カテゴリー「聖典講座」の145件の記事

四十八願のこころ(23)第43願~第44願

◎「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、寿終りてののちに尊貴の家に生ぜん。もししからずは、正覚を取らじ。」(第43願・聞名生家の願) 

 意訳「もし私、法蔵が仏になる時、他のお浄土の菩薩方が、私の名前(南無阿弥陀仏)を聞いて、その命を終える時には、みんなが尊ぶ(南無阿弥陀仏に溢れた)家に生まれさせてみせよう。もしそうでなければ、私は決して仏にはなりません。」

◎「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、歓喜踊躍して菩薩の行を修し徳本を具足せん。もししからずは、正覚を取らじ。」(第44願・聞名具足の願)

 意訳「もし私、法蔵が仏になる時、他のお浄土の菩薩方が、私の名前(南無阿弥陀仏)を聞き、躍り上がるほど喜び勇んで、菩薩の修行に励み、功徳のすべてを身に備えさせてみせよう。もしそうでなければ、私は決して仏にはなりません。」

 四十八願を分類すると、最後の一段に入っている。四十一~四十八願は、広く他の仏国土で自力修行中の菩薩方に誓われた願である。これまでの凡夫のための願いから、今は聖者のための願いを兼ねて、他国の菩薩方であっても、阿弥陀様のお名前を聞く(聞名)ことで、大きなご利益を与えようという願いが続いていく。

 

 第43願の「尊貴の家」は、一見、仏教の精神に反するような表現だ。阿弥陀様のご本願の前では、私達が区別する善悪も、智愚も、貴賤も一斉関係はないのである。また、お釈迦様は、生まれによって人に貴賤があるのではなく、その人の行いにこそあるのだと、社会差別を一蹴されている。だとするならば、ここでの「尊貴の家」とは、世間一般の、身分や地位、生まれによる差別的な尊貴の家をさすのではなく、南無阿弥陀仏が溢れる「念仏の家」と頂くことはできないか。そこだけが、万人に尊敬され,貴重な場所なのであるから…。

 次の第44願は、表面は自力修行者へのお誓いである。でも、そんな自力の修行者であっても、「南無阿弥陀仏」のみ声を聞くならば、飛び上がるほど喜び勇んで、修行に励み、大きな功徳を得るというのである。結局、これもまた南無阿弥陀仏の尊いお徳を示していると頂けるのである。南無阿弥陀仏 

 

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王宮会と耆闍会~『観経』の結び~

王宮会の結び
 最後に、このような説法を聞いて、目蓮、阿難両尊者、そして韋提希夫人たちが大いに歓喜したと結ばれる。仏説を拝聴して歓喜することで結ばれるのが尊い。ここで、王舎城での説法が終わる。
   
耆闍分(ぎしゃぶん)について
 普通の経典ならば、前章でお経は終わるのだが、『観経』は、さらに王舍城から耆闍崛山(霊鷲山)に戻られた釈尊が、もう一度、阿難尊者にさき程の王舍城の説法を、さまざな聴衆(大衆、諸天、龍や夜叉にいたるまで)再演させて、それを拝聴して歓喜したことで、結ばれるのである。

 つまりこの御経は、王舎城で説かれ(王宮会)、再び耆闍崛山(霊鷲山)でも再演(耆闍会)されるので、『観経』を「両処二会の説」・「一経二会」とも言う。

 善導様は、「この『観経』一部は両会の正説なり」(『玄義分』)

 これをうけて、覚如上人や蓮如上人は、観経は、法華経を説かれていた会座を中断して、王宮に釈尊が現れたのでといただかれている。残念ながら、そのもとになっているお経がどこに説かれているのかは知らないが、真宗ではよく語られている。

「これによりて、むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達(提婆達多)・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。」(『御文章』4-3通)

 これで一応、観無量寿経を頂いた。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 次回はもとめで、頭から全体を通して頂くことにしたい。

