カテゴリー「聖典講座」の106件の記事

聖典講座~定善(3)華座観・立撮即行

 では何故、坐わったままではなく、立ち上がらずに居られなかったのか?
善導様のお言葉では、立即得生(りゅうそくとくしょう)と立撮即行(りっさつそくぎょう)の二つの意味を見ることができる。

 まず、「立即得生」とは、立ちどころに即ち生じることを得る。
「弥陀、空にましまして立したまふは、ただ心を回らし正念にしてわが国に生ぜんと願ずれば、立ちどころにすなはち生ずることを得ることを明かす」
つまり、「自力を心を翻して本願力を頼み、我が国に生まれたいと願うものは、立ちどこに、往生のうべき位につかせましょう」という、弥陀の本願を顕しているのである。

 そして、「立撮即行」とは、立ちながら撮(と)りて即ち行く。
なぜ立ち上がられたのかを問答を設け答えておられる。その問いは、「正覚の弥陀なちば軽々しい振る舞いなどせずとも、正覚の蓮台に端座されたままでも、人々を救うことが出来るのに、何故、立ちあがられたのか」。それに対して、
「これ如来(阿弥陀仏)、別に密意ましますことを明かす。ただおもんみれば、娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦あひ焼く。ややもすれば違返を成じ、詐り親しみて笑みを含む。六賊つねに随ひて、三悪の火坑臨々として入りなんと欲す。もし足を挙げてもつて迷ひを救はずは、業繋の牢なにによりてか勉るることを得ん。この義のためのゆゑに、立ちながら撮りてすなはち行く(立撮即行)、端坐してもつて機に赴くに及ばざるなり」と。
 つまり、阿弥陀様には特別な思いがあった。娑婆はまさに苦の世界、悪が満ち満ちて、苦悩に苛まれる世界であって、いままさに三悪道の火の坑(あな)に落ちているのが、韋提希(=私)の姿である。いま、釈尊の要請に応じて現われた阿弥陀様は、じっと座ってはおられず、いま立ち上がり、凡夫の私の前に足を運び、今すぐ救いあげねば間に会わないという緊急の大悲のお心であるのだと。それが立ちあがり私をつまみとり、ただちに浄土に連れて帰ろうという立撮即行の姿なのだと。

 そのところを、伊藤先生は『大悲の呼び声』で次のようにうたっておられるのである。

「弥陀は正覚なりてより そなたの来たるをまちたれど
 一劫たてでもまだ見えず 二劫たてでもまだ見えず
 三劫たてでもまだ見えず 弥陀成仏のこの方は、
  いまに十劫をへたまえり
 お立ち迎えのみ姿を なんと思うてくれるぞや
 極楽浄土の荘厳を なんと思うてくれるぞや
 南無阿弥陀仏のお六字を なんと思うてくれるぞや
 来応大悲の弥陀仏が 蓮台上に立ちたるは
 炎うずまく三悪の 火坑にむかい臨々と
 入りなんとする衆生をば おどろき救うすがたなり」
                                               『大悲の呼び声』

 講義では、この後、「第七華座観の位置づけ」(正報観か、依報観か)
 また華座観についてが続くが、繁雑になるので、ここではもう略します。

 次回は、12月16日(日)昼1時30分より
 定善の第8観・像観に入ります。奮ってどうぞ。

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聖典講座~定善(3)華座観・苦悩を除く法

釈尊が、「よく聴けよ。苦悩を除く法ぞ」と仰った瞬間、それに呼応して阿弥陀仏そのものが立ち上がってくださった。韋提希夫人は、阿弥陀様にお出会して、苦悩を除く法を聞き開くことが出来たのである。

 これはお釈迦様と阿弥陀様の二尊が一致したお働きである。しかし、釈尊の在世ならばともかく、末法の衆生はどうして阿弥陀様にお出会いさせていただくのか。そのために、当面の表向きは(顕)は、この後、華座観の観法以下、定善が再び説かれていく。しかし、『観経』は最後の最後に大どんでん返しか待っているのである。その流通分までいたる結論を踏まえて見るならば、他力の念仏一つを説くためのお示しである。

