カテゴリー「聖典講座」の171件の記事

『御伝鈔』下巻 第一段「師資遷謫」

 下巻の第一段「師資遷謫」と、」後に段名がつけられる。
この「師資遷謫」(ししせんちゃく)とは、「師資」は師匠と弟子(親鸞様)のことで、師匠の法然聖人と、弟子の親鸞聖人のこである。「遷」は「左遷」と熟語されるように、「追いやる」「遠方に追放すること」だ。「謫」は呉音「ちゃく」と読み、「責める」こと。「謫居」と熟語すると「罪によって流され、そこにいること」である。師匠法然聖人と共に弟子親鸞聖人、師弟共に流罪に処されたという意味で、つまりは、承元の法難の顛末、専修「念仏停止」のことである。。

 それを次ぎの三段(覚如上人の文と『化身土巻』の引用部分を分けなら、小さく五段となる)に分けて頂いた。

一、「浄土宗興行 ~ あだをむすぶ」
 法難の興り、僧俗の昏迷(『化身土巻』の引用)
 
二、「これによりて ~ みなこれを略す」
  法難の顛末((化身土巻』の引用)と、師弟の罪状

三、「皇帝 諱守成 ~ 在国したまひけり」
  流刑赦免と教化の始まり

 その大意は以下のとおりである。
一、浄土宗の興隆による聖道門の衰退は、法然聖人のせいだと、奈良や比叡山の僧侶が憤って、朝廷にその罪を罰するように訴えた(承元の法難)。
 そのことを親鸞聖人は『化身土巻』後条で、「聖道門の教えは廃れ、浄土真宗の教えは悟りを開く道として、今盛んである。ところか、諸寺の僧侶や学者も、正しい教えとよこしまな教えの区別がつかない。それで興福寺の学者が朝廷に訴えて、承元元年に念仏停止が決まる。天皇や臣下も、法に背き道理に外れ、怒りと怨みの心での不実の行いなのだ。

二、それで、法然聖人をはじめ、門下の数人について、罪の内容を問うことなく、不当にも死罪に処し、あるいは僧侶の身分を奪い、俗名を与えられ、遠く離れた地に流罪に処した。私もその一人だ。だからもはや僧侶でも俗人でもない。そんなわけで、禿の字をもって自らの姓とする。流罪は五年間にも及んだ」と。
 法然聖人は藤井元彦で、土佐国幡多。親鸞聖人は藤井善信で、越後国国府に流罪となる。

三、順徳天皇の時、建暦元年に罪を許された。その時「禿」と名告られたことに、天皇は大変感激された。罪が許されても、教化のためにしばらく越後に留まられた。

 『化身土巻』後序の引用は、第五段「選択付属」に続いて2ケ所目であるが、法然聖人のご往生の様子を除いて、親鸞聖人の事跡の記述がすべて引用されていることになる。その『化身土巻』後序の記述は、法然聖人の遺徳の讃嘆で、流罪の記述は、真実の教えを伝えたものが、不当な無実の罪を背負わされたことへの抗議の意味があるのだ。

 一方、『御伝鈔』は、親鸞聖人の伝記で、聖人を讃仰するためのもので、また親鸞聖人こそが、法然聖人の正統な後継者であることが明示されていくので、同じ文でも、意図か異なってくる。

 それにしても、東国での教化も流罪となったことがきっかけで浄土真実のみのりは、民衆へと大きく広がることになる。もし聖人の流罪がなければ、今日の浄土真宗は存在していなっかただろう。『御伝鈔』では、親鸞様の言葉として、それもすべて法然聖人のご恩徳のおかげであると、上巻第三段「六角夢想」で東国での教化の夢告と共に述べられている。このことは、改めて下巻第二段(次回)に触れることにする。

 また、『御伝鈔』では触れられていない、法難の興り(専修念仏弾圧)の経過と理由として、『七箇条起請文』(七箇条制誡)や貞慶上人の『興福寺奏状』(専修念仏批判)の要旨などから窺った。政治的な面はとにかくも、それだけ法然聖人の専修念仏の教えが、日本の仏教界を変革される革新性をもったものであることは、明白である。詳しくは通信CDをお聞きください。
 
