カテゴリー「京都」の219件の記事

臨地法座(6・番外篇)将軍塚

 参加者からの要望で、希望者のオブションとして、「将軍塚」まで足を伸ばすことにした。
 夕陽を前に、逆光がまぶしくて、視界は悪い。

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 でも目的は、ただ京都市街を眺めることではない。ここが、『仏敵』の冒頭の舞台だからである。

それは日和よい三月下旬の午後であった。私は、東山の将軍塚の上に立って、松林の間から隠見する京洛の風光を眺めていた。
ここから俯瞰する京都市街は、かわいらしい盆栽の街だった……

『仏敵』は、将軍塚から眺めれる京都市街の詳細な描写から始まるのである。そして、

私は塚の周囲にある広場を、ぶらぶら歩きながら、ものを考えた。
この将軍塚の松の大木で、私の学友が首をくくって自殺したのは、ちょうど昨年の今ごろであった……

と相撲部のエースが、柔道帯を松に括りつけての最期であった。 
 
 男たちは、「どの松なのかなー」と、あたりを探していた。それらしき一本松はなかったが、「この松がそうです」と、将来「伊藤先生の御旧跡」として、案内板が建つ日がくるかもしれない?
 一方、京都マダムたちは「甘い思い出があるんですわ」と、口々にロマンスの思い出を語っておられた。夜景が美しいデートスポットである。

 京都マダムの思い出は、かなり昔なのだろうが、伊藤先生がこの地を訪たのはもっと古い。もう100年も前のことだ。まだ東山ドライブウェーはなく(当たり前)、山道を徒歩で登り、早足でくだり降りて、円山公園から知恩院、そして岡崎の地まで足を伸ばしておられる。

 恐ろしいほどの健脚ぶりである。
 

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臨地法座(5)~佛光寺~

 お店から佛光寺までは1㎞あるかないかのご近所だ。

 真宗の本山で真宗十派の一つで、京都に四つある浄土真宗のご本山だが、ほとんどの方が「初めてです」と言われていた。今回の旅はある意味で、隠れた真宗のゆかりの地を巡ったことになる。

 さて佛光寺は、越後流罪に遭われた親鸞聖人が、ご赦免の翌年建暦二(1212)年に、京都に帰られ、山科の地に草庵を結ばたという。この草庵が佛光寺草創とか。でもこれは史実とは言い難いのだが……。

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 親鸞聖人ご在世の時、真宗の教えは関東を中心に広がっていた。第七世了源上人は、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に置き、光明本尊・絵系図・交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れる。人々は上人のお徳を慕って念仏申すようになり、元応二(1320)年には、寺基を山科から今比叡汁谷(現・京都国立博物館あたり)に移されたという。了源上人は、わが国で初めて真宗教団を組織された仏光派の中興の祖。
 
 寺号の佛光寺は、佛光寺の繁盛を妬む者が、ご本尊や法宝物を盗み出して竹やぶに投げ捨てた。その夜、後醍醐天皇が夢枕に東南の方向から一筋の光が差し込むのをご覧になり、ただちに人を遣わせられたところ、阿弥陀如来のお木像が現れた。この仏像がご本山の阿弥陀如来像の台座と一致したので、勅願により「阿弥陀佛光寺」、略して佛光寺の寺号を賜ったと伝えられている。

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 もっとも、光明本尊・絵系図・交名帳は、蓮如上人よって、異端として排斥されるのはご承知のとおり。つまりは、難信に対する印可(保証)を与えるもので、その結果、いくら教線が拡大したとしても、明確に聖人の教えではない異義が、正統としてまかり通っていたことに恐ろしさを感じる。

 詳しくは、悟朗先生の『後生の一大事』~蓮如上人のご教化~をご一読ください。

  とにかく、今回のミニ旅は、「見真大師」で始まって「見真」で終わりました。

 

