カテゴリー「映画(アジア・日本)」の167件の記事

映画『名付けようのない踊り』

    国際的ダンサーである田中泯を追いかけたドキュメンタリー名付けようのない踊り』 を見る。ぼくが、初めて田中泯の演技を見たのは『メゾン・ド・ヒミコ』という映画だったと思うが、その映画の犬童一心監督のドキュメンタリー作品だ。一般にはダンサーというより、映画、ドラマで存在感のある俳優として有名だ。1年前の2月、近く(南区東九条)の小劇場で公演があったのに見逃したのが、残念だ。

 ダンサーと言っても、テレビで見るようなダンスや舞踏のイメージとはずいぶん異なったものだ。場踊りという、その場のフィールド(土)と観客と、その場でおこるすべてに身を委ねて躍動する、いわば身土一如としてのありように感動した。

 2年間の世界ツアーを追いかけたものだか、単なる実写ではなく、その生い立ちなどの重要な子供時代のエピソードは、山村浩二のアニメーションとして描かれていた。また日本では、たとえばすべての毛を剃り陰部に包帯のみを巻いた裸で踊る姿は異端で、何度も逮捕をされる一方、国際的には高い評価を受けた行くもの、決して群れることなく孤高の存在として立っていることなど過去のエピソードや数々の出会いも紹介されるなど、2年間の活動を追いかけるというより、田中泯の半生期の綴る映画だった。

 不自然なダンサーとしての鍛え方ではなく、大自然のなかで野良仕事をしてできてくる身体で踊ると決め、生活、踊りが一体化していること。さまざまな異質、もしくは同業との出会いが、いかに大きな力になるのか。出会うべき時に出会えることこそ、人生の幸せだなと感じさせらるなど大いに刺激をもらった一本だった。

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濱口竜介監督『ハッピー・アワー』

 2015年に封切られた濱口監督の『ハッピー・アワー』の評判を耳にしていた。が、その時は、見ることはなかった。演劇ワークショップに集う素人劇、5時間を超える長尺ということが、二の足を踏ませたのだ。

 それが、『ドライブ・マイ・カー』と『偶然と想像』が世界中で高評価を得ていることもあって、お正月に6日間、再上映されることなった。その間、何作か濱口作品を観ているので抵抗もなくなった。上映時間は休憩が挟まれて計5時間45分。でもうまい具合に2度の休憩が入り、とても楽だった。

 それ以上に内容が素晴らしかった。30代後半、それぞれの仕事や家庭、異なる環境の中で生きる4名の女性たちのリアルな生きざまを共に生きるような不思議な感覚を味わった。もちろん、素人が演じる科白や演技に未熟さところもあったし、また退屈する場面もあったけれども、それを超えて伝わってくるリアルリティは何だろうか。ドキャメンタリーではないのにまるでその自身の人生が立ち上がったくる感覚だ。

 ちょうどサイコドラマのようなもので、演技ではなくても、その人の人生が立ち上がり、感情が動き、それが見るものを揺さぶるような感覚に通じていた。演技だからこそ伝わる真実があるという体験でもる。

 また、4名の女性だけでなく、それぞれのパートナーや恋人たち、男性側にも共感する部分も多かった。最初、まったく理解できなかったと生物学者を話を丁寧に聞いていくと、どことなく頷ける部分も出てきたのは、驚いた。

 ところで、ぼく感銘をうけた本に、野口体操の野口三千三先生の「かちだに貞(き)く)」「おもさに貞(き)く」という本があるが、ここではちょっとあやしげな講師が、「重力にきく」というワークショップを開催。自身も実際に体験したり、またやってもらったりするワークも入っていたし、その後のシェーアリング(分かち合い)も、リアリティーがあった。セリフではく、実際に体験した感想を語っていたのではないか。からだの中心にきく、声にならない声で伝える。真のコミニケーションとは何かが問われいる。
 三部目の小説の朗読といい、この場面といい、長尺映画ならではで一部の触りだけなく、そのWSに実際に参加しているかのような時間配分で、このあたりも新鮮だった。

 

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今年211本目は『CHAINチェイン』

 今年、最後の映画のために、京都シネマに出かける。5年前から映画館での鑑賞が200本に到達していた。昨年は新型コロナの影響で、一時、映画館が閉館されて、結局、170本に止まりだったので、2年ぶりの大台。しかも211本は新記録である。あれこれ印象に残った映画はあったが、またの機会に触れられたらうれしいが、11、12月に観た映画の印象が強く、特に12月の後半は好みの映画が続いて、満足した。 

