カテゴリー「書籍・雑誌」の54件の記事

今週の多彩な学び

  学びという意味では、充実した一週間だった。
 
  3日連続(2、3、4日)で、仏教講座を受講し、仏教講演を聴講した。週末(6日)には、仏教カウンセリングWSにも参加する。

 一つ目の講義は、永観律師の『往生拾因』の講読の3回目。第一章の念仏を疑う者との問答の部分で、最後は、「疑い」と諸仏と「證誠」のくだりは、人間の浅はかな知恵では仏智計らえないという点でも、有り難かった。

 翌日の講演は、本派の宗学院の公開講演で、苫米地誠一先生の「密教浄土教と阿弥陀如来像」と題して。未知の分野だが、前日に聞いた、法然聖人以前の南都(三論宗で、東密も学ばれている)念仏者である永観律師の思想に通ずる部分があって、重ねて勉強になった。

 もう一つの講義は、哲学者でもある佛大講師の西本明央先生の「仏身論の展開の中に見る「仏の慈悲」と題して、3回シリーズの第1回目。西本先生は、西洋哲学などの切り口からのお話で、いつ聞いても面白いと思うのだが、今日は、かなり総花的で、寄り道も多かった。でも「見仏と善知識と、仏の慈悲」のくだりは、興味があった。

 合わせて、今週は、1日~5日の5日連続で映画を見た。

 インド映画の「SANJU(サンジュ)」。

 アメリカ映画の「ハッピー・デス・ディ」。

 インドネシア映画「マルリナの明日」。

 日本映画は「新聞記者」。

 そして、イタリアなど合作の「君の名前で僕を読んで」。

の5本。いつもながら映画も、見放しで終わっているのが、ちょっと勿体なくもある。最後の「君の名前で僕を読んで」は繊細すぎるのと、苦手な分野(LGBTのGの世界)なので、乗り切れなかった以外は、かなり面白い映画が続いた。これだけ「あたり」の続く週は、珍しい。中でも、予定外のホラー(といよりサスペンス)コメディーの「ハッピー・デス・ディ」は、かなり笑った。続演も楽しみ。

 読書は、谷書店で仏書を2冊(涅槃経と、大経「下巻」の解説)を買ったが、読んだのは『修験道としての生き方』。「インドの集い」でご一緒した、聖護院門跡の宮城泰年師他の対談だ。まったく知らない世界で、とても新鮮。刺激もいただく。

 法座は、「仏書に親しむ会」があり、『仏敵』を読みだしたことは、すでに触れた。

 完全に、アウトブットよりインプットが多かった1週間。
 発信する方は、日曜日の聖典講座の準備をした。いろいろと聞いたり読んだりしても、自分が発言せねばならないとなると、これが一番の勉強になる。レジュメを作るには、繰り返し繰り返し、読まないといけない。ある意味、本気である。

 

|

2018年は206本

今年はもずいぶん映画館に通った。

今年は、1月3日に京都シネマで、アメリカ映画の『ギフト~僕が君に残せるもの』(元NFLのスターアメスト選手が、ALSという徐々に筋肉が萎縮して硬直していく難病になり、生まれてくる子供に向けてのビデオメッセージ)と、
ドイツ映画の『わすれな草』(こちらは、自立してたインテルの夫婦が、妻の認知症によってその関係性変わっていく姿を、実の息子がカメラにおさめたもの。夫婦って何? 人間の尊厳って?と、考えさせられる)の、なぜか、海外ドキュメタンリー2本に始まった。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2018/01/post-30b0.html

12月29日には、スペイン~アルゼンチン映画の『家(うち)に帰ろう』(アルゼンチンに住む、かなり頑固な老仕立屋が、子供たちに老人ホームに入れられ、悪い足も切られることになるが、それを逃れてポーランドへ脱走、そこでさまざまの出会いのなかで、彼の過去明らかになる、ホロコースト生き残り感動作。ラストは、甘いが惜しいが、再会シーンは泪)と、

アメリカ映画の『ウィンド・リバー』(ハリウッドのすっきり謎解きサスペンスと思っていたら、ネイティブアメリカンや、特に女性の置かれた差別や厳しい現実が背景にある社会派サスペンス。悪くはなかった)で終わった。

