カテゴリー「法座と聞法」の760件の記事

支部長研修会

   今年の支部長研修会は、各支部からの報告に加えて、講話と「念仏の雄叫び」の輪読を行った。また、11月の華光大会での伊藤康善先生の五〇回忌法要と増井悟朗師の三回忌と併修して行うが、その企画について相談である。

 講話は、アメリカ布教で感じたことが中心。なぜ、英語で法話もできないぼくが、わざわざアメリカ法座に招かれるのかのである。とりになおさず、伊藤先生から流れ、増井先生とつながる法脈がなることだ。直接的には、増井先生から面授口伝された同行の上に、まだご法がいきいきと生きているからだ。真摯な聞法者、求道者を前にすると、私達が華光に集っているということは、どんな意義があるのか。また、これまで華光の法座が何を大切にしてきたのか、そして、それをお前はどう領解しているのかが、問われる結果となるのだ。

 華光会といっても、浄土真宗の流れを汲むもだ。本願寺派の教義の上での、差異はあまりないといっていい。聖道自力の教えやキリスト教などの他宗と比較するならば、それは歴然だ。にも関わらず、わざわざ私達が遠近各地から集ってくるのは、なぜなのか。また、共に聞法していた方が、阿弥陀さまのお慈悲の有り難い話に引かれて、疎遠となっていく方も多くなっている。一番、大切な華光の特色を、私達が疎かにしているということはないのだろうか。

 改めて、伊藤康善先生が『仏敵』を著し、それに接して驚きが立った同行が集い、草の根的な信仰活動が、先生亡き後も50年も継続して続いてきた(華光誌創刊からは76年も)わこである。その意義とは、その精神を問う機会としたかったのだ。

 ということも含めて、先達たちが著してくださった『安心調べ』『仏敵』、そして『親指のふし』に触れながら講話させてもらった。

 また翌日には、『念仏の雄叫び』を輪読。その中の一章「救済(ぐさい)の予定概念」をとりあげた。三つの心、特に「暗い心」=自力計度(けたく)の心について、小賢しい働きについて詳しい。しかもこれは、他力廻向の信の一念破れる心だ。その信疑廃立の水際を立てて聴聞するのが、華光に流れるもっとも大切な伝統だと言っていい。その意味でも、今回の五十回忌と三回忌の集いは、タイムリーな企画となろだろう。しっかり準備をしていきたい。

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広島支部大会~十重二重のご因縁~

Img_1519  6月は宿泊での広島支部大会である。「大会」と書いたがそれは以前のことで、今は、普通に支部の宿泊法座だろうが、以前は、そんな意識が広島の皆さんにあったと思う。宿泊だが広島の方が中心。最近、島根の方のお参りが少ないのが気にかかる。

 知らない顔はなかったが、最初は、改めて華光とのご縁のところ、また今の課題を出し合った。先月も感じたが、このところ広島支部のImg_1527座談会は、なかなかいい感じになっている。

 法話は、アメリカでの家庭法座で感じたことを中心に聞いてもらった。ぼくの中で、今回のアメリカでの法座のご縁は、かなり大きな転機になりそうな予感がしているのだ。

Img_1533 しかも今回のアメリカ法座は、広島支部との関係もかなり深い。法座に集まった方の大半は、広島出身の方が多かった。それだけではない。もともと、華光の広島支部の出発点のご縁と、今回のアメリカ法座の出発点のご縁は、まったく同じ先生のご教化によるご兄弟が、そのルーツになっているからだ。

Img_1531 先生の名は、羽栗行道師。アリメカで開教師として活躍されているが、罪悪観の徹底することで、ほんとうの自己に出会うことを、具体的にまた鋭く説かれた名師である。