 また時間の都合で、「愚禿の称号と名告り」は、次回8月で触れることにする。

 

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『御伝鈔』上巻まとめ

『御伝鈔』も前回で上巻が終わり、今回から下巻にはいるので、簡単に上巻のまとめと、下巻の大要をお話した。

『御伝鈔』を大きく窺うと、

 上巻は、親鸞聖人の自利の徳を嘆じる
     覚如上人は、聖人の三十五歳までの行状を自利の徳と御覧になった。

 下巻は、親鸞聖人の利他の徳を讃ずる
     流罪以降の東国での伝道活動を化他の徳とみられている。      
 
 加えて、『御伝鈔』は親鸞聖人の伝記であって、親鸞聖人こそが法然聖人の真意を継承する者であり、その浄土真宗の正しい教義を顕す目的をもって書かれている。その場合、
 上巻は、法の真実を顕し、
 下巻は、機の真実を顕している。                     

 その観点からみると、上巻第一段「出家学道」と、第二段「吉水入室」は、聖人が聖道門を捨て浄土門に帰入し、第三段「六角夢想」に至って、観音菩薩(聖徳太子)と勢至菩薩(法然聖人)の引導によって真宗を興行されたこと。そして、第五段「選択付属」で法然聖人より『選択集』を付属され、そして法然門下における第六段「信行両座」と第七段「信心諍論」の二つの諍論を通して、親鸞聖人こそが法然聖人の真の後継者であり、信心為本、他力廻向の真宗教義の核心を宣揚されるのである。その中心となるのは、第六段「信行両座」であろう。
(第四段「蓮位夢想」・第八段「入西観察(定禅夢想)」は、帰洛後の晩年の聖人の行状で、共に内部、外部から聖人が弥陀の化身であることを示される)
 
 これから窺う下巻は、以下の七段に分かれるが、利他の徳、機の真実を顕すとすると、その中心は、第三段「山伏済度」で山伏弁円の救済ということになる。
(1)師資遷謫 (2)稲田興法 (3)山伏済度 (4)箱根霊告 (5)熊野霊告 (6)洛陽遷化 (7)廟堂創立
 最後の(7)だけは、親鸞聖人ご一生ではなく、ご往生後の大谷祖堂の建立について。本願寺こそが親鸞聖人の正統の後継者であることを示そうとされたものである。

 

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『御伝鈔』(9)第八段~善光寺との関連~

ところで、善光寺の阿弥陀如来について触れておいた。詳細は、『三帖和讃講讃』下巻・200頁を、御覧いただけばわかるので、今は簡単にのべる。

「牛に引かれて善光寺参り」で有名な善光寺(長野市)は、推古天皇十年(602年)創建と伝えられる。住職は、天台宗「大勧進」貫主と、浄土宗「大本願」の二寺で務められているが、この「勧進」「本願」の名からも、このお寺の性格が窺える。ご本尊は三国伝来の一光三尊(一つの舟型の光背に弥陀三尊の三立像)仏で、日本に伝来した最初の仏像といわれる。百済の聖明王から欽明天皇に献上されたが、排仏派の物部守屋によって、難波の堀江に廃棄(ほとけの名の由来の一つ)したものを、本田善光が発見し、背負って信濃の自宅に安置したのが善光寺の元(『善光寺讃』一部に)となっている。同時に、善光寺の聖は、生身の阿弥陀如来として仰がれ、東国の阿弥陀信仰の霊場としての崇拝されてきた。親鸞聖人、特にや一遍上人との関係がとても深い。
 親鸞様は善光寺の勧進聖だったという説もあるが、それは聖人の御影の持ち物からもわかるという。いずれにせよ、親鸞様が、仏教伝来に絡んで、善光寺の和讃を造られたり、越後から関東に移住される時にも立ち寄られたとか、当時から阿弥陀信仰の東国の中心地であったことから、何らかの関連性が推測されている。
 
