カテゴリー「聖典講座」の113件の記事

聖典講座・真身観(4)偏観一切色身想

(四)偏観一切色身想

「無量寿仏を観想するには、まずすぐれた特徴の一つを想い浮かべることから始まればよい。それには、眉間の白毫をはっきりと想い描けばよい。それが完成すれば、自ずから八万四千のすぐれお姿が現れるのである。
 無量寿仏を見たてまつれば、十方の諸仏方を見たてまつたことになる。そして、その諸仏方が目の前で、「必ず仏になるであろう」と約束くださる(授記)。このように観想することが、「広くすべての仏のお姿を想い描く想」(偏観一切色身想)第九観と名付ける。またこのように観想することが正観、そうでないものは邪観だ」。

◎念仏三昧(ざんまい)について
三昧=梵語サマーディの音写。「定」「正受」と漢訳。心を一処に止めて散乱せず、安らかで靜寂な境地。本来、念仏三昧とは、その靜寂の心に阿弥陀仏のお姿や功徳を思い観る観仏で、般舟三昧のこと。それを善導様は「称名念仏」ともとられ、さらに親鸞様は、本願を信じて、一心に名号を称える他力念仏のこととされた。

最後は、要点のみ。また、授記は項目を改めて、、。

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聖典講座・真身観(3)「仏心とは大慈悲これなり」

(三)仏心とは大慈悲これなり

「このように無量寿仏を観じたものは、十方の一切の諸仏を観ることができる。諸仏を観るから念仏三昧と名づける。この観を行うと一切の仏身を観ずるのだが、仏の姿を観るものは、その姿の上に顕された仏の御心が見える。その仏心とは、大慈悲である。それは生きとし生きるものを分け隔てなく救おうという無縁の大慈悲である。この観が成就すれば、来世には必ず諸仏の御前で、無生法忍というすぐれた悟りの境地を獲得する。だから、智者は明かに無量寿仏を観想しなさい。」

このなかでも「大慈悲」「無縁の慈」のお心は有り難い。

慈=衆生を慈しんで楽を与える(与楽)。原語マイトリーは、ミトラ(友)から造られた名詞で、友情のこと。一切の人々に対する平等の友情のこと。
悲=衆生を憐れんで苦を除く(抜苦)。原語カルナは、痛みや悲しみ。もともと「呻き」。苦に直面したものに対して自分の痛みのように同感し、救おうという働き。

龍樹菩薩(大智度論)は、三縁=三種の慈悲を説かれた。。

 衆生縁=凡夫が起こす限定的な慈悲(小悲)
 法縁=小乗聖者が起こす慈悲(中悲)
 無縁=仏が起こす無差別の慈悲(大悲)。縁故に囚われない平等、無量の慈悲。

ところが、親鸞聖人は、凡夫が起こす限定的な慈悲すら微塵もないと言われた。

 「小悲小慈もなき身にて 有情利益はおもふまじ         
  如来の願船いまさずば 苦海をいかでかわたるべき」(悲歎述懐讃・617)

阿弥陀様の無縁の慈悲以外に救われていく手掛かりはないんである。

 伊藤康善師の「大悲の呼び声」(3頁より)には、

「どうして衆生を救おうか。なんとか救うてやりたいと、無縁の慈悲をむねとして」

と歌われた。南無阿弥陀仏

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聖典講座・真身観(2)「念仏衆生 摂取不捨」

(二)次に、無量寿仏の光明についてである。
「また八万四千のすぐれたお姿があり、その一々に八万四千の細やかな特色があり、その一つ一つにまた八万四千の光明がある。
その一々の光明が、十方世界をくまなく照らし、念仏の衆生を摂取不捨してくださる。その光明・相好・化仏の詳細は説き尽くせないので、心眼を開いて明かにすべしだ。」

ここで大切な御文が、

「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」
(光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず)

である。これは浄土門の教えでは、金言といっていい一文だ。「空で覚えてください」と皆さんに申した。

「摂」は、多くのものを取って離さない。「取」は、しっかりもって離さない。「捨」は、持っていたものを手放すことなので、「不捨」はその強調の否定である。要するに、念仏する衆生を大悲の光明に摂め取り、決して捨てられないのが阿弥陀様のお救いだという「摂取不捨」について述べられている。

