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『御伝鈔』下巻第七段(3)「~廟堂創立の経緯とその後~

 『御伝鈔』下巻第七段の「廟堂創立」である。

 聖人ご往生10年後に、廟堂が建ち、ご影像を安置されて、多くの門弟が参拝されて、浄土真宗がますます盛んになるという一段であったが、最後に「廟堂創立の経緯とその後」に触れて『御伝鈔』を終えた。

 前段は、聖人ご臨終の様子であったが、臨終に立ち会ったお子様は、越後より上洛中の益方入道、そして常日頃から聖人のお世話されていた末娘の覚信尼公であった。覚信尼は、元仁元(1224)年に誕生し、父と共に帰洛する。久我通光に仕えてて、兵衛督局と称した。その後日野広綱と結婚し、覚恵(覚如上人の父)を産む。26歳の時(覚恵7歳)、広綱が逝去する。その後、覚恵を青蓮院に預けて、父(親鸞)と暮らし、住居が火災にあった後も、父と善法坊に移り、聖人の最後を看取る(39歳)。その時、聖人は関東の門弟(主に常陸の国)に、覚信尼と覚恵の行く末を頼むとの消息が、本願寺に残っている(聖人の遺言とも言われる・799頁)。若くして未亡人となり、幼子を抱えた娘が心配であったのだろう。聖人の葬儀を取り仕切り、母(恵信尼)に知らせている。その後、小野宮禅念と再婚。43歳の時、唯善を産む。49歳(1272年冬)の時、門弟と協力して、夫、小野宮禅念の所有の土地に廟堂を創立する(廟堂の所有は関東門弟)。元の墓所は、石碑の回りに塀を巡らしただけの粗末なもので、また不便な地にあった。関東の門弟の参拝した志で生計を立てる。その3年後、夫禅念が逝去し、覚信尼が相続する。ますます関東門弟の協力が必要となり、1277年に、その敷地も関東門弟に譲り、留守職(るすしき・廟堂の管理者)の地位を安堵される。

 留守職(るすしき)とは、元は国司が在京のままで、その全権を在国の官人に託して国を政めたものに由来する。関東門弟から廟堂を守る者として承認された者を留守職とした。聖人の廟堂の管理維持をする役で、譲り状と門弟の承認によって相伝された。覚信尼から長男覚恵へと譲り渡されたが、この間に、異父弟の唯善との相続権争いが起き、覚恵没後3年目に覚如が受け継ぐが、関東門弟の承認や本山などの安堵状でやっと保たれていた。その後、廟堂の寺院化によって住持職も含むようになり、別当職と称されるようになる。覚如上人はその生涯を、聖人の正統な後継者であることを強調し、教義面のみならず、地位確保ためにも奔走されることになる。

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『御伝鈔』奥書

そして、最後に本文とは別に、奥書がある。
『御伝鈔』(『伝絵』)作製の意図を後書きとして述べられているが、時代の異なる三つの奥書からなっているのが特色である。その大意のみを述べる。

第一=根本奥書といわれ、永仁三(1295・覚如上人26歳)年に、『伝絵』が初めて作製された時のもの。聖人の「知恩報徳」のためのみに作製されたことが明記される。絵は、康楽寺浄賀による。「善信聖人絵」と題された。

第二=その44年後、暦応二(1339)年に、書写して作り直す。初版原本は、建武三(1336)年、足利尊氏の京都侵攻の兵火により、本願寺と共に焼失したことが記される。

第三=その4年後、康永二(1343)年、覚如上人74歳の時、最終版として「本願寺聖人親鸞伝絵」が作製された時の記述である。
      
以上で『御伝鈔』が終わった。南無阿弥陀仏

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『御伝鈔』下巻第七段「廟堂創立」(1)

 『御伝鈔』も、最終回を迎えた。下巻第七段の「廟堂創立」である。

 前回は、聖人のご往生の様子と、荼毘にふされた一段であったので、聖人の伝記としては、一応終わっている。最後は、ご往生10年後に、廟堂が建ち、ご影像を安置されて、多くの門弟が参拝されて、浄土真宗がますます盛んになるという一段で、『御伝鈔』が結ばれていく段である。

