カテゴリー「聖典講座」の69件の記事

現生十種の益

 伝道研究会も「得益篇」にはいり、「現生十種の益について」だ。

 親鸞聖人は、『信巻』で、

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。

 といわれた。浄土真宗では、人間の欲望を満足させる一般の現世利益を否定するので、現世利益和讃やこの現生十種の益にしても、どうも軽く見がちである。この文にしても、「横に五趣八難の道を超え」という横超で迷いの根切れがされたところもすごいのだが、その後に「必ず」と言い切っておられる。もちろん、他力信心の法悦の内的光景を述べられたもので、一般の攘災招福的な信仰や物質的な利益や単なる道徳的な規律を超えたものであることはいうまでもないが、もっと身近なところで、わが身に味わっていっていいのではないだろうか。

 また、前の九つのご利益は、すべて十「入正定聚の益」に具せられた法悦的光景である。なぜなら、人生の究極の目的である仏果を得ることが、信の一念の端的に定まり、入正定聚の益を得ることは、無量の計り知れない宗教的価値の実現が包含されているからである。だから、「また現生無量の徳を獲」(念仏正信偈)と述べられているのである。それをあえて、十種と示されているのにすぎないのではある。

 現生十種の益のその構造を示すと

(能護)ーー 一、冥衆護持の益-因人

(所護)体ー 二、至徳具足の益-具徳(法徳)
     用ー 三、転悪成善の益

(能護) 末ー 四、諸仏護念の益
            五、諸仏称讃の益ー果人
     本ー  六、心光常護の益

(所護)    七、心多歓喜の益
         八、知恩報徳の益ー相発
         九、常行大悲の益

≪総≫    十、入正定聚の益

 七、「心多歓喜の益」(心に歓喜、喜び多い)、八、「知恩報徳の益」(ご恩徳を知り、そのお徳に報いる)、九、「常行大悲の益」(常に大悲を行じる)の三つは、機相(つまり私の上に)発現れるご利益だとはいわれる。御利益ということは、喜ばせていただくことも、ご恩報謝させていただけることも、常行大悲も、すべていただきものだということだ。
 
 勿体ないことです。

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『阿弥陀経』(3)略讃

 序分(序説)が終わって、正宗分に入る。いよいよ釈尊のご説法が始まるのである。

 本論にあたる正宗分は、大きく三段に分かれる。まず第一段は、阿弥陀仏の浄土(極楽)と、阿弥陀仏の荘厳についての讃嘆である。これをさらに三節に分科すると、まず(1)「略讃」として、簡潔に、また一言で、浄土と阿弥陀仏について説かれる段。いわば要説である。次いで「広讃」として、(2)浄土がいかなるところか(依報荘厳・環境)、そして(3)その主である阿弥陀仏と聖衆(正報荘厳・主体)についての詳しい教説が続く。今回は、(1)略讃を中心に、(2)広讃の「なぜ、極楽と名付けれらるのか」という名義のところのみを窺った。

ちなみに、依正二報についてであるが、
「正報(しょうぼう)」とは、まさしく過去の業の報いによって得た肉体と精神で、ここでは阿弥陀仏と、菩薩衆(聖衆)を指している。
「依報(えほう)」とは、その身心のよりどころとなる国土・環境で、ここではお浄土のことである。

 さて、(1)「略讃」では、釈尊が、誰からの問いやきっかけを待たずに(発起序がない)、長老舎利弗に向かい、おもむろに説法を開始されていく。そして一言で、極楽と阿弥陀仏についての要点を説かれるのである。短いのでそのままあげれば、

「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします。阿弥陀と号す。今現に在して法を説きたまふ。」

というものだ。

 これは『大無量寿経』にも同じく、

「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名付けて安楽という。」

と同じ表記である。『観無量寿経』では、

「なんじ、いま知れりやいなや。阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。…西方極楽国土に生ずることを得しめん。」

と、『観経』だけは「ここを去ること遠からず」とある(この問題は『観経』のところでいただくにした)。三経に共通しているは、阿弥陀さまの浄土は、「西方」にあって「極楽(安楽)」という仏国土であることだ。