 韋提希夫人が出会った阿弥陀様とは、本願成就の正覚の弥陀である。無量寿・無量光の仏体は、南無阿弥陀仏という弥陀の名号と離れることはないのだ。「苦悩を除く法」とは、釈尊亡き後の末世の我々にも、生きて働き続けている大悲の呼び声(本願招喚の勅命)であり、南無阿弥陀仏(名号法)の雄叫びに出会うことに他ならないのである。韋提希が阿弥陀仏に拝見して救われたように、私も名号のおいわれを聞き開いた信心一つで救われていくのだと、親鸞様は頂かれている。

「行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」
(行者まさしく金剛心を受けて、慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲、すなわち法性の常楽を証せしむといえり)『正信偈』

         

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聖典講座~定善(3)華座観・阿弥陀様の来現

  『観経』は、韋提希夫人の要請に応じ、また末世の衆生のために、浄土往生の方法が段階的に説かれている。まず定善といって息慮凝心-精神統一をして、淨土や阿弥陀仏などを観想する十三の観法をうかがている。ここも大きく、第一観~第七観が依報観(浄土についての観法)と、第八観~第十三観が正報観(阿弥陀仏や聖衆方についての観法)に分けられていく。その中で、第七(阿弥陀様の座られる台座)を窺った。

 さて、依報観-極楽浄土(国土)についての観法には、仮観(この世界のものを手かがりにする方便観)である第一日想観、第二水想観と、さらにそこを手がかりに、真観(極楽浄土そのもの)である第三地想観、第四宝樹観、第五宝池観、第六宝楼観と続いていく。これはすべて愚痴の女、韋提希夫人の要請で説かれたのだ。それにしても、浄土の詳細な有りさまは、凡夫が観察するにはあまりには深遠広大で理解し難い世界だ。にも関わらず、身の程知らぬ(まさに無明)故に、釈尊に自ら要請して定善は説かれたものである。これは経典にないが、以上のお心から、ここまでの深遠な説法についていけず、号泣の疲労もあって、ついつい韋提希は居眠りし出したと、悟朗先生は教えてくださった。確かに、ぼくたちも第1観から6観を通して読んだけで、まったくついていけずに後半は居眠りする人も多かったのである。疲れてくるのだ。

 ここで、場面は急転換するのである。

 そんな様子をみられて、釈尊は、「諦聴、諦聴(あきららかに聴け、あきらかに聴け)」と告げられて、「私は、今、そなたのために苦悩を除く教え(除苦悩法)を説き示そう。そなたたちはそれをしっかり心にとどめ(憶持)、大衆のために説き明かすがよい」と、韋提希にこころこめて聞くように促されるのである。その声に呼応して、突然、阿弥陀仏が観音、勢至の二菩薩を伴って、空中に住立されるのである(住立空中尊)。それは光明(智慧-愚痴を破る)そのもので、詳細に観ることのできぬほどまばゆく輝ていたのである。 

◎二尊一致(二尊一教)のおこころ

  釈尊の声に応じて、阿弥陀仏が現われたことを、善導様は『定善義』に、

「弥陀、声に応じてすなはち現じ、往生を得ることを証したまふことを明かす」。

 釈尊の「苦悩の法を説くぞ」の声に応じて阿弥陀様が来現して、韋提希が必ず往生するとこを自ら証明されたのである。それは、釈迦、弥陀二尊が心をひとつにし、互いに呼応しながら苦悩を凡夫を救うことを示されたのである。すなわち、

「まさしく娑婆の化主(釈尊)は、物(衆生)のためのゆゑに想を西方に住めしめ、安楽の慈尊(阿弥陀仏)は、情を知る(その心を知る)がゆゑに、すなはち東域(娑婆)に影臨(ようりん・姿を顕す)したまふことを明かす。これすなはち二尊の許応異なることなし。ただ隠顕(釈尊が隠れ退き、弥陀が現われる)殊なることあるは、まさしく器朴(きぼく)の類(たぐん)万差なるによりて(衆生の根機がさまざまなので)、たがひに郢(えい)・匠(しょう※)たらしむることを致す」
※郢・匠=『荘子』に出る二人の左官と大工の伝説的名人のこと。衆生の機類も、力量もさまざまなので、釈迦、弥陀二尊の意(こころ)が一致し救うことを譬える。

 親鸞様のご和讃『高僧和讃・善導讃』なら、
・「釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
  われらが無上の信心を  発起せしめたまひけり」
という二尊が一致したご苦労てである。

では、釈尊の説かれた「苦悩を除く法」とは、なんであろうか? (続く)

