カテゴリー「聖典講座」の178件の記事

「山伏済度」(3)~修験道~

 さて、本段は、山臥(山伏)の廻心なので、「修験道」も話題にする。といっても、ぼくもほとんど知らないが、3年前に聖護院のご門跡の宮城泰年猊下と、トラベルサライさんの主催の「インドの夕べ」という集いでお話を窺うことがあった。宮城先生に興味をもって、何冊か修験道に関する本を読んだ。特に、宮城泰年、田中利則、内山節著の『修験道という生き方』(新潮選書)が面白かった。一言でいうと、日本人の身近な存在でありながら、何も知っていないということだ。そして、これまで加持祈祷というまやかしで民衆をたぶらかせてきた弁円さんのというイメージが払拭された感もあった。
 
 身体性のもつ猥雑さを嫌い、定着しない行動力は、権力の規制の外にあり、そして民間習俗ではあっても民衆との距離は近いことは、権力にとっては邪魔な存在で、何度も規制の枠にはめ込もうとし、近代には弾圧の対象になって禁止されている。民衆のために、民衆聖として、日々の生活に密着している。加持祈祷に加えて、薬草などのいわゆる漢方薬にも精通していて、民衆にとっては、遠く堅苦しい教えより、身近な頼りになる存在だということだ。
 
 修験道とは、山へ籠もり、厳しい修行を行って悟りを得ようとする日本古来の山岳信仰で、古来の土着信仰に仏教が融合した日本独特の宗教、道教の仙人思想も影響があり、修験宗ともいわれる。「修行して迷妄を払い験徳を得る修行してその徳を驗(あら)わす」(普段の会話でも、「霊験あらたか」などと身近だ)ことから「修験者」とか、山に伏して修行する姿から「山伏」(山臥)とも呼ぶれる。日本各地の霊山を修行の場とあた、厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践面も強い。修行の場は、日本古来の山岳信仰の中心の大峰山(奈良県)や白山(石川県)などの「霊山」。中でも熊野三山(和歌山県)への信仰は、平安時代中期から、天皇や貴族が競って参詣し隆盛を極める。(熊野信仰は、三所権現・五所王子・四所宮の祭神が重要。これを勧請した九十九王子が有名。『御伝鈔』下巻第五段の平太郎の熊野詣にも関連する)。他にも、豊前の彦山、伯耆の大山、伊予の石槌山、加賀の白山、駿河の富士山、信濃の戸隠山、上野の日光山、出羽の羽黒山、常陸の筑波山など。弁円さんの筑波山もその一つなのだ。また、神仏習合なので、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られ、表現形態として権現(神仏が仮の姿で現れた神)現われるが、もっとも有名なのが、役小角(役行者)が吉野山中で感得したという、蔵王権現(過去の釈迦仏、現在の千手観音、未来の弥勒弥勒を念じ、三体が融合した日本独自の仏)であろう。

 その修験道の歴史は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したといわれる。役小角は、『続日本史』に験力と流罪が記載。『日本霊異記』にも伝承。大和国葛城郡の出身で、葛城山で30年の苦行、摂津の箕面山で孔雀明王の呪力。吉野山中で、蔵王権現を感得する。終生を在家のまま通したので(民衆聖)、いまも在家主義が貫いている。

 修験道が盛んになるのは平安時代。その源は、仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の広まりと関連する。神社の境内には「神宮寺」が、寺院の境内に鎮守としての守護神の社が建てられ神仏習合が盛んになる。その中で、密教(天台宗・真言宗)での山中の修行と、日本古来の山岳信仰が結びつく形で、「修験道」という独自の信仰が成立する。

 鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立する。密教との関わりから、仏教の一派と見なされる。江戸時代には、修験道法度が定めれ、真言宗系の当山派(真言宗総本山醍醐寺塔頭の三宝院を本山)か、天台宗系の本山派(天台宗寺門派の園城寺末の聖護院を本山)に属することを義務づけられ、両派を競合させた。
 修験道への弾圧は、明治期に強化される。明治元年に神仏分離令、明治5年に修験禁止令が発令、修験道は禁止。里山伏(末派修験)は強制的に還俗。廃仏毀釈により、修験道の信仰も破壊された。薬事法で漢方薬などの禁止も痛手となる。その後、脈々と水面下で信仰されるが、本格的に復活するのは終戦後というから、その歩みをみるだけでも興味深い。
 
