カテゴリー「法味・随想」の303件の記事

法に追い立てられる幸せ

   今月は、あっという間に月末になった。ブログも月初めに1度だけだ。特に法座や座談会が続いた。2日おきくらいで法座がある感じがするなーと思っていたら、1ケ月の内、15日間が法座があったので、実際は、1日おきということになる。加えて、永代経が4日間、高山・仏青合同法座、真宗法座の集いと、本部関連の宿泊法座が集中したこともある。

 ということで、しばらくは永代経法座の余韻を味わっていたが、思いが大きい分、言葉にはまだなりきっていないうちに、すぐに次の法座、次の法座と、次々と法が追いかけられてきた。もうまるで、逃げるものを追いかけ摂取するぞ! ように法が負いかけてくる。ご法からはけっして逃げらないのである。休息(くそく)なしで働き続けられる如来様や菩薩様のご苦労でもある。ならば、逃げるのではなくその渦中に飛び込んでいくことにしている。おかけで充実した法座が続いている。高山と仏青の合同法座でも、真宗法座の集いでも、皆さんから聞かせてもらうことが多かった。

 思いつくままに短くても、まとめたものにふれていきいた。

 

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コロナ禍の三回忌法要

 京都支部の中心的メンバーであったMさんの三回忌法要を営む。

 法要や法事も、新型コロナに翻弄された二年間だった。今回も、葬儀ホールで、故人の姉妹、親族や友人も招いて、会食も開く計画で進んでいた。ところがオミニクロン株の広がりで、いろいろな声が出てきて変更が続いた。まず会食がなくなり、そのうち不参加が増えてホールは取り止め。一時は、延期や中止の声も出るは、当日も欠席は出るわで、喪主さんも右往左往してたいへんだったと、愚痴っておられた。
 
 それでも尊い仏事には変わりはない。むしろ、年2回、家庭法座を開かせていただいたいるご自宅のお部屋で、一番因縁深い、ご主人とお子様2名が座ってくださったことかよかった。

 勤行が終わり、法話が始まると、今にもMさんが台所から現われて、うれしそうに頷きながら聴聞され、また涙され、そしてお念仏されていた姿がそこににあった。とにかく仏法が好きで、法を語り合うの好きで、賑やかなのが好きな人であった。時には、感情的にすねって愚痴一杯になられたり、本気で怒ったりもされた。一度、そうなるとなかなか収まらず、毒も吐き続け、辛辣な言葉や感情的な態度で同人間でのトラベルも多かった。それも含めて、すべて凡夫の生地のままを出し、仏法をこの身で喜んでいかれたのである。そして、自らの余命を知ると、気にかかっていた同行の方にますます働きかけ、そして、最後は後に続く念仏者の仏法相続の一助にと尊い配慮までして下さっで、逝かれたのである。南無阿弥陀仏

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広島法供養法座

 こちらは年忌ではないが、通常の支部法座を法供養法座として、ひとりでもご縁のある方にお参りいただこうと営んでくださった。おかけで、真宗カウンセリングではご縁結びながら、法座では初参加の方や久しぶりに参加くださる方もあって有り難かった。

 ただ導師を勤めるぼくは間抜けそのもの。五条袈裟や輪袈裟は持参しながら、黒衣を入れ忘れるという大失態。いやお恥ずかしいかぎり。気分的にはひきずりつつ、「ごめん、ごめん」と頭を下げて気持ちを切り換え、「救われるとは」と題したご法話。

 このところ続けて、『御伝鈔』の「まったくわたくしなし」、いろは歌のもとになった「雪山童子と羅刹」、そして「食法餓鬼」の3つの法話を味わってきた。同じテーマでも、聴衆や会場の雰囲気によって、内容は同じでないから不思議だ。また皆さんの反応や声を聞いて、ぼく自身が気づかされ味わい直すことも多く、一番最初にご法話をした時とは違ったものになってくるから不思議だ。

