カテゴリー「聖典講座」の122件の記事

7月の聖典講座~至誠心(2)

  では、至誠心とは何か。

 善導様は、至誠心とは、真実心のことであり、浄土の行の実践は、衆生の身での行い、口での言葉、心に思うこと、三業のすべてが、お浄土に相応しい真実心でなさねばならない。しかそれは、外面だけが「賢善精進」を装っていても、もし内心に嘘や偽りを懐いていてはいけない。外面の修行ではなく、その内面も真実であり、外と内が一致しているのである。もし、外面は頑張って修行していても、その内に愛欲や憎悪の心、よこしま、偽りの心が満ち満ちた心で、いくら行じても、すべて「雑毒の善」(毒の交じった)「虚仮の行」(中身のない虚ろで仮もの)である。たとえ頭に付いた火を払うほど必死で、終日、命懸けでなしたとしても、毒の交じった善をどれだけ振り向けても、決して、お浄土(真実報土)に生まれることはできないのである。
 なぜなら、お浄土とは、愛欲や憎悪といって煩悩が消滅した、清らかな涅槃界である。そのお浄土を建立される時の法蔵菩薩が行を行われ時、身も、口も、心も、一刹那も、真実心がかけたことがなかった。そんな世界に生まれるのだから、法蔵菩薩のなされたような真実心で、自利・利他の実践をなしなさいと。

 しかし、実際、真実に近づけば近づくほど、真実に背く自己が露わになってくる。そこを開きなおるのではなく、ひたすら懺悔(仏や修行僧の前で、罪を告白し、悔い改める誓い)するしかない。善導様自身も、毎日、自身に厳しい懺悔を繰り返されたという。それが三品の懺悔(『往生礼讃』)と示されている。
上品懺悔-(1)全身の毛孔から血の汗を流し、
              (2)眼より血涙を流し、懺悔する。
中品懺悔-(1)全身の毛孔から熱き汗を流し、
                (2)眼より血涙を流し、懺悔する。
下品懺悔-(1)全身が熱くなり、      
              (2)眼より涙を流して、懺悔する。
ちなみに、親鸞様は、
「真心徹到するひとは  金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと ひとしと宗祖はのたまへり」(高僧和讃)
と和讃されている。

 結局、真実に近づくほどに、凡夫に真実心は起こせず、煩悩具足の自覚が深まることになる。そのことが、次の「深心」-二種深信の「機の深信」と「法の深信」や、「回向発願心」に説かれる「二河譬」で絶え間なく渦巻く「火の河」「水の河」の譬えと、その間に生まれる白道にもつながっていくのだろう。

 その善導様のお心を受けて、自力で起こす真実心ではなく、他力で賜わる真実心とみられたのが親鸞聖人の立場である。
 親鸞様は、『観経』には「隠顕」-経文の表面どおり解釈(自力の立場)する「顕説」と、その裏に隠された内面のお心(他力の心)を頂く「隠彰」の立場であると頂かれたが、この三心にも隠顕」(自力の立場と他力の立場)があり、「隠彰」(内面に隠されたの他力のお心)から、善導様の真意を明かにするために、そのお言葉を、漢文を読みかえてまで、大胆に他力回向の立場を明かにしてくださったを、善導様の「散善義」と、親鸞様「信巻」を通じて窺った。
 一例だけをあげて結びとする。

、「不得外現賢善精進之相、内懐虚仮」
 善導様は、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」
 (外面も真実、内面も真実であれ)

 親鸞様は、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり」
 (内面が虚仮なのだがら、外面も偽善者ぶるな)
               
、「凡所施為趣求亦皆真実」
 善導様「おおよそ施為、趣求するところ、またみな真実なり」
 (施為=施すこと、利他)(趣求=浄土を求め趣く、自利)
 (法蔵菩薩のように自利・利他の真実の修行をなせという意)

 親鸞様「おおよそ施したまうところに趣求をなす、またみな真実あり」
 (如来より施したまう真実(南無阿弥陀仏)を賜わり、浄土に趣き向かうことが、真実心であるの意)

 私には、至誠心のかけられもなく、虚仮不実であることを信知させられて、自力の心を捨てて、如来より賜わる真実そのもの、すなわち南無阿弥陀仏をたのむことこそが、他力の至誠心なのだ、真意を明かにしてくださったのである。                                     

 8月は夏休みです。
 次回は9月1日(日)です。「深心」に入ります。二種深信、四重の破人など、安心上の最も重要な箇所であります。お楽しみに! 

