カテゴリー「聖典講座」の84件の記事

『観無量寿経』始まります

 昔(聖典講座が婦人講座と呼ばれいていた40年以上前)から、1月と8月は聖典講座はお休みだ。でも、今年は1月に聖典講座を開催した。報恩講前で、お世話役の方も初参加くださり、いつもとは違う顔ぶれが集まってくださった。

 区切りよく今日から『観無量寿経』へ。おさらいの意味で浄土三部経の概観から入った。これが三度目なので、今回は『観経』を中心にした構成にして、最後に本山から発行されている『観経』王舎城の悲劇のDVDを見てもらった。

 浄土真宗では、親鸞聖人の影響で、『観経』といえば序文の「王舎城の悲劇」を中心に味わっているが、正宗分の中心となる「定善・散善」は、十八願の他力念仏へ誘引するための方便、流通分の他力念仏の付属こそが真実であるという立場があって、どうも三部経の中でも、一番馴染みのない一段低いお経と理解されがちだ。さらに、善導様によって決定版が出されたことで、その見方が固定化されてしまっているという問題点もある。

 そんなこともあってか、今回の質疑でも、どんな態度(姿勢)で、これから講義に臨めばよいか?とか、DVDを見ても韋提希夫人には共感できでずに、ただ眺めて終わってしまったが、どうすればよいのかというような声がでた。

 それを聞きながら、別に無理に共感する必要もなければ、受験勉強ではないのだから、こう理解しなければならないという囚われは、むしろ邪魔になるかもしれない。しかも、皆さん、初めて読ませてもらうのだろうから、別に構えることなく、虚心坦懐、己を空しくして読ませてもらえばいいのである。そして、善導様や親鸞様のご指南を仰いでいけばいいのである。最初から、こう感じなければならないとか、こう思わなければならないというのは、あまりにも不自由だ。むしろ、初めて読む世界を、わくわくと楽しんだり、知らないことには、素直に「ヘエー」と驚いていけばいいのではないだろうか。

 ※次回は、2月4日(日)昼1時30分~5時

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『選擇本願念仏集』~三心篇~

 仏教大学の四条センターは一般向けの講座だが、聖教の講読もある。
 今年は、凝念大徳の『淨土法門源流章』を原文に当たっているが、専門的な内容もあって楽しみに参加している。

 もう一つが『選擇本願念仏集』の講読だ。これは途中からの参加となったのは残念だ。じっくりというより、かなり早足なのでもう少し掘り下げて聞きたいが、致し方はない。10、11、12月の三回で、三心篇を拝読した。「至誠心」「深心」「回向発願心」をそれぞれ3回で読む。かなりの分量があり、また二種深信や二河譬などの重要な箇所もあって、三回で読むにはあまりにも勿体ないが、それでも基礎的な押さえはできた。

 この三心は、『観経』に「浄土往生を願うものは、三種の心を発したならば即便ち往生する。この三心を具すれば必ず往生する」と述べられている。がしかし、ただ「至誠心」「深心」「回向発願心」と三心を列挙されるだけで、具体的にどんな心なのか、それをどう発こすのかは、まったく触れておられない。にもかかわらず、さすがは善導さまだ。字訓などからそれぞれのお心深く、また詳細に教えてくださったのである。

 それを法然さまはどう受け取られたのか。そのいちいちにはいまは触れられないが、法然さまは、大半を『観経四帖疏』と『往生礼讃』からの引文されている。ただ親鸞聖人のような独自の読み替えはほとんどない。それでも法然さまが引用される箇所、省かれた箇所、別にところで取り上げておられる箇所など微妙な違いがあって面白かった。

 最後に、私釋段で、三心は「もし一心をも少(か)けぬればすなわち生じることを得ず」との「礼讃」を『選擇集』ではそのまま受けておられる。が、他のところでは、一心に信じ念仏申したならば、三心は自然に具足するというようにも述べておられるのも、法然さまの展開といっていいのだろう。ご文を引いておこう。お味わいください。

 南無阿弥陀仏について、「阿弥陀ほとけ、われを助けたまへということばと心得て、心にはあみだほとけたすけたまへとおもひて、口には南無阿弥陀仏と唱うるを、三心具足の名号と申すなり」 (つねに仰せられける御詞)