 ここを3段に分かって頂いた。今は、大意のみを述べる。

(1)まず一、「文永九年冬 ~ 影像を安ず」が、「廟堂創建」である。
1永九(1272)年冬(西暦1272年で、聖人入滅(1262年)から10年後にあたる)に、東山の西の麓、鳥辺野の北にあった大谷のお墓を改葬して、少し北の吉水の北辺に移したという段だ。

(2)次の二、「この時に当りて ~ 年々廟堂に詣す」が、「廟堂参拝」である。
2ご往生後、聖人によって相伝された真宗念仏の教えは、いよいよ興り、聖人のお言葉やお聖教はますます尊く、ご在世の昔よりもはるかに盛んだった。聖人の門弟は諸国に広まり、沢山の門徒が生まれた。皆、聖人の教え重んじ、報謝のまことを示す僧侶も俗人も、老人も若者も、みな遠近より廟堂に参拝するようになった。

(3)そして「おおよそ聖人 ~ 略するところなり」が、「むすび」にあたる。
3聖人のご在世中、奇特なことが多数あったが、詳しく述べる術がない。今は、述べること略した。

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下巻第六段「洛陽遷化」(3)~旺盛な著述活動~

 『御伝鈔』では、京都に戻られた後(約30年間)のことは、上巻第四段(蓮位夢想)と下巻第五段(熊野霊告)で関東時代の門弟の夢告がメーンで、いきなり最後のご往生の様子が語られている。実際、帰洛後、どのような活動や日暮らしをされていたのだろうか。聖人のお手紙や著書の奥書などで窺いした。

 六十二、三歳のころに京都に戻らってこられるが、五条西洞院(松原通西洞院の光円寺)あたりに住まわれ、主に執筆活動や上洛してきた関東門弟を直接指導したり、お手紙でのご教化が中心で、京都では目立った教化活動はされない。一つには、念仏弾圧の歴史を振り返ると、活発な活動は難しかったも思われる。

 その生計は、関東門弟からの「御こころざしの銭」(750頁)で賄われていることは、聖人のお礼状からも窺える。
「御こころざしのもの」=門徒個人の懇志。(804頁)
「念仏のすすめのもの」=毎月「二十五日の御念仏」(法然聖人の祥月命日の法座)での同行方の懇志である。

 一方、晩年になるほど旺盛な執筆活動をなされている。執筆だけでなく、自ら書写もされている。主な著述と、晩年の出来事を示すおこう。

74~75歳頃=『顕浄土真実教行証文類』(131頁)完成。後に門弟が書写。
76歳=『浄土和讃』(555頁)
   『高僧和讃』(578頁)
78歳=『唯信鈔文意』(699頁)
80歳=『浄土文類聚鈔』(477頁)
   『入出二門偈』(545頁)
83歳=『尊号真像銘文』(643頁)
   『浄土三経往生文類』(625頁)
   『愚禿鈔』(501頁)
   『皇太子聖徳奉讃』(七十五首) 

    12月10日・火災に遭い、善法坊(ご舎弟・尋有僧都の里坊)へ移住。
   「この十日の夜、せうまう(焼亡・火事のこと)にあうて候」(804頁)
   天台僧は、比叡山上以外に京都市中にも支坊・里坊をもつことがある。

84歳=5月29日・長男、善鸞大徳を義絶(義絶状754頁、性信房にも報じる)。
   但し、『御伝鈔』では善鸞事件には一切言及されていない。

   『如来二種廻向文』(721頁)
85歳=『一念多念文意』(677頁)
   『大日本粟散王聖徳太子奉讃』(百十四首)
86歳=『正像末和讃』(600頁)
88歳=『弥陀如来名号徳』(727頁)       
   年月日が分かる最後の手紙(文応元年十一月十三日)
(『親鸞聖人御消息』第十七通・771頁)

 聖人が長生きされ、多くの書物を残してくださったことが、今日の浄土真宗の一つの礎になったのであるから、結果ではあるが、帰洛された意義は大きかった。後の者は、そのおかげを今頂いているのである。

 

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下巻第六段「洛陽遷化」(2)

