カテゴリー「法座と聞法」の826件の記事

広島安芸高田市・家庭法座

   11~13日の広島での真宗カウンセリングの集いは中止となったが、15日の広島法座は予定通りと聞いて、安堵していた。

 ちょっと緊張気味に広島に下り立つ。ニュースでは驚くべき被害状況に接していたが、あまりに平穏な様子で、逆に戸惑う。

 シャンボタクシー乗り場へ直行。昨年迷ったおかけで近道を覚え、新幹線を降り4分でたどり着いた。広島駅から安芸高田市のY家までは、車で70分ほど。街内かも郊外も、目に見えた被害がない地域だが、山陽道が一部通行止めで、昨日までは渋滞が激しかったという。徐々にではあるが、日常を取り戻しつつある。それでも、福山や尾道組は欠席される。道路が不通だったり、断水で避難が続いてるのだという。また、近所の被害にショックを受けておられ方、友人や親戚が被災された方など、間接的な影響は大きい。これは、現地で声を聞いてみないと分からない事だった。

 五濁悪世の一つ目の劫濁は、天変地異や災害などの時代の濁りを言う。
 いま、身近なところで、地震、竜巻、そして広範囲で豪雨と、自然災害が続いている。そしてこの猛暑。例年、Y家まで来ると川面に渡る風が心地よいのに、今年は、ここまで暑い。あまりの暑さに、午前中で、蓮の花まで閉じてしまったようだ。劫濁を実感させられている。
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久々の仏青例会

 久しぶりに「仏青例会」に出席した。

 正確には、途絶えていた「仏青例会」を復活されるための集りで、また子供大会の法話の準備会を兼ねている。ぼくが子供のころから、仏青例会は、毎月、月例会を開いていた。それが人数が減り、ここ数年で途絶えてしまった。同時に、仏青自体も元気がなくなっていた。

 しかし、昨年ぐらいから光明が見え始めた。大学生を中心にした世代が、大人の法座に参加し、熱心に聴聞されている。遠方や地方の法座にも出席されている。それでも、仏青の先輩がいないので、例会があったことや仏青の活動の意味が十分理解されていなかった。

 本来は、前の仏青世代の皆さんが働いて下さるのを期待し続けていたが、動く気配はない。長年、外れていたので躊躇もあったが、鉄は熱い内に打たなければならない。

 ということで、今回の集いを呼びかけた。3名だけだったが、活気はあった。積極的に参加したいという人達が集まれば、人数は関係ない。数回で、ぼくも手を離し、運営や呼びかけをおまかせしていこうと思う。そのうち内容も伴い、ひとりでも参加者が増えたり、次の高校生世代の人達への受け皿となればいいのである。確かに、自分たちで企画したり、呼びかけたりするのはたいへんだ。大人に世話になっている方が楽でいいが、それだけなら子供のままだからなあ。

 今日は、子供大会のテーマである「仏さま」ということで、法話とうより、講話。そして、皆さんの理解を確かめながら進めて入った。正解だけを覚えたものは、分かっているようで、角度を変えて問われると、何も分かっていないということが、よく見えてくる。何かを覚えたり、正解を暗記するより、何も分かっていない自分に出会うことの方が、数段意味がある。 

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~自分のむなしさ、貧しさ、嫌らしさ~

 今夜の「仏書に親しむ会」は、仏青世代の方も含めて、参加者が多った。たぶん、この形式になって過去最高だったと思う。(レベルは低いですが)

 増井悟朗先生の「二つのカサ」の最終章(「御同行・御同朋の道」)だけを、2時間かけて読む。

 その前章(「どこまでも自分に」)では、ある支部でのトラブルの相談をうけられた悟朗先生が、相談者にこのように語っておられる。(一部抜粋)

 「増井先生がこう言わわれた」と、それをカサにきられても困りますからね。それで「あんたはどう思いますか」と尋ねた(略)。そして、
 「明らかに意見が違うたら、相手に頭を下げて聞いていくという聞き方、話し合いの仕方がありませんか? “私としては、こう思っている”と話して、“あなたはどう思いますか、教えてください”と相手に聞いていく。これが、私のために頭を下げてくださった法蔵菩薩様のご苦労。世自在王仏様の前で、この聞かん私のために、頭を下げてくださったお心ではないでしょうか」と申し上げました。