 206本を映画館で鑑賞した。これで3年連続での200超えである。面白いと思ったり、刺激をもらったものもおおかったが、なかなかここにアップできなず、下書きのまま時期を逃すということが多かった。法座関係のものが停滞した影響を受けている。来年は、もう少し映画や本のことも発信していきたい。

 対照的に、相変わらず読書量は少ない。こちらは、たった18冊ほどで、昨年よりは若干増えた程度だ。ただ、直接、講演や講義を聞いた先生のものが多くて、年初めは、心理学者の泉谷閑示氏のもの、中旬は、並河~平岡聡先生の師弟関係にある仏教関係のものを読んだし、秋からは白井聡氏や、関連の政治関係のものを読んでいる。
映画を押さえてでも、もう少し読書をしたほうがいいなーと思っている。それでもこの年になって勉強が面白くなって、講義や講演には、定期的に出かけて刺激をもらっている。

来年もこんなペースで動くようの気はするが、そろそろ自分から発信できる基盤を造る年にしたいと思っている。

|

中村敦夫朗読劇『線量計が鳴る』~元・原発技師のモノローグ~

Img_3815Img_3816 Rさんに校正を渡しぎりぎりまで仕事をして、急いで今出川の同志社大学に向かう。構内の寒梅館のホールで、中村敦夫の朗読劇を観る。
 整理番号は300番だったが、中央の2列目にの空きがありラッキーだ。休憩を挟んで2時間近く、一人での朗読劇。それでも、飽きさせることなく聞かせるのは、やはりプロ。
Img_3812    啓蒙演劇というジャンルで、情感に訴えて感情を揺さぶるのではなく、問題を指摘し観客を覚醒させ、新しい視野を提供する」というものだ。フクシマを通して、日本の原発にまつわるさまざまな嘘やごまかし、詭弁、さらにチャルノブイリでいま起こっている現実も踏まえImg_3807て、原発の本質を見極めて、ひとりひとりがわかこととして考えるきっかけになればという願いで始まっている。

 オリジナルの朗読だけてなく、プロジェクターを使った講義風で、啓発的な内容で、触発をうけた。もし近くで公演があるようなら、ぜひ足をの運びください。

http://www.monjiro.org/%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/

 おまけですが、今回の朗読劇とは別だが、弁護士である河合弘之が撮った映画『日本と原発』(合わせて同じ著者の新書『原発訴訟が社会を変える』)だ。多岐にわたる原発問題の問題点が浮き彫りになってくるので、こちらも面白くて、お勧め。

 最後に、まったく関係ないことだが、主演の中村敦夫氏についての余談をひとつ。

 感想を会館の事務所で話ていたときの会話。。

T「中村敦夫といえば、「シトシトピッチャン、シトピッチン」ですね。
S「いや、それは子連れ狼でしょう。」
T「ああ、子連れ狼は、カツシンか」
S「いや、カツシンは座頭市でしょう。」
と、若いRちゃんには「?」の珍問答が続いていた。

   ちなみに、子連れ狼は若山富三郎(もしくは萬屋錦之介)で、中村敦夫は木枯らし紋次郎である。でもしかーしである。ぼくにとっては、「水滸伝」の林冲(りんちゅう)なのである。日テレが総力を結集した放映記念の大活劇で、中学時代のテレビ番組だった。ぼくが、いちばん影響を受けた番組かもしれない。おかげで、何十年たっても、いまだに水滸伝フリークである。その後、ほんもの水滸伝を読んで時、林冲が主役でないことに驚くことになり、北方水滸伝で、また衝撃をうけることになる。

 まったく原発問題とは別次元の話でした。

|

『いしぶみ』

Img_5452  平和公園にいった目的の一つは、本川沿いに建つ「いしぶみ」にお参りしたかったからである。

 先日、『いしぶみ』という映画をみた。是枝裕和監督の作品で、女優の綾瀬はるかが主演して、演劇的なセットの中で、「いしぶみ」を朗読Img_5464するのがメーンで、その合間に、登場人物の家族や遺族を、池上彰が訪問してインタビューするというシンプルな構成だ。

