カテゴリー「法座と聞法」の851件の記事

東海支部法座の後で

今月の東海支部法座。

名古屋市内だったが、いつものような公共会館施設ではない。これだけでも雰囲気は違う。詳しは、同人会MLにでも触れたい。

東海支部のメンパーに加えて、西山派の僧侶やインターネットからの参加者など、6名も初めてお会いする方があった。

法話も、2席でかなり力が入った。法話の後も、座談会もいい感じで終わった。初参加の方が、胸に響いたとか、初めて仏様を身近に感じたとか、目に涙を浮かべて語ってくださったのが印象的だった。しかし、法話や座談会で感じたことは多かったが、後の懇親会の出来事にすべてもっていかれてしまった。ひと波瀾あったのだ。ここでは触れはしないが、いろいろな経験、いろいろな方とお出会いをさせて頂いているということである。

私達は、大声で怒鳴られたり、威圧的な態度の前では、脳(海馬)が萎縮するのだと聞いたことがある。それが続くと支配されていくのだろ。逆に、受容的な安心できる場では脳は広がり、心が開くというのだ。そんなことを感じさせられる出会いだった南無阿弥陀仏

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新潟での寺院布教

Img_8894仏青大会の翌日、新潟に向かう。

大谷派の寺院布教、報恩講である。何度か、同人でもある住職と打ち合わせをした。これまで一日勤めだったのを、もう1日法座を増やImg_8892してくださった。最近は、報恩講の法座数を減らされる(そうせざるおえない)お寺もあるが、逆に、前日の夜座を持ってくださった。ただ、住職の焦点が3つもあることがImg_8902わかってきた。一つは、ご門徒さんのご教化。二つ目は近隣のお寺さんにもお参りいただきたい。さらに、新潟の華光同人の法座も持ちたい。でも、3座の法話だけでそImg_8901れをすべてかなえることは、かなり難しい。では、どこにいちばんの狙いがあるかというと、まずはご門徒方へのご教化だというので、法話もそこに焦点を当てることにしImg_8891た。

ご住職は、いろいろと事情のあったお寺に入寺され、ご門徒さんと協力してここまで復興されてきImg_8889たという。ここまではいろいろなことがあったようだ。それでもこれからは、法義の上でも力を入れていかれたいとういうのである。まずその緒についたところなのだが、そのお心がとても頼もしくも、うれしい気持ちであった。し

それで、ご法話も、なるべく仏語は使わずに、またゲームも交えながらも、後生の一大事、自分の問題Img_8905として聞くの二点を強調するお話を申させていたたいだ。

初日の法話後は、世話役さんたちと懇親会もあった。単なる飲み会にならずに、各人が、ざっくばらんに不審のところをお話くださったのが、とてもよかった。親睦という意味でも、ぼくもフランクに皆さんと接していった。

2日目は朝、昼の2座で終わり。最後は、法話の後に、法要があるという形だった。お東の法要にご縁をいただき、これもまた有り難かった。その後、お仲間のご住職方の慰労会に参加した。出勤もないのに、フルでお参りくたさったご住職もおられた。だいたい世代的的にせ同じ方々で、皆さんのご関係から、お寺のご事情や感じておられる問題点などもお聞できて、楽しい集いだった。

お酒が入っていたが、宿に場所を写して、華光同人を中心にした座談会。法座にも出られなかった僧侶の方も、お一人ご参加くださる。少人数だったので、かなりつっこんだご示談にもなったが、力はいって、ちょっと急ぎすぎたかもしれない。

結局、当初の狙いどおり、焦点にしていた三点をそれぞれ、叶えることが出来たようだ。最初の企画としては、上出来ではなかったとかと思っている。まず最初は、ラポート(親密になること)がないと話も聞いてもらえない。おかげで来年以降にもつながるご縁になったようだ。

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仏青大会

この1年で、顔ぶれが一変したのが、仏教青年会だ。

20代の若い女性を中心に、新鮮な顔ぶれになる。今回も、不思議な縁の初参加の方があった。決して、人数は多くはないが、法座の参加に前向きの人が多くて、雰囲気は悪くはない。ただちょっと大人しいのが気にかかる。

ただ、その分、経験が浅い人が多い。ともすれば、いまのスタイルや形式が、仏青のスタイルだと思われてしまう。たとえば、月例会がなくなっている。また、最近は、宿泊行事でも、企画ばかりが目立っている。座談会では、「間が持たない」といった人がいる。

