カテゴリー「法座と聞法」の1000件の記事

広島支部もZoom法座

 広島カウンセリング、九州支部法座に続いて、広島支部法座もZOOM開催となる。九州支部の朝座と同じく、餓鬼についての法話。『往生要集』の現代語訳を読み、それにもとづいたスライドを見てもらった。やはり餓鬼の生々しい映像に感じる方も多かった。

 座談会に入って、食法餓鬼をテーマにした次号の巻頭言を読んでもらう。九州支部のあとで、再考し書き換えた原稿だ。巻頭言は、字数が決まっているので、増やした分だけ削らねばならないが、その分、テーマが明確になってきたのではないか。食法餓鬼とは黒いからだで、雨のように泣きながら野を越え、山を越え,法座を求めて走るまわる。でもなかなか法座に出会えないが、やっと思いで法の声を聴いていのちをつないでいるという。もっとも今日の食法餓鬼は、自動車や新幹線で移動して、ホテルに連泊して法を求めているから、随分、贅沢になったようだ。

 ZOOMでも座談会は、面白かった。(頭で作った)正解の答えを合わせをするような質疑や一言が続くなかで、身をかけたところから発せられる言葉は、響いてくるのがよく分かった。

 最後の難所は、身を捨てる体験に出ないと、その真意は得られない関所だ。しかしそれは何も頭を抱えて正解を求める未信者だけに向けて言っているのではない。法を喜んでいると自称している人の関わりのところでもあり、また自分自身への自戒を込めた言葉でもある。そんなことをZOOMでのやりとりの中でも感じたので、促しや問いかけを発した。うわべを飾るのではなく、もう一歩踏み込んだ法座、座談会になればと願っている。 

 

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「仏書に親しむ会」のこれから

 「真宗安心一夕談」に入っている。第二章の第十八願文、註1を読む。質問は出ても、この文章のおさえや、展開はない。前回から丁寧に質問に答えている。今回もそうだったが、詳細な説明(ほとんど法話)をすると、皆さんは喜んでくださる。しかし、「安心一夕談」そのものからを読みといたものかというと、少し違う。

 もともとこの集いは、「伝道研究会」という枠だった。先生方や司会役の方、もしくは意欲的な方が、教義でも、また伝道・布教の観点で、実践の立場から意欲的に学び、提起したり、意見交換する集まりだった。

 それが長年の間に参加者が固定化し、しかも2、3めいなってしまったので、近郊の同人で意欲のある方に門戸を広げることになった。悟朗先生の「安心論」を読み進めていったが、ぼくからの解説、もしくは法話という雰囲気で終始して、研究会という名目は意味を失っていた。それはそれで意味はあったが、一方的に講話でも、難しいという顔で聴かれて、最後の感想もほぼ毎回同じとあっては、ぼく自身が楽しくなくなってしまった。

 区切りがついたところで、新しい法座の提案をした。もっと皆さんの身近で、共に味わえ深められるような集いになるにはどうすべき。相談した結果、「仏書に親しむ会」として再出発することになった。、伊藤先生の『伝道精神に燃えよ』から始めて、『仏敵』『善き知識を求めて』を音読して味わうという形式をとっていた。ぼくにとっても、丁寧に読む進めることで、気づきをもたらしてくれたし、皆さんもそれぞれのところで参加されていたようだ。

 『善き知識を求めて』を終えて『悟痰録』に進む予定だったが、講習会で取り上げた『真宗安心一夕談』を希望する声があがった。未消化のままで終わったことが残念だといわれた意図はよくわかった。ただ本会の趣旨に合わないので、その旨をあらためて申し上げたが、皆さんから特に異論もなく、『真宗安心一夕談』に取り組むことなになった。そうなると、今のメンバーだけではかなり荷が重いので、ZOOMで参加者を募ることにしていい面もあった。事前の勉強会を行うなどの積極性もあったが、やはり、このメンバーでは無理があると判断した。といって、せっかくやり始めた以上、途中で終わるのはと思って、進行を早めるのも手だったが、それも勿体ない。