 8月2日(日)13時30分

 zoomでも発信予定です。同人のみならず、」ご参加いただけます。

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念仏付属~『観経』流通分(3)~

 短い一文だが最重要なので、書き下し文を示す。

仏、阿難に告げたまはく、『なんぢよくこの語を持て、この語を持つてといふうは、すなはちこれ無量壽仏の名を持てとなり」。

 阿難尊者の「この法の要をばまさに如何が受持すべき」という第2の問いに対して、釈尊は、「無量寿仏の名を持て」と答えられた。無量寿仏の名とは、「南無阿弥陀仏」の本願名号を心に信じてたもち(信心相続)、口に「南無阿弥陀仏」と称える(称名相続)とことである。長々と説かれた『観経』も、その最後の最後において、他力の念仏が肝要だと添えれている。『観経』の帰結、そして未来世に委嘱することは、観想の行(観仏三昧)ではなくて、阿弥陀仏の御名を信じ、称える称名念仏(念仏三昧)であるのだ。これまでちゃぶ台にきとれいに並べられいてた定善十三観や散善の三福の善行を、一気にこの一言で覆らされていく。まさしく究極の「ちゃぶ台返し」で、観経は締めくくられるのだ。

 善導様は、「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす。」と述べられている。
 もし『観経』「順見」、冒頭から順番に、経題→定善十三観→散善三観(行福→戒福→世福)→万行超過の念仏となる。
 それは、極重悪人への最終手段の称名念仏より世間的な善(世福)が、その世福より小乗の善(戒福)が、そして戒福より大乗の善(行福)が、さらには散善より、定善十三観が勝れている。定善も、浄土(国土)を観想するより仏・菩薩を、その中でも 阿弥陀仏を観ずることが勝れているのは、経の当面である。その意味では、観仏三昧こそが最高の行とすることを顕しているのだ。

 しかし、今度は、『観経』を「逆見」、最後の流通分より逆に眺めていくと、念仏三昧を説くことが目的で、定散は廃せられていく。
 そして、それは同時に、『大経』を通して窺うことで、称名念仏こそが阿弥陀様のご本願であることが明かになるのである。

 そして、親鸞様は、「顕説」-順見の面で、自力の観仏三昧を勧めるが、自力から他力への方便と位置づけられる。
 しかし、「穏彰」-逆見の面からみれば、他力の念仏を勧めることが、釈尊の本意ということにある。

 (参照)
 善導様『散善義』「仏告阿難汝好持是語」より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。」 
                       
 なお、法然聖様は『選擇集』で、「『遐代』とは『双巻経』(大経)の意によらば、遠く末法万年の後の百歳の時を指す。これすなはち遐(とお)きを挙げて邇(ちか)きを摂するなり。」と、遐代について註釈くださっている。

 その法然様は、「まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。」と。

 つまり、釈尊は、韋提希夫人の要請(随他意) により、定善・散善の法門を説かれたが、釈尊の意(随自意) によれば、定散の門を閉じ、阿弥陀仏の本願念仏の一門のみを阿難尊者に付属されたのである。  

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念仏者こそ白蓮華~『観経』流通分(2)~

   経題どおり、正宗分の主要は観想の行を丁寧に説いておらるに最後の最後に、これまで説かれた観仏、そして(突然)聞名(阿弥陀仏・二菩薩の名を聞く)にも功徳があることを示し、さらに憶念(心に念じ続け、常に思い続ける)はなおさらだと、念仏の功徳を説かれる。そして、念仏するものを白蓮華に譬え、観音・勢至の勝友であり、悟りの場に座り、仏方の家である極楽浄土に生まれるのだと讃えられていくのだ。
 この「憶念」とは、憶は憶持、念は明記不忘。心にたもって忘れず、常に思い続けることで、信心相続・念仏相続のことだが、善導様は、称名念仏といたがれたのである。

 善導様は、『散善義』で、「まさしく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善をもって比類となることを得るにあらざることを顕す」、つまりお念仏の功徳は、あらぬる行よりも超えすぐれて、比べ物にならないとしめされるが、その尊い尊い功徳ある念仏を称える念仏者こそが白蓮華(妙好人)だと譬えられているのてある。
 分陀利華は、梵語・プンダリーカの音写で、白蓮華のこと。インドでは蓮華を花の色毎に違う名で呼ぶが、中でも白蓮華がもっとも尊く『妙法蓮華経』(略して法華経)も、白蓮華のことだ。
 そして、分陀利華は、(1)「好華」(2)「希有華」(3)「上上華」(4)「妙好華」(5)「蔡華」と名付けるとして、もし念仏するものも、これ人中の(1)「好人」(2)「妙好人」(3)「上上人」(4)「希有人」(5)「最勝人」と名付ける。『散善義』・七祖篇499)▽参照=「人中の妙好人」(『聖教のこころ・経教は鏡』41頁)

