カテゴリー「法座と聞法」の1000件の記事

初盆

今年もお盆参りが始まった。昨年は、間に寺院布教が入ったが、今年はなく、3連休にもなったので、ゆとりのある日程が組めた。

午前中は、ご近所の同人宅へ。このお宅は、親子共々、丁寧に仏事をされてくださるのが、有り難い。「横川法語」のご法話。泥中の中から、泥に汚されずに咲く蓮の花を、他力の念仏にお譬えになっている。

すぐに戻い大阪に向う。同人宅で、支部法座の会所も引き受けてくださっている。今年が初盆にあたる。遠方からも含め近しい親戚が集まってこられる。なんとかご家族、特に子供さんへのご縁を願われているが、まずは手を合わせてもらい、共に勤行してもらうところから。勤行一つ、称名念仏一つ、初めてならば抵抗もあるだろう。特に、「南無阿弥陀仏」と声に出すことは難しい。簡単に見えても、その意味を知り、そのこころを知り、ほんとうに身につくまでには、知らないだけで、あの手この手のお手間、ご方便があったのだ。個人の相続も難しいが、縁ある人に相続していくこも、難しい。それでも、小さなことから、一つ一つを丁寧にお伝えしていくしかない。

法座の後、場所をホテルの日本料理店に移し、和やかに会食が行なわれた。これもまた小さなご縁を造る一つになるのだろう。

 

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夏の仏の子供大会開催!

 たった1泊2日、夏も仏の子供大会を開催した。子供が集まらず中止にしてもよかったが、たとえ2~3名でも宿泊開催すると決めていた。夏はもう3年間も中止になっているので、このままならズルズルと無くなってしまう気がしたからである。
 開催してよかった。たとえ数名でも子供たちのエネルギーは大きく、皆様のおかげで、やっぱり仏の子供大会となったのだ。ご喜捨もたくさん頂き、大いに助けられた。子供の参加は少なかったが、幼児、小学生、中学生、高校生、大学生と揃ったし、大人も2日目からは多くなって、30名近い人が集って、賑やかな子供大会となった。初参加の高校生や大学生もあって、それだけでも意義があった。

 ただ班活動はできなかった。当然、班長もいなし、班のモットーや歌もなければ、班評価もない。そして野外活動も、追ハイ、ファイヤー、室内オリンピック、水泳もなかった。つまりは、すべての野外活動、団体行動の規律を重んじる面から見れば、仏の子供大会らしさはどこにもなかったのだから、一抹の寂しさもある。

 それでも、短時間の準備でスタンツ(劇)が3つ、創作活動として、昼食は「おにぎらず」という形で、みんなが会食し、ワイワイと賑やかでおいしかった。大人数で、各自が作りながら、会食するスタイルは4年ぶりで、ほんとうに楽しかった。男の子たちには、銭湯が大好評で、なかなか帰ってこなかった。
 そして、4年ぶりに、地獄(等活地獄)のスライドも見た。反応は、今ひとつだったが、これは上映したことに意義がったのだ。法話も、ぼくが担当した若手班の分級座談会も、法話を丁寧に振り返りながら、充実した内容だった。味わうこともあったが、またの機会で。
 先生方の中でも、娘が中心になって、準備の勧めてくれた。生活面の担当で、法話や「おにぎらず」の企画や会計と、最後までやりとおしてくれたのが、とてもよかった。

 もしかすると、もう以前のような仏の子供大会は難しいかもしれない。それでも、形が代わったとしても、その精神を生かしながら継続していきたい。
 来春には、2泊3日での開催を計画している。早くから呼びかけて声かけをして、なんとか班活動も実現していきたい。どうぞ皆さんもご協力をお願いします。

 

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広島での法事

 葬儀の翌日、早朝から広島に向う。

今度は、別院の近くにあるお寺を借りての年忌法要と納骨である。

 お母様の法要は、「釈遠慶」と、父が付けている。彼女の祖父の代、広島からアメリカ移民でカリフォルニに渡った方から、逆輸入で真宗のお法りが伝えられた。浅い歴史の華光ではあるが、そのご因縁は5代渡って続いている。お母様の兄弟姉妹5名も、昔からの華光同人であったが、今も、そのお子様たち(ご姉弟)も同人としご縁を結んでくださっている。それどこなか、そのお孫さん、そして曾孫さんの代まで、仏の子供大会でのご因縁がある。だから、今日集まったご姉妹の4名も、まだご縁を結んでくださっていて、そのお子さんたちも、小さな時からの法友でもあって、その再会を懐かしんだ。

