カテゴリー「法座と聞法」の865件の記事

穏やかな修正会

Img_9975  穏やかな元旦。京都は快晴で、温かい。

 修正会。例年より早く支度が出来て、道場で参詣の皆様をお迎えする。

 今年は初参加の方もあった。また、子供連れも3組あって、例年よImg_9973り賑やかだった。また、毎年、この修正会だけお参りくださる方もある。

 例年のように、一同で、「正信念仏偈」をあげ、「現世利益和讃」を頂く。ゆっくりと、大声であげさせてもらう。最後に、「聖人一流章」の拝読。振り向くと参詣者が増えていた。

 ご法話は、父の得意のネタである、人間が、ロバ、イヌ、サルからの寿命をもらって長生きできるようになるが、その分、ロバのように汗水たらしImg_0021て働き、その後、家族という鎖につながれて、番犬をして、財産や家庭を守るのに必死で、最期はサルのように笑いものになって死んでいくというもの。哀れというもなかなか愚かなりである。

 特にそのサルの姿を、「ぼけますから、よろしくお願いします」の映画を通じて、認知症のテストを交えてお伝えした。

 では、サルのあとはどうなるのか? ここで終われば、人生訓である。死んだらそれでおしまいではない。後生に一大事があることを教えて下さのが、仏様のお智慧。

 真実を明らかにする光明の働きを、親鸞様の「真実明」の左訓を頂いて結んだ。

[真というは偽りへつらわぬを真といふ。
実というは必ずもののみ(実)となるをいふなり」もののみ(実)となるをいふなり」

真実とは、本当のことを偽ったり、ごまかしたりせずにはっきりと示してくださるが、同時にそれは冷たいものではなく、迷えるものの実、虚仮のわたしの身となって寄り沿って下さのだと、お味わいさせてもらっている。
 そんな真実で出遇うことがなければ、本当に空しい人生ではないろうか?

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。南無阿弥陀仏

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盛況たった華光誌輪読法座

今年最後の法座は、華光誌輪読法座である。だいたい10名前後、少ない時には、家族3名に後、3~4名という寂しい回もある。

それが20名近い参加者があった。地元の京都だけななく、福井や大阪、名古屋からの参加者も加わる。初めての方もおられて、声を聞かせてもうらことができた。なによりも、娘たち2人も参加したり、10代、20代の若者が4名もあって、久々に盛況であった。

華光誌誌上講話の後半である。正信偈講讃で

如来所以興出世 唯説弥陀本願海 
五濁悪時群生海 応信如来如実言

如来の世に興出したまう所以は、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。
五濁悪時の群生海 まさに如来の如実の言を信ずべし。

の後半である。意訳に続いて、問題点を読んだが、「出世本懐」のところなので、大無量寿経と法華経の真実性の問題に触れている。これが経典の文や、法華経、存覚上人のご文などが引かれてかなり難しかった。皆さんからは、この文に沿っての声はでづらかったが、それでも頑張って最後まで読み通してもらったのはよかった。一人なら、読みかけて、すぐにバスされているようなところだからである。

それでも、最後の「阿弥陀様が真実になるかならないのかは、この私が聞くか聞かないかにかかっていると言い切っていいのだ」という表現には、皆さんいたく感銘されていた。そこまで徹底して聞かせてもらいたいものである。

 

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京都家庭法座

同じく年末恒例のM家家庭法座だ。

12月23日といえば、この30年間、天皇誕生日で祝日だったが、M家の女主人の誕生日でもある。

ただ今年は、1日遅れの24日の振替休日の開催となった、法座が連続したり、東海支部と重なったりもしたが、20名近い参加者があった。大人の法座に滅多に参加されない方も、お誘いを受けて参詣されたりもした。