この五つの称号を法然様は、「五種の嘉誉」と称賛される。すなわち釈尊が、念仏者を白蓮華のごとく尊き、立派な者よと、褒め称えられる言葉である。

曇鸞様は『論註』で、「経(維摩経)に、「高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の汚泥(湿ったどろ)にすなわら蓮華生ず」とのたまへり。これは凡夫、煩悩の泥に中にありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。」と述べられているが。結局、きれいな白蓮が花開く根は、きたいな泥の中であるように、凡夫の煩悩の泥の中に、法蔵菩薩のおかげにって、正覚の華が開くというのである。決して、きれいな心中に咲くのではないのだ。

しかもこの妙好人とは、一部の篤信家のことではないのだ。どんな泥凡夫であっても、本願を信じ、念仏を申して、仏と成る身に定まった者は、泥凡夫の身をもったまま「妙好人」と、釈尊は褒め称えれらるのである。つまりは他力念仏者のお徳であって、信心を喜ぶものは、みな妙好人と褒め讃えられているのである。

 そのことを、親鸞様も正信偈、「一切善悪の凡夫人 如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解のひととのたまへり、この人を分陀利華と名づく」と称賛されている。

 

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『観極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩』経~『観経』流通分(1)~

『観経』の講義も本文は、今回でも最終回、浄土三部経もこれで終わる。(次回は、まとめをするが)。

 経典は普通、「序分」「正宗分」「流通分」と三分科されるが、善導様は、特に『観経』の特色を明かにするために、五分科して解説くださった。
一、序 分=序論にあたり、経典が説かれる事情。王舍城の悲劇。
二、正宗分=本論にあたり、主要部分。定善十三観(息慮凝心-精神統一をし、淨土や阿弥陀仏、観音・勢至などを観想する十三の観法)と、散善三観(三福九品・廃悪修善-悪を廃し善を修める行)が、順序立てて説かれる。
三、得益分=定善、散善の自力の行が説かれた正宗分と別して(別開)される。韋提希は、仏力・願力のお働きにより、信心獲得し、無生法忍の御利益を得た。
四、流通分=結論にあたり、これまでの教説の要点が示されると共に、それを阿難尊者に委嘱して、後世に流布することを託される。すなわち『観経』の肝要は、顕の義(表向き)は、観想の行の実践(観仏三昧)であるが、釈尊の本意(隠された真意)は念仏三昧、すなわち他力の念仏にあることが示される一段。
五、耆闍分=王舍城から耆闍崛山(霊鷲山)に戻られた釈尊が、もう一度、阿難尊者にさきほどの王舍城の説法を再演させて結ばれる。

 さて、流通分は、これまで沈黙されていた阿難尊者の質問で始まる。もともと韋提希夫人の要請で、釈尊が目連、阿難二尊者を伴い王舍城に降臨される。そして説法が始まると、(韋提希や阿難が単独時もあるが)大半は「阿難及び韋提希」と呼びかけられていく。要請した韋提希はもちろんだが、阿難尊者こそ仏説を伝持して後世に伝える役割を担う者だからだ。ところが、これまでは問いに答えられるは韋提希のみであったが、最後になって阿難尊者が声を出して釈尊に、最後の要点を問いかけられているのある。
後世に伝えるにあたって、(1)。(2)「その法義の要点、経の肝要は何か」を確認されていくのである。

(1)「この経をなんと名付けるのか」という問いに、釈尊自らが経の名前を示してくださる。それが、

『観極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩』経(「極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩を観ず経」
『浄除業障・生諸仏前』経(「業障を浄除し諸仏の前に生ず」経)

である。経題が2つあるように思うが、要は「極楽と、阿弥陀仏・二菩薩を観想し」その観想行を実践することで、「罪業の障りを浄めて極楽で阿弥陀仏を中心とした諸仏の前に生まれる」経ということになる。もちろん、観想の中心は、阿弥陀仏なので、その阿弥陀仏を観ずる行によって,、極楽に生まれるお経ということになる。それで、阿弥陀仏を観ずるお経、つまり『仏説観無量寿経』(又は『仏説無量寿仏観経』)、略して『観経』と呼ばれる。

