように、朝、昼を通して7時間を2日間行うエンカウターグループは初めてだ。世話人を含めると10名も参加があり、初めての方もおられる。大半が1年に1度、ここでお会いする方々である。この長時間のZOOMグループはぼくにも初の試みで、うまくいくかどうか心配だった。ワークショップではなく「交流会」と名付けて、取りあえず1日だけの開催として、翌日の開催は、皆さんと相談の上で決めることにした。

 緊張しながら早めにバソコンの前にスタンバイ。皆さんがうまくアクセスできるのかの心配もあったが、不慣れな方も揃われて、スタートできた。ただ一番難しいのは、場の雰囲気を肌で感じることができないことだ。画面の上と実際に車座に座るのでは、その味わいはまったく違う。おかしなことだが、自分の顔が見えるのがZOOMである。よほどのナルシストでなければ、これが苦手だという人が多い。でも実際は悪いことではない。自分が嫌であっても、この顔、この姿こそが、相手の目に映っている私そのものなのだ。だから自分が、どんな顔で、どんな姿勢で、相手の前に立ち、接し、聞いているのかを教えていただける、たいへん貴重な機会となっている。この経験は、実際の対面にも生かされるのではないかと思っている。

 また、ZOOMのグループがうまくいくかという心配も、杞憂に終わった。ZOOMでも、内容の濃厚な集いとなった。午前中の2時間だけでも十分に堪能できた。すでに長年の関係性が構築されていること、そしてその信頼関係の中で、自分を開き、率直な自己表明がなされたこと。それを参加者が、受容的に、また共感的に関わったこと。ぼく自身の気づきのところでは、聞くことは、「受容的に聞かねばならない」「共感的に聞かねばならない」という不自由なことではないのだ。いま、目の前で自分を表明しようという方があれば、その方を尊重し、その場に身を任せて、お聞かせ頂くだけだ。その話しに身を任せていると、まったく不思議なことに、一瞬であっても相手の方の人生の一部を共に過ごさせてもらった喜び、そして暖かい、豊かな気持ちが満ち満ちてくる、不思議があるのだ。以前から課題にされていた、親しい方を亡くされたお話であったが、ほんとうに「よかったですね」と、言わずにおれない気持ちになり、それを率直に表明させてもらえた。そこには、これまで1年に1度だけであっても、何年かの間で築かれてきた関係が大きい。たとえ毎日顔を合せていても、うわべの付き合い、見せかけだけのつきあいでは得られない、深い出会いを経験させてもらったきたかもしれない。しかもその方の、飾らない、率直な態度は、外の方に伝播して、自分のところを開いた尊い話が続いたように思った。たまたまた昨年からこの1年間の間に、親しい方との別れを経験された方が多かったことも、影響があったのだろう。

 おかげでZOOMでもそれなりのWSが行へ、ほんとうによかった。来年に向けて、定期的な継続WSも開くことが決定。楽しみである。

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7月の月例会「パーソナリティ変化の必要にして十分な条件」(2)

 昨年から、メーリングリストとZOOMの活用が功を奏し、ご縁が広がっている。今回も新会員と、お試しの方の参加があり、会館に6名、ZOOM参加と合せると20名も参加があった。
 
 ロジャーズのもっとも有名な代表的な論文である「セラピーによるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」の2回目。
 心理療法における建設的で、意味の深い、前向きなパーソナリティ変化-人格変化が起こるためには、ある「関係」が必要であって、それが満たされているならば、それだけで十分であるという。その関係とはどういことなのかを、経験に基づいた科学的な仮説として提示されたものである。これはけっして聞き方の技術や方法ではなく、人と向き合うこと時の「態度」、姿勢を示されたもので2人の人が心理的な接触をもっていることあることだ。

  1. 2人の人が心理的な接触をもっていること。 
  2. 第1の人(クライエントと呼ぶことにする)は、不一致の状態にあり、傷つきやすく、不安な状態にあること。
  3. 第2の人セラピストと呼ぶことにするは、その関係のなかで一致しており、統合していること。 
  4. セラピストは、クライエントに対して無条件の肯定的配慮を経験していること。 
  5. セラピストは、クライエントの内的照合枠を共感的に理解しており、この経験をクライエントに伝えようと努めていること。 
  6. セラピストの共感的理解と無条件の肯定的配慮が、最低限クライエントに伝わっていること。 

 この六つの条件は、パーソナリティー変化のプロセスにとって基本的なもので、建設的なパーソナリティー変化が起こるためには、このような諸条件が存在し、しばらくの期間存在しつづけることが必要であるという。

 その六条件として示された中での第一条件の「関係」のところだ。

 「2人の人が心理的な接触をもっていること」。前提条件のようなものではあるが、この条件がなければ、以下の項目も意味を失ってしまうので、ある意味、当たり前だがもっとも重要な条件である。

 セラピストをカウンセラーと置き換えていいが、要は二人の人間関係において、その間に何らかの心理的接触、心の触れ合いがあることが重要である。この二人の出会い、心理的な接触というところに大きな意味を持つ。ここでは言語以前のノンバーバルな部分での出会いの意味も大きい。

 論文の記述とは離れるが、普段の生活においても、誰かを前にして向き合ったときの、自分の中に起こっている感覚を思い起こしてみればそれは分かるだろう。初めての方と向き合う時、安心して向き合って座れる時、または防衛的に向き合っている時などがある。そこにどんな言葉以前の感覚が起こっているのか。また相手がどんな態度で接してこられると、それはどう変わるのか。普段は意識して目を向けることはないが(実際は身で感じている)、このあたりを十分に意識して生きていくことで、これからの条件が身近になってくるのはないか。
 

 

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