カテゴリー「法座と聞法」の1000件の記事

東京支部法座~出遇い~

 今年、最後の東京支部法座。12月もあるが、別のご講師の法座である。

 改めていうまでもないが、仏法とは出会いである。親鸞様の「値遇」ではないが、たまたまの出遇いを、遠き宿縁を慶べと仰っている。出会いは、ほんとうに自分に出遇うことであり、またそこでしか阿弥陀様との出遇いもない。同時に、法友との出会いがまたそのすべてだといってもいい。

 「会うは別れの始め」という言葉もあるが、出会いがあれば別れもある。がしかし、ほんとうに出会った関係には別れはないのだ。出会いは必ず別れはあるが、出会った関係には別れがないのである。だからこそ、もうすでに往生されて現実には出会うことがなかった尾上実さんにも、おみとさんにも、お出会いさせてもらう不思議があるのだ。

 では、今、目の前にいる皆さんと、ほんとうに出会っているのか。聞いた、覚えた、分かったという世界ではない。お互いが、今、自分を「出」て「会」う世界。一度もあたことのないほんとうに自分に出会わせてもらう勝縁がここにあるのだが、東京の皆さんは、どうであったのだろうか。

 ぼくは、いつも欲張りすぎているのだろうかなー。

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尾上実法兄『最後の手紙』

 仏書に親しむ会は、尾上実さんの「最後の手紙」を読む。『悟痰録』から始まり、遺言となった27歳の時の『最後の手紙』を通して読ませてもらった。今年、一番、尊かったこときは、80年も前にご往生された尾上さんとの出会いである。そこから改めて「おみとさん」とも出会わせてもらった。もう今生では会うことはかなわないのに、なぜか、出会ったと想わされる不思議がある。ほんとうに懐かしい方だ。

「仏説がウソだと言われても出てくる念仏が承知しません。私はこの法と27年の生涯を取代えてもちょっとも惜しくないです。では、お浄土にてお待ち申します。南無阿弥陀仏」(最後の手紙より)

 11月は、同じく『華光出仏』に収録されている伊藤先生の『宿善の実の熟する頃』を読んでいきたい。

 11月3日(祝) 10時~12時「仏書に親しむ会」
  同 13時30分~16時30分「華光誌輪読法座」
 
 ダブルヘッダーです。輪読法座は80-4号の誌上法話。著者の追悼する思いもこめて輪読させてもらいましょう。
 

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仏青大会

 二次会のお誘いを受けたが、姫路からすぐに京都に戻る。連れ合いは、最後まで着崩れすることなくデビュー戦を無難にこなした。夜からは、華光会館での仏青大会に合流する。昼間は、親鸞聖人や法然聖人のご旧跡を回っていた。六角堂、青蓮寺、知恩院にお参りしてきたという。ちょっど『御伝鈔』で読んできたところなので、感慨も一入とのことであった。

 結婚式で出会った若者たちと同じ世代の皆さんである。ある意味、宗教二世ならぬ三世、四世、人によっては二十数世の方もある。一方で、成人するまで真宗とはまったくご縁のなかった方もある。宿善の不思議を想うしかない。今回は、決して活発な法座とは言えなかったのは寂しかったが、どうか、自称、仏法を喜んでいるという人も、また今求道中という人も、聞法の焦点を定めて求め、伝えていってもらいたい。「聞いた」の想い出にしたるには、まだまだ若すぎる(でもそんな輩も多いが、、。)。大いに働かせてもらおうではないなか。

 

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9月の高山支部法座

  奈良の寺院布教の翌日は、高山支部(家庭)法座である。

 ところが、前日の台風の影響で東海道新幹線が止まっていた。午後2時頃から順次再開で、通常運転には時間がかかるようだ。車内で足止めや、途中から引き返す便もあって、駅構内はまだ混乱していた。名古屋で芝居をしていた連れ合いの劇団も東京に戻るのに影響があったようだ。幸い名古屋からの特急列車は通常運転だったが、用心して1本遅い列車にして、名古屋駅で少し待つことにした。何度も乗っているひだ号だが、夏から運行している新車両に初乗車。車内や座席は快適だが、先頭車両はワイドビューではなくなっていたが…。おかげで、法座の開始には遅れずに到着できた。

