カテゴリー「法座と聞法」の797件の記事

廿日市市での広島支部法座

 1年1度の廿日市市での広島支部法座。今日は成人式で、晴れ着姿の新成人に出会た。人数は多くはなかったが、初参加や2回目の方もあって、ちょっと新鮮な顔ぶれ。

 新年、最初の支部法座。それで、会館での修正会のように、正信念仏偈をおあげし、皆さんと一緒に、「現世利益和讃」をいただいた。広島では久しぶりのことだが、皆さんには新鮮だったようだ。初めて「現世利益和讃」をあげさせていただきました、という方もあった。

 法話も、「門徒物知らず」というテーマで。昔から、広島の本願寺派のご門徒は、安芸門徒と呼ばれ、筋金入りの念仏者も多い。いまだにこの地域では、お葬式でも位牌は使われないし、習俗や神信仰、お墓についても、きっぱりと他力念仏の立場を貫いておられる方が多い地だ。それでも、今回、初めてこの言葉を聞いたという方もけっこうあった。また、「一文不通」の意味だと思っておられた方もあったよで、ちょっといつもの法話とは違う角度からの法話となった。

 座談会は、まずは一口ずつの感想を回したが、法話のことだけでなく、自分を開いた率直な発言が多かった。そのことが、受容的で、温かな空気を生んで、なかなかいい雰囲気で、座談会が進んだのではないかと思った。

 どうぞ、今年もよろしくお願いします。

 来月は、※次回は、2月3日(土)昼1時~5時
 広島駅(マツダスタジアムすぐの)荒神集会所が会場。

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第4回「念仏と黙想と語らいの集い」

1回キリで終わらずに、第4回までやってきた。

今年も尊い集いとなった。冒頭、少し詳しく注意や説明を行う。あとは、一同が車座に座り、称名念仏する。ああ、この感覚、忘れていたなーと思った。1年前のことたが、このお念仏の響きは新鮮だ。地鳴りというか、波が押し寄せるような念仏の声が押し寄せ、響いてくる。5分、10分など、大声で集中するとアッという間である。

静かな時間を持つ。ここはもう雑念、妄念ばかり。それがまたいい。冷静にクールダウンできるのだ。

そして分かち合う。これもさまざまである。自分のいまのところで語る方もあれば、知的な話題や過去を語る人もいる。今回は、参加者同志のところで、関わりも活発だった。いろいろと気付かせてもらったり、学ばせてもらった気がする。特に、最後のセッションは学ぶところが多く、尊かった。

今回は、このあと、お聖教を一文をそれぞれいただいた。これがまたよかった気がする。解釈で終わることもあるが、身に寄せて味わえたなら、それはそれで有り難い。

ただ、それだけに1回1回のセッションに時間がかかって、称名念仏の機会が少なくなったのは残念だったが、それはそれで内容が充実していたのではないだろう。

お念仏は決して、醉わすものではない。目覚めとはよくいったもので、己の無漸無愧の姿を知らせていくばかりだ。しかしそれだけではない。同時に法蔵菩薩のご苦労を思い知らせれる。皆さんのコメントの中から、それを教えてもいただいた。メンバーの中には、力のある同行もおられて、的確な関わりをしていただけた。その意味でも、尊い集いになってきている。

未経験の方も、ぜひ、ご参加ください。

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成道会~八つの悪魔の軍隊~

 お釈迦さまのおさとりをお祝いする成道会。ほんとうは12月8日だが、都合で1週間遅らせて法話を担当することにした。子ども向けにお話ししたが、いま大人向けに変換している。

 まず、成道会の成道とは「道が成る」ということだ。「道」とは、さとりへの道、つまり仏道という意味があって、さとりそのもの、菩提ということを指している。つまり仏道が成った、さとりを開かれたということである。ちなみに、華光会館の2階は本堂ではなく「道場」といっているが、これはお悟りを開かれた場所のことであり、仏道を求める場所である。真宗の場合は、真宗念仏によって仏道を歩むので、念仏道場ということになる。

