カテゴリー「聖典講座」の127件の記事

7月の聖典講座~深心(4)・まとめ

 以上の「深信釋」の顕すところは何かを、大原博士のご指南によって窺った。箇条書きにすると、

 一、決定堅固の信心であること。
 二、随順を相状する信心であること。
 三、正行を基礎とする信心であること。
 四、聖者の信心ではなく、罪悪の凡夫に相応する信心であること。
 五、要するに、これは他力回向の信心であること。

である。そこを抑えた上で、「二種深信」を各二九文字を詳細に窺っていった。いまは、文をあげるのに留める。

(機の深信・信機)
「一には、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。」

(法の深信・信法)
「二には、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は、衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、定めて往生を得と信ず。」

 伝統的には、機法二種一具と呼ばれるものである。浄土真宗の他力の回向信の信相を端的に顕した、最重要の御文の一つだある。詳しく頂いて、有り難かったです。

 詳しくは、通信CDでをお聞きください。10月は、回向発願心に入り二河譬をたっぷりと。

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7月の聖典講座~深心(3)・順彼仏願故

 また「就行立信」とは、行に就いて信を立つことである。
 それは、釈尊の説かれた行は、すべて悟りに向かう善行ではあるが、阿弥陀仏の浄土に向かう往生浄土の因行は、第十八願に誓われた称名念仏が、正しく往生の決定する行業(正定業)であると信じることをいう。

 そこには、「正行」と「雑行」の別がある。『観経』にも、「正行」と「雑行」の別がある。正行とは、純正で、正当な浄土往生の行。一方、雑行とは、この世界での悟りを完成するために説かれた修行で、いわゆる聖道門の行。諸善万行ともいわれるように雑多で、種類は多く、純粋な往生行に対しては、雑行である。たとえば、三福とは、世間(親孝行や年長者敬うなど)・出世間(戒律を保つなど)の一切の善行であり、聖道門では正当な行ではあろうが、本来の浄土往生の行ではない。それを根機に合せてお説きくださったので、雑行と見られた。それに対して、専らに浄土往生のための正行がある。それが五種正行である。

「五種正行」とは、
1読誦正行(専らに浄土三部経などの浄土経典の読誦)
2観察正行(専らに阿弥陀仏とその浄土を観想)
3礼拝正行(専らに阿弥陀仏を礼拝する)
4称名正行(専らに阿弥陀仏の名号を称える)
5讃嘆・供養正行(専らに阿弥陀仏を讃嘆し供養する)

 さらに、ここには、「正定業」と「助業」(正助二業)の別がある。
「正定業」とは、正しく往生が決定する行業のこと。五種正行のうち、本願に選び定められた正定業は、「称名念仏」である。その他の「読誦」「観察」「礼拝」「讃嘆供養」の四正行は、あくまでも念仏生活を荘厳し、自行・化他のための宗教儀礼の実践行を顕している。つまり、助業の「助」には、随伴や輔佐の意味があるが、あくまでも、称名念仏を相続していく上で、自然と付き従う宗教的な行いといえるのである。それで「助業」と呼ばれ、その位置から「前三後一」ともいいならわされている。つまり、
 読誦正行-助業
 観察正行-助業 
 礼拝正行-助業   (前三)
 称名正行 正定業
 讃嘆・供養正行-助業(後一)
                         
 ところで、ここには、法然聖人が、比叡山黒谷の報恩蔵にて「一切経」五度読破した時に、自らの後生の夜明けをされた最重要の御文がある。

「一心専念弥陀名号、行住座臥、不問時節久近、念念不捨者、是名正定之業 順彼仏願故」                
「一心にもっばら弥陀の名号を念じて、行住座臥に時節の久近を問はず、念念に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。」

 結局、称名念仏だけが本願の行なのである。この御文のなかでも、「彼の仏願に順ずる」。すなわち「本願に順ずる」、つまりその行が、本願にかなうのかどうか。この「本願」に順ずる一点こそが、法然様を貫き、さらに親鸞様へと受け継がれていく要だ。どんなに素晴らしく見えても、本願に順じないもの、かなわないものは、すべて捨てものなのである。