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 珍しく富山の北陸からの参加者もなく、いつもの高山支部のメンバーに地元出身の東京の同人が加わる。人数は少ない分、ひとりひとりにお声かけ。誤魔化ていので、厳しい雰囲気になる。前回の高山支部で感じた「聴聞不足」(聞不具足)をテーマに、座談会でも関わっていった。自力と他力の水際は紙一重。分からないと嘆くのではなく、分からないことを知らされた喜びがあるのが、仏法だ。せっかくのご法を、自分に取り込んで、小さくしていては勿体ない。取り込むでなく、取り込まれるのが法の偉大さ。こんなものでも「おいしい」「おいしい」と喜んで食べて頂くのである。

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教行寺永代経

 京都の同人と一緒に、奈良県河合町の教行寺に出かける。朝、昼の2座に、終了後に少し座談会も予定されている。日常とは違う演芸場や芝居の雰囲気が、まだ続いているような不思議な感覚でいる。ご門徒さんに混じり同人の方も多くお参り下さっていた。

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 朝座の法話は、「あなたは誰ですか」という、今、一番味わっているテーマ。難しい語句や教えでないが、自分に引き寄せるともっとも難しい問いである。大号尊者のエピソードや、先日の九州支部での出来事をとしてお一人お一人に問う。聞き覚えた正解では通れない厳しい世界。この関門を通っていくのは誰か?

 午後からは、「煩悩具足の凡夫」の煩悩について詳しくお話する。煩悩というと、腹が立つとか、嫉妬や欲深い浅ましい姿ぐらいで終わりだと思っている。でも、「具足」と言われる以上は、そんな生やさし話ではない。ちょっとした表面的な浅ましさで、大雑把に分かったことにしないで、少しだけ丁寧にお話した。

 煩悩とは、文字通り、「汚れたもの」という意だが、「身を煩わし、心を悩ます」ものである。煩悩に狂っているというこは、結局、我が身を狂わすことにほかならない。
   ます、隨煩悩という、いわば病気の症状のような煩悩が、二十個に分類されている。怒ったり、嫉妬したり、落ち込んだり、浮かれて平静を失うのも、煩悩の所為である。これらは、樹木でいうと枝葉のようなもので、その根には「根本煩悩」という大きな根が張られている。「無明」(痴)「貪」「愼」の三毒煩悩に加えて、「慢」「疑」「悪見」を合せて「六大煩悩」とも言われる。三毒煩悩については、よく聞かれているだろから、「慢」の七慢、「悪見」の五見(特に辺執見の「常見」(ずっと永遠に続く)「断見」(死んだらお終い)、そして「疑」(「あれこれ迷うさま、自信のない迷い」などについてお話した。日頃聞かないので実は聞いている。お正信偈でも「邪見驕慢悪衆生」とあり、「有無二見を離れる」と説かれているからだ。そして、そのさらにその一番の根っこにはあるのが、「我」への執着である。結局、これが煩悩の元ということである。そう考えると、ちょっといいことすることか、腹立ちは反省するといった生易しいものではないことが分かる。「オレが」の心の故に深く、永く迷い続けているのである。

 短時間だったが、華光の皆様との座談会も一言だったが、よかった。お世話になりました。

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<雨が降ったり止んだり、蝸牛もノロノロと>

 

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特別講演会

    昨年は、華光誌創刊80周年の節目の年だった。ただコロナ感染拡大もあって、記念行事の1年延期を決めた。しかし、今年もコロナは収束せず、第7波中の開催となり懇親会は中止とした。それでも参加定員に達する方がご参加くださり、実行委員の方々ご尽力もあって盛会のうちに終えることができた。ありがとうございました。

 単なる2日間の講演会で終わらず、さまざな感慨が去来し、一言でまとめることはできないが、次ぎの力をいただく集いとなった。

 2日間、特別講演会と銘打ち、米寿を迎える母のこれまでの歩みを話してもらいたかった。今となっては、華光会館創立前の事情を知る数少ない存在で、しかも内部の事情も知っているたった一人である。裏方に徹し、これまで自分のことはあまり語って来なかったこともあって、ぜひお願いしたかった。華光会館創建についての事情など、誰も知らない話もあるだろうし、悟朗師の伝道への態度や姿勢を一番身近に知る人でもある。もちろん、88年の生涯、仏法との出会いからでも75年、華光会館創立からでも65年以上もの長く貴重な時は、2日間の講演ですませることではないとは思う。同時に、体力面からも2日間通すのも難しい。ということで、4枠の法座のうち、両日の昼座(3時間程度×2枠)を特別講演会に当てることにした。 