 その先生にアメリカで出会われたのが、広島から開拓のために渡米されていた「武一氏」である。この一大事のご法を、家族や親戚縁者に伝えるために、羽栗先生の帰国と一緒に、日本に戻られたのでImg_1516ある。その後、武一氏のお子さんも仏法を聞く身となられて、全員、華光とのご縁を結ばれている。広島だけでなく、奈良や東京に移られたのちも、ご縁は途絶えることはなく続いている。そのお子さん(武一さんからはお孫さん)が、今回の法座に参加されている(つまりクライドさんとはハトコになる)。今は、お孫さんから曾孫さんへ。さらには玄孫(やしゃご)へと、ご縁はつながっているのだ。実は、この関係は、一昨年の広島廿日市での壮年の集いで、詳しくお聞きしたのだ。

 そしてその「武一氏」の弟にあたるのが、アメリカの「米一氏」である。そのお子さんたちも、アメリカで仏法を相続されて、皆さんが華光とのご縁を結んでくださったのである。今回は、米一さんのお孫さん(長女、長男、三男の方)のそれぞれのお子さんとその連れ合い、さらには曾孫さんにあたる皆さんが、法座に集ってくださった。こちらも、お孫さん、曾孫さん、さらには玄孫(やしゃご)へと、ご縁がつながっていこうとしているのだ。

 そう考えると、日米と地域は異なるが、まったく相似形のような形で仏法相続されている、なんとも不思議な稀なる一族である。

 それは、皆さんだけではない。羽栗先生から皮切りに、伊藤康善先生、そして父でもある増井悟朗師とご縁がつながって、いまのぼくがここでご法縁を結ばせてもらっているのだから、これもまたなんとも有り難い、不思議なご因縁である。

 これは目に見えて遡れるだけでも、十重二重のご因縁の賜物なのであるが、過去世からのご因縁を心馳せたなら、まさに「遠く宿縁を慶べ」としかいいようがないのだろう。すべて、阿弥陀さまのご執念によるものにほかならないのだ。

 緑に囲まれた会場の神田山荘には、終始、ウグイスの声が響きわたっている。「ホーホケキョ」-「法、聞けよ」の呼び声である。まるで浄土にあって六鳥の説法の声のようだった。
 

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アメリカ布教

Img_0301  週末の2日間の「真宗法座の集い」を終えて翌日からアメリカ布教に出かけた。

 2度目のアメリカ。約30年ぶりだ。今回は10日間だけの短いものだが、無事帰国した。

 サンフランシスコ郊外、シリコンバリーと称されて発展しているサンノゼ近郊の街でのK家の家庭法座である。Kご夫婦でお招きいただき、何から何までご負担いたき、またお世話もいただいた。法座の前には、観光にも連れてImg_1497いってくださった。

 1年半ほど前、京都でKご夫妻と食事中に、お話をいただいた。ぼくも、連れ合いも英語はダメで、参加者には日本語が苦手な人もあるので、その点での不安はあったが、お二人にかなりの思い入れがあったので、喜んでお引き受けした。

 慣れない準備は、さぞたいへんであっただろう。事前準備や呼びかけにも苦労されたようだ。法座が始まれば、3日間の間、参加の食事もいろいろと考えてくださっていた。

 言葉の壁があるので、何度もスカイプで打ち合わせをしたり、ぼく自身もいろいろと工夫して望みことにした。少し話してみなければ、皆さんの反応はわからない。教案もいろいろと持っていったが、その場で修正していくという意味では、少し出たところ勝負という感もあったが、それはそれで面白い。

 結果、ほんとうにいい法座となった。ぼく自身も大きな刺激をいただいた。

 それはぼくの力だけではない。参加の皆さんの姿勢にもよるところが大きいし、一番に、ぼくたちを招聘し、お世話くださったKご一家のご尽力のたまものである。改めて御礼申し上げたい。
 さらには、目には目えないが、何十年にもわたり訪米し、布教してきた父の力があったことだ。父の蒔いた法のタネが、次ぎの世代、また次ぎの世代へと受け継がれていたからである。そのことを実感させていただいただけでも、大きな成果だったのである。

