カテゴリー「法座と聞法」の841件の記事

聖典講座スクリーング法座

  根っからの貧乏症である。聞法旅行が延期となった影響で、「壮年の集い」を中止した。すると土曜日が空いてくる。翌日に聖典講座を控えていて準備もある。無理にウメる必要がないのに、ついつい勿体ないと思ってしまう。

 早くからの申込者が数名あったのも一因だ。しかし日曜日の午後からは聖典講座は外せない。ならばそれに関連した聖典講座のスクリーングとどうか? 「浄土三部経」の聖典講座がすべて終わったまとめで、何かやりたいと考えていたのだ。少し前倒しだが、提案すると「いいですね」という声が届いてきた。でも、2週続けての宿泊法座、しかも予定外の法座となって、実際は参加者は少なかった。それでも2週続けて参加される方が半数。広島などの遠方からの参加者もあった。ハッキリしたことは、2週続いても参加する人はする。チャンスがあっても参加しない人はしない。当たり前のことだ。

 2日目の昼座は通常の聖典講座なので、1日目の昼座、夜座、そして2日目の朝座の3回で、浄土三部経を概観を頂かねばならない。かなり飛ばした。ただ講義だけでなはい、通信講座の方に浄土三部経のDVD(『観経』はスライド(幻燈)が面白い)を見てもらうのだ。これを楽しみにしてくださる方もある。おかげで、2日間、かなり濃厚な集いになったのではないだろうか。

 ぼく自身も、あらためて三部経を短時間に頂くことで、一致して真実を示される部分と、さらにそれぞれの役割とがクッキリと浮かび上がってきた。詳しくは、次号の華光誌の巻頭言で触れている。要は、ただ法の真実の『大経』だけではダメで、そこに機の真実、つまり法(南無阿弥陀仏)のお目当ては誰なのかが示される『観経』があり、さらに機と法を合説して、諸仏方が証誠される『小経』があって、南無阿弥陀仏のお目当ては、五濁悪世に沈むこの泥凡夫であり、そしてその真実が私にまで届けられるのである。南無阿弥陀仏

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『仏敵』の旅(6)了妙尼公開基の金台寺

Img_8003_2 初日で『仏敵』関係の旅を終えて、吉野川上村の温泉の宿に入る。恒例の宴会ではさまざまな隠し芸が披露され、二次会の懇親Img_8023会も深夜まで盛り上がった。

 2日目午前中は、宿でのご法座。5グループでの分級座談会の後、まとめの法話をする。改めて『仏敵』のポイントにImg_8025触れた。もともとは、存覚上人ゆかりの願行Img_8040寺、歎異抄の唯円房の墓所がある立興寺、そして八木の金台寺の3ケ所を巡る予定で、法座はなImg_8027かった。今回、午前は、ゆっくり宿で過ごせたのは、なかなか好評だったと思う。

 Img_8065帰路は、橿原市八木の金台寺に参拝。予定の3ケ寺の中から、旅行社もぼくも一致してここを選んだ。

 橿原市には、今井町という浄土真宗の称念寺を中心とした寺内町が歴史的景観としても有名だが、この八木町も、古から交通の要所として栄え、今も古い町家が残っている。日本遺産にも指定されている歴史的な地区の一角に、金台寺はひっそりと佇んでいた。細い路地の中に、大和国分寺などの3ケ寺の一つで、こじんまりとした境内は了妙尼公の庵を彷彿とさせる。
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↑実は、今の坊守様は、若い頃に祖母様のご縁で華光の集りにもお参りくださっていた。その頃を知る皆さんとも懐かしく再会を喜びあった。残念ながら、多忙なご住職は不在だったが、丁寧にご説明くださった。このお寺は、先代の時から数回お参りさせてもらっている。昔からの法義所で、今回、分けていただいた書籍には、先々代からの法縁であることを窺った。特に香樹院徳龍師を仰いでおられるようだ。Img_8044
 蓮如上人ゆかりの地であるが、『御一代記聞書』の七二通に

