カテゴリー「旅行・地域」の333件の記事

長谷寺での衝撃

 朝は土砂降りの雨。五月晴れの季節のはずだが、今年はすでに梅雨入れをしている。史上もっとも早く、平年よりも3週間も早まっている。温暖化の影響なのか、桜といい、梅雨といい、異常気象が常態化しているようだ。

 雨は昼前にはあがった。ここまできたので、近くの室生寺に足を延ばすことにした。が、連れ合いは喪服で、足元が悪い。昼食を食べる場所も閉まっていたので、女高野といわれる室生寺を散策するには条件が悪すぎて、別の機会に譲るとした。道の駅で昼食を済ませて、長谷寺を目指すことにした。

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  観音様の霊場として、また「花の御寺」と呼ばれて、中でも牡丹や石楠花で有名だ。
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  ぼくはこのお寺で忘れならないことがある。
 昭和40年代、まだ小学校にあがるかどうかころだと思うのだが、家族でお参りにきたことがある。その時、門前に、白裝束の数名の男たちがいた。手や足がなかったり、黒眼鏡をかけてアコーディオンやハーモニカの演奏をしながら、物乞いをしていたのである。異様な雰囲気が漂っていた。戦争で負傷した傷痍軍人だというのである。もう50年以上前のことなのに、その異様な光景を覚えている。幼心に何か見てはいけないものに触れた気がしたのだ。同時に哀れに思ったことを父に話すと、父の一言に、さらに衝撃を受けることになるのだ。

 長谷寺のことは覚えていないが、ここで傷痍軍人の物乞いを見たことがこのお寺を印象つけたのである。

 それ以来に訪問なので、50年以上ぶりだ。

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 天武天皇の勅願によるお寺なので、歴史ある古刹である。しかし建物の多くは、近代(明治以降)のものも多く戦後の造営(五重塔)のものもある。

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 仁王門を抜けて↓

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 登廊(のぼりろう)を進んで、本堂へ。この登廊が優雅いい。↓

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 本堂は江戸期に再建されたものだが、14、5年前に国宝に指定された。長谷の舞台として有名で、中には内舞台もある。「大悲閣」とある。↓

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 そのご本尊が有名な、十一面観音菩薩立像で、10メートル以上の迫力がある。↓ 脇士は、難陀龍王と雨宝童子。

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 本長谷寺や五重塔を経由するコースをゆっりく歩いて巡った。↓

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 今回は、なにも衝撃をうけませんでした。

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「聖徳太子と法隆寺」展

 家族で奈良へ。緊急事態が発令されて京都国立博物館の「鑑真和上」展は休業となったが、奈良国立博物館の「聖徳太子」展は開催されている。前日までにネット予約し、指定時間を決めていく方式で、密にならず回ることが出来る。

 ならまちの町家カフェでランチをする。外食にはめずらしく、とても薄味のやさしい味つけでホッとする。

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 ブラブラと奈良公園の鹿にエサをやりながら歩く。連れ合いは、鹿との触れ合いの方が楽しみなようだ。

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 さて、今年が聖徳太子、千四百回大遠忌にあたり、ゆかりの寺院でも法要があり、奈良国立博物館「聖徳太子と法隆寺」展も記念開催である。

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 法隆寺には、何度もお参りさせてもらっているが、日本の世界遺産の第一号に相応しい仏教美術の宝庫である。飛鳥時代(7世紀)という歴史の重みが違う。

 本展も、いわば「和国の教主」。つまり、太子は、日本に生まれ、日本に仏教を広めれたお釈迦様であり、「聖徳太子と仏教」が主なテーマで、さらに、その後、日本人の精神的な根底を築いた太子に対する敬愛が、太子信仰(親鸞聖人にも大きく影響する)として流れていることにも触れておられた。これまで法隆寺などでも拝観したことのある仏像もあったが、改めて体系的に示されて見応えのある展示に、ただ堪能した。

 特に、法隆寺の聖霊院に安置されている秘仏本尊である聖徳太子および侍者像は、始めて拝観させていただけて感銘した。威厳ある太子像とは対比的に、子息の山背大兄王などの侍者像は、どれも柔らかくユーモラスな表現で描かれているのが印象的だった。

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  最後に有名な「玉虫厨子」があったが、綿密な細工や、今なお輝いてる玉虫の翅が残っているのも驚き、また各面のモチーフである四「施身聞偈」(修行者と羅刹、とか「いろは歌」)や「捨身飼虎」などもじっくり拝観させていただけた。

