カテゴリー「今日の華光会館」の500件の記事

水漏れ工事

 このところ、郵便局の別納手続きに、ゆうちょ銀行の確認書類、年金事務所や労働局には何度も足を運び、またNHKの調査もある。急に公共機関の手続きが忙しくなっている。特に、育児休業の手続きでは、何度も役所に足を運ばねばならなかった。一昨年から、事業所となったことによるのだ。そこに加えて、電話、電気、ガスの自由化で、セールスやら書き換えやらが繁雑に起こってきている。 

  それもだいたい一区切りつき、故障の電話も交換して安心していたら、今度は、雨でもないのに、会館の前の道路が濡れているのだ。道路からの水漏れだ。

Img_8963 前々日は少しだが雨も降ったのですぐに気付かなかったが、ここだけ濡れ続けているという。数年前にも、ここから水が吹き上がってきた。大晦日の夕方のことで、時期が時期で、鮮明に覚えている。ほぼ同じ箇所。一度、経験があるので対処の方法は分かっている。すぐに水道局に電話したら、すぐに対応してくださったが゛工事は明朝ということになった。

Img_8965 翌朝、ますますひどくなっている。すぐに工事の方がこれらて、「傷口と同じで、どんどん広がるのです」とのこと。

 丸1日かけての工事で始まれば、少し水道が止まったぐらいで、もうこちらには関係はない。それでも、予期せよことが起こると、時間も取られていく。致し方ないことだが、煩わしい事務的な手続きが、ここ数年でかなり増加している。

 総会後には、役員改選の登記手続きもある。よ修繕工事の見積りも出揃う。本丸はこれからである。

|
|

電話機

この一年近く、電話の調子が悪かった。

まず、内線やインターホーンに雑音が入り出した。これが長く続くうちに、ますます聞きづらくなってきた。さらに外線の電話もおかしくなり出した。かかってきた電話が取ったと思ったら、数秒ですぐに切れてしまうことがある。それが連続で2度、3度と続く人もあった。こちらからかけるとつながったので、相手がわかる方はかけ直した。

様子をみていたが、なかなか改善しないので、修理依頼する。しかし、電話機(主装置)の寿命だといわれた。一応、応急処置で、外線の方は修復された。これで迷惑をかけることも少なくなった。これだけでも、随分気分は変わるものだ。でも、内線の雑音は続く。その点は不自由だが、会館内のことなので我慢しつつ、来年の2月の修繕の時に一括して交換するつもりでいた。その後、半年ほど、外線は問題なく使われていた。

その日も、前夜までは問題なかった。ところか、朝から、電話機はウーとも、スーとも言わなくなった。外線も、内線も、インターホンもすべて不通になった。なんの前触れもなかった。いや、正確には1年以上前から前触れはあったのだが、だましだまし先送りにしているうちに、完全に壊れてしまった。

元の装置を調べて見ると、そこまではコール音があるので、NTTの問題ではなく、こちら側の問題だ。すぐに業者に連絡し、翌朝にすぐに修理に来られた。だが、もう修理できる段階ではなかった。主装置の電源すら入らない状態だというのである。

ここで困ったのは、ぼくも、母も、Tさんも、携帯をもっていないことだ。唯一、スマホがある連れ合いがいるのが、彼女は、数日後には、劇団の仕事で3週間の出張が決まっていた。

応急処置で、事務所にだけ電話を復旧してもらった。しかし内線もインターホンもダメなのには困った。全部で7台なって、内線の設定もあるので、すぐに交換とはいかない。どの機種にするのかも、検討し相談する必要もあったし、業者側も発注の時間も必要だ。それでもかなりImg_8864急いで日曜日には設営が完了した。22年ぶりに新しい電話なって、便利な機能も増えてもまだ使いこなせていないが、トラブルがあったことが嘘のようだ。