「蓮如上人仰せられ候ふ。堺の日向屋は三拾万貫を持ちたれども、死にたるが仏には成り候ふまじ。
大和の了妙は帷(かたびら)一つをも着かね候へども、このたび仏になるべきよと、仰せられ候ふよしに候ふ。」

とある了妙尼公が開基である。
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(南渓和上の讃と糸車の了妙尼)

 ある夏の暑い日、旅の蓮如上人が、あばら家の老婆に一碗の井戸水を所望されたことが、その出会いで、ご教化を受けられるきっかけとなる。もとは裕福な造り酒屋の内儀であったが、夫を始め、息子や嫁を次々と失って、家が没落して、糸を紡ぎながらなんとか生計を立てていたという。蓮如様との出会いは、七十歳頃だというから、当時はかなりの老齢の方だったろう。

 その後、この地を通られる度に、上人は足を運ばれる。その中で、有名な糸車のエピーソドが残されていく。

 ある時、ふと庵に立ち寄られた蓮如さまは、「了妙よ、何をしておるのか」とお尋ねされた。
 
 「糸車をくりながら、お念仏申させてもらっております」と、了妙さんがお答えになると、

 蓮如さまは、「それは心得違いぞ。糸をくりながら念仏を申すのではない。念仏を申しながら、そのついでに糸をくるのだ」、と諭されたいうのである。

 生活の中に念仏かあるのか、念仏の中に生活があるのか。一見、同じように思うが、生活が主人ではなく、念仏が主人であるというご教示は尊い。
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 悟朗先生から何度も聞かされたご法話だが、あらためて現地でお聴きすると感銘(しかも山本仏骨先生の法話の一節をご披露くださった)深かった。
 直接的に、伊藤先生との関連はなかったが、日頃お聞かせに預かっているエピソードでこの旅を締めくくられた。坊守様もありがとうございました。南無阿弥陀仏
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Img_8060_2真ん中は、毎年お世話になっている添乗のNさんと、
いつもはベテランのガイドさんが多い中で、珍しく若いガイドさんで、新鮮でした。
右手は、運転手さん?(嘘です)

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『仏敵』の旅(5)伊藤康善師墓所

 當専寺では、ジュースや「當専寺」ネーム入りボールペン、興正寺の一筆箋をいただくなど歓待を受けた。伊藤先生のお墓にもお参りしたので、ここも慌ただしく出ることになった。クネクネと回りながら田舎の路地を進んで、村の共同墓地だろうか。Img_7920
↑やはり二上山を遥かに望む地である。
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↑伊藤康善先生は昭和44年1月9日に、72歳でご往生された。今年が五十回忌である。一同で静かに手を合わせ、「恩徳讃」を唱和する。

 ここでもショックなことがあった。これまで父から先生の法名を「瑞光院釈康善法師」と聞いていた。それで、先生の古い華光誌の随想を「瑞光抄」として出したこともある。ところが、墓標は「瑞香院釈康善法師」とあるのだ!(下段左側)

 光ではなく香だったのか。光と香で、音は「こう」で同じ。仏具なら、光は燭台、香は香爐で、やはり三具足で一体のものだなーとも考えた。でも、ぼくの中では、「瑞光院」である。

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『仏敵』の旅(4)當専寺

  「野口道場」から伊藤先生のご自坊の「當専寺」までは、二里(約8キロ)の道だと、『仏敵Img_7909』にはある。昔、野口道場は野口村だったが、今は大和高田市に、當専寺は新庄町だったが、今は葛城市になっている。バスだImg_7896と大回りせねばならないので、かなり距離を感じた。この道を、伊藤青年は、求道の悩みを抱えながら往復しているのである。二上山(にじょうさん)の山並みが見えている。『仏敵』でも、その風景がこのように描写される。