 聖人のご往生の様子は、他の資料によって、葬送の日時を詳しく知ることができる。たとえば、西本願寺所蔵の『教行信証』奥書によると、

「弘長二歳 壬戌 十一月二十八日未剋 親鸞聖人御入滅也、御歳九十歳、
 同二十九日戌時、東山御葬送 同三十日御舎利蔵」

とある。ご往生は、午時(昼12時)から2時間後の未時、十一月二十八日午後二時であったという。
またご葬送は、十一月二十九日午後八時ころ。そして、納骨は、十一月三十日に行われいてる。
          
 また恵信尼公のお手紙にから経緯を述べると

「去年の十二月一日の御文、同二十日あまりに、たしかにみ候ひぬ。なによりも、殿(親鸞)の御往生、なかなかはじめて申すにおよばず候ふ。(略)
 されば御りんず(御臨終)はいかにもわたらせたまへ、疑ひ思ひまゐらせぬうへ、おなじことながら、益方も御りんずにあひまゐらせて候ひける、親子の契りと申しながら、ふかくこそおぼえ候へば、うれしく候ふ、うれしく候ふ。」(『恵信尼消息』第一通・811)

 とある。納骨(11月30日)の翌日(12月1日)に、末娘の覚信尼公(覚如上人の祖母)から、恵信尼公へご往生の様子を知らせる手紙が出されて、20日後には越後に届いてる。そこには、臨終に立ち会っても何の奇瑞もなかったことという娘の疑問に対して、聖人の比叡山での修行、六角堂への参籠、そして「生死出づべき道」を求めた法然聖人との出遇い、地獄一定の自覚の身となられたこと。さらに、観世音菩薩がその本地だったという夢告を語られて、「(聖人の)浄土往生には少しも疑いがない」と示される。

 また、越後から、聖人の第五子、益方が臨終に立ち会えたことを喜んでおられる。益方とは、越後の居住の地名(新潟県上越市板倉区)に由来。有房・益方大夫入道と号し、法名は、道性である。つまり聖人の臨終には、二人のお子さま(益方入道と覚信尼公)が立ち会われたのである。

 他の資料から、聖人の弟である尋有僧都。門弟では、蓮位房(常従)、顕智房(高田)、専信房(遠江)などが立ち会ったと思われている。

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『御伝鈔』下巻第六段「洛陽遷化」(1)

 新暦の1月16日。『御伝鈔』の話題に触れておこう。下巻第六段「洛陽遷化」、聖人のご往生と葬送の様子を示す段が終わった。以下の四段に分けて頂いた。

 (1)聖人は、弘長二年十一月下旬頃、ご病気になられた。口には世俗事は交えず、仏恩の深きことを述べ、声には他の言葉を出さず、ただ称名念仏されていた。
 (2)十一月二十八日の十二時、釈尊の入滅のように頭北面西右脇に臥し、ついにお念仏の息が断えられた。御歳九十歳であった。
 (3)ご往生の地は、押小路の南、万里小路より東で、そこから鴨川を渡り、東山の鳥辺野の南の辺の延仁寺で荼毘(火葬)、翌日、その北の大谷に遺骨を納められた。
 (4)聖人のご往生にあった門弟や、ご教化を受けた方々は、聖人の在世を追慕し、いまご往生に接して悲泣せぬものはなかった。

 覚如様は、親鸞聖人のご往生の様子を

「口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらさず、もっぱら称名たゆることなし。しかうしておなじき第八日 午時 頭北面西右脇に臥したまひて、つひに念仏の息たえをはりぬ」

と記載されている。奇瑞も、不思議もなにもない、また臨終の行儀もない、まことに静かな静かなご往生の様子を淡々と記されている。そこが、た一段と尊く、真宗教義の特色、核心部分でもあるからだ。

 親鸞聖人もお手紙の中で

「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。」(『御消息』第一通)

 と述べておられるとおりのご臨終であった。死に際は善し悪しは問題にならないのである。がしかし、凡夫の心情としては、臨終の善しや不思議を求めたいものであろう。事実、臨終に立ち会た末娘の覚信尼公(覚如上人の祖母)は、尊き僧侶である父に何の奇瑞もなかったことへの疑問を、母である恵信尼公に手紙を問うておられるのだ。
 しかし、覚如様は自督でもある『執持鈔』で、

