カテゴリー「旅行・地域」の326件の記事

インド仏跡(33)~ジャイナ教の出家者(2)~

 ところで、成道前の釈尊の苦行を伝える経典には、「身には衣服を着けず、常に裸体」で、「魚・肉・酒をとらず、一日一食より始めて半月に一食をとるに至った」。そして「常にひげや頭髪を抜きとる」などの苦行に徹して、「不注意から、小さな生物を殺さぬよう、道を進むにも退くにも気をつけ、一滴の水にも細心の注意を払った」とある。まるで、ジャイナ教の出家者の姿である。

 この肉体を徹底的に痛めつける苦行こそが、輪廻転生から解脱し、悟りを得るためのインド伝統的な修道法でもあったのだ。

 しかし、釈尊は六年の苦行の末、肉体を限界まで苦しめる行の無意味さを悟り、勇気をもって苦行を捨てられた。若き日の快楽主義でもなく、苦行主義でもない「中道」の教えを説かれた。それは北インドを中心に、釈尊の滅後も発展をしていく。アーショカ王に代表される、強大な権力の庇護もあって、仏教は、インドを超えて、上座部仏教としてスリラカンや東南アジアに。一方、チベットや中国、朝鮮、日本へは、かなり形を変えた大乗仏教が伝播して、世界宗教へと発展していくのである。

 ところが、本家インドでは、仏教内部での分裂やヒンドウー教の巻き返し、社会変化に伴って衰退し、13世紀のイスラム教の迫害によって、密教化、呪術化していた仏教は、ヒンドゥー教に呑み込まれる形で、完全に消滅してしまった。

 同じように迫害を受けたジナの教えだが、2500年を経た21世紀のインドで生き続け、約450万信徒を抱え、今も生きた活動がなされている。
 しかし、仏教のようにインド世界を超えてまで広がることはなかった。厳格な禁欲と苦行が、他者との妥協や融合を拒んだからだろう。それゆえに教えの純粋さは守られインドはで生き残ったが、一方では他民族への広がりを拒んだのである。

 同じところで、同じようにスタートした釈尊の仏教と、ジナ・マハーヴィーラのジャイナ教だが、その広がりや歩みを比較するとたいへん興味深い。

 では、私達の浄土真宗の歩み、そしてこれからの華光の行く末はどうなるのか。歴史に学び照合すると、興味深いことが浮かびあがるようだ。与えられた正解などはない、今、何を聞き、何を喜び、何を伝えていくのかが問われ続け、常に両者(純粋性と寛容性)の葛藤の中で、我が身を問いながら、歩みつづけるしかないのだろう。

 南無阿弥陀仏

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インド仏跡(32)~ジャイナ教の出家者(1)~

    素っ裸で、払子(虫を払う箒)を持ち、堂々と歩むジャイナ教裸行派の出家者の姿を見たときは、衝撃的だった。2500年前の教えが、一気に現実となったのだ。しかも3度までも出家者の姿に出会うことになる。

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 教祖のジナ・マハーヴィーラは、『信巻』にも登場する六師外道の一人「尼乾陀若提子」である。親鸞聖人のご和讃にも、「外道・梵士(バラモン教徒)・尼乾子(ジャイナ教徒)に こころはかはらぬものとして」(『悲歎述懐』618頁)とか、「九十五種世をけがす 唯一仏道きよくます」(『正像末』602頁)の九十五種の外道の一つに数えられている。

 そのジナ・マハーヴィーラは、バイシャーリー郊外のクシャトリヤ(王族)の家に生まれで、釈尊よりも17歳若い。父親の名前は「シッダールタ」と、釈尊の若き日の名前と同じである。30歳で出家し、12年の苦行の末、真理を悟って「ジナ=勝利者」となった。ジャイナ教とは、「ジナの教え=勝利者の教え」という意味がある。以後、30年間、王舍城を拠点に伝道に励み、72歳でパータリプトラ近郊で没している。つまり、まったく釈尊と同時代に、同地域で活躍しているのだ。共通点は、