 そして、実際のインドのブッタガヤの写真や、勤苦六年の苦行中のお姿を仏道の写真をなどをみてもらいながら、釋尊が、快楽主義で真実を誤魔化していくのでも、苦行主義で肉体を責めていくのでもなく、快楽も苦行の極端を捨てて、菩提樹の下で、こころ静かに最後の禅定に入られた時に、悪魔が大軍をもって責めてきたことをお話した。仏典では、悪魔とは煩悩のことだが、これがいわゆる三毒の煩悩のような貪欲・愼恚、愚痴というものだけでなく、仏道修行の妨げとなるこころの迷い、悪魔を顕している。つまり、
「欲望、嫌悪、飢渇、妄(盲)執、怠惰、恐怖、疑惑、みせかけ・強情が、八つの悪魔の軍隊として顕されているのだ。こうきかせもると、単純な煩悩というよりも、今日の私達が聞法や求道を妨げようとするこころに関連してくる。怠けたり、疑いをもったり、恐れたり、自己嫌悪になってり、外面の恰好だけだったり、からだ(健康)に執着したり、根拠もなく盲執したり……。真宗の獲信は、おさとりそのものではない。また、聖道の道と他力淨土の道とは別である。しかし、仏道を妨げようとする心の葛藤、迷いは、通じるものがあると思ったからだ。おさとりとはいわなくても、真宗念仏の道も、聞いても聞かなくてもいいような安いものではない。この変わり目に一大事があり、そこに心血を注ぎ求めていく道であることをお伝えしたかった。

 それにしても、子供さんも人数があり、大人の参加も多くて、とても賑やかで、活気のある成道会となった。

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華光誌輪読法座は正信偈講讃

今月の華光誌輪読法座も、先月に引き続き「正信偈講讃」。

土曜日だったが、参加者が少ない。家族が3名、Tさんと併せて、会館から4名。外からの参加者もよりも多いのが、かなり寂しい。この法座は、土曜日によりも、平日の方が参加者が多いのかもしれない。

先月が十二光で、救済(ぐさい)の縁であったのに対して、今月は「救済の因と果」である。行・信・証のお救いの核心部分である。悟朗先生の解説も、聖人の「五願開示」の立場に言及された解説もあって、なかなか難しい。

皆さん、読むので精一杯。なかなか感想や味わいが出でこないのは、教義的な部分だからだ。それだけしっかりと読ませてもらえばよいということ。同時に、我々の集いは、しっかりと真宗教義の本道を歩んでいるということでもある。それが、体験的に味わえるのだから、勿体ないことである。

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高山支部報恩講

Img_4885  12月の高山支部法座は、報恩講さまだ。

 毎年恒例なのだが、今年は会所がいつものF家ではなく、S家でお世話になる。

 遠近からのお参りがある。新潟、富山、福井、愛知からの同人に加えて、ご近所や親戚方もお参りくださる。こんな時の法話は、焦点の当て方が難しい。遠方の参詣者は求道者で、かなり厳しいご縁をImg_4893求めてお出でになった方。一方、ご近所の方は、Sさんに誘われた方がボチボチお参りされる。Sさんのお徳である。

 報恩講で「正信偈」さまを勤めした。法話の冒頭は、「帰命無量寿如来・南無不可思議光」のご文のお心をいただくことにしたら、案外、いつもの高山の皆さんが喜んでくださった。

 もう一席は、「恩徳讃」のおこころ。日頃、なんとも思わず、こんな厳しいご和讃を付け足しのように頂いていることが、恥ずかしくなる。どれだけ仏法のことにこころ寄せているのか。ほんとうに身を粉にして報じ、骨を砕いて謝して、仏恩を喜んでいるのか。ご報謝どころか、仏法の座に足を延ばさなくても、平気で開き直る。自分を楽しませることには金出しても、仏法のために使うのはおしい。お慈悲、お慈悲と有り難いことはつかむが、まったくお心とは正反対の自分の姿には目をつぶる…。それでいて、平気で、恩徳讃を歌っている。まあ、狂ってますね。庄松さんのありのまま記のエピソードを交えて、お話申し上げた。

 その後で、報恩講なのでお斎弁当をいただいた。でも、精進ではなく刺身も入ったかりの豪華版。おいしかったです。どんなご縁の後でも、食欲は別ですね。南無阿弥陀仏

 華光誌編集作業も大詰め

 高山支部法座のあとも、6日が「仏書を読む会」、9日が「聖典講座」で阿弥陀経の最終回、さらに10日がお寺を会所にした「東海支部法座」と法座か続いてる。

 しかし、プログはお休みになっている。

 華光誌の編集作業があったのだ。

 例年のことだが、新年号の発行は通常号の2倍以上の手間がかかる。11月下旬から始めているが、年内発行のために〆切日が厳守であること。華光誌本体に加えて、「年賀交歓」の作製作業があること。さらに、「年間行事表」の作製もあるが、こちらは、華光大会以降に本部と支部の行事のすり合わせが必要になるなど、かなり頑張らないといけない。