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 続いて、別館になる「なら仏像館」に足延ばしたが、みんな、歩く疲れてサッーと見るに留まった。その中でも、特別公開されていた金峯山寺の金剛力士像が、天上まで届くような迫力ある存在感を示していた。

 疲れたけれど素晴らしかったです。

 6月20日まで奈良国立博物館で。7月13日~9月5日の機関は、東京国立博物館で開催予定。

 

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神鍋高原

 法事の後は、神鍋高原のリゾートホテルに移動して会食だ。十分に間隔をとって着席したので、交流は難しいのは残念なのは、致し方ない。ご馳走がでる。でも昼間でもアルコールは御法度。禁酒法のようだ。それぞれが故人を偲びつつ終了した。

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 十分、京都に戻れる時間だったが、施主のご配慮でホテルに泊まることになっている。この時期、他の宿泊客はいない。施主のご姉妹とぼくたち夫婦の二組だけなのだ。それでもフロントも、レストランも、温泉や清掃スタッフが働いて、4名の宿泊客よりもスタッフ数の方がはるかに多い。広い温泉も1人に貸し切り。贅沢というより申し訳ない。

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 遅い目の昼のご馳走でお腹が一杯だが、夕食の時間が迫っている。

 腹ごなしを兼ねて、神鍋高原を散策。子供でも、先生でも、こので仏の子供大会が開かれいる。学生時代には、追跡ハイキングのコース作りで2、3度下見に来ている。冬のスキー場から、夏の合宿場、そして、温泉を備えたリゾート地と、あたりの風景は変わったが、自然自体は変わらない。近畿で一番新しい火山だといわれる神鍋山には登らなかったが、山の回りを歩く。ごき水系で一番落差のある八反滝、そして林の中を抜けて俵滝まで歩いたが、人には合わなかった。


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<八反滝>
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<俵滝>
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     夕食も御馳走だ。有り難いことだが正直、苦しい。ご馳走を前に禁酒といのうが、一番の苦しかった。しかもぼくたちだけのサーブしてくださるので、残すのも申し訳なく、夫婦でふうふういいながら、ご馳走を堪能した。「田あれば田があることで苦しむ」の仏説どおりである。

 おかげて、永代経に続き、会の健全な運営(?)には、大いに助かった。

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インド・お釈迦さまの聖跡巡拝の旅

  今年1月末から2月中旬にかけてインド仏跡巡拝の旅に出かけた。

 その後、すぐにコロナの感染拡大により、インド入国ビザが発給停止の入国制限が始まり、観光目的の旅行は完全にストップしてしまった。ほんうとに、ギリギリのタイミングでの巡拝だった。「よくぞ、あのタイミングで行けましたねー」と、参加者の皆さんと感慨深く分かち合っている。

 旅行社のトラベルサライさんからメール。国内聖跡巡拝にお世話なってきた旅行社はコロナの影響で、10月一杯で会社を畳まれた。もしやと思ったが違った。添乗はなくなったが、なんとか踏ん張っているとのこと。用件は、NHKカルチャーで、トラベルサライ社長さんがインド仏跡の講義のZoom案内だった。しかも、今回のインド旅行で現地が添乗されたバンシーさんが、ブッダガヤからライブ中継!

 早速、インド巡拝組に連絡して、華光会館でも少人数の鑑賞会を計画。

 これがとてもよかった。四大仏跡と合せて、釈尊のご一緒を歩ませていただいた。合せて、ジャイナ教のことやヒィンドゥー教のことも写真でみせていただけた。またブッダガからのライブ中継は、特別な許可の元で行われたが、コロナ影響で、あの喧噪の中にあったブッダガヤが嘘のように静まりえっていた。拝観を停止しているという。39年前に静寂なブッダガヤの夕景を経験しているので、なんとなく懐かしい気分にもなった。合せて、成道後、法悦を楽しまれた7箇所で7日間(49日間)の一つ一つも、現地の説明。勉強になりました。

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 終了後、参加者で、インド土産のミルクチャイを飲んで、しばらく歓談。

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飛騨の旅(3)安国寺~千光寺

 三ケ寺の本堂が閉まっていたので早めに切り上げて、国府町の安国寺へ向う。経蔵は、飛騨地方にある唯一の国宝建造物でも、回転式の経蔵もみたかった。一切経がおめさられていのるである。ところが、せっかく訪れたのにコロナのために拝観停止中との張り紙。HPにはそんな情報はなかったが、ここも境内内だけの拝観となって、残念。国宝の経蔵の外観は拝観できたが、楽しみは次回へ。