 ボチボチと法座のことだけでなく、観光させていただいたことなど、旅を振りかえて触れていきたい。 

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寺院布教

Img_0280   大阪西成の本派寺院への3年続けての出講。電車で行って、父の故郷である芦原橋駅周辺をプラプラしながら、歩いてお寺まで向かう。

 こじんまりした本堂。昨年、少しワークをやり、そのあとのやりとりがまだ頭に残っていた。

   Img_0297一方的に説教する布教法は、もうとうに限界に達している。結局、知識(正しい教義)のやりとりか、阿弥陀仏の慈悲を、先祖や親(亡き人)をホトケとして、その慈愛に共振させるような感情的な説法が幅を利かしている。かといって、話し合い法座と銘打っても、手詰まりなのが現実だ。さまざまなワークができても、その後の手立てが分からないのが、今日の浄土真宗の現実ではないだろうか。結局、法要と法話の2本立てから、脱することはできていない。

Img_0282 人数も20名以下と手頃、今回は、おもいきって法話はせずに、こちらからの質問を通して、皆さんに答えていただくことから始まった。まずは、そのご心境、聞きぶりをお尋ねしてみたかった。
 
「浄土真宗で一番たつせんなことはなんですか」と尋ねても、亡くなった両親や連れ合いの供養を縁に、お仏壇を大切にし、お給仕を怠らず、そして感謝の日暮らしをする。そこに「お念仏を申す」とい方がひとりだけあったが、それ以外は、だいたい先祖供養の信仰から出ておられない。それでも、素朴ながらも純粋な気持ちであることには変わらないし、そのことを通じて、何かに触れておられるのも事実である。ただ、そこを一歩Img_0290超えて聴く、自分の問題として聴聞することは、簡単なようで、その壁を破ることが難しい。
 
 そして夜座は、最初から車座になって法話はまったくなし。つながりの中で、自分を問うてもらいたかった。自己紹介ゲームをしたが、これがたいへん好評だった。笑い声が交わり、楽しくワークをしてくださった。顔は知っていても、会釈する程度でも、横のつながりが希薄だったというのだ。

Img_0287 そこから、お寺とのご縁を語り、そしていまの自分の悩みや、課題を語っていただくことにした。みんな、イキイキとお話をくださった。それぞれの縁があり、また悩みをもっておられるということだ。信仰の上のことはあまりでなかったが、ひとりある孤独感や不安を、率直に話してくださったのが印象的。みんな、温かいつながりを求めておられるのである。受容的な雰囲気の中で、率直な自分を語っていただけて、よかった。正解を聞いて覚えても、そこにはイキイキとしたいのちが宿っていないと意味はない。

 ひとりひとりの眼をしっかり見て、話を聞くうちに、それぞれがかけがえいない、大切なひとりひとりであると味わるから、不思議。最後に皆さんと、声に出してお念仏を申した。

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高山支部法座

初日の参加者は寂しかったが、2日目は、富山や長野からの初参加者がある。別院からも僧侶の方が2度目のお参り。最高齢は100歳。しっかり座談でも発言される。そして、若い(学生世代)方が、熱心に聞いてくれるものだからエネルギーとなった。外からの参加者のおかげで、いい座談会になったようだ。

 いつものことだが、座談会を苦手とされている。しかし今回は、フリーではなく、テーマを設けて尋ねた。たとえば「浄土真宗で一番大切なものはなんですか」とか、「ご自分の聞法のきっかけを教えてください」。そして、「いまのご自分の悩み、困っていることでも、もしくは課題にしているを教えてください」という問うていくのだ。

 これが予想以上に活発でよかった。

 高山支部が出来て20数年経過したが、その歴史を聞いているようで、その間にも、実にさまざまな出会いがあり、そして別れがあり、ご縁があったことを改めて教えられた。

   また、それぞれが、それぞれの業を抱えて、つらい現実と向き合っている姿も尊かった。日頃、冷静な熟年の男性が、家族の問題で、肩を震わせて、声詰まらせながら、自分の悩みを率直に語ったくださる方の姿には感動もした。

 ただ、高山の皆さんの課題は、その後の分かち合い(シェーアリング)になると、どんよりした空気になることだ。ここは単純に、「面白かった」とか「話しやすかった」とか、「みんなが近くに感じられた」といった程度の感想でいいのだけれども、どこか身構えられている。いいことを、立派なことを言わねばないという思いが強すぎるのかもしれない。ほんとうに一言でもいい、単純でもいいので、いま、みんなで体験し、経験したことを、率直にその気持ちや思いを分かち合い、共感することができるならば、さらに一層、皆さん同士が、お互いを近く、ますますかけがえのない存在として尊重できるのではないだろうか。

 これは次回の課題に!

