カテゴリー「映画(アジア・日本)」の143件の記事

『カメラを止めるな!』は面白い

映画『カメラを止めるな!』を観た。

https://kametome.net/index.html

300万円の低予算のインディーズ映画が、異例の大ヒットで、今年の映画界の最大の社会現象になっている。

もう各種メディアで盛んに紹介されているので、ストーリーはいいだろ。

とにかく面白い! 大声で笑ってしまった。

ゾンビ映画の撮影シーンが、37分のノーカットで描かれている。手持ちカメラで振れたりする。妙な間や音が入ってくる。おかしなカメラワークに、妙な設定や動きがある。出来の悪い学生映画のようだが、後半、逆に、これが伏線となって、ドンドン氷解していくのだ。前半に違和感を感じれば感じるほど、後半が大爆笑という構図に、完璧にやられた。ただ面白いだけでなく、映画作りの困難さや映画愛に溢れている一本。

すべてタネ明かしが分かったとして、もう一度みたたらどうなるのだろうかな? 

ところで、京都新聞の紹介記事では、この監督(ほんとうの)が、高校生の時に手作りの筏で琵琶湖横断を試みて、行方不明になった時の実際の記事が掲載されていた。当日は、迷惑な無謀な話でしかないのに、これがこの映画「不可能とと言われれば燃える」の原点みたいな、、。掌を返しもいいところ。

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『三里塚のイカロス』~VS国家権力な映画(3)

VS国家権力な映画の3本目は『三里塚のイカロス』だ。

http://www.moviola.jp/sanrizuka_icarus/

(1), (2)の映画は、裁判闘争という形で、法治国家の枠組みの中での正統な戦いであったのに対して、本作は、違法な武力闘争である。多くの若者が闘った。その純粋さ、エネルギーは凄まじいものがある。ぼくにとっても、管制塔占拠事件のテレビ映像は、強烈なニュースの一つで、いま記憶になる。

 しかし、その過程で、負傷し、一生涯、重度の障害を負ったものもあれば、死亡した者も多数いる。 その後、路線の違いから内ゲバも起こる。闘う相手は機動隊や警察官という暗黙のルールから、公団職員やキーマンとなる人を卑劣に狙う過激な暴力闘争が無差別に繰り広げていく、その過程も描かれている。

「歳月の残酷さ」ということを、いちばん強く感じた。

 たとえば、40数年前、反対派農民を支援するために、全国から学生たちが大挙押し寄せてくる。そしてその中で、地元の農民と、学生結婚した活動家の女性もかなりおられる。ういういしい20歳そこそこのかわいい姿が、還暦を過ぎた農家のおばちゃんになっている。見た目だけではない。家族(家族)はもちろん、畑や広い家を所持して、守るべきものが代わってきているのだ。

 40余年の歳月は、実に残酷である。

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『ニッポン国VS泉南石綿村』 ~VS国家権力な映画(2)

 鬼才、原一男監督の『ニッポン国VS泉南石綿(いしわた)村』は、予告篇と休憩を含めて4時間の長編映画だ。 http://docudocu.jp/ishiwata/

  泉南のアスベスト被害者の映画である。といっても、裁判の様子は録画はできない。しかもごく普通に生きている庶民たちを被写体だ。それで4時間もの長尺ドキュメンタリーなのだがら、少しきついかな、爆睡も必至だとも思ったいた。

 ところが、これが面白かったのだ。ただダラダラと長いとのではない。8年間の記録をたった4時間に収めるには、あまりにも短いとも思った。

 そしていろいろと考えさせられた。一緒に闘ったいるような気にもなった。長期化する裁判に、原告が次々と亡くなっていけば、怒りや無力感に悔し涙を流す遺族と同じ気持ちにもなるし、石綿肺で七転八倒する被害者の苦しみは痛かった。また、国(お役所)のいい加減さにあきれ果てた。はたまたは、裁判制度や司法ムラ(弁護士も含めて)のあり方にも不審が起こって来た。そこに、貧困や在日朝鮮人問題も絡んで来るし、被害者の立場にもいろいろあって、一方的な弱者だともいいきれない面もあった。被告側にもさまざまな方針や違いがあるのだ。さらに裁判過程でも、一審で勝訴しても、二審、最高裁と、国家も容赦ない。時には、不可解な判決ももたらされる。闘い方も、裁判以外にもいろいろとあることもよく分かった。