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7月の聖典講座~深心(2)・四重の破人

 ところで、深信釋の最後、第七の「立信方法」には、有名な「就人立信」「就行立信」が説かれている。

 「就人立信」とは、人に就いて信を立てることだが、ここで「人」と言っても、満足大悲の覚者であられる釈尊(諸仏)のことであって、その仏語は、実語で嘘偽りがないと信じ、信を立てることである。そしてその深心は、いかなる謗難や誘惑に対しても、退失傾動したりせず、難を退治するという、四重の破人の譬えへが述べられる。
 1別解・別行・異学・異見・異執の行者
  つまり、意見の異なる凡夫
 2初地以前の菩薩・羅漢(声聞)・辟支仏(縁覚)等
 3初地已上、十地已来の菩薩
 4化仏・報仏
の四種類の論難批判者にから、念仏往生の道を非難されようとも、決して動揺退失することのない信を確立(当面の理解)していくのである。

 そこで思い出されるが、親鸞様が、ご子息善鸞様の異義に動揺する関東の門弟に向けたお手紙の一文である。これは、「義絶状」と同日のものだ。

「往生の信心と申すことは、一念も疑ふことの候はぬをこそ、往生一定とはおもひて候へ。
 光明寺の和尚(善導)の信のようを教えさせたまひ候ふには、『まことに信を定められてのちには、弥陀のごとくの仏、釈迦のごとくの仏、空にみちみちて、釈迦の教え、弥陀の本願はひがごとなりと仰せられるとも、一念も疑いあるべからず』とこそ、うけたままはりて候へば…。」

 では、わが身に引きよせて、信心が動じない、金剛堅固とはたどういうことか。次号の巻頭言のテーマなので、そちらをご参照いただき、各自が問うてほしい。

 

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7月の聖典講座~深心(1)

 前回から、『観経』三心に入った。
 釈尊は、散善九品を説く冒頭で、三種の心(至誠心・深心・回向発願心)をあげて、この三種の心を発こせば往生できる説かれた。行や善をなすにしても、どのような心持ちで行うのかを、三心という形で述べらているのである。
 しかし、この三種の心がいかなるものかは、『観経』では一切触れておられない。その三心を詳細にご教示くださったのが、善導様である。簡単に述べておくと、
 一、至誠心(「至」は最高、真。「誠」は、嘘、ごまかしのない心)、つまり真実心
 二、深 心(深く信じる心。深いとは浅薄ではなく、決定的である)つまり決定心
 三、回向発願心(「回向」の「回」とはめぐらすこと、「向」はさし向けること。
 自らの善根を振り向けること。「発願」とは、浄土往生を願う心を起こすこと。
 当面の意味=自らの成した善をふりむけて、浄土への往生したいと願うこと。
 他力のお心=阿弥陀様より回向(ふりむけてくださった)された功徳を頂き、必ず浄土往生できることを喜ぶ心、
ということなる。
 その中で、今回は「深心」についてである。主に、深心釋に沿いながら、その概観をいただいた。

 善導様は、「『深心』といふは、すなはちこれ深く信ずる心なり」(『散善義』)
「『深心』、すなはちこれ真実の信心なり」 (『往生礼讃』)
と示されているとおり、単なる浅い、深いではなく、本願を信じる信心のことを指している。

 さて『散善義』の「深心釋」の概要を、『浄土宗辞典』引用しながら、一部加筆して窺っていった。かなり煩雑になるで、ここでは略するので、関心のある方は、通信CDをお聞きください。

 だいたい以上を要約すると下記のように図式(ここでは並列にしかかけない)されると思われる。これは、父の恩師でもあって大原性実先生の、『善導教学の研究』を参照にした。

 第一=信機
 第二=信法 弥陀本願(『無量寿経』説示)
 第三=   釈迦勧説(『観無量寿経』説示)
 第四=   諸仏證勧(『阿弥陀経』説示)
            二~四「信法の相」   
 第五=   仏教仏意仏願           
 第六=   観経教旨 五~六「随順信相」             
 第七=        七  「立信方法」

 もちろん、これだけ見ても分かるものではない。「深心釋」を七深信として詳しくお説きくださったのは、親鸞様である。

 つまり、親鸞様は、深心釋を「七深信」「六決定」と示してくださった。七深信といっても、あくまでも一者「機の深信」と、二者「法の深信」の二種深信である。以下は、「法の深信」をさらに五つに分解・詳説されたと見られた。ただし、『観経』に穩彰顕密(十九願と十八願)があるように、ここでも真仮が交錯すると捉えられている。聖人、独自の発揮である。ただし、今は、煩雑になるので詳細には触れない。『二巻鈔』(『愚禿鈔』)の文をあげるに留めておく。

