カテゴリー「旅行・地域」の259件の記事

『仏敵』の旅(6)了妙尼公開基の金台寺

Img_8003_2 初日で『仏敵』関係の旅を終えて、吉野川上村の温泉の宿に入る。恒例の宴会ではさまざまな隠し芸が披露され、二次会の懇親Img_8023会も深夜まで盛り上がった。

 2日目午前中は、宿でのご法座。5グループでの分級座談会の後、まとめの法話をする。改めて『仏敵』のポイントにImg_8025触れた。もともとは、存覚上人ゆかりの願行Img_8040寺、歎異抄の唯円房の墓所がある立興寺、そして八木の金台寺の3ケ所を巡る予定で、法座はなImg_8027かった。今回、午前は、ゆっくり宿で過ごせたのは、なかなか好評だったと思う。

 Img_8065帰路は、橿原市八木の金台寺に参拝。予定の3ケ寺の中から、旅行社もぼくも一致してここを選んだ。

 橿原市には、今井町という浄土真宗の称念寺を中心とした寺内町が歴史的景観としても有名だが、この八木町も、古から交通の要所として栄え、今も古い町家が残っている。日本遺産にも指定されている歴史的な地区の一角に、金台寺はひっそりと佇んでいた。細い路地の中に、大和国分寺などの3ケ寺の一つで、こじんまりとした境内は了妙尼公の庵を彷彿とさせる。
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↑実は、今の坊守様は、若い頃に祖母様のご縁で華光の集りにもお参りくださっていた。その頃を知る皆さんとも懐かしく再会を喜びあった。残念ながら、多忙なご住職は不在だったが、丁寧にご説明くださった。このお寺は、先代の時から数回お参りさせてもらっている。昔からの法義所で、今回、分けていただいた書籍には、先々代からの法縁であることを窺った。特に香樹院徳龍師を仰いでおられるようだ。Img_8044
 蓮如上人ゆかりの地であるが、『御一代記聞書』の七二通に

「蓮如上人仰せられ候ふ。堺の日向屋は三拾万貫を持ちたれども、死にたるが仏には成り候ふまじ。
大和の了妙は帷(かたびら)一つをも着かね候へども、このたび仏になるべきよと、仰せられ候ふよしに候ふ。」

とある了妙尼公が開基である。
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(南渓和上の讃と糸車の了妙尼)

 ある夏の暑い日、旅の蓮如上人が、あばら家の老婆に一碗の井戸水を所望されたことが、その出会いで、ご教化を受けられるきっかけとなる。もとは裕福な造り酒屋の内儀であったが、夫を始め、息子や嫁を次々と失って、家が没落して、糸を紡ぎながらなんとか生計を立てていたという。蓮如様との出会いは、七十歳頃だというから、当時はかなりの老齢の方だったろう。

 その後、この地を通られる度に、上人は足を運ばれる。その中で、有名な糸車のエピーソドが残されていく。

 ある時、ふと庵に立ち寄られた蓮如さまは、「了妙よ、何をしておるのか」とお尋ねされた。
 
 「糸車をくりながら、お念仏申させてもらっております」と、了妙さんがお答えになると、

 蓮如さまは、「それは心得違いぞ。糸をくりながら念仏を申すのではない。念仏を申しながら、そのついでに糸をくるのだ」、と諭されたいうのである。

 生活の中に念仏かあるのか、念仏の中に生活があるのか。一見、同じように思うが、生活が主人ではなく、念仏が主人であるというご教示は尊い。
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 悟朗先生から何度も聞かされたご法話だが、あらためて現地でお聴きすると感銘(しかも山本仏骨先生の法話の一節をご披露くださった)深かった。
 直接的に、伊藤先生との関連はなかったが、日頃お聞かせに預かっているエピソードでこの旅を締めくくられた。坊守様もありがとうございました。南無阿弥陀仏
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Img_8060_2真ん中は、毎年お世話になっている添乗のNさんと、
いつもはベテランのガイドさんが多い中で、珍しく若いガイドさんで、新鮮でした。
右手は、運転手さん?(嘘です)