今回の電話機のことは、人間のいのちにも似ているとも思った。故障や調子が悪いのは、いわば病気や老いと同じだ。故障なら修理するのは、病気の治療と同じ。そして、完全に直ならないなら、不自由なままでもつきあえばいいといことだ。もっともそれは寿命が近いというサインだ。だから、いつ突然に、ダメになるかもしれない。前夜までは、まだ普通に使えていたのに、前ぶりもなく目が覚めたら生命が亡くなっていたということである。

しかしここからが違う。電話が壊れれば、交換すればいい。しかし、私のいのちは、交換ができないのである。

|
|

華光誌編集作業

 無事に華光誌が印刷所に渡って、ホッとしいる。

 2週続けての宿泊法座で準備もたいへんななか、華光誌の作業にも追われた。

 3号ぶりに、事務所で華光誌の版下作製だ。慣れない作業であったろうが、新人のIさんが頑張ってくれて、大いに助けられた。最初から外注だと、今の作業の3倍の手間と、時間と、そのうえ費用もかかるのだ。部分部分の作業にならずに、完全版の全体なってから、3~4回のやりとりをせねばならない。しかも細かな指示もいちいち文字にする必要がある。それでいて、カットひとつ、文字サイズや字体、レイアウトの位置など、細かな点ほどうまく伝わらない。

 Iさんは、今回が初の編集作業だ。早めから開始し、頁も少し薄目にした。うまい具合に夏休み中で、作業は順調すすみ、予定どおり印刷所に渡すことができたのである。

 誌上講話は、悟朗先生の正信偈講義の第6回目。体験記は、3名だが、新連載の方は自らのイラトス入りで面白い。その彼女が、華光誌の他のイラスト(カット)も書いてくれた。ありがとう。記事は全体には小粒だが、パンチの効いたものもあるかと思う。
 小生の巻頭言は、浄土三部経の役割と、法座の構造を組み合わせてものである。その一部を、このプログにも載せている。

 まだ残暑が厳しい8月末からの作業だったが、もう新年号の年賀交換の案内も同封されている。

 順調なれぱ、9月28日(金)には発送の予定である。乞ご期待。

 

|
|

部屋の隅々まで

 台風で延期になった修繕業者の説明会がある。

 ご多忙の中、広島から設計士のM先生が来館。午前と午後に、別々の業者が、華光会館を見て回られた。屋上は屋上で、建具は建具という具合に、それぞれ3、4名の専門家を連れて回られる。

 ここに住んでいる身としては、少しでも片づいたきれいなところを見てもらいたいのだが、そうはいかない。むしろ、汚いところや壊れているところを念入れ写真に収めれる。押し入れの中も容赦なしだ。いつものように連れ合いは、散らかったものを押し入れに収めたり、隠したり、何かを被せて、急場をしのごうとしたが、逆にそこが先方のみたいところでもある。別に部屋の片づけ具合を調べにこられのではないのだが、やはり散らかっていると恥ずかしいものである。

 M先生が、詳しい説明し、丁寧に質問に応えてくださった。専門家同志でないと、素人はわらかないところも多い。結局、お昼を食べてもらう時間もなく、夕方までかかった。まだ少し細か所は別日程で、確認にこられる。

 罪業と同じで、隠しきれないということだ。いや、そこがお目当てなのだ。

|
|

聞法旅行の準備

  明日から、大雨で延期になった聞法旅行である。

 台風の心配はないが、北陸や山陰は大雨である。交通を心配されている方もあった。京都や奈良も雨になるだろう。問題は、どの程度かだ。墓参がある當専寺や、お庭を歩く智積院は、雨だと不自由だ。

 だいだい事前準備は済んでいたが、ぎりぎりまで最後の準備がある。体調のことで、参加を迷う人が出たり。中止の方もあった。連絡で、あちこち電話やメールも入れた。

 寺院3ケ所のお供えと、懇親会の簡単なお酒やつまみを買いに行く。他に簡単な資料作りをする。『仏敵』の構造は、昔、仏青メーリングリストに書いたものを、まとめた。これが分かるととても読みやすくなると思う。改めて読んで、驚くことばかりである。このブログにもボチボチ書いていこう。また龍谷大学(講堂)の資料もコピーした。火曜日にはここで講義を聞いて、写真もとった。龍谷大学と交渉したが、土曜日ということで、内部には入れてもらえない。その代わり、昼食を食べる智積院の拝観することにした。ここは下見済みである。
 名簿は造ったが配布はしない。その代わり、班わけや部屋割りを造ったので、夜遅くまで、折り込みなどをした。

