カテゴリー「法座と聞法」の819件の記事

寺院布教~光顔巍々~

Img_67165年ぶりに法林寺法座にお招きいただく。

最近、寺院布教では、お参りの皆さんと距離が気になっていた。対人的な意味ではなく、ご法に関する距離で、なんとなく寂しく感じることが多かったからだ。

Img_6674でも、今回は、そこはあまり気にせずに、お伝えしたいこと、自分が感じていることも遠慮なくお話することにした。大きなテーマはもっていったが、それに固執せず、その場の雰囲気や発言Img_6689_2に触発されたところでお取り次ぎさせていただいた。結局、3座を通じて、聴聞の要とImg_6709いったテーマではなかったか。

夜座の半分は座談会にしImg_6660た。懇親会も、檀家さんが中心に残ってくださった。皆さん、以前のこともよく覚えてくださっていて、遅くまでいろいろとお話してくださった。その中で、何名の方が、「先生、お話の雰囲気が変わりましたね」と言ってくださった。ご住職からも同じようなことを聞いていた。

Img_6692「そうですか。実は、先日も、(ぎぎ)としておられました、言っていただきましたが、、」と返答すると、

Img_6688ええ。なんか頭の感じが変わられましたね」。

はーあ 見たままの雰囲気なのね。そんなオチいらないです。

|
|

仏書に親しむ会 ~二つのカサ~

「二つのカサ」を読む。二つのカサとは、

 まず一つは、「法をカサ」にきる。仏法は尊いのだと、そこへ腰を据えて、間違いがないんだと、のしかかってお話をする。いかにも知ったかぶり、受け売りは誰もがやりたい。医者は、一つ間違ったら患者の命取りになるから受け売りはしない。シロウトは、ちょっと自分の病気が治ったら、この薬や健康器をとすぐ人に勧めたがる。

 二番目は、「これは教義や知識で言ってるのと違って、わたしが体験したことだ」と、「体験をカサ」にきる。自分の通った道、その枠に相手をはめていこうとする。自分の体験を絶対視していく。
 
 でも、ご法は、どこまでも自身の往生で貫いていく。自信教人信といっても、まず自信が大切。その自信が教人信に転じても、やっぱり自分に聞かせてもらう。そこが抜けると、知ったかぶりの評論家になってしまう。

 また、自分にとっては絶対的な体験も、救っていただいた他力廻向の世界。それをありがたく頂戴するしかない。私と仏様の語り合いの世界に立ち帰ったなら、人に言わずにおれんわけだが、それすらも頂きもの。そこに立つことが、私が聞かせてもらう道ではないか。

 でも、ついついご法だけでなく、親が子供に言う時でも、自分の経験やあるいは育ててきたんだというところから話をしてしまう。でも子供はそういう説得調は大嫌いで、「うるさい」とはねつける。本当は、子供を通して、親が育てられねばならない。

 カサをはぎ取られたら、最後に私には何が残るのか。いよいよ哀れな自分しかないなあ、ええ格好をしておっても、全部はぎとられて、裸になって出掛けて行く後生しかないなあと味合わせてもらう。だから、人さまにお話をさせてもらうのも、今度は自分に聞かせてもらうという、行って帰るべき道、そんな回路をもらうことが大切だと。

   そんな要旨だった。

   それぞれ内省される方が多かった中で、Mさん(ご主人の方)がぽつりと言われた。

「わしは、体験も、法も、難しことも知らんので、かぶるカサがある方がうらやましいわ」と。
 

|
|

永代経法要~仏様の大芝居に参加する~

今年は日高支部がお当番。少数精鋭で頑張ってくださった。おかげでいいご法座となった。法座は、講師だけが頑張ってもダメだ。まず、運営をしたり、裏方で支える世話人の頑張りが大きい。お客さんばかりではダメなのである。さらには参詣の皆さんの熱情も大きく影響する。食い下がってでも聞く人がいると、話す方も力が入る。その意味では、真摯に法を求める方がおられることが、法座の生命線でもある。そして、信一念の覚悟の華鮮やかさも尊いが、信の相続もまた尊いのである。どうしても「聞いた」で卒業顔ばかりでは、法座が停滞してしまう。

その意味で今回の法座はよかった。先生方のご法話もそうだが、信仰体験発表の3名のお同行方の話がすばらしかった。ただよかったというのではなく、法への情熱を呼び起こす力があった。それは、ぼくだけでなく若手の講師方にも伝播していたのもよく分かった。

