カテゴリー「法座と聞法」の748件の記事

第41回講習会~『歎異抄』(4)~

 『歎異抄』に入って、4回目の講習会だ。異義篇の後半14~18章をいただく。

 正直、馴染みの薄い章ばかりだ。第1回、第2回に比べて、異義篇に入ると参加者が減ってきたのも、致し方ないのかもしれない。それでも、今回からの参加者もあり、皆さんと一緒に味読させていただいて、ぼくにとっても貴重な時間であった。

 さて、歎異抄は、前半の親鸞聖人のお言葉を伝える聖語篇が人気が高い。全編が端的な力強い表現で語られ、時には意表をつく鋭い言葉で、現代人の心も打つものだ。教義上からもみても、後の学者が「唯信訓」と名付けた第1・2・3章が重要で、特に第1章の歎異抄全体を総括する重要な章だ。

 それに比べて、後半の異義篇は、親鸞聖人の教えと異なる当時の異義を批判し、唯円房の耳に残る聖人の教えを伝える部分で、前半に比べると回りくどく長い章が多い。そのせいもあって、どうも省みられることが少ない。それでも、異義篇の前半の第11章・12章・13章は、聖語篇の唯信訓の第1・2・3章に対応する部分なので、読まれることは多いが、今回取り上げる14章以下は、一気に関心が低くなる。ぼくがもっている歎異抄の解説書(もちろん、すべてを網羅しているものが大半だが)をみても、「聖語篇」だけを取り上げたものがあれば、そこに「後序」を加えたもの、もしくは第13章だけを加えたものもある。中には、「11章以下は、現在は見られない異義なので、原文のみを載せます」と、わざわざ断ってある解説書までもあるのだ。

 でも、しかしである。

 ほんとうに今は読んでも仕方ない意味のない異義なのだろうか。そう捉えては、『歎異抄』の本質はまったく分かっていないことになる。唯円さんがほんとうに書きたかったのは、この後半の異義篇である。親鸞聖人の亡き後、面授口伝の直弟子の、その薫陶を受けた(つまり聖人から孫弟子)もののなかに、聖人の教えに背くことを言い出すものが出来たというのである。まだ教団として礎もなく、教義も確立していないのだから仕方ない部分もある。すでに聖人が京都在世の時でも、関東ではさまざまな混乱があったことは、聖人のお手紙からも窺うことが出来る。それにしてもである。聖人のご往生から20数年で、孫弟子のところで、勝手なことを言い出して、同室の念仏者を混乱させいるというのだがら、いかに真宗の安心が、難信で、また微妙なものかが窺えしれるのである。

 だからこそ、唯円さんは、泣く泣く筆を染め、聖人の教えと異なる異義を綴り、同室の念仏者の不審に答えようとされたのである。そのための正しいはかりとなるように、前半の記述があるのだから、やはり後半も頂かないと、前半の聖語篇のこころを深めることはできないのではないだろうか。

 それに異義者の心情を察していくならば、第17章や第18章のように、一見荒唐無稽な異義も、今日の私たちにも通じる迷いの根があることが窺えた。特に、善悪にとらわれること、その結果を畏れること、そして自力に執着し、もしくは学解(学問)的な聞法が幅を効かしたりということなのだがら、これらは今日の私たちの上での聞き間違いにも通じる異義だといってもいいのだ。
 
 今回、華光誌と平行しての準備はたいへんだったが、こんなことでもないと、真剣に、集中して勉強させてもらうこともない。しっかり学んでこなかった14章以下だったので、ぼくの中でも新たに気付かせていただくことも多々あって、その度に、何かご褒美をいただいた気持ちにもならせてもらった。各章の詳細に触れる機会があれば、また綴っていこう。
 