 「もう夕暮れである。二上山脚に落ちていく春の太陽は真紅に燃えて、鎮守の森の木陰にうずくまってものを考えている私の姿を、悩ましげに照らのであった。」

 距離はあっても、バスでは短時間で當専寺に付いた。広い場所にバスが止まって、細い曲がりくねった路地を歩く。ご住職が先導くださる。伊藤先生のご子息は方は寺継承されるでに、奥さま(愛子さん)のご親戚が入寺されお護りくださっているのだ。
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↑真宗興正派の末寺で、小さな山門の脇には「一養山 當専寺」の碑文が立つ。Img_7894_2
↑平成の大修復がなされていた。野口道場と同じく平成12年とは、奇遇である。
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↑今回一番のショックは、父が揮毫した「華光道場」の扁額と左右の波の絵がなくなっていたのだ。それを察して、住職からもご説明。修復に際して、直接、土壁に書かれていた書や絵は取り外せず、いまのこの絵の下になっているという。しかし直接的に上書ではなく、(つまり消さないで)それを覆うものを挟んでから、その上に書かれている。つまり、今でもこの下に書と絵は残っているとうのである。「華光道場」が無くなったいきさつのは、象徴的でいろいろと感じさせれた。
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↑これから修復されるという。以前は内陣の上もこんな感じだった。Img_7903
↑観音菩薩像。浄土真宗に転派の以前の名残りで、長谷寺と観音さまと同じ木材だと言い伝えられるそうだ。
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↑當専寺の第十七世の住職である伊藤先生の七条袈裟の写真。会館にも同じ時に撮られた写真がある。當専寺の親鸞聖人七百回忌法要の時だろう。Img_7881
↑伊藤先生が晩年に建立された梵鐘。華光誌に「梵鐘のひびき」として連載され、倶会一処の梵鐘発願の思いが語られている。華光同人やアメリカ同人も喜捨されている。この「実は…」の裏話を父から聞いてるが、今は止めておこう。Img_7884

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『仏敵』の旅(3)野口道場

Img_7875  この旅のメーン、大和高田市にある「野口道場」へ。大型バスが入らない。世話役の経営される工場(紡績関係)に駐車し、細い路地を歩く。すっかり街中になっているが、往時を偲ばせる細い路地Img_7876は健在だ。途中、野口公民館の前に、「南無阿弥陀仏」の碑と阿弥陀堂の小さな祠がある。これは『仏敵』には登場しない。ただ、紡績工場の5時知らせるサイレンという記述がある。このあたりは靴下の町である。もしかすると今の工場かもしれない。
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 ↑民家の中に野口道場が見えてきた。概観は普通の家と変わらない。門をくぐる。『仏敵』では、「土塀続きのみそぼらしい門」となっているところだ。
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 ↑小さな前庭に「釈尼妙芳」と刻まれたおよし同行の墓が出迎え。案外新しく、昭和46年に建立。

 そして、たくさんの尼講の皆さんもお待ちくださっていた。彼女たちはいまも変わらず毎月18日が、尼講の集りがあるという。尼講の皆さんの話では、その日は、およしさんとの関連があるのでのはといっておられたが、そのあたりは不明だという。残ながらお墓と建物以外、教えは何も残ってはいない。
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↑滞在50分間ほどの予定だったが、往復の行程があって実質30分ほどしかない。すぐに勤行を始める。皆さん勤行に力が入る。娑婆では、華光のルーツはここなのだ。狭い道場は、40名の同人で一杯になる。隣の間には、尼講の皆さんが座って一緒にお勤めされた。その後で、法話の代わりに、『仏敵』の一節をいつくか読ませてもらった。

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↑最初、伊藤青年が尋ねた野口道場は、屋根にペンゾン草が生え、破れ果てた道場は化け物屋敷だと描写されている。
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↑ところがきれいになっていて驚いた。ペンペン草は生えていなかったが、20年前は薄暗い道場に、やたらと立派な仏壇が金色に輝いていた。実は、今回、耐震性の問題もあって、役割を終えてもうなくなるのではと心配していた。ところが、瓦も新しく、道場もきれいになっている。平成18年(12年前)12月に「平成大修復」を終えたというのだ。
 皆さんでお護りくださっているのはうれしかった。中には、想像よりもきれいで、ちょっとイメージが異なったという人もあった。
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 「泥まみれの縁側の板」もきれいに磨かれている。右手あたりに井戸があったか?↑

