カテゴリー「聖典講座」の74件の記事

『選択本願念仏集』~念仏利益の文~

仏教大学の先生による『選択集』の講読に出る。断片的には頂いても、最初から最後までしっかりと読んだことはないので、絶好のチャンス。しかも、本家の浄土宗の立場からの購読である。昨年からの継続講義だったようで、一番の根本義である第1章の二門章、第2章二行章、第3章の本頑章が、すでに終わっていたのは、至極残念。

今回は、第5章の「念仏利益の文」で、改めて学ばせていただきました。

 ここは『無量寿経』流通分などに依って、念仏の利益を挙げる章で、念仏の一念(一声)に無上の利益があることを明かす文。また、16章に示される八選択においては、二番目の「選択讃嘆」で、釈尊が流通分において念仏を一念無上功徳と選択したことを顕している。

 その全文を明かすと以下の通りになる。

◎引用段は、『無量寿経』流通分と、善導の『往生礼讃』

 『無量寿経』の下にのたまはく、「仏、弥勒に語りたまはく、それかの仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜踊躍して乃至一念せん。まさに知るべし、この人は大利を得となす。すなはちこれ無上の功徳を具足す」と。

 善導の『礼讃』にいはく、「それかの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、 歓喜して一念を至すもの、みなまさにかしこに生ずることを得べし」と。

◎私釈段では、「なぜ第4章の三輩段などでは菩提心などの功徳があげられているのに、念仏以外は褒めず、念仏だけを褒めたたえるのか」を問答をもって示されている。

(問) 私に問ひていはく、上の三輩の文に准ずるに、念仏のほかに菩提心等の功徳を挙ぐ。なんぞかれらの功徳を歎めずして、ただ独り念仏の功徳を讃むるや。

(答) 答へていはく、聖意測りがたし。定んで深意あらん。しばらく善導の一意によりてしかもこれをいはば、原ぬるにそれ仏意は、正直にただ念仏の行を説かんと欲すといへども、機に随ひて一往、菩提心等の諸行を説きて、三輩の浅深不同を分別す。しかるをいま諸行において はすでに捨てて歎めたまはず。置きて論ずべからざるものなり。ただ念仏の一行につきてすでに選びて讃歎す。思ひて分別すべきものなり。

◎念仏の三輩について(もし念仏に関して三輩を区別にすると(1)観念の浅深(2)念仏の多少よる二つの意で区別がある。

 もし念仏に約して三輩を分別せば、これに二の意あり。一には観念の浅深に随ひてこれを分別す。二には念仏の多少をもつてこれを分別す。
 
(浅・深) 浅深は上に引くところのごとし。「もし説のごとく行ぜば、理上上に当れり」(往生要 集・下)と、これなり。

(多・少) 次に多少は、下輩の文のなかにすでに十念乃至一 念の数あり。上・中の両輩、これに准じて随ひて増すべし。『観念法門』にいはく、「日別に念仏一万遍、またすべからく時によりて浄土の荘厳を 礼讃すべし。はなはだ精進すべし。あるいは三万・六万・十万を得るものは、みなこれ上品上生の人なり」と。まさに知るべし、三万以上はこれ上品上生の業、三万以去は上品以下の業なり。すでに念数の多少に随ひて品位を分別することこれ明らけし。

◎一念について(今この一念は、願成就文と、下輩のものを指している)

 いまこの「一念」といふは、これ上の念仏の願成就(第十八願成就文)の中にいふところの一念と、下輩の中に明かすところの一念とを指す。

◎大利について(願成就文でも下輩でも語られなかったが、流通分において、念仏を大利として讃嘆し、無上と褒めている)

 願成就の文の中に一念といふといへども、いまだ功徳の大利を説かず。また下輩の文のなかに一念といふといへども、また功徳の大利を説かず。この〔流通分の〕一念に至りて、説きて大利となし、歎めて無上となす。まさに知るべし、これ上の一念を指す。この「大利」とはこれ小利に対する言なり。しかればすなはち菩提心等の諸行をもつて小利となし、乃至一念をもつて大利となす。また「無上の功徳とはこれ有上に対する言なり。余行をもつて有上となし、念仏をもつて無上となす。すでに一念をもつて一無上となす。まさに知るべし、十念をもつて十無上となし、また百念をもつて百無上となし、また千念をもつて千無上となす。かくのごとく展転して少より多に至る。念仏恒沙なれば、無上の功徳また恒沙なるべし。かくのごとく知るべし。