「「文の意を案ずるに、深信について七深信あり、六決定あり。七深信とは、
 第一の深信は「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
 第二の深信は「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
 第三には「決定して『観経』を深信す」と。
 第四には「決定して『弥陀経』を深信す」と。
 第五には「唯仏語を信じ決定して行による」と。
 第六には「この『経』(観経)によりて深信す」と。     
 第七には「また深心の深信は決定して自心を建立せよ」となり。」

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四十八願のこころ(20)第38願~第39願

「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、衣服を得んと欲はば、念に随ひてすなはち至らん。仏の所讃の応法の妙服のごとく、自然に身にあらん。もし裁縫・擣染・浣濯することあらば、正覚を取らじ。」(第三十八願・衣服随念(えぶくずいねん)の願)

 意訳「もし私、法蔵が仏になる時、わが国(極楽浄土)の天や人々が、衣服をほしいと願えば思いどおりになり、それは仏様の讃えるところのすばらしい衣服が自然と身につくことでしょう。また、裁縫や染め直し、洗濯などをする必要があるようなら、私は決して仏にはなりません。」

「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、受けんところの快楽、漏尽比丘のごとくならずは、正覚を取らじ。」
 (第三十九願・常受快楽(じょうじゅけらく)の願)

 意訳「もし私、法蔵が仏になる時、わが国(極楽浄土)の天や人々の受ける楽しみが極まりなく、すべての煩悩を断ち切った羅漢(漏尽比丘)と同じでないようなら、私は決して仏にはなりません。」

 この二願は、第二十七願(万物荘厳)の願いを広げて、浄土に生まれたものが頂くご利益を、きめ細やかに誓われた願いです。

 第三十八願は衣服随念の願。「衣食住」のうち、衣服の心配をなくそうという、生活の悩みに対する身近で細やかな願いです。衣服は、単に寒さや熱を防ぐだけでなく、身を飾るもの。見栄(みば)えがよいとは、見栄(みえ)ですね。衣服は、私の執着の結晶ですが、それを仏様が褒めてくださるというのです。しかも裁縫や洗濯の心配もない。煩わしい家事から解放されるわけです。では、その余った時間で何をするのか。聴聞(自利)を楽しみ、人々の救済(利他)に勤しむのです。

 第三十九願は常受快楽の願です。お浄土は極楽とも言われ、楽が極まった世界。その楽とは、「漏尽」=すべての煩悩を断ち切った状態です。だから、私が求める煩悩一杯の快楽(かいらく)とは、真反対の世界です。『讃仏偈』にも「快楽安穏」とありますが、快楽(けらく)とは、煩悩の炎が消え去れ、穏やかで安らかな、楽の境地なのてす。やはり、聴聞(自利)や衆生済度(利他)を楽しむわけですね。

 お浄土では、ご法につながらないものは、何一つもないのです。

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7月の聖典講座~至誠心(2)

  では、至誠心とは何か。

 善導様は、至誠心とは、真実心のことであり、浄土の行の実践は、衆生の身での行い、口での言葉、心に思うこと、三業のすべてが、お浄土に相応しい真実心でなさねばならない。しかそれは、外面だけが「賢善精進」を装っていても、もし内心に嘘や偽りを懐いていてはいけない。外面の修行ではなく、その内面も真実であり、外と内が一致しているのである。もし、外面は頑張って修行していても、その内に愛欲や憎悪の心、よこしま、偽りの心が満ち満ちた心で、いくら行じても、すべて「雑毒の善」(毒の交じった)「虚仮の行」(中身のない虚ろで仮もの)である。たとえ頭に付いた火を払うほど必死で、終日、命懸けでなしたとしても、毒の交じった善をどれだけ振り向けても、決して、お浄土(真実報土)に生まれることはできないのである。
 なぜなら、お浄土とは、愛欲や憎悪といって煩悩が消滅した、清らかな涅槃界である。そのお浄土を建立される時の法蔵菩薩が行を行われ時、身も、口も、心も、一刹那も、真実心がかけたことがなかった。そんな世界に生まれるのだから、法蔵菩薩のなされたような真実心で、自利・利他の実践をなしなさいと。