  大正7年頃、伊藤先生が仏教大学(現龍大学)の2回生の春休みの出来事だから、20~21歳の時である。いまから100年前の出来事だ。『仏敵』では、まだ電燈工事か進捗せずに、薄暗い本堂にはランプが灯り、暖は火鉢とある。いまはエアコンも設置。
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↑伊藤青年が『観経』定善(第八観・像観)のごとく、「水流・光明」されたお仏壇。いつ訪れてもきれいにお荘厳されている。
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↑伊藤青年が休んだり、ご示談の場となって別室は、物置部屋。
 みんながうれいしそうに眺めるのを、地元の人々は不思議そうに見ていた。当時は、ここからも外に出入りできたことになる。
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↑奥の柱は年季を感じさせる。

 短い時間で怒涛のように立ち去るのは、こころ残りもあったが、感無量で、当専寺へ。
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『仏敵』の旅(2)番外編~智積院

「『仏敵』や伊藤先生と、智積院はどんな関係があるのですか」
複数の方から尋ねられる。
残念ながら関係はない。40年前、『仏敵』の聞法旅行(2泊3日)では、第1章にある将軍塚や黒谷の金戒光明寺にも行った。伊藤青年は、将軍塚から円山公園、知恩院と東山界隈を抜けて、岡崎公園から黒谷へと歩いて向かれた。しかし、今回は黒谷まで足を延ばせない。7月の時は、興正寺でお話を窺って、昼食で智積院会館に入る計画。それが、興正寺が自然災害でダメになった。
 本願寺の日暮門もこのありさま。↓
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 それで、昼食の時間まで智積院を拝観することにした。唯一の関連は、東山界隈のお寺ということだけ。↓Img_7827
 ここは3年前の京都の親鸞聖人ご旧跡巡拝でも、ここで昼食を食べて自由に境内を散策したが、今回は有料拝観をすることにしたのだ。↓
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 インバウンドで海外からの観光客で混雑する京都だか、ここは街中にありながら、閑散として靜寂が広がる。そう、ぼくたち団体客がいなければ、靜寂そのものだったのだが、ちょっと賑やかにしてしまったかも、、。↓
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 国宝の長谷川等伯一派の見事な襖絵も鑑賞でます。写真のものは模写。色鮮やかだけども、この後、本物を観るとそのすごさが一目瞭然。↓
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 金堂では雛僧たちが研修中。真言宗系ですが、声明は浄土にも通じている。とにかく荘厳。↓
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 秋の紅葉も見事だったけれど、小雨に濡れた苔や緑も風情があった。↓
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-d238.html
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 華光の聞法旅行で、純然たる観光地に行くのは珍しいが、京都の同人も含めて、ほぼ皆さん初訪問。隠れた名所にご満足の様子。
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『仏敵』の旅(1)龍谷大学大宮学舍

  『仏敵』を巡る聞法旅行。7月の予定が、西日本豪雨で延期になった。今回も雨は気になるが、旅行には影響はない。が、早朝、欠席の電話。北陸地方の大雨で、列車が不通になったのだ。新潟の参加者は前日入りだったが、福井の方は残念なことになった。

 前回より参加者は増えた。京都駅に集合し龍谷大学大宮学舍へ。5分で到着。伊藤先生と言えば興正寺本山からスタート予定だったが、大阪北部地震と豪雨の影響で内部拝観がなくなり、龍谷大学からスタート。
 『仏敵』の中で龍谷大学の回想シーンは、伊藤青年が「善き知識」を求めるための大切な機縁となっている。第4章である。
  
 龍谷大学は、今から380年前、1639(寛永16)年に、西本願寺に誕生した「学寮」が、その前身である。世界でも有数の、日本でいちばん古い大学だと自称している。(それを言うなら、東寺にある種智院大学はもっとすごい)。その後の法論や混乱で、学寮は破却されて新たに「学林」となり、明治期に入って、 1876(明治9)年に、「大教校」となっていく。今日の大学という意味では、このあたりからであろう。そして、明治12年に、現在の本館や南黌・北黌などが完成している。なお、伊藤先生が在学中は、仏教大学と称していた。いまの仏教大学とは無関係。