 これは、「指方立相論」と言われて、浄土が、西と方角を指し、具体的な荘厳の色相を立てて顕されているのである。
 それには、(1)釈尊の方便説。(2)「唯心の弥陀・己心の浄土」(我が心に浄土あり)。(3)娑婆即寂光土(この世を離れて浄土なし)などの諸説があると、古来から言われてきた。しかし、浄土真宗では「指方立相」(善導大師『観経疏』像観)論の立場で、「浄土は現に西方にあり」と頂いている。本来は、有の相を離れた無為の涅槃界であるののに、如来の大悲による「指方立相」をもって、有限の衆生への働きを示してくださっているのだ。

 それでも、なぜ無辺際の浄土を、また十方の中で西方と限定されたのだろうか。
 この点を、道綽さまは『安楽集』(第六大門)の中で、西方が物の帰趣(かえりこむ)ところであり、日没の地であること。そして、彷徨続ける我々の心が、真の安らぎを得る方向が定められると言われている。

 しかしながら、結局のところ、浄土三部経にその理由は示されない。ただ如来さまが、西方を指さしてお示しくださったいるのであるから、凡夫はそれを頂くしかないのである。そのことで、親鸞さまは、曇鸞さまの和讃で、

「世俗の君子幸臨し  勅して浄土のゆゑをとふ
 十方仏国土浄土なり なにによりてか西にある」
「鸞師答えてのたまはく  わが身は智慧あさくして
 いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」

と頂かれているのである。

 ちなみに、「十万億の仏土を過ぎて世界」とは、「十万億」は、満数、すべてのという無数の意味。「仏土」は、仏が教化したまう世界のことである。、法然聖人が

「これより西の方、十万億の三千大世界を過ぎて、七宝荘厳の地あり。名づけ極楽世界といふ。阿弥陀仏はこの土の教主なり。」(漢語燈録・巻七)。

と、「仏土」を仏が教化したまう世界、つまり三千大千世界(迷いの世界)と頂かれているであることにも触れておいた。

 そして、その極楽から、阿弥陀如来は、今、現に説法されている、生きて働く如来さまだというのである。

 とにかく今回はこの文面を何ども頂いた。西方とわざわざ指し示してくださったこと、そして、今も説法し続け、名のり続けてくださっていること。勿体ないですね。、

 「これより西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします。阿弥陀と号す。今現に在して法を説きたまふ。」

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四十八願のこころ(13)第二十二願

「たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土の諸菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ。」(第二十二願・還相回向の願)

 二十一願からは、浄土に生まれ仏にとなった者に対するお誓いとなります。浄土でいただく勝れたご利益といってもいいですね。

 中でもこの二十二願は、その中心となる、とても大切な願です。随分、難しい言葉が並んでいます。親鸞さまのお示しを頂かないと、私達では、阿弥陀さまのお心を窺い知ることはできません。

 まず、最初に、浄土に往生したものは、その一生を終えた次生には必ず仏の位を補う、つまり必ず仏に成ると誓われています。それで、「一生(いっしょう)補処(ふしょ)」の願、「必至(ひっし)補処(ふしょ)」の願とも呼ばれます。

 ところが、親鸞さまは、その後の「その本願~除く」の文から、還相回向の願でもあると頂かれました。一生補処の次ぎに仏に成る菩薩でも、その自らの願いに応じて、浄土より穢土に戻って、苦悩の人々を救済するために、普賢の行-利他の慈悲行-を成そうというものは、その限りではありませんと、但し書きがあるからです。

  浄土に生まれる相(すがた)を往相回向、その浄土から穢土に還り、衆生済度する相を還相回向といいます。この往相・還相の二種の回向こそ、浄土真宗の一番の根本なのです。
 浄土に生まれたら、自分の楽や欲望(為楽願生)が叶うように想像してしまいますが、実は還相の菩薩として働かせて頂くのです。でも、自分中心の私には、衆生済度のような利他の心は微塵もありませんね。だから、往相だけでなく還相もまた、すべて阿弥陀さまの他力によるものなのだと、親鸞さまは教えて下さっています。

