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4ケ月ぶりの広島法座

    4ケ月ぶりに新幹線に乗った。3月8日の広島支部法座以来。華光会館以外での法座も3月20日の大阪支部法座以来だ。一時は、今年の出張法座は難しいのではなかいと思っていた時期もあっただけに、再開はうれしい。一方でまた感染者数が増加傾向で不安もあるのだか、気持ちとしては前向きである。

 3月は閑散としていた京都駅や新幹線も、少し人出は戻っていた。が、これまでの週末の人出と比べようもない。

 広島では、久しぶりにお会いする人、ZOOMでお会いして身近になった方、さらに、いつもお会いする京都や大阪の同人の方も車で参加されていたりと、さまざま。でも始まれば、すぐにこれまでの法座の雰囲気になるのが不思議。ただマスクと、ソーシャルデスタントで、座談会はちょっと雰囲気は違うのは、慣れていくかしない。。

 巻頭言「心おさなく拙き凡夫へ」を材料に、『仏敵』のお味わいなどをお話した。
 
 コロナ騷動で、自分自身の凡夫の姿がありありと浮かび上がってきた。それは仏法とはかけ離れた情けない姿である。しかし、そこにこそ法蔵菩薩のご苦労があるのだ。決して、聖者になって救われていくのではない。阿弥陀様が阿弥陀様であるには、凡夫は凡夫のまま救いとられるのである。法蔵菩薩様には、精一杯、ご自分の勤めをしていただけばいいのである。

 ところが、どこかで自分に値打ちをつける。ダメな心境をまとな心境に変えようと努力している。少しはましな自分になると自惚れているのである。しかし、残念ながら妄念・妄想しかないのが凡夫なのだ。「妄念はもともと凡夫の地体なり。妄念の他に別の心なきなり」と、源信僧都は仰っている。ならば、私も精一杯、凡夫の生地の目一杯で、格好悪くても、また恥ずかしい姿であっても、そのままで聞いていけばいいのである。立派な有り難い心境も、きれいなお味わいもいらない。こんな凡夫の口からでる、南無阿弥陀仏こそが、泥に汚されることのない蓮の華なのだと。南無阿弥陀仏

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葬儀

 急な葬儀がはいる。だいたい葬儀は急なものだが、事前のご依頼もなく予定外である。一旦はお断りをしたが、いろいろな経緯があったが、奥様やご長男様からの強い願いもあって、引き受けることとなった。引き受けた以上、精一杯勤めさせてもらった。

 長距離で移動も3ケ月ぶりでの府県をまたいだ。宿泊での法縁も3月9日以来。その時と同じ豊岡市の日高での葬儀。同じビジネスホテル、部屋まで同じだった。

 もっとも、昨日今日のおつきあいではない。通夜の席で、参列者を振り返ってご法話を始めたとき、「ああ、ここに立つだけの深いご因縁のある方だったな」と思った。そのことには間違いはなく、お子さまだけでく、ご親戚も、大方がお顔見知りの、それぞれご因縁のあるお方。華光の同人方も、皆さんお参りくださっていた。

 お互いの親世代が華光会館創建前からのつながりがある。今日、華光会での永代経法要や聞法旅行(始まりは御旧跡巡拝)があるのも、すべて責任役員であった故人のお父様の強い提案があったからだ。故人のお兄さんは、華光でもよく知られた強信の方であった。また奥様側もお姉様方も、またよく知られた喜び手である。もっというなら、故人のお兄様、奥様のお姉様には、ぼくがもっともお世話になって育ててもらったお同行様なのた。そして、故人もまた若いときは、華光会館にも下宿され、うち父から仏法だけでなく、「商売」の基礎を教えてもらったというのである。それで常々、「私の基礎は会館で身につけてもらった」と言われていた。そして、仏法よりも、商売の上で成功を納められただ。お子さまともお孫さまとも、子供大会や日曜学校で、子供の時からのつながりがある。

 がしかし残念ながら、故人とお念仏のことで腹を割って語りあったことは一度もなかった。だから、真宗のご安心のお領解で、弥陀の本願一つに焦点が定まっていたかどうかは、分からない。ただ仏法を大切にされたご生涯だったといのは間違いない。地域のお寺(国分寺)を再興にたいへんな力を注がれていた。華光に対しても同じである。そういうお世話をせずにおれない、何かがあったのだろう。その意味で、この方も外護の善知識のお一人である。

 どうか、遺族の皆様へのご法縁が続くことを願っている。

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不思議な形態の法座

 東京支部法座は、土曜日の夜にZoom懇親会、日曜日は朝座・昼座の2座、Zoom支部法座を開催することになった。

 土曜日の懇親会は、野郎飲み会である。年代も40~50代と同世代の方々が中心。東京支部法座自体もこの世代の男性が多いこと、また女性陣の中にはZoomにうまくつながらなかった人もあったと聞いた。明日は、男女ともに参加される。