 でもここが難しい。なぜなら、驕慢の絶頂で、「わしゃ聞いている」というのが、なかなか折れるようで折れないからだ。そこを破ってもらうには、一人合点では無理。こういうお座を実践の場として、事あるごとに常にそれを心掛けていくということが、聞法の道だと、綴られている。

 そこを踏まえて最後の章である。そのまま引用する。

 私達は、人に厳しく向けば向くほど、自分には優しくなる。なかなか自分を許しても、人を許すことはできない。人を責めるほうへはすぐ目が光り、己を見る目は眠ってしまう自性だということがよくわかります。でも、我が身に厳しく問うていけば、人に言える自分ではなくなると思います。

 伊藤康善先生は、「法乞食になって聞け」と言われた。ひもじくない者は聞かれませんし、中々、乞食にもなれない。しかし、自分のむなしさ、貧しさ、嫌らしさというものを見せられると、頭を下げざるをえないのじゃないでしょうか。まあそういうふうに、人間関係を通して、ご法を聞かせてもらいますと、自分一人さえ喜んでいたらいいわではない。一人でも聞いてもらおうということが、同時に自分に聞かせてもろうていく道でもあります。真宗は御同行御同朋の在家集団ですから、やはり法衣を着ておるものも同じでして、法をカサにきたり、体験をカサにきたりしないで、どこまでも真実を尋ね、真実を求めて、聞いていくしかないと思うております。

 年をとるほど、だんだん孤独になってこざるをえない。見る世界、聞こえてくる世界も、味わえてくるものも、感覚的にも肉体的にも衰えてきて、だんだん狭く、ひがみやすく、愚痴っぽくもなってまいります。そういう自分というものを考えながら、どこまでも聞かせてもらう、教えてもらうことを光として進んでいく。そこに、やっぱり年とってこその、このご法のお仕事があるんじゃないかと思います。

 このように、厳しく我が身に追求していく姿勢を、ご法によっていただけたんだということを味合わせてもらうにつれて、そこに親鸞聖人が私達に残してくださった御同行御同朋の道が、開けて来るんではないかとお味わいさせていただきます。共感していただけたら、大変ありがたいと思うわけです。

 口ではいくらでも「厳しく聞いていく」とはいえる。しかし、実際はどうか。どう厳しく聞いているか。

 伊藤康善先生は「法乞食になって聞け」といわれた。この一言は、ほんとうに堪える。そしてそれを受けられた、悟朗先生に言葉に震えた。

「ひもじくない者は聞かれませんし、中々、乞食にもなれない。しかし、自分のむなしさ、貧しさ、嫌らしさというものを見せられると、頭を下げざるをえないのじゃないでしょうか」

 決して、頭は下らない。しかし、ほんとうに、ご法にあえば、自分のむなしさ、貧しさ、嫌らしさをいやというほど見せられる。実際、それしかないのだろか。すると、ただ頭を下げて聞くしかないのだ。だが、実際は、逆である。私はすぐに、二つのカサを来て、威張る。

 「私は聞いている」と体験をカサ。そして、「このご法は正しい。間違いない」と、法をカサにきるのである。
 
 聞いたも、正しいも、これだけも、「一切を放下せよ」。

 すると、何が残る……。

 頭を垂れざるをえない。南無阿弥陀仏

 

 

 

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1年1度の広島支部大会

 1年1度の広島支部大会。

 広島では、ほぼ毎月、例会はあるが、宿泊は年に1度だけ。例会も法座が終われば解散で、懇親会もないので、会館にお参りのない方と交流するには、貴重な機会だ。
  ただ今回はいつもの支部大会とは、少し異なった雰囲気。土曜日と日曜日の会場が異なり、移動に時間がかかって法座の時間が削られた。
  また支部大会にしては、人数は寂しかった。支部大会の意義のが十分に浸透していないように思えたし、また地域によっても差があることは、今後の課題もあった。
  他にも、法座の時間を割いて、支部の問題点などが話し合われた。でも、これはぼくには有意義な法座だった。誰のための法座か。誰が創造していくのか。お金や役割が関係してくると、みんな真剣に考えていた。お客様ではなく、自分事になってくるからだ。一見、聞法とは無関係のようで、実はこうして聞かせてもらってこそ、具体的な聞法になる。しかし、このことを十分理解してる方が多くないかもしれなょか、このあたりはよくよく身にかけて聞いてもらいたい。その意味では、広島ではそのようなお育てを受けておられる方が多くおられて、率直な意見を述べておられたのが尊かった。