「しかれば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定のおもひに住せば、かなふべからず。平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば、そのときをもつて娑婆のをはり、臨終とおもふべし。」(『執持鈔』)

 と、一念帰命の平生業成の教えを、端的に述べてくださっているおかげで、聖人の教えが正しく伝わってきたのである。覚如様、ありがとうございました。南無阿弥陀仏

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「熊野霊告」(3)~一向専念が眼目~

 第五段を四分類していただいた内、第3節は親鸞聖人が、浄土真宗の根本である一向専念の伝統を示すと共に、真宗の神祇観を説かれる一節である。この「聖人のご教説」をさらに三につ分けて頂いた中の、(b)一向専念の教えである。

 そして、三国の祖師方の伝統の中でも、「一向専念の義」こそが浄土真宗の根本であると示されている。今は、関連の聖教のみを掲載するに留めておく。

 冒頭にある「三経に隠顕あり」とは、浄土三部経-『大無量寿経』(大経)・『観無量寿経』(観経)・『阿弥陀経』(小経)に「顕彰隠密」の義がある。顕彰隠密は「顕隠」ともいうが、「顕説」は顕著に説かれる教えで、『観経』は定散二善の諸行往生(十九願・要門)・『小経』は、自力念仏往生(二十願・真門)であるが、「隠彰」の穏微に顕されている真実義は、すべて『大経』に説かれる他力念仏往生、つまり十八願の弘願門であることを示しておられる(化身土巻381頁・397頁)。
 「三経の大綱、顕彰隠密の義ありといえどれも、信心を彰して能入とす」(化身土巻・398頁)

要は、「三経に隠顕あり」といえも、その心は一つで、いずれも「一向専念」が示されるというのである。そのために、浄土三部経、天親菩薩、善導大師の文が引かれている。

一、『大経』の三輩段(41頁)-上輩・中輩・下輩のそれぞれで、
  「一向専念 無量寿仏」(一向にもっぱら無量寿仏を念ず)ることを勧める。
二、『大経』の流通分(81頁)-弥勒付属
 『大経』を弥勒菩薩に付属(与えて、後世に広く流通することを託する)される。
三、『観経』の九品段・上品上生(108頁)
 「一つには至誠心、二つには深心、三つには廻向発願心なり。三心を具するものは、かならず彼の国に生じる」、と三心が説かれる。
四、『観経』の流通分(117頁)-阿難付属
 「なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」
五、『小経』の因果段(124頁)
 「執持名号(略)一心不乱」(名号を執持すること、…一心にして乱れざれば)
六、『小経』の証誠(六方)段(125頁)-六方(全宇宙)の諸仏が証誠する。
七、「論主」=天親菩薩『浄土論』-一心 
 「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国」
  (世尊、われ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつり、安楽国に生ぜんと願ず)(『信巻』訓点・357頁)
八、「和尚」=善導大師『観経疏』(「散善義」・『信巻』404頁)
 「一向専念 弥陀仏名号」(一向にもっぱら弥陀仏の名を称する)

 「一向専念」とは、阿弥陀如来の本願を信じて、ひとすじに専らその名号を称念すること。「一向専修」にも同じ。専修念仏ということである。これを受けた聖人の『一念多念文意』のご解釈である。

 「一心専念」といふは、「一心」は金剛の信心なり。「専念」は一向専修なり。一向は、余の善にうつらず、余の仏を念ぜず。専修は、本願のみな(御名)をふたごころ(二心)なくもっぱら(専)修するなり」(『一念多念文意』687頁)

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「熊野霊告」(2)~お勧めも、さらにわたくしなし~

 下巻第五段を四分類していただいた内、第3節は親鸞聖人が、浄土真宗の根本である一向専念の伝統を示すと共に、真宗の神祇観を説かれる一節である。この「聖人のご教説」を、さらに三につ分けて頂いた。
 (a)時機相応の教え(三国七高僧の伝承)
 (b)一向専念の教え
 (c)本地垂迹のこころ(真宗の神祇観)