Img_5463_2  空襲に備えた建物疎開で、空き地を後片付けの作業のために、集合していた、広島二中の321名の生徒と4名の教師たちの頭上で、原子爆弾が炸裂する。即死者やImg_5461不明者も多数いるが、重体の体で自力で自宅戻ったり、子供を探す父母たちと再会した者たちの最期の姿が、それまで日記や遺族の証言などでに克明に描いている。

 Img_5448_272年たってなお、戦争や原爆の悲惨さと、親子(家族)の絆の深さが、リアルに伝わってきて、何度か目頭を押さえた。平和記念館に展示されていた原爆でボロボロになっている「制服」の、その持ち主であった中学生の弟(の遺体)を発見するまでのことを、その遺族(兄さん)が語っているシーンと、その実際の制服を前に胸が痛んだ。

Img_5523  10万人以上の名もなき犠牲があるのではない。その一人一人に名があり、それまでの人生があり、そして家族があったことを改めて教えられた。

  映画は、リメーク放送である。もともとは、女優の杉村春子が朗読して、1969年に広島テレビで放送され、それが、翌年、ポプラ社から出版されている。それらを参考にしながら、今回、新たに映像化されたのである。

 いまだに、ぼくの本棚にも「いしぶみ」がある。発刊当時のものだ。小学校の高学年だったぼくに、I先生がくださったもので、いまでも大事にしている。

 映画をきっかけに何十年ぶりかに読み直した。子供の時とは違って、いまは完全に親の目線で読むことになって涙を禁じえない。

 

|

親鸞『西方指南抄』現代語訳

相愛大学名誉教授の新井俊一先生の 親鸞聖人の『西方指南抄』の講義。発行されたばかりの親鸞『西方指南抄』現代語訳が、テキストである。

51gtrxxnzyl__sx338_bo1204203200_『西方指南抄』は、法然聖人の法語や消息(手紙)、行状記を、親鸞聖人が集録した書で、三重の専修寺に伝わるものが、聖人の八十四歳の直筆として国宝に指定れている。このブログでも触れたが、法然聖人は、その華々しい活躍や著述に比べて、直筆が極めて少ない御方である。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-6dc3.html

   お弟子による法然聖人の言行録は、たとえば『漢語燈録』や『和語燈録』など多数があるが、本書は現存するものとしては、そのどれよりも古く、またこの書にのみ集録されものもあって、きわめて貴重なものである。

 しかし、親鸞聖人の直筆があるのに、「真宗聖教全書」第二巻・宗祖部(親鸞聖人の著述)からも外れ、本願寺の「浄土真宗聖典」にも集録されておらず、『漢語燈録』や『和語燈録』と同じ扱いで、「真宗聖教全書」第四巻(拾遺部)に収録されている。つまり、真宗の立場からみると、親鸞聖人の著述というより、法然聖人の言行録として傍流の聖教という立場におかれている。ならば、浄土宗からは高い評価があるか。というと、あくまでも、親鸞が浄土真宗の立場で集めたものとして、端に追いやられているというのが、現状だそうだ。

 また、この書は、三巻(それぞれ上下があるので、六巻とも見える)あるが、各巻の奥書の乱れなどから、親鸞聖人が直接、編集したものではなく、もともとあった別の本を底本として転写したのではないかという説が有力であったりもした。今日では、その矛盾を説明する説も出され、親鸞編集説が有力になっている。確かな意図をもっとて聖人が編纂されたのは確実ではないだろうか。
 
 平安浄土教から鎌倉時代の親鸞聖人の浄土真宗に至るまで、その継承され展開された歩みを考えるとき、平安末期の法然聖人の果たされた役割は計れ知れないほど重大である。法然さまと親鸞さまの教えでは、一見、異なるような思想(臨終来迎と平生業成とか、一願建立と五願開示とか)もあるが、実は、すでに法然聖人の中にその萌芽がみることができるのであって、その点を味わう上でも、本書の役割は大きいというのである。第一、聖人自身は、法然聖人のみ教えをそのまま継承されていると味わっておられるのであって、その広大な祖師のご恩徳に報いるためにこの書を編纂されたのであろうから、それも当然であろう。