 この教題どおりにいただく表に顕わされる法義の要点は、「阿弥陀仏を観想して、現世において阿弥陀仏・二菩薩を目の当たり拝見し、成仏の記を授(授記)かり、無生法忍を得る」ために、観仏三昧を説くことにあるということになる。

 しかしである。ここから大どんでん返し、究極のちゃぶ台返しがあるのだ。

 

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聖典講座『観無量寿経』韋提希はいつ救われたのか

    では、 韋提希夫人は、いつ無生法忍を得られたのか。いわれる「韋提獲忍」についてである。

 主に三つの立場がある。またそこから派生して、韋提希夫人は菩薩かなのか、凡夫なのか。それは『観経』は誰に向けてのお経なのか。結局、自己自身をどう位置づけていくのかに関わる『観経』と向き合う時にいちばん大切な問題が横たわっている。これは、来月の最終回にも詳しくみたい問題ではある。ここまで読んできてやっと見えてきた『観経』の胆である。
 
一、「経末得忍説」(現211頁)浄影寺慧遠師なとの聖道祖師
 『観経』の分科にも影響。正宗分を(1)韋提希が請い光台現国(善導師は序分)・(2)釈尊説示の三種浄業・十六観、(3)釈尊説示後の利益(善導師は得益分)と、釈尊による諸実践行の説示を通じて、韋提希夫人は得忍したと理解する。  
また、釈尊の教説の聴聞によって無生法忍を獲得したのだから、韋提希は、その実は大菩薩で、化身として女性の姿を有する存在と理解。(韋提希権実論)

二、「七観得忍説」(現175頁)善導師(『観経疏』玄義分)
 無生法忍獲得の条件が見仏であるとするならば、韋提希は第七観の冒頭箇所で、既に阿弥陀仏と観音・勢至両菩薩を目の当たりに拝し、この時点で無生法忍を獲得。光台現国は、釈尊が韋提希に対して諸仏国土を感見せしめたので得忍ではない。

 また、韋提希権実論に対して韋提希凡夫論で反論。「汝はこれ凡夫にして、心想羸劣にしていまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたわず」(93頁)を注釈して、韋提希を大菩薩ではなく一凡夫であるとする。その凡夫が、現生で成仏することは出来ない。釈尊が説示する無生法忍は、すべて弥陀の願力、釈尊の仏力によるもので、阿弥陀仏を感見し相見えるという法縁により、生死の闇が晴れて信心決定し、無生法忍を得られたとされた。

 ちなみに親鸞様は、権化の仁(『総序』131・『浄土和讃』570)と頂かれる。
 末法の凡夫を哀れみ、権に聖者が、逆悪の凡夫・心想羸劣、愚痴の女人と現われて、大芝居を打って、弥陀の本願のお目当てが誰にあるのを示された。すなわら、従果向因の還相の菩薩方と仰がれた。(聖道祖師は、従因向果の自力修行中の菩薩)。

三、「光台得忍説」(現161頁)善導様を受けつつ展開(西山派、真宗学僧)
 釈尊なきあとの未来世の凡夫の教説を強調するために「光台密得・七観顕得」の光台得忍説を立てる。すなわち、光台現国でも、単に国土だけを拝見したのではない。韋提希は、諸仏土をさしおて「私はいま極楽世界の阿弥陀仏の身許に生れたいと願います」と願っている。ただ定善は、始めに浄土の荘厳相(依報)、後に仏・菩薩(主報)と順序立てた観法なので、序分では国土だけ、第七観で初めて仏をみたかのように説かれているのである。韋提希は光台現国ですでに無生法忍を密に得ている(光台密得)が、未来の衆生のために、第七観で阿弥陀仏を目の当たりにして摂取不捨のことわりを信知して無生法忍 を得ることを顕かにする(七観顕得)。

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聖典講座『観無量寿経』無生法忍について

      さて「無生忍」とは、「無生法忍」のことで、三法忍の一だ。
(1)音響忍=諸仏・菩薩の説法を聞き、驚き畏れることなく信認して受け入れる。
(2)柔順忍=素直に真理に隋順して、背かないこと。
(3)無生法忍=無生法とは、不生不滅の真理のこと。無生法忍とは、その真理にかない形相を超えて不生不滅の真実をありのままにさとること。

