カテゴリー「旅行・地域」の269件の記事

三条別院

 Img_8910新潟3日目。京都に帰宅するだけだが、新幹線の時間までお東の三条別院を案内してもらうことになった。

Img_8909 別に大きな行事や法座がないのに、駐車場にたくさんの車が止まっていた。

 ここでも、「ちょっと紹介したい人もあります」とのことだったが、残念ながら、今日はImg_8914無理だった。11月の初めてにあるお取り越しの報恩講の準備で、職員も、お手伝いの方、数十人が掃除やお磨きに勤しんでおられたのだ。駐車場の謎もこれで説けた。Img_8916_2http://sanjobetsuin.or.jp/hoonko/

 本堂の仏壇も、旧の仮本堂の仏壇も、磨きのために、仏具も、輪燈などのお荘厳がすべて外されていた。殺風景だが、逆に、回りが飾られない阿弥陀様と対峙することが出来た。逆に、これは珍しい光景だったImg_8918ので、本堂の阿弥陀様も、旧本堂の阿弥陀様も、撮影させていただきました。南無阿弥陀仏

Img_8920 お許しを頂いて、お磨きの皆さまのご様子も一枚。ご苦労さまです。
 
Img_8934 三条市のB級グルメの「カレーラーメン」を頂いて、帰宅の途に。

 京都→新潟(越後)は、親鸞様が何日もかけて歩かれところである。流罪の許された後、越後から関東へ入られるのだが、京都に戻られるまでは20数年もかかっている。それをわずか4時30分ほどで駆け抜けていった。

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山室温泉

Img_8872  越後の国、新潟は、これまで何度も訪れたことがある。親鸞聖人のご流罪の地でるからだ。観光もあれば、お悔やみもある。ご法座もあった。聞法旅行でも4度訪れ、そのうち1度は佐渡ヶ島に行った。そして、今回、初めての新潟市内での寺院布教だ。

Img_8875 そしてもう一つ初めてだったが、東京経由で上越新幹線を利用したことだ。これまでは日本海側を通ってきた。金沢で特急でImg_8882乗り換えたり、パスや乗用車のこともあった。正味、4時30分で到着した。初めての上越新幹線なので、通過する駅も見慣れないところばかりだった。新潟駅ではなく、燕三条駅に降り立つ。初めて降りる駅だImg_8879が、駅に来るの2回目だ。
「初めてなのに、2回目とはこれ如何に?」
 謎かけのようだが、答えは簡単だ。越後Img_8906七不思議の聞法旅行の帰路、東京支部や地元の皆さんをこの駅までお送りしたことがあっただ。つまり、一度はバスで来たというだけのこと。これでは、残念ながら越後八不思議には加えてもらえない。

Img_8884 今回のお宿は、温泉宿を用意してくださっていた。山室温泉は初めて聞く温泉Img_8881だったが、硫黄の匂いも強く、しかもナトリウム泉で、しょぱい。露天風呂は源泉だったので、さらに温泉に入っている感じを強くした。以前泊まった月岡温泉といい、新潟にはよい温泉がある。特にこの宿は、温泉街のはずれで、回りには稲刈りが終わった田んぼばかりでなにもなかった。

 夜は、両日とも遅くなったが、朝は、温泉でのんびり過ごせて、初めての法座だったが、かなりリラックスして臨むことができた。ありがとうございました。

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沖縄の旅(6)~美ら海水族館~

Img_8538  昨日の好天が一変して、冷たい雨になった。沖縄観光の定番の、美ら海水族館しい
実は、ぼくはここが初めてだ。いろいろと水族館はあるが、ここは世界最大の水Img_8544族館だった。海洋博の遺産てある。国営公園だけに、」駐車場は無料、イルカショーも無料。国営の記念公園には、外にも無料の施設がたくさんあっImg_8540て、有料でも料金は安い。とても、2~3時間で回れるImg_8515規模ではなかった。

イルカショーを見る。よく訓練されImg_8570ていたし、イルカよりもクジラに近い(大型と小型の違いだそうだが)ものもいて、大人気だった。

ただ、イルカショーを純粋に楽しめなくなってImg_8688いる。今年見た『おクジラさま』~ふたつの正義の物語~を見て以来、一気に、ぼくの持っていたクジラやイルカ漁の価値観が崩壊したからだ。子供のImg_8633頃、動物園でもチンパンジーやゾウのショーがあった。まさに見世物だったが、いまでは公立の動物園でのショーは無い。将来、それを専門にする以外は、水族館(園)でのショーは無くなっているのだろう。日本Img_8793のイルカ漁に対する欧米の風当たりはとても強く、外圧で、園で繁殖した以外の調達が難しくなっているのである。