「三心・四修と申すことの候は、みな決定して、南無阿弥陀仏にて往生するぞとおもううちにこもり候なり」 (一枚起請文)

「一向念仏して、うたがうおもひなく往生せんとおもうふは行具の三心也。五念・四修も一向に信ずるものは、自然に具する也」 (東大寺十問答)

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出世の大事

 「華光誌輪読法座」を終え、引き続いて『ご本典』学習会を行う。毎回、固定で一人か二人。今日は輪読法座からの参加者もあって三名。7月から始めて、まだ「教巻」を読んでいる。
 
 なぜ『大無量寿経』が出世の大事、つまり釋尊が『大経』-弥陀の本願を説くために-出世されたと言いきれるのかを明かすために、正依『無量寿経』の発起序を引用され、それを補完するための引文が続く。すなわち、阿難の問いを際立たせるために『如来会』を、仏の出世が稀なることを『平等覚経』で、さらに『述文讃』では、出世された仏さまのお徳について述べられたいる。そして、今のこの説法は、釈迦如来の口を借りた阿弥陀仏の説法であり、そのことを凡夫の代表して阿難尊者が出遇うことができたのが、真実でるとの証明となっているともいえる。そのことをいろいろな角度から味わっている。まあ、ぼちぼちでも読み進めたい。

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『阿弥陀経』(9)

『阿弥陀経』も、いよいよ最後の段だ。正宗分(本論)は大きく三段に分かれる。
第一段は、阿弥陀仏の極楽浄土と阿弥陀仏の荘厳について讃嘆。
第二段は、その極楽浄土に生れる念仏往生についての教説。
第三段は、釈迦如来と諸仏による証誠勧信である。

 この第三段は、さらに四節に分科される。まず一自証で、釈迦如来が自ら広大な利益を自ら知見し、真実であるからこれを説くと宣言し、浄土を願えと勧められる。次いで二他証で@は、六方段と言われ、釈迦如来と同様、六方に満ち満ちる諸仏方もすべて、阿弥陀仏を褒め讃え、護念・証誠することが説かれる。ここまでが先月で、今回は、第三段の後半。諸仏の勧めに続き、釋尊が「阿弥陀如来のみ教えを信じなさい」という懇ろなお勧めをされて、『阿弥陀経』の説法を説き終えられるところである。それを、広く、三「勧信」【十二】とみて、まず名号を聞くものの利益をあげ、次いで発願の利益をあげられて、信を勧められる章。最後に四「讃嘆」【十三】では、諸仏が釋尊の不可思議な功徳を称讃されておられることを説いて、阿弥陀如来のみ教えを信じることを勧められて、正宗分(本論)は終わる。
 最後は、特に付属もなく、形式的な流通文(るずうぶん)で『阿弥陀経』は結ばれるのである。

 勧信(聞名不退の勧め)では、六方の諸仏方の証誠護念に続いて、釋尊の懇ろな信の勧めが説かれるが、聞名利益と発願利益で信を勧められる二節に分け窺った。

 冒頭は、釈尊が「舎利弗、於汝意云何~」(舎利弗、汝が意(こころ)に於いていかん~)と、舎利弗に問いかけで始まる。舎利弗への四つの問いかけの最後。「なぜ、この経を『一切諸仏に護念(護り念じ)られる経』と名付けられたのか」を問われる。やはり舎利弗尊者は沈黙されたままで(沈黙で答えられた)、釋尊が一方的に説法される。ところが、釋尊は問いには直接的には答えず、聞名のご利益を説くことで暗示されるいってもいい。

  このあとは、長くなっていくので、ぜひ、聖典講座の通信CDでご聴聞ください。

 なお来月は、12月10日(日)昼1時30分から。
『阿弥陀経』の最終回で、全体のまとめです。

 

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テーマは誓願と六波羅蜜

 大会翌日、布団や弁当、供花の引き上げなどの後片付けは、午前中で終わった。宿泊法座、特に3日間のものは、疲労困憊という時もある。しかも、今回は、初日が午前2時、2日目が午前3時と、遅くまで懇親会にも出ていたが、法の威力で力をもらい、翌日もいたって元気だ。

