カテゴリー「旅行・地域」の357件の記事

浄栄寺にて

 室津の浄運寺から、たつの市の浄栄寺に到着した。

 初めての参拝だ。由緒あるお寺で、たつの城から移築された、警備(監視)小屋が附属した門に迎えられる。立派な本堂が会場である。

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 仏青研修会だが、いつもの顔ぶれが中心だ。しかし現地は少し違う。高校生の友人たちが多数参加くださり、また声かけをした同じ地域の若い住職夫妻も参加してくださった。またお世話役の女性(夫人)会の会長さんも、参加くださったのも、うれしかった。

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 大歓待を受ける。おやつのお菓子や飮み物も多数ご用意くださる。初日の昼座が終わったところで、室津の海が眺められる温泉に向うが、送迎にご門徒方が車を出してくださった。その間、婦人会(女性会)の皆さんが、夕食の準備にあたってくださる。その夕食がすごかった。庭では、豪華なバーベェキュー、門徒会館では、すき焼き(しかも上等な牛肉)が用意され、別室には、おでんに、炊き込みご飯に、カレーライスに、スープにと揃えてくださった。
 若い人たちは、まずバーベェキューから。ロートル組は、主に室内のすき焼きから、別室のおでんを食べたり、若者と交代して、野外にでたときは、もうかなり満腹状態であった。アルコールも準備くださっている。

 夜座も、仏青は仏青で、大人組は2組みに分かれての座談会。といてっも、中にはかなりアルコールが入っている人もいたが、法座は法座として行なうことができた。

 仏青組はお寺に宿泊し、他は電車でホテルへ移動。それまで時間の許す限り、懇親会が盛り上がる。ご住職とも、楽しくお酒を酌み交わすことができた。懇親会でご一緒するのは初めてだったが、楽しそうに振る舞ってくだっさていのがうれしかった。

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 ご住職ご夫妻、総代様、婦人(女性)会の皆様、歓待いただき、ありがとうございました。

 

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法然上人二十五霊場~室津の浄運寺~

 京都支部法座の翌24日(土)~25日(日)にかけて、兵庫県たつの市での拡大仏青研修会である。よくよくのご因縁であるが、その話はまた後で。まずは、少し早めに出発し、有志の皆さんと法然聖人のご旧跡へ向う。高速のたつのICを降りて、しばらく山道を走っていると、急に太陽に輝く海が開けてきた。

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海岸沿いのお店にはたくさんの車が停まっている。「牡蠣」を目当てに人が集う。でも、ぼくたちの目的はここではない。さらに急な山沿いに海が迫るクネクネとして細い道を進むと、小さな漁村に出てきた。昔は、参勤交代の宿場町として本陣もあり、たいそう栄えており、小さな村に各宗派のお寺が軒を重ねていた。

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 1月の報恩講法座で、法然聖人のご恩徳をテーマに法話をした。『法然上人行状絵図』(四十八巻伝)から、流罪途中に、高砂で漁師の夫婦のご教化された聖人は、この室津の浜で、舟に乗った遊女をご教化されている。浄土真宗なら、『御伝鈔』にある山伏弁円の済度のように、浄土宗では有名な感動的なエピソードである。それがこの室津である。『御伝鈔』には「弁円」という名は出てこないのに、後に伝承に尾ひれがつくように、『法然上人行状絵図』には、遊女とだけで、その名はないのに、現地に来ると、遊女の名は「友君」であり、木曽義仲の三番目の妻で、木曽義仲が追討された時に、西に逃げ延びたものの、落人として遊女に身を落としたという逸話が加えられていた。
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 細い急な道を登って、本堂に向う。報恩講の法話から1ケ月後、現地に立つことができたのは、ほんとうに不思議なご縁である。予め連絡をしていただいていて、ご住職から詳細なご説明をいただいた。ご本尊は阿弥陀三尊像で、浄土真宗とは異なる。残念ながら、写真は不可だったが、法然聖人像や、自身の像などの宝物が見せていただく。

