願寿寺の紅葉
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ケガで不自由な中で、施主様が精一杯のおもてなしをして下さっている。
2日目の昼座は、豊岡から日髙町に会場を移して同人宅での家庭法座である。
お昼は、神鍋高原でのランチを御馳走して下さる。お店は仏の子供大会の会場になった合宿施設の前である。ここは、ぼくにとっては、実質、最初の佛の子供大会(それ以前もあったが、まだ参加年齢に達する前のおまけだった)の会場である。懐かしい。神鍋高原では何度も仏の子供大会を行なっているが、最初の印象は強い。もっとも2年続けてあって、どちがどちらか覚えはない。もう50年も前のことなのだ。それでも、些細なゲームやある子供(今は立派な先生)のつまらない替え歌、キャンプファイヤーの仙人の迫力、海で溺れた人、食べられなかったスイカ。地獄のスライドの衝撃…。断片的ではあるが、昔のさまざまに記憶が甦る。もっともっとあっただろうが、ただ忘れているだけだ。それでも「あった」事実は消せないのが、業の道理なのである。
すぐ近くに瀧がある。子供大会の会場の下見で同人宅に泊めて頂き、追跡ハイクングのコースを探すために歩いていて、偶然、見つけた場所だ。30年以上前のことで、その当日は標識もなく、道も整備されていなかったが、今はきれいに整っている。
紅葉の見頃はこれからが見頃だが、それでも充分楽しめた。ご馳走を頂き、景色を堪能。
さあ、これから昼座である。
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朝、少し早起きして、ホテルから会場に向かう途中の無量山伝通院に立ち寄る。
伝通院(でんづういん)は、文京区小石川の高台にある浄土宗の寺院。正式名称は、無量山 伝通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)という。徳川家の菩提寺だ。
室町時代の浄土宗第七祖聖冏上人の開基で、本尊は源信(恵心僧都)作とされる阿弥陀如来だ。
他にも高名な作家や文化人のお墓があったが、ぼくが知っているのは、作家の佐藤春夫氏と柴田錬三郎氏くらいだろうか。
けっこう見どころがあって慌てて会場に向う。方向は同じなのだが、高台に登ったこともあって、会場は思ったよりも遠かった。少し焦りつつも、携帯がないのは申し訳がない。朝は、余裕をもって出発したが、法座は勤行が終わったところで、息を切らしたまま法話に入ったのは、反省点。 <近くあった小石川善光寺も浄土宗の寺院↓>
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高山には会館の車で向った。京都出発組は、ぼくは黒一点。女子会の様相で賑やかだった。しかも京都の大学にゆかりの方ばかりで(在学中か、出身者)で、共通の話題もあったよう。高山でもう一台と合流し、法座まで高山見物をする。高山が初めての方もあったが、定番の古い町並みではなく、郊外の鍾乳洞に向った。会場の前から鍾乳洞に向う看板があって、1本道を奥飛騨温泉郷に向けて進んでいく。距離はあるが、もっと山道を想像していたが、観光ルートにもなっていて道の左右には土産物屋や飲食店、民宿が続いていた。数年前に、拡大壮年の集いの会場もこの方向にある。
飛騨大鍾乳洞&大橋コレクション館も、土産物屋が並ぶ観光地で、他の客も多かった。大橋コレクションという世界の美術品を展示された美術館もあった。以前、展示されていた金塊が強奪されその後取り戻したもののて、いまはその経緯とレブリカが展示されていた。
そして鍾乳洞へ。よく考えると、そう人生で鍾乳洞に入ることは少ないなと思った。修学旅行でた山口の秋吉台の秋芳洞、福岡の平尾台の千仏鍾乳洞 、そして京都の質志鐘乳洞の3回だけだろうか。質志鐘乳洞は、子供たちと広島のM君も一緒だったことが懐かしい。