 「浄土に生まるる因も果も
  往(ゆ)くも還(かえ)るも他力ぞと
  ただ信心をすすめけり」(「正信偈」曇鸞讃の意訳)

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阿弥陀経(2)十六羅漢

  今月から本文で、まず「序分」に入る。序分とは、お経の序たる部分で、一般の序章にあたる部分だ。ここは阿難尊者のお言葉である。
詳しくは、証信序(通序)といわれ、全てのお経にほぼ共通した部分。この説法が信ずるに値する証拠を挙げられるが、それが六事成就である。(なお、阿弥陀経には、発起序がないことは、前回解説した)。
 六事とは、
一、信成就=「如是」 かくのごとく
二、聞成就=「我聞」 われ聞きたてまつり
三、時成就=「一時」 ひととき
四、主成就=「仏」  仏
五、処成就=「在舎衛国祇樹給孤独園」 舎衛国の祇樹給孤独園に在しまして
 舎衛国とは、コーサラ国の首都。マガダ国(王舎城)と並び当時の二大強国で、波斯匿王が治めていた。
その中に「祇樹給孤独園」-舎衛国の祇陀(ジェータ)王子、大富豪の給孤独園(スダッタ)長者の黄金を敷きつめる逸話から起ったので、「祇園精舎」と呼ばれている。
の5つと、衆成就、すわなち聴衆のことである。

 さらっといってもよかったが、今回は、阿弥陀経の会座に集う人達を、じっりく窺っていた。
 大別すると、次ぎ3種の人々になる。

六、衆成就=千二百五十の仏弟子(十六阿羅漢他)と、菩薩(四菩薩他)・帝釈天等の天と大衆

(1)「大比丘衆千二百五十人倶」-大比丘の衆、千二百五十人と倶なりき。

十六羅漢=(1)*舎利弗(智慧第一)・(2)*摩訶目ケン連(目連・神通第一)・(3)*摩訶迦葉(頭陀第一)・(4)*摩訶迦旃延(論議第一)・(5)摩訶倶チ羅(大住・得解第一)・(6)離婆多(舎利弗の末弟)・(7)周利槃陀伽(周利槃特)・(8)難陀(釈尊の異母弟・調伏諸根第一)・(9)*阿難陀(阿難・釈尊の従弟・多聞第一)・(10)*羅ゴ羅(釈尊の実子・密行第一)・(11)キョ梵波提(牛王・解律第一)・(12)賓頭盧頗羅堕(獅子吼第一)・(13)迦留陀夷・ (14)摩訶劫賓那(比丘教誡第一)・(15)薄拘羅(長寿第一)・(16)*阿ヌ楼駄(阿那律・天眼第一)=*十大弟子(7名)
                            
(2)「諸菩薩摩訶薩」もろもろの菩薩・摩訶薩
(1)文殊師利法王子・(2)阿逸多菩薩(弥勒)・(3)乾陀訶提菩薩・(4)常精進菩薩

(3)「釈提桓因等・無量諸天・大衆倶」
帝釈天等の無量の諸天(流通分から、阿修羅も含むと思われる)
大衆(一般市民)と倶なりき

となる。

 主に十六羅漢といわれる釈尊の高弟たちについてだ。

 大乗経典では、声聞方は一段低く扱わるが、本来は、釈尊の右腕、左腕となり、異教徒の殺害されるのも畏れず、仏法を弘通された先達たちである。また釈尊亡き後も、その衣鉢をつぎ、教団を維持し発展させた、仏法の大恩人の方々だといってもいい。それぞれに物語があるので、主な方だけでも山辺習学先生の『仏弟子論』を参照しながら頂いた。尊かったです。

 

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『浄土法門源流章』を読む

  浄土宗教学院の提携講座を受講する。
 昨年は、法然聖人の『漢語燈録』に収録されている『類聚浄土五祖伝』で、3番目の善導法師、4番目の懐感禅師、そして5番目の少康法師まで読み終えた。