 ということで、率直、思いを述べて、皆さんも率直な思いを語ってくださった。いまのままを臨む人や、どららでもいいという人もあったが、予想とおり負担だったり、難しくてしんどいと思う人も多かった。続けるにしても、詳細な解説入りが前提だったので、熟慮の結果、一旦打ち切って、10月の新年度からは、『悟痰録』を読むことにした。

 その変わり、別にZOOMのメリットを生かした 新「伝道研究会」を立ち上げてはどうかと思った。ただし、今のぼくの状況では手一杯なので、誰かお世話役が名のりをあげてくださるてもらいたい。しっかり事務局を作らないと、すべて一人でやらねばならなくなる。今は、そんな集いが多いので、どこかにしわ寄せをくるとの思いがある。これはまた皆さんと相談の上、進めていくことになるだろう。

 

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九州支部もZoom法座

 計画では、広島から直接、九州(大分もしくは福岡)に向う予定だったが、コロナ感染拡大でそれもなくなった。九州支部はコロナ感染拡大を理由に中止にならないと思っていたが、会所がコロナの影響を受け直前に中止が決定。第5波の感染は身近に迫っている。支部長さんに提案してZOOMで開催してもらう。参加できない方もあるが、九州組に加えて、広島や名古屋、横浜、高山、そしてアメリカからの参加もあり、Zoomでもいい法座になったのではないか。

 午前中は、餓鬼について、『往生要集』の現代語訳を読み、それにもとづいたスライドを見てもらう。これはZOOMならでは手法で、餓鬼の生々しい映像に感じる方も多かった。餓鬼の中でも食法餓鬼を問題に、次号の巻頭言も読む。「くれ、くれ」と求めるばかりではなく、一度は身を差し出せとの一文に、では私の何を差し出すのか。みんな頭で作った正解が並べられる。が、ここは身を捨てる体験に出ないと、その真意は分からない関所なのだ。いくら正解や思いを語っても、意味はない。

 午後からは、「まったくわたしくなし」のテーマにする。今、ぼくの中で、一番響いてるところであり、皆さんに聴いてもらいたいところだ。

 座談会のやりとりでは、頭でっかちになる人、自分の感情に引きづられる人、正解を言って満足する人、自分の思いや考え方の表明ではなく、自分を開かないと面白くない。こう思う、こう考えるだけなら、「わたくしあり」なのだ。それがなん役に立たない、法に照らされたら、どんな奴が浮き彫りになってくるのか。その一点で聴くしかない。そして一度、死んでしまったらそれで終わる。自力が死ねば、もう聴き間違うこともできないのだ、という法話だった思うが、「聴き間違わないようにしっかり聴きます」という程度の表明が出る。いやいや、「これまでも、これからも、私は聴き間違いしかしない。その方向の聞法は自己満足にすぎない」と、厳しくお伝えした。

 でもこれも一例。自称獲信者の方でも、感情のところだったり、味わいのところだったりでしか、仏法が喜べないので、そのあたりの自己満足の味わいには、次々と突っ込んで指摘しまくった。もしかすると、対面法座よりも、遠慮なく伝えられたのかもしれない。その意味では、Zoomだったが、意味深い法座となったのではないか。

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8月は東京ZOOM法座へ

    今年6月に1年6ケ月ぶりに完全リアルの2日間で開催された東京支部法座。しかし、8月はZOOM法座に逆戻りだ。最近の東京圏の感染拡大の現状を考えると、これも致し方はないだろう。

 ZOOM法座でも、法座進行は2日間の完全版で、初日は昼座、夜座の後、夜はZOOM懇親会。2日目は朝座、昼座とあって、合計4座での法話を担当した。ZOOM法座の利点は、ブレイクルームの機能を使った分級座談会で、こちらは6~7名のグループを4つ(そのうち林野会館集合組はリアル)を持った。普段の法座のように突っ込んだ厳しいご示談になった回もあれば、まったく声がでない回もあった。隣人を肌で感じられないリモートの限界もある。懇親会も普段のようにはいかないが、お酒がはいると盛り上がって少し延長となった。