今日は少し肌寒く、鍾乳洞もヒンヤリと寒かった。飛騨の鍾乳洞は全長が800mとあって、足腰に応じて、3カ所の出口が設定されていた。前半の方が見事ではあるが、奥に行くほど迷路のようで、また急な坂や階段もあって、探検気分が味わえるようになっている。若い仏青の皆さんのなので、一番、奥までいったが、これがなかなか楽しかった。最後に、妙な神社があるが、このあたりは不明。全体に商魂たくましいのと、コレクションの成金趣味のセンスと、その俗っぽさが昭和の観光地らしくてよかった。
終わってから天然温泉に行き、夕食。ああ。このまま懇志会があれば最高なおのだが、これからが本番。法座が始まる。でも、このインターミッションがよかった。みんなの心が開けてくるのだ。おかげで、楽しく、かつ充実の法座となった。南無阿弥陀仏
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東京の桜の開花は、全国一早くて、もうすで染井吉野は終わっていた。が、会場の前に公園では、八重桜が満開だった。会場との合せてショットである。
お参りもずいぶん増えてきた。会場の都合で夜座がなかったが、その後、居酒屋の懇親会があった。ぼちぼち懇親会も増えているが、参加者も徐々に増えてきている。ということで、2日目の終了後は、反省会という名の懇親会には出ないで、そのまま帰宅することにした。
4月の半ばなると、かなり日が長くなってくる。夕陽が落ちるところだ。新横浜を過ぎたあたりで、富士山が見えて来た。天気がよくきれいに見えた。
静岡に入るとかなり薄暗くなっていたが、行きには見えなかった富士山がきれいに見えている。
前後に濃厚な書き込みが続くので、今日は軽いメニューで。
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納骨のために、墓地があるお寺へ。といっても、ここは浄土真宗のお寺ではない。が、聖武天皇の国分寺に地にある由緒ある寺院。この復興のために、先頭を切ってご夫婦で尽力されてきたのである。
墓地は、一番奥、高台にあって、その上には立派な石垣があり、桜が咲いている。それも私有地だそうだが、桜の掃除がたいへんで伐ってしまうおうとかいう話も出ているそうだが、ちょっと勿体ない景色だ。この時期に納骨選ばれた理由が分かったきもする。 山桜はこれからだが、染井吉野は今、見頃。好天で、気分もいい。
桜に惹かれて円山川の土手を歩いていると、蛇が日向ぼっこ中。都会のものには珍しくても、地元の人には、なんということもないようだ。
お昼からご馳走をいただき、月忌参りをすませて、お宿のある神鍋高原へ。町は桜が咲いていても、神鍋高原にはまだ雪が残っていた。今年は豪雪だった。夕食も、娘さんたちと打ち解けてお話ができたのが、一番よかった。なんとか次ぎの仏縁を結んでいただくきっかけになればと願っている。
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聖徳太子の父上、用命天皇の離宮で太子がお誕生になられた地に建立されたのが、橘寺である。ここを飛鳥巡りの最後にした。
「仏法最初」という石碑にゾックとくる。ここから日本の仏教が始まったのだ。
またこの地は、『勝鬘経疏』が誕生した地でもある。太子が、推古天皇のために講義された『勝鬘経』は、女人である勝鬘夫人に説かれたもので、推古天皇にはビッタリの内容である。講義跡のすぐ側に、善悪二つの顔が彫られているという二面石もあった。
これだけ回ったもまだ時間があったが、みんなかなり疲れていた。カフェでお茶をし、道の駅を覗いて帰宅の途についた。が、そのルートもまた太子町経由で、太子ゆかりのルートであった。飛鳥の旅はこんなところまで続いていた。
とにかく50年ぶりに感激の旅でした。
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蘇我馬子が発願し、推古天皇の時代に創建された日本最初のお寺だと言われる。発掘調査から、創建当時は壮大な伽藍(法隆寺の3倍!)もあったそうだが、度々の火災などで、室町期に荒れ果てていたものが、江戸時代に再建されたのもので、いま、安居院とも呼ばれて、田園の中に小さなお堂が並んでいる。