 日曜日は不思議な形態の法座となった。

 密を避けるために法座を止めてZoom法座としたのに、華光会館でもお相伴にあずかって法話会としたら、朝、昼ともに20名以上(計25名)もお参りあって、プチ密状態。Zoom法座の方は20名だったので京都の方が多かった。車座になる座談会は人数減らすために、2グループで行った。

 つまり、新聞記事と、次号の巻頭言を材料し掘り下げた。聞法もその最初のボタンをかけ違うと、いくら微調整してもダメということ。どこに焦点をあてて聞法するのか。聴聞の要についてである。

 法話は華光会館で聴衆を前に、朝と昼の2席を話す。しかし、その参加者とは座談会をもたずに、PCの画面の人達と分級座談会である。Zoomには、朝座はブラジルから子供たちも参加してくれた。こちらも2グループで分級座談会を行ったり、4~5名のグループで分かち合ったりもした。ブレイクタイムで簡単にグループ分けできるというメリットがあるが、目の前の人達とは関わらず、画面人達と分かち合うという不思議な感じがあった。でも、内容的には充実していたのではないだろうか。また東京支部では、Zoom法座に参加できない支部の皆さんに法話音源をCD化するという丁寧な対応ぶり。

 その後、何名かの皆さんから感想を頂いたが、初めての試みにしてはとてもよかったようだ。南無阿弥陀仏

 

 

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土曜日のzoom座談会

 休業要請中、法座も休んでいたので、その間、Zoomでの信仰座談会を、少人数(6~8名以内)、同じメンバーで、3グループで開いてきた。しかし、5月20日以降は、新しいスタイルだが、華光会館での法座か戻ってきた。以前のように週末の法座が続いている。ただしまだ支部法座はない。今週末も東京支部の予定だった。4月は中止となったが、6月は、土曜日の夜には、Zoom懇親会をおこない、日曜日は朝座・昼座の2座、Zoom支部法座を開催をすることになった。

 ということで、夜には懇親会はあるが、土曜日に法座が入らなかったので、Zoom信仰座談会をもつことにした。最近は、Zoom参加者が増えてきたので、同じ顔ぶれではなく、一度きりの顔ぶれでおこなうことにした。なかなか法座にお参りできない方も参加される。初参加の妊婦の方やアメリカ同行の方とご法縁を結べるのも、Zoom法座ならでは利点である。Zoom信仰座談会は初めてという方もあったが、これまでのメンバーが中心になった。Zoom法話会と違って、初めての方には少人数の座談会は敷居が高いのかもしれない。

 今回は、チェックインのあと、次号の華光誌の巻頭言を輪読した。サラッとひとりで読んでいては味わえないこと、読み間違いなどに気づけて、なかなかよかったのではないか。フリートークの良さもあるし、何かテーマをもつのもいいが、短い文章を読み味わう輪読のスタイルはZoom法座のスタイルとしてあっていると思えた。

 結局、みんな助かること、有り難いことを聞いているが、誰も落ちていく姿、落ち機を聞く人はない。そこでしか安心はなんだけどね。

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真カ研6月の月例会

 先月に引き続いて、ZOOMと、リアルの両方で。前回のことを聞いて、初見学者が3名もあって賑やか。ただ、人数もZOOMが多いこともあって、内容もそらちに押されて、会場の皆さんが聞き役に廻ってしまう。今の設備だけでは無理なので、なんとかいい方法があればと考慮中。

 さて、「真宗カウンセリングの人間観」の章にはいって、「親鸞とロジャーズの共通点」の節。先月に続いて発表者は、前回の指摘を受けて、しっかりとした発表をしてくださった。

 東洋と西洋、宗教(仏教)と心理療法、鎌倉時代の日本と現代のアメリカ。本来なら絶対出会うことはない。第一、浄土真宗は浄土真宗なのであり、カウンセリングはカウンセリングであって、まったく別物であるこきを押さえた上でなお、両者が出会い、交流し、統合しようという試みだ。それは、現代において「真宗とカウンセリング」が実践的役割を果たす上で出会ったことに機縁する。もっというならば、現代に生きるひとりの真宗念仏者が、まず真宗念仏に出会い、喜び、伝えていた過程において、ロジャーズの来談者中心カウンセリングに出会ったが゛単なる個人内部での出来事に留まらず、真宗が真宗の本来性を取り戻す機縁となるものである。

 その意味では、ただ両者の違いは当然でありそれをあげ諂っても意味なく、また木に竹を接ぐような安易な一致も浅薄で深まりは生れない。両者、特に親鸞さんとロジャーズさんの底に流れる共通的な人間に対する態度や、その人間観を明かにしようとする段であった。