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『仏敵』の旅(5)伊藤康善師墓所

 當専寺では、ジュースや「當専寺」ネーム入りボールペン、興正寺の一筆箋をいただくなど歓待を受けた。伊藤先生のお墓にもお参りしたので、ここも慌ただしく出ることになった。クネクネと回りながら田舎の路地を進んで、村の共同墓地だろうか。Img_7920
↑やはり二上山を遥かに望む地である。
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↑伊藤康善先生は昭和44年1月9日に、72歳でご往生された。今年が五十回忌である。一同で静かに手を合わせ、「恩徳讃」を唱和する。

 ここでもショックなことがあった。これまで父から先生の法名を「瑞光院釈康善法師」と聞いていた。それで、先生の古い華光誌の随想を「瑞光抄」として出したこともある。ところが、墓標は「瑞香院釈康善法師」とあるのだ!(下段左側)

 光ではなく香だったのか。光と香で、音は「こう」で同じ。仏具なら、光は燭台、香は香爐で、やはり三具足で一体のものだなーとも考えた。でも、ぼくの中では、「瑞光院」である。

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『仏敵』の旅(4)當専寺

  「野口道場」から伊藤先生のご自坊の「當専寺」までは、二里(約8キロ)の道だと、『仏敵Img_7909』にはある。昔、野口道場は野口村だったが、今は大和高田市に、當専寺は新庄町だったが、今は葛城市になっている。バスだImg_7896と大回りせねばならないので、かなり距離を感じた。この道を、伊藤青年は、求道の悩みを抱えながら往復しているのである。二上山(にじょうさん)の山並みが見えている。『仏敵』でも、その風景がこのように描写される。

 「もう夕暮れである。二上山脚に落ちていく春の太陽は真紅に燃えて、鎮守の森の木陰にうずくまってものを考えている私の姿を、悩ましげに照らのであった。」

 距離はあっても、バスでは短時間で當専寺に付いた。広い場所にバスが止まって、細い曲がりくねった路地を歩く。ご住職が先導くださる。伊藤先生のご子息は方は寺継承されるでに、奥さま(愛子さん)のご親戚が入寺されお護りくださっているのだ。
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↑真宗興正派の末寺で、小さな山門の脇には「一養山 當専寺」の碑文が立つ。Img_7894_2
↑平成の大修復がなされていた。野口道場と同じく平成12年とは、奇遇である。
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↑今回一番のショックは、父が揮毫した「華光道場」の扁額と左右の波の絵がなくなっていたのだ。それを察して、住職からもご説明。修復に際して、直接、土壁に書かれていた書や絵は取り外せず、いまのこの絵の下になっているという。しかし直接的に上書ではなく、(つまり消さないで)それを覆うものを挟んでから、その上に書かれている。つまり、今でもこの下に書と絵は残っているとうのである。「華光道場」が無くなったいきさつのは、象徴的でいろいろと感じさせれた。
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↑これから修復されるという。以前は内陣の上もこんな感じだった。Img_7903
↑観音菩薩像。浄土真宗に転派の以前の名残りで、長谷寺と観音さまと同じ木材だと言い伝えられるそうだ。
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↑當専寺の第十七世の住職である伊藤先生の七条袈裟の写真。会館にも同じ時に撮られた写真がある。當専寺の親鸞聖人七百回忌法要の時だろう。Img_7881
↑伊藤先生が晩年に建立された梵鐘。華光誌に「梵鐘のひびき」として連載され、倶会一処の梵鐘発願の思いが語られている。華光同人やアメリカ同人も喜捨されている。この「実は…」の裏話を父から聞いてるが、今は止めておこう。Img_7884

