カテゴリー「聖典講座」の184件の記事

「熊野霊告」(3)~一向専念が眼目~

 第五段を四分類していただいた内、第3節は親鸞聖人が、浄土真宗の根本である一向専念の伝統を示すと共に、真宗の神祇観を説かれる一節である。この「聖人のご教説」をさらに三につ分けて頂いた中の、(b)一向専念の教えである。

 そして、三国の祖師方の伝統の中でも、「一向専念の義」こそが浄土真宗の根本であると示されている。今は、関連の聖教のみを掲載するに留めておく。

 冒頭にある「三経に隠顕あり」とは、浄土三部経-『大無量寿経』(大経)・『観無量寿経』(観経)・『阿弥陀経』(小経)に「顕彰隠密」の義がある。顕彰隠密は「顕隠」ともいうが、「顕説」は顕著に説かれる教えで、『観経』は定散二善の諸行往生(十九願・要門)・『小経』は、自力念仏往生(二十願・真門)であるが、「隠彰」の穏微に顕されている真実義は、すべて『大経』に説かれる他力念仏往生、つまり十八願の弘願門であることを示しておられる(化身土巻381頁・397頁)。
 「三経の大綱、顕彰隠密の義ありといえどれも、信心を彰して能入とす」(化身土巻・398頁)

要は、「三経に隠顕あり」といえも、その心は一つで、いずれも「一向専念」が示されるというのである。そのために、浄土三部経、天親菩薩、善導大師の文が引かれている。

一、『大経』の三輩段(41頁)-上輩・中輩・下輩のそれぞれで、
  「一向専念 無量寿仏」(一向にもっぱら無量寿仏を念ず)ることを勧める。
二、『大経』の流通分(81頁)-弥勒付属
 『大経』を弥勒菩薩に付属(与えて、後世に広く流通することを託する)される。
三、『観経』の九品段・上品上生(108頁)
 「一つには至誠心、二つには深心、三つには廻向発願心なり。三心を具するものは、かならず彼の国に生じる」、と三心が説かれる。
四、『観経』の流通分(117頁)-阿難付属
 「なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」
五、『小経』の因果段(124頁)
 「執持名号(略)一心不乱」(名号を執持すること、…一心にして乱れざれば)
六、『小経』の証誠(六方)段(125頁)-六方(全宇宙)の諸仏が証誠する。
七、「論主」=天親菩薩『浄土論』-一心 
 「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」
  (世尊、われ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつり、安楽国に生ぜんと願ず)(『信巻』訓点・357頁)
八、「和尚」=善導大師『観経疏』(「散善義」・『信巻』404頁)
 「一向専念 弥陀仏名号」(一向にもっぱら弥陀仏の名を称する)

 「一向専念」とは、阿弥陀如来の本願を信じて、ひとすじに専らその名号を称念すること。「一向専修」にも同じ。専修念仏ということである。これを受けた聖人の『一念多念文意』のご解釈である。

 「一心専念」といふは、「一心」は金剛の信心なり。「専念」は一向専修なり。一向は、余の善にうつらず、余の仏を念ぜず。専修は、本願のみな(御名)をふたごころ(二心)なくもっぱら(専)修するなり」(『一念多念文意』687頁)

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「熊野霊告」(2)~お勧めも、さらにわたくしなし~

 下巻第五段を四分類していただいた内、第3節は親鸞聖人が、浄土真宗の根本である一向専念の伝統を示すと共に、真宗の神祇観を説かれる一節である。この「聖人のご教説」を、さらに三につ分けて頂いた。
 (a)時機相応の教え(三国七高僧の伝承)
 (b)一向専念の教え
 (c)本地垂迹のこころ(真宗の神祇観)

 親鸞聖人の教説(1)時機相応の教え(三国七高僧の伝承)

 釈尊のみ教えは対機説法で、聖教も千差万別であるが、今、末法の世では、浄土一門のみが、私達が救われる唯一の教えである(時機相応の教え)。それは釈尊の金言であり、また「三国の祖師、おのおのこの一宗を興行」されたものである(三国七高僧の伝承)。

 末法とは、釈尊の滅後(仏滅後)の時間の経過と共に、その広大な威光も徐々に薄れ、仏法が衰退してくを経過を顕している三時の一つである。まさに時の一大事である。まず、仏滅後、五百年間を正法(教・行・証)、次の一千年を像法(教・行)、次の一万年が末法(教)で、末法では教法のみが残り、修行する者も証る者もいない時代だといわれる。