 といっても、真宗的にみても、現世の救いであったり、超えねぱならない面もあって、それも含めて味わうと弁円さんの廻心はまたくもって尊い。

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「山伏済度」(2)~山臥・明法房~

 さて、主役は、有名な山伏弁円である。山臥・明法房が、弁円と表わされるのは江戸時代の『正統伝』に、山伏の名が「弁円」と記載されて、このエソードが有名となるからだが、もともと『御伝鈔』にはその名はなく、聖人が命名された「明法房」と出ているだけだ。

「播磨公弁円」と名のり、筑波山地の修験道を束ねる存在であった。聖人と出会いは、聖人が49歳、弁円が32歳の頃か?(実際の往生の歳とは合致せず)。回心の後は、地域の門徒の中心的な弟子の一人だったことが、聖人のお手紙から窺える。二十四輩の19番目、上宮寺の開基。建長三(1251)年にご往生。68歳頃か?。兵庫県宍粟市山崎町にも墓があるのは、母方の出生地であるといわれる。

 廻心懺悔の後に詠まれたという歌には、深い味わいがある。

 「山も山、道も昔にかわらねど、かわりはてたる わが心かな」

 また、親鸞聖人の『御消息』(お手紙)には、重複した内容だが、明法房(弁円)の往生のことに関して、何度も言及されている。それをすべて出すと、。

一、「明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。鹿島・行方・奥郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ」(第二通・737)

*これは、建長四年(聖人80歳)の日付のお手紙で、その前年(つまり聖人79歳)に往生されている。大意は、
「明法房が往生されたこと、驚くべきことではないが、ほんとうにうれしいことだ。また鹿島・行方・奥郡(いずれも常陸国で、聖人の布教地が窺える)の往生を願う人にもうれしいことだ。」

二、「この明教房ののぼられて候ふこと、まことにありがたきこととおぼえ候ふ。明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。」(第三通・742)

*「その様子を、明教房というお弟子が上洛してきた時に、明法房のご往生のことを親しく聞くことができたが、ほんうにうれしいことだ。」

三、「なにごとよりも明法御房の往生の本意とげておはしまし候ふこそ、常陸国うちの、これにこころざしおはしますひとびとの御ために、めでたきことにて候へ。往生はともかくも凡夫のはからひにてすべきことにても候はず。(中略)
 明法房などの往生しておはしますも、もとは不可思議のひがごとをおもひなんどしたるこころをもひるがへしなんどしてこそ候ひしか。」(第四通・742)

*「明法房が往生の本意をとげられたことは、常陸国の往生を願っている人たちにとっても、よろこばしいことだ。往生は、凡夫のはからいでは超えられないのだ。(略)
 明法房が浄土往生されるのも、かってはとんでもない誤った考えをもっていたものを翻して回心されたからだ」。この後に造悪無碍について誡められる。

四、「明法御房の往生のことをききながら、あとをおろかにせんひとびとは、その同朋にあらず候ふべし。」(第五通・745)

*「明法房の往生のことを聞きながら、その意志を疎かにするような人達は、念仏の仲間(御同朋)ではない」。明法房の往生をもとにして、造悪無碍の人々を強く誡められている。

 つまりとんでもない間違った思いを持っていたものが、聖人と出会いによって、廻心懺悔して弥陀の本願に帰す身となられたことは、常陸国の人々にとっても大きな存在で、聖人も、当時の造悪無碍の間違った道を進む人々を戒め、正意安心の身に翻ってほしと、明法房の往生に即して切々と訴えておられるのである。南無阿弥陀仏

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『御伝鈔』第三段「山伏済度」(1)

 今月の『御伝鈔』は下巻 第三段「山伏済度」の段。下巻は七段に分かれるが、利他の徳、機の真実を顕すとみていいが、その中心、この段にある。親鸞聖人の対人的態度を窺う上でも、意味のある一段で、この視点は真宗カウンセリングの独特のものであって、この段の真意をさらに深まりをもって味わうことができた。

 まず「分科」で、この段を四段に分けて窺った。

 第一段は、「聖人 常陸国 ~ 信順の族はおほし」。
 「稲田での布教」の段で、親鸞聖人が稲田草庵を拠点に専修念仏(雑行雑修自力の行を捨てて、一心に本願を信じて専ら念仏すること)を弘められると、誹謗する人は少なく、信順する者が多かった。