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『仏敵』の旅(3)野口道場

Img_7875  この旅のメーン、大和高田市にある「野口道場」へ。大型バスが入らない。世話役の経営される工場(紡績関係)に駐車し、細い路地を歩く。すっかり街中になっているが、往時を偲ばせる細い路地Img_7876は健在だ。途中、野口公民館の前に、「南無阿弥陀仏」の碑と阿弥陀堂の小さな祠がある。これは『仏敵』には登場しない。ただ、紡績工場の5時知らせるサイレンという記述がある。このあたりは靴下の町である。もしかすると今の工場かもしれない。
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 ↑民家の中に野口道場が見えてきた。概観は普通の家と変わらない。門をくぐる。『仏敵』では、「土塀続きのみそぼらしい門」となっているところだ。
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 ↑小さな前庭に「釈尼妙芳」と刻まれたおよし同行の墓が出迎え。案外新しく、昭和46年に建立。

 そして、たくさんの尼講の皆さんもお待ちくださっていた。彼女たちはいまも変わらず毎月18日が、尼講の集りがあるという。尼講の皆さんの話では、その日は、およしさんとの関連があるのでのはといっておられたが、そのあたりは不明だという。残ながらお墓と建物以外、教えは何も残ってはいない。
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↑滞在50分間ほどの予定だったが、往復の行程があって実質30分ほどしかない。すぐに勤行を始める。皆さん勤行に力が入る。娑婆では、華光のルーツはここなのだ。狭い道場は、40名の同人で一杯になる。隣の間には、尼講の皆さんが座って一緒にお勤めされた。その後で、法話の代わりに、『仏敵』の一節をいつくか読ませてもらった。

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↑最初、伊藤青年が尋ねた野口道場は、屋根にペンゾン草が生え、破れ果てた道場は化け物屋敷だと描写されている。
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↑ところがきれいになっていて驚いた。ペンペン草は生えていなかったが、20年前は薄暗い道場に、やたらと立派な仏壇が金色に輝いていた。実は、今回、耐震性の問題もあって、役割を終えてもうなくなるのではと心配していた。ところが、瓦も新しく、道場もきれいになっている。平成18年(12年前)12月に「平成大修復」を終えたというのだ。
 皆さんでお護りくださっているのはうれしかった。中には、想像よりもきれいで、ちょっとイメージが異なったという人もあった。
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 「泥まみれの縁側の板」もきれいに磨かれている。右手あたりに井戸があったか?↑

  大正7年頃、伊藤先生が仏教大学(現龍大学)の2回生の春休みの出来事だから、20~21歳の時である。いまから100年前の出来事だ。『仏敵』では、まだ電燈工事か進捗せずに、薄暗い本堂にはランプが灯り、暖は火鉢とある。いまはエアコンも設置。
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↑伊藤青年が『観経』定善(第八観・像観)のごとく、「水流・光明」されたお仏壇。いつ訪れてもきれいにお荘厳されている。
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↑伊藤青年が休んだり、ご示談の場となって別室は、物置部屋。
 みんながうれいしそうに眺めるのを、地元の人々は不思議そうに見ていた。当時は、ここからも外に出入りできたことになる。
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↑奥の柱は年季を感じさせる。

 短い時間で怒涛のように立ち去るのは、こころ残りもあったが、感無量で、当専寺へ。
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『仏敵』の旅(2)番外編~智積院

「『仏敵』や伊藤先生と、智積院はどんな関係があるのですか」
複数の方から尋ねられる。
残念ながら関係はない。40年前、『仏敵』の聞法旅行(2泊3日)では、第1章にある将軍塚や黒谷の金戒光明寺にも行った。伊藤青年は、将軍塚から円山公園、知恩院と東山界隈を抜けて、岡崎公園から黒谷へと歩いて向かれた。しかし、今回は黒谷まで足を延ばせない。7月の時は、興正寺でお話を窺って、昼食で智積院会館に入る計画。それが、興正寺が自然災害でダメになった。
 本願寺の日暮門もこのありさま。↓
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 それで、昼食の時間まで智積院を拝観することにした。唯一の関連は、東山界隈のお寺ということだけ。↓Img_7827
 ここは3年前の京都の親鸞聖人ご旧跡巡拝でも、ここで昼食を食べて自由に境内を散策したが、今回は有料拝観をすることにしたのだ。↓
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 インバウンドで海外からの観光客で混雑する京都だか、ここは街中にありながら、閑散として靜寂が広がる。そう、ぼくたち団体客がいなければ、靜寂そのものだったのだが、ちょっと賑やかにしてしまったかも、、。↓
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 国宝の長谷川等伯一派の見事な襖絵も鑑賞でます。写真のものは模写。色鮮やかだけども、この後、本物を観るとそのすごさが一目瞭然。↓
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 金堂では雛僧たちが研修中。真言宗系ですが、声明は浄土にも通じている。とにかく荘厳。↓
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 秋の紅葉も見事だったけれど、小雨に濡れた苔や緑も風情があった。↓
http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-d238.html
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 華光の聞法旅行で、純然たる観光地に行くのは珍しいが、京都の同人も含めて、ほぼ皆さん初訪問。隠れた名所にご満足の様子。
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『仏敵』の旅(1)龍谷大学大宮学舍