 その末法の時代では、聖道門=「聖」は大聖、釈尊のごとく今生で悟りに至る「道」。つまりお釈迦様のごとく修行し、この世で仏となることが難しい時代であり、それに対して浄土門こそが盛んになるといのうである。

「我末法時中億々衆生 起行修道 未有一人得者」(道綽禅師『安楽集』)
「わが末法の時のなかの億々の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るものあらじ」(親鸞聖人の訓点)

「唯有浄土一門可通入路」(道綽禅師『安楽集』) 
「ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり」(『化身土巻』の訓点)

「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入」(『正信偈』道綽章)

 それは、まず、インドにおいて、龍樹菩薩が『易行品』で、難易二道を判じ、現生正定聚の義を示され、天親菩薩は『浄土論』を造って、一心帰命の安心を宣布された。
 中国では、曇鸞大師が『浄土論註』で、他力廻向(往還二廻向・自力他力)の義を明かし、道綽禅師は『安楽集』において、聖浄二門を判じて浄土往生を勧め、善導大師は『観経四帖疏』で釈尊の正意を明かにして凡夫往生を示された。
 日本の源信僧都は『往生要集』を撰して、報化二土を弁立し、源空(法然)聖人は『選択集』で信疑決判されて、念仏往生の浄土真宗を興行された。
 あくまでも釈尊、七高僧という先達の示された道であって、「愚禿すすむるところ、さらに私(わたしく)なし」なのである。

 お勧めでも、「さらにわたしくがなし」という言葉に出会たのが、今年一番の収穫。

*「ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まったくわたくしなし」(上巻・第七段)「自信」
*「愚禿すすむるところ、さらにわたくしなし」(下巻・第五段)「教人信」

 わが信の上でも、またお勧めのところでも、「わたしくがなし」、つまり自力を離れるが浄土真宗のご安心の真骨頂であるということを明かにされているのだ。南無阿弥陀仏気

 

 

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『御伝鈔』下巻五段「熊野霊告」(1)

    12月の聖典講座の前に、パスしていた11月の聖典講座に少しだけ触れておこう。
 11月は、下巻第五段で「熊野霊告」とか「平太郎夢告」「平太郎熊野詣」といわれる一段を頂く。ここは御伝鈔』で一番長い段で、以下の四段に分けて味わった。その大意は次の通り。 
(1)帰洛後の聖人は住まいを転々としておられたがも五条西洞院にとどまり、しばしば関東の門弟が尋ねて来られた。
(2)大部の平太郎が、職務で熊野権現に詣でることとなり、聖人に相談される。
(3)聖人は、真宗の根本である一向専念の伝統を示すと共に、真宗の神祇観を説く。
この第3節「聖人のご教示」を次ぎの三節に分科していた炊いた。
 (a)時機相応の教え(三国七高僧の伝承)
 (b)一向専念の教え
 (c)本地垂迹のこころ(真宗の神祇観)
(4)平太郎が泥凡夫のまま参詣していると、夢に熊野権現が現われて、「なぜ精進潔斎せず参詣するのか」と詰問された。すると親鸞聖人が現れ、「この者は他力念仏を喜ぶ者だ」と告げられると、権現はただ平伏するばかりであった。後にそのことを聖人に申すと「そういうことである」と申された。

 長い段であること、史実かどうか曖昧であること、何よりも聖人の神祇観とは毛色が異なることもあって、簡単に読みとばしてきた段であった。が、今回、第3節の聖人のご教示が読み応えがあったし、ここまで『御伝鈔』読んできたおかげで、以前は、馴染めなかった覚如上人の意図が尊く思えてきて有り難かった。

 決して、覚如さまは、親鸞様が阿弥陀様の生れ変わりだと仰っているのではない。いま、私一人のために、阿弥陀様が親鸞様という姿を通して現われてきてくださっているのだと頂いておられるのだと思う。どちらも同じように聴こえてくるかもしれないが、ぼくの中ではこの差は大きい。そのことに気づかせてもらっただけでも、『御伝鈔』を読ませていただいた甲斐があったと思っている。南無阿弥陀仏

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「箱根霊告」(3) 何故聖人は帰京されたか?

