カテゴリー「法味・随想」の250件の記事

泉佐野の寺院布教~台風禍

Img_8836泉佐野での報恩講の2日間に渡るご縁である。ご承知のとおり泉佐野は海上に関西空港を抱えている。海上からの風もすさまじく、先月の台風21号の被害が甚大だった地域だ。

Img_8835冒頭、「皆さん、大丈夫でしたか?」と尋ねたら、「大丈夫ではなかったです」と、即答される。瓦が飛んだ、窓ガラスが割れた、壁が落ちた、停電が4日間も続いたなどなImg_8834ど、皆さんが答えくださった。確かにブルーシートが被った家が多かった。中には、そのまま何もされないままの空き家もあって、かなり危険な状態である。このお寺でImg_8838も、瓦や漆喰、本堂の窓ガラス、裏庭の木が倒れたりと被害が大きかったそうだ。また、本堂が被害を受けて報恩講を中止さぜるえない寺院も、この地域では多かったImg_8845という。

無常迅速といわれるが、迷っている身には、これから我が身の上に何が起るか分Img_8824からないのである。「一寸先は闇」というが、「一寸先」ではない。まさに今が闇の真っ只中ということが分かっていないのだ。自然災害だけでなはい。わが身の上でも同じこと。迷いを迷いとわからないほど、闇が深いのである。

 

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三回忌法要

   豊中の服部に向かう。ちょうど2年前の9月に、ご示談に窺った。皮膚病に苦しめされ、精神的にも生きる気力を失っておられた。しかし根にあるのは、この世の問題ではく、後生の一大事の不安であった。子供の頃から、横田慶哉師の法脈のご縁に連なっておられたのだ。残念ながら、一足飛びとはいかず、次回のご示談をお約束してお別れした。しかし、「またね」の「また」はなかった。次に連絡があったのは、一カ月半ほどしたころ。ただご示談の日程ではなく、葬儀の依頼だった。六十代後半での、突然の訃報。残された皆さんには、心の整理をつけるのがたいへんだっただろう。

   それから、二年。早くも三回忌も迎えた。愛別離苦の逆縁として、残された二人のお嬢さん方々が、仏法相続をしてくださるようになったことだ。それは、お母様の願いでもある。近しい家族だけでの年忌。『子供の聖典』でお勤めし、そのあとお『正信偈』を勤める。30分の予定だった法話は、40分ほどになってしまったが、残された遺族の皆さんには、故人が聞かれていた仏法の一端をお伝えしたかった。それは故人の願いは、同時、阿弥陀さまの願いでもある。

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教行寺報恩講

Img_8122 大阪支部の翌日は、教行寺報恩講のご縁。

『仏敵』の旅で訪れた大和高田市に近く、高速ICなら隣接していたのに驚いた。野口道場や当専寺は、どこか遠い(憧れもあって)存在であるが、毎年、お邪魔する教行寺の方が物理的な距離(ほんの少しだが)があるのに、グーンと身近に感じられる。

 Img_8138そんなこともあって、今回は、朝座から、後生の一大事と廃立の2本柱について、『仏敵』を通してお取り次ぎをさせていただいた。同じ奈良県の近くに、こんな妙好人がおられたことを知ってもらいたかった。そしてそれは特別なことではない。およし同行は、一文不通の尼さんである。学問や知識はなくても、信の一念に貫かれているのだ。それは了妙さんにも同じことがいえる。しかも了妙さんは蓮如上人のゆかりであるが、教行寺もまた蓮Img_8123如上人のご旧跡という縁がある。要は、信心を喜ぶのは、特別な人でも、学問や知識があるなしではない。皆さん、ひとりひとりの問題である。なぜなら、誰の人にも後生の一大事が迫っているからだと。