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臨地法座(4)~ランチ篇~

  さて、朝から効率よく3ケ寺を回れた。午後1時となり、少し歩いたこともあって、今度はお腹がすいた。ここでまで計画どおりに進行して、ぼくも満足である。

 高辻新町にある町家のイタリアン(クチーナ・ナチュラーレ・エッフェ)で、会食。すでに、母など合流組もいる。今回の目玉はここでのランチ。居酒屋などで、華光の皆さんと会食することは多いが、こんな形のランチ会は初めてかもしれない。

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 ご夫婦とも、自力整体の仲間で、火曜日はここが会場になる。自力整体をしていたら、突然、思いついた。「20名の集りなら大丈夫ですよ」とのお返事。ランチの時間を2時間延長してもらって、会食の後法話をする-そこを中心に前後の行程を考えたのである。

 小麦、乳製品、砂糖を使わず、飯は酵素玄米、パンも米粉、パスタもグリテーンフリー対応と、健康志向のお店。それ話をしたら、ベジタリアンのイメージをされたのか、「私は、体に悪くてもおいしいものが食べたい」と言われた方があった。が、決して、お肉も、魚もおいしく、量もたくさんあって、皆さん、ほんとうに満足のご様子。喜んでいただけてよかった。

   スムージーに始まって、酵素サラダと前菜盛り合わせ。 

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旬を感じる季節のパスタは、ホタテがやわらかった。

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 メーンは、野菜たっぷりのお肉は、牛ほほ肉のワイン煮。これが柔らかくし好評。8割以上が肉派だった。

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 最後は、乳製品や砂糖を使わないデザートと、ハーブティーという、充実のコースだった。

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 ということで、食事が充実していた分、どうもご法話は、料理の添え物に終わってしまったが、まあ、今回はそれはそれで致し方なしだろう。

 御馳走さまでした。

 

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臨地法座(3)三十三間堂~法然塔(名号石)

 道路を隔てた三十三間堂に向かう。本堂に入る前に、「法然塔(名号石)」の前で、説明と記念撮影。寺伝では、元久元年(1204)土御門天皇が、三十三間堂で後白河法皇の十三回忌を行った際、請いを受けた法然上人が、「六時礼讃」を修し、「南無阿弥陀仏」と書写して参集した人々に分け与えたという。この「六字の名号」が石に刻まれて、世に法然塔とも呼ばれている。国宝『法然上人行状絵図』の第十巻にも記述される法然聖人の霊場の一つである。

 さて、蓮華王院三十三間堂は、やはり後白河上皇が自身の離宮内に創建されたものである。さすがに、2/3程度が拝観されていたが、「修学旅行以来、五十年ぶりです」など、「覚えてないなー」という感想が多くて、ほぼ初めて感もあった。京都の方は逆にわざわざ来ない。ぼくは、お客様を連れてくることが多いので、ブログでも2~3度話題にしている。写真も、前のバージョンアップ前の方が断然きれいなので、以下をご覧ください。共に、アメリカからの同人をご案内した時の物です。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-d106.html

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-49aa.html

 湛慶作の国宝の千手観音坐像を中尊に、左右に各500体の千手観音立像(十一面の四十手に略されている)が立ち並び、本尊の背後に、逆向きの1体があって、計1,001体が整然と並べられる姿は、まさに壮観だ。誰もがそのスケールに圧倒的されていたようだ。ちなみに観音様が1,001体なので、その冠には1,001体の阿弥陀様もおられるのだ。「観音さまは冠に、お阿弥陀さまをいただかれ」と十二礼の意訳もあるが、お寺の説明では、阿弥陀様とはなっていなかったのは、残念。

 千体仏の手前には「二十八部衆像」と「風神・雷神像」も、写実的でとても素晴らしい。観音様も含めて、すべてが国宝というのも、すごい。二十八部衆とは、千手観音の眷属の主にインドの神々である。東西南北と上下(六方)に各四部、各四部、北東・東南・北西・西南(十方)に各一部が配置され、合計で二十八部衆である。少しだけ真宗にもゆかりの方々を紹介したので、ここでもおすそ分け。