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尊かった信仰体験発表

 今回の信仰体験発表は、いろいろな意味で刺激的であった。

 それぞれの人生体験が、まるで小説や映画のような壮絶なものばかりで、驚きの連続。ある方が、「やっと自分を解放をしていいと思えました」と、これまで封印されていた壮絶な歩みを淡々と語ってくださったのも、有り難かった。どこかでご自分を責めておらもたのかもしれない。

 悟朗先生から、「真宗のお法りは、人生経験や苦労をしたから聞けるというものではない。仏法は人生経験を超えた世界です」と、常々お聞きしている。そのとおりで、苦労しているから聞けるというものではない。往々にして、現世利益の新興宗教に傾く方も多い。それでも、ここに集う人々は、その辛さ、逆縁が、仏法に向かう強縁となったのであるから、尊いことである。

 中には、「一念のところがハッキリしていない」という指摘があったようだ。そう教えてくださるもの有り難い。ただ何かハッキリしたものを握って停まる人よりも、道を求めて歩み続けることの尊さを味わうようになった。

 皆さん、凡夫ではあるが、道を求めて歩み続ける尊き人々である。お一人お一人に合掌せずにはおれなかった。

 

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収穫のあった寺院布教

Img_0050 2年半ぶりに西光寺の法座にお招きいただく。春の別修永代経法要は3日間の法座、これは5年ぶりだ。5年前に、この法座で連れ合いと出会ったのだから、その意味では懐かしい。今回も夫婦でお邪魔することになった。彼女は飲み要員でもある。2日間、何時まで付き合えて、かつ法話でも居眠りしないという、耐久聞法(?)である。

Img_0064  今回は「イキイキした法座を共に創造しよう」を大きなテーマに、「何を、どう、何故、聞くのか」を問う法話を考えた。一方通行ではなく、皆さんとも交流しながら、深めていく法座にしたかった。

Img_0061 今年は初日が日曜日だったので、大勢のお参りだ。それでもこちらからいろいろと質問しながら、その出てきた答えにそって話を膨らませていった。「浄土真宗では一番何が大切だと思いますか」とか、「何故、聞法しておられるですか」とか、「何を聞かせていただくのですか」といった具合、大きな問いをだす。思った以上に皆さんが、答えてくださった。ご住職も、易しい一言のImg_0078_2言葉で答えてくださる。そこからまた皆さんが反応されるという具合で、そこを受けたり、膨らませたりしながら進行した。後席は、それを含めて法話するという具合だった。

Img_9992 夜座は法話をせずに、いきなり車座になり、自分を語るテーマでの座談会にした。人数は減ったが、両日とも30名ぐらいはおられた。
 華光の集いなら躊躇はないが、知らない方もあるので戸惑いはImg_9994あったが、これまでのご住職との信頼関係や仲間もおられるので、場を信じることにした。

「あなたのお寺との出会い、ご縁を教えてください」
「いま、何を課題に、もしくはどんなテーマをもってお参りにきておられますか」などである。

Img_9991 これがまた面白かった。7、8名のお坊さん、ご住職方も4、5名交じっておられる。その方と、初めて参加される方も一緒になり、丸く座って、同じ問いに真剣に答え立てくださった。