 そして、今回、いちばん有り難かったのは、信仰座談会の提案をいたたいたことだ。昼座二席の後、本堂から講師室に場所を移し、有志の方が車座に座り、皆さん一言ずつは発言くださったのだ。華光の皆さんも、高知、京都、大阪からお参りがあって、ご門徒さんと一緒に座ってくださる。ほとんどが顔見知りだが、初めての方も2、3名おられた。最初は、遠慮して、次の間の陰に隠れておられたのが、やっとのことで見える場所に座ってくださり、発言もしてくださったのはよかった。

 時間は40分ほどたったが、それぞれが自分の聞いているところをお話くださった。ここに自ら座られる方は、かなりご教化の行き届いたお同行さんで、感心させられたのだ。まだまだ皆さんとご一緒にとはいかなくても、ひとりでも多くの方のご縁が深まっていくことを願っている。その意味では、少しくさびを打たせてもらえたのかなー。南無阿弥陀仏。

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殺生罪に飲酒罪

Img_7183 Y家の家庭法座では夜座はなく、そのまま「あり田」での宴会になる。いつもながら。これがおいしくて、楽しい一時だ。

 昼座、仏さまのお供えにはお酒や生臭物(匂いの強い食べ物)はお供Img_7174えしないものだが、今では、本願寺の別院でも日本酒がお供えされるという話題が出ていた。
 ところが、数時間もしないうち、目の前に殺生の塊の刺身と肉と、そして酒が並んで、悦にImg_7175入っている。
 
 いつのまにか、いのしし年の皆さんが、「いのImg_7188しし会」を結成されて盛り上がっておられる。大虎ならぬ大猪である。ちなみにぼくは寅年で、イノシシ会に負けない人数が揃っていImg_7187たが、ぼく以外は禁酒されていて大トラ会は不結成に終わった。

 連れ合いはここでは日本酒を中心に、二軒目のスペースワンではウィスキーやカクテルを呑んでいた。家と違ってぼくもうるさく言わないのImg_7194で、心置きなく飲めて大満足である。

 慈心不殺は、世福の善行の第3番目、不飲酒(ふおんじゃ)も、共に人間に生まれるための最低の戒律である五戒の一つである。殺生も飲酒も、地獄行きの罪である。もちろん、浄土真宗は肉食妻帯、お酒もお許しではある。しかし本願の上ではお許しであっても、それが浅ましい業の姿には変わりはない。植木等氏によると、「凡夫とは、『わかっちゃいるけどやめられない』」愚かなも存在ということになるのだ。 南無阿弥陀仏

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日高町での四十九日法要

  朝から豊岡市日高町での四十九日法要へ。予定通り出発したのに、途中で、着ていた法衣を汚すというトラベル発生。すぐに引き返す事態になってしまった。それでも、連れ合いの得意の運転で、無事に到着。高速や自動車専用道がこの町まで伸張し、昔に比べると、1時間Img_7009から1時間30分は早く到着するようになった。大助かりである。

 S家へ入る。茶の間から「いや~、先生ご苦労さまです」という、Sさんの声が聞こえてくるようだ。ぼくが大学生の時から、いちばんご縁を結ばれてもらっているお家である。

 仏壇の横には、若き日の父の五条姿の写真が飾ってある。まだぼくが生まれる前。父が30代の頃なので、もう60年以上前のものである。当時から、ここが法座の会所であり、また父のお宿でもあった。どれだけ多くの念仏者が育ったことだろう。この日高の地だけではない。全国各地の無明業障の恐ろしい「病」を抱えた同人たちが、駆け込んでき、またどれだけの方が大きな幸せをされたことだろうか。日本だけではない、アメリカのお同行さんもお出でになっている。