 じっくり読ませていただこう。
 皆様にもお勧めします。

|

『カール・ロジャーズ』

 3年間かけて、ブライアント・ソーン著の『カール・ロジャーズ』を味読してきた。監訳者の諸富先生によると、本著は、世界でもっともよく読まれているカール・ロジャーズのそしてクライエント中心療法に関する入門書であり、本書によって、ロジャーズのエッセンスが正しく理解されることを願って刊行されたという。幸い、研究会には、本著の翻訳者の皆さんと一緒に、イギリスでブライアント・ソーン氏のワークショップに参加された方も参加いただけた。

が、入門書というものの、けっしてやさしいものではない。翻訳のせいなのか、かなりわかりづらい表現も多いので、読みこなすのに苦労した。また、ロジャーズの言葉と、著者の見解が入り交じっているので、ロジャーズが言っているか、ソーン氏が言っているのかが、わかりずらい個所が多かった。それに、1冊の中に、ロジャーズの個人史、理論の概観、実績と、その影響、そして批判に、その批判に対する反論が収めているので(これだけ多岐にわたると仕方ないことだが)、総花的になって、読む側にすると説明不足でよく分からないという思いが強く残ってしまった。特に、本書を選んだのは、晩年のスピリチュアルな側面にこそ、ロジャーズの理論や実践の核心があるという視点に、興味をもったが、正直、そこが一番わかりずらかった。

 その中で、個人的には、第1章のロジャーズの生涯を追うことで、ロジャーズ自身が、真に自己自身になっていくプロセスは、一緒に彼と人生を旅をしているかのようで、ある種、感動的でもあった。

 5月からは、西光先生の本を予定している。

|

『阿闍世のすべて』~悪人成仏の思想史~

 本の贈呈を受ける。

『阿闍世のすべて』~悪人成仏の思想史~

http://www.hozokan.co.jp/cgi-bin/hzblog/sfs6_diary/1699_1.jpg

http://www.bukkyosho.gr.jp/main.aspx

  大学時代の友人が、法蔵館から出版した。卒業から30年。住職や布教で活躍しながら、毎年、数回にわたって学会で研究発表をし、このような成果があらわれたことに、敬服し、刺激も受けている。

 オビは、やはり同級生のS氏が書いている。法蔵館の編集担当は、華光でもお世話になり、同じように真宗カウンセリングを学んだW氏。

 大乗経典だけでなく、原始経典の『沙門果経』や、律蔵の各種経典に説かれた阿闍世の物語を変遷について触れられた専門的な書籍ではあるが、関心のある方にお勧めです。

 

 

|

生きるとは出会いである

 『カール・ロジャーズ』の月例輪読会。今月は、『我と汝』で有名な、哲学者マルティン・ブーバーなどの、カール・ロジャーズへの臨床実践に対する批判部分を読む。

 ブーバーは、「生きるとは出会いであり、救済は、個を讃えることの中にあるのでもなければ、集団を讃えることの中にあるのでもない。それは関係性という開かれた対話の中にある」という命題を提示しているという。

 ロジャーズにとっては、もっとも親近感のある格好の相手のように思える。ところが、ロジャーズが、カウンセリングの最中に、「我と汝の出会い」が可能になる瞬間があるんだというのに対して、ブーバーは、カウンセラーとクライエントという役割がある以上、両者の対等ではありえないのだという治療関係のところでの指摘で批判していて、せっかくの対話がかみ合わなかったという。

 つまり、ブーバーは、一つは、「治療的な関係における力関係の土台」について疑問なをなげかけ、さらに、「真の相互性」にしっかりと根づいていない個人の生成の過程について深刻な疑念を表明していると指摘される。そして、ロジャーズへの臨床実践への批判の多くは、どちからの原因にあると、その具体例が挙げられていく。

 ぼくには、それらの批判は、案外、的を得たものにも思えた。それだからこそ、逆に、ロジャーズの治療の核心が、批判を通して明かになるようにも思えて、面白かった。

 おかげで、久しぶりに、「我と汝の出会い」という言葉を噛みしめている。特に、「生きるとは出会い」というのところ、しびれるな~。
  で、ほんとうにぼくは、人間として出会っているのだろうか。いろいろな場面を振り返りながら、さまざまな味わいをさせてもらった。同時に、阿弥陀様とはどこで、どう出会わせてもらったのかも、深く味わわせていただいている。法話が一つ出来上がったな。