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 海が見下ろせる場所にある、お墓にもお参りする。お寺の真下には小学校が立っているが、以前は、ここまで海岸であって、「絵図」のとおりの風景であったという。

 風情ある町並みを散策し、いくつかのお寺にお参りする。村のコミニティーセンターでお昼を済ませて、いよいよ本番の仏青研修会。たつの市内の浄栄寺に向った。

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4年ぶりの北海道(4)~旭川・川村カ子トアイヌ記念館

 深川を昼過ぎに出発して、美瑛町の白金温泉を目指す。

 旭川経由なので、旭川の雪まつりの雪像を探したが、少し時期が早かったようだ。

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 市内を回っていたら、「川村カ子トアイヌ記念館」を見つけた。

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   4年前に、時間の関係で行けなかった場所だ。ゆっくりと見学したが、他の観光客はいなかった。ウポポイの展示を観た後だったので、一段と不思議な気がした。別に展示品が特別に違う分けではなし、ほぼ同じようなものが展示されている。しかも、こちらは狭いスペースに雑多に展示されているのが、実際にそれらを使っているアイヌの人々の写真が添えてあるだけでも、決して展示品が美術品でも、貴重品でもなく、普段の日常生活の必需品だったり、生活に結びついた神事や祭事の品々だったり、季節事のうつろいをあらわすものだったりと、要は、そこに生きている人が感じられるようであった。

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 この差はどこから来ているのかを噛みしめながら、眺めていた。 

 

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4年ぶりの北海道~深川市~

 4年ぶりに連れ合いの実家である。

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 こちらに帰省の度に、観光果樹園が整理されていくのは寂しい。最初は主力のリンゴがなくなり、今回はサクランボの樹が切られいてた。まだブドウやナシなどは奥に残っているが、自宅の回りの風景は変わっている。しかし冬の間は一面に雪に覆われてしまうので、それほどの違和感はない。冬の時期は、見晴台の山小屋までの道も塞がれている。今年は寒さが厳しく、雪が多くて、朝夕の除雪車の後で、義父がトラクターで家からの道を整備するのが日課になっている。雪が降ると、どこまでが道で、どこまでが雪壁が分からなくなっている。

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 今回の深川では訪問したい場所(お寺)があった。これまでも、北海道に来るたびに知り合いのお寺を訪ねてきた。小樽市、伊達市、そして深川市でもそうであるが、今回も初めてのお寺である。コロナ前の大学の同窓会で、たまたま同じテーブルについた同教生が、連れ合いと同じ高校、しかも知り合いのお寺であったことが分かったのだ。これまで何度せお寺の前を通ってきたが、まったく知らずに素通りしてきた。連れ合いは、ずっと以前に、知り合いのご講師の先生をお寺に送ったことがあったというのてある。

 体調がすぐれない中で、夫婦共々、いろいろ話が出て楽しい時間を過ごすことができた。

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 殿平先生のところに加えて、深川で訪ねる場所が増えた。

 

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4年ぶりの北海道(2)~白老・ウポポイ~

 今回の旅の目的の一つは、「ウポポイ」を訪れることだった。白老町にある国立アイヌ民族博物館と共生公園である。今日は大雪が予想されていたが、建物の博物館に入ってしまえば影響を受けないと思っていた。

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 国も、北海道も力を入れていて、空港でも大きく宣伝されている。が、広大な駐車場に車は2~3台しか停まっていない。そこから、グルグルと回路を展示施設まで、雪が強く降る中を4~5分歩いて、博物館へ。次ぎの公演(アイヌと唄や舞踊)の時間が迫っていたので、また体験交流ホールに移動。3分ほどのことだが、寒い風雪の中を歩く。ボロト湖畔の美しい風景が楽しめるそうだが、冬季は湖も凍り雪が積もり湖は判別しない。天気さえよければ問題ないが、風雪の強い時の外部移動は不自由だ。