 親鸞聖人の教説(1)時機相応の教え(三国七高僧の伝承)

 釈尊のみ教えは対機説法で、聖教も千差万別であるが、今、末法の世では、浄土一門のみが、私達が救われる唯一の教えである(時機相応の教え)。それは釈尊の金言であり、また「三国の祖師、おのおのこの一宗を興行」されたものである(三国七高僧の伝承)。

 末法とは、釈尊の滅後(仏滅後)の時間の経過と共に、その広大な威光も徐々に薄れ、仏法が衰退してくを経過を顕している三時の一つである。まさに時の一大事である。まず、仏滅後、五百年間を正法(教・行・証)、次の一千年を像法(教・行)、次の一万年が末法(教)で、末法では教法のみが残り、修行する者も証る者もいない時代だといわれる。

 その末法の時代では、聖道門=「聖」は大聖、釈尊のごとく今生で悟りに至る「道」。つまりお釈迦様のごとく修行し、この世で仏となることが難しい時代であり、それに対して浄土門こそが盛んになるといのうである。

「我末法時中億々衆生 起行修道 未有一人得者」(道綽禅師『安楽集』)
「わが末法の時のなかの億々の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るものあらじ」(親鸞聖人の訓点)

「唯有浄土一門可通入路」(道綽禅師『安楽集』) 
「ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり」(『化身土巻』の訓点)

「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入」(『正信偈』道綽章)

 それは、まず、インドにおいて、龍樹菩薩が『易行品』で、難易二道を判じ、現生正定聚の義を示され、天親菩薩は『浄土論』を造って、一心帰命の安心を宣布された。
 中国では、曇鸞大師が『浄土論註』で、他力廻向(往還二廻向・自力他力)の義を明かし、道綽禅師は『安楽集』において、聖浄二門を判じて浄土往生を勧め、善導大師は『観経四帖疏』で釈尊の正意を明かにして凡夫往生を示された。
 日本の源信僧都は『往生要集』を撰して、報化二土を弁立し、源空(法然)聖人は『選択集』で信疑決判されて、念仏往生の浄土真宗を興行された。
 あくまでも釈尊、七高僧という先達の示された道であって、「愚禿すすむるところ、さらに私(わたしく)なし」なのである。

 お勧めでも、「さらにわたしくがなし」という言葉に出会たのが、今年一番の収穫。

*「ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まったくわたくしなし」(上巻・第七段)「自信」
*「愚禿すすむるところ、さらにわたくしなし」(下巻・第五段)「教人信」

 わが信の上でも、またお勧めのところでも、「わたしくがなし」、つまり自力を離れるが浄土真宗のご安心の真骨頂であるということを明かにされているのだ。南無阿弥陀仏気

 

 

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『御伝鈔』下巻五段「熊野霊告」(1)

    12月の聖典講座の前に、パスしていた11月の聖典講座に少しだけ触れておこう。
 11月は、下巻第五段で「熊野霊告」とか「平太郎夢告」「平太郎熊野詣」といわれる一段を頂く。ここは御伝鈔』で一番長い段で、以下の四段に分けて味わった。その大意は次の通り。 
(1)帰洛後の聖人は住まいを転々としておられたがも五条西洞院にとどまり、しばしば関東の門弟が尋ねて来られた。
(2)大部の平太郎が、職務で熊野権現に詣でることとなり、聖人に相談される。
(3)聖人は、真宗の根本である一向専念の伝統を示すと共に、真宗の神祇観を説く。
この第3節「聖人のご教示」を次ぎの三節に分科していた炊いた。
 (a)時機相応の教え(三国七高僧の伝承)
 (b)一向専念の教え
 (c)本地垂迹のこころ(真宗の神祇観)
(4)平太郎が泥凡夫のまま参詣していると、夢に熊野権現が現われて、「なぜ精進潔斎せず参詣するのか」と詰問された。すると親鸞聖人が現れ、「この者は他力念仏を喜ぶ者だ」と告げられると、権現はただ平伏するばかりであった。後にそのことを聖人に申すと「そういうことである」と申された。