 土曜日で講堂の内部拝観(写真はあります)はできず、外からの見学。ぼくが説明役たったので、母校の歴史を改めて調べ直した。ちょうど数日前る京都新聞に、建築物としての本講の記事が詳細にでていたので、皆さんに配布。
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 本館(講堂)は石造りの西洋建築にみえるが、実は木造建築。高い伝統技術を持った本願寺に関わる大工が、西洋の技法を取り入れたもので、木に石を貼った「木骨石貼り」構造という珍しい技法。重厚なたたずまいが人気で、最近の映画のロケ地として多数、登場している。
 ここからは、3日前に撮った内部の写真↓Img_7784

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↑本館より北黌(教室)を眺める
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↑南北黌(教室棟)は、「仏敵」当時は寄宿舎。ぼくが在学中に修復され重要文化財に指定

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↑旧守衛所と正門も、初期西洋建築の貴重な建築物で、国の重要文化財。ただし正門はレブリカで、本物は東黌に展示中。

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恒例のお盆法座

午前中、お盆参りをすませて、京都支部法座を兼ねたM家の盆参。

勤行はどこの家とも同じだが、後は、いつもの支部法座と同じ。1時間ほどの法話のあと、信仰座談会をする。

 法話は「仏さま」をテーマにするが、今日は、仏の四無量心(慈、悲、喜、捨)について、特に「捨」のところを膨らませて、如来の大慈悲心の現れについて頂いた。

 お盆の日曜日ということで、お参りは少なかった。それでも、会館での前回の京都支部の法座にお参りされた、オーストラリア在住の女性が、京都の大学に短期留学されている娘さんとご一緒にお参りされた。娘さんは、かなり緊張気味で座っておられた。欧米人の顔だちなが、とてもきれいな日本語を話されているのが印象的。お母さんの体験されたお話が象徴的でよかった。頭で造ったものではなく、身で聞いておられる。人事ではなく、自分の問題になっている。そしてトンネルを抜けるというところも、何かを暗示した象徴的な体験で、心に響いた。ぜひ、これからも大切ところに焦点を絞って、聞法していただきたい。

 法座が終わり、居残った皆さんと会食。ここでは、歌声喫茶ならぬ歌声法座になるのが恒例。最近は、Mさん(ご主人)の自作曲の弾き語りも入る。すでに47(惜しい!)もの自作曲があるという。今日も自策自励ならぬ、自作自演をしてくださる。中でも、奥さん作詞、ご主人作曲の歌を弾き語りで唄ってくださったが、しみじみとした哀調のある語り口だ。日頃は、強烈なつっこみ夫婦漫才を披露されるが、旦那さんの唄に奥さんもからだを揺すってノッておられる。ぜひ皆さんも、聞きにきてください。ただひとつだけ注意点。こんな時に、夫婦で競演に思わず仲がいいじゃないですか」と、見たまんま言ってはいけない。すぐに奥さまから強烈な否定とツッコミが入ります。黙って微笑んでおきましょうね。なかなか雰囲気あります。

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2泊3日に短縮

  3年連続で、華光会館での、2泊3日間の仏の子供大会になった。
 日程を1週間ずらしたり、早めたりしているが効果がない。ただお盆をすぎると、会館の事務所の体制が整わない。海の日の日程では、学生の先生方が試験の真っ最中だ。

 最初は4泊5日の日程が組まれ、ぼくが参加し出した昭和42年ころから3泊4日となり、昭和50年には今の形式が定着した。そのためにスタッフが合宿までしてKJ法によるブレーンストーミンク(肯定的、友好的な議論)を重ねて、よりよき大会を目指してきたものだ。

 完成度が高い分、2泊3日ですべてをこなすことは無理がある。3つある野外活動のひとつ、追跡ハイキングはこの日程ではできない。第一、3班以上はないと競い合いにならない。いまは、2日目に、水泳の後、夕方にスランド(地獄ほか)、そして夜にはスタンツを含む室内ファイヤーと続くので、かなりハードである。
 そしてなにより分級座談会に影響する。数ある寺院のサマースクールには、この分級座談会がない。時間配分も、前半は短く、3日目以降は長く、後半ほど内容も濃くなるように工夫され、法話~おつとの作法~そして分級が午前中になるようになっている。心の勉強は午前中、午後は、野外活動を中心に、夜は班活動、班対抗がメーンになくようにブログラミングされているのだ。

