カテゴリー「聖典講座」の109件の記事

聖典講座~定善(4)像観・作仏是仏論

 次の作仏是仏論「この心作仏す、この心これ仏なり」(是心作仏・是心是仏)についても、聖道祖師方と、善導さまの立場大きく異なる。

 法界身を法身仏と理解する理仏観の立場の聖道の祖師方は、その衆生の心は法身の理仏をそなえたものであるから、「衆生の心そのままが仏となる」(是心作仏)であり、当然「その心の他に別に仏はない」(是心是仏)なのだと解釈された。
 また衆生の煩悩の心も、その本性は清浄な法身真如そのものであって、浄化さえすれば(懺悔し、滅罪し、観法の修行する)、本来の清浄な心に帰ると理解された。そこから、「唯心の弥陀」や「己心の浄土」(聖典・941頁参照・浄土真宗では捨てもの)などが語られることになる。

 それに対して、善導大師は、「唯識法身」や「自性清浄仏性」の観を批判されている。
 そして「観法によって衆生の心の中に仏が作られる」ことを「是心作仏」、「その仏と衆生の心とが一つになり、その心を離れた仏はなく、仏を離れた心もないという境地」が「是心是仏」と理解されていった。

 さらに、親鸞様は『論註』のこの箇所を信巻で引用されて、『観経』の当面の理解ではなく、「是心」を衆生の一心帰命の信心とみられて、他力回向の信心の本質は、仏心であると説かれた。また、如来回向の信心こそが仏道の正因となるので、「作仏」を仏に作(な)るの意に転じられていくことになる。(『信巻』253頁参照)

 以上を踏まえた上で、詳細な仏像の観法が説かれるさまを現代語訳で頂いていった。
 
最後に、この第八観で忘れられないのが、『仏敵』の伊藤先生の体験だ。3頁分をお配りして声に出していただいた。

「そのとき! 私は不思議なるのも凝視した。
 水流光明! そうだ、水流光明だ。『観無量寿経』の第八観にある「行者当聞・水流光明(行者まさに水流・光明およびもろもろの宝樹・鳧雁・鴛鴦のみな妙法を説くを聞くべし)」と言うのは、まさしくこれだ!」 (『仏敵』158)

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聖典講座~定善(4)像観・法界身論

   『観経』の講義も、正宗分(本論)の定善十三観に入っている。前回、第七華座観では、住立空中尊として阿弥陀如来が凡夫の韋提希の前に来現された。凡夫を憐憫した釈迦・弥陀二尊の連携プレーでの救済のお働きを窺った。

 今回は第八観・像観に入る。ここから正報観(阿弥陀仏や聖衆方についての観法)になると善導さまは頂かれた(聖道諸師は、華座観から正報観と観られた)。阿弥陀仏の仏身を見奉ていくのであるが、いきなり阿弥陀仏を真観するのは難しいので、まず仮(方便・前段階)に、御仏の姿をうつした仏像から観じる、仮観(方便観)が説かれていく段である。

 ところが、具体的な像観に入る前に、仏を念ずればその想念の中に仏が顕現するのは何故かという説法が置かれる。ここは、「法界身(ほっかいしん)論」、さらに「作仏是仏論」(この心作仏す、この心これ仏なり・是心作仏・是心是仏)という教学的にも重要な一段となる。

 従来の聖道の諸師方のご理解と、善導様とでは全く異なるご解釈になるのだ。さらに親鸞さまや浄土真宗では他力回向の立場を押し勧めてお示しくださっている。
 そこには、法界身の「法界」をどう捉えるのか。またそれは理観なのか、事観なのかという相違がある。ただ単なる解釈の相違というより、『観経』が誰のために説かれたか。そして私自身がどのような物柄なのか(根機)という、根本的な理解の相違から起こっているので、かなり難しい講義とはなったが、時間をかけて窺っていった。

▼〈書き下し文〉「つぎにまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏・如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。」