 ところで、今では、マルティン・ブーバーとカール・ロジャーズとの対談は、『ブーバー-ロジャーズ-対話』として、詳細な註釈と解説が入った新版が日本語訳として出ている。「真のコミニケーションとは何か」とオビのキャッチにある。普通、この手の対談は読み物として編集がほどこされるが、これはミニカンの逐語録のように、「あー」「えー、えー」(沈黙10秒)などと、うなづきや言いよどみ、相槌や沈黙も含めた完全な逐語録で、下段には、不明な訳語にも詳細な註釈がつき、これまでの版の違いまで詳細に示されていて、本文よりも下段の註釈の方が詳しくて、かつ勉強になる。お互いの出会いから対談の中での、変化やプロセスを知るという点で、これだけの詳細さも意味はあって、興味を引かれる。
 ただし、正直、専門的すぎるというか、あまりにも細かすぎ、繁雑すぎて、読む気になれないという難点がある。個人的にば実際に手にとって、読む気になるようなら、購入されればと思いますね。
        

 

|

体験的一歩

 今年のお正月は、いつものように映画に加えて、最近では珍しく読書にも時間を費やした。

 新しい本ではなく、昨年読んだり、これまで読みかけていた本のページをパラパラめくっては、アイダーラインや付箋がついてある場所、気になった箇所を読み返したりをした。まあ、ザーと眺めるだけなのだが、これがけっこう面白かった。以前、途中で挫折してた袴田憲昭著『本覚思想批判』、セイモン・イングス著『見る』~眼の誕生はわたしたちをどう変えたのか~(著者の好奇心のすごさ、博覧強記ぶりには脱帽)、そして、野口晴哉著『風邪の効用』と三枝誠著『整体的生活術』(本音のみで書かれた、歯切れのよさは最高。善男善女の恐ろしさと、悪人のすすめが面白い)と、興味深く読んで印象深かった、池見陽著『僕のフォーカシング=カウンセリング』だ。

 特に、最後の池見先生のものは、いまの僕自身の関心事もっともフィットするもので、いわば、痒いところにビッタリ届くような画期的な書物だ。その文体といい、着眼点といい、カウンセリングのライブ感(アドリブ感)というか、もっとも言葉にしずらい、「その人なり」の直感的ものも含めたパーソナリティーの部分を惜しげもなく表明された、実践的な書物だ。

 あちこちにアンダーラインや付箋を張り付けているのだが、それでも、読み落としている箇所に、ハッとした。

 人は自分が感じていることの中で、今まではっきりわらかなかっこと--これをインプリシットな側面という--がわかってくるとき、〈ああ、わかった!〉といった興奮を体験する。この体験は理論用語で〈体験的一歩〉と呼ばれ、フォーカシングの実践用語では、〈フェルトシフト〉と呼ばれている。

 こうして、フォカサーの中で、「新しい体験の側面が動きはじめている。それは、新しい気持ち、というばかりでなく、新しい生き方、あり方にも関係している」

 明白なものの周辺にはグジャグジャ、モゾモゾと流れ、すでにカラダでは感じられてはいるけれども、まだ意識として明確になっていない感じに焦点があたり、意識化され、名付けがなされて、体験と、意識と、言葉がピッタリとした、「あ、わかった!」という気付き体験、つまり「フェルトシフト」を指しているのだろうけど、このような気付きが、理論用語で、「体験的一歩」と名付けされていることを、すっかり読み逃していたことである。

 「一歩出る」-仏法では、常々お聞かせに預かる言葉であるが、これは単なる一歩ではなく、身も心もかかった「体験的一歩」であり、単なる気持ちの持ち方といった慰めではなく、新しい生き方、在り方の動きの始まりとなるものだ。いくら、正しい言葉を並べ、口では納得しても、この「体験的一歩」の踏み出したがないと、前には進んでいかないのである。

 「体験的一歩」。こんなぴったりした用語があったんだなー。

|

ワークで気づき、想ったこと

 今回の仏青研修会。全体の自己紹介のあと、メンバーのひとりが、からだを使った「抵抗」というワークを教えてくれた。アレクサンダー・テクニークをヒントにしたものだ。

 簡単に示すと、4人組で、ひとりがインストラクター役(D)で、真ん中の人(A)がメーン。そのAを中心に、左右に配された人(BとC)が、Aがいま抱えている二つの問題である。3名が、横並びに距離を置いて、等間隔で立っている。