 その仏法の機縁を、Sさんは護り続けてきてくださった。

Img_6994 満中陰の法要なのだが、親戚だけでなく、近所の方、同人の方も含めて40名以上ものお参りがあった。みんなで心を一つに、お正信偈をとなえ、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とお念仏をさせていただく。法話は、仏さまのおこころについてたが、テーマを「四無量心」に絞った。「慈無量、悲無量、喜無量、捨無量」であるが、これを阿Img_6995弥陀札のお心、お働きとしていただいた。哀れで、愚かな、しかも大恩なるものを平気で傷つける私ことを、いちばんに救いたいという大慈のお心で、自らのお命を喜んで、捨ててくださるその大悲のおこころを、「六牙をもった象王」のたとえでお話した。けっこう、皆さん真剣に聞いてくださっていたように思う。

 それにしても、暑かった。少しはましかと思っていたが、昨日は盆地である豊岡市が全国でいちばん暑く、その余韻が残って、今日も38度を超えた。会食場所は神鍋高原のお店だったが、高原の爽やかさとは無縁の暑さ。

 でも御馳走は美味しく、お腹いっぱいになって、二人とも夕食抜き。御馳走になりました。

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葬儀~外護の善知識(3)

2年ぶりに葬儀の依頼。日高支部のS家のご主人が逝去された。

思い出はつきない。日高(当時は江原支部)の日曜学校の後、夜座に初めて大人の法座でお話させてもらった。大学生の時だった。未熟だった。今思うと、ほんとうに恥ずかしい法話をしている。その時にお宿がS家だったが、それ以降40年近く、ずっと日高支部の法座会場として提供してくださっている。父から数えるともう60年以上になる。会場だけでなく、お宿もしてくださるので、家族と一緒に御馳走をいただいた。Sさんは冷酒と決めておられた。晩年は、決まった銘柄のお酒を取り寄せて飲んでおられた。ご信心のことで、深く語り合ったことはない。法座も、勤行と法話が終わるとお休みにいかれた。

それでも、ぼくには外護の善知識であった。いや、ぼくだけではない。この地を訪れる方のお宿や食事を提供くださり、法座をもってくださっていた。日高支部の皆さんにといっても、多くの華光同人にとっても、外護の善知識であった。ご長男でありながら養子に入られた。ご法を第一とするS家は4名とも女性で、その末娘さんと結婚されたのだ。穏やかな性格の人で、娘さんたちも怒られたことがないといっていた。そして、常々、法の相続を願っておられた。「先生、後はよろしくお願いします」と、夕食の席では最後に必ずそう話された。

3年前、40代後半の娘さんを亡くされた。通夜で肩を落とされた姿が、まだ目に焼きついている。通夜の食事にも一切、手をつけず静かに涙を流しておられた。いくつになっても親の子に対する心は重いのだ。その後、ガクンと弱っていかれるのかわかった。倒れられて、そう長くはないかもしれないと連絡があったが、その日、かなり回復もされていた。最後にお会いしたのは、今年の3月の法座の時だ。居間でイスに座っておられた。お声がけしても、言葉は発することはできなくなっておられたが、それでも静かに目配をされて合掌して、お別れの合図を送ってくださった。

葬儀で着衣した夏の色衣と七条袈裟は、Sさんが寄進くださったものだ。七百五十回大遠忌の記念とさせていただいたのだ。あの頃のさまざまな思い出甦る。苦しい時に、快く応援くださったのが身にしみる。七条袈裟の裏にはSさんの名前が縫い付けてある。その袈裟を着衣して、Sさんの葬儀を執り行うことになった。ここでも深いご因縁。万感胸に迫る。

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外護の善知識(2)

永代経が終わった翌日、高山のFさんからの電話があった。1月の報恩講でも、11月の華光大会の後でも、大きな法座の後には必ずあることだ。でも、法話の質問でも、法座の感想でもない。

 撮影くださった法話DVDの編集についての相談である。

 Fさんは、今年の九十歳になられた。このために機材を購入くださり、毎回、撮影のために宅配便で送ってきてくださる。それもすべて自費負担してくださっているのだ。Fさんの仕事は早い。機材が自宅に戻ったらすぐに編集に取りかかってくださる。先生方の法話タイトルや組み合わせを尋ねられるのだ。そして、法座終了後、1週間以内に編集原盤にダイビングされたDVDまで送ってきてくださるのである。今回も、5月5日には会館に完成品が届けられていた。

