カテゴリー「法座と聞法」の754件の記事

収穫のあった寺院布教

Img_0050 2年半ぶりに西光寺の法座にお招きいただく。春の別修永代経法要は3日間の法座、これは5年ぶりだ。5年前に、この法座で連れ合いと出会ったのだから、その意味では懐かしい。今回も夫婦でお邪魔することになった。彼女は飲み要員でもある。2日間、何時まで付き合えて、かつ法話でも居眠りしないという、耐久聞法(?)である。

Img_0064  今回は「イキイキした法座を共に創造しよう」を大きなテーマに、「何を、どう、何故、聞くのか」を問う法話を考えた。一方通行ではなく、皆さんとも交流しながら、深めていく法座にしたかった。

Img_0061 今年は初日が日曜日だったので、大勢のお参りだ。それでもこちらからいろいろと質問しながら、その出てきた答えにそって話を膨らませていった。「浄土真宗では一番何が大切だと思いますか」とか、「何故、聞法しておられるですか」とか、「何を聞かせていただくのですか」といった具合、大きな問いをだす。思った以上に皆さんが、答えてくださった。ご住職も、易しい一言のImg_0078_2言葉で答えてくださる。そこからまた皆さんが反応されるという具合で、そこを受けたり、膨らませたりしながら進行した。後席は、それを含めて法話するという具合だった。

Img_9992 夜座は法話をせずに、いきなり車座になり、自分を語るテーマでの座談会にした。人数は減ったが、両日とも30名ぐらいはおられた。
 華光の集いなら躊躇はないが、知らない方もあるので戸惑いはImg_9994あったが、これまでのご住職との信頼関係や仲間もおられるので、場を信じることにした。

「あなたのお寺との出会い、ご縁を教えてください」
「いま、何を課題に、もしくはどんなテーマをもってお参りにきておられますか」などである。

Img_9991 これがまた面白かった。7、8名のお坊さん、ご住職方も4、5名交じっておられる。その方と、初めて参加される方も一緒になり、丸く座って、同じ問いに真剣に答え立てくださった。

 門徒さんの中には、焦点を定めてご法を喜ぶ方がおられる。父のご示談でお念仏を申される身になられた方もある。今回も、「お父様のご法話は忘れません」「ずいぶんお育てをうけてきました」とか、「ほんとうに有り難かったです」など、複数の方からお声をかけてくださった。ただお名前とお顔が一致するのは数名だけだ。少しはお顔だけは覚えている人もいるが、初めてお目にかかる方も多い。それでも、おかげで皆さんと一層、親しくなった気がした。2日目の夜座では、お一人お一人がとても大切な御方に思えて、最後にお念仏のワークで締めくくった。

 一方的な法話でなくても、こんな形で寺院布教ができることが、ぼくにとっても大きな収穫となった。もちろん、これまでのお育てや、ご住職が示されたブレない方針が下地になっていることはいうまでもないが、これからの伝道布教の大きなヒントになった。ありがとうございました。
 

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バー ジョンアップ~4月の東京支部法座~

Img_9615  4月の東京支部法座。あいにくの天気である。

  全国でもいち早く桜が開花した東京はもう散り始めているが、まだ会場までの公園の桜がきれいだった。長持ちである。

Img_9612 支部長さんが交代し、急遽、支部法座が年6回の予定が、毎月行われるようになった。意欲的なのは結構だか、参加者はたいへんなのかもしれない。その余波か、初日のお参りはこれまでになく少なく、お泊まりも最低人数とちょっびり寂しかった。

 それならば、少人数ならではのことをやりたかった。歎異抄14章の用意もあったが、皆さんに計って、昼座も夜座も通して座談会をおこなう。といってもフリーな非構成なものではなく、指向性をもった、テーマを設けた座談形式だ。
 福岡では導入程度のつもりだったが、盛り上がって一座が、それだで終わった。それで、初めての方が多かった北陸法座でも行ったら、時間内で最後まで終わらない程、活発であった。その直後には、予想外の方が、5月の「真宗法座の集い」を申し込まれて、びっくりした。