 無力な私達が、巨大な国家と闘うということがどういうことなのかをよく分かるのである。国家(国家権力)の得たいの知らなさがよく分かる。その滑稽さや残酷さが、普通の庶民の姿の上に現われていた。

 アスベスト被害については、次のHPなどでご理解ください。

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『憲法を武器として』~恵庭事件~ VS国家権力な映画(1)

 5月3日は憲法記念日。その関係か、GM前後の京都シネマでは関連ドキュメンター映画が上映されることが多い。今年は、庶民が国家権力と対峙する映画を観た。

 まずは、昭和37年に北海道で千歳郡恵庭町(当時)の陸上自衛隊演習地で起った恵庭事件のドキュメンター映画だ。『憲法を武器として』というタイトルに、副題は「恵庭事件~知られざる50年目の真実」とある。http://www.eniwahanketsu50.com/index.html
ぼくが生まれた年に起った事件なので、リアルには知らない。大学時代、加藤西郷先生の授業でこの事件のことを初めて知ったと思う。

 戦後まもなく、米軍演習場に隣接した野崎牧場を標的に爆撃訓練が行われた。爆音の中で、健康被害、家畜にも大きな被害がでる。抗議や反対行動の結果、米軍が謝罪。演習の中止、さらに撤収につながる。これで一安心と思った矢先、今度は陸上自衛隊が駐屯。米軍と同じく爆撃訓練が再開。仮想敵国(ソ連)である。再び家族への健康被害に、畜産業にも大きな被害が出る。家族は、度重なる抗議や要請を行うが、柔軟合わせてはぐらかせられ続けられる。そのような対応マニュアルが自衛隊側にあったのだ。結局、追い詰められた畜産農家の兄弟は、無断で始められて、一旦は中止するとばぐらかされた演習訓練中に、その通信線の切断を行う。直接の抗議の妨害行動を行ったのだ。

 最低限の生活権を護るための、やむにやまれず行われた庶民の抵抗行為が、通常の器物破損罪ではなく、自衛隊法違反で起訴されることになる。実は一般市民に対して初めて適用された法律だ。そこには政治的思惑が存在していた。当時の国内情勢は、自衛隊は憲法九条に禁止されている戦力に当たるという意見も強く、自衛隊は違憲か合憲かの議論も盛んだった。いわば自衛隊は「日陰者」の存在だった。そんな中、国側はこの裁判を利用して自衛隊を合憲とする判決を目指して、より罪の重い自衛隊法で起訴したのである。

 一方、被告側は、大弁護団が支援活動にあたる。自衛隊法は違憲であるという憲法論争として、徹底的に法廷闘争が行われることになった。映画は、恵庭事件のプロセスと、約3年半(昭和38(1963)年9月から昭和42(1967)年1月まで)もの間、40回も争われた裁判(恵庭裁判)の様子を、当事者の証言だけでなく、再現ドラマという手法で見せていく。

 裁判の過程はスリリングだ。裁判所も、自衛隊違憲という方向で進んでいき、裁判所から検察の求刑が禁止されるという異常事態のなかで、自衛隊の違憲判決がでるという憶測が流れる。が、実際は、憲法判断を避けた肩すかし判決がなされていくのである。(最高裁(国からの)圧力の示唆する証言も映画では出されていく)。当然、被告は無罪になる。それは、通信線は防衛用の器物に当たらないという理由である。起訴されたら99.9%の確立で有罪になるという日本にあって、敗訴にもかかわらず国側は控訴せずに喜ぶ。そのまま被告の無罪が確定するが、自衛隊の存在に傷がつかなかったからである。逆に、勝訴したにもかかわらず、被告側は怒るという不思議な裁判となった。

 日本には憲法裁判所がない。つまり個々の法律、この場合では「自衛隊法」が、憲法違反かどうかを直接判断はできず、このようなケースの時は行われるのだが、今の裁判制度では、極力、政治的な憲法判断を避ける傾向にある。三権分立とは、名ばかりの状態が続いているといっていいのだ。