おかげで、その夜の懇親会は尊かった。20代の若い女性陣が真剣に法を聞こうとする。それに対して、しっかりと法を伝えたいという方もある。しかし、あわてる必要はない。相手の機を観ることも大切で、「欲しい、欲しい」に乗じるだけなら、つまならない喜びをつかませてしまう恐れがあるのだ。法を伝えるとは、相手を変えることではない。むしろ、変わらない自分を聞いてもらうことに意味がある。そこにほんとうにぶつかり涙したものだけが、ご法に出会えるのである。何か(大半の有り難いもの)をつかむのでも、無理強いの必要もない。お念仏だって強要する必要もない。絶対に聞けない自分に出会ったら、その機を逃さず、仏さまにぶつかって聞けばいいだけである。すると必要な方が必要な形で動いてくださるものだ。

今夜は、まさにそんなドラマが起こり、ある若い女性に本願が徹したようだ。

「私はもう聞けません。どうしたらいいのか分からない」と、泣き崩れて彼女はやってきた。ぼくには何もする力はない。ここは阿弥陀さまに相談する方しかないのである。それを促す。ただ機(人も時も)を逃さなかったら、次々と芝居のように出演者が現われてくださった。キーパーソンになった人もあれば、脇役もいた。また道化役もいた。そんな人達が、必要なことを必要なだけ働きかけてくださるのである。なかでも、親が子を拝んで頼む姿は、尊かった。まさに南無阿弥陀仏の姿を、凡夫が体現してくださったのである。しかし、彼女はいった。「いまの心のまま称えても嘘です」。「それは逆だ」とぼくはいった。「どこまでも私は嘘しかない。阿弥陀さままことしかない。私の心はどこまでも嘘。それが本当になって称えるのではなく、南無阿弥陀仏がまことなのだ」と。そんな言葉が届く時には届くのである。

虚仮不実の口から、真実の南無阿弥陀仏が止めどなく溢れ出した。一言も、お念仏を勧めなくても、自然と現われてくださる仕組みがここにはあるのだ。無理なく仏法が躍動する。皆さんも笑顔でお念仏されている。こんな大芝居の場に合わせてもらうことはなかなかない。南無阿弥陀仏

|
|

西光寺別修永代経

Img_6291 聖典講座を終えて、3日間の西光寺別修永代経に出講する。5座の法座がある。平日にも変わらず、昼座は60~70名のお参りがあった。夜座は雨風が強かったが、それでも30名近くの参詣があった。 

 熱心な方がおられる。夜座は、法話の後で座談会も持つことができる。それでも、少し億劫な気持ちになるのは、大半が聞法の焦点Img_6299が定まっていないことだ。先祖供養か心の平安や学びの場としてであって、なかな自Img_6322分の問題となるのは難しい。ましてや、後生の一大事を心をかけて、一念の廃立まで押し進めてくださる方がいかに稀かということである。

 それでも、お伝えしていかなければ意味Img_6319がない。しかし自分の伝えたいことだけを一方的に話しては、単なる一人よがりの自Img_6324己満足に終わってしまう。といって、ただ皆さんに合わせた話でが終わっては単なる迎合だ。その葛藤が常にあるのだ。もちろん一年に一度だけのご縁。その後のご教化の責任者はご住職なのだから、ぼくが責任を持つことではないが、せっかく長年のご縁を結んでいるのだから、少Img_6318しでも爪痕を残していきたいと思うので、なかなか難しい。

 打開策は、自分を開いて伝えていくしかない。率直に、いまの心境を表明をしてみる。ここの方々なら、きっと聞いてくださると思う気持ちはあったが、反響はそれほどなかった。「そんな難しく考えなくてもいいんじゃないですか。まるで哲学者のように悩み必要はありませんよ」とアドバイスくださり、「私は残された人生、夫婦円満で、少しでも善いことをし、仏さまに恥じないような生活をしていければそれだけでいい。難しいことは何も考えません」とのお声と聞くと、なんとなく寂しくなる。

 それでも、率直に、3日間の法座を、自分を偽らず過ごすさせていただいた。夜座は座談会までもたせてもらい、その後の懇親会でも皆様の一言を頂いた。中には、父と子の長年の確執が一触即発の緊迫した場面まで起こってきた。こんなご縁をなかなかお目にかかれない。そこでも感じたが、誰かを変えようとか、動かしたりすることは、おこがましいことである。ただ柔軟交えながらも、自分の譲れないことは譲らず、精一杯やらせていただく以外に道はないという、当たり前のことに帰らせてもらった。