 さて、決して、万人に受ける映画ではないが、日本映画『CHAIN(チェイン)』 は、王政復古の直前、坂本龍馬・中岡慎太郎が近江屋で殺害される。その3日後、油小路七条で起こった伊東甲子太郎一党の斬殺事件。油小路の変と呼ばれ、いわば新撰組の終焉を象徴する事件だ。新撰組から分離した伊東甲子太郎の御陵衛士との対立。所詮、末端組織の内ゲバ事件で、明治維新という激動に比べると瑣末な事件ではあるが、その一つ一つにも無名の市井の男女の営みが絡みあっているのである。

 現在から155年前。かなり大昔の出来事のように思うが、ここから第二次世界大戦の終焉までが78年。そして終戦後から現在が77年と、ほぼ年数が同じだ。そう考えると、歴史は時代が変わったとたんに、すべてがブッツリと途切れ、変化するわけではない。たとえ人の営みや思いは変化しても、現代の日本人にも綿々と列なる何かがあるのかもしれない。そんなことを象徴する演出、撮影だった。

 大半が時代劇だが、侍の姿のままで現代の京都がそのまま舞台になる。京都タワーや四条大橋の風景の中で、殺陣が行われる。何よりも驚いたのは、油小路七条での斬殺現場で、いま風景そのままで撮影されていたことだ。十条油小路(今は、新堀川と呼ばれるが)に住んでいるぼくとしては、馴染みがある。何よりも、今日も、ここを通って映画館にきた。帰路も、興味をもって通ったら、斬殺場所のお寺のお隣には病院がなって、いまならすぐに搬送されていたことだろうと。

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 ちなみに、この事件の1ケ月後、御陵衛士の残党に、近藤勇は襲われて重傷を負うことになる。こちらは伏見の墨染通、有名な料亭前。

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<油小路にある幻の頓所跡>
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終い弘法

 弘法さんとは、毎月21日は東寺での縁日で、親しみを込めて「弘法さん」と呼ばれている。日本で一番大きな寺社の境内の縁日だそうで、12月の「終い弘法」は20万人もの人が訪れる年中行事だ。ただ、緊急事態中は中止されていたので今年は数回しかなく、さすがに出店の数も人出も、かなり少なく感じた。海外からの観光客もなかったが、それでも少しは活気が戻っているように思えた。

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 連れ合いと娘は朝から弘法さんに出かけていた。それぞれお目当てがあった。着物関係の掘り出し物を探していてようで、同じ出店で合流したようだ。今年から着付け教室に通いだし、連れ合いはいまだに続けて通っている。

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 ということで、散歩方々、何を買うわけでもないが、少しぶらついてきた。この日は、有料拝観ゾーンにある国宝の金堂の薬師如来像が拝むことができる。司馬遼太郎原作の映画『燃えよ剣』では、この金堂の中でも撮影があり、薬師如来像の上から演説するシーンがあって驚いた。他にも、東西本願寺や今年訪れた長谷寺など見慣れた場所がロケ地だったのて、内容以上に興味があった。

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濱口竜彦監督『偶然と想像』


みなみ会館で、濱口竜彦監督の『偶然と想像』を観る。世界中で高評価を獲得した『ドライブ・マイ・カー』 は、今年の邦画のナンバーワンで、今、一番輝きを放ている監督だ。長編作品が多い中で、『偶然と想像』は1話40分程度の短編オニムバスだった。

第1話「 魔法(よりもっと不確か)」(古川琴音、玄理、中島歩)
第2話「 扉は開けたままで」(森郁月、渋川清彦、甲斐翔真)
第3話 「 もう一度」占部房子、河井青葉)

 どれも登場人物は2~3名でほとんど一対一の密室での会話劇である。偶然の出会いがもたらす運命の綾をテーマに、言葉の力を感じさせる作品だった。科白を平板の発するのは、『ドライブ・マイ・カー』の劇中で劇でもあったことで、なるほどと感じた。感情が先行するのではなく、実は、言葉や姿勢が感情を生むだしているのではないかと思わされた。特に第3話の設定は、ールプレイやサイコドラマの即興劇のようなことを劇中で行っていた。どの作品も印象深くかなり高得点。以前見逃した5時間以上の長編作品『ハッピー・アワー』を年明けに観ることにしている。楽しみだ。

 ところで、平日はガラガラのみなみ会館なのにボチボチとお客が入っていた。さすがは、今年を代表する監督だからと思ったが、それだけではないようだ。21日なので誰でも1000円均一料金になっていたからだ。

 なぜ21日に安いのか。それは弘法さんの日だからだ。

 