 さて法話は、源信僧都に焦点を当てた。一つは餓鬼道について『往生要集』を、現代語訳で読んだ。詳細な記述に驚かされるが、夜座は、その文章を絵にしたスライドを観る。これが初めてではないが、視覚になるとまた違ったリアリテーがある。誰もが、別の世界のことではなく、今、私の姿だと。その後の座談会も、かなり突っ込んだ内容となった。

 朝座は、『往生要集』の中から、人間界の「不浄」の相を現代語訳で読み、「白骨観」のご文を原文でいただいた。それにしても、この不浄の相の描写も、おそろしいほど詳細である。源信僧都は、人間の相を、「不浄・苦・無常」と、とらえておられる。四轉倒のうちの「常・楽・浄」の三つのひっくりかえっていて、それともいうのも、その根底には、「無我」が悟れず、「我」の執着が迷いを生んでいるからである。

 昼座は、同じ源信僧都様だが、親鸞聖人のお正信偈の源信讃をいただいた。真宗的になって、皆さん馴染みがあるかと思ったら、自分の機の浅ましさからは外れるので、急に難しくなったという声もあった。最後の座談会での質問が面白かったが、ここでは省略する。

 リアルで会えなかったのは残念ではあるが、懇親会もあって、2日間、充実した内容ではなかったか。次回の10月の東京法座はリアルで行いたいものだ。

 

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誰も聞いていない

 2グループに分かれての信仰座談会。
 司会者から指名を受けた方が、「今日の話は娘にぜひ聞かせたかった」との発言される。

 恩師の法話のネタではないが、
 「ぼくは、あなたにお話したのですよ」の典型である。

 座談の中でも、今生と後生を分別で区別し、これは今生事だという都合のよい解釈が気になった。「これが暗い心、これが黒い心」と、都合よく分けることが、迷いの正体だ。仏様を自分の都合よく利用する心こそが恐ろしい。どんなに真剣に聞いたふりをしても、主人の心は布団をかぶって高いびきなのだ。

 お盆参りのお礼のメールが届く。ご法話が有り難かった。一緒におられて小学生の息子さんはキョトンと聞いていたので、このようにかみ砕いて話し、子供に有り難い法話でしたとの御礼。

 ぼくは子供さんのことは目に入っていなかったのに。 

 見事に、誰も自分のこととしては聞けない。

 

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盆参の京都家庭法座

   M家のお盆法要を兼ねた京都家庭法座。昨年から、ご自宅より会館に会所が移ったこともあって、参詣の方がずいぶんと増えた。

『仏説阿弥陀経』を勤めたあと、法話の前に、DVD『浄土への歩み』を見ていただく。七回忌法要法座の時に上映したのだが、そのときは、機材のトラベルがなにかで、途切れ途切れの再生で、半分くらいしか理解できなかったものだ。

 今日の法話は、そのことを受けて、悟朗先生から伝えられた華光の精神を、もう一度原点に戻り、「後生の一大事」と「自他力廃立」の二つの結び目を確認していく。結び目のないご聴聞は、いくら有り難かろうが、心境が変化しようが、結局、自分に都合よく取り込んで、自己内完結で終わってしまう。そんな心境(=自分)を大事に、守っておられる方も多い。そんな方にとっては嫌なことなのだか、その自分を防衛し、誤魔化していく嫌なところ、弱いところを付いてくるのが、華光の法座だ。それで本能的に恐れ、避ける人もいる。教義や理論で武装したり、体験や念仏で守ろうとする人もいる。しかし、そこを破り、自分の都合ではなくすべて手放させてもらうのかどうかだ。私は、ただものを言えぬ逆謗の死骸となって漂っていくだけなのである。

 そのための場を求めてこの華光会館が創建された。ここは、単なる法悦で満足したり、仲良く過ごすために出来上がったのではない。「究極」の一点を聞く場である。もしそうでなければ、どんなに人が集まろうが、みんなが仲良く過ごそうが、すべて今生事でこんな空しいことはないのだと。「究極」の一言を聞く。これが、先生の最後のご説法であった。

一、一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはな く候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば「専修 正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。」(『蓮如上人御一代聞書』一二一条)