 法要や納骨は、ご住職がお導師を勤めてくださるので、参列者の一人としてお参りした。

 墓石の「南無阿弥陀仏」は父の書だ。

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 午後からの時間は、ご法話で、座談会。ところが、新幹線が名古屋から東京方面でトラブルが発生しているとのことで、慌てて帰っていかれたりしで少しバタバタとした。
改めて、手を合わせこと、勤行すること、仏事の意味について、ご説明した。中でも、何故、南無阿弥陀仏と称えるのかを、ある意味、原点に帰ってお話させて頂いた。

 

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大阪での葬儀

   報恩講の初日、夜座を前に、大阪同人より電話がある。予てよりお父様の葬儀を頼まれていた。1ケ月前に、危篤状態との連絡をいただいていたが、その後、回復に向かわれていたが、ご逝去の連絡である。やはり火葬場が混み合い葬儀の日程は未定。

 本業は「生きた葬式」をする場なのだが、同人の依頼があり日程が合えばご縁を結ばせてもらっている。それでも10年近く葬式がないことも珍しくない。昨年も一度もなかったが、年2回、それも1週間も開かず葬儀が続いたのは、初めてのことだ。1年以上間が開くと、勤行も七条の着付けも忘れているが、さすがに1週間以内なら、そのまますんなりと進んだ。

 初日は、電車で会場に向う。このところよく道に迷い。特に東京や大阪の地下鉄からの経路は、複雑だ。事前に地図は用意するので、だいたいの方角はあっていたが、確かめながら進むので、倍以上の時間を要して会場に到着した。ナビをするスマホがないのでしかたないが、早めに出発してよかった。

 昨今、特にコロナ禍では、家族葬、もしくは親族や友人だけの少人数の葬儀が主流になっているが、今回は、社葬でもある。創業者でもあるので、業界団体の参列あって、献花だけでも100以上、弔電も多数あり、通夜・葬儀を合せると4~500名の参列者があったのではないか。

 通夜では、少し長めにご法話も聴いていただいた。葬儀でも、ごく短いご法話をしたが、最後の喪主のご挨拶が、立派なご法話になっていた。自分の出会っている浄土真宗がいかなるものか、なぜ、僕を招いて葬儀をされたのか、そのことをきっちりとお話くたさって感心した。身近なご遺族(特に家族)にご縁を結んでもらいたいという思いを感じられて、有り難かった。亡き方の追悼をきっかけとして、いま、その縁につならっていきるものにも、少しでもご法縁が広がり、我が事として法に向き合ってもらえることになることが、ほんとうの意味での意義ではないかと思われた。

 

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葬儀から報恩講

 幸い、葬儀は姪っ子の連れ合いが脇についてくれることになった。彼は長く法務員を勤め、時には午前、午後と1日の2度の葬式も珍しくない葬儀のプロである。声もいいし、よく事情も分かっていて、ぼくの勤行にも合せてくれた。そして姪のRちゃんに七条を着つけてもらった。こんな日が来るとは、昔は夢にも思ったことがなかった。皆さんのおかげて、いい葬儀となったのではないか。

 家族葬だったが、親戚も多くそれなりにお参りがある。通夜の法話は、法名(釋法鈴)のおいわれを中心に、分かりやすい話に勤めた。葬儀の法話は、Rちゃんがおばあちゃんの想い出と共にお話くださる。同じ世代の従姉妹もいるので、なによりのご縁になるであろう。

 ご親戚の方はお帰りになるが、ご自宅の戻ったらご家族で還骨と初七日法要を託しておいた。ご法を中心にした家族なのでなんの心配もなく、葬儀を終えると、雨の中、京都に戻る新幹線に飛び乗った。
 
 これから報恩講である。行事前に、新幹線に向うのは遠方のお同行さんの気分である。誰かに会わないかなーと当たりを見回したが、この車両には同人とおられなかった。ただ、明日の成人式、京都三十三間堂の恒例行事である通し矢(弓道大会)があり、弓や矢をもった成人たちがたくさん乗っていた。

 ちょっと不思議な気分で、報恩講を迎える。初日は法話はあたっていないので、勤行が中心である。大師影供作法を勤め、夜座は『御伝鈔』下巻を拝読させていただいた。自信のない声明だが、皆さんの力を借りて無事に勤めることができてよかった。 

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名古屋での葬儀

 突然の訃報だった。

 火曜日の朝、名古屋に住む姉より、お義母さまが倒れて危篤状態だという連絡がある。重篤な状態で、今夜は越せるかどうかも難しい。昨日までお元気で、お正月には得意の絵を添えた年賀状を頂いていた。それが、夜には訃報となって届いた。