 第二段は、「しかるに一人 ~ うかがひたてまつる」
 「害心の山伏」の段で、一人の山伏が、念仏が弘まることをよく思わず、聖人を害せようとした。

 第三段は、「聖人 板敷山 ~ 奇特のおもひあり」
 その山伏が「板敷山での待伏せ」の段で、聖人が往来される板敷山で何度も待ち伏せたが、いつも空振りに終わった。そこでいろいろ思いを巡らしていた。

 第四段は、「よって聖人に ~ これをつけたまえき」
 「山伏(明法房)の帰依」の段で、思いを巡らせた結果、直接、聖人に会うために武装して草庵を訪れたが、聖人の尊顔を触れた瞬間、その心を懺悔させられた。これまでの鬱憤を吐き出しても、聖人は驚かず受け止められた。その場で山伏を捨て、本願に帰依。聖人から明法房との名を賜り、後にめでたく往生の素懐を遂げらたのは、不思議なご因縁である。

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『御伝鈔』稲田興法(3)~追体験~

  さて、『御伝鈔』には触れておられないが、『恵信尼消息』などから越後より関東、常陸国稲田までの親鸞聖人の道程と、事跡を追ってみた。聖人が直接は語っておられないが、浄土真宗の上でもたいへん重要なことが含まれている。

 改めてその道程であるが、
◎越後(新潟・国府流罪の地)→信濃(長野)善光寺→上野(群馬)佐貫→武蔵(埼玉)→下野(栃木)→常陸(茨城)下妻から稲田

 建暦元(1211)年、聖人39歳の赦免後も、しばらく越後国に留まられている。法然聖人亡き京都ではなく関東に赴かれいる理由は、一つ前の文章で触れた。その道程を『恵信尼消息』で辿ってみると、興味深いものがある。建保2(1214)年、42歳にすでに関東に移住されているのだが、まず、流罪地の越後国府から南に向かい信濃国(長野県)へ。善光寺への参詣や善光寺聖との関連が強く推測されている。上野国(群馬県)の佐貫にいたって、ここで飢餓などの悲惨な現実を目の当たりに、三部経読誦の善巧功徳の行を行うもすぐに回心して止められた。それが後の「寛喜の懺悔」につながるのは、『恵信尼消息』に詳しい(これを詳しく読んだ)。そして、利根川を下って、常陸国の下妻(茨城県下妻市小島・小島の草庵)に逗留されている。これも『恵信尼消息』では、

「さて常陸の下妻と申し候ふところに、さかいの郷と申すところに候ひしとき、 夢をみて候ひしやうは…」

と示されるが、ここで、法然聖人が大勢至菩薩、親鸞様を観音様と御覧になる恵信尼様の夢告があるが、これもたいへん興味深いエピソードである。。

 そしてその後、笠間郡の稲田(茨城県笠間市稲田・筑波山麓)に草庵を結ばれ、この地を拠点におよそ20年に渡る布教活動で、上総(千葉県)や下野(栃木県)にまで足を延ばされて浄土真実の念仏が弘まったことが、『消息集』の地名からも分かる。その中心は、常陸国大郡と呼ばれる地域で、まだ未開の地で、浄土教も十分に広まっていない活動であったことが窺える。

 また、聖人が起点とされる「稲田の草庵」は、常陸国稲田の領主だった稲田九郎頼重の招きに応じて、この地に草庵を結んだのが始まりで、頼重は、聖人の帰洛後、草庵の跡地に寺を開創。現在の西念寺となったと伝承される。浄土真宗別格本山で稲田御坊とも称されるが、もう一つ大切なことは、ここで『顕浄土真実教行証文類』の草稿が顕されることである。その時をもって浄土真宗の立教開宗(元仁元・1224年)としている。

 今回、改めて、聖人の越後流罪後から関東への移住について窺ってみた。越後も、妙高高原も、さらには善光寺や関東のご旧跡は、これまで数回訪れている。さらに、子供のときに、家族で京都から越後、長野から関東、そして箱根や東海経て京都に戻る、父の運転での10泊11日の旅をしたのが甦ってきたが、800年後とはいえ、その地に立った体験をさせてもらっている。