 今年は何が始まるのかと思っていたら、『浄土法門源流章』だという。

 まったく予想していなかった。浄土真宗では聞き慣れないお聖教だ。しかし『浄土宗全書』には収録されている。それにしても一般の講座向けとしては、かなりマニアックな選択だ。もっとも著者は、高名な凝念大徳である。ぼくもこのブログで、いま『八宗綱要』を読んでいると書いたことがある。『八宗綱要』がすごいのは、もう七百年前の著述であるにもかかわらず、いまでも仏教各派の入門書として読み継がれていることだ。手元にある講談社学術文庫のサブタイルは、「仏教を真によく知るための本」と書かれている。しかもそれがわずか29歳の時の著述というのだから、驚きである。まさに八宗兼学の天才であったのだ。

 凝念大徳は、『八宗綱要』の著述を皮切りに、実に百二十五部、千二百巻にも及び著作があるというのである。しかもそれは、華厳、律、真言、聖徳太子の三経義疏に、浄土の教えと多岐に渡っている。もちろん仏教通史ともいうべき概説論なども顕しておられるのである。

 その彼の最晩年、七十二歳で顕したのが『浄土法門源流章』である。彼は二十二歳の時、法然門下の覚明房長西より善導大師の『観経疏』を学んでいるのだ。大徳は鎌倉中期、法然聖人没約30年に生まれ、親鸞聖人とは同じ時代を生きておられる。といっても、聖人が亡くなった前後に浄土教を学んでおられることになる。

 彼は東大寺戒壇院の中興第二世として活躍される。律宗には、法然教団を批判された解脱房貞慶上人(興福寺)や、やはり華厳や律宗で活躍され、猛烈に法然さまを批判された明恵上人などが、一世代前の先輩におられる。解脱上人も明恵上人も、南都仏教を復興され、特に戒律復興を遂げられた方々である。その後継者の立場におられる方が、法然門下に弟子入れされ念仏の教えを学び、その歴史や教義をしっかりとまとめておられるのだ。だからますます、当時の日本の浄土教の立場、法然門下の情勢を伝える書としても貴重なものだといえよう。

 今日は、最初の浄土三部経を原文で購読したが、ものすごく久しぶりに「勉強しました」という充実感を味わった。学生時代よりも、ずっと(100倍以上)面白いです。

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伝道研究会~即得往生~

安心論も、最後の得益論にはいって、まず現益(この世で受ける御利益)から窺っている。

今月は、「即得往生」について。

これは、第十八願の成就文に「即得往生 住不退転」とあるところだ。
当面は、当来生であり、往生は、浄土往生のことを意味するので、即は、異時即。十八願の念仏行者が、命終して、浄土往生して(彼の地で)不退転に住するという意味であった。
しかし聖人は、この「即得往生」を、この世で受けるご利益と理解されたというのが、大きな特色である。つまり、死後の浄土往生ではなく、現生正定聚のことであり、信の一念の端的に、往生決定のご利益を得る(信益同時)という真宗教義の特色を明示されたものである。それで、もし十八願の念仏者が浄土に往生する「難思議往生」と同一視するならば、一益法門(この世で成仏を受けるとの邪義)理解に陥る恐れがあるので、よく心得る必要があるということになる。

それついて聖人は、『一念多念』には、

「即得往生といふは、即はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。また即はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。得はうべきことをえたりといふ。(略)すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを往生を得とはのたまへるなり。」

とか、『唯信鈔文意』でも、

「『大経』(下)には、「願生彼国 即得往生 住不退転」とのたまへり。(略)「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。即はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。」

と頂かれている。つまり、「即」の字には、(1)即には、「すなわち、ときをへず、日をもへだてぬ」-つまり時間的な同時即の意味と、2)即位というように、その位に「つく」という意味がある。また「得」の字を「うべきことをえたりといふ」と味わっておられる。つまり、得べきこととは、未来世の往生、えたりとは、現生即得を言う。つまり、即得往生とは、聞信の一念に同日に往生すべきに確定し得るという意となる。

詳細では、
(1)「即得(つきさまだる)往生(現生正定聚)」=現世
(2)「即得」(浄土往生の真因決定し満足する・六字釈の解釈)・「往生」=当来世
という理解もある。