 午後から、仏教大学四条センターでの講義と京都シネマでの映画のはしご。講義が終わるのが5時。映画は5時10分から始まるが、四条センターのあるビルと京都シネマの入っているcocon烏丸ビルは、四条烏丸の交差点に斜交いに立っているので、すぐに移動できる。

 講義は、「仏・菩薩とは何か」を12回で探求しようというもので、秋の講師は藤堂俊英先生。大乗菩薩道は、誓願と六波羅蜜行の両輪によって進む。それには、菩薩に共通する総願と、各菩薩の個性が表明される別願とがあり、また菩薩の行があり、それを菩薩生活の様相として、六波羅蜜に沿って説明されて、「願行相扶」の姿を教えてくたさった。

 まず四弘誓願に代表される総願を取り上げ、各種の大乗経典から窺った。次いで『華厳経』浄行品に説かれる菩薩の一四一願を尋ねた。浄土真宗では『華厳経』は馴染みがないのだか、この一四一願の最初にある「仏・法・僧」に帰依する、すなわち三帰依文は仏教各派共通で、浄土真宗の勤行聖典の冒頭にも掲げられている。

   自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
   自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
   自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。

 ところで、誓願について「誓いとは、必ず神仏などの前で、口に出して宣言するものだ」という言葉に、ハッとした。いまの私達は、口約束は信用ならない。「言った、言わない」で裁判にもなる。だから、必ず誓約書に署名捺印しなければ確かな保障はない。

 しかし、仏に成ろうと修行される菩薩は違うのだ。法蔵菩薩も世自在王仏の御前で、四十八の誓願をひとつひとつを口に出して述べられたのである。その時、態度(身)と、言葉(口)と、こころ(意)は常に一致し、しかも清浄にして真実そのものであったというのだ。しかも自らの正覚をかけて誓ってくださったのである。まさに仏説に虚妄なしである。

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四十八願のこころ(15)第二十八願~三十願

 あるお寺の寺報に連載している四十八願のこころも、もう三十願までやってきた。二十一願をすぎて、取り上げるペースは早まるが、あと3年くらいはかかるだろう。

 たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩乃至少功徳のもの、その道場樹の無量の光色ありて、高さ四百万里なるを知見することあたはずは、正覚を取らじ。(第二十八願・見道場樹の願)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、もし経法を受読し諷誦持説して、弁才智慧を得ずは、正覚を取らじ。(第二十九願・得弁才智の願)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、智慧弁才もし限量すべくは、正覚を取らじ。(第三十願・弁才無尽の願)

 二十一願からは浄土に生まれ仏にとなった者に対するお誓いで、その中心は、二十二願・還相廻向の願です。それに続く誓願は、還相廻向のお心から展開しますが、二十三~三十願は、主に浄土の菩薩に対する誓願で、今回は第二十八願~三十願のお心を窺います。
 まず、第二十八願は、見道場樹の願と呼ばれます。浄土の道場樹が、四百万里もの巨大で、限りなく光輝くこと知り、仰ぎ見させようという願いです。道場樹とは菩提樹のことで、その樹下でお悟りを開かれた場所で、如来様を象徴しています。つまり、限りなく光輝く阿弥陀如来を仰ぎ見させようという願いでもあります。
 次の二十九願・三十願は、弁才智慧-心のままに自由自在な弁舌(演説)がふるまえる智慧が備わらせようという願いです。第二十九願は、得弁才智の願で、教えを受けて、口にとなえて、また心に保ち、そして人々にと聞かせれるために思いのままに弁舌をふるう智慧が得られないのなら、仏にはなりませんという誓願です。
 また第三十願は、弁才無尽の願で、その弁舌の智慧に限りがあるようなら、私は仏にはなりませんという誓願です。つまり、教えを理解し説法をする能力を限りなきものにしようという願いです。
 以上、浄土の菩薩方は、「見仏」(二十八願)・「聞経(法)」(二十九願)・「説法」(三十願)が、心のままに自由自在であることを示しておられると窺うことができます。
 最後に、第二十八願のもう一面は、「少功徳のもの」に願われ、また「四百万里」と限定された数量が示されます。無量無辺の浄土で、広大無辺の功徳を得るのに、それを限定されることから、親鸞様は、これは化土であり、方便の願、十九願成就文だと頂かれています。