 仏教の立場からみれば、六師外道は「外道」と名付けられるように、仏に成れない僞の教えということになる。がしかし、当時のインド宗教界、思想界では、共に最高権威のバラモン教を批判する新興思想であり、新しい自由思想家として共に、ビンビサーラ王やアジャセ王に保護を受けて、同じ地域で活躍していたライバル。バラモン教からみれば、同一視された危険思想ということになろう。

 さてその教えは、「(1)正しい信仰、(2)正しい知識、(3)正しい行いという「三宝」を重んじること。
  そして、徹底した禁欲の実践である。「五禁戒」-(1)不殺生、(2)不偸盗、(3)不淫、(4)不妄語、(5)無所有を厳守である。仏教の「五戒」に類似するが、仏教では「不邪淫」であるのに対して「不淫」(夫婦での男女関係も禁じられている)。そして、「不飲酒」が「無所有」になっている。つまり、より徹底した禁欲(中でも、不殺生-アヒンサー)と、無所有が強調される。命を捨てる断食や苦行に徹しなければ、迷いの輪廻のから解脱した、真の勝利者になれないというものだ。(つづく)

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インド仏跡(31)~格差社会~

 当初の予定では、スラバスティー(舍衛城)泊だったが、さらに168キロの道を、6時間かけてて走って、ラクノウまで進むことになった。UP州の州都であるこの街には思い出がある。39年前はスラバスティには宿がなく、ここまでバスで走った。その夜、タクシーに分乗して映画館に繰出した。字幕なしのインド映画を鑑賞する。日本でのインド映画ブーム前だったが、ダンスと音楽が溢れた極彩色映画は言葉も分からなくても楽した。それよりインド人(当たり前)満員の映画館の雰囲気が、楽しかった。その時は、飛行機でデリーまで行ったが、予定どおりに飛ばずに、長い時間待たされたので、原っぱで円座になって座談会をしたことも、懐かしい思い出だ。

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  でも今回は大いに驚いた。大都会であることは聞いていたが、情報ではなく、実際に体験することで分かるもとある。日本並の高速道路になったかと思うと、高層ビル群があちこちらに現われたことだ。球場ではナイターもやっていた。野球ではなく、インドの国技といっていいクリケットである。明かりが煌々とついているところは、結婚式場だという。田舎の式もすごいと思ったが、都会は規模が違う。ホテルも、一気にグレードアップして、ぼくたちがとても田舎者で、場違いな場所に来たくらいの想いがした。それほど落差が激しかった。
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≪クリケット競技場↑≫
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≪豪華な結婚式場↑≫
 アグラに向う高速道路はこれまでの名ばかりの高速道路で、実は凸凹の悪路とはまったく違って快適そのものだ。8車線もあるのにまったく車が走っていないのが不思議に思っていたら、これは宿泊したホテルの大富豪が造ったプライベート道路! 料金が高くて一般の人はなかなか走らないというのだ。ガイドのバンシーさんは、「道が良すぎて、運転手が居眠り運転しないか心配だ」と、冗談半分で話してくれた。車窓の風景も違うが、道路格差にも驚かされた。
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≪ホテルもグレードアップ↑≫

 たった8日間とはいえ、インドの田舎を巡回しただけでも、貧富の落差の激しさを実感させられた。いくら格差社会になったと日本では体験できない類のものだった。

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インド仏跡(30)~仏舎利を頂戴~

  インド仏跡巡拝の旅も、祇園精舎のある舎衛城で、無事、すべて終了した。
 と思っていたら、添乗員から、「予定ではこれで終わりでしたが、これから郊外のスリランカ寺院にトイレ休憩で寄ります。もしご住職がおられたら、お釈迦様の仏舎利を拝ませてもらえるかもしれません。博物館で仏舎利を見ましたが、ほんとうに遠くから、どかにあるのか分からないほど。でも、ここのでは間近で拝ませてもらえます」と。