 ◆那羅延堅固(ならえんけんご)-いわゆる仁王様で、四十八願の中の「第二十六願」に、浄土に生まれた者は、金剛那羅延のような金剛の身を得るというのである。
 ◆難陀龍王(なんだりゅうおう)-八大龍王のひとりで、現世利益和讃に、「南無阿弥陀仏をとなふれば、難陀・跋難大龍等、無量の龍神尊敬し、よるひる常に護るなり」と親鸞さまは、和讃された。
 ◆帝釈天王(たいしゃくてん)-元インドラ神で、阿修羅と戦闘する武勇の神。仏教に取り込まれ、成道前から釈迦を助け、その説法を聴聞する。梵天と並ぶ仏教の二大護法善神で、四天王を配下におく。阿弥陀経には、「釋提桓因」(しゃくだいかんいん)とある。
 ◆大梵天王(だいぼんてんおう)帝釈天王とならぶ仏教の二大護法善神。成道後、説法をためらう釈尊に、三度の勧請するエピソードは有名。
 ◆毘沙門天(びしゃもんてん) 四天王のひとりで、北方の守護。多聞天ともいう。御文章には、「人間の五十年を考えへみるに、四王天といえる天の一日一夜にあひあたれり」とある。他の三名は探してみて下さい。
 ほかにも、阿修羅、乾闥婆(けんだつば)、吉祥天、鬼子母神(子供を食べる)、金比羅神(ほんとうなら、ちょうど金比羅宮にお参りしている頃)など、有名な方がおられるので、よく探してみたくださいと宿題をだした。

 1時間の予定だったが、時間が足りないほど見応えは十分。

 

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臨地法座(2) 法住寺~養源院

Img_3495    荼毘所から法住寺までは、わずか3㎞足らず。法住寺は、三十三間堂と道を隔てた天台宗の寺で、後白河法皇の院の御所として創建された地である。御白河法皇の御陵が隣接するが、残念ながら土・日曜日は閉鎖(宮内庁管轄)されていた。法住寺殿といれば、後白河法皇のことを指す。このお寺には、後白河法皇像の他に、自刻「阿弥陀如来像」と「親鸞聖人身代わりソImg_3499 バ喰い像」がある。もともと渋谷(仏光寺にも関連。後で渋谷街道を通る)にあったという。比叡山の大乗院にも、身代わりソバ喰い像があるが、両者の関連をぼくは知らない。ただ、ソバアレルギーのぼくの身代わりで、外でソバが出たら、連れ合いが食べてくれることを、特記しておこう。残念なから、今日拝観中止。

 代わって北隣の養源院を拝観。浄土真宗「遺迎院派」の寺(天台宗からの分派。本家浄土真宗とは関連はない)。今日のメンバーの半数は京都の人達だったが、全員が初訪問という、隠れたImg_3504 名所だ。

   ご住職が、軽快にご説明くださった。それほど広くない方丈だが、俵屋宗達作の重文指定の「襖絵」(松)と「杉戸絵」(象、唐獅子)などが拝観できる。特に、大胆な筆塚とタッチの象の絵は、現代にも通じるモダンな具象だった。ここは、秀吉の側室淀殿が父浅井長政の供養のため創建。その後、徳川秀忠の正室崇源院(江)により再興されたので、浅井家の女性たちのことを、特Img_3506 に詳しく説明されていた。また、徳川家の菩提として、歴代将軍の位牌をまつられる。そして、、伏見城の遺構を移して再建されたもので、伏見城落城時の廊下を、天井に使用している。落城の際、自刃した徳川側の武将たちの血のりのしみた「血天井」でも有名。説明を聞くと、手の跡や切腹の時のうつ伏せの体の形にみえるのである。
 ちなみに、ご本尊は、阿弥陀如来立像で、源信僧都の作だという。これが唯一、真宗との関連であった。
 予定オーバーの丁寧な説明と、俵屋宗達の絵、そして方丈までの美しい緑に、皆さんも感銘をうけておられる様子。 