 今日は、初めて話すテーマ。最初なので、モタモタもするが、率直にいま味わっているところ、一番、伝えたいところに絞って話させてもらった。

 「お救い」とか「お助け」、「お救いあう」という風に使われ、真宗では最重要なテーマだ。それでいて、有り難いような、どこかぼんやりして、ハッキリしたようでしないのが、「救い」ということではないか。今日の浄土真宗のお救いの説ぶりを批判的に捉えながらも、人のことではなく、自分の上で、はっきりとその一点に焦点を絞って聴聞しているのか。「私はほんとうに救われいるのか」「そこがハッキリ喜べるのか」、そのうえで「真宗のお救いとは何か」という要点を、皆さんに問いかけながら聞いていただいた。

 しばらく、このテーマでご法話をさせていただくことになるが、皆さんのお声に触発されながら深めていきたいと思っている。

 

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食法餓鬼

 食法餓鬼

 私が生きるということは「食べる」ことである。それはすべての生き物の第一の優先順位だと思っていた。しかし、力の弱い生き物は、自らが食べられないことこそが、生きることなのだという。食べることよりも、食べられないためを第一に進化してきたものも多い。卵のときはもちろん、幼虫のときも、成虫となっても、常に捕食さることが、最大の恐怖なのである。

 しかし、人間に生まれたら、捕食される恐怖も、踏みつぶされる恐れもまったく感じない。絶対強者として、他のものの命を食して生きている。もうすでに生きるために食べるのではない。楽しむために食べているのだ。何を、どのように美味しく食べるか。珍しいおいしいものを求めて、飽きることなく奪い続ける。他の生き物のために、わが命を差し出すこともなく、ただ楽しみのために食べる。しかも、ご法に会うことがなかったなら、当たり前のことで、何の罪悪観を感じることもないのだ。まるで餓鬼ではないか。

 餓鬼道とは、貪りの世界であり、慳貪や嫉妬の世界だと、『正法念経』には説かれる。単に、欲しい、欲しいと貪るのではない。あり余るほど持っているのに施さず、加えて他人の持っているものをうらやましがり、妬んで、相手を傷つけても奪おと必死になる。それでいて、どれだけ得ても、決して満足(満ち、足りる)するこはなく、常に飢え、苦しみ続ける世界なのだと。

 源信僧都の『往生要集』に、餓鬼道が詳しく説かれている。私達が考えている餓鬼の姿は、ほんの一面である。

 「食法餓鬼」という餓鬼がいる。真っ黒なからだで、険しい山坂を走り回って、法座の場を求めている。しかし、なかなか法座には出会えない。おいおいと泣きながら、やっとの思いで法席にあい、読経や説法を聞いて命を保っているというのだ。法を喰らうのだから、餓鬼の中でもかなり上等の部類だ。がしかし、いくら聞いても聞いても満たされることはなく、今もまた法席を求めて、必死に泣きながら求めている。法を喰らい、取り込むことしか考えていない。決して、自らを差し出すこともなく、自分の欲望のためだけに、今日も法を求めているのである。

 あり余るほどの法徳を頂きながら、常に、もっと「くれ、くれ」と求め続けている私の姿と、どこがどう違うのか。
               

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ここが難しい

 「こころの勉強」がテーマ。

 学校にはいろいろな勉強がある。
 
 幼児から、小学生、中学生、高校生、大学生と参加者がいたので、それぞれがどんな勉強をしているのか尋ねる。成長に合せて、段階的に課題を習得して、次ぎの課題に取り組んでいくことがよく分かる。

 もちろん勉強にもいろいろな種類がある。知識を得るだけではなく、理解や思考して、考え方を身につけたり、技術を得たりする。スボーツでもそうだ。同じ競技でも、速さ(スピード)を求められるものもあれば、長く(持久力)が必要なものもある。強さが大切だったり、正確さや集中力が一番なものもある。体力、技術、メンタル(精神面)と、一外にいえるものではない。

 それでも、大きく分けると、 

 頭の勉強は、賢くなるためにするものだ。
 体の勉強は、強くなるためにする。
 芸術関係なら、うまくなるためにするのだろう。

 ということになる。では、こころの勉強とは何か。その目的は何か、そしてその手段や方法は? 何を、どう勉強すればいいのだろうか。
 
 一般的に、こころの勉強とは、心をきれいにすること。正しく、立派に人になることを目指しているのだ。

 そうだとしても、それをどう評価し、実践するのか。頭の善し悪しや理解の有無は、テストや受験で評価できる。運動は、数字で進歩を現わせる。芸術の評価は難しくても、上手とか下手の評価が数字で出される。しかし、「こころの勉強」を評価はできない。一昔前なら、善行(親孝行とか、社会に貢献した)が表彰されたものだが、行いとして外に表れたものであって、ほんとうのこころではない。「こころがきれいな人だ」はどこまでも主観であり、こころをきれいにする方法もないではないか。