 へえ~、意外なお申し出に驚いるていたら、すぐにスリランカ寺院に到着した。
  本当にこんなところにあるの? といいたくなるような佇まい。
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 トイレを済ませて本堂に戻ると、恭しく仏舎利塔を抱えた ご住職が登場。う~ん、う~ん、どっか胡散臭いな、というと失礼だが正直な感想。
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  そしてサンゴや宝石で飾られた仏舎利塔を拝見してくださる。近づいて写真もどうぞ。
 ああ、これか。
 さらに、頭上に頂戴させていただけるという。せっかくなので皆さんもお願いした。ヒンズー教徒のガイドさんまで仲間入り。
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 本物かどうかはともかく、仏跡巡拝の最後に待っていたサプライズ。

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インド仏跡(29)祇園精舎(サヘ―ト)

祇園精舎跡(サヘート)八大聖地


 舎衛城(マヘート)からは1㎞離れてあるのが、有名な祇園精舎跡だ。これまた有名なおいわれを紹介しておく。 

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 この地にスダッタ(須達多)という長者がいました。貧しい、孤独な人に食物を与えたり、者をほどこしていたので、アナータピンディカ(給孤独)と呼ばれ、慕われていました。ある時、スダッタが商用で言った王舎城で、釈尊の説法を聞き感動して、釈尊に帰依して、釈尊をコーサラ国へ招待しました。スダッタは、釈尊の精舎を建てる場所は、コーサラ国のジェータ太子の所領地、ジェータの森しかないと、太子に交渉します。

 しかし太子は売ろうとはしませんでした。それで、冗談半分に「もしその敷地に、黄金を敷きつめたらそこだけ譲ろう」とふっかけます。大喜びしたスダッタは、早速、私財を投げ出し、牛車何台にも黄金を積んで並べ始めたのでした。驚いた太子、スダッタの熱意にうたれて、この土地を寄進。スダッタと精舎を造ったというのです。

 祇園精舎の正式名は、「祇樹給孤独園」(ジェータヴァナ・アナータピンディカッサ・アーラーマ)で、「ジェータ太子」と、「スダッタ長者(給孤独」)の両名の名前に由来する。それが、2500年もたった日本の各地(京都の祇園や、博多にも)その名が受け継がれいる。布施の力はおそるべしです。

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 とても静かな、そして青空の広がる聖地で、猿の楽園となっていた。霊鷲山て見たのとは、また違う種類ですね。猿以外にも、リスやさまざまな小鳥が飛び交っていて、気持ちのいい公園となっている。

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この地を釈尊せたいへんのこの地を気に入られ、成道後第14年の雨期を最初に、成道20年以降、19回もこの祇園精舎で安居を過されたといる。でも、ただ釈尊お独りはなく、お供の大勢の比丘もおられるわけですから、サンガにお布施をするたそめには、いかにこの都の豪商達が経済的に豊かで、舎衛城が栄えていなければ出来いこと。
 
 5世紀のはじめの「法顕伝」は、「池流清浄、材木なお茂り、衆華色を異にして、蔚然として観るべし。即ちいわゆる祇園精舎なり。……精舎を繞り98の僧伽藍あり、尽く僧の住すあり」。とその盛んな様子を記している。
 しかし、200年後に訪れた玄奘は、「伽藍は、外道の人々は甚だ多い」と、すでに荒廃していることを伝えている。

 この遺跡も、1863年にカニンガムによって発掘され、確定された釈尊の多くの遺跡の中で、もっとも確実性のあるものだとか。早くから発掘整備されたこともあり、とてもきれいな、そして静か公園で、たぶん39年前といちばん変わっていないのが印象的。

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 中央よりやや北よりに、釈尊がしばしば滞在されたガンダー・クティー(香殿)、周囲には、多くの精舎跡、そしてアーナンダツリーにも参拝。

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 ここで、私達は『仏説阿弥陀経』を勤行。『阿弥陀経』は、今生の別れとなる舎利弗尊者に向け、問を待たずに説かれた「無問自説の経」で、釈尊の「一代結経」と呼ばれる。親鸞様は、『大無量寿経』と並んで「出世本懐経」だご覧になられている。