 さてなぜ聖人は帰京されたのであろう。『御伝鈔』には帰京の年齢、理由には一切触れておられず、山伏帰依から、関東から京都に帰京途中のエピソードに移っている。しかし、なんの理由もなく、20年におよぶ関東の布教を終え、京都に戻られたとは考えられない。それを他の資料から補ってみる。

 まず、聖人の帰京の年齢だが、諸説はあるが六十歳~六十二、三歳頃だと推測されている。途中、相模(神奈川県)、三河(愛知県)、近江(滋賀県)などに逗留されて教化活動をされたご旧跡が残っている。また、妻子が一緒だったかどうかも諸説がある。晩年、恵信尼公が越後に戻っておられるので、いろいろな推察を生むが、いまは妻子を伴った帰京とみていいのではないか。

 では二十年間の関東教化を終え、京都に戻られた理由は何か。それにも諸説がある。家庭の事情、善光勧進聖に関係すること、望郷の念、執筆活動の専念、門弟間での騷動、鎌倉幕府による専修念仏の取り締まりの強化などがあげれられる。もっとも鎌倉以上に、京都では専修念仏者の活動制限されていた。当たり前のことだが、今日の私達は、聖人が九十歳まで長命であったことを知っているが、しかし、当時の聖人は、残りの余生を知るよしもない。当時、六十歳の還暦を過ぎれば余命はわずかだっただろう。もう最晩年の実感をお持ちだったろう。そして、その結果は長生きされ、晩年の京都で多くの著作が残ることになった。

 ここからは推論だが、いくら同信の念仏者とはいえ、人が集うということはそれだけ問題が起こるということだ。声聞が集う釈尊当時の教団でもトラブルがあった。いわんや末法の凡夫の集いにおいてをや。また純粋な念仏者であればあるほど起こる信仰面の軋轢にしても、ちっぼけな華光の集いでも日々痛感させられることである。その時、仰ぐべきは親鸞聖人の言動であった。みな聖人を仰ぎ頼っていたのは、想像に難くない。これは釈尊でも、法然聖人の上でも起こった信仰や運営をめぐる師弟関係の大問題だ。そしてまたいかなるカリスマでも、このパワー、権力の問題で躓く凡人が大半で、そこが宗教界の常である。 このあたりは、晩年の関東の門弟の『御消息』や『歎異抄』の異義をみても明らかだ。

 たとえば、『歎異抄』の第六章には、

「専修念仏のともがらのわが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。」

と語られている。続いて、「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも…」と言われた。付く縁もあれば、また同じように離れる縁もある、そのすべてが仏縁であるというは、聖人の実体験であろう。

 最晩年の『三帖和讃』を終える結示の和讃は、聖人の深い内省の歌である。文字も知らない田舎の人々を前にした名利に人師をこのむ我が身の恐ろしさ、愚かさを切実と懺悔され、和讃が結ばれていく。この和讃には関東での布教を通した内省があるのではないか。法に帰ってこそ、聖人が関東を離れられた深い思いが窺える気がしてならない。南無阿弥陀仏

 よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを
 善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり

 是非しらず邪正もわかぬ このみなり
 小慈小悲もなけれども  名利に人師をこのむなり
 

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『御伝鈔』下第四段「箱根零告」(2)

 まず第一は、親鸞聖人の神祇観である。

 ◎「冥衆護持の益」

 「金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。」(『信巻』)

 とあるが、現生十益の一番目が「冥衆護持の益」、つまり、真実信心の者は、常に諸菩薩・諸天善神に護られているというのである。

 同じことが、『現世利益和讃』十五首の中でも歌われていて、「冥衆護持の益」を現わす和讃が続いていく。

 ◎念仏者は無碍の一道⇒神祇不拝

 『歎異抄』の第七章も有名なお言葉だ。

「一、念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。」(『歎異抄』第七章)

 念仏者は何にも妨げられたる畏れることもない。むしろ、天の神や地の神の方が敬伏し、魔界・外道を畏れずとも妨げにもならないというのである。従って、けっして神祇を拝む必要がないというのである。