 真実を顕かにした結果の越後への流罪、その地での恵信尼様との結婚と子供たちの誕生。そして「非僧非俗」としての「愚禿」の名告り。五年後赦免と、ほぼ同時に届いた、流罪の地での恩師法然聖人のご往生の知らせ。そして、群萌への伝道の決意の末、妻子を伴った「愚禿」としての伝道生活。その地で触れる地を這うような暮らしをする辺鄙な地に生きる人々との出会いがあった。

 その後、講座では、前回、積み残した「愚禿」の名告りについて窺ったが、「教信沙弥の定」という常のお言葉に乗っ取って、教信様の伝承を『往生拾因』の現代語訳を読み上げて頂いた。

 僣越ながら、聖人の「愚禿」名告りや、関東への歩みを、追体験(といへばおこがましいが)いただいているようで胸が熱くなっのが、不思議だった。この流罪から一連の歩みがなければ、泥凡夫の私が、泥凡夫のままで救われる浄土真宗の教えは、決して私のまで届いて来なかったのである。南無阿弥陀仏

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『御伝鈔』下巻第二段~何故、関東なのか?~

 一、第一は、法然聖人の教示に従われて、自信教人信のためであったことは明白である。

 これは、『御伝鈔』上巻三段との関連もあるが、そこでは、東方の「辺鄙の郡類を化する」ことが、救世観音菩薩(聖徳太子)の夢告されている。それが適ったのも、法然聖人共々に流罪となったおかげで、これも師教のご恩徳であると記される。

 二、流罪地の越後は雪深く、一年のう5ケ月近く雪に覆われて活動が制限されている。この点も何かがあったのではないか。

 三、お師匠様の法然聖人は、親鸞聖人が赦免されたと時期を同じくして京都に入洛を許されておられる。 年11月ことである。しかしその2ケ月後、そして翌年1月には、ご往生されている。その情報は案外早く届いていたようだ。

 四、しかも赦免されたとはいえ、京都やその周辺では、専修念仏の弾圧がまだ続いている。自由な教化活動も制限があったと思われる。

 五、いまは、京都に戻る選択はなかったとはいえ、なぜ、関東だっだのか。ひとりでの遊行ならともかく、小さな子供連れとあっては行き当たりばったりの旅は考えずらい。一説では、三善家(恵信尼公の実家)の親類・知己が、常陸周辺に多かったのではないかとせ推論されいる。

 六、そして有力な説の一つは、親鸞様と善光寺聖(勧進僧)との関連があったのではないかというものだ。これは、聖人の「安城の御影」(生前の肖像画)が念仏聖の姿だったり、また越後から関東への道程に長野の善光寺を立ち寄っておられる可能性もあり、善光寺讃の作製など、何らかの関連性も指摘されている。

 一、や二、との関連だが、次に法然聖人の遺言は有り難い。

 親鸞聖人編の『西方指南書』(真筆は国宝)中巻「法然上人没後二箇状事」を、新井俊一先生の訳からみると、

「一、葬家(喪に服す者)と追善の事
 自分の所に籠もって念仏を励む意志のある門徒や同朋たちは、私が亡くなった後に、決して一つの所に集まってはなりません。その理由は「ともに仲良く集まっているようであっても、人は集まれば必ず争いが起こる」という箴言(しんげん・戒めの言葉)は真実だからです。十分に言動を慎まなければなりません。(略)願わくば、わが門徒・同朋たちは、それぞれ閃かに自分の住居の草庵に留まって、心から新しく蓮台に生まれることを祈ってください。」と。

 この教え通り、京都にはお戻りにならず関東の地を選ばれたのであれば、辺鄙な地の群萌にもの、尊い念仏のみのりを弘通したおかげで、私達も大きな幸せを頂いているのであるから、本当にも勿体ない限りである。南無阿弥陀仏

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『御伝鈔』下巻第二段「稲田興法」(1)

  『御伝鈔』下巻第二段は、越後より関東の常陸国稲田に移られて、ご教化される段である。本文は短く大意がそのままであるが、「親鸞聖人は、越後より、関東は常陸国稲田(現在の茨城県笠間市稲田町)に移られる。その粗末な庵で、世俗を離れてひっそりと隠れ住んでおられたが、聖人を慕う貴賤・道俗が押しかけて、ご教化が行われた。まさに、仏法弘通の願いを果たし、また多くの衆生を利益するという宿念(昔からの願い)が達せられた。 親鸞聖人は、「昔(法然門下時代)、六角堂の救世観音から告命された夢と少しも違わない」(上巻第三段)と仰せになった。」
 というのである。