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今年みなみ会館で見た28本(前編)1~14

 3月一杯で終了する京都みなみ会館で、今年1年、どんな映画を観たかをリストアップしてみた。(*)はドキュメンタリー映画。

1『将軍様、あなたのために映画を撮ります』(*)は、北朝鮮が舞台に、亡命した韓国籍の映画監督と女優の物語。監督の弁明が保身的で、そのままは聞けなかった。

2『人魚姫』は、B級映画の典型でそこが面白い。中国・香港映画で摩訶不思議なフアンタジー。

3『クワイ河に虹をかけた男』(*) 「戦場に架ける橋」で名高いビルマを舞台にし、戦争責任を担った一人の日本人の真摯な生き方を追いかけている。

4『太陽の下で』~真実の北朝鮮~(*) 映像を通して、真実の北朝鮮(平壤)を舞台にしたドキュメンタリーで話題に。そのまま撮ることで、造られた不自然さが浮き彫りになる、ある意味で、映像の持つ力、恐ろしさがわかる。さ。

5『ブラインド・マッセージ』。中国・香港映画。タイトルどおり、盲目のマッサージ師たちの愛憎渦巻く人間ドラマ。よくありがちな、お涙頂戴の障がい者のものとは一線を隠していた。

6『ニュートン・ナイト』は、マシュー・マコノヒー主演(メジャーな旬の役者)のアメリカ映画だが、中味は渋い。

7『バンコクナイト』は、タイ・ラオスが舞台の日本映画。あるところでは評判にもなったのだが、正直、ぼくには退屈な一本だった。

8『kapiw(カピウ)とapappo(アパッボ)』(*)は、現代のアイヌの姉妹の音楽活動を追いかけたドキュメンタリー。現在の日本でのアイヌのアイディティテーとは何かが、シビアに映し出されている。

9『おとなの事情』は、イタリアで大ヒット。友人たち(夫婦連れ)の会食場面での、ちょっとしたお遊び-連れ合いのスマホを信頼し見るかどうか-から興る、夫婦間の秘密暴露へと展開して、かなりの苦々しさと、面白みが混じる秀作。

10『幸福は日々の中に』(*)鹿児島の知的障がい者施設でのアート活動を紹介したもので、面白かった。

11『娘よ』は、日本初公開のパキスタン映画。パキスタンの荒々しい大自然と、古い因習の残る部族社会での女性差別の現実を扱った実話。

12『スペシャリスト』~自覚的なき殺戮者~(*)は、イスラエルなど製作のナチスのアイヒルマン裁判を描いた傑作。この関連は、ここ数年造られたいる。

13『世界でいちばん美しい村』(*)は、ネパール大地震の後の寒村の様子を描いた日本製のドキュメンタリー。

14『世界にひとつの金メダル』は、フランス映画で馬術の障害競技で、オリンピックを目指した父と子の愛憎を描く実話。これはまあまあといところ。日本人には馬術競技はなじみがないという点もるあが、もう一押し足らない感じがした。

(続く)

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映画『幻を見る人』と詩人吉増剛造

 知の巨人吉本隆明は、「今、日本でブロフェショナルの詩人とは、谷川俊太郎、田村隆一、そして吉増剛造の3名だけだ」と言ったという。ところが、そんな吉増剛造のことを、ぼくはまったく知らなかった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%A2%97%E5%89%9B%E9%80%A0

 川端康成が『古都』を執筆した京都で、その吉増を捉えたドキュメタンリー映画を見る。今回が初上映。被写体の吉増も初めて観たといった。会場は、同志社の寒梅館のホール。先月、中村敦夫氏の朗読劇を観たことをきっかけに、今夜も参加した。大学での上映、しかも無料なのに、年輩の方ばかりが集まっている。不思議に感じたのは、ぼくだけでなく、終了後「なぜ学生さんは来ないのか?」と受付係に質問していた人もいた。結局、今の若者の関心事ではないということだろう。

 映画は、東日本大震災の大津波の映像からはじまった。おそろいしほどの自然の脅威だ。日本を代表する詩人でも、この東日本大震災の惨状を前に言葉を失ったというのである。そして、京都の美しい四季が描かれれていく。こちらは、息をのむほどの美しさだ。特に、光の鮮やかさが印象的。映像美でもある。
 春の醍醐寺の桜、夏の貴船神社の緑、秋の岡崎の流響院の紅葉、そして冬の妙心寺と雪景色。そして、川端康成が『古都』の部隊である京都北部の中川地区。北山杉の里だ。余談だが、学生時代、Aさん兄弟と一緒に、冬の中川で写真撮影に出かけたことがある。その後、自分でフィルムを現像しプリントもした。懐かしい思い出だ。そして、神秘的な池は沢池だろう。中学時代、ここでキャンプして泊まったこともある場所。ラストは、妙心寺の狩野派の筆で,法堂一面に描かれる龍である。