 華光誌は校正や編集作業が中心で、作製はRちゃんの仕事になるが、「年賀交歓」と「年間行事表」は、版下作製もぼくの仕事で、古いPCで作業をしなくはならない。年内発行のためのタイムリミットもあるので、かなり効率的に集中して作業する必要がある。申し訳ないが、ブログまでは手が回らず、ちょっと休止状態たった。

 若い時のように徹夜の作業は出来なくなった。夜更かしの作業はしても、完徹はなくなった。多少年齢と共に無理が利かなくなっている。でも、その分、経験で補っている部分もあるようだ。

 おかげて、華光誌は15日中に。年賀交換も16日に、印刷所に渡せるメドがたってきた。だだ「年間行事表」は完成しても、各支部との確認のすり合わせが必要なので、18日の月曜日の午前中まで、待ってもらうことにした。年内発行のタイムリミットになるが、メドは立っている。もう一息である。

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福井での聞法会

 有り難い、不思議なご縁をいただく。

Img_4871 大谷派の福井別院へ。福井のある組(そ)の同朋会の聞法の集いに、講師としてお招きいただいいた。お東のご本山は、昨日まで御正忌報恩講さまであった。この組でも、昨日は本山参詣で、帰宅は夜になったという。
 
 どなたでもということで、法話案内にも掲載させてもらったこともあって、いつものご縁の方もお参りくださるし、また久しぶりの珍しい方もおられた。もちろん、もともとの同朋会のメンバーもおられる。お話を窺うと、熱心な方もあるが、お寺の坊守さんだったり、昔からの強信のおばあちゃんは、頷きながら聴聞されて、「聴聞の要」という演題だったので、参詣しましたと仰られた。

 演題は、「聴聞には要」として。法話を聞くことは、一般の講演を聞いたり、映画を見ることとは違う。感激しかり、感動したりすることが目的でも、何か功利的なこと、ためになる役だだつことを聞くことでもない。しかし、聴聞の要もわからないまま、なんなとく漫然と聞いていることが大半ではないか。何のために、またどこに焦点を当てて聞くのかも分からなくても、説教聴聞は成り立つのである。それでは、ある意味、テレビを見て、リラックスしたり、感動したり、為になる聞き方と差異はない。

 まずひとつめは、人間一般のことではなく、すべて、私(自分)のことを指されていると聞くことが肝要である。しかも、指さすは、真実そののの阿弥陀如来さまである。そのことに反発するのか、納得いかないからといって、反論や否定をしてしまわないで、まずは自分の思いは少し脇に置いておいて、仰せのままを聞かせていただくことが出発点である。

 そして、もうひとつ、ここは今生(世間)の問題ではなく、後生(出世間)の問題を解決するのが,仏法の眼目だということだ。残念ながら、長年、ご聴聞されている方でも、この峻別がつかないことが多い。人のことではなく、自分のこととして聞法するという方のなかでも、なかなか後生の解決に焦点が当たるまでにはたいへんなことだ。決して能力の違いではない。ただ、これまでそのようなお育てを受けてこなかったら、当然、そのような問題意識も起こってはこないだろう。

 今回は、かなり丁寧にそのあたりをお取り次ぎした。また最後の座談会では、お墓や院号、若い世代への仏法相続といった質問が多かったが、それでも丁寧にお答えをさせていただいたつもりだ。どこまで伝わったかは分からないが、まずはその一歩。

 来春にも、もう1度、ご縁をいただいた。

 御世話役のOさんご夫妻、ありがとうございました。

 法座のあと、福井の日赤病気に法友をお見舞いにいく。

 かなりお悪いと聞いていた。ご本人の口から「もう長くはない。年内も危ない」という話もきいたいた。やるべきことはやり尽くされてはいるが、まだまだやらねばならないこともあっただろう。高齢の方ではないだけに、とても無念ではあろう。

 ところが、ベットに寝ながら、六字釋のかなり厚い解説書を読んでおられた。脇にはパソコンが置いてある。最後に自分思いを、残された縁者や子供たち、孫たちに伝えたかったというのだ。そのために、最後の力を振り絞り、全身全霊をかけて、遺書といってもいい、文章を書き終えられたのだそうだ。

 執念である。

 まったく予想外の訪問だったらしく、たいへん喜んでくださって、ほとんどの時間を仏法の思いを語り続けられた。まさに篤い言葉が続いた。お疲れにならないのだろうかと思うほど語り続けられた。