 

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臨地法座(1)~親鸞聖人荼毘所~

Img_3478   四国への聞法旅行が中止になって、急遽、臨地法座を企画した。

 1日だけの縮小版だったが、拝観、ラント共に、充実の内容で、皆さん、満足していただけたのではないか。ただ宿Img_3481 泊でない分は、物足りなさは感じてはいるが、ちょっとした京都へのてミニ修学旅行みたいな雰囲気で、皆さん、喜んでおられた。少し順を追って、紹介しておこう。

 Img_3482  遠近各地からそれなりに参加者も集まり、車に分乗して会館Img_3473 を出発。~運転手の皆様、ありがとうございました~。

 今熊野から滑石道を上がって「延仁寺」へ。ぐるぐる細い道を登っていくが、15分ほどで、親鸞聖人の荼毘された場所に到着する。ここは、全員、初めての場所である。京都にか なり詳しい 人でも、なかなか知らない場所だろう。

 ここから、少し急な坂道を歩かねばならない。あまり訪れるひImg_3472 とがないのか、蜘蛛の巣を払いながら、荼毘所に着く。今度は、 藪蚊に要注意である。

 『御伝鈔』下巻第六段には、

 「はるかに河東の路を経て、洛陽東山の西の麓、鳥部野の南の辺(ほとり)、延仁寺に葬したてまつる。遺骨を拾ひて、おなじくき山の麓、鳥部野の北の辺、大谷にこれをあさめをはり ぬ」

Img_3487  とある。古来より、このあたり鳥部野と呼ばれていて、今も、近くには京都市の中央斎場(火葬場)や、霊園も多い地域だ。

 親鸞聖人は、弘長二年、十一月二十八日に、九十歳でご往生される。その翌日二十九日に、この地で荼毘にふImg_3490 され、翌三十日に拾骨され、その後、大谷に埋葬されたということである。
 ここは、明治期に廟所が建てられたので、親鸞聖人ではなく「見真大師御荼毘所」という碑文になっている。

 聖人のご往生を偲び、皆さんで称名念仏をさせていただいた。距離が短いが、降りる方も、滑らないように慎重に進む。

  大谷の 流れも清し 汲み得ては
   味わい深き 法の水かな (含弘)

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下見

Img_3433   臨地法座に向けて、拝観のお寺などの下見を行う。だいたいの時間を合せて、行程通りに車を走らせる。
 
 会館から5~6㎞圏内にあるところばかりだが、僕自身、初めて訪れる場所がある。

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 まずは、今熊野から滑石道を上がって「延仁寺」へ。ぐるぐると細い道を登っていく。この坂道を山科に向けて、自転車で走ったことがある。教習所に通っていた時だ。ここは、親鸞聖人の荼毘所。初めての巡拝。お寺様に駐車場の使用をお願いして、親鸞様の荼毘所まで歩く。少し坂道をのぼると、ひっそりとその跡はあった。回りは、紅葉が多く秋にはきれいだろ。
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 次の法住寺は、荼毘所から3㎞足らず。ところが、帰路も道が入り組み細い。ナビは、山科経由で10㎞以上を示したが、細い道を行く。「法住寺」は、「三十三間堂」と道を隔ててある。親鸞聖人の身代わりのソバ喰Img_3450 像で有名だ。ここも中に入るのは、初めてのところだ。団体拝観をお願いすると、その日は、写経会の行事あって、本堂以外の拝観は終日中止とのこと。とても迷惑そうに愛想なく断られた。残念である。
 親鸞聖人とはまったく関係ないが、お隣の「養源院」を訪ねたら、ここは説明もしてくださることで話がついた。ただ、駐車場がない。近くにImg_3453 は、コインパーキングがたくさんあるが、連休中の有名拝観寺院の抱えて、心配なことろ。門構えに比べて、中が広くてびっくりした。ここも秋には紅葉が美しいだろう。バスガイドさんに先導された修学旅行生が入ってきた。穴場の観光地でもある。