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聖典講座~定善(2)宝樹・宝池・宝楼観

 4、第四観・宝樹観[樹想]【十二】

  地想観が成就したら、次に極楽の宝樹を観想していく。
・宝樹は、七重の並木として繁り、高さは八千由旬、その枝葉は二十五由旬に広がり、金、銀などの七宝の葉と花を具足し、さらにそれぞれがさまざまな色彩の光明で輝いている。その枝は真珠のついた網で覆われ、その網と網の間には、華麗な梵天城のような宮殿が並び、多くの宝石で着飾った童子が並び、光輝いている。
・またその宝樹には、さまざまな美しい花が咲き、多くの果実が生まれ、そこから発する光明は、一切の仏事を映現し、また十方仏国を顯す。
 ・同じように、幹、枝・葉・花・果を次第して観ぜよと述べられる。

 5、第五観・宝池観[八功徳水想]【十三】

 次に、極楽の宝池を観ぜしめる。
 ・極楽には八種の池があり、それぞれが如意宝珠より噴出した十四の流れとなり、黄金の川に沿って流れ、七宝の色彩を輝かせている。その川の中には七宝の蓮華が咲き、その水の音は、悟りの法を説く(苦、空、無常、無我や六波羅蜜)。
・またその宝珠より黄金の光明が輝き、百宝の色鳥と化して、常に念仏・念法・念僧の讃嘆する説法をする。その八功徳水の宝池を観想せよ。
・八功徳水とは、1澄浄・2清冷・3甘美・4軽軟・5潤沢・6安和・7除疾患・8身体増益

 6、第六観・宝楼観[総観想]【十四】

 次に、極楽の宝楼を観ぜしめる。
・五百億の楼閣がそびえ、その中には無量の天人が自然の音楽を奏で、その音は虚空に満ちて、念仏・念法・念僧の讃嘆する説法となることを観想せよ。

 以上で、浄土の第四の宝樹、第五の宝池、第六の宝楼の荘厳相を観じ終わるので、総観想と名付けられる。最後に、滅罪の功徳と、正邪の注意が述べられる。

 第一、第二とその延長の第三観が一連であったように、第四、第五、第六がまた一連の観想であると窺える。

 が、皆さん、浄土の相に付いていけず、輪読するのが精一杯。たまらず居眠りするかとも数人おられるのも、続けて読んでみると、もっともなことだと思った。

 悟朗先生曰く、「出来もしない定善の説法を乞われた韋提希夫人だったが、あまりに難しくて、思わず居眠りしてしまいす」と。すると、釋尊はおもむろに、

 「あきらかに聴け、あきらかに聴け。これから苦悩を除く法を説くぞ」と言われると同時に、阿弥陀様が韋提希の目の前に立ち上がらる。住立空中尊の第七華座観へと続くが、それは11月の聖典講座で。

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聖典講座~定善(2)水想観~地想観

 2、第二観・水想観(水観)【十】

 水想観も、仮観であるが、次の第三地想観のための準備段階の観法である。すなわち、この世の水から、氷を通して、浄土の瑠璃の大地を観じていく方便観である。
 ・水の清く澄みきった様子をはっきりと心に想い描き、心を乱さない。
 ・その水が氷になった様子を想い描く。
 ・その透き通った氷が瑠璃であるという想いをなす。
 ・極楽世界の内も外も透き通った瑠璃の大地と、観ずるようになる。
 ・その大地は、七宝で飾られた八角形の黄金の柱で支えられ、その柱のそれぞれの面は宝玉で飾られ、それぞれが千の光で輝き、その光は八万四千の色があり、それらが、瑠璃の大地に映えて、千億の太陽を集めたように光輝いている。
 ・瑠璃の大地には、黄金の道が縦横に通じて、七宝で仕切られている。その一つ一つに五百色の光があり、光明の台となる。
 ・台の上には、千万もの楼閣がそびえ、その両側には華と幡(はた)で飾られた無数の楽器が並び、四方八方から風が吹くと、妙なる音楽を奏でる。
 ・そして「すべては苦、空、無常、無我である」という教えを響かせている。

 3、第三観・地想観[地想]【十一】

 第三観から第七観までが、直ちに浄土の荘厳相を観想させる真観となる。
 ・先の水想観が完成したなら、ほぼ極楽の大地の相を観ずることができる。
 ・その一々が、閉目・開目しても消えず、眠る時以外は、常にこれを想い続ける。
 ・三昧の境地に入れば、観るという想いもなくなる正受観となり、第三観が完成。