 残りの時間、2枠分はどうするのか。1枠は、「華光誌80年の歩み」と題して、今の華光の本源である華光誌に、その源を訪ね、今の歩み、さらには次ぎにつながるようなテーマを考えた。そして、もう1枠は同人の皆さんの企画という形で投げかけた。華光誌は機関紙であると同時に、同人誌として歩んできた。同人の皆さんの声で創られてきたからである。

 そのことを含め、遅ればせながら(ほんとうは1年前にでも始めねばならなかった)運営委員を中心に有志による実行委員会を立ち上げ会議を重ねることにした。遠近各地に散らばっていても、今はZOOMのおかげで助かっている。正直、単独で企画し、数名の方に指示をしたほうが、時間のロスもなく、楽なのは分かっている。しかし、もしそれでうまく進行したとしても、皆さんは常に一聴衆のお客さんとして終わってしまう。それよりも、こころある方一人でも多く巻き込みたかった。一人一人が、自分事として取り組んだもらうことが80周年に相応しいと思ったからだ。

 その意味では、その巻き込んだ数は同人の一部だったかもしれないが、その方々が、実行委員としてはたらき、意欲的に声かけをしたり、積極的に企画や運営に携わったり、また自主的に華光誌80年の歩みを展示企画を提案、展示に尽力されたりと、それぞれの力が結集された。おかげて、夜の同人企画も、登壇した6名の方の個性がそれぞれ発揮され、華光誌(華光)の生きた歩みを聞かせていただいた。またその後も、書籍化に向けたデータお越しなども、同人の手で進んでいることが有り難い。これも楽しみです。 

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聴聞不足~言葉に囚われる~

 土曜日、名古屋での「東海支部法座」、日曜日は「広島支部法座」、そして翌日は祝日で「華光誌輪読法座」。3連休は連続法座で、「聴聞不足」をテーマに、東海と広島はご法話をし、京都では華光誌の巻頭言を輪読して、分かち合った。

 法話の内容は同じ素材でも、前日の法座でのエピソードが加わることで力点が変わっていった。その都度、その都度の皆さんの反応のおかげで、ぼく自身も改めて理解や味わいが深まっていったし、メンバーが変わることで、こんなにも反応が違うことに驚かされたりもした。

 ただ、どこにもずいぶん偏っていた聴き方をしておられる方がおられる。とことん自分のこだわりを大切に、そこで教えのよしあしを判断されているのである。残念ながら、その聴き方では、百座、千座の聴聞もなんの役にも立たない。約立つととか意味があるを第一に、しかもその基準がすべて自分の方にあるのだから、いくら聞いても仏法にはならない。仏法は、その判断している自分こそが、迷っている、間違っていると聞くばかりなのである。でも、世間的には頭のいい、学や社会的地位もある方に限って、理性を中心に、学問でわかったり、根拠で判断して、自分が納得したものだけを受け入れていこうとする傾向にあるようだ。しかし、そんな姿勢では、佛様がみそなわされた私自分、その自分が問われてくることは絶対にないのである。残念ながら、それをいくら指摘したとしても、平行線で終わっていくようだ。結局は、自分の判断での「分かった」とか「そう思う」「ここは信じられる」「ここはそう思わない」を繰り返すばかりである。つまりは、文字通り「さっぱり」のなのである。このサッパリにはもう一手あって、スカッと抜けたさっぱりの方もあるのだが、こちらち極々少数で、支部に一人おられるかどうかだ。

 みんな言葉に囚われていくのだ。

「聴聞不足」と聞くと、「不足」の言葉に囚われて、回数や量を増やすとする。熱心に聞いている人は、不足ではないと自惚れていくだけだ。聴聞の質を問うとても、所詮は、「もっと熱心に聞かねば」「真剣に聞かねば」と、自分の聴聞姿勢を叱咤するばかりで、法に真向きになることはない。

 そうではなく、「捨てもの・拾いもの」と「後生の一大事」の結び目のない聴聞は意味がないと聞かされると、「これからはその二点を結び目に聞きます」などと、すぐ分かったように宣言する。