 ということで、今回は、かなり確信をもちながら進めることができた。丸1日を3つのテーマでの語らいで通すところまで、バージョンアップしてきたのである。
  
 10名足らずと人数も手頃、顔見知りばかりで、緊張や構えが少ないということも、幸いした。

(1)なぜ、ここ(華光の集い)に参加されるようになったのか。その出会いと、ご因縁(特に外縁)を具体的に語る。
(2)では、なぜ聞法を続けようと思われたのか。その内なる動機。正解ではなく、ほんとうの内にある動機を、具体的に語る。
(3)いま、私の課題、問題点、悩みなどについて、率直なところで語る。

 というもので、それぞれを順番に語り、その後で分かち合うということを、3回に渡って行った。ぼくも、一参加者として、華光との出会い、なぜ聞法に興味をもち、どんな内なる動きがあったのかも、そして、いま、僕自身の課題も、率直なところを聞いていただいた。

 それにしても、皆さんのことを全然わかっていなかったんだな、と思わされた。何十年もおつきあいのある方のことでも、新たに聞かせていたただくことが多くあり、驚いた。結局、人のことは知っているようで、何も分かっていないのだという当たり前のことに気付かされた。
 そして、リラックスして、といって雑談や飲み会ではなく、しっかりと自分を開いて語っていただくことが、その方にとっても収穫があるが、同時に、それが皆さんにも還元されて、法話を聞くのとはまた一味違う、それぞれからご法を聞かせていただくように感じられた。

 これからも機会があれば、さらに工夫しながら勧めていこうと思います。

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新潟・北陸支部法座

Img_9185  ちょうど一年ぶりの新潟・北陸支部法座だ。

 昨年の法座と同じ2日は、桜が満開だったが、今年はまだ蕾で、一輪も咲いていなかった。それでも、ここからの眺めは美しい。浅野川の流れに、遠く白山の山々が眺望できる。

Img_9191 新年度の初日ということで、ちょっと参加者は少なめだったが、初めてお会いする方が4名おられた。皆さん、真剣に聞いてくださる。また、法座の雰囲気や、法話内容にが新鮮で、かなり驚かれたようだ。特に2日目の朝座は、座談会で通して、温かいいい法座となった。

Img_9197 テーマは、何を、どう、聞くのか。特に、何を聞くのかをメーンに、2席お話した。

 親鸞さまは、成就文の「聞其名号」の「聞」をご解釈されて、「仏願の生起本末を聞いて」(信巻)と仰った。
 一方、蓮如さまは、同じく「聞其名号」から、「南無阿弥陀仏の六字のいわれをよくききひらき)(3-6通)と仰った。

 つまり、親鸞さまは「仏願(本願)の生起本末」、蓮如さまは「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」と言われた。これは同じことなのか、それとも異なることなのか。もし同じとするならば、本願と南無阿弥陀仏は、どんな関係になるのか。あらためて問われてみると、皆さん、戸惑われる方が多かった。

 中には、「本願が親で、名号が子です」といわれた方もあった。それで、「親子ならば、悟朗先生が本願で、ぼくが名号になりますよ。親子といえども、まったく人格が違うのですが、本願と名号もそうなんですか」と言うと、困っておられる。どうやら、娘(名号)-嫁(信心)-子(称名)の法話と混乱されているのだろう。

 よくご聴聞されている方なら、当たり前になりすぎて、あらためて問われると困るようだ。

 そこで、(こんな言葉あるのかどうか知らないが)「法格の上では、本願と名号になりますが、人格(正確に仏格)的には、どうですか」。と尋ねると、「本願」は法蔵菩薩、「名号」は阿弥陀さまです、お答えができる。そこではっきりしてくる。お正信偈でいうならば、本願は「法蔵菩薩因位時」。つまり、因位にある時が本願。それが成就し果上でいうならば、名号となる。決して、別人格の親子ではないので、そこをお正信偈で確かめていくと、皆さん、深く頷かれる。

 そんな風に、ひとつひとつ確認しながら、「生起」とは、「本」とは、「末」とは、、そして六字も、二字と四字に分けて、丁寧にお話もうした。いつも聞かれていることだろうが、あらためて阿弥陀様の大悲のお心を新鮮に聞いていただけたのではないだろうか。Img_3536
       昨年4月1日のさくら
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福岡法座での分かち合う