今回も初日は、企画と総会のみだった。仏青メンバーを講師に、「私の考える真宗カウンセリング」というテーマ。カウンセリングといっても、ここではフォーカシングをひとつ柱にして、もうひとつは、法話の聞き方の実戦でもあった。あくまでも、「私の考える」というところが強調されていて、そこは聞きやすかった。参加の皆さんも、いつも漫然と法話を聞いているが、そこに聞き方があることを教えられて、新鮮に映ったようだ。しかも、それぞれが違う感想や思いがあることが聞けて、それもたいへんよかった。やはり一方的に話すだけでなく、率直に話す場も重要だということだ。

僕にしても、彼女が推奨された「話されたすべてをつぶやきつづけて、前のテープルに置いておく」という聞き方は、ともも難しく、これまで真宗カウンセリング研究会で学んできた聞き方とは違うと思った。もちろん、そこは「私の考える」というところであって、後は、テクニック程度に止まらず、各人が真剣に模索して取り組んでもらいたいと願うところであった。そのきっかけという意味でも、いい企画ではあった。

ただ今後は、自由な座談会を中心にして、みんながほんとうの力(単なる知識やテクニックではない)つけるのが、いまのメンバーにはいちばんいいとう考えている。若い人には、その場、その場ではなく、たとえその時、理解できなくても、長い眼で見たならば、その人の力となってくるような学びをしてもらいたいと、ずっと提案しているが、なかなか理解してもらえない。構成を持たない長時間の座談会こそがいちばん相応しい。幸いなことに、少人数で、メンバーが固定している時にこそ、時間をかけてじっくり形成していくいいチャンスなが、ちょっと残念である。

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泉佐野の寺院布教~「PPK」か「NNK」

高齢化が進み、「PPK」という言葉が使われている。「ピン・ピン・コロリ」と、最後まで元気で死にたいという願望だ。逆の言葉が「NNK」で、こちらは「寢ん、寢ん、コロリ」と、寝たきりなり、認知が進みということである。凡夫の願望は「NNK」は、なんとしても避けたい。子供たちに嫌われたり、みじめな姿になるのではなく、最後まで元気で、頭もしっかりして、コロッと死にたいというのである。しかしである。Pだろうが、Nだろうが、K(コロリ)と死んでしまうことには代わりはない。「死」は避けられない。では、そのことはどうなるのか。

「終活」という言葉は、随分、浸透してきた。どうせ避けられない死なら、元気なうちに、ちゃーんと身辺整理し、葬式のことも自分で考え、望むべき死に方をしよう。最後まで自分らしくあって、遺された子供たちにも迷惑をかけないようにしたいという。結局、死ぬ間際まで心休まることもなく、用意周到なことである。

ではとれでは、「終活」も、また「PPK」でコロリと理想どおりの終焉、死にざまを迎えたとしたら、それはそれで終わりなのか。

後生の一大事を心にかけて聴聞しないと、すべてこの世の中の生きざま(今生ごと)の話で終わってしまうのだ。どこまで伝わったかわからないが、いま1歩、踏み込んだご聴聞の要をお話申し上げた。

それにしても、今日もいい天気で、夕日がきれいだった。
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10月の 「仏書に親しむ会」

  「仏書に親しむ会」は、「非僧非俗のこころ」に入って、「専修念仏への弾圧」のところを読む。

  念仏停止(ちょうじ)というが、比叡山でも念仏修行はなされている。ここで停止されたのは、法然様の「専修念仏」である。ただ念仏一行で、その他の行、(行としでき)菩提心さえも否定し、老若男女も問わず、遊女や盗人までが帰依するのだから、旧仏教側、真面目に修行している僧も、許せなのは当然だ。

 「ではなぜ、念仏一つで救われていくのですか」、皆さんに問う。お念仏にどんなお徳があり、またなぜ、念仏一つが選ばれたのかである。

 すると、急に静かになって反応がない。いつものことだが、少し変わった角度から(別に変わっていないが)質問すると、皆さん、途端に静かになる。決して、試験があるわけでも、正解を覚えることでもない。しかし、ここはよくよく考えてもらいたかった。「ただ有り難い、結構だ」というだけでなく、「念仏一つ」のおいわれを聞いてもらいたのだ。