 

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7月の聖典講座~至誠心(1)

「講座仏教カウンセリング求めて」のWSの翌日は、聖典講座である。
 『観経』も「定善十三観」(息慮凝心-精神統一をし、淨土や阿弥陀仏などを観想する十三の観法)が終わり、前回は、「散善三観」(三福九品・精神統一が出来ない者への廃悪修善(悪を廃し善を修める)の行)を概観した。今回から、その詳細の内容に入っていく。まず上輩段である。ところが、この最初の「上品上生」の冒頭に三心(至誠心、深心、回向発願心)が説かれている。サラッと説明すれば、すぐに終わる。詳しいと全体を見失う可能性もある。迷ったが、ここは真宗安心の最要点の一つなので、避けて通るわけにもいかない。ただし呑みすぎた頭では無理だったので、講座の当日5時半起きをして、レジュメを作った。結局、3回で、三心(至誠心、深心、回向発願心)を取り上げることにした。今月は「至誠心」である。

 一応、冒頭の部分を書き下し文で示しておこう。

「上品上生といふは、もし衆生ありて、かの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらかを三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。」

 お釈迦様は、散善九品を説く冒頭で、三種の心を示された。
 一、至誠心(「至」は最高、真。「誠」は、嘘、ごまかしのない心。真実心のこと)
 二、深 心(深く信じる心。深いとは、浅薄ではなく、決定的である決定心のこと)
 三、回向発願心(「回向」の「回」とはめぐらすこと、「向」はさし向けること。 自らの善根をふりむけること。「発願」とは、浄土往生を願う心を起こすことである。当面の意味では、自らの成した善をふりむけて、浄土への往生したいと願うことになる。それを他力のお心でいただくと、阿弥陀様より回向(ふりむけてくださった)された功徳を頂き、必ず、浄土往生できることを喜ぶ心となる。)
の三種の心を発こせば、往生できると述べらたのだ。
 
 行や善をなすにしても、どのような心持ち、どんな心を起こして行うのかを、三心という形で述べられたのだが、肝心の『観経』には、三心が示されるだけで、それがいかなるものかは、まったく説明がないのだ。それを詳細にご教示くださったのも、善導大師である。ここでも「善導独明仏正意」(善導様お独りだけが、仏様の正しいお心を明かにしてくださった)なのである。
 
 例えば、聖道の祖師が、これは上品上生に説かれるので、最も上位の善人だけが、自分の心を修練して往生できるものだと解釈(修心往生)されたのに対して、善導様は、上々品にのみ説かれているが、以下のところでは省略されているのであって、九品すべてに通じ、また定善にも通じ、さらに本願念仏にも通じるのだとされた。
 三福散善-「三福行」を往生行とする自力の三心
 定善観法-「観念行」を往生行とする自力の三心
 本願念仏-「本願念仏」を往生行とする他力の三心
しかも、この三心が往生の正因(三心正因)だと頂かれちる。

  さて、至誠心の入る前に、本文にある「即便往生」についてである。ここは、親鸞様の御心が深い。
 親鸞様は、善導様のお心持ちをさらに深く受け、『観経』には「隠顕」があると頂かれている。経文の表面どおり解釈(自力の立場)する「顕説」と、その裏に隠された内面のお心(他力の心)を頂く「隠彰」の立場である。この三心にも、自力と他力の立場があるのであるが、当然、その果報にも自力と他力の別あると頂かれたのである。すなわら、「即便往生」の即便とは、本来は二文字で「すなわち」と読むのだが、親鸞様は「即往生」を他力、「便往生」を自力、との二つに分けて解釈されているのだ。『愚禿鈔』のご指南によると以下の通りだ。