  博多は、「しゃぶしゃぶ・あり田」での九州支部法座。

 初日の法座は、導入の法話はせずに、いきなり分かち合いから入った。

といっても、テーマを設けたほうが、話題も出で活性化されると思ったので、
1、「それぞれの仏法とのご縁」(最初のお誘いのきっかけなので外側)、
2、(なぜ聞法しようと思ったのか)「内なる動機」
3、「いまの私の課題、悩み、問題点」など

の3つである。15名ほど、スッスと進むかと思ったら、皆さんが雄弁に語る方が多くて、1、2が終わったころで、もう100分は立っている。休憩を挟み、3、課題を一口ずつお尋ねしていった。

これだけ長くなるとは思わなかったが、一人として同じものはないのが面白い。しかも、「正解」がある問いではないので、皆さん、イキイキとお話くださった。同時に、3の課題一つでも、それぞれの人柄とか、もしくはそれぞれのいまの立場や聞法の姿勢が、すっと立ち上がってくるようでよかったのではないか。

また、2にしても、それぞれが異なるのがいい。中でも、
 「自由に成りたい。開放されたい」という願いから聞法された方が、世間の業は逃れれないが、しかし、ご法の上で自由自在になることを知らされたとか、
 また「ほんとうのこと、真実か聞き方という方」は、そこで、「お前は虚仮不実で、まことはない」と指されている真実に出会われたが、ほんとうのことが知ってうれしかった、という話しなどが印象に残った。

 ぼく自身は、死ぬことの不安が大きい。加えて、何不自由ない恵まれた人生を歩ませてもらってきたが、常に一人というのか、空しさを感じてた青年期の孤独感が、聞法の大きなきっかけになったことをお話させてもらった。

 昼座は、たっぷり話し合って、まるで法話を聞くようでもあったし、密度が濃くなって、けっこう聞くのも疲れたが、有意義な分かち合いになったのではないだろうか。

 

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お彼岸の大阪支部法座

 広島の翌日は、大阪支部法座。生駒での家庭法座である。春のお彼岸の中日である。

 こちらも、女性陣が、3世代揃っておられる方が、二組もあった。

 せっかくなので、お彼岸についてのご法話。

 この世が此岸なら、お浄土こそが彼岸である。その両岸を隔てる大海原こそ、生死苦海であり、難度海だ。本来、私が六波羅蜜の行、つまり六度の行を修めて、生死の苦海を渡っていかねばならない。しかし、私は六度どころか、その対極にある六慢の姿である。つまり、布施ではなく貪欲であり、持戒ではく無戒(戒律を保ったことがないので破戒以下である)であり、忍辱どころか常に愼恚で燃え盛り、禅定どころか散乱しまくり、精進せずに懈怠でありつImg_9105づけて、そして智慧はなく愚痴の塊である。もう六慢が満ち満ちているのである。

 ところが、その私のために自ら六度をなして、その功徳を回向してくださる御方がおられるである。阿弥陀さまが、自らの命を投げ出してくださった布施の行、檀波羅蜜の行を窺いながら、そのお心をいただいた。度し難い難度海を渡る願船、つまり南無阿弥陀仏をご成就してくださったのである。

Img_9109_2  そして大音声を発し、西の岸から招き喚き続けてくださっているのである。

 大悲の呼び聲である。

 「一心正念直来」の見事な掛け軸である。

 仏壇の上には「直来」。こちらは父の揮毫。

 グズグズしていていは、もったいない。

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広島支部法座~四世代の法縁~

Img_9084  お彼岸の日曜日の広島支部法座。 

   オープン戦なのに、もうマツダスタジアムはずいぶん盛り上がっている。WBCの余波で、日本のプロ野球も熱を帯びている。 

  春といても、桜はこれからだ。今年はかなり遅いようだが、会場前Img_9085_2の公園の早咲きの桜は、一足早くすでに満開で、青空に色鮮やかである。

でも、今月の法座の顔ぶれは、負けずに色鮮やかであった。

  あるご家族が、高齢の祖母を先頭に、母、娘、孫娘の四世代が揃っておられる。他にも、祖母-母-娘の三世代のご家族もおれらる。ほぼ女性陣ばかりである。法事でも、年忌でもない。純粋な聴聞の場に、世代を超えた人々が、一同に会して、共にお念仏してくださる姿が勿体なかった。