 次は、この箱根に関するお別れの伝承である。
 これは伝説ではあるが、権現の夢告を受けた社人に温かく迎えられた聖人は、三日間この地に留まられたという。その際、聖人は自作の御影と十字名号を箱根権現に授与されて、それを今に伝えるのが大谷派「箱根山萬福寺」にある。芦ノ湖を望む地にあり、廃仏毀釈の際に箱根権現から移された夢告の阿弥陀如来像も蔵する。付近には、関東から同行してきた性信房と聖人とが、腰掛けて別れを惜しんだ「別れの石」や、箱根神社(権現跡) などの旧跡も点在する。
『親鸞聖人正統伝』では、同行の弟子は、顕智、専信、善念、性信。一説では、蓮位もいたと言われるが、別れの際、聖人は性信房に『教行信証』が入った笈(おい) を預ける。現地は笈ノ平と呼ばれる。性信房は、横曽根門徒の中心人物で報恩寺の開基。この時の『教行信証』が、国宝の草稿本、坂東本(現在、東本願寺所蔵)、というあくまで伝承である。

 また、帰京の前か、その帰路であったのか分からないが、六十三歳にあったと言われる、「一切経校合(きょうごう)」についてのエピソードを『口伝鈔』からいただいた。
一切経は、仏教聖典の総称で、大蔵経ともいわれる。経・律・論の三蔵とその注釈書を集大成したものである。校合(きょうごう)とは、本文の異同を他の本と合せて正すことである。鎌倉幕府の執権、北条泰時は北条政子の十三回忌供養のために一切経の書写を行っており、一説では、この時の校合事業に、親鸞聖人が参加したともいわれている。『口伝鈔』では、北条泰時が九歳の開寿殿で、袈裟のまま肉食をされる親鸞聖人との問答を詳細に掲載している(『口伝鈔』第八段「一切経校合の事」。)
 また、京都市仏光寺本の『御伝鈔』には、独自の「一切経校合の段」が加わる全十四段の構成である。(続く)

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『御伝鈔』下第四段「箱根霊告」(1)

 『御伝鈔』下巻第四段「箱根霊告」。
 前段の修験道(山伏帰依)につづき、神道の神にも尊敬される聖人は、ただ人ではないことを示すと共に、他力信心の徳である「冥衆護持」の現世利益を示す段である。

 そう長くはない段だが、一応、二段に分けていただいた。
一、「聖人 東関の堺 ~ 孤嶺にかたぶきぬ」
 箱根の難所=親鸞聖人が関東から帰洛の途中、険しい箱根の山道で夜も更け、宿を請われた。
二、「時に、聖人あゆみ ~ 珍味を調えけり」
 箱根権現の尊敬=たまたま訪ねられたのは箱根権現に仕える神官の社務で、「今、夢に、箱根権現が現われて『私の尊敬する客人が通るので、丁重に歓待するように』と告げられた」と述べ、聖人を丁寧にもてなしたといのが、分科と大意である。

 ところで、「権現」とは、本地垂迹説により、日本の神が仏や菩薩が仮に現われたものであり、その尊称が権現。仮に現われたの意である。ここでは箱根権現のことであがるが、箱根三社権現と称し、「瓊々杵尊」「彦火々出見尊」「木花開耶姫」を祭り、法体は「文殊菩薩」、俗体は「弥勒菩薩」、女体は「施無畏観音」である。明治維新の神仏分離によって、箱根権現は箱根神社となっている。その箱根権現での出来事である。

 「東関の堺」「華城」「晩陰」「険阻」「暁更」「慇懃」「饗応」「示現」「忽爾」「影向」「炳焉」「感応」「尊重屈請」などなど、見慣れない漢語調の言葉のオンパレードで、原文を一読した時は、皆さん「?」という感じだったが、語句をおさえていくと、内容的には難しい一段ではない。ある意味、たわいのない内容でもあり、覚如上人の記述も出来事のみで、どう真宗の教えの上で、また聖人の歩むの中でおさえていくのかというあたりは、少し補足が必要だった。(つづく)

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「山伏済度」(3)~修験道~

 さて、本段は、山臥(山伏)の廻心なので、「修験道」も話題にする。といっても、ぼくもほとんど知らないが、3年前に聖護院のご門跡の宮城泰年猊下と、トラベルサライさんの主催の「インドの夕べ」という集いでお話を窺うことがあった。宮城先生に興味をもって、何冊か修験道に関する本を読んだ。特に、宮城泰年、田中利則、内山節著の『修験道という生き方』(新潮選書)が面白かった。一言でいうと、日本人の身近な存在でありながら、何も知っていないということだ。そして、これまで加持祈祷というまやかしで民衆をたぶらかせてきた弁円さんのというイメージが払拭された感もあった。
 