 しかし、実際、真実に近づけば近づくほど、真実に背く自己が露わになってくる。そこを開きなおるのではなく、ひたすら懺悔(仏や修行僧の前で、罪を告白し、悔い改める誓い)するしかない。善導様自身も、毎日、自身に厳しい懺悔を繰り返されたという。それが三品の懺悔(『往生礼讃』)と示されている。
上品懺悔-(1)全身の毛孔から血の汗を流し、
              (2)眼より血涙を流し、懺悔する。
中品懺悔-(1)全身の毛孔から熱き汗を流し、
                (2)眼より血涙を流し、懺悔する。
下品懺悔-(1)全身が熱くなり、      
              (2)眼より涙を流して、懺悔する。
ちなみに、親鸞様は、
「真心徹到するひとは  金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと ひとしと宗祖はのたまへり」(高僧和讃)
と和讃されている。

 結局、真実に近づくほどに、凡夫に真実心は起こせず、煩悩具足の自覚が深まることになる。そのことが、次の「深心」-二種深信の「機の深信」と「法の深信」や、「回向発願心」に説かれる「二河譬」で絶え間なく渦巻く「火の河」「水の河」の譬えと、その間に生まれる白道にもつながっていくのだろう。

 その善導様のお心を受けて、自力で起こす真実心ではなく、他力で賜わる真実心とみられたのが親鸞聖人の立場である。
 親鸞様は、『観経』には「隠顕」-経文の表面どおり解釈(自力の立場)する「顕説」と、その裏に隠された内面のお心(他力の心)を頂く「隠彰」の立場であると頂かれたが、この三心にも隠顕」(自力の立場と他力の立場)があり、「隠彰」(内面に隠されたの他力のお心)から、善導様の真意を明かにするために、そのお言葉を、漢文を読みかえてまで、大胆に他力回向の立場を明かにしてくださったを、善導様の「散善義」と、親鸞様「信巻」を通じて窺った。
 一例だけをあげて結びとする。

、「不得外現賢善精進之相、内懐虚仮」
 善導様は、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ」
 (外面も真実、内面も真実であれ)

 親鸞様は、「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり」
 (内面が虚仮なのだがら、外面も偽善者ぶるな)
               
、「凡所施為趣求亦皆真実」
 善導様「おおよそ施為、趣求するところ、またみな真実なり」
 (施為=施すこと、利他)(趣求=浄土を求め趣く、自利)
 (法蔵菩薩のように自利・利他の真実の修行をなせという意)

 親鸞様「おおよそ施したまうところに趣求をなす、またみな真実あり」
 (如来より施したまう真実(南無阿弥陀仏)を賜わり、浄土に趣き向かうことが、真実心であるの意)

 私には、至誠心のかけられもなく、虚仮不実であることを信知させられて、自力の心を捨てて、如来より賜わる真実そのもの、すなわち南無阿弥陀仏をたのむことこそが、他力の至誠心なのだ、真意を明かにしてくださったのである。                                     

 8月は夏休みです。
 次回は9月1日(日)です。「深心」に入ります。二種深信、四重の破人など、安心上の最も重要な箇所であります。お楽しみに! 

 

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7月の聖典講座~至誠心(1)

「講座仏教カウンセリング求めて」のWSの翌日は、聖典講座である。
 『観経』も「定善十三観」(息慮凝心-精神統一をし、淨土や阿弥陀仏などを観想する十三の観法)が終わり、前回は、「散善三観」(三福九品・精神統一が出来ない者への廃悪修善(悪を廃し善を修める)の行)を概観した。今回から、その詳細の内容に入っていく。まず上輩段である。ところが、この最初の「上品上生」の冒頭に三心(至誠心、深心、回向発願心)が説かれている。サラッと説明すれば、すぐに終わる。詳しいと全体を見失う可能性もある。迷ったが、ここは真宗安心の最要点の一つなので、避けて通るわけにもいかない。ただし呑みすぎた頭では無理だったので、講座の当日5時半起きをして、レジュメを作った。結局、3回で、三心(至誠心、深心、回向発願心)を取り上げることにした。今月は「至誠心」である。

 一応、冒頭の部分を書き下し文で示しておこう。

「上品上生といふは、もし衆生ありて、かの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらかを三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。」