 華光会の聞法旅行でも、親鸞聖人の旧跡として、善光寺に2度参詣しているが、境内には親鸞聖人の立派な立像が建っていた。

 最後に、親鸞聖人の主な御影は以下のとおり。テキスト25頁に写真付きで掲載されているので、ぜひご参照ください。

国宝「鏡御影」  専阿弥陀仏筆
(一説では、これがいまの「みぐしの御影」とも言われる。精密な尊顔のタッチは、日本の肖像画の中でも秀逸。一方で、明らかに身体の部分のタッチは異なる。それが『御伝鈔』の「みぐし」お顔の部分のみを写す)という記述と一致するのだが、仏絵師の名が異なっている)。
国宝「安城御影」 法眼朝円筆 親鸞聖人八十三歳
国宝「安城御影」(副本)蓮如上人の時代に模本。親鸞聖人二百回忌
重文「熊皮御影」 康楽寺浄賀筆(親鸞聖人伝絵の筆)追慕画

 

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『御伝鈔』(9)第八段~「定禅夢想」(2)

 ところで、本段は、第四段(「蓮位夢想」)と同じく、後に追加増補された段である。それでも、晩年の七四歳で追加された第四段に比べると、早い段階で追加されているのが分かる。現存するものは以下のとおりだ。
 
(1)高田専修寺本=十三段(上巻六段・下巻七段)覚如二十六歳
(2)西本願寺本 =十四段(上巻七段・下巻七段)覚如二十六歳
(3)東本願寺本 =十五段(上巻八段・下巻七段)覚如七十四歳

 しかも、(聖人誕生からの年代順が破られて追加されるので、流れとしては不自然で、聖人七〇歳の帰京後の出来事である。

 第一段=誕生から出家剃髪(九歳)、比叡山での修行。
 第二段=吉水入室(二十九歳)。
 第三段=六角夢想(三十一歳)。
 第四段=八十四歳の最晩年-お弟子の夢想で、親鸞様=阿弥陀様。
 第五段=選択付属 法然門下(三十三歳)
 第六段=信行両座 法然門下(三十四歳頃か)
 第七段=信心一異 法然門下(三十四歳頃か)
 第八段=七十歳(帰京後)-部外者の絵師の夢想で、親鸞様=阿弥陀様。

 またこれは、「蓮位夢想」でも触れたが、『御伝鈔』では、十五段のうち、上巻「六角夢想」「蓮位夢想」「入西観察(定禅夢想)」が 下巻「箱根霊告」「熊野霊告」の五段が夢告で構成されている。

 法然聖人と善導大師との夢中での出会い、親鸞聖人ご自身の夢告の記載、恵信尼公のお手紙(六角夢想・811頁、下妻夢想・812頁、寛喜の懺悔・815頁)にも夢告が、聖人の生涯の転機となる場面で現われている。当時の人々にとって、現実世界での出来事以上の宗教的な深い意味を持っていたである。

 つまり、第四段が、お弟子の夢想であったのに対して、第八段は、外部の方の夢想で、それが共に、親鸞様が阿弥陀様の化身であることを示しており、法然門下での出来事、つまり親鸞様と法然様は師弟はまったく一致しており、しかもその後継者は親鸞聖人であって、それは阿弥陀様の生れがわりであることを述べるために追加されたと思われるのである。

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『御伝鈔』(9)第八段「定禅夢想」(1)

 聖典講座は、『御伝鈔』の第9回目で、上巻の第八段「入西鑑察」とか「定禅夢想」と名付けれた段である。

 正直、段名を聞いても、よく分からない。難しい四文字熟語のようだが、「入西鑑察」の「入西」はお弟子の名で、常々、お弟子の入西房坊が、親鸞聖人のお姿を写したいと願っていことを、親鸞聖人がお察しになり(鑑察)、それを許し、絵師の定禅法橋を指名されたというのである。鑑察とは、鑑は、かんがみる。察は、おもいはかる意味で、他人の胸の中を鏡に写して見るように明らかに知ることである。つまり、入西房の願いを親鸞様が察し、肖像画の許可をされたということである。