 しかればもろもろの往生を願求せん人、なんぞ無上大利の念仏を廃して、あながちに有上小利の余行を修せんや。
 
 ちなみに現代意訳では、「それかの仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜踊躍して乃至一念せん」の箇所を、「阿弥陀仏の名号を聞くことができ、感激して自身も一念するならば…」と訳されていた。「歓喜踊躍」が「感激して」となると、どうも軽い感じがしたのは、ぼくだけだろうかなー。
 

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四十八願のこころ(14)~二十三~二十七願

  たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、仏の神力を承けて、諸仏を供養し、一食のあひだにあまねく無数無量那由他の諸仏の国に至ることあたはずは、正覚を取らじ。(第二十三願・供養諸仏の願)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、諸仏の前にありて、その徳本を現じ、もろもろの欲求せんところの供養の具、もし意のごとくならずは、正覚を取らじ。(第二十四願・供養如意の願)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、一切智を演説することあたはずは、正覚を取らじ。(第二十五願・説一切智の願)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の菩薩、金剛那羅延の身を得ずは、正覚を取らじ。(第二十六願・得金剛身の願)
 たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、一切万物、厳浄光麗にして、形色、殊特にして窮微極妙なること、よく称量することなけん。そのもろもろの衆生、乃至天眼を逮得せん。よく明了にその名数を弁ふることあらば、正覚を取らじ。(第二十七願・万物厳浄の願)

 前回で二十二願を終え、一山超えたといっていい。二十一願からは、浄土に生まれ仏にとなった者に対するお誓いとなり、その中心は、第二十二願の還相廻向の願なのである。それに続く二十三願からは、還相廻向のおこころから展開していく。そのうち二十三~三十願は、主に浄土の菩薩方に対しての誓願となる。
 まず浄土の菩薩が、一度食事をするほどの短時間に、十方の国々に赴いて無量の諸仏方を供養出来(第二十三願・供養諸仏の願)、それがどのような希望であろうとも、自由自在に供養できるようにしよう(第二十四願・供養如意の願)。もちろん、それらはすべて阿弥陀仏のお力によるものだというのだ。
 さらに、浄土の菩薩は、すべての真実を演説し(第二十五願・説一切智の願)、金剛力士のような力強い体をもち(第二十六願・得金剛身の願)、また国中のものが用いるものすべてが、清らかで美しく輝き、到底はかることができないものにしよう(第二十七願・万物厳浄の願)という誓願なのである。

 その後も、浄土の菩薩方への願いや国土の荘厳についての誓願が続きますが、すべて還相の菩薩のお徳と窺えます。

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『阿弥陀経』(6)~正報(阿弥陀仏の荘厳)

 伝道研究会から4日連続で、法座(講座)や勉強会が続いた。6月が休みだった関係で、7月は聖典講座が2回ある。
 
 正宗分(本文)が三段落されるうちの、第一段目で、極楽と阿弥陀仏の荘厳が説かれる。また三つに分けられるうちの、阿弥陀仏の荘厳である。

一、まず、浄土の主である阿弥陀仏を褒め讃えられる一段である。

 釈尊が、「舎利弗、於汝意云何、彼佛何故号阿弥陀」(舎利弗、汝が意(こころ)に於いていかん。彼の佛をなにがゆえぞ阿弥陀と号する)と舎利弗に問いかけられる。四つある問いかけの三番目だが、例によって舎利弗尊者は沈黙されたままで(沈黙で答えられた)、釈尊自らが一方的に答えられる。無問自説経といわれる所以である。