Img_9088 特に、四世代の方は、娘世代で、ごきょうだい三名-つまり姉-弟-妹が前列に並んで、ご聴聞くださっていた。これまで実現しなかった顔合わせだ。義理もなければ、強制もない。聴聞の場に、誰からも押しつけられずに、皆さんが揃ってくださったのだ。これまでのさまざまな経緯、苦労を知るだけに、これはとてもとても不思議で尊いことだと喜ばずにはなれなかった。もちろん、まず聴聞の場に座られただけで、これからが出発点だ。がしかし、その場に座ってくださっていたことだけでも、尊い宿善の現れだと拝まずにはおられない。

 すべて阿弥陀さまのお力である。

「ここに集まるみ子たちは
 仏の力で参りきて
 喜び、うやまい、たてまつる」
(「十二礼」子供聖典バージョン)

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第41回講習会~『歎異抄』(4)~

 『歎異抄』に入って、4回目の講習会だ。異義篇の後半14~18章をいただく。

 正直、馴染みの薄い章ばかりだ。第1回、第2回に比べて、異義篇に入ると参加者が減ってきたのも、致し方ないのかもしれない。それでも、今回からの参加者もあり、皆さんと一緒に味読させていただいて、ぼくにとっても貴重な時間であった。

 さて、歎異抄は、前半の親鸞聖人のお言葉を伝える聖語篇が人気が高い。全編が端的な力強い表現で語られ、時には意表をつく鋭い言葉で、現代人の心も打つものだ。教義上からもみても、後の学者が「唯信訓」と名付けた第1・2・3章が重要で、特に第1章の歎異抄全体を総括する重要な章だ。

 それに比べて、後半の異義篇は、親鸞聖人の教えと異なる当時の異義を批判し、唯円房の耳に残る聖人の教えを伝える部分で、前半に比べると回りくどく長い章が多い。そのせいもあって、どうも省みられることが少ない。それでも、異義篇の前半の第11章・12章・13章は、聖語篇の唯信訓の第1・2・3章に対応する部分なので、読まれることは多いが、今回取り上げる14章以下は、一気に関心が低くなる。ぼくがもっている歎異抄の解説書(もちろん、すべてを網羅しているものが大半だが)をみても、「聖語篇」だけを取り上げたものがあれば、そこに「後序」を加えたもの、もしくは第13章だけを加えたものもある。中には、「11章以下は、現在は見られない異義なので、原文のみを載せます」と、わざわざ断ってある解説書までもあるのだ。

 でも、しかしである。

 ほんとうに今は読んでも仕方ない意味のない異義なのだろうか。そう捉えては、『歎異抄』の本質はまったく分かっていないことになる。唯円さんがほんとうに書きたかったのは、この後半の異義篇である。親鸞聖人の亡き後、面授口伝の直弟子の、その薫陶を受けた(つまり聖人から孫弟子)もののなかに、聖人の教えに背くことを言い出すものが出来たというのである。まだ教団として礎もなく、教義も確立していないのだから仕方ない部分もある。すでに聖人が京都在世の時でも、関東ではさまざまな混乱があったことは、聖人のお手紙からも窺うことが出来る。それにしてもである。聖人のご往生から20数年で、孫弟子のところで、勝手なことを言い出して、同室の念仏者を混乱させいるというのだがら、いかに真宗の安心が、難信で、また微妙なものかが窺えしれるのである。

 だからこそ、唯円さんは、泣く泣く筆を染め、聖人の教えと異なる異義を綴り、同室の念仏者の不審に答えようとされたのである。そのための正しいはかりとなるように、前半の記述があるのだから、やはり後半も頂かないと、前半の聖語篇のこころを深めることはできないのではないだろうか。

 それに異義者の心情を察していくならば、第17章や第18章のように、一見荒唐無稽な異義も、今日の私たちにも通じる迷いの根があることが窺えた。特に、善悪にとらわれること、その結果を畏れること、そして自力に執着し、もしくは学解(学問)的な聞法が幅を効かしたりということなのだがら、これらは今日の私たちの上での聞き間違いにも通じる異義だといってもいいのだ。
 