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『阿弥陀経』(8)~諸仏の証誠・護念(2)~

▼ところで、親鸞様は、諸仏のお働きについて、四つの観点から味わわれている。
*親鸞様=「『小経』に、勧信、証成、護念、讃嘆、難易あり」(『愚禿鈔』大意)
 といわれるうち、((1)勧信、(2)証誠(成)、(3)護念、(4)讃嘆が六方段のおこころと窺える。その一つ一つを見ていこう。
 
(1)勧信                                   
「なんぢら衆生、まさにこの『不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経』を信ずべし。」

▼「この経」とは阿弥陀経。その要は、念仏往生の道を勧められるのだから、当然、諸仏方も口を揃えて、念仏往生を勧めれている。またそれは、阿弥陀様の誓願、第十七願の働きによるものである。以下、四つの観点からの諸仏の働きは、すべて第十七願の働きであるので、阿弥陀仏の願いに応じ、釋尊も含めた全宇宙の諸仏方は呼応し、一つになって働いておられるのだ。

*「恒沙塵数の如来は 万行の少善きらひつつ
 名号不思議の信心を ひとしくひとへにすすめしむ」(弥陀経讃・八三首)
*「五濁悪時悪世界 濁悪邪見の衆生には
 弥陀の名号あたへてぞ 恒沙の諸仏すすめたる」(弥陀経讃・八六首)
*「諸仏称名の願(第十七願)と申し、諸仏咨嗟の願(同)と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ。『弥陀経』の十方諸仏の証誠のやうにてきこえたり。」(『御消息集』十九通・七七六)

(2)証誠(証成)
「かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国おいて、広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく」

▼仏の三十二相(大舌相)からも窺える。
 小事の証明=舌を舒(の)べて、面を覆うか、髪際にいたる。
大事の証明=舌を舒べて、大千を覆う。

*善導様=「もしこの証によりて生ずることを得ずは、六方諸仏の舒舌、一たび口より出でて以後、つひに口に還り入らずして、自然に壊爛せん。」(『観念法門』)
*庄松同行=「諸仏さんの舌は落ちて居らぬ」のエピソード

(3)護念
 「一切諸仏に護念せらるる経」・一切諸仏所護念経
 
▼諸仏方の護念もまた、十七願(悲願)の顕れであることが窺える。

*「この世にて真実信心の人をまもらせたまへばこそ、『阿弥陀経』には、「十方恒沙の諸仏護念す」(意)とは申すことにて候へ。安楽浄土へ往生してのちは、まもりたまふと申すことにては候はず。娑婆世界に居たるほど護念すとは申すことなり。信心まことなる人のこころを、十方恒沙の如来のほめたまへば、仏とひとしとは申すことなり。」(『御消息集』二十通・七七八)
*「十方恒沙の諸仏は 極難信ののりをとき
 五濁悪世のためにとて 証誠護念せしめたり」(弥陀経讃・八四首)
*「諸仏の護念証誠は 悲願成就のゆゑなれば
 金剛心をえんひとは 弥陀の大恩報ずべし」 (弥陀経讃・八五首)

(4)讃嘆
 「不可思議の功徳を称讃したまふ」・称讃不可思議功徳 

▼諸仏の勧信、証成、護念はすべて、第十七願-すわなち「十方無量の諸仏が、ことごとく咨嗟(ししゃ・讃嘆のこと)して、阿弥陀如来の名号を称えさせよう」という悲願の顕れである。四番目に讃嘆を示された。
◎六方段には、第十七願の諸仏称名(諸仏咨嗟)の願の成就が明示されている。

*「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。(第十七願文・『無量寿経』十八)      
*「十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。(第十七願成就文・『無量寿経』四一)

 最後に、◎諸仏の証誠の理由について、『三帖和讃講讃』から窺っておこう。
一、求道者の疑いを捨てさせるため。    (前出・84首)
二、悲願(第十七願)成就を明確にするため。(前出・85首)
三、聖道の難証を示すため。
 「十方無量の諸仏の  証誠護念のみことにて
  自力の大菩提心のに かなはぬほどはしりぬべし」(正像末和讃281首)
四、浄土の難信により、易行を示すため。
 「真実信心うることは 末法濁世にまれなりと
  恒沙の諸仏の証誠に えがたきほどをあらはせり」(正像末和讃282首)