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<境内にあった写真でご勘弁を>

 再び、法座会場のF家前を通って、千光寺へ。真言宗の名刹だが円空仏で有名だ。丹生川町なので少し山間に入っていく。用心して厚着をしてきたが、それでもかなり寒く、雨も降って不自由だ。でも、ここまで来たのだからと登っていく。ところが円空仏寺宝館は「土曜・日曜・祝日のみ開館」の張り紙。ああ、残念。せめて本堂だけでもお参りすると、ここは拝観を行っていた。先客が一名が帰られるところで、誰も参拝者はいない。それでも、「これから宝物館も開館します」とお返事。ご住職は著書も多く有名の方で、瞑想や入門のワークを手がけておられる。昨晩も、その半生をFさんから教えてもらっていたばかりだ。

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 本堂をお参りした後に、寺物館へ。円空仏は、下呂の宝物館でかなりの数を拝ませていただいたが、ここは数は多くないが、粗削りな三十三観音、両面宿儺(りょうめん・すくな)像は、円空の代表作。宿儺は、飛騨の豪族で、伝説ではこの千光寺の開基といわれる人物だが、日本書紀では、顔が二つに、手足が各四本ずつ怪物、逆賊として大和朝廷に成敗されたとある。もちろん、あくまでも中央の勝者の史観であって、実際は、飛騨や美濃では「スクナ様」と崇拝されている。この宿儺像も、柔らかい愛嬌のある表情で、怪物には見えない。合せて、円空の画像や書なども展示されていた。

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 寺宝館をわざわざ開けていただいたと恐縮していると、なんのことはない。入館とほぼ同時に団体の来客。バス3台での小学生が、ガヤガヤと入ってきて、とても賑やかになる。久しぶりに密な空間を味わわせてもらえたが、同時に宝物の説明を聞かせてもらえた。岐阜市内の小学校の修学旅行で、コロナの影響で県内をめぐる旅行に縮小されたという。次ぎに訪れた高山の古い町並みでの買い物中にも遭遇。グループでの自由行動で、一層、楽しそうな歓声を上げていた。どこにいっても友達と一緒なら楽しいのだろう。これも今年ならでは風景。

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飛騨古川探訪(2)~三寺参り~

  飛騨古川は,、会所の高山国府町の隣町にあたる。でも、これまで訪れたことがなかった。高山の浄土真宗はお東が多いが、古川はお西の三ケ寺が、報恩講のお逮夜(1月15日)の三寺参りは、飛騨地方の風物詩にもなっている。古い街並みに大きなロウソクが灯れ、晴れ着で着飾った独身の女性が、良縁を求めて三寺を順番にお参りするというのだ。真宗の教義とは関係ないが、この地域独特の背景があるようだ。お逮夜の日、訪れたいところである。

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<旅館から本光寺を望む>
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<ああ、野麦峠の碑>

 平日、しかも雨が強く降っていることもあって、街はひっそりとしていた。しかもは肌寒い。三寺は、どこも立派な伽藍である。境内も広い。ただし、防犯上の理由か、三寺とも本堂は施錠されていて、本堂の外からしかお参り出来ずに、残念。それでも浄土真宗の境内では見たことのない珍しいものを発見。この三寺を回って、スタンプを集めるとご利益のあるお守りが作れるという掲示が、各寺のお賽銭の箱の側に掲示されていた。庄松さんなら、「間男見つけた!」と叫んでおられたであろう。

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<円光寺>
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<真宗寺>
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<本堂前に掲示中!>
 一応、お寺は関わらない観光協会の企画の体をとっており、あくまでも風習として目くじらを立てまいというところか。中には御朱印を授けるお寺もあった。真宗の教えの上からは、お守りも御朱印も逸脱度が高いように思えるのだが、本山に楯突くことがないのなら、非難されることもないということか。それでいて、まともな安心の主張は異端視される教界の風潮は、俗世間そのものではないか。結局、このあたりが一般の浄土真宗のご信心の内実であって、俗信を出ることができないのであろう。
 これは旅とは関係ない、愚痴でした。
 とても寒い三寺参りでした。南無阿弥陀仏
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<広瀬精一師寄進の聖人像は立派だが、>

 