また ご本尊の写真撮影がOKなお寺は稀で、しかもわざわざご住職が説明くださったのは、有り難かった。他に、聖徳太子の孝養像(室町時代)や、阿弥陀如来坐像は藤原時代のものだという。
お寺をぬけて数百メートル行くと、田園の中に五輪塔がある。蘇我入鹿の首塚だという。
聖徳太子一族(山背大兄王)を滅ぼし、その後、中大兄皇子(後の天智天皇)に殺害された、大化の改新の始まりである。飛鳥寺の境内こそ、蹴鞠の会で、中臣鎌足(後の藤原鎌足)と中大兄皇子が蘇我氏討伐を図ったあまりにも有名のな故事の舞台だ。まさに古代史のロマン。今は長閑で静かな風景に、往時の面影はないが、そこがまたしんみりとさせられる。
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主な古墳や石像物めぐりを終えて、ここからはお寺巡りである。仏教伝来や聖徳太子など古刹ばかりである。
最初は岡寺。
残念なから、このお寺の思い出は、お寺そのものではない。駐車場の顛末にある。お寺に入る入り口に、門前有料Pを示す表示が、逆方向を指したいる。それにしたがって進むも、かなり距離が離れている。車を入れかけて、「こんなに離れているのなら、岡寺はパスする」という声が出てた。結局、2対2で、行きたいものだけが行くことになった。それならお寺の近くまで車で行き、待っていることになった。もとの道を戻りグルグル細い坂道を進む。ここを歩く(しかも往復)となると、かなりしんどいだろう。道が細くなって車が行けるか心配していたら、岡寺まで着いて、そこには無料駐車場が多数設置されていた。いやこれどういうことなのか? 有料、かつかなり遠い駐車場と、無料で隣接している駐車場があるとは?入場口に、「有料P(民営)は当山とは無関係」との注意書が掲示されている。たぶんトラベルや苦情があるのだろう。おかげで4名、みんなで岡寺にお参りすることができたが、お寺の印象があまり残らなかった。
本堂も、この時期は行事のために入れず、窓越しに「観音坐像」を拝ませていただいた。一見、無骨で観音様には見えないが、日本最大、最古の塑像(粘土や石膏で造られた像)の如意輪観音像である。
同時に、日本最初の厄除けの霊場で、盛んに「厄払い」祈願のCMがあった。還暦も中厄ですか、、。真宗念仏の尊さを思った。南無阿弥陀仏
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午前中、いろいろ回って疲れた。日差しも強くて、気温が上がったのもあるのだろう。遅い昼食はお目当ての店が休みで、石舞台古墳まで進んで農村カフェで古代米のランチを楽しんだ。回りに桜の木に取り囲まれるように石舞台を眺めるテラスで、光を浴びながらのランチ。もう2~3週間すれば桜が見事だろう。
飛鳥巡りのメーンである石舞台古墳へ。一番(といっても鄙びているが)このあたりが賑やかで、人ともあった。それでも、疎らで、家族だけで石舞台古墳を堪能することができた。
石舞台古墳 は、日本最大級の方墳で、盛土をがすべて失って横穴式石室が露出している。天井石の上面が広く平らで、まるで舞台のように見えるので、古来から「石舞台」と呼ばれている。7世紀初頭の権力者で、聖徳太子と共に、仏教を守護した蘇我馬子の墓だと伝承されている。
50年前に唯一、ボンヤリでも記憶があるところだ。ただ外部からしか眺めていないような気がしたが、しっかり中にも入ることができた。恐ろしいほどの石組みである。それが1500年も頑丈に残っている、古代の人々の技術の高さにおどろいた。
〈奈良といえばシカなのに、ここはヤギ〉
〈しかもどうして二宮金次郎? 不思議空間〉
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