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『阿弥陀経』(8)~諸仏の証誠・護念(1)~

  『阿弥陀経』正宗分(本論の第三段、証誠勧信【五】の五段目~【十三】に入った。
 正宗分は大きく三段に分かれる。第一段は、阿弥陀仏の極楽浄土と阿弥陀仏の荘厳について讃嘆。第二段は、その極楽浄土に生れる念仏往生についての教説。
 次いで第三段は、釈迦如来と諸仏による証誠勧信で、さらに四節に分科される。 まず一自証【五】では、釈迦如来が自ら広大な利益を自ら知見し、真実であるからこれを説くと宣言し、浄土を願えと勧められる。続いて、二他証【六~十一】は、六方段とも言われ、釈迦如来と同様に、六方に満ち満ちる諸仏方もすべて、阿弥陀仏を褒め讃え、護念・証誠することが説かる。そして、さらに三勧信【十二】と四讃嘆【十三】へと続く(ここは来月へ)。

 一、自証(釈迦如来の自証)【五】の五段目
「舎利弗、われこの利を見るがゆゑに、この言を説く。もし衆生ありて、この説を聞かんものは、まさに発願してかの国土に生るべし。」

◎「我見是利・故説此言(われこの利を見るがゆゑに、この言を説く)」
我とは釋尊、この利とはこれまで説き明かされてきた(浄土の麗しい有りさま、弥陀と聖衆のお徳、念仏往生)による素晴らしい利益、それを自らが知見し、他力念仏こそが真実であることを説く。短い一言ではあるが、「これ一つを説くために出生しただ」という、出世本懐の一代結経を顕す力強いお言葉である。

 二、他証(諸仏の証誠護念)【六】~【十一】
「舎利弗、われいま阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃歎するがごとく、
東方にまた、阿●●仏・須弥相仏・大須弥仏・須弥光仏・妙音仏、
かくのごときらの恒河沙数の諸仏ましまして、おのおのその国おいて、広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまはく、〈なんぢら衆生、まさにこの不可思議の功徳を称讃したまふ一切諸仏に護念せらるる経を信ずべし〉と。」
 
◎釋尊自らの証誠に続いて、六方の諸仏方の証誠護念が説かれるので、別名、六方段とも言われる。
 冒頭で、釋尊がいま、阿弥陀仏の不可思議の功徳を讃嘆していることを述べて、
 同じく全宇宙に満ち満ちる無数の諸仏方も、同じように証誠護念されている様子が、同じ文言で繰り返し述べられる。阿弥陀仏に、釋尊や諸仏が呼応しておられる。

▼古来より、六方段と言われるが、六方も、十方も、共に同じく全宇宙を顕している。
六方=東方、南方、西方、北方、下方、上方。
異本の玄奘訳(『称讃浄土経』)では、十方と説く。十方=東方、南方、西方、北方、下方、上方、四維(東南・西南・西北・東北方)
親鸞様の弥陀経讃では、「十方微塵世界の」(82首)・「十方恒沙の諸仏は」(84首)と「十方」である。

▼恒河沙数の諸仏=ガンジス河の砂粒ほどの無数の諸仏方を表す。
『阿弥陀経』    =六方・三十八仏
玄奘訳『称讃浄土経』=十方・四十二仏
『サッスクリット本』=六方・四十仏    (続く)

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『選択本願念仏集』~ただ念仏の行者を摂取したもう~

 今日は、仏教大学の四条センターでの講義を連続して受ける。

、まずは、『選択本願念仏集』の購読である。前回で、大経攝要が終わって、今日から、「観経攝要」(七、八、十、十一、十二章)に入り、第七章の「光明ただ念仏の行者を摂する」の篇。

 「弥陀の光明、余行の者を照らさず、ただ念仏の行者を摂取したもうの文」で、
『観無量寿経』の第九真身観、そして善導さまの『四帖疏』の「三縁の文」と同じく『観念法門』が引用され、それを受けた法然さまの私釈段が、問答形式で述べられているのだ。