▼〈現代語訳〉「次に仏を想い描くがよい。なぜなら、仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり、どの人の心の中にも入れ満ちてくださっているからである。このために、そなたたちが仏を想い描くとき、その心がそのまま三十二相・八十随形好の仏のすがたであり、その心が仏となるということになり、そして、このこころがそのまま仏なのである。まことに智慧が海のように広く深い仏がたは、人々の心に従って現われてくださるのである。」 

 現代語だけ見ている限りはなにも疑問は起らないが、

(書き下し)「諸仏・如来はこれ法界身なり」
(現代語) 「仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり」

「法界身」が「ひろくすべての世界で人々を教え導かれる方」と訳されているのが分かる。

▽つまり、聖道諸師方は、法界身を法性身、法身仏と観る。理法身で、真如(無分別智の悟りににる不生不生の真理そのもの)の異名と見られた。

▽それに対して、善導大師は、聖道諸師の誤りと指摘された。もし法界身が法身仏ならば、無相(色もなく形もない)離念(念いも断えた) の仏であって、凡夫に理観の観想などできない。第一日想観では浄土は西にありと指さし、その後の観法でも荘厳の相を詳しく説かれ、またここでも三十二相の姿をもった仏像の観法が説かれている。つまり、『観経』は韋提希のみならず、後の愚かな凡夫のために説かれたもので、「指方立相」をもって、浄土や阿弥陀仏を示してくださったものだというのである。

 法界身の「法界」とは「所化の境」、すなわち仏の教化の対称となる世界、つまり衆生の世界。
 「身」は「能化の身」、すなわち化益される主である仏である。つまり、衆生界を化益される仏身と頂かれたのである。それを以下の三義で説明される。

 心遍 =仏の大悲が衆生の心に遍満される。
 身遍 =衆生がその仏を観ずれば仏身も、衆生の心中に現われる。
 無障碍遍=仏は身心共に無碍の活動であり、衆生の心に身心ともに遍満される。
 
▽ちなみに親鸞様は、「諸仏」を、普通に諸仏方と取られると共に、阿弥陀仏の意と解釈されている箇所がある。但し、法界身についての特別なご教示はない。

▽それでも、存覚上人は、他力回向のおこころとしてとっておられる。

「無碍の仏智は行者の心にいり、行者の心は仏の光明におさめとられたてまつりて、行者のはからひちりばかりもあるべからず。これを『観経』には「諸仏如来はこれ法界身なり、一切衆生の心想のうちに入りたまふ」とはときたまへり。諸仏如来といふは弥陀如来なり、諸仏は弥陀の分身なるがゆへに、諸仏をば弥陀とこころうべしとおほせごとありき。」(『浄土見聞集』真聖全三・378)

(続く)

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四十八願のこころ(18)~第三十五願

「たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りてののちに、また女像とならば、正覚を取らじ。」(第三十五願・女人成仏の願)

「もし私(法蔵菩薩)が、仏になるとき、無数の量り知れないほどの諸仏方の世界の女性が、私の名(南無阿弥陀仏)を聞いて喜び信じて(信心を獲て)、悟りを求める心を起して、女性の身であることを嫌ったものが、いのち終わった後に、再び女性になるようなら、私は決して仏とはなりません」

 皆さんは、この願を聞いて、率直にどう思われましたか? 

 第三十五願は、変成男子(へんじょうなんし)の願とか、女人往生の願とも言われます。
「女身を嫌う」「また女性に戻るようなら」など、今日の眼から見れば、明らかな女性差別の文章です。時代や社会を超え、一斉の生きとし生きるものを救いたいという弥陀の本願も、それが人間の言葉として説かれる時、社会的制約(古代インドの女性蔑視の思想)を受けざるおえなかったということでしょう。つまり「女性は絶対に仏に成れない」という根強い差別があったのです。