▼それについて、善導大師は、「三縁」(阿弥陀仏が、念仏の衆生を摂取する三種の深い関わりのこと)ということを述べられた。
(1)親縁=衆生が、口で仏名を称え(称)、身で仏を礼拝し(礼)、意で仏を念ずる(念)時、これらを仏も、聞き、見て、知り、衆生と仏とは互いに憶念しあうという密接不離の関係にあること。「彼(阿弥陀仏)此(行者)三業、相ひ離れず」。
(2)近縁=衆生が、仏を見たいと願えば、目の前に現われる近い関係になること。
(3)増上縁=衆生が名号を称えれば多劫の罪を除き、命終の時、仏は聖衆と共に来迎し、罪業の繋縛に障妨されずに往生することができる。
 親鸞様は、すぐれたご因縁のことで、衆生の煩悩罪障に障り無く、自在に救う阿弥陀仏の無碍に働く本願力と見られている。

▼また、法然聖人は『選擇集』第七章に、「弥陀の光明余行のものを照らさず、ただ念仏の行者を摂取する文」で述べられる。『観経』や『四帖疏』などを引用し、最後に私釈段では、1、善導様の「三縁」と、2、弥陀の本願にかなっているからだ、という2つの理由あげておられる。(余談ながら、これにもとづく他の行者が救済がもれた絵画などが造られ、専修念仏の弾圧に拍車をかけることになる)。

▼また、源信僧都の御文も、親鸞様は『正信偈』や『高僧和讃』に転用されているのが有り難い。

「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)へて見たてまつらずといへども、 大悲、倦(ものう)きことなくして、常にわれを照らしたまふといへり」(『正信偈』)

▼その親鸞聖人は、

「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(『浄土和讃』)

と、その摂取に、「摂(おさ)とる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取 るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」(国宝本『和讃』)と左訓されている。

これはご文だけでなく、有名な庄松同行の摂取不捨の逸話でも味わった。

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聖典講座・真身観(1)~なんと大きな阿弥陀様だが…~

 定善十三観もいよいよ今回は、その中心である第九観の真身観である。顕(表)の立場からは本経の中心となる観法だ。善導様は、第八観から正報観(阿弥陀仏や聖衆方の観法)となると御覧になられた。しかし直ちに阿弥陀仏を真観するのは難しいので、その前段階として御仏の姿を写した仏像を観じる仮観(方便観)が説かれた。「黄金に輝く仏像が、極楽の七宝の蓮華の上に坐しましますのを、はっきり観想する」という像観が成就したら、いよいよ阿弥陀仏のお姿と光明を観察するのである。

(一)まず無量寿仏の身相(お姿)である。
「身は、黄金に輝き、身長は六十万億「那由他」(一千億)「恒河沙」(無量)「由旬」(七㎞)
 眉間の白毫は、右にゆるやかに旋り、大きさは五つの須弥山(=一世界)。
 仏眼は、大きさは四大海水のように広く、青白澄みきっている。
 毛穴からは光明を放ち、須弥山のように大きい。
 円光=頭の後ろの光輪(頭光)は、百億の三千大世界の大きさで、その中に百万億那由他恒河沙の化仏があり、無数の化菩薩が付き従う。」

◎とんでもない大きさである。天文学的数量というが、ある意味でいま理解されている宇宙規模を超えているといっもいい。しかしここで観想される阿弥陀様は、報身仏か、方便化身かという問題がおこる(仏身報化論)。確かに、人間の理解を遥かに超えた天文学的数量でも、数字で限定された有限で、方便化身だというのが、親鸞様のご理解だ。

「謹んで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の 仏これなり」(化身土巻)

 一方で善導様は、報身仏だと見られているのだ。
        「これ報にして化に非ず」(玄義分)

  これは、親鸞様が『観経』に隠顕(顕は自力方便、隠は他力信心)があり、まずは顕説(経典の当面での理解)の立場で見られたものである。化仏とは、仏が教化の対象になる衆生の能力に応じて、理解できる姿で変化されたものをいう。しかし、隠密(隠された真実の立場)では、この後に続く衆生を「摂取不捨」される光明のお働きを重視されて、報身仏(光明無量・寿命無量)であると味わっておられる。

また、次いで仏身についての経緯として、「色身」(生身)と「法身」という二身説から、私達になじみの「三身説」を窺ったが、詳細はここでは省略する。
 法身仏(無始無終)-無色無形・真如そのもの(浄土和讃55首)
 報身仏(有始無終)-阿弥陀如来の如し   (浄土和讃3首)
 応身仏(有始有終)-釈迦如来の如し  (浄土和讃87・88首)