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飛騨古川探訪(1)~恩恵~

 法座の会所になるF家での懇親会。F兄弟とぼくたち夫婦の4名。ブレミアムビールに、飛騨古川にある有名な二つの酒蔵の銘酒、ワインも振舞われ、最後はハイバールを飲んでいた。初物の地元産の松茸まで頂いた。でも、一番の肴は、法義話。手放すところの味わいを喜べる法友である。珍しく連れ合いが一番にダウン。気がつく2時近くになっている。こんな感じでの法座での懇親会は、3月の日高支部法座以来である。幸い、いい酒は翌日に残らず、法座に臨むことができた。

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 さらにGo To トラベルを使ってもう1泊、飛騨古川に宿泊。安政年間に創業された老舗旅館で、今の建物は明治に再建された商家が元。しかし、ただ古いだけの不便さはなく、内部にはエレベーターもウオシュレトが完備され、雰囲気は残しながらも不自由を感じせることはなかった。そして、自然な感じの接客がよかったし、料亭だっただけに料理も美味しかった。

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  もちろん、ここでも飛騨古川の銘酒の飲み比べをした。
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 翌朝、雨の中、古川の古い街並みを散策し、酒蔵も訪ねた。蒲酒造の白真弓と渡辺酒造の蓬莱なら、蓬莱が好きだ。高山ではコンビニでもスーバーでも飛騨の銘酒が並んでいる。中でも蓬莱をが一番よくみかける。しかし、質が落ちないように生産量を絞り、地域限定になっていて、あまり京都では流通していない。飛騨の地にこなければ手に入らないのである。その中でも、直接、酒蔵に来ないと入手できない原酒を購入。

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 連れ合いは、日本酒ガチャに挑戦するもの、値段以上のものは得られず。
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 他にも地域クボーンで買い物に苦労したりと、何かとGo To トラベルの恩恵を受けた旅でした。

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インド仏跡(33)~ジャイナ教の出家者(2)~

 ところで、成道前の釈尊の苦行を伝える経典には、「身には衣服を着けず、常に裸体」で、「魚・肉・酒をとらず、一日一食より始めて半月に一食をとるに至った」。そして「常にひげや頭髪を抜きとる」などの苦行に徹して、「不注意から、小さな生物を殺さぬよう、道を進むにも退くにも気をつけ、一滴の水にも細心の注意を払った」とある。まるで、ジャイナ教の出家者の姿である。

 この肉体を徹底的に痛めつける苦行こそが、輪廻転生から解脱し、悟りを得るためのインド伝統的な修道法でもあったのだ。

 しかし、釈尊は六年の苦行の末、肉体を限界まで苦しめる行の無意味さを悟り、勇気をもって苦行を捨てられた。若き日の快楽主義でもなく、苦行主義でもない「中道」の教えを説かれた。それは北インドを中心に、釈尊の滅後も発展をしていく。アーショカ王に代表される、強大な権力の庇護もあって、仏教は、インドを超えて、上座部仏教としてスリラカンや東南アジアに。一方、チベットや中国、朝鮮、日本へは、かなり形を変えた大乗仏教が伝播して、世界宗教へと発展していくのである。

 ところが、本家インドでは、仏教内部での分裂やヒンドウー教の巻き返し、社会変化に伴って衰退し、13世紀のイスラム教の迫害によって、密教化、呪術化していた仏教は、ヒンドゥー教に呑み込まれる形で、完全に消滅してしまった。

 同じように迫害を受けたジナの教えだが、2500年を経た21世紀のインドで生き続け、約450万信徒を抱え、今も生きた活動がなされている。
 しかし、仏教のようにインド世界を超えてまで広がることはなかった。厳格な禁欲と苦行が、他者との妥協や融合を拒んだからだろう。それゆえに教えの純粋さは守られインドはで生き残ったが、一方では他民族への広がりを拒んだのである。

 同じところで、同じようにスタートした釈尊の仏教と、ジナ・マハーヴィーラのジャイナ教だが、その広がりや歩みを比較するとたいへん興味深い。

 では、私達の浄土真宗の歩み、そしてこれからの華光の行く末はどうなるのか。歴史に学び照合すると、興味深いことが浮かびあがるようだ。与えられた正解などはない、今、何を聞き、何を喜び、何を伝えていくのかが問われ続け、常に両者(純粋性と寛容性)の葛藤の中で、我が身を問いながら、歩みつづけるしかないのだろう。

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インド仏跡(32)~ジャイナ教の出家者(1)~

    素っ裸で、払子(虫を払う箒)を持ち、堂々と歩むジャイナ教裸行派の出家者の姿を見たときは、衝撃的だった。2500年前の教えが、一気に現実となったのだ。しかも3度までも出家者の姿に出会うことになる。