いずによせ、現得往生は、ご信心の利益として、現生において受けるもので、それは信の一念の同時に、現生正定聚の位に住することであって、決して、命終わった後の往生即成仏という意味での「往生ではない」というのが、浄土真宗の基本となっている。

「本願を信受するは、前念命終なり。「すなはち正定聚の数に入る」(論註・上意)と。
 即得往生は、後念即生なり。「即のとき必定に入る」(易行品)と。また「必定の菩薩と名づくるなり」(地相品・意)と。『愚禿鈔』

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『阿弥陀経』(1)総説より

今回から『阿弥陀経』に入ったが、前回は、浄土三部経の全般のおさらいを中心に、『阿弥陀経』を窺ったので、今回と重複することも多いが、その組織・概観を中心に、『阿弥陀経』のDVDを観たりした。
 さて、通常、経典は、次ぎのように三分割される。
1)序分=お経の序たる部分で、一般の序章に当たる。
2)正宗分=お経の本論。
3)流通分(るずうぶん)=お経の結言に当たる。

 これを『阿弥陀経』で窺うと、次のようになる。

1)序 分=阿難尊者の記述
2)正宗分=釈尊の言葉のみ
3)流通分=阿難尊者の記述

通常、1)の序分は、まず、証信序(通序)と言われる、六事(信・聞・時・主・処・衆)が成就したことが示し、これが仏説であり、信じるに足るものであるということを証して始まる。つまり「「如是我聞」とか、「我聞如是」で始まる部分である。ある意味、定型的な記述になっていて、形は多少の違いはあるが、すべてのお経にほぼ共通するものである。その後、発起序(別序)と言われる、そのお経自体が説かれたおいわれ、事情が述べられ、正宗分というお経の本論に入っていくのである。

 ところが、『阿弥陀経』には、証信序(通序)のみで、発起序(別序)がなく、いきなり釈尊の説教がはじまるのである。つまり、聴衆の問いを待たずに、また合間にも、質疑や応答がなく、一方的に釈尊が説法し続ける。それもいきなり始まるのが、阿弥陀さまとその浄土についてのお姿である。だから、『阿弥陀経』は、「無問自説経」であり、ほんとうにお説きになりたかったことを説かれる「釈尊の出世本懐経」だと、親鸞聖人はいただかれたのである。

▼「この『経』は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出した まうゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり」(化土巻・398頁)

▼「この『経』は無問自説経と申す。この『経』を説きたまひしに、如来に問ひたて まつる人もなし。これすなはち釈尊出世の本懐をあらはさんとおばしめすゑに、無 問自説と申すなり」                  (一多証文・686頁)

 通常あるものがないということで、逆に深い意義が強調され、雄弁に語られるということがあるということだ。

 4月からは、内容に入っていくが、序分の中で、聴衆について、特に十六名の羅漢(釈尊の直接のお弟子、声聞方)についてのお話を中心に味わっていきたいと思う。教義的な問題ではなく、そのエピソードを中心に頂きたいと思うので、どうぞご参加ください。

 日時=4月16日(日)昼1時30分~5時

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聖典講座『阿弥陀経』(1)~特色~

 前回で、『無量寿経』が終わり、今月から『阿弥陀経』に入る。それでもう一度、第一回目の浄土三部経の概観から窺うことにした。あれから3年が経過し、顔ぶれも変化している。

 浄土三部経のそれぞれの特徴や内容の概説を行い、親鸞聖人がご覧になった浄土三部経の「顕説」の面と「隠彰」の面を概観した。

 加えて、『阿弥陀経』の特色なども窺った。

  『阿弥陀経』の特徴の第一番目は、「無問自説」経と言われることだ。問いを待たずに、釈尊が一方的に、いきなり舎利弗尊者にお説きになるのだ。しかも、「舎利弗、於汝意云何」と、「舎利弗よ、お前どう思うか」と質問をされながら、間髪を入れずに、ご自分で阿弥陀さまやその浄土の世界をお答えになっていかれるのである。
 それで、数あるお経の中でも、(2)「一代結経」の釈尊一代の結びの経だと言われ、以上から、(3)釈尊の出世本懐経であるとも親鸞さまはみておられるのは、以下のご文に示されている。