 今回、華光誌と平行しての準備はたいへんだったが、こんなことでもないと、真剣に、集中して勉強させてもらうこともない。しっかり学んでこなかった14章以下だったので、ぼくの中でも新たに気付かせていただくことも多々あって、その度に、何かご褒美をいただいた気持ちにもならせてもらった。各章の詳細に触れる機会があれば、また綴っていこう。
 

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3月の高山支部法座~自策自励して~

Img_9050  3月の高山支部法座。

 電車で一人で行く予定だったが、急に、連れ合いも参加できることになって、車で高山へ。高山までは、だいたい3時間30分くらいだ(帰路は、複数の事故渋滞に巻き込まれて、6時間近くかかったImg_9068が)。3月に入ってから雪の心配はなさそう。関が原から岐阜方面は、まったく雪はなかったが、さすがに飛騨国に入ると回りImg_9071_2は雪景色。特に、今年は積雪が多くて、たいへんだったようだ。こあたりは標高も高く雪が溶けずに残っている。ここまでくると、雪山も美しい。それでも、ピークはすぎているので、今回はノーマルタイヤでもまったく問題なかった。

Img_9055 新しい支部長さんが工夫をして、こんなプログラムを作製されていた。初めての方が和むようにと、かわいいイラストも入っている。毎回、利用できるように、バーツが磁石で留められるにもしてある。隙間の部分には、

「おのおの聞け、強健(ごうごん)有力(うりき)の時、自策自励(じしゃくじれい)して常住を求めよ」

という往生礼讃の御文。悟朗先生に何度もご法話を頂き、皆さんも馴染みが深い。たまたま今年の年賀状に、ぼくがこの御文を一筆したことで、そこを受けてくださったというのである。

 小さなことかもしれない。それでも、初めの方へ少しでも柔らかく伝わればという配慮がよく伝わってくる。これもまた、新しい支部長さんの自策自励の姿として頂いた。どうか、人任せのご法座、先生まかせのご法話にしないで、どんな小さく見えることでも、おのおのが工夫し、参画くださることが、法座の活性化につながるのではないだろうか。

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創意と工夫の法話

Img_8926   寒中子供大会。参加者が集まりが悪く、世話役はお誘いに苦労された。仏青世代も、大人も少ないが、寒中子供大会なのに、子供の参加者が特に少なかった。幼児も含めて、どうにか開催にこぎつけた。

 にも関わらず、法話担当の生方は、いっさい手抜きをされない。母も言っていたが、人数が少なすぎると、準備にも力が入りづらい中で、子供たちが飽きないようにと、何枚ものかわいい絵を描き、クイズを出し、ギターを弾いたり、馴染みのある歌を歌ったりと、その創意と工夫の熱意には頭が下った。皆さん、仕事を持ち、または子育てを真っ最中に、Img_8977時間を割いて準備をしてくださっているのだ。中には、準備の途中で眠たくなったので、セロハンテープを瞼に張ってまで頑張たという方もあった。いつもは子供たちの感想文を中心に「はちす」を発行するが、今回は、先生方の法話を「華光誌」に掲載してほしいとの声もでた。ただ、視覚や聴覚にも訴えた法話だったので、ただ文字を観るだけでは十分に伝わらない点があるのは残念だ。次回の機会には、先生方のこの並々ならぬ熱意にImg_8982触れていただきたい。

 それにしても、子供たちは正直だ。興味のあることには集中できるが、すぐに飽きてしまう。大人と違うのは、それがすぐに態度に現れる。あくびをする、「エー、まだあるの」と正直に言う。幼い子は、じっとしImg_9031ておれずに歩き回るものもいる。

 では、私たちは、それとどう違うのか。大人は、しつけていただいたおかげで、じっと座っていることはできる。しかし、退屈になると居眠りし、他所事を考え、心はここにはあらだ。表に出さないだけ、質が悪いのかもしれない。まざまざと私の姿をみせつけられる。

 だからこそ、あの手、この手の種々のご方便があり、そのたまもので、いま仏法を聞く身にまで育てていただいたのである。

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何を喜ぶのか?