 気持ちよい天候のなかで、仏跡の最後となるのでお勤めを、力一杯勤めた。勤行が始まると、猿が多く集まってきたのが印象的(荷物の中身を盜られた方もあった)。

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 こうして、予定どうりにすべての仏跡巡拝は終わった。最後は、名残を惜しんで、お釈迦さまのみ跡とお別れである。南無阿弥陀仏
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インド仏跡(28)舎衛城(マヘ―ト)

 今日も、また5時起床。インド入国後、初日の4時30分に始まって、ずっと5時台の起床が続く。昨日の反対で、今度はネパールからインドに国境を超えねばならないのだ。そして、ルンビニーから、シュラーヴァースティ(舎衛城)へ向う。最後の仏跡地となる「祇園精舎跡」にお参りをする。

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 予想以上に寒い朝だった。やはり、ネパール側でも、インド側でも待たされたが、ぞさでもスムーズな出入国ではなかったか。
 途中、待望の青空トイレ。今回は初めてで、なるべくタイやスリランカなどの寺院のトイレや、茶店を使っていた。これはこれで思い出にある。(青空トイレの時に)

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 ホテルで遅い昼食。当初は、ここに泊まる予定だったが、今日のうちに、ラクノウという街まで足を延ばし宿泊することになった。もう好かり慣れて、売店で積極的に買い物されていた。

 シュラーヴァースティ(舎衛城)のメーンは祇園精舎だが、紹介はまず舎衛城から。


シュラーヴァースティ(舎衛城跡)八大聖地


 ここは、王舍城から最も遠いシュラーヴァースティ(舎衛国)の首都で、南の伝道拠点「王舎城」と並ぶ、北の伝道の拠点である。

 『仏説阿弥陀経』は、「如是我聞 一時佛 在舍衞国 祇樹給孤独園 与大比丘衆 千二百五十人倶」で始まります。漢訳経典の訳者によって、「舍衞国」「舍衞城」「舍衞国城」とある。「舍衞国」のなかに、「舍衞城」や「祇園精舎」があると考えればよいのだが、経典の場合、同じ意味で「城」と「国」を同一で使っておられる。

 さて、舎衛城は、釈尊の時代、大繁栄をみたコーサラ国の首都であった。コーサラ国とは、二大叙事詩で有名な「ラーマーヤナ」の主人公ラーマこそが、コーサラ国の王子である。ラーマーヤナ物語の時の首都はアヨーディヤー市であったが、遷都されてシュラーヴァースティ(舎衛城)が首都として栄える。釈尊在世には、マガダ国と並ぶ二大強国で、釈尊の出身地の「シャカ族」を殲滅させる。この因縁もすごいが、今は略する。しかし、その後、マガダ国の阿闍世王によって滅ぼされていくことになる。この歴史の綾もすごい。

 釈尊在世当時は、ハシノク王の居城として栄え、周囲は約6.4㎞にわたって城壁が巡らされていたという。城跡は1.2mから、6~7mの小高い丘だったが、現在はウッタルプラデーシュ州、ゴンダ地方とバーライッヒ地方の境界にあって、単なる遺跡でしかない。

 その舎衛城跡は、祇園精舎跡から北へ約1㎞、ラプティ河(アチラバッティ河)の左岸にあります。舎衛城跡は「マヘート」と呼ばれている。

 5世紀に、法顕三蔵が訪れた時には、「人家が200戸くらいあった」と記されているが、現在はほとんどが水田や畑の田舎である。

 1863年にイギリスのカニンガムによって発掘され、スダッタ長者の旧宅跡と推定した「カッチークティ」。

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 盗賊アングリマーラーの旧跡と言われる「パッキークティ」の大きなレンガづくりの遺構が残っている程度。(いずれも異説あり)