「この『経』は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまうゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。」(化身土巻・398頁)

「この『経』は無問自説経と申す。この『経』を説きたまひしに、如来に問ひたてまつる人もなし。これすなはち釈尊出世の本懐をあらはさんとおばしめすゑに、無問自説と申すなり。」(一多証文・686頁)

 さて、その内容を簡潔に概観するならば、まず(1)極楽と阿弥陀さまの様子と、(2)その極楽に往生する方法とが説かれ、(3)さらにその説法の真実性を、恒沙の諸仏方が証明し、これを信受する者の守護が説かれていくのである。

 しかも、正依の『仏説阿弥陀経』である鳩摩羅什(402年頃)訳は、その文体は簡潔で、直截的。比較的少量なので、書写や読誦が容易とあって、東アジアで廣く伝播することになる。(先日紹介した少康法師の『瑞応伝』にくよると、善導大師は生涯をかけて、これを書写することが十万巻とも言われている。また教化を受けた士女が、十万~三十万遍も読誦したというのである。法然聖人もまた、「呉音」「漢音」「唐音」とそれそれの読み方で、毎日三度、読誦されたというのだ。

 ところで、他に、異訳として、玄奘三蔵訳の『称讃浄土佛摂受経』(650年頃)があり、もうすでに失われているが、『仏説小無量壽経』 求奈跋陀羅訳(5世紀中頃)があったと言われている。そして、それ以外に、『石刻阿弥陀経』(湖北省襄陽の龍興寺)は有名で、親鸞聖人もご本典に2度も引用されている。『阿弥陀経』にはない、21文字が挿入さていて、それを親鸞さまが引用されている。ところで、この複製が、鎌倉時代の始め(1198年)に、日本も将来され、現在も福岡県の宗像神社にあるというのだ。また、梵本(サンスクリット語)もあるが、これも比叡山の円仁師などによって、「悉曇本」が日本将来さ、古くから知られていることなど、日本でもとても馴染みのあるお経なのだ。他にも西蔵本(チベット語)などがある。

 今回、開版された「悉曇本」や、宗像神社の『石刻阿弥陀経』の写真をご覧いただいたが、僕自身も、何か遠くインドの祇園精舎で説かれ、クチャ出身の鳩摩羅什さまに訳されたものだが、とても身近に覚えたのであった。

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『浄土五祖伝』~少康法師~

 法然さまが、中国における浄土念仏の先達として、曇鸞さま、道綽さま、善導さま、懐感さま、そして少康さまの五名の祖師を挙げ、顕彰のための各師の伝記をまとめてられたのが、『浄土五祖伝』である。この五名を中国の浄土五祖と選定されるのは、法然さまのオリジナルであるという。そのうち、曇鸞さま、道綽さま、善導さまの三名に関しては、業績、著述ともに申し分なく、浄土教の歴史においても大きな発揮をされている。異論はないだろう。しかし問題は、懐感さまと少康さまである。別にお二人に浄土願生や業績、著作などに問題があるのではなく、他にも資格者がおられる中で、なぜこのお二人なのかである。

 その中でも、以前から不思議に思っていたのは、同じ「後善導」で、著述など影響という意味では、さらに功績ある法照さまが漏れていることだ。

 親鸞さまの高僧和讃にも、
「世世に善導いでたまひ
 法照・少康としめしつつ…」

とあるように、お二人を善導さまの再来といただいておられる。ところが、著述に関すると、実践家であった少康法師には、最晩年に共著で、往生伝の『瑞応伝』があるだけだ。一方で、先輩の法照禅師の『五会念仏法事讃』は、親鸞聖人もたびたび引用されている。「念仏成仏是真宗」という文言も有名。後世の影響や著述、業績という意味では、むしろ法照禅師が五祖に加えられたほうが自然な気もするが、実際は違う。それはなぜなのだろうか。