 おかげで帰路には、ちょっと元気も頂きました。


 

|
|

華光誌輪読法座

華光誌輪読法座。平日で、メンバーが固定してきた。人数も少なかったが、継続して続いていることだけが、うれしい。

「巻頭言」と「聖教のこころ」を読む。

 この顔ぶれだは、輪読で読解力を深め、より深く内容を理解しようというよりも、読んだ言葉(用語)に刺激を受けて、自分の持ってきた話題をどんどん展開するということが楽しいようだ。だから、いつもちょっと置いてきぼりになるのは致し方なしだ。

「門徒物知らず」読む。

 これは先の年忌法要でも感じたことだが、正しいことを押しつけて、そこだけに固執するのでも、また相手に合わせて妥協し、口をつぐむのでもない、両者の隘路(細い厳しい道)を進む第3の道を模索することが、念仏者として生きるぼくの証だと思っているのだ。その点をもう少し分かち合いたかったが、最後のところで「厳しいなー」と声をいただいただけでも、満足せねばなりまい。

|
|

年忌法要

今日は一日いろいろと多忙だった。朝からRさんと永代経の打ち合わせをしたが、夕方からはYさんと会計月次、そして本典の勉強会もする。これらぼくも勉強になっている。そして、すぐに今夜は年忌法要があった。

ご縁があって、同人方での初めての年忌法要だ。嵯峨大覚寺の方面。同じ京都でも、このあたりはご縁が少ないので、有名な寺院や大本山を横目に進んだが、慣れない雨の夜道に少し時間がかかった。

ご家族の方とはご縁があるが、施主様とは初めてである。ここに到るまで紆余曲折があったが、複雑な件は置いておいて、一度の法供養という形でお受けすることすることにした。同じ浄土真宗てはあるが宗派が違うので法名も違うのには驚いた。

愛する家族が亡くなって、どのようにおまつりするのか。浄土真宗では絶対にこうしなけば祟られるとか、成仏しないとかといった決まり事はまったくない。その意味では、ご遺族が気に済むように行われればいいのである。

しかし、教えとしての浄土真宗は、阿弥陀如来一仏、決して故人を拝むのでも、遺影や位牌、遺骨を供養するのでないことはハッキリしている。亡き方をご縁として、残されたものが聴聞される場なのである。だから故人的に遺影や位牌を拝むことには抵抗がある。

が、一方で、残された方がほんとうに納得されないかぎり押しける気はない。ご本人が気が済むようにおまつりをする以外にはないのだが、ただそれだけならぼくの役割はないので、なんとかご縁を結んでいただきたいというわけである。

仏壇や礼拝の形から入るの大切だ、という先生もおられるのだが、ぼくは、信にめざめたならば、そこからハッキリすると思っているので、まずはどんな形でもご聴聞の縁を結ばねばという姿勢で臨んでいる。それがいいのか悪いのかは分からないがいただいたご縁は大切にしたい。

 

|
|

金沢での北陸支部法座

金沢での北陸支部法座。

初日の昼座、顔ぶれをみて驚いた。福井、石川、富山、新潟と地域は同じだが、長年のご縁の方の参加がなく、ここ数年の間にご縁きできた方々ばかりだ。同人会員も、半数強いくらいというから、運営はたいへんだろう。しかしこれからの可能性はあるということになる。

初めてお会いする方も数名あったので、冒頭、一言ずつお声をいただいた。その中で、「ある方と、19願、20願、18願の三願転入のことで、本願の順番という話題かでた。ぜひそのことをお聞きしたい」との要望がでる。予定はなかったが、聖典講座やあるお寺の寺報に書いている話題なので、お話申すことにした。ただ、皆さんのお手許に資料を配れなかったのが残念だったが、第1願から11願、そして第12願から20願、さらに21、22願までを、その次第や展開を少し詳しく申し上げた。

結局、日頃、本願とか四十八願といっても、皆さんがご存じなのは、五願開示の11、12、13、17、18と、22願、さらに19、20願ぐらいまで。それも、18願や19願の内容を精査されているわけでもない。ただ何となく聞いている程度で、ましてやその他の願になると、何もご存じなかった。

特に国中に生まれた人天に誓われるところから始まる1~11願のおこころ。それを実現させるための12~20願のおこころ、さらには、18、19、20願の意味と、17願がなぜ「行」なのかなどなど、とにかく盛り沢山の内容になった。おかげで、昼座の座談会の時間は短くなったが、「本願のこころを聞く」といっても、いかに上滑りでしかとられていないかを聞いてもらえるいい機会となったようだ。もっとも四十八願を覚えたからと言って、御心に触れなけらば意味のないことは言うまでもない。

|
|

厳しい言葉

 「仏書を読む会」は、悟朗先生の「二つのカサ」。編集段階で何度も読んでいる。そもそもの華光誌作製中にも、法話をまとめたのはぼくなのだが、もう忘れている。小冊子編集段階で何度も読んでいても、こうしてみんなと輪読するのとは訳が違う。