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聖典講座~定善(4)像観・作仏是仏論

 次の作仏是仏論「この心作仏す、この心これ仏なり」(是心作仏・是心是仏)についても、聖道祖師方と、善導さまの立場大きく異なる。

 法界身を法身仏と理解する理仏観の立場の聖道の祖師方は、その衆生の心は法身の理仏をそなえたものであるから、「衆生の心そのままが仏となる」(是心作仏)であり、当然「その心の他に別に仏はない」(是心是仏)なのだと解釈された。
 また衆生の煩悩の心も、その本性は清浄な法身真如そのものであって、浄化さえすれば(懺悔し、滅罪し、観法の修行する)、本来の清浄な心に帰ると理解された。そこから、「唯心の弥陀」や「己心の浄土」(聖典・941頁参照・浄土真宗では捨てもの)などが語られることになる。

 それに対して、善導大師は、「唯識法身」や「自性清浄仏性」の観を批判されている。
 そして「観法によって衆生の心の中に仏が作られる」ことを「是心作仏」、「その仏と衆生の心とが一つになり、その心を離れた仏はなく、仏を離れた心もないという境地」が「是心是仏」と理解されていった。

 さらに、親鸞様は『論註』のこの箇所を信巻で引用されて、『観経』の当面の理解ではなく、「是心」を衆生の一心帰命の信心とみられて、他力回向の信心の本質は、仏心であると説かれた。また、如来回向の信心こそが仏道の正因となるので、「作仏」を仏に作(な)るの意に転じられていくことになる。(『信巻』253頁参照)

 以上を踏まえた上で、詳細な仏像の観法が説かれるさまを現代語訳で頂いていった。
 
最後に、この第八観で忘れられないのが、『仏敵』の伊藤先生の体験だ。3頁分をお配りして声に出していただいた。

「そのとき! 私は不思議なるのも凝視した。
 水流光明! そうだ、水流光明だ。『観無量寿経』の第八観にある「行者当聞・水流光明(行者まさに水流・光明およびもろもろの宝樹・鳧雁・鴛鴦のみな妙法を説くを聞くべし)」と言うのは、まさしくこれだ!」 (『仏敵』158)

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聖典講座~定善(4)像観・法界身論

   『観経』の講義も、正宗分(本論)の定善十三観に入っている。前回、第七華座観では、住立空中尊として阿弥陀如来が凡夫の韋提希の前に来現された。凡夫を憐憫した釈迦・弥陀二尊の連携プレーでの救済のお働きを窺った。

 今回は第八観・像観に入る。ここから正報観(阿弥陀仏や聖衆方についての観法)になると善導さまは頂かれた(聖道諸師は、華座観から正報観と観られた)。阿弥陀仏の仏身を見奉ていくのであるが、いきなり阿弥陀仏を真観するのは難しいので、まず仮(方便・前段階)に、御仏の姿をうつした仏像から観じる、仮観(方便観)が説かれていく段である。

 ところが、具体的な像観に入る前に、仏を念ずればその想念の中に仏が顕現するのは何故かという説法が置かれる。ここは、「法界身(ほっかいしん)論」、さらに「作仏是仏論」(この心作仏す、この心これ仏なり・是心作仏・是心是仏)という教学的にも重要な一段となる。

 従来の聖道の諸師方のご理解と、善導様とでは全く異なるご解釈になるのだ。さらに親鸞さまや浄土真宗では他力回向の立場を押し勧めてお示しくださっている。
 そこには、法界身の「法界」をどう捉えるのか。またそれは理観なのか、事観なのかという相違がある。ただ単なる解釈の相違というより、『観経』が誰のために説かれたか。そして私自身がどのような物柄なのか(根機)という、根本的な理解の相違から起こっているので、かなり難しい講義とはなったが、時間をかけて窺っていった。

▼〈書き下し文〉「つぎにまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏・如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。」

▼〈現代語訳〉「次に仏を想い描くがよい。なぜなら、仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり、どの人の心の中にも入れ満ちてくださっているからである。このために、そなたたちが仏を想い描くとき、その心がそのまま三十二相・八十随形好の仏のすがたであり、その心が仏となるということになり、そして、このこころがそのまま仏なのである。まことに智慧が海のように広く深い仏がたは、人々の心に従って現われてくださるのである。」 