 長い段であること、史実かどうか曖昧であること、何よりも聖人の神祇観とは毛色が異なることもあって、簡単に読みとばしてきた段であった。が、今回、第3節の聖人のご教示が読み応えがあったし、ここまで『御伝鈔』読んできたおかげで、以前は、馴染めなかった覚如上人の意図が尊く思えてきて有り難かった。

 決して、覚如さまは、親鸞様が阿弥陀様の生れ変わりだと仰っているのではない。いま、私一人のために、阿弥陀様が親鸞様という姿を通して現われてきてくださっているのだと頂いておられるのだと思う。どちらも同じように聴こえてくるかもしれないが、ぼくの中ではこの差は大きい。そのことに気づかせてもらっただけでも、『御伝鈔』を読ませていただいた甲斐があったと思っている。南無阿弥陀仏

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「箱根霊告」(3) 何故聖人は帰京されたか?

 さてなぜ聖人は帰京されたのであろう。『御伝鈔』には帰京の年齢、理由には一切触れておられず、山伏帰依から、関東から京都に帰京途中のエピソードに移っている。しかし、なんの理由もなく、20年におよぶ関東の布教を終え、京都に戻られたとは考えられない。それを他の資料から補ってみる。

 まず、聖人の帰京の年齢だが、諸説はあるが六十歳~六十二、三歳頃だと推測されている。途中、相模(神奈川県)、三河(愛知県)、近江(滋賀県)などに逗留されて教化活動をされたご旧跡が残っている。また、妻子が一緒だったかどうかも諸説がある。晩年、恵信尼公が越後に戻っておられるので、いろいろな推察を生むが、いまは妻子を伴った帰京とみていいのではないか。

 では二十年間の関東教化を終え、京都に戻られた理由は何か。それにも諸説がある。家庭の事情、善光勧進聖に関係すること、望郷の念、執筆活動の専念、門弟間での騷動、鎌倉幕府による専修念仏の取り締まりの強化などがあげれられる。もっとも鎌倉以上に、京都では専修念仏者の活動制限されていた。当たり前のことだが、今日の私達は、聖人が九十歳まで長命であったことを知っているが、しかし、当時の聖人は、残りの余生を知るよしもない。当時、六十歳の還暦を過ぎれば余命はわずかだっただろう。もう最晩年の実感をお持ちだったろう。そして、その結果は長生きされ、晩年の京都で多くの著作が残ることになった。

 ここからは推論だが、いくら同信の念仏者とはいえ、人が集うということはそれだけ問題が起こるということだ。声聞が集う釈尊当時の教団でもトラブルがあった。いわんや末法の凡夫の集いにおいてをや。また純粋な念仏者であればあるほど起こる信仰面の軋轢にしても、ちっぼけな華光の集いでも日々痛感させられることである。その時、仰ぐべきは親鸞聖人の言動であった。みな聖人を仰ぎ頼っていたのは、想像に難くない。これは釈尊でも、法然聖人の上でも起こった信仰や運営をめぐる師弟関係の大問題だ。そしてまたいかなるカリスマでも、このパワー、権力の問題で躓く凡人が大半で、そこが宗教界の常である。 このあたりは、晩年の関東の門弟の『御消息』や『歎異抄』の異義をみても明らかだ。

 たとえば、『歎異抄』の第六章には、

「専修念仏のともがらのわが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。」

と語られている。続いて、「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも…」と言われた。付く縁もあれば、また同じように離れる縁もある、そのすべてが仏縁であるというは、聖人の実体験であろう。

 最晩年の『三帖和讃』を終える結示の和讃は、聖人の深い内省の歌である。文字も知らない田舎の人々を前にした名利に人師をこのむ我が身の恐ろしさ、愚かさを切実と懺悔され、和讃が結ばれていく。この和讃には関東での布教を通した内省があるのではないか。法に帰ってこそ、聖人が関東を離れられた深い思いが窺える気がしてならない。南無阿弥陀仏

 よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを
 善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり

 是非しらず邪正もわかぬ このみなり
 小慈小悲もなけれども  名利に人師をこのむなり
 

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