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七回忌法要のご法話

  父の七回忌法供養法要を勤める。平日の昼間にも関わらず、同人の方も多数お参りくだった。2016年8月7日に、九十歳を一期として往生の素懐をとげた。それから6年が経過し、お参りの中には、父とのご縁がまったくなかった方も増えてきている。

 お正信偈のあと、ご法話をいただく。だいだい以下のようにお聞かせていただいた。

 日本では、戦前まで長らく「家」制度が続いてきた。戸主-父親、そして長男に引き継がれ、家産を増えし、そのために家業を継ぐ。その中心は、常に成人男性であって、女、子供は付属品のような立場であった。個人とうより、あくまでも「家」の宗教としての「浄土真宗が守られたきたといえる。

 それが第二次世界大戦で、男性、家長中心の「家」制度は否定された。が、法律が代わっても、長らく人間に身にしみついたものは、簡単に変わることはなかった。いまでもその残滓で、女性の地位は低く、男性中心の社会であることに違いない。しかし、徐々にはであっても変化はしてきて、特に都市部では「家」制度は崩壊している。それは、これまでの社会の仕組みが変わるだけでなく、家族や社会の歴史もまた忘れられていくことでもる。個人が立つといえば聞こえがいいが、実際は、孤立化したり、ひとりで生きて行けるという錯覚を生み出す。社会が複雑になればなるほど、多く人達に支えられているという部分が見えづらくなる。また自意識過剰というのか、私の思いが一番大切、それだけで完結していけるという錯覚に陥っていく。
 また歴史的なつながりがなくなると、今しか考えない、現世中心主義となる。
 そんな中で、浄土真宗の布教も変し、「いのち教」だったり「きづな教」だったり、「こころ教」だったり「おかげ教」だったりして、葬儀の法話は、「また会える教」に成り下がって、小手先だけの教えに留まっている。

 しかし、「仏教は無我にて候」なので、けっして、私の思いが一番大切で完結するのではない。浄土真宗では、「自力を捨てよ」と言われるのである。
 また、『重誓偈』に「我建超世願」とあるが、阿弥陀様の願いは「超世」であって、それは世を超えるとものであり、また人間の常識を超える願いでもある。現世の、その時、その時ではなくて、三世を貫く真実であり、そこを「後生の一大事」と打ち出さしていくのが、浄土真宗である。

 後生の一大事と、自力他力の廃立、それが平生の時、信の一念で決まるのである。増井先生は、その一点をブレルことなく、厳しくお取り次ぎくださった。その増井先生も、最後はすべてが剥がされていかれた。称えていたお念仏までも、結局は剥がされていくのである。

 「念々称名常懺悔」という善導様のお言葉がある。常に懺悔せよというのではなく、念々の称名念仏こそが、常に懺悔なのであるということだ。これが、今年六月に亡くなった母が親からの遺言としての常の言葉であった。

    

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半日子供大会

  8月、夏の仏の子供大会の季節がやってきた。
  しかし、昨年に続いて今年も新型コロナで中止さぜるおえない。春(1泊2日)と合せると4回連続での中止は残念だが、いまは致し方がない。
 
 少しでも雰囲気を味わってもらういたい。朝から夕方までの半日の仏の子供大会を開くことになった。まあ、子供大会というより、拡大の日曜礼拝というのが正確ではあるが、、。

 

 先生方も子供大会出身の女子大生が3名。準備や打ち合わせからよく頑張ってくれた。コロナの中でも子供たちも、幼児から、小学生、中学生に高校生、初めての方、遠方からの参加と、多彩だった。大人も保護者に、同人の方とお参りも多くて賑やかだった。

 それにしても半日だけとは勿体なかった。準備も時間をかけたが、あまりにも時間が少なすぎた。

 勤行・法話のあとは、20分ほどの分級座談会。すぐにランチで外に出て、もどると昼の法話。その後はゲーム大会。その後は、子供たちは創作活動、大人は2グループでの分級座談会。大人もゲーム大会で大いに盛り上がった。この 大人のゲーム参加は、ある意味よかった。いつも見えないその人の素顔が垣間見れる時があったからだ。ただ、慌ただしい外食にゲーム大会も盛り上がりすぎて、その後の分級座談会の時には力が尽き、雑談のまま、散漫に終わってしまったことは、残念だった。