 即往生-他力の三心による真実報土への往生。第十八願の「即得往生」(本願成就文)
 便往生-自力の三心による方便化土への往生。第十九願の「方便往生」(第十九願成就文「便於七宝華中」とある)(続く)

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6月の聖典講座~『観経』散善(概説(3))

(4)最後に散善三観の概観である。
 上品の三機は、   大乗の行である「行福」を修する善凡夫
 中上・中中の二品は、小乗の行である「戒福」を守る善凡夫 
 中品下生は、 世間倫理的な善である「世福」を行う善凡夫
  (以上は、善人の往生相)
 下品の三機は、平生から善を成さない(三福無分)の悪人
 (下品は、悪人の往生相)

 特に、下品の三機は、平生は悪しかなさないが、それでも臨終に念仏を行い、浄土往生するので、一応、散善の機とみていいのである。その当面では、廃悪修善の念仏行で、自力念仏である。しかし、本願力回向の行である他力の念仏は、自力の散善ではなく、定散二善を超えた本願他力の行であると、特に親鸞様は深く頂かれている。

 散善三観(三福九品)

     1上品上生-行福-大乗上善の善凡夫
 上輩観  2上品中生-行福-大乗次善の善凡夫
      3上品下生-行福-大乗下善の善凡夫
     1中品上生-戒福-小乗上善の善凡夫
 中輩観  2中品中生-戒福-小乗下善の善凡夫
      3中品下生-世福-世善上福の善凡夫
      1下品上生-   十悪軽罪の悪凡夫
 下輩観  2下品中生-   破戒次罪の悪凡夫
     3下品下生-   五逆重罪の悪凡夫
  
(5)ところで、序分と正宗分では、順序の違いがある。
 序分の説き方では、
「散善」[世善(世間的善)→戒福(小乗の善)→行福(大乗の善)]→「定善」の順序であるが、
 正宗分での説き方では、
「定善十三観」→「散善」[「上輩観」(行福)→「中輩観」(戒福→世善)→ 「下輩」(三福無分)]→「他力念仏」へ の順序となる。つまり上位(難行)の行から下位の行へとなっている点に、注目した。
 
 以上、今回は散善全体を概観して窺った。
 7月からは詳細に読んでいくので、奮ってご参加ください。

 ★行事 聖典講座「観無量寿経」
 ★日時 7月7日(日)昼1時30分~5時

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6月の聖典講座~『観経』散善(概説(2))

(2)では、三福九品とは何か。
 まず、三福とは、福をもたらす三種の善行(世福・戒福・行福)、いわば善行の総称である。
 すでに、序分の「散善顕行縁」(164頁)で、三福を十一行で示されている。

一、世福=世間倫理的な善
(1)孝養父母
(2)奉事師長
(3)慈心不殺(四無量-慈・悲・喜・捨の一番目)
(4)修十善行(一、不殺生、二、不偸盗、三、不邪淫、四、不妄語、五、不両舌 六、不悪口、七、不綺語、八、不貪欲、九、不愼恚、十、不邪見)

二、戒福=戒律を護ること。小乗の善
(1)受持三帰(仏・法・僧の三宝)
(2)具足衆戒(衆戒-もろもろの戒・五戒、八戒、十戒、具足戒
(3)不犯威儀(威儀=規律にかなった立ち居振る舞い)

三、行福=自利利他行の大乗の善
(1)発菩提心
(2)深信因果
(3)読誦大乗
(4)勧進行者(利他行)