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3月の高山支部法座~自策自励して~

Img_9050  3月の高山支部法座。

 電車で一人で行く予定だったが、急に、連れ合いも参加できることになって、車で高山へ。高山までは、だいたい3時間30分くらいだ(帰路は、複数の事故渋滞に巻き込まれて、6時間近くかかったImg_9068が)。3月に入ってから雪の心配はなさそう。関が原から岐阜方面は、まったく雪はなかったが、さすがに飛騨国に入ると回りImg_9071_2は雪景色。特に、今年は積雪が多くて、たいへんだったようだ。こあたりは標高も高く雪が溶けずに残っている。ここまでくると、雪山も美しい。それでも、ピークはすぎているので、今回はノーマルタイヤでもまったく問題なかった。

Img_9055 新しい支部長さんが工夫をして、こんなプログラムを作製されていた。初めての方が和むようにと、かわいいイラストも入っている。毎回、利用できるように、バーツが磁石で留められるにもしてある。隙間の部分には、

「おのおの聞け、強健(ごうごん)有力(うりき)の時、自策自励(じしゃくじれい)して常住を求めよ」

という往生礼讃の御文。悟朗先生に何度もご法話を頂き、皆さんも馴染みが深い。たまたま今年の年賀状に、ぼくがこの御文を一筆したことで、そこを受けてくださったというのである。

 小さなことかもしれない。それでも、初めの方へ少しでも柔らかく伝わればという配慮がよく伝わってくる。これもまた、新しい支部長さんの自策自励の姿として頂いた。どうか、人任せのご法座、先生まかせのご法話にしないで、どんな小さく見えることでも、おのおのが工夫し、参画くださることが、法座の活性化につながるのではないだろうか。

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創意と工夫の法話

Img_8926   寒中子供大会。参加者が集まりが悪く、世話役はお誘いに苦労された。仏青世代も、大人も少ないが、寒中子供大会なのに、子供の参加者が特に少なかった。幼児も含めて、どうにか開催にこぎつけた。

 にも関わらず、法話担当の生方は、いっさい手抜きをされない。母も言っていたが、人数が少なすぎると、準備にも力が入りづらい中で、子供たちが飽きないようにと、何枚ものかわいい絵を描き、クイズを出し、ギターを弾いたり、馴染みのある歌を歌ったりと、その創意と工夫の熱意には頭が下った。皆さん、仕事を持ち、または子育てを真っ最中に、Img_8977時間を割いて準備をしてくださっているのだ。中には、準備の途中で眠たくなったので、セロハンテープを瞼に張ってまで頑張たという方もあった。いつもは子供たちの感想文を中心に「はちす」を発行するが、今回は、先生方の法話を「華光誌」に掲載してほしいとの声もでた。ただ、視覚や聴覚にも訴えた法話だったので、ただ文字を観るだけでは十分に伝わらない点があるのは残念だ。次回の機会には、先生方のこの並々ならぬ熱意にImg_8982触れていただきたい。

 それにしても、子供たちは正直だ。興味のあることには集中できるが、すぐに飽きてしまう。大人と違うのは、それがすぐに態度に現れる。あくびをする、「エー、まだあるの」と正直に言う。幼い子は、じっとしImg_9031ておれずに歩き回るものもいる。

 では、私たちは、それとどう違うのか。大人は、しつけていただいたおかげで、じっと座っていることはできる。しかし、退屈になると居眠りし、他所事を考え、心はここにはあらだ。表に出さないだけ、質が悪いのかもしれない。まざまざと私の姿をみせつけられる。

 だからこそ、あの手、この手の種々のご方便があり、そのたまもので、いま仏法を聞く身にまで育てていただいたのである。

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何を喜ぶのか?