 火曜日のご往生。週末の報恩講とは重ならないと思っていが、火葬場が混雑していて日程はすぐに決まず、翌日、金曜日のお通夜で、報恩講の土曜日が葬儀と決まった。ただ葬儀は午前中なので、葬儀を終えてすぐ新幹線に飛び乗れば、報恩講には間に合う。ただ、初七日法要に出るのは難しい。ところが、葬儀屋から「初七日は葬儀の中ですませる(式中初七日)でお願いします」と伝えられた。葬儀に不慣れなぼくは、その言葉を初めて耳にした。今は、これが主流になっているという。収骨まで待ち、再び式場に戻って、そこで初七日法要、会食となると、葬儀会館も皆さんも二度手間なので、葬儀中にすませ、火葬、会食、収骨、そして解散となれば効率的なのだろう。残念ながら、還骨の後の初七日で、遺族の方にご法話を聞いてもらうことを最初のご縁にしていたのだか、これからは勧め方も考え直さねばならない。

 急に慌ただしくなった。報恩講の準備を早める。『御伝鈔』の拝読の練習も必要だし、法話の教案もある。また、久しぶりの葬儀で七条の着付けの確認や勤行の練習にも時間が取られる。法名を考え、参列の皆さんにその意味をお配りもする。慌ただしくても、せっかくの法縁である。しっかり勤めさせて頂きたい。

 そんな気持ちで、金曜日に新幹線に乗って名古屋に向った。

 

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今月から『死を凝視して』

 換気の都合もあり、冬季は、日曜日に、『仏書に親しむ会』と『華光輪読法座』を連続で行なっている。午前中に『仏書』、昼食を挟んで、午後は『華光誌輪読法座』である。

  新年、伊藤康善先生の編著である『死を凝視して』が始まる。昨年は、『悟痰録』や『華光出仏』を読み、その関連で『死を凝視して』収録の『最後の手紙』と『死の日記』は読み終えた。

 今回は、序文からの輪読し、今日は第一章「枯れ葉の最後」、第二章「私の足跡」(増田宝作)を読む。昭和27年に発行されているが、記事の大半は、戦前~戦中のものである。結核で死に向き合ったり、戦火が目の前に迫るまさに「死を凝視して」の一文ばかりである。特に、第一章の高山青年の記事は、その悲惨な最期と、伊藤先生の筆で胸を打つ。それぞれのご因縁がある。第二章の「私の足跡」は、リズミカルな文章であるが、その中に、『宿善の実が熟する頃』に登場していた「辻の婆さん」が関わっておられるシーンがあって、人事とは思えず読ませてもらった。こんな華光の先輩同人が前を歩いて下さっていたおかげで、今、私にも仏法が届いてきたのである。南無阿弥陀仏

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修正会~阿弥陀様を漢字一文字で 2023年版~

 弥陀成仏のこのかたは
 いまに十劫をへたまへり
 法身の光輪きはもなく
 世の盲冥をてらすなり

 今年も、1月1日の修正会から法座が始まる。

 年末年始は好天に恵まれた。コロナ禍以降、遠方からのお参りは減ったが、名古屋、富山から姉の家族もお参り。後は、京都、滋賀、大阪からの参詣者で、常連の方はほぼ揃ってくださった。ZOOMの参加も同じほどあって、合せると50名以上のお参りである。

 昨年12月の寺院布教の時、「今年の世相をあらわす漢字」が発表された日だったので、話題に昇った。なった。それで、急に思い出したのが、「阿弥陀様を漢字一文字で表すとどうなるか」という問いである。でも、これには正解はない。あくまで個々人のイメージの世界である。が同時に、多くがだされるなかで、阿弥陀様の性格、お心がその文字に表されるから不思議である。

 これはこのプログから生まれた企画である。ブログが始まった間もない2008年12月のことだから、14年以上前のことだ。皆さんに問いかけて、それをまとめたのが次ぎの記事である。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-0005.html

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/post-f294.html

 ご一読いただくとわかるが、これが結構有り難い。選ばれた一字だけでなく、その漢字を選んだ一言がいい。同時に、顔ぶれが懐かしすぎる。ハンドルなので、今の方が読まれたも分からないだろうが、ぼくには分かっている方々だ。もう故人になられた方も何名かある。華光とご縁がなくなった方もある。一方で、今も続けてご縁を結んでいる方もあるが、当日、グズグス言っておられ方が、今も、同じようにグズグズ言っておられることが、尊い。ZOOM参加者に中にも継続者が数名おられたが、面白かった。

 今回も、皆さんに一言ずつ頂く。「親」「光」「願」「智」「悲」「救」「摂」「救」……顔ぶれが代わっても、「なるほど」というお答えで、やはり14年前にも出ているものであったが、中には、「鏡」(私の姿をありのままに歪めず写し出してくださるから」とか、「断」(横超断四で、迷いを断つお働き)や「破」(同じく破闇満願)、「慚」「望」などの声もあった。