Img_8800この後、連れ合いさんは、初めてみたマナティーの水槽から離れない。2本足で歩きながら進む姿が珍しかったようだ。いろいろと無料のところ見て回って、巨大水槽のエリアへ。2匹のジンバエザメや、巨大マンタが泳ぐ水槽は、いろいろと見せ方も工夫されていた。巨大水槽の前は、平日なのに混雑している。週末や繁忙Img_8669期にはどうなるのだろう。インバウンド恐るべしである。

   大型の水槽は、いくら見ていても飽きない。ほかの小さな水槽もかなり丁寧に見ていたら、それだけで半日すぎてしまった。そして、写真も撮りまくったが、いまはほんの一部だけ。 
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沖縄の旅(5)~残波岬、万座毛~

Img_8247 今回は3泊4日の旅。しかし、初日と4日目は移動のみで、正味2日間の沖縄である。おそろしい(いい意味で)ほどに安いツアーチケットを手に入れた。JALの伊丹と那覇間の往復運賃、リゾートホテImg_8250_2ルの3泊と朝食、夕食1回、4日間のレンタカー代がすべて込みで、京都から大分を往復交通費とほぼ同じ料金だった。新潟の往復新幹線代にもなならい。10月の中旬から閑散期になるのだが、観光地もホテルImg_8249も混雑していた。インパウンドの恩恵を受けているのでだが、アジア系の観光客が多かった。今回は、大浦湾にも行きたかったし、うるま市Img_8251の華光同人や知人の真宗寺院にもお参りしたかったが、このあたりは丁寧に回りたいと思ったので、次回の旅に持ち越すことにした。

  ホテルは読谷村の残波岬にあった。先の強烈な台風で被害があって、残波岬の灯台は修理中で登れなかったが、青空に紺碧な海は美しImg_8477い。岬に、偉人の像が立Img_8491ってた。「ここはどこでしょう」と、クイズを出すと、すぐに分かってしまった。この方、有名なようです。

  翌日は、沖縄の西Img_8492_2海岸を進むと、万座毛がある。ここも観光客で混雑していた。今日も、からだがもっていかれるほど強風だったが、台風の凄まじさはおそろしいものだろ。昨日は、まだ泳ぐ人も多く暑かったが、一日で天気は急変。今日は、冷たい風が吹きつけている。
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 ≪残波岬から紺碧の海≫
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  ≪万座毛≫
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 ≪アダンの実≫

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広島法座in福山~夕映えの福山城

Img_8212今年も、福山市での広島支部法座があった。

家人が亡くなられて3年目になるのに、また法座の会場として提供くださる。
福山ならばこそお参りくださった方もあった。お初めての方もあった。お身Img_8217内にお声をかけられたのである。内容は、「苦悩を有情」救いであるが、苦悩の実相、その中味をいろいろと味わっていった。

帰路、新幹線の時間まで、夕陽に映える福山城に寄った。もしかすると、来年はこの会場はなくなるかもしれないが、とにかく福山で法座が持たれてよかった。Img_8211
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沖縄の旅(4)~夜の首里城~

Img_8416_2 閉館時間まで平和祈念資料館にいたが、もう一か所、行きたい場所があった。映画で有名になった浦添市の前田高地、アメリカではハクソー・リッジと呼ばれているところだ。

 残波岬にあるホテルに戻る帰り道だが、渋滞もあって、あたりは暗くImg_8418_4なってしまった。暗くなって見に行くところではないので、今回は、あきらめることにした。

 それが首里城の掲示をみて、急きょ、行き先を変更した。連れ合いは、劇団の仕事で読谷村Img_8421_2に数か月住んでいたが、首里城はImg_8423_2行ったこたがないというのだ。

 ガイドブックでは19時まで空いている。大急ぎで向かうも、まだImg_8426_2閉館時間ではないが、既に駐車場は終了していた。やっと近くのコインパーキングを見つけて、入場する。「急いでください。まだ行けます」との催促をうけて、最後の入館者となった。おかげで駆け足でも、内部もImg_8428_2拝観するこたができた。忙しなかったが、他に1組しかなく、静かに回ることができたよかった。この辺りは明らかに、日本の城ではく、中国の様式である。夫婦では待っている韓流に時代劇ドラマの風情だが、日本風でもあり、まさに独自の琉球文化でImg_8433_3ある。