 今月は土曜日になった広島支部法座。法話の分かち合いを一言ずつ回した後、Aさんの発言から場が動きだした。

「ある会の勉強会に参加して、『地獄行きの私』を喜んでいる発言ばかりしていたら、『Aさんは浄土往生を喜ばないのですか。そこはどう聞いていますか』と問われた。地獄行きはよく分かるが、お浄土のことは、聞いて覚えところで答えることは出来ても、それでは伝わらない。実は浄土往生のことはわからないし、喜んでいないのだが、皆さんはどうですか」

というような問いであった。

 数名の方が反応される。自身の自督(愚禿の信心においてはかくのごとし)と語られる方もあれば、まさにそこが分からないと共感される方もある。しかし「私は、浄土往生を慶ばせてもらっています」という発言はなかった。

 外側の話題に移るのではなく、今一度、Aさんの問題にするために、もう少しその心境をお尋ねしてから、問う。

「では、今、称えておられるお念仏で、浄土往生は大丈夫か?」と。

 自問されている。少し間のあと、涙と共に「ただ南無阿弥陀仏しかありません」という尊いお答えが返ってきた。

 が、その場でのぼくの直感だが、ぼくが発した問いの持つ心まで、十分に伝わった気はしなかったので、加えてお話をさせていただいた。

 まず、地獄行きは喜べて、浄土往生は喜べないのでは、浄土真宗の正信とはいえない。その日のご法話でも、真宗は、頭を垂れて聞かせていただく以外にはない。そしてご聴聞は、「後生の一大事」を離れてはないが、後生の一大事には、「堕地獄の一大事」と、「往生浄土の一大事」ある。しかし唯一の一大事に二つあるのではなく、これはひとつのことで離れない。二種深信でいうならば、同じ紙の裏表、機法二種一具の味わいのところだという話をしたばかりだった。つまり、機の深信(地獄一定)だけを喜ぶのでは、浄土真宗のご信心の相とはいえないのである。

 しかもである。自分で地獄行きは喜べる、実感があるから話せるというのも、大きな自惚れだ。地獄行きも、また如来さまに教えて頂き、お聞かせ預かったことが抜けているのだ。確かに浅ましい身は常にここにましますので、ご縁にあえば、ほんとうにいやというほど見せられるのではある。しかし無明の身には、ほんとうはそれすらも分からないのである。

 そして、お聞かせに預かるのは、わが身の浅ましさ、地獄行きの姿だけではないく、その地獄行きの私を哀れと思し召し、それをお目当てに立ち上がってくださった阿弥陀さまのお慈悲もよくよく聞かせていただくのではないか。つまり、地獄行きの身も、往生浄土の道も、共に、仏縁を頂き、阿弥陀さまのお心を聞かせて頂いてお教えいただくことなのである。

 何のために、阿弥陀さまは浄土を建立され、南無阿弥陀仏となってくださったのか。三厳二十九種の浄土の荘厳は、一体、誰のためなのか。無明煩悩に覆われて、聞く耳もない私ひとりをお目当てに、阿弥陀さまが正覚の位を捨てて、もう一度、願を起し、行を励んでくださったのである。この私が、安心して帰っていける世界、私をお目当て、正客として迎えるためにお浄土を建立され、私が帰ってくるのを、遥か十劫が昔から、呼んで、呼んで、呼びづめで、待って、待って、待ってくださっているのではないか。つまりは、私が帰るべきお浄土も、そこに生まれるお手立てまでも、自らが南無阿弥陀仏の中に身投げをして、その六字にすべてをかけて成就してくださったのである。

 凡夫の身で、阿弥陀さまの清浄そのもののお浄土が、ほんとうに分かるわけはない。しかし、今、私の口をついて出てくださる「南無阿弥陀仏」の六字の中に、そのすべてが封じ込められて、その親心のすべてが届けてられているのではないか。そのお心に、大慈悲心に触れたならば、喜ぶなと言われても、喜ばずにはいられないのである。

 「地獄行き、地獄行き」と簡単に口にだされるが、さてさて、皆さんは、いったい何を喜んでおられるのだろうか。

「選択摂取のお浄土の 花ふる里は誰が里
清風微妙の音楽も 七宝樹林の輝きも そびゆる宮殿楼閣も
いちいち衆生のためばかり
親の宝は、子の宝
南無阿弥陀仏の大宝」(仏教詩歌集より)

