カテゴリー「法座と聞法」の1000件の記事

真宗法座の集い~体験告白からのグループ分け~

  真宗法座の集いは、少人数(20名)を厳守し、全日程参加を原則としている。少人数のグループに分かれて、座談会をじっくり行うことに意味があるので、法話もない。信・未信に関わらず、それぞれが自分の課題をもって臨み、創造していく法座だ。

 コロナ禍でも休まずに開いていたが、やはり人数は少なめだった。今年は久々に定員まで集い、懇親会の参加も多くて盛り上がった。華光会館での公式な懇親会(非公式ではあったが)は、やっぱりいい。徐々にではあるがもとの形態に戻りつつある。ただこの3年間、参加しなくなった人の出足は戻らない。このままフェイドアウトしていかれるのだろうか。それではあまりに寂しい。

 さて、今回の集いの進行は予想外の展開となった。毎回、グループ分けに時間がとられる。無駄に見えても、それぞれの居場所を確かめていくことに意味があるプロセスだ。ただ、2日間という限られた時間の中では、長時間、相談が続く、時間が惜しいという声も上がるのも、一理ある。

 が、今回ほど、自然な流れで、グループ分けが出来たることも珍しい。最初の全体会で、一通り、みんなが声をだし終わってから、ある長期間悩んでおられる方が、自らの心境を話す機会を申し出られた。でもその方に関心のある方も、ない方もある。皆で話し合う流れの中で、他の方からも、同じような体験告白(今の居所を聞く)を聞いてはどうかという展開になった。最初に声を出された方は、直前の支部法座でも話しておられて、手製パネルまで造ってこられていた。他の方は、その場で募り、ぶっつけ本番である。いつもの信仰体験発表のように、「生まれは…」「ご縁は…」といった部分は省略して、いま、いまの、自身の居所を中心に話して頂くことになった。いま、どこで仏法を喜んでいるのか。またはどこが疑問で、引っ掛かっているのが、率直な告白である。持ち時間も、15~20分程度。強制はしないこと、また喜んだと自称する人ばかりではないこと。不審は不審のまま、ありのままに話してもらい、まずはしっかりお聞かせ頂こうということになった。
 老若男女、聞法の長短を問わず、また(自称)信、未信を問わず、4名の方が登壇されたが、これがとてもよかった。話の聞く方も言葉尻や、上辺をとらえるのではなく、そこにひっかかったり、こだわたり、また冷静な自己分析ありで、こちらで見ている目と、自己で見ておられる目とのギャップがはっきりしたりと、なかなか意味があった。

 そしてそのまま、先生や世話人ではなく、お話くださった方を中心にしてグループ分けてなったが、これが自然で、グループ内でも活発な分級座談会になったのではないか。その内容は、いろいろと言いたいことや感じたことがあったが、今回はこの辺で。

|

高山支部・仏教青年会合同法座

  コロナ感染拡大の影響で、会館以外での宿泊の支部法座は、支部限定が中心であったが、久しぶりに合同法座。しかも高山支部と仏教青年会だ。今、高山支部は高齢化が進み、毎年のようにご往生される方があって、支部単独では盛り上がりにかけている。もう一歩となると、受け身の方が多い。それでも富山や北陸からの聞法者が来られたら盛り上がるのは、法の威力があるからだ。

 今回は、仏青の皆さんが集う。仏青も、ある年代の方が抜け一気に寂しい状態になっていた。それが、徐々に子供大会出身者を中心に、学生世代(10~20代前半)の方が集まりだしてきた。今回の高山も、元子供大会出身者が集うメリットで企画された。おかげで、仏青も二桁の参加者は久々だ。高山の仏青の方がお世話をくださったのも有り難かった。高山支部の方も、差し入れや準備やらでお世話になった。ありがとうございました。

 今回もF家が会場だ。最近は、コロナもあって、宿泊も1人あるかないかだが、久しぶりに10名も泊めて頂く。懇親会が深夜まで盛り上がったのも久しぶり。コロナの影響もあって、最近は0時台で終わっていたが、今夜は3時近くまで続いたようだ。何か20年前のことを思い出した。こんなところでも仏法の勢いがでるもので、分級座談会も活発になった。3分級に分かれ、仏青世代も心を開いて語ってくれた。