 しかし、不生不滅の真理をさとることは凡夫の身には甚だ困難、不可能。無生法忍を得るのは聖者のためになってしまう。しかし、浄土真宗では違うのだ。阿弥陀仏(南無阿弥陀仏)こそ不生不滅の真理そのものなのがら、そのおいわれを知させていただくこと。それは他力信心を得ることなのだから、その頂くお徳として無生法忍を得ると言われている。

 それで善導様は、無生法忍を、三忍(喜忍、信忍、悟忍)として頂かれている。忍とは、認可決定の意味で、ものをはっきりと確かめて受け入れることである。それで、浄土真宗では、これをこの世で頂くご利益として他力信心のもつ三つのお徳(徳義)として示されているのである。
 喜忍=歓喜の思い。法を聞き、安心して喜ぶ心。(「心歓喜」)
 悟忍=仏智を領得すること。真実のいわれをはっきりと知る心。                       (「廓然大悟」)
 信忍=仏力を信じること。本願を疑いなく信受こと。

親鸞様は、ご和讃で「念仏の心をもちてこそ 無生忍にはいりしかば」(『浄土和讃』)と、国宝本の「無生忍」の左訓には、「不退の位とまうすなり。かならず仏になるべき身となるとなり」と解説されている。
 
なかでも、この廓然大悟の言葉が有り難い。廓然は、心が広く、明るく開けてくることである。『大経』では、釈尊のご説法を聞いて、弥勒菩薩が「心、開明を得たり」と領解されているが、開き明かになるのである。信心、信心というので、何か(阿弥陀様だったり、仰せだったり)を信じようとしている。それで「信じられる」とか「信じられない」とか、無理にでも信じられるように心をもっていこうとする人がいるが、これはまったく見当違いである。他力の信の世界は、おいわれが届くとハッキリと心が広がり、明るく開けてくるのである。ここは、ぼく自身の領解といちばんビッタリするところ。

 しかし皆さんは、無生法忍とか三忍といわれても、自分に関係ないし、初めて聞くなーという顔をされていたが、そんなこはない。日々お勤めしているお正信偈の中にうたわれているのである。

「開入本願大智海  本願の大智海に開入すれば、
 行者正受金剛心  行者まさしく金剛心を受けしめ
 慶喜一念相応後  慶喜の一念相応の後
 與韋提等獲三忍  韋提と等しく三忍を獲
 即証法性之常楽  すなはち法性の常楽を証せしむといへえり」
 
 善導讃の獲信とそのご利益をあらわされるところだ。獲信が金剛心であることを顕し(一・二句目)、その他力信のご利益とし、現益(この世でのご利益・三・四句目)と当益(浄土のご利益・五句目)が示されている。もっとも、お勤めの時は、「よーい、だいとう、ぎゃくさんにん」と言っている。ヨーイどんのようで、韋提希さんのイダイを二つに分けてしまう。末代の凡夫の私が、他力のご信心を頂いた端的に、韋提希夫人と等しい三忍を獲る、というのである。

このあと、『廻心の体験』にある松岡先生の廻心体験について、末代の凡夫に示された「聞名得忍」をいただいた。『大経』の第三十四願「聞名得忍の願」で誓われているが、このご教示の尊さにこころ引かれいる。でも今は略します。

 

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聖典講座「観無量寿経」「得益分」(1)

前回で、 定善十三観と、散善三観(三福九品)が説かれた正宗分(本論)が終わり、その利益を得ることを示す「得益分」にはいる。当面は、韋提希夫人が阿弥陀仏や極楽を観見して無生法忍を得て、また五百名の侍女も菩提心を発すると説かれている。

 ただ、ここを「得益分」と別開(独立)された善導様のお心は深い。
 普通、経典(仏説)は、序論にあたる「序分」、本論にあたる「正宗分」、そして結論にあたる「流通分」に三分科される。従来は、『観経』も三分科されて理解されているが、善導様は、特に『観経』の特色を明かにするために、五分科して解説くださったのである。
 一、序分
 二、正宗分
、三、得益分
 四、流通分
 五、耆闍分
 善導様以前の聖道の祖師方は、この得益分を正宗分としてとらえ、韋提希夫人たちは、定善、散善の教説をすべて聞き終えた(聞経)ご利益によって、極楽の相や阿弥陀仏を見奉り、無生法忍を得たと理解されてきた。普通に読めばむしろ当然の理解である。