 ただ本段の意味からすると、「定禅夢想」の方が相応しい。「定禅」も人の名だ。入西房の願いが聞き入れられ、京都七条あたりに住んでいた(朝廷から認めれた正式の)仏絵師がお召しを受けて、すぐにやってきた。定禅法橋が、聖人の尊顔を拝するなり、「昨晩、夢に拝した聖僧のお姿と、少しも違いがありません」と感激で咽びながら、その夢を語られる。
 夢では、二人の僧侶がお出でになり、お一人の肖像画の依頼を受けた。あまりに尊いお姿に、「このお方はどなた様ですか」と尋ねると、「善光寺の本願の御房です」と申された。善光寺の阿弥陀如来は「生身の阿弥陀如来」なので、阿弥陀様に出会い、身の毛がよだつほど感激し、「お顔だけを描けばよい」との会話で、夢から覚めた。今、親鸞様のお姿はまったく同じあるので、「お顔だけ描きます」と。
 つまり、外部の仏絵師である「定禅」が、不思議な夢告「夢想」を見て、それで親鸞聖人こそは生きた阿弥陀如来さまであること示される段なのである。 

 それを以下の三段に分科して窺っていいった。

(1)「御弟子入西房 ~ 法橋を召し請す」
  入西房が聖人の鑑察に感激する

(2)「定禅左右なく ~ 九月二十日の夜なり」
  定禅法橋が夢想を語る

(3)「つらつらこの ~ 仰ぐべし、信ずべし」
  覚如上人の讃仰
 
そして、最後に「まさに親鸞聖人は、阿弥陀如来の化身であり、その教えは弥陀の直説である。五濁悪世の我々凡夫は、その教えを仰ぎ信じるしかない」と、覚如上人は結ばれているのである。

 さて、入西鑑察の「入西」とは、親鸞聖人常従の弟子であった入西房のことである。聖人の『御消息』四十三通(808)に「入西御坊のかたへも申したう候へども」(入西房にも手紙を差し上げたいのだが…)と出でくる。また、「親鸞聖人門徒交名牒」にも「二、入西 常陸国住」とある。一説では、沈石寺の開基の「道円」であるとか、またその子息の「唯円」という説もあったが、決まった定説には至っていない。

 その入西房が、聖人の「真影」(しんねい)。実物のそのままの姿を写したいと、「日ごろをふるところ」に、つね日ごろをとおして思っていたことを親鸞聖人が、「かんがみて」、鑑みて、察して下さったのだが、そのとき、「左右なく」つまり、左も右も顧みないほど直ちにこれらたのが、「定禅法橋」である。

 かれも伝不詳であるが、一説では、「鏡御影」の作者、専阿弥陀仏とも言われていたが、今は否定の声の方が多い。「法橋」とはもともと官僧の僧位であったが、後には広く、仏師や仏絵師にも適用されたもので、朝廷より位階をいただく正式な仏絵師であり、「七条辺に居住」していた。七条辺りは、ここは、平安期の定朝以来、鎌倉期の運慶、湛慶なども住居して「七条仏所」を造り、仏師や仏絵師が集まっていたところである。

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『御伝鈔』(8)第七段~まったくわたくしなし~

 念仏どころか信心さえも「如来よりたまわりたる」。これはとんでもない話だが、よくよくお聞きしないと、一歩間違うと安易な信仰に陥ってしまうおそれがある。

 例えば、他力廻向の同一信心であるがゆえに、一味であるといわれる。『正信偈』に「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入一味」とある「帰入一味」が、この段を表している。これは他力廻向の信のすばらしいお徳だが、下手をすると、「みんな救われている」「すべて他力のみ光の中にある」「すべてが平等だ」といったように、「みんな」や「すでに」と都合よくお救いを解釈して、厳しい詮索や求道などは浄土真宗にはないことを喜ぶ信仰にすり替えられていくところである。