  九品(くぼん)とは、三福行を実践し浄土往生する人々を、九種類に分類して、詳しく述べている。品は、「ひん」ではなく「ぼん」と読む。人に等級や格差をつけて区分すること。浄土往生する人々を、上品・中品・下品を三分類し、それぞれにまた上生・中生・下生に三つに分けて、合計九種類の等級分けをされたものである。

(3)では、『大経』三輩段との関係とどうか。
『大経』下巻(72~75頁)には、浄土願生の人を、上輩・中輩・下輩に三分類されている。輩とは、「ともがら」「やから」で仲間のこと。
 法然様は、三輩と九品は開合の異(詳しく説くのと、合せて説くのの違い)であるといわれた。つまり、開ければ九品、合せれば三輩となる見られている。
「『観経』の九品と『寿経』の三輩と、本これ開合の異なり」(『選択集』・七祖篇1220)(続く)

 

 

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6月の聖典講座~『観経』散善(概説(1))

(大意)
 『観無量寿経』も、前回で「定善十三観」が終わって、今回から「散善三観」(三福九品)に入る。
 定善が、息慮凝心(精神統一し淨土や阿弥陀仏などを観想する)で、十三通りの順序立てられた観法だったのに対して、散善は、精神統一が出来ない者への廃悪修善(悪を廃し善を修める)の行が説かれる。これは『大経』の三輩(上・中・下)段に対応し、さらにそれぞれを「上生・中生・下生」に分け、合計九品に分類される。すでに序分(発起序)の「散善顕行縁」で、三福(世・戒・行)として散善の行が明らかにされているので、三福九品ともいわれる一段である。特に、最後の下品では、悪人のために念仏行が説かれていく。
  
(1)この散善では、聖道諸師と善導大師の分類に相違があるのが特徴だ。
 善導様は、正宗分を、定善十三観と散善三観(三福九品)に二分類されるが、それまでの聖道の諸師方は、分類をせずに十六種類の観法として捉えられた。それは『観経』に、「これを上輩生想と名づけて、第十四の観と名づく」「これを中輩生想と名づけて、第十五の観と名づく」「これを下輩生想と名づけて、第十六の観と名づく」と、十六の観法として説かれているからだ。それで、第十二観(普観)が、自身の往生を思い浮かべる「自往生観」であるのに対して、この九品段(第十四~十六観)を、他の衆生が往生する九種類の姿を浮かべる「他往生観」(聖者から悪人まで)だと見られていた。

 それに対して、善導様は、定善十三観までは韋提希夫人の要請に応えた説法だったが、それは、息慮凝心(精神統一をし、淨土や阿弥陀仏などを観想する)の難行で、すぐれた能力の者以外には困難である。精神統一できない心が散り乱れた凡夫のために、釋尊自らが説き開いてくだったものが散善であると、御覧になられた。すでに序分で「定善示観縁」の前に「散善顕行縁」を説かれ、廃悪修善(悪を廃し善を修める)の善行を、三福(世福・戒福・行福)として示された。そのありさまを開き、詳細に知らせるために、散善とし九種類(九品)に分類されたとのだと、善導様がご指南くださった。(続く)

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聖典講座~観経・定善まとめ~

  10連休の最後は、快晴。「聖典講座」で締めくくった。

 連休で、逆に常連はお休みだったが、初めての方が3名あって新鮮な顔ぶれ。

 前回で、定善十三観が終わった。そのまま散善に入ってもよかったが、改めて、定善十三観を、初観の日想観から、第十三観の雑想観までを、まとめて声に出して読むことにした。現代語であるが、みんなで声を揃えて読むだけでも、かなりの労力が必要だった。すべて通すとかなり量なので、初観(第一観)~第三観、第四観~第六観と、区切りがはっきりしている(第三、第六はまとめで、改めて呼びかけがあり、「ほぼ」(荒く)観たと言われ、滅罪が説かれ、正・邪観の定型の記述が繰り返される)ところを分割して読む進めた。すると、これだけでもついていくのがたいへんでフラフラとなってくる。するとすかさず、「諦聴、諦聴」と注意喚起があり、「除苦悩法を説くぞ」という釈尊のお言葉が染みてくるのである。悟朗先生の言われる、「身の程を知らず、自ら定善を説くことを要請しながら、疲れ果てて思わず居眠りをしてしまった」という韋提希夫人の状況が、身をかけて分かるのである。確かに、疲れて居眠りもでそうになる。そこで、苦悩を除く法として、阿弥陀如来が目の前に立ち現れてくださり、第七観の華座観があって、ここで依報観(浄土という国土の有り様を観想する)から、主報観(仏とその聖衆方を観想する)へと展開していく。