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二つの結び目

  雪の同人宅に集まった方は少ない。それでも、 もう50年以上も悟朗先生のお育てを受けた日高支部の人達だ。法話も、手抜きするわけにはいかない。華光会館まで御参りにくることも難しいなっている方もある。ぼくが出講する1年に2度のせっかくご縁。ご法話の後の信仰座談会も、自分の持ってきた話題に終始したり、雑談で流れることなく、法話を分かち合い、それそれの喜びを分かち合う場になれば思うが、なかなか年齢を重ねてくると難しいことも百も承知している。

 ならば、法話の中で問いをもって聞いた。ほんとうに一から押さえていったのである。
「聴聞はカド聴く。要を聴くことか肝要だと言われます。悟朗先生も、ただ大様に聞くのではなく、しっかりと2つの結びを持って聞けとお示しになられましたが、それはなんでした」。誰かがスッと答えられると思っていたが、遠慮されてかなかなか口が重い。すると、「地獄一定の自分を聞くんですね」とか「阿弥陀さまのお心をお聞きする」といってくださった方がある。そう、聴聞はそれ以外にはない。

 しかし、そこを悟朗先生に教えられた二つの結び目としては、
「後生の一大事」を心にかける。
「自力・他力の水際」ははっきりする。

 ということであった。この要を、常に平易な例話で、具体的にご教示くださったのである。

 皆さん、「そうでした」と頷かれる。いざ問われてみると、分かっていてもなかなか浮かばないのが現実のようだ。

 もちろん、その答えを覚えていてスラスラと答えられたから、それでいいというのではない。

 「誰の人も、早く後生の一大事にこころをかけて、」と蓮如さまは示してくださった。「誰の人」と、そして「早く」というお示しがまったくもって尊い。

 では、「『後生の一大事を心にかけて聞く』とは、どういうことですか。その態度で、いまここに座っておられますか。」と、さらに問わせていただいた。

 これは、常にウカウカと、居眠り半分でしたか聞けない私に向かって、いのちを捨てた叫び続けてくださる阿弥陀さまのお示しなのではないだろうか。

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大雪の年忌法要

Img_8844  山陰地方の大雪はまだ続いている。ニュースでは、大混雑の山陰線の様子が放送されている。覚悟をし出発したが、高速道路は空いImg_8848て、拍子抜けした。舞鶴道に入っても、雪はない。途中、1台ずつ止められて、タイヤ検札がある。冬用タイヤ以外は高速道路から降りないといけない。唯一、スタッドレスを借りてよかった思った瞬間。京都駅前で借りたのに、「習志野」ナンバーである。

Img_8852_2 快晴で、気持ちがいい。ところが養父を過ぎたころから雪が降り出す。豊岡市日高町に入っても雪は続くが、国道はきれいに除雪されている。道路も水が出るので、少々の雪は心配ではない。二Img_8875人で、「せっかくレンタカーを借りたのだから…」と、妙な期待をしている。
 同人宅の集落は、道が細く、みな手作業で雪払いし、駐車場を確保してくださっていた。

   このあたりのい天気は、晴れ間が、雪空になり、また青空になったりと、目まぐるしい。

Img_8863 残念ながら、山陰線の特急列車は運休で、大阪や宝塚方面のご親戚は欠席。その意味では寂しい法事になったが、お友達やご近所の方に加えて、Img_8857華光同人も御参りくださって、かなり人数が揃って、法話も力が入る。普通の法事なら、20分、長くて30分が限界だが、ここでは普通に法話を聞いてくださる。さすがに座談会まではないので、直接的な反響はわからないが、皆さん、真剣に聞いてくださる雰囲気はわかる。さすがに法が生きている土徳のおかげだ。