 しかしここでは、女性が仏に成ることを排除するのではなく、女性こそがお目当てだというお心、つまり十八願のお心を重ねて、女性に向けてお説きになったのだと、親鸞聖人は頂かれました。それを受けて、蓮如上人も盛んに女性が正客であるという『御文章』を書かれています。

 それでも、現代の私達は、たとえばLGBTの言葉に代表されるように、生れながらの性にとらわれず、各人が自由な性を選び、互いその違いを尊重して多様性のある豊かな社会を目指そうとしています。その眼から見れば、十分に配慮せねばならない点あります。差別を再生産する根拠にしてはいけないのです。

 異なる性を差別する迷いの根は深いものです。しかし、そもそも今生だけで、「男だ」「女だ」と威張っても、前世や来世で、同じ性であるわけがなく、結局、オスかメスかで迷いを繰り返しているのですから、最後は必ず我が身に返ってくるわけです。それが分からないのが迷いの恐ろしさでもあります。

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聖典講座~定善(3)華座観・立撮即行

 では何故、坐わったままではなく、立ち上がらずに居られなかったのか?
善導様のお言葉では、立即得生(りゅうそくとくしょう)と立撮即行(りっさつそくぎょう)の二つの意味を見ることができる。

 まず、「立即得生」とは、立ちどころに即ち生じることを得る。
「弥陀、空にましまして立したまふは、ただ心を回らし正念にしてわが国に生ぜんと願ずれば、立ちどころにすなはち生ずることを得ることを明かす」
つまり、「自力を心を翻して本願力を頼み、我が国に生まれたいと願うものは、立ちどこに、往生のうべき位につかせましょう」という、弥陀の本願を顕しているのである。

 そして、「立撮即行」とは、立ちながら撮(と)りて即ち行く。
なぜ立ち上がられたのかを問答を設け答えておられる。その問いは、「正覚の弥陀なちば軽々しい振る舞いなどせずとも、正覚の蓮台に端座されたままでも、人々を救うことが出来るのに、何故、立ちあがられたのか」。それに対して、
「これ如来(阿弥陀仏)、別に密意ましますことを明かす。ただおもんみれば、娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦あひ焼く。ややもすれば違返を成じ、詐り親しみて笑みを含む。六賊つねに随ひて、三悪の火坑臨々として入りなんと欲す。もし足を挙げてもつて迷ひを救はずは、業繋の牢なにによりてか勉るることを得ん。この義のためのゆゑに、立ちながら撮りてすなはち行く(立撮即行)、端坐してもつて機に赴くに及ばざるなり」と。
 つまり、阿弥陀様には特別な思いがあった。娑婆はまさに苦の世界、悪が満ち満ちて、苦悩に苛まれる世界であって、いままさに三悪道の火の坑(あな)に落ちているのが、韋提希(=私)の姿である。いま、釈尊の要請に応じて現われた阿弥陀様は、じっと座ってはおられず、いま立ち上がり、凡夫の私の前に足を運び、今すぐ救いあげねば間に会わないという緊急の大悲のお心であるのだと。それが立ちあがり私をつまみとり、ただちに浄土に連れて帰ろうという立撮即行の姿なのだと。

 そのところを、伊藤先生は『大悲の呼び声』で次のようにうたっておられるのである。

「弥陀は正覚なりてより そなたの来たるをまちたれど
 一劫たてでもまだ見えず 二劫たてでもまだ見えず
 三劫たてでもまだ見えず 弥陀成仏のこの方は、
  いまに十劫をへたまえり
 お立ち迎えのみ姿を なんと思うてくれるぞや
 極楽浄土の荘厳を なんと思うてくれるぞや
 南無阿弥陀仏のお六字を なんと思うてくれるぞや
 来応大悲の弥陀仏が 蓮台上に立ちたるは
 炎うずまく三悪の 火坑にむかい臨々と
 入りなんとする衆生をば おどろき救うすがたなり」
                                               『大悲の呼び声』