 門徒さんの中には、焦点を定めてご法を喜ぶ方がおられる。父のご示談でお念仏を申される身になられた方もある。今回も、「お父様のご法話は忘れません」「ずいぶんお育てをうけてきました」とか、「ほんとうに有り難かったです」など、複数の方からお声をかけてくださった。ただお名前とお顔が一致するのは数名だけだ。少しはお顔だけは覚えている人もいるが、初めてお目にかかる方も多い。それでも、おかげで皆さんと一層、親しくなった気がした。2日目の夜座では、お一人お一人がとても大切な御方に思えて、最後にお念仏のワークで締めくくった。

 一方的な法話でなくても、こんな形で寺院布教ができることが、ぼくにとっても大きな収穫となった。もちろん、これまでのお育てや、ご住職が示されたブレない方針が下地になっていることはいうまでもないが、これからの伝道布教の大きなヒントになった。ありがとうございました。
 

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バー ジョンアップ~4月の東京支部法座~

Img_9615  4月の東京支部法座。あいにくの天気である。

  全国でもいち早く桜が開花した東京はもう散り始めているが、まだ会場までの公園の桜がきれいだった。長持ちである。

Img_9612 支部長さんが交代し、急遽、支部法座が年6回の予定が、毎月行われるようになった。意欲的なのは結構だか、参加者はたいへんなのかもしれない。その余波か、初日のお参りはこれまでになく少なく、お泊まりも最低人数とちょっびり寂しかった。

 それならば、少人数ならではのことをやりたかった。歎異抄14章の用意もあったが、皆さんに計って、昼座も夜座も通して座談会をおこなう。といってもフリーな非構成なものではなく、指向性をもった、テーマを設けた座談形式だ。
 福岡では導入程度のつもりだったが、盛り上がって一座が、それだで終わった。それで、初めての方が多かった北陸法座でも行ったら、時間内で最後まで終わらない程、活発であった。その直後には、予想外の方が、5月の「真宗法座の集い」を申し込まれて、びっくりした。

 ということで、今回は、かなり確信をもちながら進めることができた。丸1日を3つのテーマでの語らいで通すところまで、バージョンアップしてきたのである。
  
 10名足らずと人数も手頃、顔見知りばかりで、緊張や構えが少ないということも、幸いした。

(1)なぜ、ここ(華光の集い)に参加されるようになったのか。その出会いと、ご因縁(特に外縁)を具体的に語る。
(2)では、なぜ聞法を続けようと思われたのか。その内なる動機。正解ではなく、ほんとうの内にある動機を、具体的に語る。
(3)いま、私の課題、問題点、悩みなどについて、率直なところで語る。

 というもので、それぞれを順番に語り、その後で分かち合うということを、3回に渡って行った。ぼくも、一参加者として、華光との出会い、なぜ聞法に興味をもち、どんな内なる動きがあったのかも、そして、いま、僕自身の課題も、率直なところを聞いていただいた。

 それにしても、皆さんのことを全然わかっていなかったんだな、と思わされた。何十年もおつきあいのある方のことでも、新たに聞かせていたただくことが多くあり、驚いた。結局、人のことは知っているようで、何も分かっていないのだという当たり前のことに気付かされた。
 そして、リラックスして、といって雑談や飲み会ではなく、しっかりと自分を開いて語っていただくことが、その方にとっても収穫があるが、同時に、それが皆さんにも還元されて、法話を聞くのとはまた一味違う、それぞれからご法を聞かせていただくように感じられた。

 これからも機会があれば、さらに工夫しながら勧めていこうと思います。

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新潟・北陸支部法座

Img_9185  ちょうど一年ぶりの新潟・北陸支部法座だ。

 昨年の法座と同じ2日は、桜が満開だったが、今年はまだ蕾で、一輪も咲いていなかった。それでも、ここからの眺めは美しい。浅野川の流れに、遠く白山の山々が眺望できる。

Img_9191 新年度の初日ということで、ちょっと参加者は少なめだったが、初めてお会いする方が4名おられた。皆さん、真剣に聞いてくださる。また、法座の雰囲気や、法話内容にが新鮮で、かなり驚かれたようだ。特に2日目の朝座は、座談会で通して、温かいいい法座となった。