 ・この観を説き終わった釈尊は、阿難に、未来の衆生で苦悩を逃れたいと思うもののために、この観を説けと示して、「八十億劫の生死の罪が除き、生命終わった後、必ず浄土に生まれる。心に疑いを懐くな」と示される。
 ・最後に、観に邪正(正観と、邪観)があることを注意される。観念の行の妄念・妄想の戒めである。

 以上が、第一、第二とその延長にある第三観の一連の概要である。皆さんと、輪読を重ねていくと、まだ日没や水、つまりこの世のものを手掛かりにする仮観ならば、(あくまでも何となくだが)凡夫でもイメージはできる。がしかし、そこを手がかりにする極楽の地観になると、たちどころに理解を超えていくのだ。そこがまた面白かった。

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聖典講座~定善(2)日想観

  『観経』も前回から、正宗分(本論)に入った。韋提希夫人の要請に応じ、末世の衆生のために、浄土往生の方法が段階的に説かれていくのだが、善導様は、(1)定善十三観と(2)散善三観(九品)とに二分科されて頂かれている。
 まず定善十三観である。息慮凝心-精神統一をして、淨土や阿弥陀仏などを観想する十三の観法で、第一観~第七観が依報観(浄土についての観法)、第八観~第十三観が正報観(阿弥陀仏や聖衆方についての観法)である。そのうち、今回は、第一観~第六観を窺った。

1、第一観[初観]・日想観(日観)【九】

 まず、浄土についての観法が述べられる依報観である。依報とは、衆生の生活の依り所となる生活環境のことで、国土のことである。ここでは、阿弥陀様の極楽浄土のことである。そのうち、第一と第二は、この世界の日没や水を手がかりとするので、依報観の中でも仮観、つまり方便観である。中でも、日想観は、定善十三観全体の準備段階(いわばトレーニング)の観法で、『観経』には次の手順が説かれてる。

・心を専らに西方に思いをかけて、その世界を想い描く。
・(生まれながらに目が見えない限り、目が見える者は ※仏典では、しばしば障がい者を差別するような表現が生まれるので十分注意が必要だが、ここでは、自力の行には差別があり修行に限界があることが窺える)日没の光景を観る。
・姿勢を正し西に向かって座り、はっきり夕陽を想い描き、一心に一点集中する。
・夕陽がまさに沈もうとし、西の空に鼓をかけたようになっているのを観る。
・閉目・開目でも、その夕陽がはっきりと観えるようにする。

◎善導大師は、真西に日没する春・秋の彼岸が最適であるいわれ、なぜ、日没なのかにも『定善義』の中で詳細に応えておられる。
 第一に、極楽の方処(よりどころ)を、西方であると知る。
 第二に、自身の罪障の重さを知る。太陽を想い浮かべても、障り(黒障=重罪、黄障=やや重い罪、白障=軽罪)が現われる。障りが出る度に、阿弥陀仏や一切諸仏に、無始以来の罪障を一つ一つ数えて、懺悔(さんげ)する。再び、結跏趺坐して観法に入る。それでも障りがでるならば、再度、懺悔する。この所作が詳細に定められている。これは、実際に善導様が、実践され、体験され、自ら定に入っておられなければ言えない言葉ばかりだ。
 第三に、日月を超えた、阿弥陀仏の光明の威力を知るためである。

 余談ながら、かなり認知症が進んだ父の最晩年、沈む夕日に静かに合掌している姿を、何度か見ている。もう西に帰っていく準備だったのだろう。

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『観経』~正宗分~定善の概観(3)

  定善十三観のうち、正報観(阿弥陀仏、菩薩)である。

8第八観・像観…第八観から十三観までは、正報観である。宝座を観じたなら、その主である仏を観想するのである。それは仏が法界身であるからだ。しかし、いきなり阿弥陀仏を観想は難しいので、まずは端正な仏像を 観念する仮観が説かれていく。ここで『仏敵』で伊藤先生が拝まれる「水流光明」が説かれる。

9第九観・真身観…いよいよ阿弥陀仏の真身を観想するもので、定善の中心。
 念仏の衆生を摂取不捨(摂取して捨てたまわない)に仏意に達するのである。
 「光明遍照・十方世界、念仏衆生・摂取不捨」