 身体性のもつ猥雑さを嫌い、定着しない行動力は、権力の規制の外にあり、そして民間習俗ではあっても民衆との距離は近いことは、権力にとっては邪魔な存在で、何度も規制の枠にはめ込もうとし、近代には弾圧の対象になって禁止されている。民衆のために、民衆聖として、日々の生活に密着している。加持祈祷に加えて、薬草などのいわゆる漢方薬にも精通していて、民衆にとっては、遠く堅苦しい教えより、身近な頼りになる存在だということだ。
 
 修験道とは、山へ籠もり、厳しい修行を行って悟りを得ようとする日本古来の山岳信仰で、古来の土着信仰に仏教が融合した日本独特の宗教、道教の仙人思想も影響があり、修験宗ともいわれる。「修行して迷妄を払い験徳を得る修行してその徳を驗(あら)わす」(普段の会話でも、「霊験あらたか」などと身近だ)ことから「修験者」とか、山に伏して修行する姿から「山伏」(山臥)とも呼ぶれる。日本各地の霊山を修行の場とあた、厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践面も強い。修行の場は、日本古来の山岳信仰の中心の大峰山(奈良県)や白山(石川県)などの「霊山」。中でも熊野三山(和歌山県)への信仰は、平安時代中期から、天皇や貴族が競って参詣し隆盛を極める。(熊野信仰は、三所権現・五所王子・四所宮の祭神が重要。これを勧請した九十九王子が有名。『御伝鈔』下巻第五段の平太郎の熊野詣にも関連する)。他にも、豊前の彦山、伯耆の大山、伊予の石槌山、加賀の白山、駿河の富士山、信濃の戸隠山、上野の日光山、出羽の羽黒山、常陸の筑波山など。弁円さんの筑波山もその一つなのだ。また、神仏習合なので、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られ、表現形態として権現(神仏が仮の姿で現れた神)現われるが、もっとも有名なのが、役小角(役行者)が吉野山中で感得したという、蔵王権現(過去の釈迦仏、現在の千手観音、未来の弥勒弥勒を念じ、三体が融合した日本独自の仏)であろう。

 その修験道の歴史は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したといわれる。役小角は、『続日本史』に験力と流罪が記載。『日本霊異記』にも伝承。大和国葛城郡の出身で、葛城山で30年の苦行、摂津の箕面山で孔雀明王の呪力。吉野山中で、蔵王権現を感得する。終生を在家のまま通したので(民衆聖)、いまも在家主義が貫いている。

 修験道が盛んになるのは平安時代。その源は、仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の広まりと関連する。神社の境内には「神宮寺」が、寺院の境内に鎮守としての守護神の社が建てられ神仏習合が盛んになる。その中で、密教(天台宗・真言宗)での山中の修行と、日本古来の山岳信仰が結びつく形で、「修験道」という独自の信仰が成立する。

 鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立する。密教との関わりから、仏教の一派と見なされる。江戸時代には、修験道法度が定めれ、真言宗系の当山派(真言宗総本山醍醐寺塔頭の三宝院を本山)か、天台宗系の本山派(天台宗寺門派の園城寺末の聖護院を本山)に属することを義務づけられ、両派を競合させた。
 修験道への弾圧は、明治期に強化される。明治元年に神仏分離令、明治5年に修験禁止令が発令、修験道は禁止。里山伏(末派修験)は強制的に還俗。廃仏毀釈により、修験道の信仰も破壊された。薬事法で漢方薬などの禁止も痛手となる。その後、脈々と水面下で信仰されるが、本格的に復活するのは終戦後というから、その歩みをみるだけでも興味深い。
 
 といっても、真宗的にみても、現世の救いであったり、超えねぱならない面もあって、それも含めて味わうと弁円さんの廻心はまたくもって尊い。

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「山伏済度」(2)~山臥・明法房~

 さて、主役は、有名な山伏弁円である。山臥・明法房が、弁円と表わされるのは江戸時代の『正統伝』に、山伏の名が「弁円」と記載されて、このエソードが有名となるからだが、もともと『御伝鈔』にはその名はなく、聖人が命名された「明法房」と出ているだけだ。

「播磨公弁円」と名のり、筑波山地の修験道を束ねる存在であった。聖人と出会いは、聖人が49歳、弁円が32歳の頃か?(実際の往生の歳とは合致せず)。回心の後は、地域の門徒の中心的な弟子の一人だったことが、聖人のお手紙から窺える。二十四輩の19番目、上宮寺の開基。建長三(1251)年にご往生。68歳頃か?。兵庫県宍粟市山崎町にも墓があるのは、母方の出生地であるといわれる。