 『御伝鈔』には触れられない部分で、聖人の関東移住の理由などを、奥方の『恵信尼消息』などで補って窺った。覚如上人が26歳で『御伝鈔』を書かれた時には、まだ『恵信尼消息』を御覧になっておられない。

 源頼朝が鎌倉幕府を開いて約30年後。政治の中心が関東へ移りつつあっても、大半は辺鄙な農村地帯で、浄土教もまだまだ未開の地の関東に移住されたのはなぜか。伝絵では、お弟子方との旅の絵であるが、実際は、奥方の恵信尼公や子供たち(当時は三名(四名説もあり)、三番目の子、信蓮房はまだ3歳)と一緒の家族連れでの移住である。しかも平坦な道ではない、山越えき厳しい道を通って、なぜ関東を目指されたのだろうか。ひ残念ながら、ハッキリした証拠はなく、すべて推測でしかないが、次ぎのような諸説が語られている。(つづく)

 

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四十八願を味わう(26)~第47・48願~

◎「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち不退転に至ることを得ずは、正覚を取らじ。」
(第四十七願・聞名不退の願)

意訳「もし私、法蔵が仏になる時、他の国の菩薩たちが、わたしの名(南無阿弥陀仏)を聞いて、ただちに不退転の位、つまり仏となることが決まり、そこから退くことのない地位を得なければ、私(法蔵)は、決して仏にはなりません。」

◎「たとひわれ仏を得たらんに、他方国土の諸菩薩衆、わが名字を聞きて、すなはち第一、第二、第三法忍に至ることを得ず、もろもろの仏法において、すなはち不退転を得ることあたはずは、正覚を取らじ。」(第四十八願・得三法忍の願)

 意訳「もし私、法蔵が仏になる時、他の国の菩薩たちが、わたしの名(南無阿弥陀仏)を聞いて、第一法忍(音響忍=仏様の説法を聞いて、驚き恐れることなく信じ受け入れること)、第二法忍(柔順忍=素直に真理に随順し、さとること)、第三法忍(無生法忍=真理にかなう形・姿を超えた不生不滅の真実そのものを、ありのままにさとること)を得ることができず、さまざまな仏の法において不退転の位を得なければ、私(法蔵)は、決して仏にはなりません。」

 四十八願の最後の一段(四十願~四十八願)は、広く他の仏国土で自力修行する菩薩方に誓われた願です。
 その最後は、名を聞く一つで不退転の位、つまり仏となることが決定すれば、二度と退くことのない地位に定まるのだと誓われました。それを具体的に示すと、第一、第二、第三法忍を得ることだと言われます。すなわち、第一法忍とは音響忍(おんこうにん)で、仏様の説法を聞く、その音を聞き響きを味わい、恐れることなく信じ受け入れて、真に理解すること(解)。次の第二法忍とは柔順忍(にゅうじゅんにん)で、その理解した真実に素直に随順し(行)、さとること。第三法忍は無生法忍(むしょうぼうにん)で、真理にかなう形相を超えた不生不滅の真実そのものを、ありのままにさとる(証)ことです。 聞名ひとつで、この三忍に得、不退転の位に定まるのです。
 こうしてすべての他の仏国で自力修行中の菩薩方に対しても、「広大なご利益があるぞ。どうか、わが名(南無阿弥陀仏)を聞いておくれ」と願われて、四十八願が結ばれました。南無阿弥陀仏

 ある寺院の寺報に「四十八願」の解説をたのまれて8年がたった。年3度、1願ずつではなくて、2~3願まとまることもあったが、それでも8年が経過したのである。それも、今号で終了。終わるとなると名残り惜しいものだ。ありがとうございました。
 

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『御伝鈔』下巻 第一段「師資遷謫」

 下巻の第一段「師資遷謫」と、」後に段名がつけられる。
この「師資遷謫」(ししせんちゃく)とは、「師資」は師匠と弟子(親鸞様)のことで、師匠の法然聖人と、弟子の親鸞聖人のこである。「遷」は「左遷」と熟語されるように、「追いやる」「遠方に追放すること」だ。「謫」は呉音「ちゃく」と読み、「責める」こと。「謫居」と熟語すると「罪によって流され、そこにいること」である。師匠法然聖人と共に弟子親鸞聖人、師弟共に流罪に処されたという意味で、つまりは、承元の法難の顛末、専修「念仏停止」のことである。。