10第十観・観音観…阿弥陀仏の両脇士のうち、まず左方の観世音菩薩観想する。
 阿弥陀仏の慈悲を顕している。

11第十一観・勢至観…次に右方の勢至菩薩を観じる。阿弥陀仏の智慧を顕わす。
 阿弥陀仏の化益の全きことを体認せしめるのである。

12第十二観・普観…以上、浄土と仏・菩薩を次第順序して観想してきたので、ここでは普(あまね)く合せて観ずると共に、自分が救われてその浄土に往生する想いをなす「自往生観」となる。その想いの行者のところに、常に観音・勢至等の諸菩薩が来たり摂護する。

13第十三観・雑想観…以上の諸観を最後に総合して観ずる。そして、仏身の大小真化を観ることも、行者の意楽(いぎょう)に従って自在である。
 このような観は、凡夫心力に及びところではなく、阿弥陀仏の宿願力のよることが説かれていく。
 宿願力=阿弥陀仏が法蔵菩薩としておこされた願を宿願(昔の願)といい、その願が完成し,願い通り衆生済度する働きを宿願力という。

 10月からは、詳しく中身を窺っていきます。

http://keko-kai.la.coocan.jp/event/2018/detail/10/seiten2018-10.htm

 

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『観経』~正宗分~定善の概観(2)

 まず、定善十三観のうち、依報(国土)観である。

1第一観・日想観…仮観。思いを西方浄土にかけるために、日の沈む方向を正視させる。浄土の真境を直ちに観る前段階で、この世界の日没所を借りて西方浄土の方向を教えるので、方便の観。

2第二観・水想観…仮観。娑婆の水平線を観て、水が氷となって透きとおり、瑠璃 の光りとなることを観想する。そこから浄土の大地が平坦であることを教える。 日想観と同じく方便の観。浄土が、平等普遍の徳があることを示している。

3第三観・地想観…この第三観から第七観までが、直ちに浄土の依報(国土)の荘厳相を観想させる真観となる。先の水想観を手がかりに、浄土の七宝の宝池は、清らかな瑠璃のように美しく、一点の曇りなく大地の底まで光り輝いていることを観想させる。

4第四観・宝樹観…浄土の宝樹を観ぜしめ、浄土の地上荘厳のすべてを観想させる。

5第五観・宝池観…浄土の宝池を観ぜしめる。宝池に流れる水の声は、悟りの法を 説き、水の光から生ずる百宝の色鳥は、常に念仏・念法・念僧の讃嘆する説法。

6第六観・宝楼観…浄土の宝楼を観ぜしめる。宝楼の中の無量の天人が、自然の音 楽を奏で、その音は虚空に満ちて、念仏・念法・念僧の讃嘆する説法となる。

7第七観・華座観…宝樹・宝池・宝楼とひろく浄土の荘厳を観したから、浄土の主たる阿弥陀仏を観想するために、仏の宝座(華座)を観想させる。ここまでが、依報(国土)観であると、善導様ご覧になられた。
 ここで、釋尊が「苦悩を除く法を説こう」と述べられると、突然、阿弥陀仏が韋提希の前に姿を顕される(住立空中尊)。

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『観経』~正宗分~定善の概観(1)

 スクリーングを午前で終えて、午後からは通常の聖典講座である。 ここから参加者が増えて、いつもよりお参りが多かった。 かなり堅い話が続くので、興味のない方は、読み流してくださって、結構です。

 『観経』も序文、発起序七縁が終わり、正宗分(本論)に入った。韋提希夫人の要請に応じて、浄土往生の方法が段階的に説かれていくのである。

 ここを善導様は、大きく(1)定善十三観と(2)散善三観(九品)とに二分科されている。
(1)まず、定善十三観とは、息慮凝心-精神統一をして、淨土や阿弥陀仏などを観想 する十三の観法で、中心は、第九観の真身観(阿弥陀仏の相好を感ずる)である。
(2)続いて散善三観(九品)、精神統一が出来ない者の行で、廃悪修善(悪を廃し、善を修める)が説かれている。『大経』の三輩(上・中・下)段に対応し、さらにそれぞれを、上生・中生・下生の九品に分類する。発起序七縁の「散善顕行縁」では、三福(世・戒・行)として散善の行が明らかにされている。それで、三福九品ともいう。最後の下品では、悪人のために念仏が説かれていくのである。