 廻心懺悔の後に詠まれたという歌には、深い味わいがある。

 「山も山、道も昔にかわらねど、かわりはてたる わが心かな」

 また、親鸞聖人の『御消息』(お手紙)には、重複した内容だが、明法房(弁円)の往生のことに関して、何度も言及されている。それをすべて出すと、。

一、「明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。鹿島・行方・奥郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ」(第二通・737)

*これは、建長四年(聖人80歳)の日付のお手紙で、その前年(つまり聖人79歳)に往生されている。大意は、
「明法房が往生されたこと、驚くべきことではないが、ほんとうにうれしいことだ。また鹿島・行方・奥郡(いずれも常陸国で、聖人の布教地が窺える)の往生を願う人にもうれしいことだ。」

二、「この明教房ののぼられて候ふこと、まことにありがたきこととおぼえ候ふ。明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。」(第三通・742)

*「その様子を、明教房というお弟子が上洛してきた時に、明法房のご往生のことを親しく聞くことができたが、ほんうにうれしいことだ。」

三、「なにごとよりも明法御房の往生の本意とげておはしまし候ふこそ、常陸国うちの、これにこころざしおはしますひとびとの御ために、めでたきことにて候へ。往生はともかくも凡夫のはからひにてすべきことにても候はず。(中略)
 明法房などの往生しておはしますも、もとは不可思議のひがごとをおもひなんどしたるこころをもひるがへしなんどしてこそ候ひしか。」(第四通・742)

*「明法房が往生の本意をとげられたことは、常陸国の往生を願っている人たちにとっても、よろこばしいことだ。往生は、凡夫のはからいでは超えられないのだ。(略)
 明法房が浄土往生されるのも、かってはとんでもない誤った考えをもっていたものを翻して回心されたからだ」。この後に造悪無碍について誡められる。

四、「明法御房の往生のことをききながら、あとをおろかにせんひとびとは、その同朋にあらず候ふべし。」(第五通・745)

*「明法房の往生のことを聞きながら、その意志を疎かにするような人達は、念仏の仲間(御同朋)ではない」。明法房の往生をもとにして、造悪無碍の人々を強く誡められている。

 つまりとんでもない間違った思いを持っていたものが、聖人と出会いによって、廻心懺悔して弥陀の本願に帰す身となられたことは、常陸国の人々にとっても大きな存在で、聖人も、当時の造悪無碍の間違った道を進む人々を戒め、正意安心の身に翻ってほしと、明法房の往生に即して切々と訴えておられるのである。南無阿弥陀仏

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『御伝鈔』第三段「山伏済度」(1)

 今月の『御伝鈔』は下巻 第三段「山伏済度」の段。下巻は七段に分かれるが、利他の徳、機の真実を顕すとみていいが、その中心、この段にある。親鸞聖人の対人的態度を窺う上でも、意味のある一段で、この視点は真宗カウンセリングの独特のものであって、この段の真意をさらに深まりをもって味わうことができた。

 まず「分科」で、この段を四段に分けて窺った。

 第一段は、「聖人 常陸国 ~ 信順の族はおほし」。
 「稲田での布教」の段で、親鸞聖人が稲田草庵を拠点に専修念仏(雑行雑修自力の行を捨てて、一心に本願を信じて専ら念仏すること)を弘められると、誹謗する人は少なく、信順する者が多かった。

 第二段は、「しかるに一人 ~ うかがひたてまつる」
 「害心の山伏」の段で、一人の山伏が、念仏が弘まることをよく思わず、聖人を害せようとした。

 第三段は、「聖人 板敷山 ~ 奇特のおもひあり」
 その山伏が「板敷山での待伏せ」の段で、聖人が往来される板敷山で何度も待ち伏せたが、いつも空振りに終わった。そこでいろいろ思いを巡らしていた。

 第四段は、「よって聖人に ~ これをつけたまえき」
 「山伏(明法房)の帰依」の段で、思いを巡らせた結果、直接、聖人に会うために武装して草庵を訪れたが、聖人の尊顔を触れた瞬間、その心を懺悔させられた。これまでの鬱憤を吐き出しても、聖人は驚かず受け止められた。その場で山伏を捨て、本願に帰依。聖人から明法房との名を賜り、後にめでたく往生の素懐を遂げらたのは、不思議なご因縁である。