法話は、歎異抄「後序」を頂いた。ただ、講習会のように体系的に話すというより、ポイントを絞って、4座で頂いた。真実信心とは何か。どこに唯円さんの思いがあったのかが深まったように思えたが、このことはまたいつか、、。

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東京支部法座~出遇い~

 今回の東京支部法座には、初めてお会いする方が複数あった。出会いの不思議を感じ、そして、その出会いでぼくの心が深く揺さぶられた。

 家庭的な不幸で深く傷ついておられた若者が、初参加くださる。生きていくこと、自身の存在事態が苦しく、ほんとうに人間に生まれた意義、このために生まれてきたものを、真摯に求め続けておられる。それを仏教の中に模索され、『仏敵』を読み、ここに座られた。浄土真宗の法座には初めてだという。真宗の教えを聞いたことのない方にも、『仏敵』の廻心体験は魅力的なのであろう。

 「阿弥陀さまが信じられない、後生や前世もわからない。信じられない者は、救われないのですか?」、そんな真摯な質問で始まった。敵対的でも、防衛的でもない。率直、自分を出して、次々と質問される。

 これに答えるのには、こちらもきれいごとやうわべのところや、単なる正解の教義をなぞるだけでなく、各人が、いま、喜んでいるところ率直に、心を開いて語っていくしかない。まさに私の信が問われているのである。

 具体的な詳細は触れられないが、結局、救われるとはどういうことかということになった。

 私は、いまの苦しみをなんとかしてもらいたいとう現世の願いしかない。しかし阿弥陀さまは、火の粉ではなく、火の元(迷いの元)を消すことを願っておられる。その意味では、仏法を聞いたとしても、どんなに苦しくても、また辛くても、誰も代わってくれない。自分が受けていかねばならない、厳然たる因果の道理をお話したら、ぼくから涙が溢れ出した。仏法が示す厳しさだ。しかしそれは決して冷たい厳しさではない。そんな私にずっと寄り添い、涙してくださている御方おられからだ。けっしてひとりではないのだ。

 しかし、それが私には信じられない。が、そんな私を信じきってくださっている方がおられる。その阿弥陀さまに出会わせていたたいだ喜びをお伝えせずにはおれなかった。何も力になれない我が身の無力さと同時に、いままさにご本願に願われている彼の姿が尊かった。

 翌日、もうひとりの初参加者から、メールをいただいた。

「生きたお念仏に接して、鳥肌がたちました」と。これまでの会では聞いたことがなかったという。しかも、すぐに同人会に入会されたのには驚いた。誰かがお誘いしたわけでも、また入会を進めたわせでもないのに、なんとも不思議なご因縁。こんな不思議な出会いもあるのだなー。

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新鮮だった仏青研修会

 初夏の仏青研修会。今年は、華光会館である。

 昨年秋の仏青大会に比べると、急にメンバーが一新されてフレッシュになった。昨年までの停滞した「お嘆き」ムードはどこへやらである。学生を中心の20代前半の、本当の意味での仏青である。子供大会出身者に、他会の出身者、それ以外の参加者もある。初めての仏青という方も多かった。

 たったひとりでもいいのだ。真摯にご法に向き合う人がでれば、それだけでも雰囲気は生まれ変わる。いまその手本となるものがいないが、逆にいえば、大きなチャンスである。自分がそうなればいいのである。

 ぼくが学生のころだ。父が、よく「火中の鉄です。打ってください」と、紹介していたことを思いです。「鉄は熱い内に打て」、そのときはその真意はよく分からなかった。強く強く叩いてもらう。メソメソ泣き言ばかりでは、誰も寄りつかない。

 ならば、若いうちから、途半端に喜んでいては勿体ない。いまこそ、ご法を深めてもらいたい。座談での聞き方や伝え方も、他者との関わりなども、体験的に学んでもらいたい。小さな喜びに止めないで、切磋琢磨して、一層、輝いてもらいたいのだ。いくら学んでも学び足りないものが、ここにはあるとの自負はあるのだ。