 お釈迦様は、散善九品を説く冒頭で、三種の心を示された。
 一、至誠心(「至」は最高、真。「誠」は、嘘、ごまかしのない心。真実心のこと)
 二、深 心(深く信じる心。深いとは、浅薄ではなく、決定的である決定心のこと)
 三、回向発願心(「回向」の「回」とはめぐらすこと、「向」はさし向けること。 自らの善根をふりむけること。「発願」とは、浄土往生を願う心を起こすことである。当面の意味では、自らの成した善をふりむけて、浄土への往生したいと願うことになる。それを他力のお心でいただくと、阿弥陀様より回向(ふりむけてくださった)された功徳を頂き、必ず、浄土往生できることを喜ぶ心となる。)
の三種の心を発こせば、往生できると述べらたのだ。
 
 行や善をなすにしても、どのような心持ち、どんな心を起こして行うのかを、三心という形で述べられたのだが、肝心の『観経』には、三心が示されるだけで、それがいかなるものかは、まったく説明がないのだ。それを詳細にご教示くださったのも、善導大師である。ここでも「善導独明仏正意」(善導様お独りだけが、仏様の正しいお心を明かにしてくださった)なのである。
 
 例えば、聖道の祖師が、これは上品上生に説かれるので、最も上位の善人だけが、自分の心を修練して往生できるものだと解釈(修心往生)されたのに対して、善導様は、上々品にのみ説かれているが、以下のところでは省略されているのであって、九品すべてに通じ、また定善にも通じ、さらに本願念仏にも通じるのだとされた。
 三福散善-「三福行」を往生行とする自力の三心
 定善観法-「観念行」を往生行とする自力の三心
 本願念仏-「本願念仏」を往生行とする他力の三心
しかも、この三心が往生の正因(三心正因)だと頂かれちる。

  さて、至誠心の入る前に、本文にある「即便往生」についてである。ここは、親鸞様の御心が深い。
 親鸞様は、善導様のお心持ちをさらに深く受け、『観経』には「隠顕」があると頂かれている。経文の表面どおり解釈(自力の立場)する「顕説」と、その裏に隠された内面のお心(他力の心)を頂く「隠彰」の立場である。この三心にも、自力と他力の立場があるのであるが、当然、その果報にも自力と他力の別あると頂かれたのである。すなわら、「即便往生」の即便とは、本来は二文字で「すなわち」と読むのだが、親鸞様は「即往生」を他力、「便往生」を自力、との二つに分けて解釈されているのだ。『愚禿鈔』のご指南によると以下の通りだ。

 即往生-他力の三心による真実報土への往生。第十八願の「即得往生」(本願成就文)
 便往生-自力の三心による方便化土への往生。第十九願の「方便往生」(第十九願成就文「便於七宝華中」とある)(続く)

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6月の聖典講座~『観経』散善(概説(3))

(4)最後に散善三観の概観である。
 上品の三機は、   大乗の行である「行福」を修する善凡夫
 中上・中中の二品は、小乗の行である「戒福」を守る善凡夫 
 中品下生は、 世間倫理的な善である「世福」を行う善凡夫
  (以上は、善人の往生相)
 下品の三機は、平生から善を成さない(三福無分)の悪人
 (下品は、悪人の往生相)

 特に、下品の三機は、平生は悪しかなさないが、それでも臨終に念仏を行い、浄土往生するので、一応、散善の機とみていいのである。その当面では、廃悪修善の念仏行で、自力念仏である。しかし、本願力回向の行である他力の念仏は、自力の散善ではなく、定散二善を超えた本願他力の行であると、特に親鸞様は深く頂かれている。

 散善三観(三福九品)

     1上品上生-行福-大乗上善の善凡夫
 上輩観  2上品中生-行福-大乗次善の善凡夫
      3上品下生-行福-大乗下善の善凡夫
     1中品上生-戒福-小乗上善の善凡夫
 中輩観  2中品中生-戒福-小乗下善の善凡夫
      3中品下生-世福-世善上福の善凡夫
      1下品上生-   十悪軽罪の悪凡夫
 下輩観  2下品中生-   破戒次罪の悪凡夫
     3下品下生-   五逆重罪の悪凡夫
  
(5)ところで、序分と正宗分では、順序の違いがある。
 序分の説き方では、
「散善」[世善(世間的善)→戒福(小乗の善)→行福(大乗の善)]→「定善」の順序であるが、
 正宗分での説き方では、
「定善十三観」→「散善」[「上輩観」(行福)→「中輩観」(戒福→世善)→ 「下輩」(三福無分)]→「他力念仏」へ の順序となる。つまり上位(難行)の行から下位の行へとなっている点に、注目した。
 