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 でも、公演はよかった。観客は3組だけで、舞台上の演者の方が多いように思えたが、若い演者による迫力のある声と踊りを堪能した。博物館に戻って、アイヌ文化の展示をゆっくりと観た。途中で、別の公演があったので、また移動してアニメを見に来た。プロジェクットマッピングを交えた立体的な映像は美しかったが、観客は2組だけと寂し限りだ。3度目の入館で残りの展示見て、最後に映画も見た。アイヌ文化の展示は美しかった。がしかし、生活臭が抜け、迫害の歴史は語られず、美術品を魅せられている風情だ。あっちこっちに移動があり、別方面にある工房やコタンには行かなかった。文化を保存し、展示するとはどんな意味があるのかを考えさせられた。

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 風雪が強くなる前に、深川に向って出発する。

 

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4年ぶりの北海道(1)~登別温泉~

   4年ぶりに北海道に向う。インド旅行で取り止めた後、新型コロナが感染が急拡大して、家族単位での帰省は自重していた。もちろん、連れ合いだけは正月と盆の帰省を続けていたが、毎回、コロナに振り回された里帰りとてっいた。今回も、旅行支援の関係もあるが、念のために事前にPCR検査を行なって旅にでた。ぼくは初めての経験だったが、家族全員が陰性で、無事に旅に出ることができた。 

 寒波の心配があった。直前まで、飛行機の遅延や欠航がつづいていたが、幸い、行き帰り共に、好天に恵まれて順調なフライトとなった。北海道に関しては、晴れ男である。

 関空から新千歳空港へ。予定通り空港の「ラーメン道場」でラーメンを食べて、レンタカーを借りた。晴天だったので、支笏湖に足を延ばしかけたが、時間の関係で途中で止めて、登別温泉を目指すことにした。

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 登別も4年ぶりだ。宿は、第一滝本館にしたので、地獄谷はすぐそこ。でも、七は、イオウの匂いが苦手だと言って、行かなかった。ぼくも幼いころは苦手だったことを思い出した。まだ記憶に新しい場所だが、地獄谷に相応しい光景は圧巻。

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何百羽ものカラスが、「カー カー」と鳴きながら、夕空を旋回するのも異様だった。

 お宿の風呂は広大だが、洋風のレトロ感がすごい。老舗ならではである。ここに泊まるのは、最初の聞法旅行以来で、もう20年以上前のことになる。その時は珍しかったが、日本人よりもはるかに海外からの観光客が多いのには驚いた。中国からの団体客はなくても、この賑わいは久しぶりの光景。

 

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願寿寺の紅葉

 

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  この時期、母を連れて紅葉を愛でるのだがら、今年は、連れ合いが公演で不在であったこととなど、紅葉狩りにはどこにも行かなかった。

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 でも、この願寿寺の紅葉は見事だった。

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 時より雨も交じるあいにくの天気だったが、充分、堪能せさてもらった。
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神鍋高原・八反瀧

ケガで不自由な中で、施主様が精一杯のおもてなしをして下さっている。

2日目の昼座は、豊岡から日髙町に会場を移して同人宅での家庭法座である。

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 お昼は、神鍋高原でのランチを御馳走して下さる。お店は仏の子供大会の会場になった合宿施設の前である。ここは、ぼくにとっては、実質、最初の佛の子供大会(それ以前もあったが、まだ参加年齢に達する前のおまけだった)の会場である。懐かしい。神鍋高原では何度も仏の子供大会を行なっているが、最初の印象は強い。もっとも2年続けてあって、どちがどちらか覚えはない。もう50年も前のことなのだ。それでも、些細なゲームやある子供(今は立派な先生)のつまらない替え歌、キャンプファイヤーの仙人の迫力、海で溺れた人、食べられなかったスイカ。地獄のスライドの衝撃…。断片的ではあるが、昔のさまざまに記憶が甦る。もっともっとあっただろうが、ただ忘れているだけだ。それでも「あった」事実は消せないのが、業の道理なのである。

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 すぐ近くに瀧がある。子供大会の会場の下見で同人宅に泊めて頂き、追跡ハイクングのコースを探すために歩いていて、偶然、見つけた場所だ。30年以上前のことで、その当日は標識もなく、道も整備されていなかったが、今はきれいに整っている。