お見舞いにいった僕の方が、元気をもらい励まされていた。

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寺院の報恩講法要

Img_4708 兵庫県宍粟市での報恩講法要。このお寺への出講は連続で10年近くになる。1年1度だけのご縁では、ご教化という意味では、難しいことも多い。それでも何度も足を運ぶうちに、少しずつだが、参詣の皆様に変化が起こっていくように思える。ここは、4座あるうち1座だけお参りするればいいという、暗黙の決まりのようなものがあっImg_4689た。それが、今回、3座、4座と足を運んでくださる方があった。さらには感想を求めると、一人、二人と発言してくださる方が増えてきている。だんだんと自分のところを話してくださるようになっている。

Img_4806 ご法話は、全徳施名のおこころを、「待つ」ということにからめて、遠慮なくお話申し上げた。分かりやすい話かどうかは分からない。しかし、相手に合わせた話題ばかりではなく、こちらが本気になって聞いてもらいたいことをお伝えするほうが、ぼくも乗りやすいし、皆さんも真剣に聞いImg_4846てくださるように思えるようになったのだ。すると、ご満座、ぼくの正面に座った女性は、法話の後半になると胸の前で合掌しながらご聴聞されていた。最後に、感想も有り難かった。

 まず、一人でいい。本気で求める同行を、そしてまたほんとうにご法を喜ぶ同行が生まれることを。ご住職も念願されるようになって、また来年Img_4731_2のご縁も決まった。

 でも、その最初の一人が難しいことも、よくよく分かる。
 ぼくが尊敬する広島のあるご住職が仰ったこImg_4856とがある。

「住職の仕事は、ご門徒さんに真剣にご法をお伝えすることだ。しかも一生涯をかけて、やっと一人の方が仏法を喜んでくれるかどうか。それほどの極難信だ」と。

 ここまでは腹を据えて、ご教化されておられる方とのお出会いを尊く思っている。

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日高支部法座(2)~念仏が染み込む法の家~

 昼座が終わって、冷たい雨の中を月忌参りである。家人は、みな高齢になられたり、病気がちで弱っておられる。しかし、どの家にもお念仏の燈火あることが、肌でわかる。仏壇だけでなく、柱にも壁にも、お念仏が染み込んでいるのだ。そこに入ると、自然とぼくの称名も大きく強くなる。ある方が、なかなか声にでづらいといわれたので、しばらく一緒に称名念仏させていただいたりもした。この地には、お念仏の土徳があるのだ。

 そこから豊岡市内に移ってN子さんお宅へ向かう。これが2度目であるが、今回のメーンは、N子さん念願の家庭法座なのだ。おいしいお膳をみんなで食し、7名での信仰座談会。日高のおばちゃん連中は欠席だ。逆にみんなよく知っている人ばかりなので、雑談や内輪話で終わらないように場面設定してスタートした。おかげていまの味わいや、仏法を伝える姿勢、悩みや問題点をなど、生の声が出てきてよかった。それからはお楽しみの懇親会。こちらもずいぶん盛り上がったいた。ここは女性陣のお宿になるので、男性二人は盛り上がってきたところでタクシーの乗り込んだ。いつもの逆のパターンである。

 翌朝は、N子さんの同僚やご近所さんも交えた法座になると聞いていた。一方的な法話ではなく、子育ての問題点から始めた。どうしたら勉強しない子に勉強させるのかをテーマに、ディスカッション。単なる方法ではなく、それぞれの体験談も交えた話となる。要は、人を説得する時にどのような姿勢や態度で臨むのかを問うものだった。見守るとか、寄り添うという言葉があるけれども、実際となると至難のわざ。しかしそのことでこちらが成長させていだくこともあるのだ。後半は少しご法話に戻した。

 最後に、どうかこの家にも、お念仏を染み込ませてくださいとお願いした。法の座が開かれるところは、お釈迦様のお命が捨てられたところだと聞いてことがある。今回の集いはほんとうに素晴らしかった。ぜひ、これを一時の盛り上がりで終わらせないで、末永くお念仏の座が開かれる場所となってほしい。そうすると遺弟の念力で、この壁にも、柱にも、畳にも、お念仏の声を染み渡るだろう。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏。

 午後からは、美味しい和食のランチをいただき、日高のS家に会場移しての4座の法座へ。今度は、日高のおばちゃんも皆さん集い、壮年や仏青世代の人達と合流の法座となる。これがお互いのいい刺激になった。