 これで3度目だが、ライトアップされた夜の首里城は初めてで、観光客もまばらで、趣があって、結果として儲けものをした。

≪有名な守礼門も、無料区間にあった。夜でも見られます≫ 
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  2000札は、どこに行ったのでしょうか?
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沖縄の旅(3)~摩文仁の丘・平和祈念資料館~

Img_8382 今回の沖縄旅行は、南部の沖縄戦跡を訪ねることが目的の一つだが、その中でも、摩文仁の丘にはぜひ行きたかった。日本軍の組織的戦闘が終わった最後の激戦地である。ただ、ぼくが思っていたのは一昔前の各都道府県の慰霊の碑がひっそり立つイメージだ。(結局、時間がなくそこはパスした)

Img_8372 しかし、いま沖縄県によってきれいに整備されて、平和祈念資料館も充実した施設だった。沖縄住民の視点で捉えた沖縄戦Img_8374を展示理念としいる施設だ。沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝えたい。全世界の人びとに沖縄のこころを訴え、恒久平和を樹立に役立てたいとの願いでできたものだ。

Img_8290 ここも修学旅行の高校生が賑やかに通り抜けていく。騒がしさに不満もあったが、少Img_8379しでも沖縄戦の実相に触れてもらえたのだろうか。 

 資料館は、 1 <沖縄戦への道> 2<鉄の暴風> 3<地獄の戦場> 4<沖縄戦の証言> 5<太平洋の要石>の5つImg_8410のテーマからなる展示で、j実物資料、写真をはじめ、沖縄戦体験者の証言像などからImg_8388なっているが、順番に見ていくことで、単なる戦争の悲惨さとか、平和の尊さなどという美名ですまない、今なお続く沖縄の人々の苦悩(日本人の苦悩でもある)がどのような歴史で継続されてきたかがよく分かった。

 Img_8401この問題は、何も太平洋戦争中の悲惨な沖縄戦だけにあるのではなく、明治維新後の琉球処分に始まり、琉Img_8402球文化の破壊(皇民化制作)、そして唯一の本土での地上戦である沖縄戦では、官民におびただしい数の犠牲者(死者だけで20万人以上)を生むが、アメリカとの戦闘そのものではなく、日本兵の住民殺略や強制集団死、餓死なども含まれる。また戦火のなかった離島でも、強制移住によって住宅も財産も奪われて、マラリヤの蔓延する山奥で多くの人たちが亡くなってもいる。そして戦争が終わると27年間に渡る米軍の統治があり、日米密約による本土復帰で、中心部に密集する米軍基地は恒常化され続け、今なお不当な扱いを受けているといっていい。そう辺野古移設の問題へも続くのだ。そのことが体系的によくわかる展示内容だった。
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≪↑平和の火≫
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≪↑平和の礎 官民問わず沖縄戦の犠牲者の銘碑≫
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≪↑資料館の窓から。この海を米国艦隊が埋め尽くした≫
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≪↑平和祈念堂≫

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沖縄の旅(2)~ひめゆりの塔

Img_8340 白人の姿の他は、観光客がまばらだった海軍司令部壕から、ひめゆり塔へ。ここにくると周辺も有名観光地の風情となり、ベタな土産屋が並ぶ。

Img_8345_2 小説や映画であまりにも有名な「ひめゆりの塔」だが、「塔」といっても、実際は小さな石碑が立っている。外科壕跡を挟んだ奥にあるのは慰霊碑(納骨堂)だが、いまではそちらがメーンに思われているようだ。
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 Img_8291海軍司令部壕の展示で、1950年の素朴な石碑の写真を見た。ほんとうの意味での慰霊の碑である。(右の写真→)

Img_8343 ひめゆり塔は、沖縄戦末期に陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に立つが、ひめゆりとは、学徒隊員の二つの母校の学校誌に由来するという。

 今回、このような慰霊碑が、最後の組織的激戦地の南部には非常に多くあることを、初めて知った。この悲劇が何度も映画化されありして、沖縄戦の過酷さや戦争の悲惨さを象徴するものとして、もっとも有Img_8351名となったということだ。

 1945年3月、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一Img_8356高等女学校の女子生徒と職員、計240名は、陸軍病院に看護要員として従軍。激しい戦闘が続き、防衛戦が南部に撤退。陸軍病院も回復の見込みのない負傷兵置き去りして、分散して南部の地下壕に潜むも、戦局が絶望的となり学徒隊は解散を命じられる。しかし、既にアメリカ軍に支配され、周辺も激しい砲撃にさらされていたため、解散後に多くの生徒が若い命を無残にも散らしている。この第三外科壕では、壕にいた大半が爆撃で死亡し、脱出後に銃撃死たものも多く、生き残ったのはわずかに5名(生徒が4名、軍医が1名)のみだったというのだ。
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Img_8359 「ひめゆり平和祈念館」は、生徒一人一人に出来限り焦点を当てた充実した内容だった。単なる多数の数字だkの犠牲者ではなく、その一人一人が尊いかけがえのない命であったことが覗える、丁寧なImg_8369展示に感銘を受けた。