 講義では、この後、「第七華座観の位置づけ」(正報観か、依報観か)
 また華座観についてが続くが、繁雑になるので、ここではもう略します。

 次回は、12月16日(日)昼1時30分より
 定善の第8観・像観に入ります。奮ってどうぞ。

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聖典講座~定善(3)華座観・苦悩を除く法

釈尊が、「よく聴けよ。苦悩を除く法ぞ」と仰った瞬間、それに呼応して阿弥陀仏そのものが立ち上がってくださった。韋提希夫人は、阿弥陀様にお出会して、苦悩を除く法を聞き開くことが出来たのである。

 これはお釈迦様と阿弥陀様の二尊が一致したお働きである。しかし、釈尊の在世ならばともかく、末法の衆生はどうして阿弥陀様にお出会いさせていただくのか。そのために、当面の表向きは(顕)は、この後、華座観の観法以下、定善が再び説かれていく。しかし、『観経』は最後の最後に大どんでん返しか待っているのである。その流通分までいたる結論を踏まえて見るならば、他力の念仏一つを説くためのお示しである。

 韋提希夫人が出会った阿弥陀様とは、本願成就の正覚の弥陀である。無量寿・無量光の仏体は、南無阿弥陀仏という弥陀の名号と離れることはないのだ。「苦悩を除く法」とは、釈尊亡き後の末世の我々にも、生きて働き続けている大悲の呼び声(本願招喚の勅命)であり、南無阿弥陀仏(名号法)の雄叫びに出会うことに他ならないのである。韋提希が阿弥陀仏に拝見して救われたように、私も名号のおいわれを聞き開いた信心一つで救われていくのだと、親鸞様は頂かれている。

「行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」
(行者まさしく金剛心を受けて、慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲、すなわち法性の常楽を証せしむといえり)『正信偈』

         

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聖典講座~定善(3)華座観・阿弥陀様の来現

  『観経』は、韋提希夫人の要請に応じ、また末世の衆生のために、浄土往生の方法が段階的に説かれている。まず定善といって息慮凝心-精神統一をして、淨土や阿弥陀仏などを観想する十三の観法をうかがている。ここも大きく、第一観~第七観が依報観(浄土についての観法)と、第八観~第十三観が正報観(阿弥陀仏や聖衆方についての観法)に分けられていく。その中で、第七(阿弥陀様の座られる台座)を窺った。

 さて、依報観-極楽浄土(国土)についての観法には、仮観(この世界のものを手かがりにする方便観)である第一日想観、第二水想観と、さらにそこを手がかりに、真観(極楽浄土そのもの)である第三地想観、第四宝樹観、第五宝池観、第六宝楼観と続いていく。これはすべて愚痴の女、韋提希夫人の要請で説かれたのだ。それにしても、浄土の詳細な有りさまは、凡夫が観察するにはあまりには深遠広大で理解し難い世界だ。にも関わらず、身の程知らぬ(まさに無明)故に、釈尊に自ら要請して定善は説かれたものである。これは経典にないが、以上のお心から、ここまでの深遠な説法についていけず、号泣の疲労もあって、ついつい韋提希は居眠りし出したと、悟朗先生は教えてくださった。確かに、ぼくたちも第1観から6観を通して読んだけで、まったくついていけずに後半は居眠りする人も多かったのである。疲れてくるのだ。

 ここで、場面は急転換するのである。

 そんな様子をみられて、釈尊は、「諦聴、諦聴(あきららかに聴け、あきらかに聴け)」と告げられて、「私は、今、そなたのために苦悩を除く教え(除苦悩法)を説き示そう。そなたたちはそれをしっかり心にとどめ(憶持)、大衆のために説き明かすがよい」と、韋提希にこころこめて聞くように促されるのである。その声に呼応して、突然、阿弥陀仏が観音、勢至の二菩薩を伴って、空中に住立されるのである(住立空中尊)。それは光明(智慧-愚痴を破る)そのもので、詳細に観ることのできぬほどまばゆく輝ていたのである。 