 大震災と京都の四季は、一見、無関係なようで、水をテーマに、また古代から日本人に流れる自然(水)への畏怖と報謝が、神と祀られたり、龍となっていることを示しているようだ。京都盆地には、琵琶湖の水量に匹敵するほどの地下水が貯蔵されているそうだ。それが伏水となって、名水を生み出している。伏見が酒作りで有名なのもこれに関係し、各地の神社には湧き水の名所も多い。日頃は隠れているが、そこかしこに痕跡があるのだ。

 しかも単なる自然を映し出す美しい映画ではなく、主役は、その場所で言葉を紡ぐ詩人、吉増剛造。その創作活動の一端をおいかけることだ。鬼才のパフォーマンスは、凡人の理解を遥かにしのぐ、身を削っての創作活動の一部をかいま見る。

 映画がおわり、吉増剛造氏が舞台上でパフォーマンスと、対談。終了後、その場で参加者とのちょっとした交流会。なぜか、鬼才の詩人が、連れ合いの目をじっと見つめて創作のたいへんさを語っているのが面白かった。何か響くものがあったのかわからないが、彼女は、「こわいよー」と小声で。ある程度、養生してあった舞台だっだが、そこかしこに墨汁が飛び散っている。詩人の靴も、服も墨だらけだ。

 創作過程のほんの一部、言葉を紡ぎだす苦悩のほんの一旦にも触れられて、いろいろと刺激も受けた集いだった。
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『カレーライスを一から作る』~最近見たドキュメンタリー映画(1)~

  最近、面白いドキュメンタリー映画を立て続けに観た。すべては無理でも、少し紹介していきたい。

 『カレーライスを一から作る』といっても、別にカレーライスの作り方を教えるわけではない。ほんとうにすべてを一から、自家製で作っていこうという武蔵美(美術系の大学)のゼミを9ケ月間、追いかけたドキュメヘンタリー。ユニークな先生は、医者であり、探検家でもあるでもある関野吉晴氏。これまでさまざまな身をかけた体験をされている。

171004 一から作るというのは、コメや野菜だけでない。スパイスや塩、もちろん肉に、食べるお皿やスプーン(ここは芸大なので専門か)まで、一から作るというのである。
いちばん時間がかかったのが、スパイス類。案外、時間がかからなかったのが、塩だった。野菜やコメだって、思い通りには進まない。それでもいちばんたいへんだったのは、やはり肉だ。四つ足(ブタやウシなど)の動物は、日本では勝手に屠畜できない法律があるので、二本足(つまり鳥類)を育てるということになった。でも、これだけは卵からというわけにもいかないので、ヒナから育てることになった。選ばれたのは、ダチョウである。ダチョウの肉には馴染みないのだが、昔、若狭で子ども大会を開催したとき、会場が農園ということで、宿泊した農機小屋の二階の隣の広場で、ダチョウが飼育されていたことを思いだした。
 
 ダチョウは、とても神経質で、怖がりなので、育てるのが難しいという。ちょっとした物音に驚きパニックになり、走り回って壁に激突して死ぬそうだ。ある程度、事情の分かるところで飼ってもらうが、やはりすべて死んでしまう。ついて、ホロホロドリと烏骨鶏を飼育することになった。ペットと家畜は違う。がどこかペット化すると、やはり最後に卵を埋めるようになった鳥を、「殺す」「殺さない」の話になった。でも、自分達の手でシメテ、捌くことになる。この捌くシーンがひとつのメーンであろうか。
 そして試食。食べるということは、他の命を奪うということ、私が生きるというとは、その連続でしかないということ。それにしても、もともと単純だったものが、さまざまなプロセスをへ、専門化され、複雑になりすぎて、逆に生きものの命を奪っているといういちばん肝心な点が見えなくなっている。そうすると、生きることが命を奪って食べることだという事実が分からなくなると、そのいのちの犠牲の上にある私の命までも希薄となり、結局、生きる意味もきれいごとになるのではないかと思った。

 ちなみに映画が、単行本にもなってます。

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中村敦夫朗読劇『線量計が鳴る』~元・原発技師のモノローグ~