 第八観像観、第九観真身観と読む。名所だけに要点も多く、少し詳しく解説をして、一気に、第十観観音観から第十三観の雑想観までを読む進んだ。今日は、暑かったことこともあって、ただ声にだして読むだけでも疲労した。というのも、あまりにも凡夫の人知を超えた世界なので、ついていくのもたいへんだった。それでも、まだ西の方角に、具体的な姿もって示してくだされる(指方立相)のは、凡夫(善凡夫)のためのご方便ではあるが、結局、それすらも悪凡夫(極重悪人)には、イメージも、理解もできないのである。ただ読むだけでもしんどい、ということを身をもって知ってもらった。頭から、「観経」は方便とか、定善は捨てものと、正解だけを聞いているが、その定善がどんなものなのかも知らないのが、私たちである。その意味でも、ザッーとでも触れてもうことに意味があった。

 もう詳しくは述べないが、最後に、「法然上人行状絵図」(四十八巻伝)から、第 巻の法然上人の臨終のありさまを窺った。法然さまが、三昧発得して、阿弥陀さまを常にみたてまつっている様子が詳しく説かれているのである。凡夫には不可能でも、善導さまや法然さまのような聖衆方の境地は、これなのである。そして、最後の最後まで、称名念仏されつづけて、最後は「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」(光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)」文を口にして、臨終をされる姿を窺った。同時に、『御伝鈔』から、親鸞さまのご臨終のありさまを窺ったが、まったく見事なほど一切の奇瑞も起こらず、静かに臨終を迎えられるところに、浄土真宗の平生業成のすごさを味わった。これはまたの機会に触れたいと思う。

 晴天で暑かったが、終わる間際には、夕立があって、冷気が入り込んだ。

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4月の聖典講座~観音・勢至観(3)

 ところで、阿弥陀様よりも人気がある観音様であるが、「弥陀三尊」と呼ばれた場合は、中尊「弥陀」様、そして「観世音」(慈悲)「大勢至」(智慧)が両脇士となられる。有名な善光寺如来は、同一の光背に三尊を配した一光三尊仏ではあるが、しかし、浄土真宗では、三尊仏をおまつりしない。それは、「一向専念無量寿仏」とい立場で、「弥陀一仏」をおまつりしているのである。そのことを覚如様は、「かの二大士の重願、ただ一仏名を専念するにたれり。今の行者、錯って脇士に、事ふることなかれ。ただちに本仏(阿弥陀仏)を仰ぐべし」(御伝鈔・1046頁)とお示し下さっている。

 それでは、観音様や勢至様は讃えないのかというと、親鸞様は、観音・勢至菩薩の讃嘆される和讃がある。

 「観音・勢至もとともに  慈光世界を照曜し
  有縁を度してしばらくも 休息あることなかりけり」(浄土和讃・559頁)
 「弥陀・観音・大勢至 大願のふねに乗じてぞ
  生死のうみにうかみつつ 有情をよばうてのせたまふ」(正像末・609頁)

そして、観世音菩薩は、阿弥陀さまの慈悲の面を顕すと共に、聖徳太子のご本地であると頂かれている。

 「救世観音大菩薩 聖徳皇と示現し          
  多々のごとくすてずして 阿摩のごとくにそひたまふ」(『皇太子聖徳奉讃』(正像末)615頁)