 それを次ぎの三段(覚如上人の文と『化身土巻』の引用部分を分けなら、小さく五段となる)に分けて頂いた。

一、「浄土宗興行 ~ あだをむすぶ」
 法難の興り、僧俗の昏迷(『化身土巻』の引用)
 
二、「これによりて ~ みなこれを略す」
  法難の顛末((化身土巻』の引用)と、師弟の罪状

三、「皇帝 諱守成 ~ 在国したまひけり」
  流刑赦免と教化の始まり

 その大意は以下のとおりである。
一、浄土宗の興隆による聖道門の衰退は、法然聖人のせいだと、奈良や比叡山の僧侶が憤って、朝廷にその罪を罰するように訴えた(承元の法難)。
 そのことを親鸞聖人は『化身土巻』後条で、「聖道門の教えは廃れ、浄土真宗の教えは悟りを開く道として、今盛んである。ところか、諸寺の僧侶や学者も、正しい教えとよこしまな教えの区別がつかない。それで興福寺の学者が朝廷に訴えて、承元元年に念仏停止が決まる。天皇や臣下も、法に背き道理に外れ、怒りと怨みの心での不実の行いなのだ。

二、それで、法然聖人をはじめ、門下の数人について、罪の内容を問うことなく、不当にも死罪に処し、あるいは僧侶の身分を奪い、俗名を与えられ、遠く離れた地に流罪に処した。私もその一人だ。だからもはや僧侶でも俗人でもない。そんなわけで、禿の字をもって自らの姓とする。流罪は五年間にも及んだ」と。
 法然聖人は藤井元彦で、土佐国幡多。親鸞聖人は藤井善信で、越後国国府に流罪となる。

三、順徳天皇の時、建暦元年に罪を許された。その時「禿」と名告られたことに、天皇は大変感激された。罪が許されても、教化のためにしばらく越後に留まられた。

 『化身土巻』後序の引用は、第五段「選択付属」に続いて2ケ所目であるが、法然聖人のご往生の様子を除いて、親鸞聖人の事跡の記述がすべて引用されていることになる。その『化身土巻』後序の記述は、法然聖人の遺徳の讃嘆で、流罪の記述は、真実の教えを伝えたものが、不当な無実の罪を背負わされたことへの抗議の意味があるのだ。

 一方、『御伝鈔』は、親鸞聖人の伝記で、聖人を讃仰するためのもので、また親鸞聖人こそが、法然聖人の正統な後継者であることが明示されていくので、同じ文でも、意図か異なってくる。

 それにしても、東国での教化も流罪となったことがきっかけで浄土真実のみのりは、民衆へと大きく広がることになる。もし聖人の流罪がなければ、今日の浄土真宗は存在していなっかただろう。『御伝鈔』では、親鸞様の言葉として、それもすべて法然聖人のご恩徳のおかげであると、上巻第三段「六角夢想」で東国での教化の夢告と共に述べられている。このことは、改めて下巻第二段(次回)に触れることにする。

 また、『御伝鈔』では触れられていない、法難の興り(専修念仏弾圧)の経過と理由として、『七箇条起請文』(七箇条制誡)や貞慶上人の『興福寺奏状』(専修念仏批判)の要旨などから窺った。政治的な面はとにかくも、それだけ法然聖人の専修念仏の教えが、日本の仏教界を変革される革新性をもったものであることは、明白である。詳しくは通信CDをお聞きください。
 
 また時間の都合で、「愚禿の称号と名告り」は、次回8月で触れることにする。

 

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『御伝鈔』上巻まとめ

『御伝鈔』も前回で上巻が終わり、今回から下巻にはいるので、簡単に上巻のまとめと、下巻の大要をお話した。

『御伝鈔』を大きく窺うと、

 上巻は、親鸞聖人の自利の徳を嘆じる
     覚如上人は、聖人の三十五歳までの行状を自利の徳と御覧になった。

 下巻は、親鸞聖人の利他の徳を讃ずる
     流罪以降の東国での伝道活動を化他の徳とみられている。      
 
 加えて、『御伝鈔』は親鸞聖人の伝記であって、親鸞聖人こそが法然聖人の真意を継承する者であり、その浄土真宗の正しい教義を顕す目的をもって書かれている。その場合、
 上巻は、法の真実を顕し、
 下巻は、機の真実を顕している。                     