 しかし善導様は違った。韋提希夫人はすでに、序分の光台現国(現161頁)で極楽世界を、また第七華座観の直前に(現175頁)阿弥陀仏と二菩薩を拝見しておられる。それは共に定善が完成したからではない。すべて釈迦・弥陀二尊のお力によるものだと言われねばならない。それで、定善、散善の自力の行が説かれた正宗分と別して(別開)、得益分とされている。つまり韋提希夫人は、仏力と願力によって極楽や如来を拝見し、永い生死の闇が晴れて信心決定し、無生法忍のご利益を得られたというである。
 ここにも、「善導独明仏正意」である。『観経』の祖師方の古今の誤解を質し、仏様の正意、正しい領解を規定されたのである。まさに古今楷定の明師である。(続く)

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唯除(2)

 その善導様の『法事讃』の

 「仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅して生ずることを得、謗法と闡提、回心すればみな往くによる。」

は、特にたいせつな御文だ。本願でも救いに漏れた「謗法」と「闡提」も、回心するならば、本願力によってみな往生するというのである。『大経』「十八願文」、『観経』「下々品」に加えて、『涅槃経』の「難治の機・病(五逆、謗法、一闡提)」の者へのお救いに触れて、「誹謗罪」の者への救いが語られていくのである。このことは親鸞様も深く影響をうけておられる。

「『唯除五逆誹謗正法』といふは、『唯除』といふは、ただ除くといふことばなり。五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」

といただかれた。

 お正信偈にも「凡聖逆謗斎廻入」とある。

 『信巻』でも、

「ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし。」

 そのお救いを端的に著されたのが、次の仏智疑惑讃ではないだろうか。

 仏智うたがふつみふかし
 この心(しん)おもいしるならば
 くゆるこころをむねとして
 仏智の不思議をたのむべし

 結局、謗法の罪人とは、仏法を謗っている他の人ではなく、聞法しながらグズグズと言い続ける、仏智・本願を疑っている私のことである。その姿を思い知るとは、他力によって教えてもらう以外にはない。それこそが聞法なのである。その恐ろしさを仏智に照らされ、教えられたならば、これまで一度も、絶対に下げることのなっかた私の頭が下るのである。「ああ、恥ずかしいな」、「ああ、こんなものが救われるはずがない、親不孝ものだ」と、大悲の親に涙せずにはおれない。しかし、その心こそがまさに悔ゆるこころではないか。その心こそ頂き物の他力のおこころなのだ。そんなものに涙してくださっていた仏さまの先手をかけたお救いだけがあるのだ。

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唯除(1)

 先日の聖典講座の内容に少しふれておく。

『観経』の『下々品』では、「十悪・五逆の罪人」の救いが説かれている。ところが、十八願文や『成就文』では共に、「唯除五逆、誹謗正法」と「五逆と正法を誹謗する」ものは、唯除するとのお誓である。同じ仏説なのに、一方は救われるとあり、もう一方は除くとある。これはどういただくのか。七高僧方も仏様の真意をお考えになったでのある。

 まず、曇鸞様の『論註』(八番問答)では、「十八願文」には 「五逆罪」と「誹謗正法」の二種類の重罪を犯すから除かれるが、「下々品」では、「五逆罪」のみの単独(より軽い十悪)で、「謗法罪」は犯していないので、お救いに預かることができる。ならば単独が救われるのならば、もし「五逆罪」を犯さず、「謗法罪」のみの場合はどうなるのか。それは救われない。なぜなら、「謗法罪」のものは、如来の本願を謗り、それを聞くことがないからであるとのご教示された。

 次に善導様は、『讃善義』で「唯除」を「抑止文」として、未造業と已造業と示されたのである。すなわち、「唯除」を「抑止(おくし)文を、「おさえ、とどめること」と領解された。つまり「五逆罪・謗法罪」が重い罪なので、それを犯させないためにも、往生できないと抑え止める意味があるのだと。まだ造っていないもの(未造)に誡められると共に、ではすでに犯してもの(已造)のものはどうか。その者には、その罪の重罪さを知らせ、廻心させて摂取しようという慈悲の現われそのものであるといただかれた。つまり、第十八願の「唯除」は「未造業の抑止」であり、観経の「下々品」は「已造業の摂取」とのお示しが『散善義』にある。

 

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