 しかし、『御伝鈔』にあたってみるとそんなことは言われてはいない。

「往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まったくわたくしなし」

 だからこそ、法然様の信心も親鸞様の信心も「他力よりたまはらせたまもう」もので、ひとつなのだと。
 信心、信心といっても、それは「往生の信心」。浄土に生まれるタネとなる信心であって、それは、他力信心ひとつで救われていく、その「ことわり」(道理・おいわれ)を「うけたまわる」、聞信するひとつで、「まったくわたくしなし」となるのである。
 この「まったくわたくしなし」の一言が効いている。「わたくしなし」とは、「私情を交えない」「自分の気持ちを交えない」ことだか、ここでは「自力が一切無効の身となった」という意味である。自力無効と捨て果てさせられたのだから、自ずと他力が満入してくるのである。決して、自分の都合で取り込んでいく話ではない。

 堺の妙好人、物種吉兵衛同行の語録に

 御領解文の初めに、「もろもろの雑行雜修自力のこころを振り捨てて」と仰せられてある。
 「自力の心を捨てたら聞く物柄がないといわねばならぬが、それで聞きぞこないがないのや」と言われた。

「わたくしなし」がないとは、「自力の心を捨てたら聞く物柄がない」ところである。まさに娑婆のおわり、臨終なのだと。ここを外して、いくら一味だか、有り難いと、他力だと言っても、まったく詮無いことである。

 法然聖人の三八〇余名の門弟のなかで、その真意をえたものはわずか五、六名だったという言葉は、八百年前のことではないのだ。
 華光同人、三〇〇余名のなかで、さて真実信心のものはどうか? 南無阿弥陀仏

 参照=『正信偈の大意』『帰入一味』増井悟朗講述(華光誌80-1号)

 

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『御伝鈔』(8)第七段~賜りたる信心~

  ところで、この諍論は、唯円房が親鸞聖人からお聞きしたという形で、『歎異抄』後序にも残れさている。

  そこでは、「如来よりたまわりたる信心」なので、法然様と親鸞様の信心はひとつだと述べられる。「如来よりたまわりたる信心」とは、阿弥陀如来より恵まれたご信心、つまりは他力回向の信のことである。同じ表現は『歎異抄』では第六章にもある。ところが、親鸞聖人の著述には同じ表現はない。聖人が「たまわる」という用例の大半は、「仰せ」や「教え」をたまわることである。余談だが『御消息』では、関東の門弟に銭をたまわった御礼に用いておられる。もっとも近い表現としては、「弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつりて、真実の信心をたまはりてよろこぶこころの定まるとき…」(『御消息集』三九通)とある。もちろん、他力廻向こそ聖人の信心の根底をなすもので、例えば、第十八願成就文「至心廻向」の読み替えなどからも明らかではある。

 ちなみに法然聖人においては、このような信心一異に類似するの教説や法語は存在していない。

 しかし、『和語燈録』(真聖全四)では、問答を設け、「本願の念仏は、智者が称えても、愚者が称えてもその価値には代わりない」ことを示し、さらに「心を澄ませて称えようと、散り乱れて濁った心で称えようと、その功徳はまったく等しい」と述べられている。これは称える者が加える徳ではなく、本願の名号の持っているお徳なのだから、一声一声が如来よりたまわった念仏であるといえよう。

 確かに「南無阿弥陀仏」の名号を阿弥陀様から賜るというのであるのは、まだ理解できよう。しかし、その名号を信じる心(信心)までも、阿弥陀様から賜るというのであるから、常識では決してはかることのできない不可思議な世界だ。

 では、そのお心はどこにあるのか?