 そのうち、今日から(1)定善十三観になるので、その概観を窺うことにした。

 この定善十三観であるが、聖道諸師方と善導大師の分類の相違がある。
 善導様は、正宗分を定善十三観と散善三観(九品)に分類されている。しかしそれまでの聖道の諸師は、十六種類の観法として捉えていた。散善それぞれに「これを上輩生想と名づけて、第十四の観と名づく」「これを中輩生想と名づけて、第十五の観と名づく」「これを下輩生想と名づけて、第十六の観と名づく」と説かれているからである。それを第十二観(普観)が、自身の往生を思い浮かべる「自往生観」であるのに対して、この九品段を、他の衆生が往生する姿を浮かべる「他往生観」だと見られたのである。
 それに対して、善導様は、定善十三観までは韋提希夫人の要請に応えた説法で、その行に耐えられない凡夫のために、釋尊自らが散善を説き開き、序分の「散善顕行縁」で三福(世・戒・行)を述べ、そのありさまを詳細に知らせるために九品に分類されたとご覧になった。それで、定善十三観と散善三観を二分科されているのである。

 さて、観察(かんざつ)行は、
天親菩薩は、五念門に第四番目に観察門を、
善導大師は、五正行の第二番目に観察正行を、それぞれ説いておられるように、浄土の行法としてたいへん重要なものである。

「止観」とは、心を静め、疑惑に心を見出されることなく集中して、仏や浄土を観察することで、仏道修行の中心だ。天台宗では「摩訶止観」と呼ばれ、根本教義でもある。つまり、。
 止-梵語シャマタ(sanatha) 奢摩他=作願・定
 もろもろの心の邪念や雑念、思いを止め、心を静かにひとつの対象に集中し、
 観-梵語ヴィパシュヤナー(vipasyana) 毘婆舎那=観察・慧
 正しい智慧を起して、対象(浄土や仏)を観るのである。

そんなことを踏まえた上で、定善十三観の概観した。これは、依報観(浄土)と、正報観(仏・菩薩)に二分科されるが、それぞれに、仮観(方便の観)と真観がある。それを分類すると以下のようになる。

           ー仮観ー第一観・第二観(方便の観)
      依報観
           ー真観ー第三観~第七観
定善十三観
           ー仮観ー第八観    (方便の観)                 
      正報観
           ー真観ー第九観~第十三観
 

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浄土三部経の役割

  聖典講座スクリーング法座は、浄土三部経の役割に触れた終わった。

 浄土真宗の根本聖典、正依とする経典は「浄土三部経」-『仏説無量寿経』(大経)『仏説観無量寿経』(観経)『仏説阿弥陀経』(小経)である。
 親鸞様は、この三経に顕説(表に見える立場)と、隠彰隠された真意)の意があるとご教示くださった。
  まず顕説、表に見える立場では、
『大経』は18願の他力念仏往生
『観経』は19願の自力諸行往生
『小経』は20願の自力念仏往生
と、三経に真仮の差別があると見られたのである(三経差別門)。

 しかし、隠彰(隠された真意)の立場からは、
『大経』が18願を勧めるように、
『観経』も自力諸行を捨てて他力念仏に誘引し、
『小経』も自力念仏から他力念仏を勧めるので、
三経が一致して、第18願の立場で一つの意だと見られている(三経一致門・一意門)。

 しかも真実の立場で一致した三部経には、それぞれの役目があること詳しくお説きくださったのは、覚如上人のご指南である。すなわち、
『大経』は法の真実を顕し、
『観経』は機の真実(法の目当ては誰なのか)を顕し、
『小経』は機法合説証誠(機と法を合せて、真実であることを証明する)の立場である
これが三経一致門・相成門である。
 結局、ただ法の真実があるだけなく、その法に照らされ、そのお目当てが誰なのかを知らされねば空しいということになる。そしてそれは諸仏方が讃嘆し、法も機も真実であることが証明されてこそ届くもでのである。

 そのことは、法座の構造、三量にも当てはまるのではないだろうか。
 聖教量(説教・法話)はいわば教えで、法の真実を示すものだ。
 しかし、それだけではダメで、その教えが確かに衆生(私)上に届いてこなければ意味はない。それが現量(領解出言・信仰体験発表)であって、いわば本願のお目当てを体解したところが語られるところである。
 そしてさらに比量(談合・信仰座談)として、同行の仏徳讃嘆の声となり響き合い、法の真実、機の真実が証明されていくというのである。

 そうなると、現状の真宗界はどうであろうか。そんなこともいろいろと考察させていただいた。

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