 法話が終わると「南無阿弥陀仏」の声が、仏間に反響している。たとえ勤行がなく、法話がなかっても、この六字の声だけで十分なのである。 

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新しい出遇い~東海支部法座~

 Img_8838京都の雪は、うっすら屋根に残る程度だが、予定より早く家を出た。新幹線は、米原付近の積雪で徐行運転で遅れている。既に雪は止んでいたが、名古屋駅へは30分遅れで到着した。そこから、刈谷市での東海支部法座に向かう。

 大勢のお参りだ。久しぶりの方、東京や高山からの参加者に、新聞の宗教欄をご覧くださった方もあって、満席の賑わい。支部長交代の矢先に幸先がよい。

あらかじめテーマをだす。「お念仏の中の人生」と、一般の方にも有り難そうなテーマを出した。もちろん、題材があっての話。修正会以来、よく取り上げている「私にとっていちばん大切なものは何か」、それを追い求める「生活」だけでなく、何のための「人生」か、大切なものひとつが「念仏」ではなく、毎日の活きる為の活動「生活」も、人として生きる「人生」も、すべてお念仏に出会い、お念仏を申すためになるのものである。「生活」-「人生」-「念仏」について、具体例を交えながらお話させていただいた。

 人数が多いので、2つのグループに分かれての信仰座談会。

 初参加の学生さんは、すでに聞法の焦点が定まっている。感度のよさ、吸収力のよさには、驚かされる。それも『仏敵』や『念仏の雄叫び』の仏書と、悟朗先生の法話CDだけをたより、ここまで求めてこられたのだ聞いて、一同ただ感心するばかりである。

 しかしただ感心しているだけでない。異口同音に、適格をアドバイスがはいる。
 
 確かに本や音源だけでも、ある程度の聴聞はできる。しかし、それにも限界がある。いまの時代、ますます根機(仏法を聞く人間の資質)が衰えているからた。

 たとえば、「自分を知る」といっても、自分では自分はわからない。そこを、身近な生活に即して、具体的にお聞かせに預かることが大切だ。しかし、「如来さまがご覧になった自分」を聞くといっても、自分ひとりの力では無理だ。だからこそ、真実に出会って、先に幸せをされた先輩同行、知識につとめて近づく。そして、そんな先達が集う場で、自分を開き、口を開き、その聴き間違いを糺していただいく。正確を覚えて言えるよりも、間違いを間違いと聞かせていただくことが、聴聞だ。

 聴くとは、頭を垂れ、己を空しうして聴くこと以外にはない。

 いまの時代の私たちが、一番苦手なことだ。このブログをこっそり観ている「あなた」にこそ、お勧めですね(^。^)

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何を、なぜ、どう「聞く」のか

 東京支部。新しいご縁の方もお参りくださり、宿泊者も、参加者も久しぶりに多かった。

 ご法座は、何を、なぜ、どう「聞く」のかを、蓮如さまの『御文章』などによりながら、お取り次ぎする。四座あったので、具体例やかみ砕いたお話ができたのではないだろうか。

 浄土真宗は「聴聞にきはまる」。しかし、聞くしかないといっても、ただ大様に、なんでもかんでも聞いてさえいればいいのでなはい。

「讃嘆のときなにもおなじようにきかで、聴聞はかどをきけ、と申され候ふ。詮あるところきけとなり」(51条)

と、御一代聞記書にもあるように、「かど」「詮あるところ」、つまり肝要、要点、かなめを聞けというのである。では、その要点、かどは何か。その手がかりが「何を」「なぜ」「どのように」聞くのかということになる。

 ところで、「聴聞の要点を外してはいけない」と教えられると、どこかで効率的な聞き方を求めることにはならないか。たとえば、信心獲得に役立つから宿善を積む、そのためにと財施も頑張る。ところが、浄土真宗でそんな求道は、自力の修行で捨てものだと聞かされると、財施までも止めてしまう。結局、自分の得になるか、役に立つか、立たないかで、仏法までも自分で判断するのである。もしそんな調子で、効果があり、効率よく求めるために、聞法の要点を聞いていたならば、まったくの本末転倒である。