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『御伝鈔』(8)第七段~対論の上人方~

   さて、前章「信行両座」と異なる点は、「信心一異の諍論(じょうろん)」は、「はかりきな諍論」であった点だ。「はかりない」とは、「おもいもよらない」ということで、何かが仕掛けられていたのではなく、話し合い、もしくは議論のなかで「おもいがけず論争」となったというのである。

 この信心一異の諍論の時期はいつ頃だったのだろうか。

 親鸞聖人の法然門下の時代は、建仁元(1201)年~承元元(1207)年(承元の法難)の間で、聖人が善信房と名乗られるのが、元久二(1205)年以降であることから、建永元(1206)年、聖人34歳の頃だと推測されている。

 では対論の人々はどんな方か。『歎異抄』には「正信房」の名はないが、ほかの2名と同じである。

「正信房」=正信房湛空上人(1176~1253・78歳)。徳大寺左大臣実能(さねよし)の孫で、天台宗の学僧から法然聖人に帰依する。常随の弟子として配流地にも同行と伝えられる。法然聖人の中陰(三七日法要)の施主。聖人の遺骨を分骨され、嵯峨の二尊院に御廟(現存)を建立する。その門流を嵯峨門徒と称する。

「勢観房」=勢観房源智上人(1183~1238・56歳)。一ノ谷の合戦で戦死した平師盛の子で、重盛の孫、清盛の曾孫だとも言われる。13歳の時、法然聖人の元に託され、慈円(慈鎮和尚)のもとで出家。聖人上足の弟子、感西上人に学び、その滅後は、法然聖人の寂滅までの十八年間(聖人63歳から80歳。ただし配流地・讃岐には同行できず)常随される。法然聖人の念持仏の阿弥陀如来像を付属。ご往生の二日前に『一枚起請文』を授かる。聖人の二三回忌法要に、廟堂を修復し知恩院大谷寺と号する。他に百万遍知恩寺の開基。その門流を紫野門徒と称する。

「念仏房」=念仏房念阿上人(1157~1251・95歳)。念阿弥陀仏と号す。法然門下に多い○阿弥陀仏は、聖の号。天台宗の僧だったが、30歳の時に大原問答に結縁して門下に入る。嵯峨の釈迦堂を再建し、往生院(現在の祇王寺)を建立。

 そして、建永元(一二〇六)年の出来事だとすると、各上人方の年齢は以下のようだ。

1)正信房湛空上人(学問)31歳
2)勢観房源智上人(持戒)24歳
3)念仏房念阿上人(道心)50歳
4)善信房親鸞聖人、   34歳
5)源空房法然聖人     74歳

 また「信行両座」で信の座の方々と、「体失往生」の證空上人は、
6)法蓮房称弁・信空上人 61歳
7)聖覚法印       40歳
8)熊谷直実 (生誕年不明)歳
9)善恵房證空上人     30歳

 法然聖人の比叡山での弟弟子の信空上人が61歳、念仏房念阿上人が50歳という以外は、20、30代の青年僧であったことが、新興勢力である法然教団の性格を顕している。同時に、湛空上人、源智上人、そして證空上人も、法然様のもっとも近くに使えた聖人のお気に入り方々であり、聖人亡き後、法然教団を引っ張っていかれた方々である。さらにぞれぞれが「学問」や「持戒」「道心」にかけては抜きんでいたお弟子方であるというのである。

 そんな方々でも、いやそんな方々だからこそ、「法然聖人」その方の「聖人」像を見つめられても、それを超えてその背後にある「弥陀の本願」の不思議が響いておられていたのか。決して他人ごとではない。

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『御伝鈔』(8)~第七段・信心一異(1)

 午後から聖典講座のために、早めに神鍋高原を出発する。早めに準備が出来ているので、その点では気持ちは楽だった。

『御伝鈔』上巻の第七段「信心一異の諍論(じょうろん)」とか、「信心諍論」と名付けられた一段だ。先号の「信行両座」に続いて、吉水(法然門下)時代の三大諍論の一つで、浄土真宗の信心は、他力廻向であり、帰入一味であることを現わす段で、同時に、第五章「選択付属」、第六章「信行両座」に続き、多数の門弟の中で、法然聖人の真意を得たものは稀で、親鸞聖人こそが正統な後継者であることが示すことも、覚如様は強調したかったのである。
 