 ところが、御礼の電話しようと思ったら、Fさんが倒れて入院されたという一報が入ってきた。

 病院は、高山法座の会所への道にあって近かった。お見舞いに窺う。右側は麻痺していて、言葉もほとんど聞くことはできなかった。それでも、意識はしっかりされていて、こちらの言葉に反応くださる。お別れの時には、片手で手を合わせて(合掌したかたっのだろう)お見送りくださった。

 Fさんは、このDVD撮影を悟朗先生からいただいた自分の仕事だとライフワークにして取り組んだくださっていた。毎回、足の少し不自由な奥さまの手を引きながら、仲睦ましく参詣くださる姿は、法座の風物詩でもあった。しかし、高齢になられて、京都に来るだけでもお疲れであろうに、如来さまの仕事だと、いのちのある限りやられてもらいますと仰っていた。同時に、最近は、「これが最後です」というのも口癖であった。永代経の終わりも、少しお疲れの様子にも見えて、心配していた。

 でも、責任感の強い方で、撮影だけでなく、編集、ダビングを終え、会館に送付された直後に倒れられたというのである。

 まさに執念。頭を下げるしかない。もし永代経DVDをお買い求め方は、Fさんの法にかけるお心も聞いていただきたいのだ。

 Fさんのこの仕事は終わる。機材を会館に寄付してくださるという。

 さて、Fさんの後継者はでてくるのか。Img_6773
     ≪病室から乗鞍岳が美しい↑≫

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集落の中心に信仰

Img_6620休憩時間、お寺の周りを散策する。

山合いの集落、山があり、河があり、のどかな風景が広がり、美しい。
Img_6607当然、コンビニも、お店も、自販機もない。信号機もないのである。
Img_6610しかし、集落の中心は信仰がある。

そこかしこに石碑や石仏が点在している。

中央の小高い地に、神社があった。

Img_6611その向いにおImg_6629寺。真宗大谷派の寺院である。

ここを散策中に、古老に出会った。この村の中心はお寺に隣接する毘沙門さまだという。なんでも、応仁のImg_6632乱のころ、赤松氏ゆかりImg_6637毘沙門さまをImg_6641お祀りすることから、この集落が始ったという。寺院の横に、数段の石垣の上のお堂が毘沙門堂。残念ながら扉は閉まっていた。ここはお東のお寺が収めているという。Img_6650

Img_6673 そしてもう一つが、本願寺派の法林寺である。

 500有余年の歴史がある古刹だ。毘沙門堂の話をすると、「こちらは、阿弥陀堂を預かっています」とのことだ。クネクネした細い集落の道を入っていくと、阿弥陀堂があった。今は公民館として使われているようだImg_6696が、ここの阿弥陀さまは、坐像だという。かなりの歴史があるようだ。

小さな山間の集落だが、何百年も篤い信仰と共にあったことがよくわかる。法林寺も、小振りImg_6657ながらも風格のあるお寺なのも、その所以であろう。単なる建物の相続ではなく、そこに信心の喜びの相続があったことだと思われる。これからは何かと難しい課題もあるだろうが、形式だけでなく、ご信心の相続もしていただきいものだと、そんな内容のご法話は最後に付け加えた。
Img_6714_2 
  ≪榊の阿弥陀堂↑≫ 
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≪ちょっとバランスの悪いドラえもん像↑≫ 

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お斎

Img_6284 お昼にお斎を頂戴する。長年続く伝統の味である。器をまもり、味をまもり、そして伝統を守っていく。相続することはなかなかたいへんなことである。ある求道者の方が、確かにお斎は美味だったが、Img_6286昼食、夕食、そして昼食、夕食と続くと、肉が食べたくなって、コンビニでフランクフルトを貪り食べていたと書かれていた。でも、講師はお斎はImg_6289昼座のみ、夕食は豪華なステーキが出てきたりする。