 遠方の方が、すでに来館されている。一人は飲みに出られて、1時を過ぎてもまだ帰ってこられない。ぼくはブログ中である。これで、仕事は一段落。

|
|

8月24日(金)

  ブログが停滞している。

 その間、お盆参り、真カ研の会食会、高山支部法座、輪読法座に、同人の来客など、法座関係でもかなり書きたいことがあった。その他にも、勉強会や映画もかなり面白かった。とにかくネタがたくさんあったが、なかなか書きすすめることが8できず、苦痛だった。

 夏バテでもあるまいに、スランプである。何か1行でも書いておかないと、2週間も停滞するので、思い切って、24日の今日までワープした。

Img_7758 今朝はお盆参りだ。宇治の炭山は遠い。山の中は、昨夜の台風の影響があって、木が倒れたり、枝が道路を塞いだりしていた。もろちんお盆は終わっているが、日頃は東京におられた方が、ご実家に帰省されるのに合せた。まだお盆の代わりに彼岸のお参りを1軒残すのだか、これで、一応、お盆参りは終了した。

 帰宅して、会計のスカイプ会議に、運営委員長との華光大会などの会議、そして新潟・北陸支部問題で、Tさんともかなり意見交換をした。他にも、華光誌の編集が前倒しで進み、聞法旅行の準備も佳境である。

 いろいろと味わうことが多い1日。ある意味、しんどいが充実している。明日からは東京支部。さて、どんな出会があるのか。楽しみである。

|
|

お盆参り

 分散したお盆参りだが、今日は少しまとまってお参り。

 午前中は、堀川通りを北進して、加茂街道(鴨川)を遡って、鞍馬街道に進み市原まで。堀川通には、西本願寺、二条城、清明神社などの前を通り、賀茂川神社の横を通って行くのだがら、標識には、金閣寺や銀閣寺、大徳寺などのお寺も出てくる。

午後からは、京都南部で、伏見や宇治方面。御香宮から伏見桃山の明治天皇陵(乃木神社もある)を抜けて、日野の里(親鸞聖人の故郷)に近いお宅を回って、そこから、三室戸寺、宇治橋を渡って、平等院をかすめ通るルートだ。

別にどこにも寄らないが、有名な社寺仏閣や京都の地名を見聞きするだけでも、いつも観光気分になる。

 共に阿弥陀経を勤行し、御文章を拝読して、短い法話を聞いていただく。その後は、雑談をするのだが、今年は、どのお宅も「異常気象ですね」とか「いつまでも暑いですね」という天候の話をされたが、お盆になってもまだ暑い。仏間にクーラーのないお宅もあって、汗だくになった。でも、これもまたぼくにとっては、夏の風物詩である。

|
|

三周忌

    3年前の8月7日も、今年のように暑かった。やはり仏の子供大会が終わった後だった。父が亡くなって丸三年。三回忌は昨夏に済んでいる。今年は、三周忌ということになるのか。家族3名だけで、お正信偈様をお勤めした。

 勤行しながら、断片的に父のことを思い出していた。御文章の拝読は、子供のころに父から指導を受けたものだ。記憶では、勤行は重誓偈や讃仏偈の偈文が中心、お盆用の阿弥陀経、そして御文章(聖人一流章と末代無智章)は教えてもらったが、なぜか正信偈や和讃を教わった思いがないのが不思議だった。

 最後に『末代無智章』を拝読した。

 その『末代無智章』は、「寝ても覚めてもいのちのあらん限り、称名念仏すべきものなり」と結ばれる。信心を喜ぶものは、ご恩報謝のお念仏を日夜怠ることなく、しかも生命尽きとる瞬間まで一生相続せよというお示しである。