 大意としては、聖人が法然門下の34歳の頃、「法然聖人と私の信心は、少しも変わらず同じだ」と申したところ、他の弟子が、「そんなはずはない。どうしてそう言えるのか」ととがめた。そこで聖人は、「知識や知恵の深浅ではなく、他力信心では、自力が廃れて、共に他力よりたまったものだ」と申し上げた。すると法然聖人も、「信心が違うのは自力の信心の時であって、法然の信心も善信房の信心も、共に如来よりたまわったもので、ただ一つである。もし違うという人がいるのなら、私の参る浄土へは生まれることはできない」と申されたので、皆、口をつぐんでしまったということになる。

 それを便宜上、以下の3分科していただいたが、流れとしてはひとつの出来事である。

一、「上人親鸞のたまはく~ひとしかるべき、と」
  法然門下での、親鸞聖人(善信房)と他の門弟との信心一異の問答

二、「善信もうしていはく~申しはんべりしところに」
  親鸞聖人の信心同一の主張

三、「大師聖人まさしく ~閉じてやみにけり」
  それに対する法然聖人の裁決

 

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『御伝鈔』(7)~信不退の面々(3)~

 さらに信不退に座った人々の問題である。親鸞、法然両聖人以外では、以下の3名である。

「法印大和尚位聖覚」
 聖覚法印(1167~1235・69歳)。法印は僧侶の官位で「僧都」のこと。天台宗の僧。信西と呼ばれた藤原道憲の孫で、澄憲の子。比叡山東塔の竹林坊に住するが、京都の安居院(あぐい・堀川鞍馬口)に里坊があり、父が開いた安居院流の唱導(説教)師として、安居院法印とも呼ばれる。後に法然聖人の帰依する。法然聖人をして「聖覚法印、わが心を知れり」(法然上人行状絵図)とある。しかし何故か「七箇条制誡」にその名はなく、近年は、嘉禄の法難を先導するなど不可解な面も指摘されるが、いまだ研究中である。
 親鸞聖人より6歳年長で、聖人は法兄として尊敬され、著述の『唯信鈔』を、関東の門弟に盛んに拝読を勧められる同時に、自らも『唯信鈔文意』を著しておられる。

「釈信空上人法蓮」
 法蓮房称弁・信空上人(1146~1228・83歳)。法然門下の最長老。比叡山時代からの法然聖人の学友であり、最初に円頓戒を授かり、浄土宗を開かれた後も最初の門弟。「七箇条制誡」でも法然聖人に次に署名される。白河門徒の祖であるが、没後すぐに流れは途絶えている。

「沙弥法力」
 法力房蓮生・俗名は熊谷次郎直実(?~1208年)。源頼朝に使えた関東(熊谷)の御家人で、源平合戦での功績は有名。『平家物語』では一の谷の合戦で、平敦盛の首をとり、そのことを縁として仏門に入る。「熊谷の逆さ馬」は有名な逸話だ。また美作誕生院の開基でもある。

 すべて高名な門弟であるが、その後の流れが途絶えていたり、一匹狼の人達が名を連ねている。一方で、他の方の記載はまったくない。

 つまり、法然門下のあまたの門弟の中でも、法然聖人の真意をまことに得た人は数は少なく、親鸞聖人こそが真の後継者だということを強調する結果となる人々が選ばれていると見ていいのだ。

 その背景には、覚如上人当時の対外的な関係(対浄土真宗異流、対浄土宗各派)の中で、本願寺の親鸞聖人の流れ(三代伝授の血脈(法然-親鸞-如信))こそが、唯一の正統であることを証明しようという、勢力争いの意図もあるだろう。
 がしかし、単なる政治的背景だけでなく、真の法脈を護るという深い意味が込められていることを、今回の講座では充分に味わえたことがて大きな収穫であった。真実が伝えるということは、難中之難なのである。味わいは、また述べていきたい。南無阿弥陀仏

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