 消化不良のまま、あっという間に、今年の夏の行事は終わった。

 

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無我について(3)~南無阿弥陀仏は無我そのもの~

 それでは浄土真宗では、無我はどう理解されているのか。

 実は、親鸞聖人はほとんど「無我」という言葉を使われていないが、これが仏法の基本であるこには違いはなく、表現は少なくても、その意味内容には触れておられる。たとえば、『浄土和讃・諸経讃』では、

「無上上は真解脱   真解脱は如来なり
 真解脱にいたりてぞ  無愛・無疑とはあらはるる」

とあって、その「無愛無疑」に、「欲のこころなし、疑ふこころなしとなり」と左訓されている。

 「無上上というのは、究極の悟りであり、これが真の解脱―「まことにさとりを開くなり」―である。真解脱こそが如来さま。如来になりえてこそ、無愛無疑となりうる」である。無我とは真解脱―仏になることであり、つまり仏果を悟らないかぎり、我々は無我にはなれないというである。それどころか、我々はどこまでいっても、大我の真反対の「我痴」であり、「我見」であり、「我慢」であり、「我愛」そのものであり、迷いそのものである。その輪廻を繰り返す迷いの連鎖を、天親菩薩は「業風薪火のたとえ」で痛ましくお示しくださってる。

 結局は、この私は仏法でいうところの無我なることはできない。ところが、絶対に助かることのない、自分の力では仏になれないものに対して、自らが無我になりきってくださったのが南無阿弥陀仏様である。南無阿弥陀仏こそが無我そのものなのである。その南無阿弥陀仏に出会わない限り、絶対に私は救われることはない。そしてその南無阿弥陀仏に出会うとは、単なる自我というレベルではなく、自力執心の心こそが捨て果てせさられる、まさに無我としてまるまる帰入させれる世界が、真宗の核心なのである。南無阿弥陀仏

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壮年の集い~無我について(2)

(2)仮我
 以上の実我を否定する考え方で、無我へ導きいれるための仮の説明 心身が仮に和合して、因縁によって出来たものだ。自他を区別する便宜上、我と仮(かり)に名ずけたにすぎない。「如是我聞」の我。

 五蘊(ごうん)仮和合
※五蘊(物・心)が仮に和合-因縁によってできることをいう。我とは因縁生。
 五蘊=色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊
  蘊(うん)とは、集まり。すべての存在を物質と精神に五分類。

 色蘊=物質または肉体。あとの四つは精神作用。
 受蘊=感受作用。外からの感触を受けいれる感覚、単純な感情。  
想蘊=表象作用、受から進んで、それを心に思い浮かべてくる。 
行蘊=潜在的なもので、意志的な形成力。衝動的な欲求といった心の働き。
識蘊=認識作用で、意識そのもの。前の三つの心の動きをとりまとめる。

(1)物質・(2)感覚・(3)表象・(4)意志的形成力・(5)認識作用・物質と精神の集まりで、すべて生減変化するものの。五つが調和している時と、調和が崩れた時がある。この仮我をよく顕すのが、次ぎの有名な歌であり、これにすべてがこめられる。

 「引き寄せて 結べば柴の庵にて 解ればもとの 野原なりけり」

(3)真我。大我ともいう。本当の我。
 では、仏教でいう真の我とはなにか。
「涅槃寂静」の涅槃には、「常・楽・我・浄」の四つの徳。
「悟りは、永遠の生命そのものだから常、
 それが本当の楽-弥陀の浄土を極楽とか安楽-。
  我というのは、迷いの我が否定しつくされて無我となるとき、真の依り所となるべき自が完成するのが、我。
 そしてその悟りこそが、浄なのだ」
 仏教でいう無我とは、この真我に導き入れようとして説かれたものであって、世間一般の「我を忘れる」程度の無我とは大違いなのである。

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