今年の下半期は、次の和讃を通して頂いき続けた。

如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずしして
回向を首としたまひて
大慈心をば成就せり

また聖典講座で『観経』を学んでいるので、第七華座観での「苦悩を除く法」というみ教えが重なって、お取り次ぎさせてもらっている。

苦悩する生きとし生きるものを見捨てず、その苦を除くために、如来様からのご回向を一番にされて、大慈悲心の塊である南無阿弥陀仏となってくださったのである。そのことを、苦悩を中身を身近な実例や例話を通して具体的に頂き、また回向の姿を同じく具体的に頂いてきた。それを人事ではなく、自分事として聞かせていただくのである。今年の最後ということで、半期の集大成のつもりで話させてもちった。

そして、法座のあと、M家では会食と続くか、そのままM夫妻の生ギターと歌声を、歌声喫茶風が楽しみの企画となっている。特に、Mさんの味のある自作自演の弾き語りが、ますます渋みを増している。懐かしい歌歌を楽しんだあとは、またご示談へと続いてるが、年末というとこで、あっちこっちで酔っぱらいもでてきて、久しぶりに盛り上がった懇親会となった。

京都支部の皆様、この一年もありがとうございました。

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第5回 「念仏と黙想と語らいの集い」

「念仏と黙想と語らいの集い」も、第5回を迎えた。

 昨年も同じ日程で一番参加者が多かった。それで今年も同じ日程にした。が二匹目の泥鰌はおらず、〆切直前になっても、数名だけという状況だった。3連休、翌日には東海や京都支部法座も控えており、昨年とは少し状況が異なった。別に人数の多少は関係ないのだが、数名だったら、みんなで称名を味わうという部分が寂しくなってしまうのだ。しかし〆切後、ボチボチと参加者が集りだして、両日共に16~7名の参加者が揃った。大分や富山からの参加者もあった。個人的には、母と、ぼくと、娘の3代で、お念仏申せたのが尊かったし、十八歳の娘の率直な味わいが感慨深かった(ぼくだけなく、何名かの方から声が上がったが、自分の同年代の頃の聞法を思い出させたようだ)。

 人数は多くないので念仏の響きは凄かった。ぼくもいろいろと称名念仏を味わった。一人で称えているは味わえないダイナミック性がすごい。バラバラで不協和音の声が、どんどんと一つのハーモニーを奏でていくのがすばらしかった。15名なら15名分の声質が違い、称え方違い、スピードが違い、声の大小が違い、髙さが違う。「これは○○さんのお念仏だなー」とわかると、それと対話するようにその声、その早さ、その髙さ、称え方に合せてみたりもした。そのうち、その方とお別れして、次の方に合せていく。そんな称え方もさせてもらった。

 また源信讃にあるように「行・住・座・臥」(歩く、留まる、座る、寝る)を選ばないお念仏ならばと、それも実戦してみた。座る、寝るはともかく、立つ、そして歩くは特に勇気がいった。まるで行道のようになるからだ。しかし一端その枠から離れると、とても自由にお念仏をするけとができた。それ以降、皆さんの中で、寝る奴、唄う奴、立つ奴といろいろな個性が表れ出した。とうとう、浄土宗の僧侶の方が、「三称礼」とか「立位礼拝」の作法での唄うような称名念仏が始まった。後で、「『負けるか』という思いで念仏しました」という声があった。なんとなく浄土宗の行に対する対抗である。ところが、最初は、不協和音であったのに、5分も過ぎると、だんだんと声か揃ってきて、美しいハーモニーを奏でるようになるのだから不思議だった。後から、抵抗なく浄土宗の念仏行についてお話を聞くことができたのも、この集いの意味だったのかもしれない。

 お念仏も、静かな黙想の時間も、そして語り合いの時間も、手頃な人数だったこともあって、どのセッションも充実していた。たくさん称名念仏をしたように思ったが、2日目(丸1日)で、たった62分(8セッションあり、それぞれに5分から10分間のお念仏)1日あたりなら30分の称名念仏だったと告げると、皆さん、一様に驚いておられた。2日間、称名念仏漬けだったように思ったからだ。凡夫の行いはまったくお粗末ということである。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
 