 今月は土曜日になった広島支部法座。法話の分かち合いを一言ずつ回した後、Aさんの発言から場が動きだした。

「ある会の勉強会に参加して、『地獄行きの私』を喜んでいる発言ばかりしていたら、『Aさんは浄土往生を喜ばないのですか。そこはどう聞いていますか』と問われた。地獄行きはよく分かるが、お浄土のことは、聞いて覚えところで答えることは出来ても、それでは伝わらない。実は浄土往生のことはわからないし、喜んでいないのだが、皆さんはどうですか」

というような問いであった。

 数名の方が反応される。自身の自督(愚禿の信心においてはかくのごとし)と語られる方もあれば、まさにそこが分からないと共感される方もある。しかし「私は、浄土往生を慶ばせてもらっています」という発言はなかった。

 外側の話題に移るのではなく、今一度、Aさんの問題にするために、もう少しその心境をお尋ねしてから、問う。

「では、今、称えておられるお念仏で、浄土往生は大丈夫か?」と。

 自問されている。少し間のあと、涙と共に「ただ南無阿弥陀仏しかありません」という尊いお答えが返ってきた。

 が、その場でのぼくの直感だが、ぼくが発した問いの持つ心まで、十分に伝わった気はしなかったので、加えてお話をさせていただいた。

 まず、地獄行きは喜べて、浄土往生は喜べないのでは、浄土真宗の正信とはいえない。その日のご法話でも、真宗は、頭を垂れて聞かせていただく以外にはない。そしてご聴聞は、「後生の一大事」を離れてはないが、後生の一大事には、「堕地獄の一大事」と、「往生浄土の一大事」ある。しかし唯一の一大事に二つあるのではなく、これはひとつのことで離れない。二種深信でいうならば、同じ紙の裏表、機法二種一具の味わいのところだという話をしたばかりだった。つまり、機の深信(地獄一定)だけを喜ぶのでは、浄土真宗のご信心の相とはいえないのである。

 しかもである。自分で地獄行きは喜べる、実感があるから話せるというのも、大きな自惚れだ。地獄行きも、また如来さまに教えて頂き、お聞かせ預かったことが抜けているのだ。確かに浅ましい身は常にここにましますので、ご縁にあえば、ほんとうにいやというほど見せられるのではある。しかし無明の身には、ほんとうはそれすらも分からないのである。

 そして、お聞かせに預かるのは、わが身の浅ましさ、地獄行きの姿だけではないく、その地獄行きの私を哀れと思し召し、それをお目当てに立ち上がってくださった阿弥陀さまのお慈悲もよくよく聞かせていただくのではないか。つまり、地獄行きの身も、往生浄土の道も、共に、仏縁を頂き、阿弥陀さまのお心を聞かせて頂いてお教えいただくことなのである。

 何のために、阿弥陀さまは浄土を建立され、南無阿弥陀仏となってくださったのか。三厳二十九種の浄土の荘厳は、一体、誰のためなのか。無明煩悩に覆われて、聞く耳もない私ひとりをお目当てに、阿弥陀さまが正覚の位を捨てて、もう一度、願を起し、行を励んでくださったのである。この私が、安心して帰っていける世界、私をお目当て、正客として迎えるためにお浄土を建立され、私が帰ってくるのを、遥か十劫が昔から、呼んで、呼んで、呼びづめで、待って、待って、待ってくださっているのではないか。つまりは、私が帰るべきお浄土も、そこに生まれるお手立てまでも、自らが南無阿弥陀仏の中に身投げをして、その六字にすべてをかけて成就してくださったのである。

 凡夫の身で、阿弥陀さまの清浄そのもののお浄土が、ほんとうに分かるわけはない。しかし、今、私の口をついて出てくださる「南無阿弥陀仏」の六字の中に、そのすべてが封じ込められて、その親心のすべてが届けてられているのではないか。そのお心に、大慈悲心に触れたならば、喜ぶなと言われても、喜ばずにはいられないのである。

 「地獄行き、地獄行き」と簡単に口にだされるが、さてさて、皆さんは、いったい何を喜んでおられるのだろうか。

「選択摂取のお浄土の 花ふる里は誰が里
清風微妙の音楽も 七宝樹林の輝きも そびゆる宮殿楼閣も
いちいち衆生のためばかり
親の宝は、子の宝
南無阿弥陀仏の大宝」(仏教詩歌集より)

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