 すると、「願行具足の南無阿弥陀仏」ですか、と応えてくださる。が、その後はでない。

 「勝・易の二徳」は、聞いてことがありませんか? と尋ねると、皆さん、ああという顔をされる。いわれるとなるほどと思う。

 法然様は、お念仏は、本願の行であるからだといわれている。私が選ぶのではなく、阿弥陀様が選擇された本願の行なのである。法然様が、他力念仏に出会うきっかけは、善導様の散善義のご文であるが、その結びは、「順彼仏願故」とある。阿弥陀様の本願に順じていく故だというである。人間の智慧や自力に従うのでない。たとえ権力者に批判されようとも、それは人間の世界、自力の世界のことだ。人間の言葉ではなく、阿弥陀様に順じてさせていただく身となったことが有り難い。

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平日の東海支部法座

 今回の東海支部法座は、平日の開催。しかも昼間である。東海支部は、現役で働いている、会社や役所勤めの男性が多い。参加者はきっと少ないというのが、お世話役の読みで、弱気なメールも来ていた。ところが、蓋をあけてみると、予想の以上の参加者がある。懇親会にも、予想の3倍の参加者で会場はギュウギュウ。 最近の支部法座の中では、いちばん多かったかもしれない。有給を取った方、平日でないとこれない方に、久しぶりの方や初めてお会いする方もあった。懇親会でも(テープルの半分の方だけでしたが)、いろいろとお話がきけてよかった。一人でもご縁が深まることを願うばかりである。

 ご法話は二席に分けたが、いろいろと話題も多かったので、かなり長くなった。

「如来の作願をたづぬれば
 苦悩の有情を捨てずして
 廻向を首としたまいひ
 大悲心をば成就せり」

 親鸞聖人『正像末和讃』をいただいた。
 なぜ、阿弥陀様立ち上がらねばならなかったのか。それは、「苦悩の有情」(有情とは、心あるもの、いのちあるいきとしきるもの)ありようが、苦しみ、悩み、迷っていると見定められて、そのものをも見捨てることを出来ずに、立ち上がられて、本願をおこされたのである。では、その「苦悩の有情」とは、どこの、誰を指しているのか。そこを具体的に聞かせもらう。また、その苦悩の中味とは何かも、自分で感じる苦・楽ではなく、真実の眼(まなこ)で御覧になって、苦悩の姿をお聞かせいただくのであるから、そこを具体的に出しながらお取り次ぎさせていただいた。

  そして、そのために、どんなお手立ててをもって救おうとされたのか。それが、如来様からの「廻向」を首(第一に、中心に)にして、南無阿弥陀仏にご自身を身投げして、苦悩の私のところに飛び込んできてくださる。迷いの私から助けてもらうために歩みでのなはく、如来様の方から先手で、飛び込んでくださっている。それだけの大慈悲心の塊(かたまり)となってくださった。まさに、南無阿弥陀仏の姿である。

  後席では、王舎城の悲劇の四名の登場人物の罪業、特に、愚痴の女人である「韋提希夫人」が、いかに自己の問題とならず、終始、責任転嫁し続ける愚痴の姿を示し続けながらも、お救いはそんなことにはお構いなく、一方的に如来様からのお働きがかかり続けてくださってる、そのおこころを頂いた。

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九州支部法座 IN 大分

  今月の九州支部法座は、大分法座。非常に強い勢力の台風が接近中で、開催も心配されたが、結局、予定どおり開き、無事終えることができた。

 参加者は多くなかった。でも、じっりく座談会をというメンバーでもなかった。座談中心にしてもよかったが、皆さんに相談したところ、特に反応もなく、法話(講話)中心の法座に切り換えた。高齢者の方が多いと信仰座談会は難しい。皆さんの声が聞こえないからだ。マイクを使えば解決するという問題でもない。座談会の慣れもあるし、ただ自分の考えを一方的に話しImg_8172たいだけの方もいるかたらだ。そんな人でも一対一ならいいのだか、多人数の車座になったこのことは、課題として残っている。これには、法座を推進していく人が、聴く力を身につける必要もあろう。

 というわけで、今回はご法話(講話風)を中心にした。浄土三部経Img_8176のあらましである。もちろん、すべてを話す時間はないので、そのダイジャストであったが、通して観ることで、それぞれがもつ役割を味わった。これは、今号の華光誌の巻頭言にも触れていることなので、それをご精読いただく有り難い。