 ぼくも元気をもらって張り切った。大事な一点を聞いてもらいたい。今日の浄土真宗では、後生の一大事は語られるとしても、「捨てもの、拾いもの」の廃立の一点は、どんどん曖昧になっている。それが実践的に、しかもお一人お一人に問うのが、華光の法座だ。そのことが、もし次世代へも相続されるようなら、法が繁昌している証拠だ。たぶん、ここまで熱心な若い方もそうおられないだろうが、華光ではまだまだこれからだと見られている。そんな厳しい法縁が時代を超えて相続されてきたことが尊かった。3代、4代と続く血脈(法脈)に立っておられる方と新しいご縁の方が融合している法座だった。南無阿弥陀仏

 

|

御同行、御同朋との華光誌輪読法座

 水曜日、昼座の華光誌輪読法座

 時間になっても参詣の形跡がない。道場にあがると誰もおられない。Fさんが洗面所から戻っられたが、まだ1人。少し遅れてOさんもお出でになった。母の定期検診と重なり連れ合いも送迎に出る。近鉄電車の事故の影響もあったが、ここまで少ない法座は初めてだ。「私達だけならお休みしてもらっても…」とご配慮下さるが、それは逆である。土曜礼拝、京都支部法座、そして水曜日の華光誌輪読法座と、連続皆勤されているお二人が、ぼくに「仏法聞けよ」と現われて下さった菩薩方である。華光誌を3人で、丁寧に読ませてもらい、またお聞かせに預かった。「正信偈の大意」(9)で、信心の五徳の、3番目の心光常護、4番目の横超五趣で、3つの心(黒い心、白い心、暗い心)の説明がある、ご聴聞のポイントにもなる箇所だった。

 前半が終わったところで、Nさんも加わる。近鉄事故で2時間も待たされたという。お疲れ様でした。

 ~御同行、御同朋~ 3回連続のご法座で少数での座談会を通じて、このお言葉を味わわずにはおれなかった。お参り下さり、ありがとうございました。

 

|

京都支部法座~耳の痛いはなし~

 京都支部法座は、永代経法座でのご法話でお聞かせに預かった『涅槃経』の「一切衆生・悉有仏性」の「仏性」について。浄土真宗の立場からお取り次ぎをさせていただきた。これはしばらくどの法座でも味わっていこうと思っているテーマだ。

 今回は、冒頭、永代経法座の余韻から、「聞」の一字を取り上げた。皆さんへの質問から始めた。日常の聞くことと、浄土真宗の聞くとは同じなのか、違うとと思うか。もし違うとするのなら、どう違うのか。軽く尋ねて終わるつもりだったが、皆さんが次々と意見を出してくださり、これがなかなかユニークでこのテーマだけで、前席が終わってしまった。

 大半の人が、器用に今生の聞と、仏法聴聞での聞を分けておられるのに驚いた。人によっては、カウンセリングの場の聞も別だという方もある。確かに、それぞれの言い分はあろうが、分けること(分別)によって生活と仏法かバラバラになっているようだ。それで味わいも薄っぺらくなってはいないか。同時に、聴く態度を分けることは、この場面では、法座では…、カウンセリングでは…、日常生活では…、と器用に棲み分けながら、結局、それぞれの場面での「正解」を語ったり、聞いたりしする上辺の姿で接しているのであって、結局は、自分自身を見失っている(それすらも分からない)のではないか。そんなことを、皆さん方が語る器用な聞法を通して感じた。

 さらに面白いと思ったことは、自分の味わいのところではあれこれ語れるが、それをきっちりと先達の言葉、聖教に基づくとなるなと、とたんに怪しくなることだ。だいたい何が仰りたいのかは分かる。しかしそれだけではすべて自分の思いで終わってしまう。すると「そんな考え方もあるだろう」し、「こんな味わいもあるよ」という、それぞれの思いで終わってしまう。どんなに有り難いと言ったところで、言葉に重みがないのだ。

 同時に、自分のところで終わると、実感のあるところは味わえても、実感のないことはいつまでも遠い話で終わってしまう。それで「ご恩報謝の気持ちなど毛頭ない」とか「仏になろうとは思わない」「還相回向?」などと、教えに反したことでも、恥ずかしげもなく言えてしまうのだ。確かに、わが心(機)をみれば、そんな心が起こるわけはない。しかし、法からみれば、そこを聞かせてもらい、ますます不思議な身を喜ばせてもらうところなのだが、残念ながら、この前で留まる方も多い。だから、聞法が続かないのである。わが心にだまされるからである。 