 現代語だけ見ている限りはなにも疑問は起らないが、

(書き下し)「諸仏・如来はこれ法界身なり」
(現代語) 「仏はひろくすべての世界で人々を教え導かれる方であり」

「法界身」が「ひろくすべての世界で人々を教え導かれる方」と訳されているのが分かる。

▽つまり、聖道諸師方は、法界身を法性身、法身仏と観る。理法身で、真如(無分別智の悟りににる不生不生の真理そのもの)の異名と見られた。

▽それに対して、善導大師は、聖道諸師の誤りと指摘された。もし法界身が法身仏ならば、無相(色もなく形もない)離念(念いも断えた) の仏であって、凡夫に理観の観想などできない。第一日想観では浄土は西にありと指さし、その後の観法でも荘厳の相を詳しく説かれ、またここでも三十二相の姿をもった仏像の観法が説かれている。つまり、『観経』は韋提希のみならず、後の愚かな凡夫のために説かれたもので、「指方立相」をもって、浄土や阿弥陀仏を示してくださったものだというのである。

 法界身の「法界」とは「所化の境」、すなわち仏の教化の対称となる世界、つまり衆生の世界。
 「身」は「能化の身」、すなわち化益される主である仏である。つまり、衆生界を化益される仏身と頂かれたのである。それを以下の三義で説明される。

 心遍 =仏の大悲が衆生の心に遍満される。
 身遍 =衆生がその仏を観ずれば仏身も、衆生の心中に現われる。
 無障碍遍=仏は身心共に無碍の活動であり、衆生の心に身心ともに遍満される。
 
▽ちなみに親鸞様は、「諸仏」を、普通に諸仏方と取られると共に、阿弥陀仏の意と解釈されている箇所がある。但し、法界身についての特別なご教示はない。

▽それでも、存覚上人は、他力回向のおこころとしてとっておられる。

「無碍の仏智は行者の心にいり、行者の心は仏の光明におさめとられたてまつりて、行者のはからひちりばかりもあるべからず。これを『観経』には「諸仏如来はこれ法界身なり、一切衆生の心想のうちに入りたまふ」とはときたまへり。諸仏如来といふは弥陀如来なり、諸仏は弥陀の分身なるがゆへに、諸仏をば弥陀とこころうべしとおほせごとありき。」(『浄土見聞集』真聖全三・378)

(続く)

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四十八願のこころ(18)~第三十五願

「たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人ありて、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終りてののちに、また女像とならば、正覚を取らじ。」(第三十五願・女人成仏の願)

「もし私(法蔵菩薩)が、仏になるとき、無数の量り知れないほどの諸仏方の世界の女性が、私の名(南無阿弥陀仏)を聞いて喜び信じて(信心を獲て)、悟りを求める心を起して、女性の身であることを嫌ったものが、いのち終わった後に、再び女性になるようなら、私は決して仏とはなりません」

 皆さんは、この願を聞いて、率直にどう思われましたか? 

 第三十五願は、変成男子(へんじょうなんし)の願とか、女人往生の願とも言われます。
「女身を嫌う」「また女性に戻るようなら」など、今日の眼から見れば、明らかな女性差別の文章です。時代や社会を超え、一斉の生きとし生きるものを救いたいという弥陀の本願も、それが人間の言葉として説かれる時、社会的制約(古代インドの女性蔑視の思想)を受けざるおえなかったということでしょう。つまり「女性は絶対に仏に成れない」という根強い差別があったのです。

 しかしここでは、女性が仏に成ることを排除するのではなく、女性こそがお目当てだというお心、つまり十八願のお心を重ねて、女性に向けてお説きになったのだと、親鸞聖人は頂かれました。それを受けて、蓮如上人も盛んに女性が正客であるという『御文章』を書かれています。

 それでも、現代の私達は、たとえばLGBTの言葉に代表されるように、生れながらの性にとらわれず、各人が自由な性を選び、互いその違いを尊重して多様性のある豊かな社会を目指そうとしています。その眼から見れば、十分に配慮せねばならない点あります。差別を再生産する根拠にしてはいけないのです。

 異なる性を差別する迷いの根は深いものです。しかし、そもそも今生だけで、「男だ」「女だ」と威張っても、前世や来世で、同じ性であるわけがなく、結局、オスかメスかで迷いを繰り返しているのですから、最後は必ず我が身に返ってくるわけです。それが分からないのが迷いの恐ろしさでもあります。