 どうやら、若い熱心な人達を前に一番刺激をもらったのは、ぼくのようだ。

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「真宗法座の集い」~気づき~

 人数は少なかったが、20代~80代の老若男女が集って、2日目は5~6名のグループに分かれて、よりきめこまやかな関わりができたのではないか。よく聞くこと、そしてしっかりと触れていくことの大切を改めて教えられた。これまでの長年の付き合いをしていた方への見方が変わったり、新たな理解を教えてもらった気がした。そして、受容的雰囲気の時は、人は心開き、新たな一面を語ってくれることも経験できたのだ。

 本題の内容には触れられないが、法座の入る前のオリエンテーションでの出来事でも、気付かせてもらった。

 司会者から「明日の起床時間は7時。朝食は、各自自由に。法座は9時開始です」との説明があった。

 質疑に移ると、30代の方から、「起床時間は7時30分でいいのでは?」との提案が出る。各自が身支度をし、布団を上げ、簡単に部屋に掃除機をかけて、朝食を済ませればいいだけだ。少しでも長く布団に入っていたい派のぼくも、90分あれば十分だと思っていたが、異論が出された。

 「いや。やはり7時で。私はいつも5時30分に目が覚めます」と。

 すると、「起床は自由でも、布団を上げるのは7時30分にしたらどうですか」とか、「起きたい人は、静かに出て行けばどうですか」などの中間の意見もでる。男性の宿泊はたった5名。それでもいろいろと意見がでる。

 ぼくはどうでもいいかなと最初は聞いてたが、7時派の人は早く目が覚めるという個人的理由だけで言われているのではないことが分かって、興味がわいてきた。お連れの80代の男性のお世話もされているのだ。「近くのファミレスに行って、モーニングもしたいのだけども、時間の余裕がほしい。年寄りは、なかなか早く出来ないんです」と。なるほど、30、50代のものには分からない

 一見、たわいもない話し合いだっだが、ぼくにはとっては、その後のグループの過程にも関係してくる事象となった。加齢による肉体的な衰えは、座談会でも影響を及ぼしていくのだ。小さな声は聞こえない。早く話すと理解できない。どんどんと詰めていくと、受け答えされているようで、実は混乱されていたのた。逆に、同じことが繰り返して話されると、若い人達はイライラしていくる。

 同じように理解していても、それぞれのペースや進み方があるという、当たり前のことを教えもらう集いであった。 

 

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寺院布教~光顔巍々~

Img_67165年ぶりに法林寺法座にお招きいただく。

最近、寺院布教では、お参りの皆さんと距離が気になっていた。対人的な意味ではなく、ご法に関する距離で、なんとなく寂しく感じることが多かったからだ。

Img_6674でも、今回は、そこはあまり気にせずに、お伝えしたいこと、自分が感じていることも遠慮なくお話することにした。大きなテーマはもっていったが、それに固執せず、その場の雰囲気や発言Img_6689_2に触発されたところでお取り次ぎさせていただいた。結局、3座を通じて、聴聞の要とImg_6709いったテーマではなかったか。

夜座の半分は座談会にしImg_6660た。懇親会も、檀家さんが中心に残ってくださった。皆さん、以前のこともよく覚えてくださっていて、遅くまでいろいろとお話してくださった。その中で、何名の方が、「先生、お話の雰囲気が変わりましたね」と言ってくださった。ご住職からも同じようなことを聞いていた。

Img_6692「そうですか。実は、先日も、(ぎぎ)としておられました、言っていただきましたが、、」と返答すると、

Img_6688ええ。なんか頭の感じが変わられましたね」。

はーあ 見たままの雰囲気なのね。そんなオチいらないです。

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仏書に親しむ会 ~二つのカサ~

「二つのカサ」を読む。二つのカサとは、

 まず一つは、「法をカサ」にきる。仏法は尊いのだと、そこへ腰を据えて、間違いがないんだと、のしかかってお話をする。いかにも知ったかぶり、受け売りは誰もがやりたい。医者は、一つ間違ったら患者の命取りになるから受け売りはしない。シロウトは、ちょっと自分の病気が治ったら、この薬や健康器をとすぐ人に勧めたがる。

 二番目は、「これは教義や知識で言ってるのと違って、わたしが体験したことだ」と、「体験をカサ」にきる。自分の通った道、その枠に相手をはめていこうとする。自分の体験を絶対視していく。
 
 でも、ご法は、どこまでも自身の往生で貫いていく。自信教人信といっても、まず自信が大切。その自信が教人信に転じても、やっぱり自分に聞かせてもらう。そこが抜けると、知ったかぶりの評論家になってしまう。