Img_3815Img_3816 Rさんに校正を渡しぎりぎりまで仕事をして、急いで今出川の同志社大学に向かう。構内の寒梅館のホールで、中村敦夫の朗読劇を観る。
 整理番号は300番だったが、中央の2列目にの空きがありラッキーだ。休憩を挟んで2時間近く、一人での朗読劇。それでも、飽きさせることなく聞かせるのは、やはりプロ。
Img_3812    啓蒙演劇というジャンルで、情感に訴えて感情を揺さぶるのではなく、問題を指摘し観客を覚醒させ、新しい視野を提供する」というものだ。フクシマを通して、日本の原発にまつわるさまざまな嘘やごまかし、詭弁、さらにチャルノブイリでいま起こっている現実も踏まえImg_3807て、原発の本質を見極めて、ひとりひとりがわかこととして考えるきっかけになればという願いで始まっている。

 オリジナルの朗読だけてなく、プロジェクターを使った講義風で、啓発的な内容で、触発をうけた。もし近くで公演があるようなら、ぜひ足をの運びください。

http://www.monjiro.org/%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B/

 おまけですが、今回の朗読劇とは別だが、弁護士である河合弘之が撮った映画『日本と原発』(合わせて同じ著者の新書『原発訴訟が社会を変える』)だ。多岐にわたる原発問題の問題点が浮き彫りになってくるので、こちらも面白くて、お勧め。

 最後に、まったく関係ないことだが、主演の中村敦夫氏についての余談をひとつ。

 感想を会館の事務所で話ていたときの会話。。

T「中村敦夫といえば、「シトシトピッチャン、シトピッチン」ですね。
S「いや、それは子連れ狼でしょう。」
T「ああ、子連れ狼は、カツシンか」
S「いや、カツシンは座頭市でしょう。」
と、若いRちゃんには「?」の珍問答が続いていた。

   ちなみに、子連れ狼は若山富三郎(もしくは萬屋錦之介)で、中村敦夫は木枯らし紋次郎である。でもしかーしである。ぼくにとっては、「水滸伝」の林冲(りんちゅう)なのである。日テレが総力を結集した放映記念の大活劇で、中学時代のテレビ番組だった。ぼくが、いちばん影響を受けた番組かもしれない。おかげで、何十年たっても、いまだに水滸伝フリークである。その後、ほんもの水滸伝を読んで時、林冲が主役でないことに驚くことになり、北方水滸伝で、また衝撃をうけることになる。

 まったく原発問題とは別次元の話でした。

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『ユリゴコロ』と『ドリーム』の2本

 寺院法座は、日曜と月曜と続くが、月曜日は朝座がなく、2時までフリー。チェックアウト後の待ち時間で、映画館に行く。りんくうタウンにある泉南イオンである。イオンの映画館は、55歳以上は1100円・6本見たら1本無料、さらに駐車場が無料というので、よく利用する。昨年は、ここで『君の名は。』を見た。

 今年は、夜と朝に映画を2本効率よく観れた。『ユリゴコロ』『ドリーム』である。

 まずは、日本映画の『ユリゴコロ』は、ダークなサスペンス。ある意味で不思議な映画だった。当初、死にとりつかれて、殺人鬼となっていく主人公の女性の心理に共感しずらくしんどかった。特に「血」がでるシーンは苦手だ。
 人との共感する力がなく、「ユリゴゴロ」-どうやら「よりどころ」のことを-もたないまま、冷たく他人の死に出会う時にだけ落ち着ける女性の一生を、まったくそんな母親とは知らずに育てられた息子が、その手記を読むことで、事実に向き合っていくという物語。若き日の両親との出会い、恋人との出会い、母親との再会など、物語の核になる人間関係の偶然の出会い方都合がよすぎるのが難点だが、最後の方は、馴染めずにいた物語にだんだとと入り込んでいく気がした。心に残ったといえばかなり残るし、苦手いえば苦手で、ぼくとしては評価は難しい。

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 一方、アメリカ映画『ドリーム』は、50年代後半、NASAに勤務する黒人の女性たちの物語だ。なかなか面白かった。でも、邦題(日本語タイトル)がいけない。「ドリーム」だけでは、まるでアメリカンドリームを想像させ、努力したものが報われていくかのような錯覚をうむ。実際は、二重の差別(黒人であること、そして女性であること)の中で、その地位を向上させるために先駆となる女性の物語だ。単なる努力だけでは如何ともしがたい差別との戦いの一コマを、宇宙開発やコンピューターという新分野での成功と重ねて描かれている。ほんとうのタイトルは、「Hidden Figures」(隠れされた人たち)というのだ。