  まず、Aは自分が抱えている問題をイメージして、BとCに配当する。そして、Dの指示のもとに、徐々に、BとCは真ん中のAに近づいていく。徐々に近づく度に、DからAへ、からだの変化に対する気づきへの問いかけがある。そのあと、問題は両方が押し寄せてきて、触れるか触れないかあたりまでくる。そのあと、問題がAに触れて押していく。その力はだんだんと大きくなり、Aもその問題に負けずに押し返し、その力が最大になった時に、Dの合図で、Aは思い切って脱力してみるのである。

  実際に見てみないと伝わりづらいだろうが、Aを体験してこんなことを感じた。いま、自分が抱えている問題との距離が遠く(2Mぐらい)離れているときは、なんとも思わない。ところが、距離がある内はなんともなかった問題が、徐々に近づき1Mを切り、50㎝ぐらいになると、手のあたりが重くなったり、肩に力が入ってくのがよく分かった。気分も悪くなる。問題の気配に圧倒され、こころはわざわざして、負けずにこちらも力が入ってくるのである。特に、問題が触れるか触れないかあたりで止まったときの圧迫感で、不安は最高潮に達した。まだ問題に触れていないのに、圧倒されそうな緊張感である。

 ところがである。今度は、問題が身に押しつけられてくると、むしろ接しているという安心感みたいものが生まれてきた。ワークなので、相手は人。服越しでもその人のぬくもりや柔らかさみたいなものが、同時に感じられたからである。ちょっとした押し蔵まんじゅうのようになると、圧迫感より、今度は心地よさを感じるようになったことが、なんとも不思議だった。実際の圧迫のほうが、精神的な圧迫よりも楽ということがあるのかもしれない。そして、最後に脱力し、無駄な抵抗をやめておまかせしてみる感じも味わってみたりもした。これも、なかなか心地よい。

 しかも、それはぼくだけの感じというより、異口同音に同じような感想が多かった。もともとは、無意識に身体が、長年のクセとして身につけている緊張や力みに対して気づき、その無駄な力を抜いて、もともとの自然体で立ってみるということを促すものであろう。無意識におこなっているからだのクセが、こころのクセとなり、人生のあらゆる場面でも同じようなクセになって現れていくのだろう。

 それが、いま臨床哲学の鷲田清一氏と河合隼雄氏の対談集(『臨床とことば』)を読んでいたのだが、そこに、鷲田氏が、いま心をヒリヒリさせている人、あるいは不安神経症の人とのリハビリなどで、「触れるか触れないかぐらいで、他人にふっと体を触れるのがいちばんこわい」んだという指摘を読んで、なるほどと納得させられた。

 これは問題だけでなく、人間関係やあらゆる場面でもそうだ。完全に距離があれば問題ないし(というより問題にならない)、逆にしっかりと触れて密着している関係も(それはそれで別の問題は生まれるが、安心感はある)だろうが、中途半端で、いま関わりがあるのかないのか、繋がっているのか繋がっていないのかが、分からない時に、いちばん不安や脅威を感じるようである。

 たとえば列車やお店の座席で、まったく見も知らない他人が座っている時(完全なアカの他人)、真横に家族や親友が座っている時(身内)、それらと比べて中途半端に知人(いわゆる世間やな)と一緒に座った時はどうか。それぞれの関係によって心境は異なるだろうが、知人を横にした時ほど、妙に気疲れするなと思ったりもした。

 いまの私達が、人間関係の距離感、孤独や不安で悩まされているが、ひとりになることの恐怖で誰か常に触れ繋がっていたいと(意識的にも、無意識にでも)願っているが、それでいてしっかりと飛び込んで触れ合うのも、また怖かったり、煩わしかったりしている。それで、どんな人とも、またはどんな問題とも、常に触れるか触れないかあたりで留まってしまって、結局、宙ぶらりん状態でいる。それは居心地がよさそうで、実はますます見えない不安を募らせているのかもしれない。

 もともとのワークの意図とは異なるかもしれないが、からだを使っていろいろと味わわせてもらった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