 以上、今回は散善全体を概観して窺った。
 7月からは詳細に読んでいくので、奮ってご参加ください。

 ★行事 聖典講座「観無量寿経」
 ★日時 7月7日(日)昼1時30分~5時

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6月の聖典講座~『観経』散善(概説(2))

(2)では、三福九品とは何か。
 まず、三福とは、福をもたらす三種の善行(世福・戒福・行福)、いわば善行の総称である。
 すでに、序分の「散善顕行縁」(164頁)で、三福を十一行で示されている。

一、世福=世間倫理的な善
(1)孝養父母
(2)奉事師長
(3)慈心不殺(四無量-慈・悲・喜・捨の一番目)
(4)修十善行(一、不殺生、二、不偸盗、三、不邪淫、四、不妄語、五、不両舌 六、不悪口、七、不綺語、八、不貪欲、九、不愼恚、十、不邪見)

二、戒福=戒律を護ること。小乗の善
(1)受持三帰(仏・法・僧の三宝)
(2)具足衆戒(衆戒-もろもろの戒・五戒、八戒、十戒、具足戒
(3)不犯威儀(威儀=規律にかなった立ち居振る舞い)

三、行福=自利利他行の大乗の善
(1)発菩提心
(2)深信因果
(3)読誦大乗
(4)勧進行者(利他行)

  九品(くぼん)とは、三福行を実践し浄土往生する人々を、九種類に分類して、詳しく述べている。品は、「ひん」ではなく「ぼん」と読む。人に等級や格差をつけて区分すること。浄土往生する人々を、上品・中品・下品を三分類し、それぞれにまた上生・中生・下生に三つに分けて、合計九種類の等級分けをされたものである。

(3)では、『大経』三輩段との関係とどうか。
『大経』下巻(72~75頁)には、浄土願生の人を、上輩・中輩・下輩に三分類されている。輩とは、「ともがら」「やから」で仲間のこと。
 法然様は、三輩と九品は開合の異(詳しく説くのと、合せて説くのの違い)であるといわれた。つまり、開ければ九品、合せれば三輩となる見られている。
「『観経』の九品と『寿経』の三輩と、本これ開合の異なり」(『選択集』・七祖篇1220)(続く)

 

 

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6月の聖典講座~『観経』散善(概説(1))

(大意)
 『観無量寿経』も、前回で「定善十三観」が終わって、今回から「散善三観」(三福九品)に入る。
 定善が、息慮凝心(精神統一し淨土や阿弥陀仏などを観想する)で、十三通りの順序立てられた観法だったのに対して、散善は、精神統一が出来ない者への廃悪修善(悪を廃し善を修める)の行が説かれる。これは『大経』の三輩(上・中・下)段に対応し、さらにそれぞれを「上生・中生・下生」に分け、合計九品に分類される。すでに序分(発起序)の「散善顕行縁」で、三福(世・戒・行)として散善の行が明らかにされているので、三福九品ともいわれる一段である。特に、最後の下品では、悪人のために念仏行が説かれていく。
  
(1)この散善では、聖道諸師と善導大師の分類に相違があるのが特徴だ。
 善導様は、正宗分を、定善十三観と散善三観(三福九品)に二分類されるが、それまでの聖道の諸師方は、分類をせずに十六種類の観法として捉えられた。それは『観経』に、「これを上輩生想と名づけて、第十四の観と名づく」「これを中輩生想と名づけて、第十五の観と名づく」「これを下輩生想と名づけて、第十六の観と名づく」と、十六の観法として説かれているからだ。それで、第十二観(普観)が、自身の往生を思い浮かべる「自往生観」であるのに対して、この九品段(第十四~十六観)を、他の衆生が往生する九種類の姿を浮かべる「他往生観」(聖者から悪人まで)だと見られていた。

 それに対して、善導様は、定善十三観までは韋提希夫人の要請に応えた説法だったが、それは、息慮凝心(精神統一をし、淨土や阿弥陀仏などを観想する)の難行で、すぐれた能力の者以外には困難である。精神統一できない心が散り乱れた凡夫のために、釋尊自らが説き開いてくだったものが散善であると、御覧になられた。すでに序分で「定善示観縁」の前に「散善顕行縁」を説かれ、廃悪修善(悪を廃し善を修める)の善行を、三福(世福・戒福・行福)として示された。そのありさまを開き、詳細に知らせるために、散善とし九種類(九品)に分類されたとのだと、善導様がご指南くださった。(続く)

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