 では、何故、阿弥陀仏と申されるのか。それには2つの意があるという。
 まずは、光明無量(ひかり)の故に、阿弥陀と号する。光明は無量で、十方の世界を照らして障碍するところがない。
ここでは、阿弥陀仏の十二光(『無量寿経』29頁)・無量光仏(光明は無量にして)、無辺光仏(十方の国を照らす)、無碍光仏(障碍することなし)の最初の大切な三つが出されて、阿弥陀様の光明のお徳を讃えておられる。
 
 次いで、寿命無量(いのち)の故に、阿弥陀と号する。
その寿命も無量である。また往生人の寿命も、無量である。自らが寿命無量の仏となられるだけでなく、極楽に生れた者も寿命無量で弥陀同体である。その故に、阿弥陀と号する(申される)のだと、釈尊は説かれた。
 そのことは、『無量寿経』第12願光明無量の願、第13願寿命無量の願、第15願眷属長寿の願に誓われたとおりである。

 ちなみに、阿弥陀は、サンスクリット語の「アミタ」の音写。「ア」は否定、「ミタ」は「量ること」。つまり量ることができない、無量という意味である。つまり。
「アミタ」に続き「アーバ」(光明) アミターバ -光明無量
「アミタ」に続き「アーユス」(寿命)アミターユス-寿命無量

 ところで、善導大師は、『観経』(第九真身観・摂取不捨)と合一して、独自の名義釈(阿弥陀様の名前の意味を解釈される)を展開されている。
「問ひていはく、なんがゆゑぞ、阿弥陀と号(なづ)けたてまつる。答へていはく、『弥陀経』および『観経』にのたまはく、かの仏の光明は無量にして、十方国を照らすに障碍するところなし。ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。彼の仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる。」(『往生礼讃』七祖篇・662頁)

 さらに、阿弥陀仏は成仏以来、今に十劫を経たと説かれる。
『無量寿経』「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり」(28頁)

 正宗分の冒頭で「今現在説法」とあるように、遥か十劫の昔より、今、現在に至るまで、南無阿弥陀仏と喚(よ)びづめでおられるのである。しかもそれだけではなく、阿弥陀さまは、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫とときたれど 塵点久遠劫よりも ひさしき仏とみえたまふ」(『浄土和讃』566頁)とあるように、久遠仏でもあるのだ。

二、次いで、阿弥陀仏に従う極楽の聖衆について語られる一段である。

阿弥陀仏には、無数の声聞の弟子がいて、阿羅漢のさとりを開いている。また菩薩衆においても、同様である。(声聞=自利、菩薩=利他の代表、自利利他円満の味わい) 阿弥陀仏の国はこのような麗しい姿で荘厳されていると述べられる。

三、次いで(現代語版では【五】)、極楽に生れた者は、阿?跋致(梵語・アヴァーイヴァルティカ・阿?跋致迦)すなわち初地・不退転地に住する。その中には、一生補処の菩薩も無数におられると説かれている。

 経文の当面は、「浄土に往生して不退転を得る」と見えるが、聖人は、「浄土ではなく、この世で獲信の端的に浄土往生が決定の身となるので、この世において不退転を得る」と、現生正定聚として頂かれたのは、『唯信鈔文意』(703頁)などに見ることができる。

以上で、正宗分の第一段で、極楽と阿弥陀仏の荘厳を終えて、次回からは、では、その極楽にはどのようにして生れることができるのか、その御利益はなにかという、一番の要のお説法が始まるのである。

 8月はお休みなのて、次回は、9月3日(日)昼1時30分。皆さん、どうぞご参集ください。

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『阿弥陀経』(5)~依報(浄土の荘厳)(2)

国土の荘厳の続きである。

四、天楽妙華の荘厳
常に天上の音楽が絶えず、大地は黄金で、昼夜六回の花(曼陀羅華) の雨が降るという。そして、その衆生(聖衆)は、朝の靜寂の中で、華を器に盛り、他方十億万の諸仏を供養しては、正午までには戻って食事をし、その後、静かに国中を行道するというである。