Img_9197 テーマは、何を、どう、聞くのか。特に、何を聞くのかをメーンに、2席お話した。

 親鸞さまは、成就文の「聞其名号」の「聞」をご解釈されて、「仏願の生起本末を聞いて」(信巻)と仰った。
 一方、蓮如さまは、同じく「聞其名号」から、「南無阿弥陀仏の六字のいわれをよくききひらき)(3-6通)と仰った。

 つまり、親鸞さまは「仏願(本願)の生起本末」、蓮如さまは「南無阿弥陀仏の六字のいわれ」と言われた。これは同じことなのか、それとも異なることなのか。もし同じとするならば、本願と南無阿弥陀仏は、どんな関係になるのか。あらためて問われてみると、皆さん、戸惑われる方が多かった。

 中には、「本願が親で、名号が子です」といわれた方もあった。それで、「親子ならば、悟朗先生が本願で、ぼくが名号になりますよ。親子といえども、まったく人格が違うのですが、本願と名号もそうなんですか」と言うと、困っておられる。どうやら、娘(名号)-嫁(信心)-子(称名)の法話と混乱されているのだろう。

 よくご聴聞されている方なら、当たり前になりすぎて、あらためて問われると困るようだ。

 そこで、(こんな言葉あるのかどうか知らないが)「法格の上では、本願と名号になりますが、人格(正確に仏格)的には、どうですか」。と尋ねると、「本願」は法蔵菩薩、「名号」は阿弥陀さまです、お答えができる。そこではっきりしてくる。お正信偈でいうならば、本願は「法蔵菩薩因位時」。つまり、因位にある時が本願。それが成就し果上でいうならば、名号となる。決して、別人格の親子ではないので、そこをお正信偈で確かめていくと、皆さん、深く頷かれる。

 そんな風に、ひとつひとつ確認しながら、「生起」とは、「本」とは、「末」とは、、そして六字も、二字と四字に分けて、丁寧にお話もうした。いつも聞かれていることだろうが、あらためて阿弥陀様の大悲のお心を新鮮に聞いていただけたのではないだろうか。Img_3536
       昨年4月1日のさくら
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福岡法座での分かち合う

  博多は、「しゃぶしゃぶ・あり田」での九州支部法座。

 初日の法座は、導入の法話はせずに、いきなり分かち合いから入った。

といっても、テーマを設けたほうが、話題も出で活性化されると思ったので、
1、「それぞれの仏法とのご縁」(最初のお誘いのきっかけなので外側)、
2、(なぜ聞法しようと思ったのか)「内なる動機」
3、「いまの私の課題、悩み、問題点」など

の3つである。15名ほど、スッスと進むかと思ったら、皆さんが雄弁に語る方が多くて、1、2が終わったころで、もう100分は立っている。休憩を挟み、3、課題を一口ずつお尋ねしていった。

これだけ長くなるとは思わなかったが、一人として同じものはないのが面白い。しかも、「正解」がある問いではないので、皆さん、イキイキとお話くださった。同時に、3の課題一つでも、それぞれの人柄とか、もしくはそれぞれのいまの立場や聞法の姿勢が、すっと立ち上がってくるようでよかったのではないか。

また、2にしても、それぞれが異なるのがいい。中でも、
 「自由に成りたい。開放されたい」という願いから聞法された方が、世間の業は逃れれないが、しかし、ご法の上で自由自在になることを知らされたとか、
 また「ほんとうのこと、真実か聞き方という方」は、そこで、「お前は虚仮不実で、まことはない」と指されている真実に出会われたが、ほんとうのことが知ってうれしかった、という話しなどが印象に残った。

 ぼく自身は、死ぬことの不安が大きい。加えて、何不自由ない恵まれた人生を歩ませてもらってきたが、常に一人というのか、空しさを感じてた青年期の孤独感が、聞法の大きなきっかけになったことをお話させてもらった。

 昼座は、たっぷり話し合って、まるで法話を聞くようでもあったし、密度が濃くなって、けっこう聞くのも疲れたが、有意義な分かち合いになったのではないだろうか。

 

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