 それでは、何を聞くのか。親鸞聖人のお言葉なら、「仏願の生起本末」を聞く。蓮如さまのご文章なら、「南無阿弥陀仏の六の字のいわれをよくききひら」くということである。阿弥陀如来さまが、本願をおこされた精神、南無阿弥陀仏となってくださったお心に思いを馳せたならば、自分の得とか、役立つかと、効率とか、そんな利己的な欲得とは、まったく正反対の利他のの塊、真実心そのもの、清浄心そのもので、南無阿弥陀仏となってくださっているのである。そんな清浄、真実のお心が、衆生の限りある知恵、欲得の心で計れるわけがないのである。

 だから、どう聞くのかといえば、「疑心あることなし」なのである。それを蓮如さまは、「もろもろの雑行、雑善をなげすすて」とか「自力のこころをふり捨てて」、そして、「一心一向に弥陀をたのみまいらせ」るのてある。つまり、自力を捨てて、他力に帰せよ、衆生の行も、善も、知恵も、計らいも、自力ならばなにひとつ役立たないのである。

 でば、なぜ聞くのか。「後生こそ一大事なり」。真宗の聴聞の要は、ここに尽きるのである。これを外しては、真宗のご聴聞にはならない。だれのひとも、早く、後生の一大事に心をかけて、お聞かせに預かるのである。けっして、今生事やこの世の幸せ、もしくはこの世の幸せの延長にある後生でもない。如来さまの叫びである、後生の一大事に心をかけて聞くことこそが、聴聞の要のひとつとなるのだ。

 後生の一大事と、自他力廃立を聴聞の結び目にして、南無阿弥陀仏の六字のおいわれをお聞かせに預かっていく。そこを踏み込んで話した。  

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驚きたてるこの弥陀は…

Img_8783 Y家の家庭法座の夜は、博多しゃぶしゃぶ「あり田」での懇親会である。大サービスくださり、新鮮なお刺身やお肉が食べ放題。「無量寿」コースである。浅ましい身には、殺生はうまい。

Img_8776 二次会は、そのAさんの恩人で、法座にも参加してくださるUさんのバーへ。なんとかと一足飛びにはいかないので、搦手からご縁を結んでおられるのが、よく分かる。ここでも、偶然、知人の方が座ってくださり、重ねてお酒を酌み交わして、賑やかに時間が過ぎた。

 Img_8777翌朝、Yさんのご法話は、六道輪廻の中でも、三悪道の地獄界、つまり欲界最底下の八大地獄のお話である。そういえば、昨晩だけでも、等活地獄行きの悪業である殺生の罪を喜んで犯し、叫喚地獄の罪業である飲酒(おんじゅ)を犯し、大叫喚地獄のたImg_8778ねである酔って好きなことを言い合い、妄語の罪を重ねたのである。しかも、なによりも恐ろしいのが、そのことについてまったく無自覚でいることだ。いのちを慈しむ目から見れば、殺生はおぞましく、静かな修行妨げる飲酒も恐ろしいものなのImg_8782に、凡夫が狂い、轉倒(てんどう)している証拠は、それが楽しくして仕方ないといのうだがら、この迷いはあまりにも深い。

  ところで、その後の座談会で、ある方が、ご自分の妹さんの悲惨な現状を詳しくお話くださった。内容には触れられないが、テレビの悲劇ドラマさながらの悲惨な状況に置かれておられる。皆さんも、固唾をのんで聞いておられたが、最後に、「妹家族にすれば、いまが地獄です」と結ばれた。たぶん、世間の方ならそう思われるだろう。しかしである。確かに、地獄の「ような」状況だが、けっして地獄ではない。この世に、地獄のたねも、餓鬼のたねも、畜生のたねも、確かにある。しかし、どんなに苦しくても、ほんとうの「地獄」ではないのだ。なぜなら、たとえば等活地獄では、粉々になって死んだ罪人が、獄卒の「活、活」の声で、元通りにとなり同じ苦しみが、業が尽きるまで延々と続くのだから、自死でも逃れられないのである。そして、その地獄も、餓鬼も、すべて私の後生は、今の私が自ら造る化生の世界なのである。