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聖典講座~定善(3)華座観・立撮即行

 では何故、坐わったままではなく、立ち上がらずに居られなかったのか?
善導様のお言葉では、立即得生(りゅうそくとくしょう)と立撮即行(りっさつそくぎょう)の二つの意味を見ることができる。

 まず、「立即得生」とは、立ちどころに即ち生じることを得る。
「弥陀、空にましまして立したまふは、ただ心を回らし正念にしてわが国に生ぜんと願ずれば、立ちどころにすなはち生ずることを得ることを明かす」
つまり、「自力を心を翻して本願力を頼み、我が国に生まれたいと願うものは、立ちどこに、往生のうべき位につかせましょう」という、弥陀の本願を顕しているのである。

 そして、「立撮即行」とは、立ちながら撮(と)りて即ち行く。
なぜ立ち上がられたのかを問答を設け答えておられる。その問いは、「正覚の弥陀なちば軽々しい振る舞いなどせずとも、正覚の蓮台に端座されたままでも、人々を救うことが出来るのに、何故、立ちあがられたのか」。それに対して、
「これ如来(阿弥陀仏)、別に密意ましますことを明かす。ただおもんみれば、娑婆は苦界なり。雑悪同じく居して、八苦あひ焼く。ややもすれば違返を成じ、詐り親しみて笑みを含む。六賊つねに随ひて、三悪の火坑臨々として入りなんと欲す。もし足を挙げてもつて迷ひを救はずは、業繋の牢なにによりてか勉るることを得ん。この義のためのゆゑに、立ちながら撮りてすなはち行く(立撮即行)、端坐してもつて機に赴くに及ばざるなり」と。
 つまり、阿弥陀様には特別な思いがあった。娑婆はまさに苦の世界、悪が満ち満ちて、苦悩に苛まれる世界であって、いままさに三悪道の火の坑(あな)に落ちているのが、韋提希(=私)の姿である。いま、釈尊の要請に応じて現われた阿弥陀様は、じっと座ってはおられず、いま立ち上がり、凡夫の私の前に足を運び、今すぐ救いあげねば間に会わないという緊急の大悲のお心であるのだと。それが立ちあがり私をつまみとり、ただちに浄土に連れて帰ろうという立撮即行の姿なのだと。

 そのところを、伊藤先生は『大悲の呼び声』で次のようにうたっておられるのである。

「弥陀は正覚なりてより そなたの来たるをまちたれど
 一劫たてでもまだ見えず 二劫たてでもまだ見えず
 三劫たてでもまだ見えず 弥陀成仏のこの方は、
  いまに十劫をへたまえり
 お立ち迎えのみ姿を なんと思うてくれるぞや
 極楽浄土の荘厳を なんと思うてくれるぞや
 南無阿弥陀仏のお六字を なんと思うてくれるぞや
 来応大悲の弥陀仏が 蓮台上に立ちたるは
 炎うずまく三悪の 火坑にむかい臨々と
 入りなんとする衆生をば おどろき救うすがたなり」
                                               『大悲の呼び声』

 講義では、この後、「第七華座観の位置づけ」(正報観か、依報観か)
 また華座観についてが続くが、繁雑になるので、ここではもう略します。

 次回は、12月16日(日)昼1時30分より
 定善の第8観・像観に入ります。奮ってどうぞ。

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聖典講座~定善(3)華座観・苦悩を除く法

釈尊が、「よく聴けよ。苦悩を除く法ぞ」と仰った瞬間、それに呼応して阿弥陀仏そのものが立ち上がってくださった。韋提希夫人は、阿弥陀様にお出会して、苦悩を除く法を聞き開くことが出来たのである。

 これはお釈迦様と阿弥陀様の二尊が一致したお働きである。しかし、釈尊の在世ならばともかく、末法の衆生はどうして阿弥陀様にお出会いさせていただくのか。そのために、当面の表向きは(顕)は、この後、華座観の観法以下、定善が再び説かれていく。しかし、『観経』は最後の最後に大どんでん返しか待っているのである。その流通分までいたる結論を踏まえて見るならば、他力の念仏一つを説くためのお示しである。