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 盗賊アングリマーラーの逸話も面白い。真宗では、歎異抄第13章の「千人殺せ」の話題に通じるお方だが、今は長くなるので省略。祇園精舎のおいわれとなるスダッタ長者のことは、次に触れる。

 今は遺跡が残るだけの鄙びた地も、釈尊当時はたいへん栄え、釈尊も好んでこの地に滞在しておられることに心を馳せながら、遺跡を眺めた。とくに、舎衛城(シュラーヴァスティー)の奇跡といって、仏陀釈尊が異教徒を折伏せんがために、神通力を示した「千仏化現(センブツケゲン)」や「双神変(ソウジンペン)」を現したことは有名で、後世に、浮彫図などの題材とした秀作が多数造られていくのである。

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インド仏跡(27)~ルンビニー園のアショーカ王柱~

●アショーカ王柱●


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   この地がルンビニー園であることが確認されたのは、この、アショーカ王の石柱を発見のおかげである。石柱の現在の高さは約7mあるそうだが、アショーカ王柱の頭部は欠損し、落雷の跡と言われる亀裂が入っている。しかし、石柱の文字はよく分かり、翻訳もされている。

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「天愛喜見王(アショーカ王)は、(即位)灌頂の第二十年(を経て)、自らここに来り、親しく参拝した。ここでブッダ・シャカムニが生誕せられたからである。それで石で馬像を造り、石柱を造立せしめた。ここで世尊が生誕せられたのを(記念するためである)。ルンビニー村は租税を免除せられ、また、(生産の)八分の1のみを支払うものとする」(中村 元訳)

とブラーフミー文字で刻まれている。この文字で現存するのは、アショーカ王法勅文だけで、「アショーカ文字」とも呼ばれている。これが後に梵字になり、13世紀以降、デーバナーガリー文字として普及したとか。改めて、アショーカ王のすごさを教えられた。

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 他の仏跡巡拝の団体はなく、ゆったりしているんで、お正信偈をお勤めさてもらう。

 「如来所以興出世  唯説弥陀本願海
  五濁悪時群生海  応信如来如実言」(正信偈)

 お釈迦さまのご出世は、五濁悪時の我々凡夫のために弥陀の本願を説くことにあると、親鸞様。その地が、まさここなんです。


●マーヤー夫人の沐浴の池●



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 お母さまのマーヤー夫人が、沐浴されたと伝えられる池。
周りでは、チベット僧が読経をしています。
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≪無憂樹の枝に右手を延ばされた時に、、↑≫

 5世紀に、この地を訪れた法顕は、マーヤー夫人の沐浴の池の水を衆僧が取って飲んでいたと記している。しかし、「白象、獅子が横行し、行路は怖ろし」とも記載しているが、その200年後(7世紀)には、玄奘三蔵も巡礼している。そして、アショーカ王柱の石頭が落雷のため、折れて下に落ちていると記している。8世紀に訪れた慧超は、「このあたり森は深く、道には賊あり、巡礼者は方角を知ることが難しく迷い易い」と。四大仏跡の中で、最も早く荒廃したと思われている。

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≪39年目のマーヤー堂からアショーカ王柱。なーにもないです↑≫
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 ただし、このあたりは他の遺跡がないようで、仏跡地としては他の関連施設(周辺の各国自院はあるが)はないので、妙なボート遊覧やや金ぴかの誕生仏は、せっかくの静寂の聖跡が世俗化に進みそうで、感心しなかった。

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≪ネパール国旗が掲揚される≫

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インド仏跡(26)~ルンビニー園+新旧3つのマーヤー堂

 ●ルンビニー園と新マーヤー堂


 さて、釈尊のお誕生の地、ルンビニ―園。ここは、1896年、フェーラー博士が発掘調査し、アショーカ王の石柱を発見されルンビニーであることが確認されたとのこと。

 40年前に訪れた時には、遺跡の中央に白い小さな「マーヤー堂」(もちろん、摩耶夫人のお名前)と「沐浴の池」と、「アショーカ王柱」がある程度。回りには草原が広がっていた。それが開発が進んで、きれいな公園になっていてのには驚いた。この公園をマスタープランは、日本の高名な建築家、丹下健三氏だ。ネバールが観光にも力を入れる世界遺産でもある。1992年から世界仏教連盟、中でも日本の仏教界が力をいれて、ルンビニー園の復興事業が動きだし、従来のマヤ堂を解体して、考古学的作業を開始して、多くの出土品を発見、ここが釈尊誕生の地であることを示す「マーカーストーン(印石)が、旧のマーヤー堂の真下から発見されている。写真が、釈尊が生まれられた場所!!