「一たび人身を失いぬれば、万劫にも復せず」という一大事が、ここにある。

そして「南無阿弥陀仏」ひとつで、その迷いの世界を超えていく道があることも、ご法話で触れてくださった。南無阿弥陀仏

 そなたがすわる足もとに 八大地獄の業の火が
 驚きたたぬそなたより   驚きたてるこの弥陀は
 血潮に染まり紅の     紅の身のくだくるも
 立ちづめ呼び詰め招きづめ
 こいよ、こいよ 出でこいよ そのままこいよ出てこいよ
                      (大悲の呼び声) 

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華光誌輪読法座~大千世界に満ちる火を超えて聞け~

 平日の昼間、しかも冬になって参加者が少ない。それでも、平日だからと参加くださった方もある。家庭や仕事の関係で、平日の方が参加者しやすいという方もあるのだ。

  聖教のこころは、『無量寿経』の流通分(るずうぶん)で、お経の結びにあたる。広くこの教えを後世にも伝えてほしいという釈尊の願いが、弥勒菩薩に委嘱されるので、弥勒付属ともいわれる。

 つまり、最後に、六字名号の御利益を示す段があって、南無阿弥陀仏のおいわれを聞法して、そして一声でも称名念仏するものは、この上ない大きな功徳が得られるというを説かれて、だからこそ、たとえ三千大世界を焼きつくす猛火の中をもくぐり抜けて教え聞けとお諭しになっている。親鸞聖人が、

 「たとひ大千世界に   みてらん火をもすぎゆきて
  仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」

と和讃されているところである。

 ここを読んで、ある方のお味わいが有り難かった。
 ぼくが小学生の時に、悟朗先生から「いのちがけで聞くか」と迫られ、「南無阿弥陀仏に飛び込め」とのお示しは、ここに根拠があるのではないか。それは、いのちがけになれるとか、なれないとかというのではなく、
 「結局、お釈迦さまのご命令(勅命)だったんですね」、と発言された。

 それを聞いて別の方が反応される。
「いまのぼくは、命懸けで聞けるとは思えません。いまの心境では、無理です」と。

 そうではない。もし、私が命懸けで聞けるようになったとか、もしくはそんな心境になれさえすれば信心獲得できるのだ、という聞き方こそが、自力疑心の捨てものなのである。

 「大千世界に みてらん火をもすぎゆきて」聞けというのは、けっして、私の努力目標でも、勇ましスローガンでもない。もちろん、獲信のための条件でもない。お釈迦さまが、弥勒さまにお伝えすることで、私に指し示してくださった「仰せ」なのである。

 真宗のご聴聞は、「仰せを聞く」ことだ。如来さまの「来いよ」の勅命、つまりご命令に信順するだけであって、けっして、私の心境をとやかく尋ねることではない。教主世尊が、「たとひ大千世界に満ちる火を超えて聞け」と、衆生に向かって仰ってくださっている。

 ならば、私が聞くしかない。しかし、大火を前にすると、さまざまな思いがでるだろう。躊躇も、遠慮も、逡巡も、「どうすれば」もあれば、疑いや弱気の心もある。まさに私の胸に大火の如く自力の心が満ちているのである。そして、その心で、昿劫から、ずーと長綱を引いて逃げ、迷ってきたのである。だからこそだ。「その火に飛び込んでも聞け」と仰せになっている。ならば、いま、ここでその仰せに従って、一声、「南無阿弥陀仏」と飛び込むのである。
 

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