五、化鳥説法と微風妙音の功徳
 六種の鳥が昼夜六回、妙なる声で説法し、聞く者は、仏法僧の三宝を念ずる。しかし、極楽には三悪道も、その名さえないのだから、畜生の鳥がいるのではない。あくまでも、阿弥陀仏が説法のための方便・化現であると、釈尊は教えてくださっている。
 ちなみに、その説教とは、
・五根は、1信・2精進・3念・4定・5慧の五種のさとりへの実践徳目。
・五力とは、五根が増し、煩悩や悪を破り、さとりを開かせる、勝れた力と働き。
・七菩提分は、七覚分のこと。1念・2択法・3精進・4喜・5軽安・6定・7捨
・八聖道分は、八正道のことで、1正見・2正思惟・3正語・4正業・5正命・6正精進・7正念・8正定
などが説かされている。
 また、宝樹の並木や鈴の付いた網が、微風に揺れ妙なる音楽を奏でるが、これもまた説教で、聞く者は、仏法僧の三宝を念ずる。
 以上のように極楽は荘厳され、多くの功徳に満ちている。

(余義)
  ところで、『称讃浄土経』(玄奘訳)では極楽の依報荘厳を終えた後に、「たとえ百千倶胝那由多劫の間、百千倶胝那由多の舌をもって、一つ一つの舌が無量の声を出で、その功徳を讃ずるも、なお尽くすことあたわず」とある。つまり、どれだけ褒めつくして褒め尽くせない程、極楽の荘厳の無限なることが強調されているのである。

 ちなみに、この文、親鸞さまに影響を与え『諸経讃』に、

「百千倶胝の劫をへて    百千倶胝のしたをいだし
 したごと無量のこえをして 弥陀をほめんになほつきじ」

と顕しておられる。よくご法話でも取り上げる尊い和讃である。

 ほかにも「楽」の三種類(曇鸞大師『往生論註』)を
(1)外楽=物質的な、外部的な楽しみ
(2)内外楽=精神的な楽しみ
(3)法楽楽(ほうがくらく)=仏法の楽しみ。智慧によって起る。
 阿弥陀仏の功徳を愛楽(あいぎょう)することから起る。と頂いたり、

「なぜ、極楽が七宝などで飾られた世界として語られのか?」とか、何よりも根本的な、「地獄と極楽」の関係についてもお話した。

 もう詳しくはやめるが(通信CDをこ購読ください)、皆様には、本論よりも、最後の迷いの世界の三界二十五有や六道などに質問が集中した。たぶん、悟りの世界である極楽の有り様をいくら聞いても分からないが、わたしがへ巡ってきた迷いの世界には、まだまだ執着して未練があるということだろう。

 さて次回は、もう1度7月にありますので、ご注意ください。7月16日(日)昼1時30分~です。京都は、祇園祭の宵山ですね。聖典講座のあと、四条まで足を延ばしてもいいでしょう。奮ってご参加ください。

http://keko-kai.la.coocan.jp/event/2017/detail/07/seiten2017-7_2.htm

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『阿弥陀経』(5)~依報(浄土の荘厳)(1)

 『阿弥陀経』は、本文である正宗分の(1)弥陀・浄土の讃嘆に入った。前回は略讃、今回は広讃である。また広讃は依報(浄土の荘厳)と、正報(阿弥陀仏の荘厳)に分かれるが、まず極楽の依報荘厳(仏国土の飾り)が詳細に説かれる段である。これを五段に分かっていただいた。【三】

一、極楽の名義(何故、極楽と名付けられるのか)。以下、国土の荘厳が詳説。
二、宝樹を中心にした地上の荘厳
三、宝池の荘厳
四、天楽妙華の荘厳
五、化鳥説法と微風妙音の功徳、の五分類できる。
前回で一、まずを終えたので、今回は二、からで国土の荘厳が詳説されるところである。それを概略すると、

二、宝樹を中心にした地上の荘厳
 金・銀・瑠璃・水晶の四宝で飾られた七重の欄楯(玉垣)、七重の羅網(網飾り)、七重の行樹(並木)で、国中があまねく荘厳される(無量寿経にはない表現)。 そえ故に、その国を極楽と名付けられる。