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広島での百ケ日法要~権化の仁~

華光誌発送を挟んで5日連続で法座が続く。年末の慌ただしい時に法座が詰まってしまった。

まずは、広島のM家での百カ日法要を兼ねた法供養法座である。
実は、ほぼ1年前にも百カ日法要を兼ねた法供養法座をもってもらった。そのときは、カウンセリング法座(?)と称して、広くご親戚のみならず、華光の同人の方、カウンセリング関係の方と多くの方が参集されて、一言いただくことから始まった。
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2017/10/post-cadf.html

それから1年。同じように、百カ日法要を兼ねた法供養法座がもたれることになるとは想像すらしていない。喪主からされると、1年前はご主人、今回はご長男、50歳での早すぎるご往生である。

ただ、今回は法座の形式は変わった。前回は、一人でもご縁のある方に参加してもらおうという思いからだったが、今回は、喪主であるお母様に仏法を聞いてもらいたいという、故人の姉妹たちの願いがあった。では、どうすればの逆縁を転じて仏縁となるのか。何度も、法座のもち方を相談した。大人数か、身内だこけがいい。少人数でも、一人だけに焦点が当たりすぎないのにはどうすればいいのか。一歩でもご法に向き合ってもらえるご縁を作ってもらいたい。姉妹の篤い思いは、充分に伝わってきた。

法要の後、法話は、「苦悩を除く法」である。故人が急死されたとき、「うちの阿闍世がなくなった」という連絡をうけた。それだけ、本人はもちろん、身内にも耐えきられないほどの苦悩をもたらした波瀾の人生を歩まれたのである。昨年、特に、深い葛藤のあった父親がとなくなり、その1周忌を済んだ直後に急死されて、生前は並ぶはずのなかった二人の遺影が、仲良く並んでいた。そして、故人が「阿闍世太子」なら、その母上は「韋提希夫人」である。ならば、まさに「苦悩を除く法」=南無阿弥陀仏の回向の教えを説かねばならない。そんな内容の法話をさせてもらった。

会食から、座談の流れがよかった。温かいいい法座になった。一人一人が今の思いを語り、故人や家族の歴史や思い出を語りあった。そこには、仏法が流れている。その3代、4代に渡る法流が、なんとも不思議で有り難かった。ぼくにしても、前日に学び直して、真宗カウンセラーの態度を発揮するいい機会となったのである。人間的な温かさだけではない、仏法の温かさを存分にいただける尊いご縁であった。

まさに、阿闍世太子は、権化の仁であったのだ。

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高山支部報恩講

  12月の高山支部法座は、報恩講である。

 これまでの家庭法座ではなく、公民館が会場である。浄土宗知恩院の御方の「南無阿弥陀仏」である。太い文字で、立ち上がられた阿弥陀仏のお姿である。法話も、和讃の「苦悩の有情」の和讃から、「苦悩を救う法」という題で。まさに立撮即行のお姿であった。

 特に日曜日になると、お参り方が増える。高山支部よりも、旧北陸支部からの参詣者の方が多い。初めての方も含めて、今回は30名以上のお参りがあった。最後には、激しいご示談となる。だか、なかなかもう一歩が出ない。一つ一つの話には頷いておられる。納得もされている。しかし、胸が承知しないのである。その胸には、自分の中で作り上げた美しい信心の姿と、そこに至るための方法か、ちゃっんと準備されている。だから、自分の都合のよいところを聞いて、その想い会わないとこは拒否をする。熱心に話せば話すほど頷き、納得され、涙もされるのだが、翻るということなはない。

 自力が捨てられないからだ。

 ならば、こちかが搦手から関わっていくことした。すると、自分の想いに会わない話は、受け入れられないことがハッキリする。聞法は、そこの自分を聞いていくのだが、今度は、そこを聞かずに、どう受け入れるかに腐心されていこうとされる。何もかも、自分で解決しようとするのだがら、他力のご回向とはいえない。