また、大勢至菩薩は、、阿弥陀さまの智慧の面をあらわし、法然聖人のご本地であるとされている。法然様は、「智慧第一の法然房」である。
 「以上大勢至菩薩 源空聖人御本地なり」(577頁)ど、『勢至和讃』で『浄土和讃』を結び、『高僧和讃』が始まるのである。
その『高僧和讃』の『源空讃』(596頁)には、
 「源空勢至と示現し あるいは弥陀と顕現す
  上皇・群臣尊敬し 京夷庶民欽仰す」とあったり、
 「智慧光のちからより 本師源空あらわれて」(智慧光=勢至菩薩のこと)と示されている。

 つまり、親鸞さまにとっての観音・勢至両菩薩は、聖徳太子さまと法然さまということになる。
 京都の六角堂は、聖徳太子が四天王寺建立のための材をこの地に求めたのを縁に、念持仏の如意輪観音を安置したのが始まり。この地で、親鸞様は、よき師を求めて百日間参籠し、九十五日目の暁に、聖徳太子のご示現によって、後生の助かる縁を求めて、吉水の法然聖人の元を尋ねる決意をされている。つまり、弥陀如来の慈悲を顕す観世音菩薩(聖徳太子)のお導きにより、阿弥陀如来の智慧を顕す大勢至菩薩(法然聖人)に出会い、そして弥陀の本願に帰す身となったと喜んでおられる。
 これを拡げると、観音様の慈悲は、仏法に心ない者を仏道に導き入れてくださり、勢至様は、阿弥陀様の智慧光をもって、その人を摂取しようと、共に、常に、果てし無く働き続けられているというのである。南無阿弥陀仏

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4月の聖典講座~観音・勢至観(2)

  阿弥陀如来の左の脇士で、阿弥陀様の慈悲の徳を顕しておられる。
「観世音」とは、梵語「アヴァローキテーショヴァラ」の旧訳で、略した「観音」菩薩の名称が、広く親しまれている。新訳(玄奘三蔵の以降)では、「観自在」菩薩とも訳されている。
 観世音とは、世界の衆生が救いを求めるのを聞くと、直ちに救済するとの意味。観自在とは、一切諸法を空と悟り、一切の衆生の救済も自在であるとの意味。救いを求めるものの姿に応じて大慈悲を行ずるために、千変万化の相となるという。東アジアやチベットで、もっとも広く庶民の信仰を集めている。
 1聖観音を総体に、2千手・3十一面・4如意輪・5准胝・6馬頭(ここまで六観音)・7不空羂索(七観音)と続き、他に三十三観音が説かれる。この三十三という数字は、「西国三十三所」「三十三間堂」「三十三年に一度の御開帳」と、いまでも馴染みがある。
 インド南海岸にあるという伝説の補陀落山=ボータラカに住するというわれるが、。例えば、チベットでは、ダライラマは観世音菩薩の化身で、ボタラ宮殿が、中国では普陀山、日本では那智山がそうであると言われる。
 十二礼では、「観音頂戴冠中住 種々妙相宝荘厳 能伏外道魔驕慢 故我頂礼弥陀尊」とある。
 子供聖典では、「観音さまは冠に、お阿弥陀さまを頂かれ、悪魔外道もくじきます お阿弥陀さまたてまつる」とあるように、冠に阿弥陀仏の立化仏を頂かれているのである。

 次いで、大勢至菩薩についてである。
 観音様に比べる人気薄で、馴染みもないが、阿弥陀如来の右の脇士で、阿弥陀様の智慧の徳を顕している。
 「大勢至」とは、梵語「マハー・スターマ・ブラープタ」の漢訳。「大精進」「得大勢至」とも訳されるが、「勢至」菩薩の名が一般的。智慧の光の威勢があらゆるところに至り照らして、人々を教化し、三塗(地獄・餓鬼・畜生)を離れさせ、無上の力を得させて、浄土へ導く大勢力もった菩薩なので、大勢至と呼ばれる。
親鸞様は、『首楞厳経』による『勢至讃』を著し、かって十二の如来によって、念仏三昧を受けたので、今この世界で念仏の人々を摂取して浄土に帰される菩薩と頂かれている。右手に、蓮華を持ったり、合掌するなどの姿で顕されているという。(また続く)