三、宝池の荘厳
 七宝(金・銀・瑠璃・水晶・白珊瑚・赤真珠・瑪瑙)の池があり、八功徳水で満ちている。池底は金砂が敷かれ、四方の階段は四宝で出来ている。楼閣も七宝で飾られる。池の中には、青・黄・赤・白の車輪ほどの蓮華が咲き、清らかな香りを放つ。
  ちなみに、「八功徳水」とは、(1)澄浄・(2)清冷・(3)甘美・(4)軽軟・(5)潤沢・(6)安和・(7)除疾患・(8)身体増益の勝れた効能であるが、これは、異本である『称讃浄土経』には詳しくあげられている。

ところで、この段には、池の中には、「青色青光、黄色黄光、赤色赤光・白色白光」の色とりどりに、それぞれの光を放つ大きな蓮華が咲くと説かれるい。まさに、個々の持つ個性美と、同時に一味平等の境地を著されていると味わえる。
ところが『称讃浄土経』には「青形には、青顕・青光・青影、黄形には、黄顕・黄光・黄影、赤形には、赤顕・赤光・赤影、白形には、白顕・白光・白影」と訳されている。つまり、羅什訳には欠けているが、光だけでなく、影の存在も著されているのだ。
 さらに梵本では、青、黄、赤・白に続いて、「さまざまな色の蓮華は、さまざまな色・さまざまな輝き・さまざまな陰影を帯び…」が加わるのだ。もし漢文にするならば、「雑色・雑光・雑影」となろのだろう。

 つまりである。極楽は、はっきりした色だけでなく、影や雑といった部分までを、個性美とし、それがまた一味であることが強調されていることになる。これは、仏教カウンセリングで何度かご指導頂いた故大須賀発蔵先生からお聞きしたことでがある。(参照『いのち分けあいしもの』)

  長くなったので次ぎに続く。

 

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現生十種の益

 伝道研究会も「得益篇」にはいり、「現生十種の益について」だ。

 親鸞聖人は、『信巻』で、

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

 といわれた。浄土真宗では、人間の欲望を満足させる一般の現世利益を否定するので、現世利益和讃やこの現生十種の益にしても、どうも軽く見がちである。この文にしても、「横に五趣八難の道を超え」という横超で迷いの根切れがされたところもすごいのだが、その後に「必ず」と言い切っておられる。もちろん、他力信心の法悦の内的光景を述べられたもので、一般の攘災招福的な信仰や物質的な利益や単なる道徳的な規律を超えたものであることはいうまでもないが、もっと身近なところで、わが身に味わっていっていいのではないだろうか。

 また、前の九つのご利益は、すべて十「入正定聚の益」に具せられた法悦的光景である。なぜなら、人生の究極の目的である仏果を得ることが、信の一念の端的に定まり、入正定聚の益を得ることは、無量の計り知れない宗教的価値の実現が包含されているからである。だから、「また現生無量の徳を獲」(念仏正信偈)と述べられているのである。それをあえて、十種と示されているのにすぎないのではある。

 現生十種の益のその構造を示すと

(能護)ーー 一、冥衆護持の益-因人

(所護)体ー 二、至徳具足の益-具徳(法徳)
     用ー 三、転悪成善の益

(能護) 末ー 四、諸仏護念の益
            五、諸仏称讃の益ー果人
     本ー  六、心光常護の益

(所護)    七、心多歓喜の益
         八、知恩報徳の益ー相発
         九、常行大悲の益

≪総≫    十、入正定聚の益

 七、「心多歓喜の益」(心に歓喜、喜び多い)、八、「知恩報徳の益」(ご恩徳を知り、そのお徳に報いる)、九、「常行大悲の益」(常に大悲を行じる)の三つは、機相(つまり私の上に)発現れるご利益だとはいわれる。御利益ということは、喜ばせていただくことも、ご恩報謝させていただけることも、常行大悲も、すべていただきものだということだ。
 