           お釈迦様のお小言
  でも、このお小言だけで済むかというと、もう一つある。それは聞いたような顔をして、聞いていない心が腹底にないか。疑うとるやつがあるじゃないかという「信と疑い」のお小言が、最後に出て来るんです。他宗では問題にしないが、真宗では、ここが命とりです。単に悪人だといってお小言があるのではなくて、悪人なるがゆえに救わずにはおかんのだということを、「私でございましたか」と受けないから叱られるのです。それを聞かせてもらったら、こんな尊く、優しく、もったいないことはないのだが、たいていの人は、善悪の世界に止まってしまう。だから、罪悪や無常がわかりさえすれば、信心だと思っている。浅ましい私のための如来様のご苦労でしたかと、自分の都合のよいところに如来様をひきずりおろしてきておるだけです。ほとんどがそうなっておりますね。まあ、ここでは、仏様には、慈悲だけでなく智慧の面があるということをお話をしておきます。

 厳しいお言葉である。

 皆さんはどう味わわれたのか。このところはよく理解できているのかを何度も尋ねてみたが、ほとんど反応はなかった。

 でもうやむやにしてはならないところだ。大半が、その程度の信仰で終わっているということなおだから・・・。

「たいていの人は、善悪の世界に止まってしまう。だから、罪悪や無常がわかりさえすれば、信心だと思っている。浅ましい私のための如来様のご苦労でしたかと、自分の都合のよいところに如来様をひきずりおろしてきておるだけです。ほとんどがそうなっておりますね。」

|
|

年忌家庭法座

恒例のF家の年忌を兼ねた家庭法座。対象は、同人のご家族と、親戚の方。

もう10数年続いてる。皆さんと顔見知りになってきた。それでも一足飛びにはいかない。口に出して「南無阿弥陀仏」と念仏を申すことを何度も話して始まったが、今では、共に「正信偈」とお勤めし、お念仏を申してくださるまでにはなっている。

親戚は高齢の方なので、恒例の法話もわかりやすい話に努めている。今回は、阿弥陀さまの差別のない本願のお心を、お釈迦さまのエピソードを交えてお伝え申し上げた。法話は20、30分程度だが、難しくなかったと思う。福岡でも課題にしているところだか、短いご法話ならわかりやすいお話をすることができる。これは長年、日曜学校や子供大会の経験をさせてもらったことで、仏典の逸話などを中心にしているからだ。

最後は、四方山話になったが、迷信や俗信を気にされているとこもある。こちらはしっかりご聴聞いただけばいいので、これを聞けたのもご縁である。

 

|
|

九州支部法座~課題~

Img_6005岡での支部法座。今回は、Y家の家庭法座ではなく、A家の新装になったご自宅が法座会場だ。以前、お店にマンション用のビルを建てられて、その最上階が会場なので、とにかく展望がすばらしかった。

快晴なのに、今日も新幹線は遅れた。前回の広島は帰路だったが、今回は行きなので気分は焦る。無携帯のぼくが唯一不便に思う時である。まだ新幹線の車内は公衆電話があるので、助かる。それでも車内電話からは通じない携帯もあるので、会館経由の伝言ゲームが続いて逆にやきもきすることになった。結局は30分の遅れで到着。予定通りバスに乗って会場へに向かったが、10分ほどの遅刻で助かった。

今回は常連が欠席で、初参加者が二人おられた。一人が学生さんで、もともとお店のバイトの方。もう一人は、新婚でご縁を結んでくださっている。お二人とも、浄土真宗も、仏教も聞いたことがないという方であるが、その意味では、もっともっとかみ砕いたお話をしないといけないと反省した。それでも、翌日もまた来てくださったのがうれしかった。前回の誌上法話にも触れたが、ただわかりやすいというだけでは、何も残らない可能性がある。常識で終わったり、いままで持っておられた宗教観(だいたい世間的な)をなぞるだけなら、初めての聞法の意味が薄くなる。もちろん、自分で何かテーマを持ってこられた場合は、そこを尋ねていけばいいのだが、知人や家族に誘われたケースはなかなか難しい。今回は後者なのだが、イヤイヤではなく、積極的に参加くださったことは、うれしかった。どこまでご理解いただいたかは別にして、あとは連れてきてくださった方にサポートしてもらいながら、次のご縁を結んでもらえればうれしい。

ぼくも課題にして勉強していきたい。

|
|

より以前の記事一覧