 それでも「こころの勉強」と言葉にすると、なんとなく分かった気にはなる。でも実際は何も分かっていないのだ。

 しかもだ。浄土真宗での「こころの勉強」とは、「こころきれいにする」ことでも、「いい人間になる」ことでもない。それでも、多く人が、ご聴聞とは、至らない自分を知らされて、少しはましな人間になることを目的にしてはいないか。もしくは知らないことを教えて頂き、少しでも正しい教えを身につけることが大切だと思ってはいないか。

 でもそれはまったく浄土真宗の聴聞ではなく、役立つどころか、聴聞の妨げになるのだから、まったく恐ろしい話だ。

 もし浄土真宗にこころの勉強があるならば、愚かな自分、至らない自分、恥ずかしい自分を、仏様の鏡の前にたち、ありのままに教えていただくことだけである。そして、賢くなるのでも、立派になるのでも、きれいになるのでもない。ただひたすらにほんとうの自分=仏様の目に写った私を聞かせてもらうだけなのである。

 なんという常識を超えた教えだろう。

 ここまでくると。突然、話が飛躍したと感じる。私たちの常識を超えた教えだからだ。むしろ、「自分を知らされ、少しでも努力し頑張って、よりよき人になりましょう」といわれるほうが、ずっとわかりやすいのに、そうはいかないのが真宗の難しさ、厳しさがある。

 要、ほんとうのことをほんとうと聞かせてもらうことだ。「アホ」を「アホ」と聞く、「悪人」を「悪人」と聞く、「地獄行き」を「地獄行き」と聞く。ただそれだけだ。

 でもね、そこが難しい。「あほ」に「あほか!」と指摘すると、へそを曲げ、抗議されるのがおちだ。みんな本当に聞いていない。南無阿弥陀仏 

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「瑞香抄」より

   年に2度、1月と7月に同人会ニュースを発行しているが、先週、令和3年7月号を発行した。

 巻頭は、古い華光誌から伊藤康善先生の誌上法話を掲載してきたが、それもとうとう一巡した。

 ということで、今回から、40年前に「月報」という形で月刊のニュースレター形式を考えたのだが、肝心の華光誌が発行できず、2年持たずに取り止められた。そこに再掲載していた創刊2~5年のもっとも古い伊藤先生の随想(法話という一言集)を゛もう一度掲載することにした。

 華光誌も創刊80年を迎えたが、月報発行から40年を過ぎ、当時を知る人もごく少数派となっている。

 ところで、月報では、伊藤康善先生の法名にちなみ「瑞光抄」と名付けると悟朗先生が命名されたのだ。ところが、伊藤先生の一昨年、50回忌記念の聞法旅行で墓参したところ、墓石に刻まれていたのは「瑞光院」ではなく「瑞香院釋康善」だったことが判明したのだ。善知識の院号を間違えいたのである。いかにも華光らしいおおらかな話ではある。それならば、「瑞光抄」は拙い。それで「瑞香抄」と命名することにした。

 すると光から香りとは有り難いなと思う。香光荘厳(こうこうしょうごん)ではないか。

「染香人のその身には 香気あるがごとくなり
 これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳とまうすなる」(大勢至和讃)

とある。その「染香人」に、親鸞聖人は「念仏は智慧なり」と左訓されている。阿弥陀仏よりたまわった智慧の香りと光によって、念仏者が飾られていくことを表しているのである。