  『仏敵』を巡る聞法旅行。7月の予定が、西日本豪雨で延期になった。今回も雨は気になるが、旅行には影響はない。が、早朝、欠席の電話。北陸地方の大雨で、列車が不通になったのだ。新潟の参加者は前日入りだったが、福井の方は残念なことになった。

 前回より参加者は増えた。京都駅に集合し龍谷大学大宮学舍へ。5分で到着。伊藤先生と言えば興正寺本山からスタート予定だったが、大阪北部地震と豪雨の影響で内部拝観がなくなり、龍谷大学からスタート。
 『仏敵』の中で龍谷大学の回想シーンは、伊藤青年が「善き知識」を求めるための大切な機縁となっている。第4章である。
  
 龍谷大学は、今から380年前、1639(寛永16)年に、西本願寺に誕生した「学寮」が、その前身である。世界でも有数の、日本でいちばん古い大学だと自称している。(それを言うなら、東寺にある種智院大学はもっとすごい)。その後の法論や混乱で、学寮は破却されて新たに「学林」となり、明治期に入って、 1876(明治9)年に、「大教校」となっていく。今日の大学という意味では、このあたりからであろう。そして、明治12年に、現在の本館や南黌・北黌などが完成している。なお、伊藤先生が在学中は、仏教大学と称していた。いまの仏教大学とは無関係。

 土曜日で講堂の内部拝観(写真はあります)はできず、外からの見学。ぼくが説明役たったので、母校の歴史を改めて調べ直した。ちょうど数日前る京都新聞に、建築物としての本講の記事が詳細にでていたので、皆さんに配布。
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 本館(講堂)は石造りの西洋建築にみえるが、実は木造建築。高い伝統技術を持った本願寺に関わる大工が、西洋の技法を取り入れたもので、木に石を貼った「木骨石貼り」構造という珍しい技法。重厚なたたずまいが人気で、最近の映画のロケ地として多数、登場している。
 ここからは、3日前に撮った内部の写真↓Img_7784

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↑本館より北黌(教室)を眺める
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↑南北黌(教室棟)は、「仏敵」当時は寄宿舎。ぼくが在学中に修復され重要文化財に指定

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↑旧守衛所と正門も、初期西洋建築の貴重な建築物で、国の重要文化財。ただし正門はレブリカで、本物は東黌に展示中。

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B級グルメ~国府町「国八」篇~

Img_6733高山国府のF家が法座会場の時は、国道沿いにあるラーメン「伊吹」か、「国八」で夕食をすませる。今日は、伊吹が休業していて、国八へ。

Img_6734週末には行列のできるB級グルメになっているは聞いていたが、少し早めの時間でまだ空いていた。しかし、その後はお客が入ってきて、うわさどおり行列もできていImg_6732た。

豆腐定食700円也に、ホルモン焼き、イカ焼きの定番のパターン。濃厚な味にご飯がどんどんすすむ。おかげで、法話が終わったころには、みんな胸焼けをしてしまった。

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青空の飛騨路

Img_6737 飛騨の国、国府町には、飛騨随一の国宝がある。安国寺である。

 意外な気がするが、古い街並みが残り、社寺仏閣も多い高山には重文級の建物は多いが、国宝はない。いまは高山市になっているImg_6740が、もともとは吉城郡国府町であった。