 また、日本人には理解しがたい、時代背景の理解があると、より愉しめる。ソ連との冷戦時代、宇宙開発(軍需開発そのもの)競争が激化。ソ連に先を越される「スプートニク・ショック」で、水をあけられたアメリカは焦っていた。宇宙開発では、ソ連がリードしてきたということがある。もうひとつが、この時代は、南部では黒人差別が公然とおこなれわていたこと。バスの座席も、トイレも、職場のボットにも、白人は、有色人種を差別してきた。NASAは、南部のテキサス州ヒューストンにあるのだ。そして、黒人社会においても、女性のエリートは男性によって差別されていた。つまり、黒人であること、女性であること。この二重差別によって、どんな能力があろうとも、職業や結婚など社会の中で虐げられていく存在であるということだ。
 上司にあたる白人女性が、部下の-能力があり、管理職の仕事をさせられながらも、ヒラにとどまる-黒人女性に、「私は差別主義者ではない」といい訳シーンがあるが、そこにも差別の実態が垣間見えてくる。ほかにも、今日のネット社会の先駆けとなるIBMの導入など、今日にもつながる社会の予感が窺える。

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『標的の島~風(かじ)かたか』

  以前、お東の九条の会で講演を聞いた三上知恵監督作品。『標的の島~風かたか~』は、高い評価を獲ている『標的の村』(キネマ旬報ベストテン文化映画第1位)『戦場ぬ止め』(キネマ旬報ベストテン文化映画第2位)に続く第三弾だ。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-c015.html

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-0014.html

 170615鑑賞中も、鑑賞後も、なんとも言えぬやり場のない感情が沸き上がってくる。悲しみのようでもあり、怒りのようでもあり、絶望的な無力感でもあるのだか、そのものではなく、なんとも形容し難い痛みに襲われる。
 あまりにも理不尽なのである。でも、その一端を造っているのは、まぎれなくいまの私達であることも事実だ。民主主義とは何か。正義とは何か。そして、ほんとうの軍隊は誰が、誰を護るのか。標的の島とは、沖縄のことかと思っていたら、そうではない事実に驚愕するしかない。

 『ハクソーリッジ』が72年前の沖縄での日米戦争であったなら、それは今もまた形を変え日米の正義の名のもとでの理不尽が沖縄の人達を苦しめているという「事実」に目を背向けてはならない。

 詳細のストーリーは、なんらかの機会でぜひご覧いただきたいのでここでは触れない。ただ声だかな反戦映画ではなく、沖縄の豊かな文化や風習も随所に現れ、どこか未来への希望もある映画だった。最後に、このタイトルの~風(かじ)かたか~ということについてだけ監督の言葉から触れておこう。

 2016年6月19日、過去最も悲しい県民大会が那覇で開かれた。炎天下の競技場を覆い尽くした6万5千人は、悔しさと自責の念で内面からも自分を焼くような痛みに耐えていた。二十歳の女性がジョギング中に元海兵隊の男に後ろから殴られ、暴行の末、棄てられた。数えきれない米兵の凶悪犯罪。こんな惨事は最後にしたいと1995年、少女暴行事件で沖縄県民は立ち上がったはずだった。あれから21年。そのころ生れた子を私たちは守ってやれなかった。

  大会冒頭に古謝美佐子さがの「童神」が歌われる。(略) 被害者の出身地の市長である稲嶺進さんが歌の後にこう語った。「今の歌に『風(かじ)かたか』という言葉がありました。私たちはまた一つ命を守る風除け-『風(かじ)かたか』になれなかった」。とう言って泣いた。会場の女性たちも号泣した。

 できることなら、世間の強い雨風から我が子を守ってもりたいというのが親心。でも、どうやったら日米両政府が沖縄に課す残酷な暴風雨の防波堤になれるというのか。勝算はなくても、沖縄県民は辺野古・高江で基地建設を勧めるトラックの前に立ちはだかる。沖縄の人々は、未来の子供たちの防波堤になろうとする。

 一方で日本という国も今また、沖縄を防波堤にして安心を得ようとしている。中国の脅威を喧伝しなが自衛隊のミサイル部隊を石垣・宮古、沖縄本島、奄美に配備し、南西諸島を軍事要塞化する計画だ。その目的は南西諸島の海峡封鎖だ。だが、実はそれはアメリカの極東戦略の一貫であり、日本の国土もアメリカにとっては中国の拡大を封じ込める防波堤とみなされている。

 この映画はそれら三つの「風かたか」=防波堤を巡る物語である。

 (公式パンフレットの「ディレクター・ノート」より)

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