 本題に入るまでに十分に味合せていただいた。

|

5月は土曜礼拝

 久しぶり日曜礼拝のご法話をした。厳密には、土曜日なので、土曜礼拝である。来週、5月21日が親鸞聖人のお誕生をお祝いする御誕会である。しかも、来年は、ご生誕850年(並びに立教開宗800年、『教行信証』が一応の完成を見たときから数える)にあたる。前回の、ご誕生800年(誕八)は、ぼくにとっては忘れられない行事となった。その思い出にも触れながら、聖人のお誕生から、法然聖人とのお出会いの前半生をお話した。

4日間の永代経法座が終わって、すぐ聖典講座、カウンセリングWSと続き、土曜礼拝で、明日日曜日は京都支部法座である。京都や大阪の皆さんも、法座続きで大変である。さすがに、今日のお参りは少なかった。先生、子供たち以外の大人の分級は、会館の4名を除くと3名だけである。0さん、Fさんは、近所の常連。お花やトイレ掃除に、毎週1度は顔を出して助けて下さる方である。日曜礼拝の分級座痰会は長い。このメンバーでも気軽に話題は出るが、下手をすると今生事、雑談で終わってしまうか、または、ぼくの法話的な話で終わることも考えられた。

 ということで、いつも聞いているようで聞いていない、語ってるようで語っていない、それぞれの今ご心境、居所を、じっくりお話していただくことにした。詳しくは述べないが、これがとてもよかった。雑談でもなく、また堅苦しくなるのでもなく、分からないことは分からないと率直に、居所を語り、聞かせて頂いた。そして、語ったたけで終わらず、今後の聞法の態度、姿勢にも影響する転機となるかもしれない座談会となった。
 
 いつもの顔ぶれでも、少人数でじっくり関わり、また胸を開き、率直に語り合うことが、真の仏徳讃嘆になるのだ。尊かったです。 

|

『悟痰録』の輪読

 「仏書に親しむ会」は、尾上実さんの『悟痰録』を読んでいる。

 今月は、84頁の「十」からで、伊藤先生との播但地方への聞法旅行のあと、河内に奥村みとさん(おみとさん)を訪ね、そのあと大和の伊藤先生に、厳しくご指導をされた後の章。ここは、伊藤先生のお言葉よりも、ご自身の心境、その時の気分の描写が多いところだ。いつまでも「また」も「次ぎ」もない。ここで大死一番と、これを最後と踏み出す覚悟で、伊藤先生にぶつかっていかれた。が、惨めにも見事に討ち死にし、虚しく帰っていかねばならかった。「もう聞かない。自分には無理。止めた!」との聞法とのげ決別の決意から、寂しそうな伊藤先生の姿に接して、再び、聞きぬく決意をされるまでの章である。でも、そう簡単にはいかない。再びおみとさんを訪問したりするも、ただ虚しく時ばかりが過ぎていくといった内容。でも、聞法の苦悩まだまだこれから。

 次回は、6月22日(水)18時50分~21時。ZOOM配信もありますのでお申し出ください。

|

4日間の永代経法要法座終わる

  人数制限のある前期・後期の二部制になって3回目の永代経法座。過去、2回は運営委員会でお世話だったが、今回は例年どおり支部当番での開催とし、希望される当番の方のみ、両日程共に参加をして頂いた。広島支部やお当番の皆様、また役員の皆様、4日間に渡りご苦労さまでした。ほんとうにお世話になりました。

 2泊3日間、3回の法要と7座の法座から、4日間、4回の法要と8座の法座と、日数も法座の回数も増えたが、おかげで、無事に厳修することができた。さすがに4日の法座、法要もあるので、からだは疲れたけれど、法水を浴び続けて、どんどんと堅い鎧、化けの皮が剥がされていくとの同時に、お念仏によって活性化されていくプロセスでもあった。ご法は、ほかでもない、この身を通して躍動していくのだ。

 法話や信仰座談会、休み時間のちょっとした会話、そして法要や勤行もまたその一翼を担っていた。一同で、声を揃えてあげる法要もなんともいえず有り難かった。

 法座が8座あったので、8座の勤行があったが、「正信偈」「阿弥陀経」「観無量寿経」、そして(新制ですが)「無量寿経」と偈文で、浄土三部経をお勤めすることができた。不思議なことに、呼応するからのような3名のご講師からのご法話は、大経」の弥陀と衆生の因果のお取り次ぎであり、また「観経」のおこころから宿業のこの身こそがお目当てであるというお取り次ぎであり、それを諸仏方によって証明されるという法座となった。なんの打ち合わせないのに、不思議なつながりを感じた。ほんとうに懇切丁寧なご説法を賜ったのである。