 韋提希夫人が出会った阿弥陀様とは、本願成就の正覚の弥陀である。無量寿・無量光の仏体は、南無阿弥陀仏という弥陀の名号と離れることはないのだ。「苦悩を除く法」とは、釈尊亡き後の末世の我々にも、生きて働き続けている大悲の呼び声(本願招喚の勅命)であり、南無阿弥陀仏(名号法)の雄叫びに出会うことに他ならないのである。韋提希が阿弥陀仏に拝見して救われたように、私も名号のおいわれを聞き開いた信心一つで救われていくのだと、親鸞様は頂かれている。

「行者正受金剛心 慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍 即証法性之常楽」
(行者まさしく金剛心を受けて、慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲、すなわち法性の常楽を証せしむといえり)『正信偈』

         

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聖典講座~定善(3)華座観・阿弥陀様の来現

  『観経』は、韋提希夫人の要請に応じ、また末世の衆生のために、浄土往生の方法が段階的に説かれている。まず定善といって息慮凝心-精神統一をして、淨土や阿弥陀仏などを観想する十三の観法をうかがている。ここも大きく、第一観~第七観が依報観(浄土についての観法)と、第八観~第十三観が正報観(阿弥陀仏や聖衆方についての観法)に分けられていく。その中で、第七(阿弥陀様の座られる台座)を窺った。

 さて、依報観-極楽浄土(国土)についての観法には、仮観(この世界のものを手かがりにする方便観)である第一日想観、第二水想観と、さらにそこを手がかりに、真観(極楽浄土そのもの)である第三地想観、第四宝樹観、第五宝池観、第六宝楼観と続いていく。これはすべて愚痴の女、韋提希夫人の要請で説かれたのだ。それにしても、浄土の詳細な有りさまは、凡夫が観察するにはあまりには深遠広大で理解し難い世界だ。にも関わらず、身の程知らぬ(まさに無明)故に、釈尊に自ら要請して定善は説かれたものである。これは経典にないが、以上のお心から、ここまでの深遠な説法についていけず、号泣の疲労もあって、ついつい韋提希は居眠りし出したと、悟朗先生は教えてくださった。確かに、ぼくたちも第1観から6観を通して読んだけで、まったくついていけずに後半は居眠りする人も多かったのである。疲れてくるのだ。

 ここで、場面は急転換するのである。

 そんな様子をみられて、釈尊は、「諦聴、諦聴(あきららかに聴け、あきらかに聴け)」と告げられて、「私は、今、そなたのために苦悩を除く教え(除苦悩法)を説き示そう。そなたたちはそれをしっかり心にとどめ(憶持)、大衆のために説き明かすがよい」と、韋提希にこころこめて聞くように促されるのである。その声に呼応して、突然、阿弥陀仏が観音、勢至の二菩薩を伴って、空中に住立されるのである(住立空中尊)。それは光明(智慧-愚痴を破る)そのもので、詳細に観ることのできぬほどまばゆく輝ていたのである。 

◎二尊一致(二尊一教)のおこころ

  釈尊の声に応じて、阿弥陀仏が現われたことを、善導様は『定善義』に、

「弥陀、声に応じてすなはち現じ、往生を得ることを証したまふことを明かす」。

 釈尊の「苦悩の法を説くぞ」の声に応じて阿弥陀様が来現して、韋提希が必ず往生するとこを自ら証明されたのである。それは、釈迦、弥陀二尊が心をひとつにし、互いに呼応しながら苦悩を凡夫を救うことを示されたのである。すなわち、

「まさしく娑婆の化主(釈尊)は、物(衆生)のためのゆゑに想を西方に住めしめ、安楽の慈尊(阿弥陀仏)は、情を知る(その心を知る)がゆゑに、すなはち東域(娑婆)に影臨(ようりん・姿を顕す)したまふことを明かす。これすなはち二尊の許応異なることなし。ただ隠顕(釈尊が隠れ退き、弥陀が現われる)殊なることあるは、まさしく器朴(きぼく)の類(たぐん)万差なるによりて(衆生の根機がさまざまなので)、たがひに郢(えい)・匠(しょう※)たらしむることを致す」
※郢・匠=『荘子』に出る二人の左官と大工の伝説的名人のこと。衆生の機類も、力量もさまざまなので、釈迦、弥陀二尊の意(こころ)が一致し救うことを譬える。

 親鸞様のご和讃『高僧和讃・善導讃』なら、
・「釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し
  われらが無上の信心を  発起せしめたまひけり」
という二尊が一致したご苦労てである。

では、釈尊の説かれた「苦悩を除く法」とは、なんであろうか? (続く)

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