 何故、言葉に囚われていくのか。言葉に囚われるのは、その言葉が理解できる、分かると自惚れているからである。そして、理解することが聴聞だと勘違いしている。だから、そうなっていないと嘆き、またそうなるように頑張ると宣言し、その仰せをスローガンのように唱え続けるだけでは、せっかくご法を聴聞しながら、自分に触れることのないまま、この貴重な人間界を空しく終えてしまうだろう。

 それでは、あまりにも勿体ないのではないか。

 聴聞はこの世の常識は役に立たない、つまり賢い私も、善い私も、役立つどころ法の妨げになるばかりだ。聞くのなら、ここを聞かせてもらいたいのだ。

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『悟痰録』最終回

 今、華光会で販売している『悟痰録』には、貴伝名博著『春風吹かば』と尾上実著『悟痰録』の二編が収められている。今は、大先輩同人である尾上実さんの信仰体験記である『悟痰録』を輪読しているが、今月が最後だ。伊藤先生の書かれた手紙から、一気に、最後まで読み終えた。

 褌(ふんどし)担ぎが無謀にも横綱にぶつかるように、何度も何度も、倒されて転び、そして起き上がってはまた倒されるを繰り返す求道の心境の描写は、24、5歳の青年の筆とは思えない。主には伊藤先生だが、おみとさんや同時代の同人にも叱咤激励されながら、時には自暴自棄になり、時には勇猛果敢にぶっかり、または冷静沈着だったり、あきらめたり、または率直に、自分の心境を語ったりと、とにかくあの手この手で求め続けておられる。

 しかし、後生の夜明けはなかなか明けない。尾上さんも諦めないが、そこには、親身に、時に厳しく突き放しなからも、決して妥協せずに伝え、関わっていかれた伊藤先生という善知識がおられたからだ。そのお言葉が尊い。また求道の核心、廃立の要をついておられるのだが、今の華光でここを喜んでおられる方はどれほどあろうか。

 そして思わぬところから宿善開発の時尅がやってくる。法座の時でも、また身構えて待っていた時でもない。まったく日常生活の予想だにしないところでお念仏が飛び出す。しかし、それだけでは終わらなかった。その時の心境を聞かれた伊藤先生の一言。

 「やっぱりあんたは抜けているなー」と。

 それを聞いた尾上さんは、逆に狼狽して、こんなことが獲信だとは認めずに否定の言葉を出しつづける。ところが、そうすればそうするほど、「さき程の電話をかけぶりを観ていてもわかる」などと言われる。「冗談じゃない」と否定する尾上さんとの対比が面白い。私が法を追いかけうちは法は逃げるのが、法に追いかけられてくると、否定しても逃げることが出来ないものだ。

 約3年近い求道の歩み。2月から半年近く読んでくると、尾上さんと現実でも聞法上で関わっている錯覚を覚えていく。だから、結末は分かっているのに、最後は「間に合ってよかったー」とお念仏申さずにはおれない。また法を勧められる伊藤先生のお気持ちや心境をいろいろと味わうことが出来るところまでぼくもお育てを頂いてきたのである。

 最後に尾上さんに送られた伊藤先生のお手紙の一部を引用して結ぼう。

「君達は何故獲信し損ねたと喜べぬか。『獲信せよ』とは教えるけれども、『獲信した』と受け取っては一つの驕慢の喜びである。これに反して『獲信せぬ』と思うのは卑下慢の悲しみである。これでは囲碁に勝って喜び、負けて悲しむのと同様だ。更に強い名人が前に現われた時に、また獲信の喜びを取られるであろう。

 信心は棚からボタ餅が落ちるのを待つようなものではない。自分がボタ餅になって棚から落ちるのだ。信も如来も念仏も語り得る資格のない自分を知らせてもらうのではないか。子が慈悲を喜ぶのは孝養が出来るからではない。孝養出来ない自己を知る時に、慈母の前に悲泣する我を発見ずくのではないか。

 我等は久遠の昔より如来を求めたのではない。我等の求めたのは自己の浄化のみだ。我等が諸行無常と知り、罪悪深重と気づくのは、実は如来から呼ばれているからだ。」

 

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壮年の集い~法にかける執着~

 壮年の集いの印象を一言でいうと、懇親会が楽しかった。会館での懇親会は3月から再開している。今回は同世代の気楽さもあるが、2年ぶりにお会いする方やコロナ以降で初懇親会など、再開ムードの楽しさもあって、全体にも高揚感があった。個人的には、最後の方にある先生からの問いに心を奮い立たったからだ。