 また九州支部のいいところは、夜座が懇親会になるところで、これは楽しくて◎ 。座談会よりもりあがるか。

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彼岸のお参り

お盆参りを止めて、彼岸にお参りを依頼された。生老病死の苦しみが続いてる。30代でご主人を亡くされ、女でひとつで育てた娘さんは20代で半ばで病死された。今夏、息子さんのお嫁さんが長年の闘病の末に逝去された。まだ40代だった。残された子供さんも幼い。無常迅速、死の縁無量の現実を受け続けれている。早く、南無阿弥陀仏の真実に出会ってもらいたい。別れと悲しみばかりの虚仮不実の人生るにこそ、変わらない南無阿弥陀仏の真実が光輝く。その南無阿弥陀仏に出遇いが待っているのだ。短いご法話のあと、法座にお誘いをする。こちらで少しでもご縁を整えることは出来たとしても、その先を聞くか、聞かないのかは、ご本人の問題だ。その一歩を踏み出すために、阿弥陀さまの十劫お待ちのご苦労がある。

3日間、違う形だが、容赦ない死苦の現実と、愛別離苦の悲しみをまざまざと見せられた。2つのお家は、ぼくより若い方の死である。だだ、それが遺れた方々の仏縁、聞法につながるとは限らない。だからこそ、今あるご縁が圧倒的に尊いのである。南無阿弥陀仏

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広島支部法座~愛別離苦の悲しみ~

このところ、参加者が少ない。それでも、初めてお参りくださる方もあった。しかし少ないことで、信仰座談会は印象的なもになった。

身近な方の死を通して、深い味わいが出てきた。この一年の間に、父親、そした今回、兄弟と立て続けに亡くされた。

それにしても家族ほど、温かく、有り難く、そして厄介で、不思議なものはない。特に、親子関係は複雑だ。だからこそ、愛別離苦の悲しみがある共に、怨憎会苦の苦しみもある。愛憎が表裏一体となる。中でも、身内に厄介な困った人がいると、なおさらだ。他人なら、会わなくてもいいことが、親子、兄弟姉妹はそうはいかない。

最近まで何度も厄介な相談を受けてきた。何度か、ご本人も会った。「ブッダ」でも呑んだこともあれば、法座にお参りくださったこともある。その方が、数日前、突然の交通事故での即死されたという。まだ壮年の早すぎる死である。同時に、故人の人生の歩みに心をはせる時、胸が熱くなる。あまりに強烈で、家族にも大きな爪痕を残されている。

しかし仏法の尊さは、今生の肉親の愛情や慰めに止まらないことだ。事実を事実として隠さず教え、その場に至っても、自分中心の心を教えてくださる厳しさがある。同時に、ほんとうのお救いの世界が待っているのだ。それが残されたお母様へ、「どうか仏法聞いてください」との熱意に昇華されて届けられていった。南無阿弥陀仏

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大阪支部法座~四無量心~

大阪支部だか、奈良の生駒市での家庭法座である。いつもはご家族や一族の皆さんがお参りくださるが、残念ながら今日は出席が少なかった。
7月の大阪支部法座では、「仏さまとは?」と対話形式でご法話をしたが、今回は、その続編といってもいい。

阿弥陀さまとは、無量寿(いのち)と、無量光の如来さまであるが、それは、時間的(三世)、空間的(十方)にも無量で限りがないというのと同時に、慈悲と智慧に限りがない如来さまである。

また、如来さまは四つの量り知れない広大な御心、利他の御心をお持ちが無量にあり、無量の人々を済度されるという。すなわち、

1、慈(いつくしみ)無量心は、衆生を友のように慈しみ、楽を与えよう(与楽)という心が無量。

2、悲(あわれみ)無量心は、衆生の苦しみに対して、その苦を除こう(抜苦)という心が無量。

3、喜(よろこび)無量心は、衆生を幸福にする喜びであり、その幸せを共に喜ぶという心か無量。

4、捨(平らかな心)無量心は、すべてのとらわれ、執着を捨てる心が無量。

である。慈と悲のこころはよく耳にするが、「喜」という心が無量であるところが有り難い。私達でも、目の前で苦しみや悲しみにある人を同情したり、あわれみもつことはあるかもしれない。しかし、簡単なようで、他人の幸せを我がことのように本心から喜ぶことは難しい。まして、同等のものが相手の時は、なおさらだ。必ず、妬みや嫉妬の心が渦巻く。まさに、「妬」無量心が凡夫である。

それが慈無量、悲無量、そして喜無量の心あるためには、自らがすべてのとらわれ、執着を捨てる心が無量でなければなせないのてある。執着を捨てるのは、衆生のため慈悲の心から、喜んで、そのお命までも捨てることが無量であるのだと味わっている。

まったく私には微塵もない心である。その無量の心を、南無阿弥陀仏に封じこめて廻向くださるというのが、阿弥陀さまの大慈悲心。そのことを「六牙の象」のたとえでお話もうしあげた。

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