 勿体ないことです。

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『阿弥陀経』(3)略讃

 序分(序説)が終わって、正宗分に入る。いよいよ釈尊のご説法が始まるのである。

 本論にあたる正宗分は、大きく三段に分かれる。まず第一段は、阿弥陀仏の浄土(極楽)と、阿弥陀仏の荘厳についての讃嘆である。これをさらに三節に分科すると、まず(1)「略讃」として、簡潔に、また一言で、浄土と阿弥陀仏について説かれる段。いわば要説である。次いで「広讃」として、(2)浄土がいかなるところか(依報荘厳・環境)、そして(3)その主である阿弥陀仏と聖衆(正報荘厳・主体)についての詳しい教説が続く。今回は、(1)略讃を中心に、(2)広讃の「なぜ、極楽と名付けれらるのか」という名義のところのみを窺った。

ちなみに、依正二報についてであるが、
「正報(しょうぼう)」とは、まさしく過去の業の報いによって得た肉体と精神で、ここでは阿弥陀仏と、菩薩衆(聖衆)を指している。
「依報(えほう)」とは、その身心のよりどころとなる国土・環境で、ここではお浄土のことである。

 さて、(1)「略讃」では、釈尊が、誰からの問いやきっかけを待たずに(発起序がない)、長老舎利弗に向かい、おもむろに説法を開始されていく。そして一言で、極楽と阿弥陀仏についての要点を説かれるのである。短いのでそのままあげれば、

「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします。阿弥陀と号す。今現に在して法を説きたまふ。」

というものだ。

 これは『大無量寿経』にも同じく、

「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名付けて安楽という。」

と同じ表記である。『観無量寿経』では、

「なんじ、いま知れりやいなや。阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。…西方極楽国土に生ずることを得しめん。」

と、『観経』だけは「ここを去ること遠からず」とある(この問題は『観経』のところでいただくにした)。三経に共通しているは、阿弥陀さまの浄土は、「西方」にあって「極楽(安楽)」という仏国土であることだ。

 これは、「指方立相論」と言われて、浄土が、西と方角を指し、具体的な荘厳の色相を立てて顕されているのである。
 それには、(1)釈尊の方便説。(2)「唯心の弥陀・己心の浄土」(我が心に浄土あり)。(3)娑婆即寂光土(この世を離れて浄土なし)などの諸説があると、古来から言われてきた。しかし、浄土真宗では「指方立相」(善導大師『観経疏』像観)論の立場で、「浄土は現に西方にあり」と頂いている。本来は、有の相を離れた無為の涅槃界であるののに、如来の大悲による「指方立相」をもって、有限の衆生への働きを示してくださっているのだ。

 それでも、なぜ無辺際の浄土を、また十方の中で西方と限定されたのだろうか。
 この点を、道綽さまは『安楽集』(第六大門)の中で、西方が物の帰趣(かえりこむ)ところであり、日没の地であること。そして、彷徨続ける我々の心が、真の安らぎを得る方向が定められると言われている。

 しかしながら、結局のところ、浄土三部経にその理由は示されない。ただ如来さまが、西方を指さしてお示しくださったいるのであるから、凡夫はそれを頂くしかないのである。そのことで、親鸞さまは、曇鸞さまの和讃で、

「世俗の君子幸臨し  勅して浄土のゆゑをとふ
 十方仏国土浄土なり なにによりてか西にある」
「鸞師答えてのたまはく  わが身は智慧あさくして
 いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」

と頂かれているのである。

 ちなみに、「十万億の仏土を過ぎて世界」とは、「十万億」は、満数、すべてのという無数の意味。「仏土」は、仏が教化したまう世界のことである。、法然聖人が

「これより西の方、十万億の三千大世界を過ぎて、七宝荘厳の地あり。名づけ極楽世界といふ。阿弥陀仏はこの土の教主なり。」(漢語燈録・巻七)。

と、「仏土」を仏が教化したまう世界、つまり三千大千世界(迷いの世界)と頂かれているであることにも触れておいた。

 そして、その極楽から、阿弥陀如来は、今、現に説法されている、生きて働く如来さまだというのである。

 とにかく今回はこの文面を何ども頂いた。西方とわざわざ指し示してくださったこと、そして、今も説法し続け、名のり続けてくださっていること。勿体ないですね。、

 「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします。阿弥陀と号す。今現に在して法を説きたまふ。」

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四十八願のこころ(13)第二十二願

「たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。」(第二十二願・還相回向の願)