◎二尊一致(二尊一教)のおこころ

  釈尊の声に応じて、阿弥陀仏が現われたことを、善導様は『定善義』に、

「弥陀、声に応じてすなはち現じ、往生を得ることを証したまふことを明かす」。

 釈尊の「苦悩の法を説くぞ」の声に応じて阿弥陀様が来現して、韋提希が必ず往生するとこを自ら証明されたのである。それは、釈迦、弥陀二尊が心をひとつにし、互いに呼応しながら苦悩を凡夫を救うことを示されたのである。すなわち、

「まさしく娑婆の化主(釈尊)は、物(衆生)のためのゆゑに想を西方に住めしめ、安楽の慈尊(阿弥陀仏)は、情を知る(その心を知る)がゆゑに、すなはち東域(娑婆)に影臨(ようりん・姿を顕す)したまふことを明かす。これすなはち二尊の許応異なることなし。ただ隠顕(釈尊が隠れ退き、弥陀が現われる)殊なることあるは、まさしく器朴(きぼく)の類(たぐん)万差なるによりて(衆生の根機がさまざまなので)、たがひに郢(えい)・匠(しょう※)たらしむることを致す」
※郢・匠=『荘子』に出る二人の左官と大工の伝説的名人のこと。衆生の機類も、力量もさまざまなので、釈迦、弥陀二尊の意(こころ)が一致し救うことを譬える。

 親鸞様のご和讃『高僧和讃・善導讃』なら、
・「釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
  われらが無上の信心を  発起せしめたまひけり」
という二尊が一致したご苦労てである。

では、釈尊の説かれた「苦悩を除く法」とは、なんであろうか? (続く)

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聖典講座~定善(2)宝樹・宝池・宝楼観

 4、第四観・宝樹観[樹想]【十二】

  地想観が成就したら、次に極楽の宝樹を観想していく。
・宝樹は、七重の並木として繁り、高さは八千由旬、その枝葉は二十五由旬に広がり、金、銀などの七宝の葉と花を具足し、さらにそれぞれがさまざまな色彩の光明で輝いている。その枝は真珠のついた網で覆われ、その網と網の間には、華麗な梵天城のような宮殿が並び、多くの宝石で着飾った童子が並び、光輝いている。
・またその宝樹には、さまざまな美しい花が咲き、多くの果実が生まれ、そこから発する光明は、一切の仏事を映現し、また十方仏国を顯す。
 ・同じように、幹、枝・葉・花・果を次第して観ぜよと述べられる。

 5、第五観・宝池観[八功徳水想]【十三】

 次に、極楽の宝池を観ぜしめる。
 ・極楽には八種の池があり、それぞれが如意宝珠より噴出した十四の流れとなり、黄金の川に沿って流れ、七宝の色彩を輝かせている。その川の中には七宝の蓮華が咲き、その水の音は、悟りの法を説く(苦、空、無常、無我や六波羅蜜)。
・またその宝珠より黄金の光明が輝き、百宝の色鳥と化して、常に念仏・念法・念僧の讃嘆する説法をする。その八功徳水の宝池を観想せよ。
・八功徳水とは、1澄浄・2清冷・3甘美・4軽軟・5潤沢・6安和・7除疾患・8身体増益

 6、第六観・宝楼観[総観想]【十四】

 次に、極楽の宝楼を観ぜしめる。
・五百億の楼閣がそびえ、その中には無量の天人が自然の音楽を奏で、その音は虚空に満ちて、念仏・念法・念僧の讃嘆する説法となることを観想せよ。