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 そしてぼくが見た、3代のマーヤー堂です。

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≪旧マーヤー堂↑≫
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≪2000年には一回り大きい新マーヤー堂が完成↑≫
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 発掘された内部を見学できるように、新マーヤー堂の内部は回廊が設けられている。数年前、紀元前6世紀に遡る木製寺院の遺構が発掘されたというニュースを耳にした。釈尊の誕生に関わる世紀の大発見かもしれない。その遺構と見れなかった。
 今回内部の撮影は禁止だったが、10年前はOKだったので、そのときの写真を掲載。

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 マーヤー堂の仏陀生誕像は、マーヤー夫人の下に天子が立ち、左に侍女、右に帝釈天と侍女を配する形になっています。左手のかがみこんでいる侍女は、考古学者のバッタチャリャによりますと、マーヤー夫人の妹で、マハー・パジャパティー・ゴータミーで、マーヤーの死後、釈尊を養育し、養母となられた方だと言います。顔はけずり取られ、まっ黒になっています。上の写真が現物で、下が複製。

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 またこの堂の周辺には、煉瓦造りの大小の奉献ストゥーパが点在。1976~78年の発掘調査の際に掘り出されたもの。

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インド仏跡(25)~国境を超える(番外編)

 ちなみに39年前のインドーネパール国境はこんな感じだった。昔は降りられたし、写真もOKだった。写真の色にも年期が入ってます。

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≪インド側国境施設。バスが止まると子どもたちが集まってくる↑≫
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≪このポールと向こうのポールが国境線↑≫
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≪この向こうが緩衝地帯(インド側)↑≫
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≪これを超えるとネパ-ル↑≫

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インド仏跡(24)~国境を超える

 クシナガラからルンビニーまでは、やはり6時間のバスの長旅である。しかも、国境を超えてネパールに入らねばならない。インド側の出国と、ネバール側の入国の手続きがあり、ネパール側ではビザも取得する。もし、他の仏跡団体が重なると、何時間も待たされることなるので、早め早めに行動。この先手必勝が幸いし、涅槃堂でも、国境でも、同じ行動をしていたビルマの巡拝の団体より、常に一歩先んじることができた。彼らは、かなりの大人数だったので、これは添乗員さんのファインプレー。
 行儀よく並ぶのは日本人の特出だと思っていが、皆さんも団長の合図ですぐ整列していた。

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 それでも、インド側でもネバール側でも、かなりの時間がかかった。インド側では制度変更の初日ということで、「仕事をしてます」の写真撮影があったのだ。ポーズだけとって、終了。コロナウィルスの問題が起こっていて「チャイニズー?」と何度も尋ねられた。

 外国人と違って、インドやネバールの人は、この国境はフリーバスで往来。
 緩衝地帯ギリギリでも商売しています。一応、写真撮影は不可。一度、中国の新疆ウイグル自治区の『入国』で、痛い目(武装警察が小銃ももってバスに乗り込んだ)写真はやめておいた。

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≪国境の町で買い物する国境警備隊の女性隊員↑≫

 ネパールにはいっても国旗が変わった以外、お金もインドルピーが使えて、特に変わった印象はない。あいからわずの悪路で、ネパール側は工事中で、一層厳しかった。遅い昼食をホテルでとって、ボロボロのワゴンに乗り換えて、ルンビニーへ。

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≪ネパールは、ブッダオイル↑≫



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