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 ぼくは、やはり「待」という一字。そのお心を頂いたが、もう多くは不要だろう。

「『迎』はむかふるといふ。まつといふ。他力をあらわすこころなり」(唯信鈔文意)

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寺院布教

 華光大会を終えた2日後、宿泊での寺院布教である。もうここの報恩講様には15年も続いてお世話になっている。最近は連れ合いも一緒にお世話になるが、今年は公演があって、今は東京にいる。

 「如来様とは?」と題して、簡単な質問を交えながら進めていった。馴染みのある正信偈の六首ご和讃、冒頭の「弥陀成仏のこのかた~」からの6首をいただき、阿弥陀様が光明の仏様であり、それは慈悲とし、そして智慧の仏様であることを窺った。その智慧とは知識ではなく、私の正体を温かく、そして真正面から明らかにして下さるお働きである。結局、仏智の働きである光明の縁にあうことがなければ、ほんとうの自分のことは分からないのである。そのことを、最後は機の立場から、「あなたは誰ですが?」という問としてお取り次ぎさせてもらった。内容はやさしいのだが、自己を問うことは一番難しいテーマである。自分のことでありながら、自分の力では知ることができないからである。
 
 すべて仏智に出会って、自分自身が、そして私の行き先が明らかに知らされる。まさに「心開明を得る」のである。

 2日間、いいご縁を頂きました。

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華光大会(5)~本願力廻向~

 ある程度予想はしていたが、想像以上に追悼法座が尊かった。皆さんからも一言を頂いたが、故人の偲ぶというセンチメンタルな思いを超えて、諸仏の讃嘆の声となっていた。皆さんの口を通して、松岡先生の讃嘆がそのままご法の讃嘆となったのである。最後の奥様のご挨拶のお言葉も尊かった。病魔に苦しめられながらも、「わが腹底には地下水のごとく真実が脈々と流れ、南無阿弥陀仏となって浮かび上がって来る。ほんとうに幸せものだ」と。

 総会を挟み、夜座の法話後の座談会。参加者は減少していたが、追悼法要の分かち合いをしたかった。みんなが、自分の計らいを超えたありのままのところで分かちあいたかった。でもこれが難しい。相変わらず、頭で作られた「分かる、分からない」「変わる、変わらない」といった話題が続く。しかし、「どうすれば~」といった問いには、司会者を制して答えなかった。同じレベルで、相手を変えようというエネルギーを使いよりも、今、このご法の力を分かち合いたかったのだ。

 すると不思議ことが起こる。

 Yさんが、自分のほっぺたを殴り涙ながらに語ってくださった。「私は、松岡先生も、悟朗先生も知りません。でも、皆さんのお口を借りて、松岡先生の人となり、悟朗先生の人となりを聞かせていただきました。そして、皆さんの口を通して、お二人の先生に流れている仏法を、今、聞かせてもらいました。ただ、私はそこに居ただけなのに、お会いしたこともない先生が伝えて下ったご法に遇わせてもらいました」と。

 実は、伏線があった。支部法座での厳しいやりとり、7月の壮年の集いでの感想、そして9月の特別講演会での感激、ずっと続いてる法の流れがあったのだ。前日もまた、グズグズいっておられた声に、司会者と二人で時間をかけて関わっていたのだ。

 おもわず、「その遇わせてもらったご法とはなんなの?」と問う。すると「分かりません」と。ああ、せっかく法の働きに撃たれたというのに、また分かる、分からんの二項対立の頭で作った世界には戻ってしまいそうだ。それで間髪入れず次の一言だけ言った。

 「さきほどの法座で、松岡先生のことを分かろうと思って聞いていたか? 違うやろう。ただそこで聞いていたら、向うから届いてきたのと違うか。遇ったこともないの方の方が、届けられたのと違うか」と。

 たたその一言だけだった。すると、突然

「ワアアアアアアアアアー バカでした。バカでした。バカでした。届いてました。届いてました。ワアアアアアアアアア」と、七転八倒しながら暴れだした。「バカでした、バカでした。バカでした」「届いてました。届いてました。届いてました」。「オオオオオオオ」と号泣し、のたうち回っている。その口から、「南無阿弥陀仏゛南無阿弥陀仏」の念仏と、「バカでした、バカでした。バカでした」「届いてました。届いてました。届いてました」と繰り返すだけであった。

 

 本願力の「力」(エネルギー)そのものは目には見えない。ちょうど、重力が目に見えないのと同じだ。しかし、その働きにあって動かされている作用は見ることができる。諸仏方の称讃から立ち上がったご法が、泥凡夫の自力の心を突き破り、自然と新発意の菩薩が誕生するのである。まさに松岡先生の還相廻向と言わざる得ない。南無阿弥陀仏

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