 また、自分にとっては絶対的な体験も、救っていただいた他力廻向の世界。それをありがたく頂戴するしかない。私と仏様の語り合いの世界に立ち帰ったなら、人に言わずにおれんわけだが、それすらも頂きもの。そこに立つことが、私が聞かせてもらう道ではないか。

 でも、ついついご法だけでなく、親が子供に言う時でも、自分の経験やあるいは育ててきたんだというところから話をしてしまう。でも子供はそういう説得調は大嫌いで、「うるさい」とはねつける。本当は、子供を通して、親が育てられねばならない。

 カサをはぎ取られたら、最後に私には何が残るのか。いよいよ哀れな自分しかないなあ、ええ格好をしておっても、全部はぎとられて、裸になって出掛けて行く後生しかないなあと味合わせてもらう。だから、人さまにお話をさせてもらうのも、今度は自分に聞かせてもらうという、行って帰るべき道、そんな回路をもらうことが大切だと。

   そんな要旨だった。

   それぞれ内省される方が多かった中で、Mさん(ご主人の方)がぽつりと言われた。

「わしは、体験も、法も、難しことも知らんので、かぶるカサがある方がうらやましいわ」と。
 

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永代経法要~仏様の大芝居に参加する~

今年は日高支部がお当番。少数精鋭で頑張ってくださった。おかげでいいご法座となった。法座は、講師だけが頑張ってもダメだ。まず、運営をしたり、裏方で支える世話人の頑張りが大きい。お客さんばかりではダメなのである。さらには参詣の皆さんの熱情も大きく影響する。食い下がってでも聞く人がいると、話す方も力が入る。その意味では、真摯に法を求める方がおられることが、法座の生命線でもある。そして、信一念の覚悟の華鮮やかさも尊いが、信の相続もまた尊いのである。どうしても「聞いた」で卒業顔ばかりでは、法座が停滞してしまう。

その意味で今回の法座はよかった。先生方のご法話もそうだが、信仰体験発表の3名のお同行方の話がすばらしかった。ただよかったというのではなく、法への情熱を呼び起こす力があった。それは、ぼくだけでなく若手の講師方にも伝播していたのもよく分かった。

おかげで、その夜の懇親会は尊かった。20代の若い女性陣が真剣に法を聞こうとする。それに対して、しっかりと法を伝えたいという方もある。しかし、あわてる必要はない。相手の機を観ることも大切で、「欲しい、欲しい」に乗じるだけなら、つまならない喜びをつかませてしまう恐れがあるのだ。法を伝えるとは、相手を変えることではない。むしろ、変わらない自分を聞いてもらうことに意味がある。そこにほんとうにぶつかり涙したものだけが、ご法に出会えるのである。何か(大半の有り難いもの)をつかむのでも、無理強いの必要もない。お念仏だって強要する必要もない。絶対に聞けない自分に出会ったら、その機を逃さず、仏さまにぶつかって聞けばいいだけである。すると必要な方が必要な形で動いてくださるものだ。

今夜は、まさにそんなドラマが起こり、ある若い女性に本願が徹したようだ。

「私はもう聞けません。どうしたらいいのか分からない」と、泣き崩れて彼女はやってきた。ぼくには何もする力はない。ここは阿弥陀さまに相談する方しかないのである。それを促す。ただ機(人も時も)を逃さなかったら、次々と芝居のように出演者が現われてくださった。キーパーソンになった人もあれば、脇役もいた。また道化役もいた。そんな人達が、必要なことを必要なだけ働きかけてくださるのである。なかでも、親が子を拝んで頼む姿は、尊かった。まさに南無阿弥陀仏の姿を、凡夫が体現してくださったのである。しかし、彼女はいった。「いまの心のまま称えても嘘です」。「それは逆だ」とぼくはいった。「どこまでも私は嘘しかない。阿弥陀さままことしかない。私の心はどこまでも嘘。それが本当になって称えるのではなく、南無阿弥陀仏がまことなのだ」と。そんな言葉が届く時には届くのである。

虚仮不実の口から、真実の南無阿弥陀仏が止めどなく溢れ出した。一言も、お念仏を勧めなくても、自然と現われてくださる仕組みがここにはあるのだ。無理なく仏法が躍動する。皆さんも笑顔でお念仏されている。こんな大芝居の場に合わせてもらうことはなかなかない。南無阿弥陀仏

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