 その観点からみると、上巻第一段「出家学道」と、第二段「吉水入室」は、聖人が聖道門を捨て浄土門に帰入し、第三段「六角夢想」に至って、観音菩薩(聖徳太子)と勢至菩薩(法然聖人)の引導によって真宗を興行されたこと。そして、第五段「選択付属」で法然聖人より『選択集』を付属され、そして法然門下における第六段「信行両座」と第七段「信心諍論」の二つの諍論を通して、親鸞聖人こそが法然聖人の真の後継者であり、信心為本、他力廻向の真宗教義の核心を宣揚されるのである。その中心となるのは、第六段「信行両座」であろう。
(第四段「蓮位夢想」・第八段「入西観察(定禅夢想)」は、帰洛後の晩年の聖人の行状で、共に内部、外部から聖人が弥陀の化身であることを示される)
 
 これから窺う下巻は、以下の七段に分かれるが、利他の徳、機の真実を顕すとすると、その中心は、第三段「山伏済度」で山伏弁円の救済ということになる。
(1)師資遷謫 (2)稲田興法 (3)山伏済度 (4)箱根霊告 (5)熊野霊告 (6)洛陽遷化 (7)廟堂創立
 最後の(7)だけは、親鸞聖人ご一生ではなく、ご往生後の大谷祖堂の建立について。本願寺こそが親鸞聖人の正統の後継者であることを示そうとされたものである。

 

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『御伝鈔』(9)第八段~善光寺との関連~

ところで、善光寺の阿弥陀如来について触れておいた。詳細は、『三帖和讃講讃』下巻・200頁を、御覧いただけばわかるので、今は簡単にのべる。

「牛に引かれて善光寺参り」で有名な善光寺(長野市)は、推古天皇十年(602年)創建と伝えられる。住職は、天台宗「大勧進」貫主と、浄土宗「大本願」の二寺で務められているが、この「勧進」「本願」の名からも、このお寺の性格が窺える。ご本尊は三国伝来の一光三尊(一つの舟型の光背に弥陀三尊の三立像)仏で、日本に伝来した最初の仏像といわれる。百済の聖明王から欽明天皇に献上されたが、排仏派の物部守屋によって、難波の堀江に廃棄(ほとけの名の由来の一つ)したものを、本田善光が発見し、背負って信濃の自宅に安置したのが善光寺の元(『善光寺讃』一部に)となっている。同時に、善光寺の聖は、生身の阿弥陀如来として仰がれ、東国の阿弥陀信仰の霊場としての崇拝されてきた。親鸞聖人、特にや一遍上人との関係がとても深い。
 親鸞様は善光寺の勧進聖だったという説もあるが、それは聖人の御影の持ち物からもわかるという。いずれにせよ、親鸞様が、仏教伝来に絡んで、善光寺の和讃を造られたり、越後から関東に移住される時にも立ち寄られたとか、当時から阿弥陀信仰の東国の中心地であったことから、何らかの関連性が推測されている。
 
 華光会の聞法旅行でも、親鸞聖人の旧跡として、善光寺に2度参詣しているが、境内には親鸞聖人の立派な立像が建っていた。

 最後に、親鸞聖人の主な御影は以下のとおり。テキスト25頁に写真付きで掲載されているので、ぜひご参照ください。

国宝「鏡御影」  専阿弥陀仏筆
(一説では、これがいまの「みぐしの御影」とも言われる。精密な尊顔のタッチは、日本の肖像画の中でも秀逸。一方で、明らかに身体の部分のタッチは異なる。それが『御伝鈔』の「みぐし」お顔の部分のみを写す)という記述と一致するのだが、仏絵師の名が異なっている)。
国宝「安城御影」 法眼朝円筆 親鸞聖人八十三歳
国宝「安城御影」(副本)蓮如上人の時代に模本。親鸞聖人二百回忌
重文「熊皮御影」 康楽寺浄賀筆(親鸞聖人伝絵の筆)追慕画

 

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