「先生は、毎週、毎週、法座の連続で、『今日は行きたくないな』ーとか、虚しい気持ちになることはありませんか」

というような問いだった。意外だったのでその質問の根のところを聞き返した。華光同人といえども、真に分かち合える法友がほとんどいない。下手をすると、自己満足の独りよがりの法座で終わってはいないか。参加の皆さんが、「よかった、よかった」と喜んだとしても、単なるご縁のところ、今生のところで終わっているのはないか。そんな意味内容だっただろうか。

 改めて、問いをわが胸に落としこんでみる。
 確かに、体調の悪い時や忙しくて億劫な時もある。また発言しすぎたり、不要なことを言って、落ちこむことも多い。がしかし、基本的に、ご法座はいつも楽しみにしている。特に、最近はその思いが強くある。出会いが待っているからだ。そう感じさせてもらう背景には、一つはカウンセリングを学ばせてもらったことで場を信じる力をもらったことがあるだろう。が、一番は、法座に臨む姿勢を示してくださった先達に出会ったおかげである。善知識でもある父の存在が大きい。それをお手本に歩むことが出来るからだ。

 たまたま目にした父が54歳の仏青大会での「誌上座談会」の文章(今は要約)を思い出した。

 法にかける執着(法執ではない)。すべてが法の中での出来事、生活のすべてがそこに集約されていく。今まで歩いてきた道筋は、より頑固に法に強くなってきたという気持ちが強い。法に生かされているのだから、一人で喜んでいては勿体ない。一人でも聞いてもらいたいという願いになる。見事に育てられてきた。
 
 朝のご法話は、世間、今生や自分事ではなく、法にかける執着を一つのテーマに。

 

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6月の東京支部法座

6月の東京支部法座。

真宗法座の集いから1週間。まだその余韻が残っている。今回の世話人が、真宗法座の集いに参加され、参加者による今、今の心境告白の機会に深く感銘を受けられ、みんなが率直に声を出す機会を、東京支部法座でも持ちたいとの提案を頂く。ぼくも、その良さを味わい提案に賛成した。

日頃、関わりながらも、もう一声聞きたい。気になっている方の違う角度から話してもらいたい。もし、今、どこに留まっておられるのか、率直に声をだし、ありのままを話してもらいたい思った。加えて、東京に集う同人には、もう一歩踏み出してもらたいとの願いがある。だいだいが自称「獲信者」(たぶん)に属していると思われるが、どこで喜んでおられるのか。Aさんにも、Bさんにも、そしてCさんにも、Dさんにも、Eさんの声を聞きたかった。

もう一つは、分級座談会での発言がよく分かっておられないと思われる方が増えている。ただ正解を並べたり、事なかれとやり過ごすような無難な発言に終始しているだけなら、なんのために法座に出てくるのか。ただ法話を一方的に聞いて、それを自分に取り込む聞法なら、華光の法座に出る意味はない。その意味では、まず率直に声を出すところから初めてもらいたかった。

最初、一言ずつ話し合ったが、大半の方が、前に出ることは尻込みされていた。今度が2度目で他の先生のご縁から参加者と、企画提案のご本人が手を挙げられただけ。お願いしたいと思った方に促してみるが、せっかくのチャンスに及び腰の方が多い。

それでもやっと一人の方が惑いながらも応じてくださった。この方の話を聞いてみたいと思っていた方だ。

そして、そのことがとてもよかった。これまでのご縁を語り、おかげを喜んでおられるのはよく分かる。が、ほんとに今生のご縁のところでだけで、仏法なかたっことに、本人自身が、一番驚くことになった。後生の一大事、そして自力・他力の廃立、この2点の聴聞の結び目かない聞法は、いくら喜んだとしても、ただ今生のご縁を喜びだけで終わってしまうのである。それなら浄土真宗でなくてもいいのだ。真宗は、後生の一大事を、今に、取り詰めて、飛び込んでいかねばならない。そして、一念の時に、捨てもの(自力)と、拾いもの(他力)がはっきりする教えなのである。外からの指摘ではなく、自ら語ることで、聞法の原点に立ち返ってもらえたことが、一番、有り難い。おかげで、その後も、法座の感想メールをやりとりする機会もいただけ、改めて要点を示すことが出来た。この先は、どう進まれるのか。ここからが本当の聞法。

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