 如来の光明は念仏者のみを照らして、余行のものを照らさないのかというと、まず一つは善導「三縁の文」から。三縁とは、親縁、近縁、そして増上縁である。もうひとつは、それが本願だがらというのである。念仏が本願であるから照らして、摂取不捨される。「本願最も強(こわ)し」である。 

 ところで、本願とは、根本の願なので「本願」というのだが、浄土宗では、願いが成就したその本(もと)の願なので「本願」という説明だった。三縁のところでもそうだが、ちょっとの違いが面白かった。

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『阿弥陀経』(7)~諸上善人・倶会一処~

 『阿弥陀経』の正宗分(本論)は大きく三段に分かれる。前回の第一段で、阿弥陀仏の極楽浄土と阿弥陀仏の荘厳についての讃嘆された。次いで今回の第二段は、いかにしてその極楽浄土に生れるのかで、念仏往生の教説が示される重要な段で、さらに三節に分科される。
 まず一、発願で、浄土往生の願を起こすことを勧められ、
 次いで二、正因では、少しの善根功徳の行では浄土往生できず、念仏よりほかに浄土往生の因はなく、
 その結果(三、正果)臨終に如来の来迎を受け、極楽に往生すると説かれる。
 テキストに使っている現代語版【五】は(前回の最終節)(1)浄土往生が優れた聖者であり、(2)その浄土に往生することを願う(発願)。(3)少しの善根功徳では往生出来ず、(4)名号を執持する念仏往生(正因)し、臨終来迎での往生(正果)が説かれ、(次回の第一節)(5)釈尊自らが証明し、浄土往生を勧める(自証)の五分科の構成となっているが、ここでは三分科にしていただいている。

 まず、一、発願(浄土願生の勧め)である。

「舎利弗、衆生聞かんもの、まさに発願してかの国に生ぜんと願ふべし。ゆゑはいかん。かくのごときの諸上善人とともに一処に会することを得ればなり。」

 ぜひとも極楽往生を願えと勧められる一節である。短い一文であるが、いろいろと重要な問題が含まれている。
 冒頭は、「衆生聞者」-「衆生聞かんもの」とある。しかし「聞」とあっても具体的に衆生が何を聞くかは示されない。梵本には「聞く」の語はなくが、異訳である玄奘訳(称讃浄土経)には、

「もし諸々の有情(衆生のこと)、彼の西方無量寿仏の清浄仏土の無量功徳、衆(あつまって)に荘厳せられる所を聞かば」(真宗聖教全一巻)。

とあり、また文脈から窺っても、釈尊のこの教説、具体的にはこれまで説かれてきた阿弥陀仏と浄土の有り様とみるのが妥当であろう。

 そしてもうひとつが、「諸上善人・倶会一処」についてである。

 では、なぜ願生浄土を勧めるのかというと、すぐれた聖者方と倶(とも)に、同じ善きところで会うことができるからだと言われる。ただ「諸上善人」-もろもろの上善人とは、前段の「不退の菩薩・一生補処の菩薩」のことであることは明白である。講本によっては、拡大して善知識ともとれているが、そのまますべての亡き人を示すものではない。
 しかし、今日の浄土真宗では拡大解釈されている。この世で縁のあった今は亡き人々(大半は家族)と領解される法話ばかりだ。教学的な見解はともかく、実際の葬儀や法事の場では、この一言を金科玉条にして説教されている。残念ながら、親鸞さまがどう味わわれたかは誰も問わない。確かに、その方が耳障りはいい。商売上でも大切なことだが、それでは浄土「真実」の教えではない。
 決して亡くなった故人のことを云々するのではなくて、今、ここにいる自分はどうかという問うた時にも、皆、死後はお浄土で、倶会一処と、(先祖や親と)再会できるという答えで終わってほんとうにいいのか。これが浄土真宗の他力の教えであるかのような異義が、堂々と正統になっている現状に、たとえ苦しくても向かってかねば、ぼくのいただいた教えが、浄土偽宗に成り下がってしまう。長いものに巻かれれば楽だが、それではあまりにも悲しすぎる。ぼくがお法りをお伝えする意味がないのである。

 本論とは離れたが、ここはしっかりと肝に銘じたい。

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