 二十一願からは、浄土に生まれ仏にとなった者に対するお誓いとなります。浄土でいただく勝れたご利益といってもいいですね。

 中でもこの二十二願は、その中心となる、とても大切な願です。随分、難しい言葉が並んでいます。親鸞さまのお示しを頂かないと、私達では、阿弥陀さまのお心を窺い知ることはできません。

 まず、最初に、浄土に往生したものは、その一生を終えた次生には必ず仏の位を補う、つまり必ず仏に成ると誓われています。それで、「一生(いっしょう)補処(ふしょ)」の願、「必至(ひっし)補処(ふしょ)」の願とも呼ばれます。

 ところが、親鸞さまは、その後の「その本願~除く」の文から、還相回向の願でもあると頂かれました。一生補処の次ぎに仏に成る菩薩でも、その自らの願いに応じて、浄土より穢土に戻って、苦悩の人々を救済するために、普賢の行-利他の慈悲行-を成そうというものは、その限りではありませんと、但し書きがあるからです。

  浄土に生まれる相(すがた)を往相回向、その浄土から穢土に還り、衆生済度する相を還相回向といいます。この往相・還相の二種の回向こそ、浄土真宗の一番の根本なのです。
 浄土に生まれたら、自分の楽や欲望(為楽願生)が叶うように想像してしまいますが、実は還相の菩薩として働かせて頂くのです。でも、自分中心の私には、衆生済度のような利他の心は微塵もありませんね。だから、往相だけでなく還相もまた、すべて阿弥陀さまの他力によるものなのだと、親鸞さまは教えて下さっています。

 「浄土に生まるる因も果も
  往(ゆ)くも還(かえ)るも他力ぞと
  ただ信心をすすめけり」(「正信偈」曇鸞讃の意訳)

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阿弥陀経(2)十六羅漢

  今月から本文で、まず「序分」に入る。序分とは、お経の序たる部分で、一般の序章にあたる部分だ。ここは阿難尊者のお言葉である。
詳しくは、証信序(通序)といわれ、全てのお経にほぼ共通した部分。この説法が信ずるに値する証拠を挙げられるが、それが六事成就である。(なお、阿弥陀経には、発起序がないことは、前回解説した)。
 六事とは、
一、信成就=「如是」 かくのごとく
二、聞成就=「我聞」 われ聞きたてまつり
三、時成就=「一時」 ひととき
四、主成就=「仏」  仏
五、処成就=「在舎衛国祇樹給孤独園」 舎衛国の祇樹給孤独園に在しまして
 舎衛国とは、コーサラ国の首都。マガダ国(王舎城)と並び当時の二大強国で、波斯匿王が治めていた。
その中に「祇樹給孤独園」-舎衛国の祇陀(ジェータ)王子、大富豪の給孤独園(スダッタ)長者の黄金を敷きつめる逸話から起ったので、「祇園精舎」と呼ばれている。
の5つと、衆成就、すわなち聴衆のことである。

 さらっといってもよかったが、今回は、阿弥陀経の会座に集う人達を、じっりく窺っていた。
 大別すると、次ぎ3種の人々になる。

六、衆成就=千二百五十の仏弟子(十六阿羅漢他)と、菩薩(四菩薩他)・帝釈天等の天と大衆

(1)「大比丘衆千二百五十人倶」-大比丘の衆、千二百五十人と倶なりき。

十六羅漢=(1)*舎利弗(智慧第一)・(2)*摩訶目ケン連(目連・神通第一)・(3)*摩訶迦葉(頭陀第一)・(4)*摩訶迦旃延(論議第一)・(5)摩訶倶チ羅(大住・得解第一)・(6)離婆多(舎利弗の末弟)・(7)周利槃陀伽(周利槃特)・(8)難陀(釈尊の異母弟・調伏諸根第一)・(9)*阿難陀(阿難・釈尊の従弟・多聞第一)・(10)*羅ゴ羅(釈尊の実子・密行第一)・(11)キョ梵波提(牛王・解律第一)・(12)賓頭盧頗羅堕(獅子吼第一)・(13)迦留陀夷・ (14)摩訶劫賓那(比丘教誡第一)・(15)薄拘羅(長寿第一)・(16)*阿ヌ楼駄(阿那律・天眼第一)=*十大弟子(7名)
                            