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華光大会~自由自在な働き~

 華光大会も盛況の内に終わりました。お世話役の皆様、当番の東海支部の皆様、ありがとうございました。

 やっぱり3日間の宿泊法座はいいですね。大会前夜、夕食直前に下痢となりましたが、期間中は、鼻水が酷かった程度で、体調に問題なく、おかげでたっぷりとご法に浸らせてもらえました。(さすがに反省会が終わった後は、疲れましたが、、)

 6座に渡って先生方の熱のこもったご法話を頂き、また座談会での皆さんと接することで、気付かせて頂くことも多かったです。

 なにより法の威力で、何と厚着をしていたのかと、一枚一枚剥がされていきます。飾るんですね。付けてごまかします。それが聞法だと勘違いまでする。でも真実の法の前に立つと、「嘘やろうー」と暴かれていきます。おかげで、より軽く、自由に喜ばせてもらえるようになるから、ほんとうに不思議ですね。

 法の働きこそが、自由自在なんだということを、また教えられました。ありがとうございました。

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大阪支部報恩講~だまされている~

 法話連続4日の第4日目は、華光会館での大阪支部報恩講。

 お正信偈を勤行し、法話2席と、信仰座談会という、普段の支部法座の形式である。

 古い華光誌を読んでいて、何気なく見つけた黒河氏の連載記事、「華光の法座」の一節を取り上げた。35年前の記事である。「草の根運動」という題の一節で、「だまされている」という小見出しの短文を材料にした。

「人はみな、だまたまいと外に向って用心をするが、肝心かなめの自分にだまされている。これほど始末に困るものはない。自分で自分にだまされているのだから、これは気のつく道理がない。虚仮は、真実に出会ってこそ、初めて自分の虚仮不実がわかる。「地獄はない。極楽はウソ」、そして「何か先によいことがある」と、みんな自分にだまされている。」

というように始まる。以下は、要約である。

 では、何にだまされているのか。大会などの座談会でそう感じ、受付で皆さんのお姿をみて、そう感じる。それは「仏法がわからん」と言っていた、かっての自分がそこに座っている。それでも、「いつかは何とかなる。仏法は聞ける」と、自分にだまされて座っているのだ。現実に聞き開けぬまま亡くなった方や諦めた方だっておれらる。「もしも、私も聞けないのではないか」と、そこに心がいけば心中が穏やかではすまないのに、皆さん、静かに穏やかに座っておられる。自分にだまされていることに気付かないと、取り返しがつかない。現に自分の座っている足元から、火の手があがっているのだ。
 
 では、どうして自分にだまされるのだろうか。

「いつも学問や知識、財産や相手などを問題しているからである。仏法の上ても、やれ安心や信心やと、いつもお話や対象物ばかりを「まな板」の上にのせて、それを自分の好きなように料理して、わが身につけることばかりで、ひともつ自分を「まな板」にのせたことがない、その罰である。
 早く法の「まな板」の上に自分がのって、お浄土でもどこでも、阿弥陀仏のお好きなように料理してもらったほうが、賢明である。」

 この頃の華光誌を読んでいると、こんな鋭いお同行がたくさんおられた。法座が引き締まるのである。最近は、華光でも、お慈悲や親の願い聞く、お念仏というお勧めが主流だ。別にそれはそのとおりなのだか、それだけ聞き手も、説き手も、自信がないのだろう。それで早く仕上げてしまいたいのである。
 でも、このような厳しい文章に出会うと、心が踊る。自分を「まな板」をのせて聴聞するのは、別に未信者に向けた文章ではないのだ。
 「お前、有り難い有り難いと言っているが、ウソやろう」と指をさして、ご意見。法悦を仮面を引き裂く文章。

 皆さんは、どう聞かれますか?