 以上で、浄土の第四の宝樹、第五の宝池、第六の宝楼の荘厳相を観じ終わるので、総観想と名付けられる。最後に、滅罪の功徳と、正邪の注意が述べられる。

 第一、第二とその延長の第三観が一連であったように、第四、第五、第六がまた一連の観想であると窺える。

 が、皆さん、浄土の相に付いていけず、輪読するのが精一杯。たまらず居眠りするかとも数人おられるのも、続けて読んでみると、もっともなことだと思った。

 悟朗先生曰く、「出来もしない定善の説法を乞われた韋提希夫人だったが、あまりに難しくて、思わず居眠りしてしまいす」と。すると、釋尊はおもむろに、

 「あきらかに聴け、あきらかに聴け。これから苦悩を除く法を説くぞ」と言われると同時に、阿弥陀様が韋提希の目の前に立ち上がらる。住立空中尊の第七華座観へと続くが、それは11月の聖典講座で。

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聖典講座~定善(2)水想観~地想観

 2、第二観・水想観(水観)【十】

 水想観も、仮観であるが、次の第三地想観のための準備段階の観法である。すなわち、この世の水から、氷を通して、浄土の瑠璃の大地を観じていく方便観である。
 ・水の清く澄みきった様子をはっきりと心に想い描き、心を乱さない。
 ・その水が氷になった様子を想い描く。
 ・その透き通った氷が瑠璃であるという想いをなす。
 ・極楽世界の内も外も透き通った瑠璃の大地と、観ずるようになる。
 ・その大地は、七宝で飾られた八角形の黄金の柱で支えられ、その柱のそれぞれの面は宝玉で飾られ、それぞれが千の光で輝き、その光は八万四千の色があり、それらが、瑠璃の大地に映えて、千億の太陽を集めたように光輝いている。
 ・瑠璃の大地には、黄金の道が縦横に通じて、七宝で仕切られている。その一つ一つに五百色の光があり、光明の台となる。
 ・台の上には、千万もの楼閣がそびえ、その両側には華と幡(はた)で飾られた無数の楽器が並び、四方八方から風が吹くと、妙なる音楽を奏でる。
 ・そして「すべては苦、空、無常、無我である」という教えを響かせている。

 3、第三観・地想観[地想]【十一】

 第三観から第七観までが、直ちに浄土の荘厳相を観想させる真観となる。
 ・先の水想観が完成したなら、ほぼ極楽の大地の相を観ずることができる。
 ・その一々が、閉目・開目しても消えず、眠る時以外は、常にこれを想い続ける。
 ・三昧の境地に入れば、観るという想いもなくなる正受観となり、第三観が完成。

 ・この観を説き終わった釈尊は、阿難に、未来の衆生で苦悩を逃れたいと思うもののために、この観を説けと示して、「八十億劫の生死の罪が除き、生命終わった後、必ず浄土に生まれる。心に疑いを懐くな」と示される。
 ・最後に、観に邪正(正観と、邪観)があることを注意される。観念の行の妄念・妄想の戒めである。

 以上が、第一、第二とその延長にある第三観の一連の概要である。皆さんと、輪読を重ねていくと、まだ日没や水、つまりこの世のものを手掛かりにする仮観ならば、(あくまでも何となくだが)凡夫でもイメージはできる。がしかし、そこを手がかりにする極楽の地観になると、たちどころに理解を超えていくのだ。そこがまた面白かった。

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聖典講座~定善(2)日想観

  『観経』も前回から、正宗分(本論)に入った。韋提希夫人の要請に応じ、末世の衆生のために、浄土往生の方法が段階的に説かれていくのだが、善導様は、(1)定善十三観と(2)散善三観(九品)とに二分科されて頂かれている。
 まず定善十三観である。息慮凝心-精神統一をして、淨土や阿弥陀仏などを観想する十三の観法で、第一観~第七観が依報観(浄土についての観法)、第八観~第十三観が正報観(阿弥陀仏や聖衆方についての観法)である。そのうち、今回は、第一観~第六観を窺った。