 有り難いことに、連れ合いも一緒に呼んでくださっている。彼女は、夜の懇親会を楽しみにしているのだか、一Img_6300昔前に比べると、常連メンバーも多忙になり、年齢と共に無茶ができなくなっている。今夜も、一人去り、二人去りで、2時を過ぎると住職とぼくたち夫婦だけになっていた。初日は久しぶりにA氏もいて、連れ合いが盛んにダメだしをしていのが、Img_6295面白かった。さすがに最座までは付き合わなかったが、それでも3時近くまで付き合っていたと思う。父と子の長年の確執が一触即発の緊迫した場Img_6308面まで体験させてもらった。有り難いことである。

 休み時間にはお寺の周りを散歩する。3日間ともあいにくの天気だったが、初日はまだ曇り空だった。中庭のさつきが花を咲かせている。例年、菜の花が満開の時間なのだか、今年は様子が違った。護岸工事中で、河原も無残なままだっのはびっぐたした。境内には、樹齢500年近い巨木がかわらず聳えているのだか、実は、少しずつでも風景は変わっていくようである。

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春の仏の子供大会で感じたこと

 春休みに行われた「春の仏の子供大会」。「講習会」を2月に変更してまで春休みにこだわった。そのおかげで、久しぶりに参加者が多かった。班対抗での活動ができたのである。

 ただ、以前と違ってきている。子供たちもいろいろな個性のある方がおられて、一筋縄ではいかない。じっとしておれなない子もあれば、極端な人見知り、声が出づらい子もいる。個性ではあるが、その中で同時に集団生活や一体感のある集いになるのかは、先生の力量もまた試されてくる。その分、先生も手厚い人数が揃った。幼稚園や小学校の先生も交じっておられるので、どうにか2日間を事故もなく過ごすことができた。それが一番有り難かった。

 そしてもうひとつうれしかったのは、3回の法話のうち、初めて担当される方が2人もあったことだ。二人とも、子供大会の出身である。ひとりは大学生で、トップバッター。テーマ「仏さまについて」である。みんなに問いかけ、そして自分なりに考えたところを述べてくれた。子供のときに「因果の道理」ということが印象に残っていたという。ただ、仏さまに関しては、皆さんの反応(大学生の分級座談)でも、慈悲の面が中心で、なかなか智慧の面が出でこなかったのは、もう少し踏み込んで聞いてもらいたいところだ。

 もうひとりは、子供の時には随分個性的であった男性で、ぼくとしても感慨深い。
 罪悪がテーマである。ほんとうに率直に、分からないことは分からない、喜べないことは喜べないと、自然なところでお伝えくださった。子供時代は、ちょっと悪かったらしくて、それを「帳消し」にしてくれる都合のよい念仏であったらしいが、「それってすごく自分勝手な心ですよね」と、彼は言う。
 分級座談で、誰かがいった。「分からないことは分からないと言っていいのだ」と。当たり前のことであるが、それを率直に表明できるかが、結構、難しい。大人だった同じことである。みんな優等生になってしまう。その方が、信心に近いように間違うのだ。でも、彼は無明ということを、自然体に教えくれたように思えた。

 二人が異口同音に言ったことは、前に立ったらまったく違っていた。難しいかった、ということである。

 その経験が大切である。いろいろと課題もあったので、ぼくもその後で指摘させてもらったが、一度、経験したことで、それがスッーと理解してもらえるのが、よく分かった。簡単なように見えていても、伝えることの難しさを実感することは、結局、どれだけ自分が理解して身になっているのかが、問われることにほかならない。そのことに気付いてもらっただけでも、大収穫の集いだった。

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