 時間をかけてゆっくりと見学していたが、途中で、修学旅行生たちで大混雑する。
Img_8360_2 高校生の彼、彼女たちはひめゆりの学生たちと同世代だ。どんな思いで見学していたのかはわからないが、彼女ら無邪気なの姿に触れると、平和の尊さと同時に、その脆さも強く感じさせられた瞬間だった。

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沖縄の旅(1)~旧海軍司令部壕

Img_8287沖縄戦は、日本国内の唯一の地上戦である。圧倒的な戦力差の前に、日本軍にはアメリカ軍を撤退させる力もなく、沖縄の民間人を犠牲にした日本側の玉砕戦でしかなく、本土決戦を1日でもImg_8294引き延ばすだけの、いわば捨て石でしかなかったのだ。

本島南部は、組織的抵抗の最後の激戦地である。その遺構の一つが、旧海軍司令部壕だ。http://kaigungou.ocvb.or.jp/shisetsu.html

Img_8322昭和19年、撤退を続けた日本軍の最前Img_8313線となる沖縄の軍備を強化し、飛行基地(那覇空港)を守るための防空壕のために掘られたものだ。ほとんどがつるはしなどを用いた手作業である。そのつるはしも展示されてImg_8318いた。

壕入口階段は100段あり、約20mの階段を降りると、迷路のように枝分かれした全長約450mの通路が縦横に張りめぐらされた壕内へと続いていく。わずか60年前には、まだ何千という遺骨があった場所を進む。

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重要な部屋(幕僚室や司令官室、作戦室)の後が残っている。
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玉砕の6月には、この部屋は立錐の余地もない程兵士が入り、立ったままで睡眠や休息を取ったという。
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医務室では多くの負傷兵がいたというが、看護などできるものではない。Img_8320
日本軍の銃器と手製の槍の展示を見て、そのお粗末さに驚く。壕内に重火器の武器はなく、粗末な手製の槍で玉砕突撃するしか術はなかった。
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昭和28年に生き残った元海軍部隊隊員などが入口は崩壊し泥水が溜まった壕内から、自決した大田司令官をはじめて800名以上の遺骨を収集。昭和33年には、1500名以上の遺骨を収集する。南無阿弥陀仏の碑に、「不断光」の文字。
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 ≪壕内見取図≫
Img_8293 ≪手榴弾の痕跡が残る幕僚室 ≫
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台風の余波

Img_8161大分開催の法座は、これで4回目。この時期に自然災害が多い。直接の影響はなかったが、最初の年は御嶽山の噴火が起る。2年目は、熊本地震で、大分にも震源が拡がり、延期。そして、今回は、非Img_8168常に強い勢力での台風の接近だ。行きは大丈夫でも、帰路は影響を受けるだろうと覚悟はしていた。参詣の皆さんの帰りも心配だった。

Img_8187  幸い台風は、九州に上陸せず、規模の割には被害は最小限に止まったようだ。そImg_8188れでも、宮崎や大分では、1日で250~300㎜の雨が降り、昼頃には、風もかなり強Img_8191かった。

 大分駅前の会場は、施設も新しく立派だ。しかも避難所に指定されていて、安心できる施設。Img_8183風雨が強い昼間には動かず、台風は過ぎ去るまで法座。おかげで終了の頃には、晴れ間もみられ、皆さんの帰路には影響はなかった。ただぼくは足止めとなる。午後から広島以降の新幹線が止まることが決定していたのだ。日曜日の朝に運休が決まったので、駅での混乱や列車に閉じ込められる心配もすることなく、大分連泊を決められた。

 大分市内ではなく別府の駅前に宿をとる。その方が、料金も安く、温泉にも入れる。、観光はせずに、翌朝には戻ったが、ちょっこっとだけ観光気分を味わえた。
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《↑大分駅前には二人の像。戦国大名の大友宗麟》
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 《↑もう一人は、フランシスコ・ザビエル
  「雨、降っているのか?」のポーズ》
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 《↑別府駅前には、こんな面白い像。
 台風一過で青空で、暑かった》

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