 ここでは、「阿弥陀様のご苦労は待つこと」というテーマでご法話。いわば、これが今回の一貫してたテーマでもあった。

 阿弥陀様とは、いつまでも、いつまでも、こんな私を信じて待ちつづけてくださるお方だ。

 2日間、ほんとうにいいご法座でした。

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日高支部法座(1)~頑魯の者~

 週末は日高支部法座だった。

 最近は夫婦でお招きいただくことか多かったが、公演で東北出張中の連れ合いは休み。その代わり、Nさんのお誘いで、京都、愛知、三重など各地から5名の方が参加された。事務のTさんを始め会館からの同乗者もあり、車中からすでに賑やか。

 初日の昼座、夜座、そして2日目の朝座、昼座と4座あった。それぞれ会所(会場)も違えば、参加のメンバーも異なる。法座や座談会の様子もことなったが、それぞれに特色があり、それでいて4座を通した一貫性もあって、(最近の日高支部法座の中でも)かなり活発な法座になった。

 まずは12年前にご往生された谷本瀧雄さんの十三回忌法要をお勤め。法話の大半は故人への思い出である。ぼくがいちばんお世話になったお同行さんのお一人だといっていい。その瀧雄さんという人格を通して聞かせてもらった仏法話である。その後、奥様やお子様だけでなく、全員で故人の思い出を語り合ったが、どの話にも響くものがあって有り難かった。

 瀧雄さんは、カウンセリングを学んだり、子供会のお世話をするだけでなく、悟朗先生からは書道の手ほどきをうけておられた。そこで雅号をいただかれたが、それが「頑魯」(がんろ・源信僧都が自らを「かたくなな愚か者」と名乗られた)というのてある。家族方も認めておられたが、この「かたくなな愚か者」という名前ほど、彼にぴったりのものはない。この性格は、融通の効かない頑固者として厄介でもあった。

 しかし、こんな話も残る。十数年前のことだが、華光から距離を置いておられた現支部長のRさんに、法座の度に断られても、断られても、また断られても、お誘い続けて、同時に毎回、手紙を書き続けておられたそうだ。しかもRさんは、その手紙を開封もせず、まとめて燃やしていたというのである。それでも、とうとう子供会のお世話をくださり、支部法座にも参加されるようになられ、今では華光の中心を担いお世話をくださるようになられた。まさに、頑に信じて、ずっと待ってくださっていた方があったのだ。

 その執念、今度はぜひお子様たちに届いてほしいと願った。子供大会や仏青にも参加くださっていたのだから、宿善のある方たちなのがら、そう願わずにおれなかった。

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華光誌輪読法座「救済の縁・十二光」

  今月の華光誌輪読法座は、誌上法話「正信偈講讃」(5)で、前回までで因位(つまり法蔵菩薩の因)が終わって、「果上の救済(くさい)」の縁・因・果に入る。今月は、まず「救済の縁」でいわゆる「十二光」のところを読み進めた。正信偈では、「無量光」から始まり「超日月光」までの十二光が塵のように無数の迷いの世を照らし、そこに群て生きている一切の迷いの衆生が、このお光を蒙(こうむ)ってお救いお出遇いするのだと述べられる。ただ、正信偈では、十二光を順番に羅列するだけで、そのお光の働きについては詳しくは述べておられない。しかし、親鸞聖人は、『無量寿経』に説かれる十二光を大切にされていて、その一々を詳しく述べておられる。それで、詳しい十二光のお働きや功徳について述べられているので、そこを読ませていただいた。

 ただ信仰座談会としては教義的な文章の時は、関連してお味わいが少なくなって、別の話題になることも多い。しかし、ほんとうは、そんな時こそしっかり読ませていただくことが肝心だ。聞くこともそうだが、読むことによって、刺激を受けてると、自分の思いや感情や考え方(賛同、反発、否定など)が出てくるだろう。しかしそこはひとまず横に置いて、出来る限りそのままいただくことが大切なのである。意味も、その心も理解した上で、いろいろな意見や感情をだせばいいのだ。それに、聞くこととは異なり、読むのはすでに書き手が咀嚼した文章であり、それを繰り返し目を通すことができるというメリットもあるのだが、なかなかそのような法座にならないのは残念ではある。これは参加者の顔ぶりによるところも大きいかも。
 
 来月はこの続きだが、章があらたまって「果上の救済」因・果のところに入る。土曜日となるので、奮ってご参加ください。

 ◎12月16日(土)昼1時30分~4時30分

http://keko-kai.la.coocan.jp/event/2017/detail/12/rindoku2017-12.htm

 輪読が終わった後は、メンバーを変えて『ご本典』の学習会に臨む。こちらはしっかり原文にあたり、学んだいこうという趣旨で立ち上げたものだ。

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