 実は、他にも華光の行事も年々短くなっている。仏青大会も、10月の東京支部大会も、最初は2泊3日だったが、1泊2日になって久しい。3日間あったことを知る人も少数だろう。そして、聞法旅行も2泊3日間から1泊2日に短縮された。ただ聞法旅行の場合は、前々回からのことで、昨年の北海道旅行は3泊4日、今年は1泊2日の日程の2回目。ひとりでも多く参加してもらいたいのだが、おかげで定員オーバーし、急遽、宿舎の部屋を増えしてもらった。隔年でもいいので、2泊3日間のご旧跡巡拝を復活させたい。

 もちろん3日間が2日間に短縮されるのは、全日参加が難しくなって来ているからだ。その分、新しい宿泊法座は祖を増加している。仏青も、2度の宿泊研修会があり、子供大会も春の大会が増えた。「真宗法座の集い」や「念仏と黙想の集い」などの新しい法座は堅調に動いている。また各地の支部法座も過密なほどあって、なかなか3日間の参加は難しくなっているのかもしれない。

 ただ、仏の子供大会は、ぜひ3泊4日間バージョンを復活させたい。それには、いまの先生方では対応が難しいかもしれない。一端、楽な道を進むと、なかなかハードな道は戻りづらい。でも、今回は、方法、会場、日程といろいろと意見を聞けた。柔軟に対応すれば、まだ工夫の余地はありそうだ。それだけの価値ある活動をしているのだか、なんとかこの伝統を伝えていきたい。

それにしても、今年の仏の子供大会はほんとうに暑かった。初日が39度、2日目は38度、最終日は39,5度。それでも無事、終了しました。

 

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仏の子供大会の魅力~班活動の魅力~

  残念ながら、子供班は1班だけ。本格的な班活動はできず、子供大会の魅力を半減させてる。というのも、真剣な仏法(聴聞)、楽しい野外活動とあるが、仏の子供大会の魅力は、班対抗の集団活動にある。もともと60年前に、会館創建直後に、父がボーイスカウトの研修に参加して、団体行動のノウハウを学び、そこに華光の仏法と、カウンセリングマインドがミックスされた華光子供会ならではの独特の雰囲気がある。

 班活動ひとつといっても、班員から副班長、班長を経験し、高校生で次長、そして大学生で班付先生、さらに本部、さらに保護者のわが子の付添いとして参加し続ける経験が、そのまま私自身の成長の歩みとなるからだ。それぞれの立場-小学生の時、班長、そして大学生や社会人の先生となっても、一貫してこの身をかけて子供からも大人からも学ばせていただけるのである。そして、そこで法友との出会もある。たとえば今回はメーン先生方が4名あったが、そのうちの3名は子供大会出身者。やはり、言わなくても伝わることがある。大学生の先生役のお二人は、小学生の時からの法友。会館の2階の踊り場に、小学生時代の二人が海で仲良く映っている写真がある。今回、保護者はひとりだけだったが、同じような歩み、子供大会でのお育てを受けてきた、いわば同じ釜の飯を食った法友で、スタンツに、モットーに、班対抗ゲームに、その場を盛り上げてくれた。それが子供にも伝わっていく。からだで味わうご法の生きた歴史がある。これだけは経験したものでないとわからない。それでなかなか他(特にほある会の出身者)の方、仏青の方に先生役を頼んでも快諾いただけない。子供大会のこの独特のノリは敷居が高いようだ。涙ながらの真剣な法話や聴聞の直後に、大人も童心に返って、バカなパフォーマンをする。時に悪ノリもある。しかし、いい恰好したり、すまし顔で真剣ぶった聴聞の化けの皮が剥がされて、心が開かれる瞬間がある。そこでしか生きた仏法と届かないのだが、文化の差はいかんとも埋め難いのも現実。

 しかし大人になってからでもいい。若手の皆さんにも参加を促していきたいものだ。

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