 紅葉の見頃はこれからが見頃だが、それでも充分楽しめた。ご馳走を頂き、景色を堪能。

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 さあ、これから昼座である。

 

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伝通院を散策

 朝、少し早起きして、ホテルから会場に向かう途中の無量山伝通院に立ち寄る。

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 伝通院(でんづういん)は、文京区小石川の高台にある浄土宗の寺院。正式名称は、無量山 伝通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)という。徳川家の菩提寺だ。

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 室町時代の浄土宗第七祖聖冏上人の開基で、本尊は源信(恵心僧都)作とされる阿弥陀如来だ。

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<歴代住職の墓所↑>
 徳川家康の生母・於大の方の法名伝通院殿にちなんで、伝通院となった。ちなみに、徳川家康の菩提寺も浄土宗で、有名な芝の増上寺だ。徳川家(特に江戸時代初期)ゆかりの墓所でもあり、立派な墓石が並んでいる。
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<家康の孫で、秀忠と江の長女。 豊臣秀頼に嫁ぎ大阪の陣で救出された千姫のお墓↑>
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<家康の生母・於大の方↑>

他にも高名な作家や文化人のお墓があったが、ぼくが知っているのは、作家の佐藤春夫氏と柴田錬三郎氏くらいだろうか。
けっこう見どころがあって慌てて会場に向う。方向は同じなのだが、高台に登ったこともあって、会場は思ったよりも遠かった。少し焦りつつも、携帯がないのは申し訳がない。朝は、余裕をもって出発したが、法座は勤行が終わったところで、息を切らしたまま法話に入ったのは、反省点。 <近くあった小石川善光寺も浄土宗の寺院↓>

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飛騨大鍾乳洞

 高山には会館の車で向った。京都出発組は、ぼくは黒一点。女子会の様相で賑やかだった。しかも京都の大学にゆかりの方ばかりで(在学中か、出身者)で、共通の話題もあったよう。高山でもう一台と合流し、法座まで高山見物をする。高山が初めての方もあったが、定番の古い町並みではなく、郊外の鍾乳洞に向った。会場の前から鍾乳洞に向う看板があって、1本道を奥飛騨温泉郷に向けて進んでいく。距離はあるが、もっと山道を想像していたが、観光ルートにもなっていて道の左右には土産物屋や飲食店、民宿が続いていた。数年前に、拡大壮年の集いの会場もこの方向にある。

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 飛騨大鍾乳洞&大橋コレクション館も、土産物屋が並ぶ観光地で、他の客も多かった。大橋コレクションという世界の美術品を展示された美術館もあった。以前、展示されていた金塊が強奪されその後取り戻したもののて、いまはその経緯とレブリカが展示されていた。

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 そして鍾乳洞へ。よく考えると、そう人生で鍾乳洞に入ることは少ないなと思った。修学旅行でた山口の秋吉台の秋芳洞、福岡の平尾台の千仏鍾乳洞 、そして京都の質志鐘乳洞の3回だけだろうか。質志鐘乳洞は、子供たちと広島のM君も一緒だったことが懐かしい。

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 今日は少し肌寒く、鍾乳洞もヒンヤリと寒かった。飛騨の鍾乳洞は全長が800mとあって、足腰に応じて、3カ所の出口が設定されていた。前半の方が見事ではあるが、奥に行くほど迷路のようで、また急な坂や階段もあって、探検気分が味わえるようになっている。若い仏青の皆さんのなので、一番、奥までいったが、これがなかなか楽しかった。最後に、妙な神社があるが、このあたりは不明。全体に商魂たくましいのと、コレクションの成金趣味のセンスと、その俗っぽさが昭和の観光地らしくてよかった。

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<大仏の耳↑>

 終わってから天然温泉に行き、夕食。ああ。このまま懇志会があれば最高なおのだが、これからが本番。法座が始まる。でも、このインターミッションがよかった。みんなの心が開けてくるのだ。おかげで、楽しく、かつ充実の法座となった。南無阿弥陀仏

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<昭和の秘宝館ぽく終了↑>

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