 

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4月の聖典講座~観音・勢至観(1)

 4月の聖典講座は、『観無量寿経』の「 定善十三観」の最終回。定善十三観は、第一観~第七観が依報観(浄土についての観法)、第八観~第十三観が 正報観(阿弥陀仏や聖衆方についての観法)に分科することができる。前回は、定善の中心である真身観で、阿弥陀如来のお姿の観想が終わった。今回は、阿弥陀様の両脇士である観音(第十観)・勢至観(十一観)と、そして自らの往生想を起こす普観(十二観)、最後に力が劣ったものへの総合的な観法である雑想観(十三観)を窺った。

 まず、第十観・観音観【十八】である。『観経』では、「観観世音菩薩真実色身想」とある。
 阿弥陀様の両脇士である観音・勢至両菩薩の観想のうち、観音菩薩の相好や光明についてであるが、観音様の相好(お姿や光明)の記述が実に詳細である。が、そのお姿は、結局、阿弥陀様の相好と同じであるとされる。ただ違いは、「頂上の肉髷と、無見頂(肉髷の頂点、誰も見ることができないので)」だけが劣っているのだと示される。
 最後に、この観が成せれば、禍に遭わず、業障も除かれ、量り知れない生死の罪が除かれるという功徳が説かれ、またその名を聞くだけでも無量の功徳が得られるのだから、観想することは、それ以上の功徳が得られると述べられるのが、だいたいの要約である。

 次いで、第十一観・勢至観【十九】だが、『観経』では、「観大勢至色身想」とある。

 勢至菩薩の相好が述べられるのが、その相好は観音菩薩と同じであると示されている。ただ、両菩薩の相好は、第十三観でも「頭部の様相を見る」ことで区別されるとあるように、観音様は、天冠に阿弥陀様(化仏)を頂かれ、勢至様の頭頂は、肉髷に宝瓶があるのが特徴だと示される。
 また、勢至様は、別名「無辺光」(十二光の一つ)と名付けられ、智慧光の一切を照らし、衆生を三塗から離れさせて、無上の力を得させて、浄土へ導く大勢力もった菩薩なので、大勢至と名付けられていると示されている。

 本論とは別に、両菩薩について少し詳しく見ていた。浄土真宗とはあまり問題にしていないが、身近にある菩薩様方であることが分かって、面白かった。(続く)

 

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聖典講座・真身観(4)偏観一切色身想

(四)偏観一切色身想

「無量寿仏を観想するには、まずすぐれた特徴の一つを想い浮かべることから始まればよい。それには、眉間の白毫をはっきりと想い描けばよい。それが完成すれば、自ずから八万四千のすぐれお姿が現れるのである。
 無量寿仏を見たてまつれば、十方の諸仏方を見たてまつたことになる。そして、その諸仏方が目の前で、「必ず仏になるであろう」と約束くださる(授記)。このように観想することが、「広くすべての仏のお姿を想い描く想」(偏観一切色身想)第九観と名付ける。またこのように観想することが正観、そうでないものは邪観だ」。

◎念仏三昧(ざんまい)について
三昧=梵語サマーディの音写。「定」「正受」と漢訳。心を一処に止めて散乱せず、安らかで靜寂な境地。本来、念仏三昧とは、その靜寂の心に阿弥陀仏のお姿や功徳を思い観る観仏で、般舟三昧のこと。それを善導様は「称名念仏」ともとられ、さらに親鸞様は、本願を信じて、一心に名号を称える他力念仏のこととされた。

最後は、要点のみ。また、授記は項目を改めて、、。

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