1、第一観[初観]・日想観(日観)【九】

 まず、浄土についての観法が述べられる依報観である。依報とは、衆生の生活の依り所となる生活環境のことで、国土のことである。ここでは、阿弥陀様の極楽浄土のことである。そのうち、第一と第二は、この世界の日没や水を手がかりとするので、依報観の中でも仮観、つまり方便観である。中でも、日想観は、定善十三観全体の準備段階(いわばトレーニング)の観法で、『観経』には次の手順が説かれてる。

・心を専らに西方に思いをかけて、その世界を想い描く。
・(生まれながらに目が見えない限り、目が見える者は ※仏典では、しばしば障がい者を差別するような表現が生まれるので十分注意が必要だが、ここでは、自力の行には差別があり修行に限界があることが窺える)日没の光景を観る。
・姿勢を正し西に向かって座り、はっきり夕陽を想い描き、一心に一点集中する。
・夕陽がまさに沈もうとし、西の空に鼓をかけたようになっているのを観る。
・閉目・開目でも、その夕陽がはっきりと観えるようにする。

◎善導大師は、真西に日没する春・秋の彼岸が最適であるいわれ、なぜ、日没なのかにも『定善義』の中で詳細に応えておられる。
 第一に、極楽の方処(よりどころ)を、西方であると知る。
 第二に、自身の罪障の重さを知る。太陽を想い浮かべても、障り(黒障=重罪、黄障=やや重い罪、白障=軽罪)が現われる。障りが出る度に、阿弥陀仏や一切諸仏に、無始以来の罪障を一つ一つ数えて、懺悔(さんげ)する。再び、結跏趺坐して観法に入る。それでも障りがでるならば、再度、懺悔する。この所作が詳細に定められている。これは、実際に善導様が、実践され、体験され、自ら定に入っておられなければ言えない言葉ばかりだ。
 第三に、日月を超えた、阿弥陀仏の光明の威力を知るためである。

 余談ながら、かなり認知症が進んだ父の最晩年、沈む夕日に静かに合掌している姿を、何度か見ている。もう西に帰っていく準備だったのだろう。

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『観経』~正宗分~定善の概観(3)

  定善十三観のうち、正報観(阿弥陀仏、菩薩)である。

8第八観・像観…第八観から十三観までは、正報観である。宝座を観じたなら、その主である仏を観想するのである。それは仏が法界身であるからだ。しかし、いきなり阿弥陀仏を観想は難しいので、まずは端正な仏像を 観念する仮観が説かれていく。ここで『仏敵』で伊藤先生が拝まれる「水流光明」が説かれる。

9第九観・真身観…いよいよ阿弥陀仏の真身を観想するもので、定善の中心。
 念仏の衆生を摂取不捨(摂取して捨てたまわない)に仏意に達するのである。
 「光明遍照・十方世界、念仏衆生・摂取不捨」

10第十観・観音観…阿弥陀仏の両脇士のうち、まず左方の観世音菩薩観想する。
 阿弥陀仏の慈悲を顕している。

11第十一観・勢至観…次に右方の勢至菩薩を観じる。阿弥陀仏の智慧を顕わす。
 阿弥陀仏の化益の全きことを体認せしめるのである。

12第十二観・普観…以上、浄土と仏・菩薩を次第順序して観想してきたので、ここでは普(あまね)く合せて観ずると共に、自分が救われてその浄土に往生する想いをなす「自往生観」となる。その想いの行者のところに、常に観音・勢至等の諸菩薩が来たり摂護する。

13第十三観・雑想観…以上の諸観を最後に総合して観ずる。そして、仏身の大小真化を観ることも、行者の意楽(いぎょう)に従って自在である。
 このような観は、凡夫心力に及びところではなく、阿弥陀仏の宿願力のよることが説かれていく。
 宿願力=阿弥陀仏が法蔵菩薩としておこされた願を宿願(昔の願)といい、その願が完成し,願い通り衆生済度する働きを宿願力という。

 10月からは、詳しく中身を窺っていきます。

http://keko-kai.la.coocan.jp/event/2018/detail/10/seiten2018-10.htm

 

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