 実のところ、はっきりしたことは分かっていない。

 が推測されるのは、まず法照禅師は、善導さまの生れ変わりとして、同一とみなされているからではないかというのが、ひとつである。

 一方で、その後に出られた少康法師も「後善導」ではあるが、少し事情が異なっている。

 少康さまの当時は、「阿弥陀仏の化身」だという善導さまの神格化ならむ仏格化が進んでいる。実際、少康さまの伝記が収められた「宋高僧伝」は、善導さまの真像が、仏身となったとsいうエピソードがある。そして、その「阿弥陀仏の化身」である善導さまから、時空を超えて直接教示を受けられたのである。この時代になると、善導流の法脈(法灯)、つまり直弟子-孫弟子と流れきた系譜が乱れて、不明となる時期に差しかかっていたいう。そんな中で、少康さまは、阿弥陀仏である善導さまに、直接対面して
「汝、わが施設(=儀礼)に依って、衆生を利楽(=利益)して、同じく安養(=浄土)に生れよ」
と教示されたエピソーが加えられている。そして、その後、上流知識人ではなくて、一般庶民に向けて念仏の実践、教化活動に専念された少康さまを、法然さまは重視されたのではないだろうか。

 法然さまもまた、時空超えて金色の善導さまにお出遇され、ご指南を受けられて、専修念仏弘通に邁進されることになり、自ら「偏依善導一師」と宣言されることと、どこかで重ねておられるのではないかというのは、ぼくの推測である。

 来月で最終回だが、もう少し少康さまを勉強させて頂きます。

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2月の伝道研究会

 2月の伝道研究会は、「真宗の基礎」安心篇に入って、最後の得益論に入っている。
 安心の価値、ご安心の利益について。浄土真宗は、現当二世のご利益の教えである。つまり、現世(この世)で受ける御利益と、当来世(後生)で受ける御利益である。そのうち、現世利益として、十種の御利益を親鸞さまは説かれたが、すべて十番目の「入正定聚」の益に収まるのである。つまり、この世の中で、信心獲得と同時に、必ず仏となることに正しく定まった聚(なかま)入りをさせていただき、もう二度と退転することのない位である。
                      
 しかも、この位は、
(1)菩薩の十地のうち、初地(歓喜地)に至る意味とみるだけでなく、
(2)八地の無生法忍(喜・悟・信の三忍)の菩薩と同じ(「韋提と等しく三忍を獲」)とみられている。八地とは、七地におこる菩薩の死といっていい、七地沈空の難を超えた菩薩とみられるので、その意義は大きい。
(3)さらに一歩進めて 等覚の弥勒菩薩、すなわち次生には成仏するに決定している菩薩の最高位である等覚と、まったく同じ(一生補処=一生を過ごせば、すなわちこの命が終わったならば、次生には即に成仏する、如来に等しいさとりである等覚の位)にあるともいわれ、「便同弥勒」とまで踏み込んで仰っている。しかしながら、それは衆生の側の価値によるのではなく、どこまでも他力回向の信心の徳からでるものである。当然、「如来と等しい」とまで踏み込まれても、けっして、仏と同じとは仰っていない。仏果を得るのは、あくまで当来世のご利益であることは、十分に注意が必要だ。

▼『大経』=「次如弥勒」

▼親鸞聖人=「まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり」『信巻』

▼同=「如来の誓願を信ずる心の定まるときと申すは、摂取不捨の利益にあづかるゆゑに不退の位に定まると御こころえ候ふべし。真実信心の定まると申すも、金剛信心の定まると申すも、摂取不捨のゆゑに申すなり。さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申すなり。これを不退の位とも正定聚の位に入るとも申し、等正覚にいたるとも申すなり。このこころの定まるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こころにひとしとほめたまふなり。このゆゑに、まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申すなり。また補処の弥勒とおなじとも申すなり」『御消息集』二十通

 主に講義的な話が中心だったが、最後は、皆さんがいろいろと味わわれたことをお聞かせに預かった

 なお次回は、「如来にひとし」から始まります。
 3月1日(水)ですが、 時間が変更になります。
 夜18時50分(勤行)スタートで、21時までと、少し早く終わります。同人会員限定ですが、どうぞ奮ってご参加ください。

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