 その後、「三十三間堂」から「大谷本廟」を五条に進んで、ランチと法話会場に移動。ここのパーキングはお店の目の前にある。このあたりは室町のビジネス街なので、日曜日は逆に空いている。

 途中、雷雨となった。雨は強くなってくる。洗濯物を干してきた連れ合いは、こころはここにない。すぐ近くの仏光寺の駐車場を確認して、@急いで家路に。

 後は、連休中の交通集中だけが心配なところ。

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大文字

 遅めの夕食の準備を手を留めて、屋上に大文字を見に行く。如意ヶ岳の大文字は見えなくなったので、8時20分ころに上がるとちっうどいい。会館から見えるのは、「左大文字」と「鳥居型」だけになってる。それもだんだんと一部がかけ無常を感じさせれらる。今年は、なんとか昨年並の見え方である。ボツンと小さく見えるだけだ。台風の心配はなかったが、時より強い夜風が吹いて、心地よい。雲間に見える濃い黄色味を帯びた月にも、なんなとく風情を感じた。

 屋上から、3階の母を覗く。母は、テレビでの大文字の中継を見ていた。

 テレビ画面いっぱいに、五山の送り火が映っている。こちらは、クッキリ、ハッキリ、大きく見える。思わず、顔を見合わせて笑ったが、ぼくもしばらくテレビ中継を見た。でも、やはり違いはある。いくらはっきり見えてもな~ この差は何のでしょうかね。

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レトロ

Img_3234  勤行の後、家族と事務のIさんとで、会食をする。四条大橋のたもとに立つレトロな建物は、中華料理「東華菜館」。夏には、鴨川に納涼床でのビアガーディンもあるが、夕方でもまだ暑さが厳しいので、店内を選んだ。

Img_3238  老舗の北京料理を久しぶりに堪能する。あっさとした上品な味付けで、みんな満足した。

 ここのエレベーターは、会館と同じ、otisの製品。しかし、アメリカから直輸入されたもので、Img_3247 今なお現役はここだけだそうだで、現存する日本最古のエレベーター。

 初めてこのお店に入ったのは、大学院の時だった。学会の名簿作りを担当した慰労で、普賢晃寿先生に連れいてきてもらった。4~5名の少人数Img_3255 だったこと、そしてお酒の飲んでいた勢いもあっ て、  「華光についてどう思われますか?」と、単刀直入にお尋ねした。その時の好意的なお言葉は、Img_3257 いまもよく覚えている。いや、テープを回しておいたらよかったなー。

Img_3261  今日は、まだ時間が早かったので、近くでお茶を飲んでいくことにした。木屋町を下った喫茶フランソワ である。こちらも、京都を代表する老舗のカフェで、 このレトロの雰囲気はいまだに人気で、平日の夜なの に、客足が絶えることはなかった。

 このお店も、別の機会に普賢先生に連れてきてもらった。今日は、偶然、レトロな雰囲気のお店を利用したが、なぜか、2軒とも父ではなく、別の先生の思い出だったが、、。

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かすっただけの祇園祭

Img_2607_2_20190727001901  佛教大学四条センターは、四条烏丸の南東角の三井ビルの中に教室がある。

四条烏丸の歩行者信号が、ずっと赤になったままで、変わらない。警察官が交通整理をしていた。

Img_2606_20190727001901 ちょうど山鉾の曳き初めに重なっているらしい。遠くからぼんやりと眺めていた。信号が変わったところで、ビルの前で、 長刀鉾のお稚児さんのビルの一行とすれ違った。山鉾の上から見下ろしので、祭りの期間は正五位という官位を授かるというのだ。

今年は連れ合いが寝込んでいたこともあって、宵山にも、巡行にも行くことはなかった。
前祭の後、映画館を出たら、山鉾を解体しているところには出くわした。今年の祇園祭は、その程度で触れただけで終わった。

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