(2)「諸菩薩摩訶薩」もろもろの菩薩・摩訶薩
(1)文殊師利法王子・(2)阿逸多菩薩(弥勒)・(3)乾陀訶提菩薩・(4)常精進菩薩

(3)「釈提桓因等・無量諸天・大衆倶」
帝釈天等の無量の諸天(流通分から、阿修羅も含むと思われる)
大衆(一般市民)と倶なりき

となる。

 主に十六羅漢といわれる釈尊の高弟たちについてだ。

 大乗経典では、声聞方は一段低く扱わるが、本来は、釈尊の右腕、左腕となり、異教徒の殺害されるのも畏れず、仏法を弘通された先達たちである。また釈尊亡き後も、その衣鉢をつぎ、教団を維持し発展させた、仏法の大恩人の方々だといってもいい。それぞれに物語があるので、主な方だけでも山辺習学先生の『仏弟子論』を参照しながら頂いた。尊かったです。

 

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『浄土法門源流章』を読む

  浄土宗教学院の提携講座を受講する。
 昨年は、法然聖人の『漢語燈録』に収録されている『類聚浄土五祖伝』で、3番目の善導法師、4番目の懐感禅師、そして5番目の少康法師まで読み終えた。

 今年は何が始まるのかと思っていたら、『浄土法門源流章』だという。

 まったく予想していなかった。浄土真宗では聞き慣れないお聖教だ。しかし『浄土宗全書』には収録されている。それにしても一般の講座向けとしては、かなりマニアックな選択だ。もっとも著者は、高名な凝念大徳である。ぼくもこのブログで、いま『八宗綱要』を読んでいると書いたことがある。『八宗綱要』がすごいのは、もう七百年前の著述であるにもかかわらず、いまでも仏教各派の入門書として読み継がれていることだ。手元にある講談社学術文庫のサブタイルは、「仏教を真によく知るための本」と書かれている。しかもそれがわずか29歳の時の著述というのだから、驚きである。まさに八宗兼学の天才であったのだ。

 凝念大徳は、『八宗綱要』の著述を皮切りに、実に百二十五部、千二百巻にも及び著作があるというのである。しかもそれは、華厳、律、真言、聖徳太子の三経義疏に、浄土の教えと多岐に渡っている。もちろん仏教通史ともいうべき概説論なども顕しておられるのである。

 その彼の最晩年、七十二歳で顕したのが『浄土法門源流章』である。彼は二十二歳の時、法然門下の覚明房長西より善導大師の『観経疏』を学んでいるのだ。大徳は鎌倉中期、法然聖人没約30年に生まれ、親鸞聖人とは同じ時代を生きておられる。といっても、聖人が亡くなった前後に浄土教を学んでおられることになる。

 彼は東大寺戒壇院の中興第二世として活躍される。律宗には、法然教団を批判された解脱房貞慶上人(興福寺)や、やはり華厳や律宗で活躍され、猛烈に法然さまを批判された明恵上人などが、一世代前の先輩におられる。解脱上人も明恵上人も、南都仏教を復興され、特に戒律復興を遂げられた方々である。その後継者の立場におられる方が、法然門下に弟子入れされ念仏の教えを学び、その歴史や教義をしっかりとまとめておられるのだ。だからますます、当時の日本の浄土教の立場、法然門下の情勢を伝える書としても貴重なものだといえよう。

 今日は、最初の浄土三部経を原文で購読したが、ものすごく久しぶりに「勉強しました」という充実感を味わった。学生時代よりも、ずっと(100倍以上)面白いです。

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