 結局、両者の間には、「人間が真に人間らしく生きていく道」を探求しつづけられたという点において、また共に偉大なる精神的革命をなし遂げたという点においても、共通点があるということを、詳しく見ていった。月例会で久しぶりに刺激をもらって面白い集いとなった。

 

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6月の華光誌輪読法座

 平日の午後にも関わらず、お参りが多くて密を避けるために、3階から道場に会場変更とする。

 誌上法話の続き。一念の覚・不覚の問題。先生なりに、如来様の立場、教団として立場、そして体験として立場を三段階で。さらに、三業惑乱に触れて、かなり厄介なところである。さらにもう一つ「不断煩悩得涅槃の味わい」。こちらも、横超断四流のご文を交えてといて、皆さんにはかなり難しかったかのでなはいか。

 でもこのところは、心をくだいてお聞きしたいところだ。分かった、ハッキリしたといっても、ハッキリするというは、何がハッキリしたのかの? また、「ハッキリした」と断言できれば、それでほんとうにいいのか。本文にないが、ほんとうはこの点を詰めてあきらかにする必要があると思ったのだ。

「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり」(御一代記聞書213条)

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リアル・Zoom併用の支部長研修会

 いつもは1泊2日間で開かれる支部長研修会。各支部長、役員が一同に会して、支部の実情、法座活動や問題点。よりよき聞法の場を創っていくにはどうすればいいのかを、心を開いて語り合う場である。加えて、法話や講話を行って、法座活動や伝道上の問題点などの研修もおこなっていく。

始まった当初は、役員や支部長の信心を問う、張りつめた空気のある厳しい法座であったが、そんなことは遠い過去の話。未信の方が自己の信を問うという場というより、支部の問題や事務的話題も多い。それはそれで大切な問題だが、やはりひとりひとりの信を問うてこそ、法座活動の活性化かおこるのだ。

 ただ今年はコロナの影響で1日だけに短縮。しかも、半数の12名がZOOM、半数の14名が華光会館に集うという、進行が難しい集いとなった。ZOOMならZOOMだけの方が、ずーっとやりやすい。会館に集う人が、スクリーンを見上げて話しかける(そんなことをしても何の意味もなく、カメラを観ないといけないが)場面が多く、道場に集う人々に語りかけるという雰囲気はならない。ZOOM側からの報告や意見を一方的に聞くだけなら、スクリーンに大写しとなり、スピーカーで音量も大きく、わかりやすい。しかし、問題は画面と会館の方が自由に触れ合うことができないところにある。どちらかというと、リアルの人達が置いて行かれる感じがするのだ。これは今後の課題だろう。ぼくも、マイクをミュートにしたり、ハウリングを抑えるためにスピーカーの音量のオンオフを繰り返す操作をなどで集中して話が聞けずに、ずいぶん煩わしかった。これもまた今後の課題。

 さて支部報告の内容は、今年は各支部に新しいの動きが起こり、新人が入って活性化したところがある一方、停滞したままの支部もあったりと、各支部の動きに濃淡があるように思えた。たった一人の力でもずいぶん変わる。一方で、「喜んだ」というところに胡座をかいてる人が多い支部は停滞していく。そんな違いがマザマザと現われてきた。その意味ではいい研修会になったのではないか?

 

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『仏敵』第8章

「仏書に親しむ会」、『仏敵』第8章を読んだ。

 自粛解除後、5月後半から6月にかけて、法座参加者が多い。この仏書も、『仏敵』が終盤に入ってきてこともあって、これまでの倍(もともとが少ないが)の人出。3階研修場では車座になると一人一人の間隔が密になるので、道場での開催する必要があるようだ。

 『仏敵』もいよいよ佳境である。光明の世界が真実信の天地だと有頂天であった伊藤先生の縁他力の喜びが、野口道場の念仏者によって徐々に剥がされていくところである。それしても、自力の執心は根強い。ウソの皮が剥がれて、握ったものを諦めるまでには、ずいぶんの葛藤がある。大方は、この壁を破れぬまま、有り難いところ、尊いところで留まるのだろう。その方が楽だ。第一、これ以上深く考えず、目を逸らしていくことも、けっこう我々はきるようだ。まあ、この先を破っていくのかどうかも、深いご因縁である。それには、善き知識、同行との出会いがあるのか、ないのかである。チクチク言われたり、居心地が悪いところから、理由をあれこれつけて、人は逃げて、近づかなくなる。この40年間、そんなケースをイヤというほど見てきたのである。南無阿弥陀仏

 まあそれはともかく、ここでの伊藤先生も同じで、

「おれはよく小さなことで気に病む性だがら、今晩のことも案外くだらぬことが原因で疑惑が大きくなったのかもしれぬ。現におれの腹底には、このとおり清浄光明が輝いているのが感ぜられるではないか。これは本物だ。…」