 

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日曜(土曜)礼拝~大悲の親様の温かさ~

 法話連続4日の第3日目は、日曜礼拝ならぬ土曜礼拝。ご法話担当者と、若手の先生方の都合で、土曜日になった。

 今回は、いつもと少し様子が違った。ベテラン先生が欠席で、オルガンも連れ合いが担当、法話も、ママ代表で、大学生の女子か助手(アシスタント)についた。内容も、ワークを中心に盛り沢山。子供だけでなく、ママにもアプーロチした内容だった。事前にさまざまな方をお誘いし、また準備をされてたいことが、よく伝ってきた。

う 実にさまざまなものがこめられた法話だった。日礼のご法話は(子供の受容範囲)があるので15~20分となっていたが、1時間近くもあった。歌あり、手遊びあり、二人でのよいところを見つけるワークあり、背後からのハグのワークあり、落ち葉を拾うワークありと、ほんとうに盛り沢山だった。それだけ 法話担当者の篤い思いがこめられいた。同時に、彼女がいま喜んでいるところ、彼女の浄土真宗の信心のお領解が、そのまま現われる内容だった。
 もしも、ハッシュタグをつけるならば、

 #そのままの救い #安心 #温かさを味わう #背後からのハグ #摂取不捨 #大悲の親様

 というあたりか。その中でも、テーマは「大悲の親様の温かさ」になるかな。

 座談会での皆さんの感想も実にさまざまで面白かった。それだけあたり障りのない話ではなかったということだ。その中でも、母の感想は流石にしまっものだった。どんなに有り難いことで安心しても、肝心の自分が抜ければ意味がないのである。
 

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福井同朋会法座~気休めでは済まない~

Img_9013 法座連続4日の第2日目。

 福井東別院での同朋会法座。今年、3回目の出講となる。

 少し早い列車だったので福井の別院までブラブラ歩いた。20分ほどだImg_9014が、福井城跡の県庁の公園に岡倉天眞の像があったり、官庁街を通ったりで、退屈しなかった。福井駅間から官庁街なのに、人通りはほとんどないことにも、ちょっと新鮮だった。

Img_9015 法話は、朝座と昼座の2座、それぞれ前席、後席の2席のご法話となる。そして最後に、1時間弱の座談会を行う。
Img_9031 お参りは多くはなかったが、聞法会の方もあれば、同人の方ある。初めてお会いする人かた、朝座だけの方、昼座から参加の方とさまざまで、法話の焦点は当てづらいかった。講題を「ご本願のおめあて」としていたので、それに沿って、

「如来の作願をたづぬれば
 苦悩の有情をすてずして
 回向を首としてまひて
 大悲心をば成就せり」

Img_9035をご讃題に、(私にとって)不都合でも、(仏様からみれば)真実ある、不都合の真実を聞かせていただく教えていただく。それがご本願のお目当ての機(物柄)ということであると、例話や例えを話をたくさん交えたご法話となった。この秋は、このテーマで、自分自身が深めさせてもらっている。

座談会の最後、高齢の男性が、機の深信(地獄一定の自分)と法のImg_9037深信(往生一定の自分)が頭でしか理解できないと語り、「結局、念仏しかないんですよね」「それしか私にできることはなんのですよね」と、何度もそう尋ねてこられた。

「もしここで『そうです。お念仏しかありませんよ』と言ったら、その言葉を握って、自分の心に言い聞かせ、安心のためにお念仏に励まれるでしょう。でも、自分で決めて信じているのだから、慰みにしかなりません。それでもいいのですか。第一、私は、『念仏しかありません』という類の法話はしませんでしたが」と、お答えした。

Img_9021すると、近くに座っておられた女性が、「ワー」と号泣され、「それではダメです」と仰った。そのとおりだ。いくら自分の心に「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせても、また都合悪いことを考えないようにしたり、楽天的に捉えてみても、またはお慈悲や念仏を握ってみても、都合よく自分で決めたものならば、所詮はその場の気休めに過ぎない。そんな聞法を百座、千座重ねたところで、迷いは迷いのまま。そのままでごまかして喜んでみても、結局は後生の一大事の前には、みんな崩れるのだ。

すると、「私にできることはなんですか」という問いになる。

ああー。せっかく、そこまで出でいるのに、勿体ない。もうそこで、時間オーバー。

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