 昼休み。少し時間があったので、足延ばして安国寺に拝観しようと考えた。久しぶりImg_6747に車で高山に来たからだ。ところが、ナビを入れると思ったより距離がある。往復するだけで時間がなくなってしまうようだ。

Img_6766 諦めて、近所を散策することにした。観光地でなてくも都会の街並みとは違った新鮮さは、先日も体験したばかり。

Img_6741http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2018/05/post-f30d.html

 5月の田園地帯。さまざまな花がきれいImg_6764に咲いている。

 少し歩くと山沿いにお寺が見えてきた。高山~仏青合同法座でも会場に使用させてImg_6763いただいた南春寺だ。少し距離があるように思えたが、歩いてみると、案外近かった。

Img_6735山門には、Fさんが施主となり、飛騨の匠、Hさんが彫刻した龍が鎮座している。
 名人Hさんの作品は、新しくなった高山駅のコンコースにも、高山祭の屋台の彫り物として展示されている。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-f72a.html 

 昨晩は冷え込んだが、日中は、初夏の日差しがまぶしい。田植えの終わった田んぼに、青空が広がっていて気持ちがいい。

 法座前には、ちょうどいい散歩。
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≪正面だけでなく、後ろ姿も素晴らし↑≫

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陶器市

 Img_6522聖典講座から寺院布教、永代経と、GM前半戦は多忙だったが、どうにか乗り越えられた。後半は少し間があいて、最後に5月の聖典講座、広島支部と続いてく。その間に、後片付けや次の聖典講座Img_6545の準備もあるが、事務所の皆さん長期休暇に入った。遠出は無理だったが、半日だけ、連れ合いが一人で出かける予定の陶器市に一緒にImg_6513行くことになった。

 GM中、高速道路は混んでいた。倍近い時間がかかる。陶器の有名な信楽の町中も混んでいた。でも信楽は素通りして、お目当てはお隣の伊賀焼の長谷園である。Img_6519ぼくは、数年前まで、身近に陶芸家の知り合いがImg_6536多かったのだが、あまり興味がなかったので、伊賀焼も初めて知った。山間の小さな集落だが大きな規模Img_6515で開催されていて、次々と車が入ってくる。一昨年も来ている連れ合いの話では、小さな陶器市のように聞いていたが、すごく盛況である。

https://www.igamono.co.jp/kamadashi/index.html

Img_6527Img_6530 窯出しなので、市価の半額で売られている。

器の買い物だけなく、登り窯を観たり、美術館を観る感覚で陶器を観たりした。ぼくImg_6539は買う気はない。が、連れい合いは、いろいろと目星をつけて真剣に見ている。掘り出し物のなかでも、毎日の生活の中で使えるものを探している。実用的だが、大量生産品にない何かを求めているのだ。その意味では、賢い買い物をしてるようだ。

 どやから満足いく成果があったようで、さっそく今夜から食卓を飾ることになった。器が変わると、いつものおかでも、ごちそうに見えるのだから、大した物である。
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築地本願寺

Img_6261久しぶりに築地本願寺にお参りした。たぶん10年前の結婚式以来じゃないのかなー。

佃島の門徒が中心となって、海を埋め立て地を築いたので、「築地Img_6266御坊」と称されるようになったという。大阪(大坂)の語源も、蓮如上人が最初に使われたが、Img_6265それだけ影響力があったということだろう。

関東の方以外は、初めてお参りされる方もImg_6271Img_6270けっこうあったが、皆さん、その規模や様式に驚いておられた。

ぼくは外国からの観光客が急増していたことに、驚いた。お参りの大半がそうであるようにも見えた。東京駅や銀座からのアクセスもいいし、築地市場を見学する観光客も多いと聞いImg_6273ている。

西本願寺の門前町にある伝道院のモスク風の建物と同じく、伊東忠太氏の設計である。こちらはインド仏教風の建物で、仏塔(ストゥーパー)のようなものが左右にある。最近、国の重要文化財に指定されたそうだ。
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