 そして、胸の黒雲を一時感情に過ぎないと否定していくのである。

ほんとうに仏敵の恐ろしさである。

 法座では、ここは名所ぞろいなので、いろいろりろ尋ねた。
 生死の苦海に流れる流木をつかむのかどうか、お念仏を喜んでいて、臨終最後に「しまった!」と叫んだお坊さんのことなどをどう味わうかを皆さんに問うた。いやはや、皆さん、ちょっと心もとない。これでは「国に一人、郡に一人」なちぬ、「華光に一人、支部に一人」だなーと、ちょっとチクリ。ここは誤魔化せずに聞き抜いていただきたいところ。

 次回は、7月1日(水)夜18時50分~21時

 第九章 深信の徹底

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京都支部法座+zoom配信

 東海支部の翌日は、京都支部法座。今度は逆に、華光会館に人が集うのをメーンに、Zoom配信はおまけだ。
 
 緊急事態解除後、法座の人数は20名以内の集いだったが、久しぶりの支部法座に参詣者は27名と多かった。一方で、Zoomの方も、アメリカ同人も含めて11名と、こちらもいろいなご縁の方があった。ただ人数が増えると、道場でも法話を聞くだけなら散らばれって30名くらいはOKだが、車座になった時に1mの間隔をとるのが難しくなった。人数が多いときは、分級座談会で対応したらいいのだろう。今回は、道場と、Zoom組は別に司会者を設けて教室で対応してもらった。

 法話は、新型コロナの自粛中に考えたことである。この危機的状況に真宗念仏者として、どう振舞えばいいのか。何か気の利いた言葉いのかと考えたが、どんなに力んでみても、明確になるのは、虚仮不実の世間に生きる凡夫のわが身ばかりだった。「凡夫とは、愛妻愛子これを凡と言い、惜身惜命これを夫という」。真面目くさって、自分こそ正しいと思って生きていても、所詮、逆立ちしているのが凡夫だと、伊藤康善先生は仰った。結局、真宗念仏者を自称する者も、哀れで、こころ幼く、拙い凡夫なのだということだけが、痛いほど明確になった。

 要は、死にたくない。痛いのもいや。厄介も勘弁願いたい。内外からの批判を畏れて右にならえで自粛し、そこからはみ出したものに白い目を向けていく。しかも、もらえる金はもらいたい。まずは命と、健康、そして評判に、お金が大事という、情けない凡夫丸出しの自性であることが、仏智によって明かになるばかりであった。

 しかしそこがまた有り難いではないか。そんな惨めな凡夫こそが、念仏一つで凡夫のまま救われていく道があるのだ。ならば、私は、この凡夫は凡夫の生地のまま聴聞し続けるしかない。ビビながらであろうが、強がってみせようが、または他者に批判的を心をおころうが、そんなことはまったく関係ない。ただ一つ、「だれの人も、はやく後生の一大事に心にかけて」阿弥陀仏を深くたのめ! この一点。、この私が、たのむ一念の身にならせていただくことを外しては、どんなきれいな言葉も、かっこいい生き方も、何の意味もないのである。

  アフターコロナの社会は、劇的に価値観が変化するといわれている。しかしどんな社会になっても、相変わらず「世間虚仮・唯仏是真」の真理だけは輝きを増し続けるのである。南無阿弥陀仏

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東海支部zoom分級座談会と懇親会

 法話のあとは、会館組は3階の研修場で、東海zoom組は、全体会のあとで分級座談会をもった。何グループでも簡単に分級座談に分けられるのがZoomの特色だ。アットランダムにグループ分けもできるが、今日は希望にそって手動で2グループに。始めてお会いする方が2名おられ、1名は大派の僧侶、もう1名はある会て長年聞いておられた方だった。

 慣れてきたとはいえ、やはり膝詰めでの座談会とは勝手は違う。初リモートの方や操作に戸惑う方もあったが、初の座談会としてはうまくいったのはないか。

 東海支部は飲兵衛が多いので、一旦休憩して、zoom懇親会も開催。リモートでも、勤行・法話、分級座談、そして懇親会と、いつも法座と同じ流れで進行できるのが、ちょっと面白い。2度目の懇親会だが、今回は気心がしれている仲間ということもあって、それなりに面白かった。でも、やはり懇親会だけは同じ場所で、ワイワイとやりながら、気になる人にチョコチョコと話しかけていくのがやっぱりいい。時間を少しオーバーして終了。何でも二次会もあって、そちらはskypeで盛り上がったそうだ。

 初の試みのわりにうまくは行ったと思うが、次回は、ぜひリアルな東海支部法座を行いたいですね。

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