 インドの霊鷲山で、釈尊が弥陀三昧に入られ、金口説法で弥陀の本願が説かれたのと同じように、華光会館の道場が、霊鷲山の会座となり、弥陀の本願をまこと!との金口説法が響いた。それは阿弥陀様の今現在説法であり、私のこの凡夫の身を働き場として躍動する無碍のご法のお働きであり、それを、諸仏方が念仏の声で讃嘆くださる場であった。
 この私は、ただご説法の、そして讃嘆の、そのみ声をお聞かせに預かるだけだ。もうそれだけですべてが整っている尊さに、南無阿弥陀仏。

|

4月下旬の法座のまとめ(2)

 23日(土)は、広島支部法座。法話は、尾上実さんやおみとさんの行実を頂く。座談に入って、ご示談で、俄然、力が湧いてきた。分別を超えた無分別、つまり言葉を超えた真実を、言葉で聞くという至難の技。こちらも世間の有り様で臨んでいては何も開けてこない。凡夫の思議が超えた五十三仏が列なり、連続無窮で途切れることなく真実が届いてくる、不思議をお聞かせに預かったいく。本来なら、凡夫に分かるはずのない超世の真実に、出会える不思議を聞くのである。もしそにく触れさせて頂いたなら、もう何も言うことはなくなるのだ。そのことを言葉だけでなく態度でも示していのだが、伝わるとなるとても難しい。「聞く」といわれると、必死に言葉にとらわれていくのが、凡夫だ。身で触れていくことも聴くことなのだけどなー。そこが分からなず、迷い続けいく。

 翌24日(日)は、聖典講座。4月から『口伝鈔』に入る。今日は総括で、全体をザーと頂いた。とにかく来月以降か楽しみである。

 

|

4月下旬の法座のまとめ(1)

 4月は法座が立て込んだ。また永代経法座の準備もあって、ブログの更新が滞ってしまった。4月20日以降の法座の流れだけをまとめて追っておこう。

 4月20日(水)の昼座は、華光誌輪読法座。81-2号の「巻頭言」と「聖教のこころ」読む。共に、1400年忌に合せて聖徳太子のご持言「世間虚仮・唯仏是真」について。2月以降、たびたび法座でも取り上げてきたところ。単なる厭世的な気分や世を儚んだ言葉ではない。むしろ、唯仏是真の智慧の眼から生まれてきた如来様の言葉だと頂きかないと、ほんとうのお心は分からないのではないか。

 引き続き、夜には、真宗カウンセリング研究会の「総会」を開催。会計監査の書類の件で始まる直前にバタバタしたが、出来る限り、事務的な総会に終わらないで、メンバーの声を拾うように勤めた。今年度も、まったく予想外の新規の参加者が増えて、楽しみである。対面的なグループワークはZOOMでは難しいが、月例会や講義風の物は、遠方からも気軽に参加できるので、新型コロナのおかげ、会員が増えつづけているのは有り難い。おかげて、会計の面でも昨年度は黒字となった。

 

|

賑やかだった九州支部法座

 福岡での家庭法座の年2回は続いているが、九州支部法座としては、コロナや台風の影響があって、1年ぶりの開催となる。昨晩のZOOM拡大運営委員でも、支部長さんから、「〇〇母子も、△△さんも、□□さんも欠席で、たぶん××さんも難しくて、集まりは芳しくない」との少し沈んだ報告があった。人数が少なかったなら、逆にじっくりと関わっるご縁にすればいいのだ。

 が、ふたを開けてみると、欠席のはずのの〇〇母子や△△さん、□□さんも、××さんの他にも、名前も挙がっていなかった方のお参りもあった。久々の熊本からの一家や、大阪からの参加者まであって、支部長さんは、いい意味の想定外でずいぶんと喜んでおられた。

 賑やかな顔ぶりになっただけでなく、内容もなかなか面白かったのではないか。結局、私は地獄行きを喜ぶのか、それとも極楽行きを喜んでいるか。一人一人が問われていた。また後生は間違いなく決まっているのだから、後は、今生をどう生き、ご法をどう伝えていけるのかが問題なのか。あるお同行さんの実践的な問いかけがユニークだった。2日目の最後には、大切な信を問う告白がもあったのだが、残念ながら時間切れ。

 懇親会が四川料理での宴会だったこと、お昼は長浜ラーメンを御馳走になった。博多でのご法座は番外篇も充実していた。

Img_6478

 

|

より以前の記事一覧