 ところが、幼いのぼくは「寝ても覚めてもいのちのあらん限り」を、「寝ていても、起きているときも、いつ死ぬかわらない」という意味で誤解していたのだ。末代無智章があがるたびに、ドキドキした。起きている時はまだいい。問題は寝ている間も、いのちがあるとは限らないというところだ。寝てまま死んでしまって、このまま目が覚めないのじゃなかいと思ったのだ。だから寝る時が恐かったりもした。特に、夏休みはその思いが強くなる。学校がなく、夏休みは取り立てた予定がない日も多いからだ。そして、仏の子供大会(特に地獄のスライド)があると、なお一層、その思いを強くした。特に小4年の時の記憶は鮮明だ。不安になると、母に「明日の予定は?」と尋ねた。「明日は歯医者さんや」などと教えてもらうと、明日は予定があるのだがら、きっと明日はあると思い込むようにしていた。

 神経質な子どもだった。しかしそのことが、仏法に出会い、大きな幸せを身となる機縁となるのだから、まったく有り難い。それもまた子供大会が終わった後のお盆の頃だった。

|
|

逆走台風

   福岡の法座は、台風の影響にやきもきした。土曜日は大丈夫だが、問題は帰路の日曜日。近畿に上陸後、東から西に向かう異例のコースを通るが、大阪から山陽新幹線のコースを福岡に向かう公算が高かったからだ。

 今年の夏は異常気象が続くが、東から西へ向かう台風など聞いたことはない。福岡での連泊、新幹線に閉じ込められた場合も考えて準備をした。コースは予報通りだったが、勢力が大きく弱まり、福岡への影響は少なく、新幹線も通常通りに動いていた。

 夜、帰宅すると、家の回りでは、いろいろなものが飛ばされていたが、いちばん驚いたのが、隣の印刷所の鉄の門扉が倒れていたことだ。飛ばされてきた空き缶入れが下敷きになっている。もし人が歩いていたら大ケガをしていたかもしれない。大きな台風ではなかったが、老朽化した建物や施設が凶器になるという一例。
 会社は気付いていないので、本社に電話。すぐに復旧されたが、根本解決は??
 皆さん、この門扉には近づかないでください。
Img_7208

|
|

修繕工事の下見

 役員のKさんの紹介で、修繕工事の請負業者が下見にくる。請負業者は3社ほどの入札で決めるので、現地説明を9月下旬に開く段取りだ。その前に、この仕事を受けていただけるのかどうかの下見である。
 見取図を示しながら、会館を見て回る。きれいに見えていても、その目で細かく見ていくと、修理の必要な箇所ばかりである。これにいちばん驚かれたのが、いつも会館に出入りされているKさんである。

 ひび割れの箇所、剥がれているところ、染みになっているところ、割れているガラスに、壊れた給湯器、屋上もコンクリートが剥がれ、玄関もガタガタだ。
 まるで私の罪悪と同じである。凡夫のわが身可愛いやの眼でみれば、きれいな、よいところばかりだが、如来の仏智眼に映るのは、見すぼらしい姿である。もし自分で気付かなかったことに気づき、そんな目で見出すと、哀れでしかないわが姿から目をそらすことができなくなる。一端、見え出すとそうとしか見えないのである。

 もし建物や物なら、修繕したり、きれいにすることができる。それでも修繕も補修もできなかったらどうするのか。取り壊してしまうしかない。
 
 では、我が身の場合はどうするのか。仏さまは、善行を勧められた。身、口、意の三業に渡る清浄の業を成すのである。しかし、それすらできない、やらないものはどうなるのか。ほんとうは潔く取り壊していくしかないのだが、これがなかなか難しい。なんとかなるとうぬぼれてく。そんなボロに執着し、その修復に汲々していくのだ。捨てることほど難しいことはない。

|
|

より以前の記事一覧