 さて、伊藤先生の文からは、どんな香りが伝わってくるのだろうか。どうぞ、これからの連載をお楽しみに。
 
 「瑞香抄」(1)「閃光雑記」(第2巻1号・昭和18年)より抜粋

ある娘曰く、「何だか『同行巡礼記』に書いてある妙好人などは、薄のろで、お馬鹿さんのような気がする」と。華光道場の人々も、世間的には薄馬鹿であろう。

現に罪悪を犯しつつある人に限って、「罪悪の見方をどうすればよいか」と尋ねる。「どうすれば」の言葉を聞く度に、胸に針を刺される思いがする。沈黙を守れ! 何でもない一言で相手を殺している。日々の殺人罪八万四千なり。日々の生死もまたしかり。

 

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開催か、中止か

  明日から福岡で家庭法座だ。冬(1月)と夏(7月)の恒例行事でもあり、そこでしかお会いできない方もあり楽しみな法座だ。

 梅雨末期となって、西日本のあちらこちらで線上降水帯が発生して、大雨になっている。昨日は、山陽新幹線も、一時、ストップしたようだ。
 
 昼過ぎ、施主様からお電話。「早めに中止の判断をすべきかと思いますが」という相談。昨年の大分でも帰路が台風でたいへんだった。今回も、大分や熊本からの参加者もあり、h明日以降も九州は大雨が予想されていて、止めるのなら早めにということらしい。
 新幹線が停まれば行けなくなる。ただ遅延程度なら早めに出発すればいいし、帰路ならなんとかなる。新幹線が動くなら開催してもいいと思っていた。ただ京都は降るときは土砂降りだが、止め間も多くてうっすら晴れ間もあって、中止となる実感はなかった。それで、もう少し様子をみてもらうことにして、最終決定は、九州の状況をみて判断はおまかせることにした。

 コロナだろうが、地震だろうが、独自の情報をお持ちで動じない方からの申し出は、意外だった。それだけ状況が悪いということか。ニュースをみると、九州南部は特別警報級の大雨になる(実際、翌朝には発令された)との予報。電話の口ぶりから「中止やむなし」が伝わってきて、急に力が抜けてきた。一旦、緊張の糸が切れると、作業が手につかなくなる。中止の場合の段取り(ZOOM開催は出来るか)を考え出した。そうなると、無理をするより、中止がいいような気がするから不思議なものだ。

 夕方にもう1度電話。雨も弱くなったきたので、やはり予定どおり開催をするとのことだ。はい、それはそれでよかったです。が、もう一度気持ちをつく直して、教材の準備を始めることにした。

 翌朝、九州南部は特別警報が発令される。でもこちらは曇り空で、山陽新幹線も通常運転。雨は覚悟していてたが、西に向えば向うほど天気が回復していきて、山口あたりから晴れ間が広がって、拍子抜け。2日間、傘を開くことはなかった。おかげで、大分、熊本組も無事に参加、事務所の新人の方も初参加もあり、予定通り法座が開かれ、懇親会もせつことができた。

 当たり前のことではあるが、種々のご因縁が整わないと法座は開かれず、一座一座のご縁を大切にせねばということを、改めて感じさせられた。

 

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7月の仏書に親しむ会~如来の三身~

 参加者のリクエストで始まった『真宗安心一夕談』。前回、第1章が終わって、第2章に入る予定でいた。

 今回は、事務局の問題で、急遽、Zoom配信が取り止めになったが、本文にはいる前から質問が出された。有志が前日に集い、自主学習会を持つほど力を入れておられるのだ。その意気込みのは感服するばかり。予習より、復習が中心に、みんなで話し合ったが分からなかった疑問点を質問されたのである。

 その過程で、「そこは分かっています」といわれた如来の三身について、念のためにお答えしてもらった。すると、法身仏が法蔵菩薩、報身仏が阿弥陀如来、応身仏は釈迦如来との返答。「如来」の三身なのだがら、法蔵「菩薩」が出てくる点でおかしいのだが、誰もそのことに疑問がなかったというである。