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 教祖のジナ・マハーヴィーラは、『信巻』にも登場する六師外道の一人「尼乾陀若提子」である。親鸞聖人のご和讃にも、「外道・梵士(バラモン教徒)・尼乾子(ジャイナ教徒)に こころはかはらぬものとして」(『悲歎述懐』618頁)とか、「九十五種世をけがす 唯一仏道きよくます」(『正像末』602頁)の九十五種の外道の一つに数えられている。

 そのジナ・マハーヴィーラは、バイシャーリー郊外のクシャトリヤ(王族)の家に生まれで、釈尊よりも17歳若い。父親の名前は「シッダールタ」と、釈尊の若き日の名前と同じである。30歳で出家し、12年の苦行の末、真理を悟って「ジナ=勝利者」となった。ジャイナ教とは、「ジナの教え=勝利者の教え」という意味がある。以後、30年間、王舍城を拠点に伝道に励み、72歳でパータリプトラ近郊で没している。つまり、まったく釈尊と同時代に、同地域で活躍しているのだ。共通点は、

 仏教の立場からみれば、六師外道は「外道」と名付けられるように、仏に成れない僞の教えということになる。がしかし、当時のインド宗教界、思想界では、共に最高権威のバラモン教を批判する新興思想であり、新しい自由思想家として共に、ビンビサーラ王やアジャセ王に保護を受けて、同じ地域で活躍していたライバル。バラモン教からみれば、同一視された危険思想ということになろう。

 さてその教えは、「(1)正しい信仰、(2)正しい知識、(3)正しい行いという「三宝」を重んじること。
  そして、徹底した禁欲の実践である。「五禁戒」-(1)不殺生、(2)不偸盗、(3)不淫、(4)不妄語、(5)無所有を厳守である。仏教の「五戒」に類似するが、仏教では「不邪淫」であるのに対して「不淫」(夫婦での男女関係も禁じられている)。そして、「不飲酒」が「無所有」になっている。つまり、より徹底した禁欲(中でも、不殺生-アヒンサー)と、無所有が強調される。命を捨てる断食や苦行に徹しなければ、迷いの輪廻のから解脱した、真の勝利者になれないというものだ。(つづく)

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インド仏跡(31)~格差社会~

 当初の予定では、スラバスティー(舍衛城)泊だったが、さらに168キロの道を、6時間かけてて走って、ラクノウまで進むことになった。UP州の州都であるこの街には思い出がある。39年前はスラバスティには宿がなく、ここまでバスで走った。その夜、タクシーに分乗して映画館に繰出した。字幕なしのインド映画を鑑賞する。日本でのインド映画ブーム前だったが、ダンスと音楽が溢れた極彩色映画は言葉も分からなくても楽した。それよりインド人(当たり前)満員の映画館の雰囲気が、楽しかった。その時は、飛行機でデリーまで行ったが、予定どおりに飛ばずに、長い時間待たされたので、原っぱで円座になって座談会をしたことも、懐かしい思い出だ。

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  でも今回は大いに驚いた。大都会であることは聞いていたが、情報ではなく、実際に体験することで分かるもとある。日本並の高速道路になったかと思うと、高層ビル群があちこちらに現われたことだ。球場ではナイターもやっていた。野球ではなく、インドの国技といっていいクリケットである。明かりが煌々とついているところは、結婚式場だという。田舎の式もすごいと思ったが、都会は規模が違う。ホテルも、一気にグレードアップして、ぼくたちがとても田舎者で、場違いな場所に来たくらいの想いがした。それほど落差が激しかった。
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≪クリケット競技場↑≫
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≪豪華な結婚式場↑≫
 アグラに向う高速道路はこれまでの名ばかりの高速道路で、実は凸凹の悪路とはまったく違って快適そのものだ。8車線もあるのにまったく車が走っていないのが不思議に思っていたら、これは宿泊したホテルの大富豪が造ったプライベート道路! 料金が高くて一般の人はなかなか走らないというのだ。ガイドのバンシーさんは、「道が良すぎて、運転手が居眠り運転しないか心配だ」と、冗談半分で話してくれた。車窓の風景も違うが、道路格差にも驚かされた。
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≪ホテルもグレードアップ↑≫

 たった8日間とはいえ、インドの田舎を巡回しただけでも、貧富の落差の激しさを実感させられた。いくら格差社会になったと日本では体験できない類のものだった。

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