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『御伝鈔』稲田興法(3)~追体験~

  さて、『御伝鈔』には触れておられないが、『恵信尼消息』などから越後より関東、常陸国稲田までの親鸞聖人の道程と、事跡を追ってみた。聖人が直接は語っておられないが、浄土真宗の上でもたいへん重要なことが含まれている。

 改めてその道程であるが、
◎越後(新潟・国府流罪の地)→信濃(長野)善光寺→上野(群馬)佐貫→武蔵(埼玉)→下野(栃木)→常陸(茨城)下妻から稲田

 建暦元(1211)年、聖人39歳の赦免後も、しばらく越後国に留まられている。法然聖人亡き京都ではなく関東に赴かれいる理由は、一つ前の文章で触れた。その道程を『恵信尼消息』で辿ってみると、興味深いものがある。建保2(1214)年、42歳にすでに関東に移住されているのだが、まず、流罪地の越後国府から南に向かい信濃国(長野県)へ。善光寺への参詣や善光寺聖との関連が強く推測されている。上野国(群馬県)の佐貫にいたって、ここで飢餓などの悲惨な現実を目の当たりに、三部経読誦の善巧功徳の行を行うもすぐに回心して止められた。それが後の「寛喜の懺悔」につながるのは、『恵信尼消息』に詳しい(これを詳しく読んだ)。そして、利根川を下って、常陸国の下妻(茨城県下妻市小島・小島の草庵)に逗留されている。これも『恵信尼消息』では、

「さて常陸の下妻と申し候ふところに、さかいの郷と申すところに候ひしとき、 夢をみて候ひしやうは…」

と示されるが、ここで、法然聖人が大勢至菩薩、親鸞様を観音様と御覧になる恵信尼様の夢告があるが、これもたいへん興味深いエピソードである。。

 そしてその後、笠間郡の稲田(茨城県笠間市稲田・筑波山麓)に草庵を結ばれ、この地を拠点におよそ20年に渡る布教活動で、上総(千葉県)や下野(栃木県)にまで足を延ばされて浄土真実の念仏が弘まったことが、『消息集』の地名からも分かる。その中心は、常陸国大郡と呼ばれる地域で、まだ未開の地で、浄土教も十分に広まっていない活動であったことが窺える。

 また、聖人が起点とされる「稲田の草庵」は、常陸国稲田の領主だった稲田九郎頼重の招きに応じて、この地に草庵を結んだのが始まりで、頼重は、聖人の帰洛後、草庵の跡地に寺を開創。現在の西念寺となったと伝承される。浄土真宗別格本山で稲田御坊とも称されるが、もう一つ大切なことは、ここで『顕浄土真実教行証文類』の草稿が顕されることである。その時をもって浄土真宗の立教開宗(元仁元・1224年)としている。

 今回、改めて、聖人の越後流罪後から関東への移住について窺ってみた。越後も、妙高高原も、さらには善光寺や関東のご旧跡は、これまで数回訪れている。さらに、子供のときに、家族で京都から越後、長野から関東、そして箱根や東海経て京都に戻る、父の運転での10泊11日の旅をしたのが甦ってきたが、800年後とはいえ、その地に立った体験をさせてもらっている。

 真実を顕かにした結果の越後への流罪、その地での恵信尼様との結婚と子供たちの誕生。そして「非僧非俗」としての「愚禿」の名告り。五年後赦免と、ほぼ同時に届いた、流罪の地での恩師法然聖人のご往生の知らせ。そして、群萌への伝道の決意の末、妻子を伴った「愚禿」としての伝道生活。その地で触れる地を這うような暮らしをする辺鄙な地に生きる人々との出会いがあった。

 その後、講座では、前回、積み残した「愚禿」の名告りについて窺ったが、「教信沙弥の定」という常のお言葉に乗っ取って、教信様の伝承を『往生拾因』の現代語訳を読み上げて頂いた。

 僣越ながら、聖人の「愚禿」名告りや、関東への歩みを、追体験(といへばおこがましいが)いただいているようで胸が熱くなっのが、不思議だった。この流罪から一連の歩みがなければ、泥凡夫の私が、泥凡夫のままで救われる浄土真宗の教えは、決して私のまで届いて来なかったのである。南無阿弥陀仏

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