 こうなると、このまま終わるわけにはいかない。本文からは脱線してしまうが、かなり基本的なところからおさえて、如来の三身についてお話をさせてもらった。語句の説明というよりご法話になって、ほぼ時間を終えてしまった。最後の感想では、けっこうポイントを押さえてくださっている方もあったが、三身の話が尊かったと喜んでおられる方もあった。でもそれも当たり前の話で、そのような法話をしたからである。できれば、もう一歩でてほしかった。この会の趣旨は、『仏書に親しむ会』なのであって、一方的な講義や法話を聞いてもらうためのものではない。そんな集いにしたくないのである。自主学習会を持つほど力を入れておられるのはすごいことなので、単に有り難かったとか、尊かったという感想で収めずに、ここをどう聞かれ、どう理解されたのかに目を向けてもらいたい。別に、知的な理解を尋ねているのではないが、せっかく伊藤先生の聖教量にあたっているのに、「有り難い」「尊い」という感情で終わるのでは、意味ない。結局、何が一番伝えたかったことかという読解力と、本質をつかんでもらいたいのだ。もしくはそんな姿勢で臨んでいただくことで、次へとつながりを聞いて頂きたいのだ。もちろん、それにはこの文章を読めるだけの知識も必要だから、その点はなかなか厳しい点もある。しかし、華光同人には、受け身でおわらないで、なお一層の力を付けてもらいたいのである。それにはこのテキストが相応しいかどうかはわからないが、皆さんの同意で始まったのだから、もう少し続けていくことにしよう。

 8月は夏休み。次回は9月4日(水)18時50分の予定。今回読めなかった「第十八願」から読みます。

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お葬儀

 奈良国立博物館を巡ったばかりだが、また奈良を訪れることになった。奈良市を通っていくルートは同じだが、今度は、室生寺の近くの山寺である。

 お世話になってきた恩師の奥様がお亡くなりになった。いまも、一方ならぬお世話になっている。
 
 媒酌人をつとめていただいた後、ご挨拶に窺った時には、手料理を振る舞ってもらったことも思い出のひとつ。

 面識のある婦人会の会長さんの弔辞も有り難かった。仏法広まれのおこころで、ご法をお守りくださっていたのである。

 土砂降りだった雨もお見送りの時には晴れ間も覗いていた。お念仏と共に見送らせていただいた。南無阿弥陀仏

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百ケ日法要~『横川法語』~

 2月に葬儀があったN家の百ケ日法要。

 法話は、源信様の『横川法語』を頂く。短い法語だが、そのお心は深く、重い。

 第一段の冒頭。「まず三悪道を離れて人間に生まれること、おおきなるよろこびなり」と始まる。これを、わが身にかけて頂くだけでも、生まれ難い人間に生まれたこを、ほんとうに喜んでいるのか。地獄、餓鬼、畜生の三悪道を離れ、やっと人間と生まれたながらも、結局は、地獄や餓鬼、畜生ような生き方をしてはいないか。
 もちろん人間に生まれても儘ならないことばかりなのだが、それはこの世を厭うたよりであり、そして菩提を?う(別バージョン)しるしである。仏法を聞く縁となる世界なのだがら、まず人間に生まれたことを喜べと言われているのである。

 そして第二段では、人間に生まれて仏法を聞く身となって、深き弥陀の本願に出会ったことを喜べと言われている。

 「人間に生まれたることを喜ぶべし」
 「本願にあふことを喜ぶべし」

 喜び、喜びといっても、ただこの世の幸せや、尊い命を恵まれたことを単純に喜んでいるのではない。その根底にあるのが、弥陀の本願に出会ったことの喜びがある。三悪道では聞くことが出来ず、生れ難い人間に生まれたればこそ、遇い難い本願に出遇わせて頂けるというのである。

 最後の第三段では、
「妄念は凡夫の地体なり」
「妄念のほかに別の心なきなり」
「臨終の時までは一向妄念の凡夫にてあるべきぞと…」
「蓮台に乗ずるときこそ、妄念をひるがへして…」
「妄念のうちより申しいだしたる念仏は…」

と、短い文に5度も「妄念」という文字がある。「妄念妄想」とよく使われるが、妄念とは、「真理・真如に離反した迷いの心」という意味である。それが私の正体であり、仏法を喜んでいても死ぬまで離れることのない私自身なのである。
 しかし、その妄念の凡夫であっても、また念仏を申すのが大儀で邪魔くさいあっても、その口から出る本願念仏こそが、「濁りに染しまぬ蓮のごとくにて、決定往生疑いあるべからず」だと結ばれている。

 そのお念仏は、単なる念仏ではないのだ。本願の念仏なのである。

 

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