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『サムシングカンパニー 1995』

    華光誌作業を終えて、印刷所に渡すまでの合間に、みなみ会館で映画を一本観た。今日は、印刷所渡しの後も、ZOOMだが、8月分の会計の月次の説明があり、夜は、真宗カウンセリング研究会の月例会とスケジュールは詰まっている。

 映画は、いける時間帯にという『サムシングカンパニー 1995』 韓国映画をやっていた。男性優位、学歴社会の中で、セクハラと雑用に追われて、力が発揮できないでいる、優秀な高卒のOLたちが、大企業の有害物質排出の隠蔽工作に立ち向かう物語。韓国の有名企業を示唆する実話を元にしているようだが、1995年は韓国のグローバル元年と位置づけられていたが、当時の90年代の社会の実情がよく描かれていた。日本も同じようなもので、ファッションも懐かしかった。コメディタッチなので見やすかったが、なんとなく都合がよく進んで、どこか物足りなさも感じた1本。

 

 

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日本映画『太陽の子』

 8月15日(日)終戦記念日。映画『太陽の子』を観る。

 この映画は、昨年(2020年)8月15日に、NHKで放映された『太陽の子』を映画用に再編集されたものだ。視点を代えた編集なので、昨年7月に自死された三浦春馬も出演。戦地で深く傷つき、入水自死未遂する役で登場する。

  第二次世界大戦中、京都帝国大学で行われてた原子爆弾開発計画の史実をベースにしている。主演は、新型爆弾の研究員、「実験バカ」役を柳楽優弥。最近では、映画『HOKUSAI』で若き日の葛飾北斎を熱演していた。その弟が戦地に赴任後、一時帰国してた三浦春馬と、きょうだいのような幼なじみで、微妙な三角関係となる有村架純の3名の、戦時下における青春グラフティーであり、研究者としてアメリカに負けるか、また戦争勝利のための使命感に燃える一方で、科学者として大量殺人兵器の開発に関わらざるおえない葛藤、さらに狂気の一面が描かれている。

 戦時下、日本でも原爆開発は、陸軍主導と海軍主導の2つの研究があった。海軍は京都帝国大学の荒勝教授を中心にウラン使用の研究がされている。映画でも、京都帝国大学も、荒勝教授も、実名で登場し國村隼が演じている。重要な会議では湯川秀樹博士も参加しているが、映画にはない。 ウラン鉱石を濃縮して原爆の材料となるウラン235の抽出するために遠心分離機を用いる方法は、理論レベルではともかく、肝心の遠心分離器すら完成に至らず、原料のウランの入手さえも困難で、十分な資材も電気さえもままならず、国運をかけた一大プロジェクとしては、あまりにもお粗末だ。
 すでにアメリカでは核実験に成功していた。そして、ついに8月6日に広島に、プルトニウムを生産したウラン型の原爆が投下され、壊滅的な被害を受ける。9日には、長崎にもプルトニウム型が投下される。京都帝大のチームは数日内に広島入りして、調査にあたる。そして、第3の標的は、京都だというの噂が流れる中で、科学者として冷徹な行動をとる。原爆の実態を観察したいと比叡山へと登っていくのであった。

 TV版よりよかったけれど、もう少し科学洒者としての葛藤や苦悩が深堀りされると、もっと深みがでたように思えた。

 

 

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中国映画『少年の君』

  ピュアな恋愛青春映画でありながら、中国社会問題を鮮烈に描写する『少年の君』

  これはほんとうによかった。

 主演女優の周冬雨(チョウ・ドンユイ)が、素朴な高校生にしか見えない! 前作(3年前)には子供を育ていたというのに…。

 学業は優秀だが、母子家庭の経済状態は悲惨で犯罪ギリギリな仕事を行う母と、いじめで自死した同級生をかばったことから、次ぎのいじめの対象として陰湿ないじめ(犯罪)を受ける女子高校生と、天涯孤独なチンピラが反発しながらも魅せられ、孤独な魂を抱えた同士深い絆で結ばれていく。そして、大きな事件ま巻き込まれるが、自らを犠牲してまでも相手を救おうとする。しかし、事実を追求しようとする若い刑事。彼は、彼女が起こした事実を誤魔化さず引き受け、裁きを受けることが真の救いだと信じている。
 もう還暦間際のぼくの中にも、こんなピュアな純愛映画にジーンとくる気持ちがまだあることに驚いた。少し離れて座っていた中年女性が、声を出して泣かれたのにも驚いたけど。

 あわせて、熾烈な受験競争や壮絶ないじめ、そして貧富の格差によって切り捨てられる人々など、現代の中国社会の問題点も浮き彫りにする社会ドラマでもある。日本でも大学受験の厳しさや学歴格差が問題になっているが、中国や韓国の比ではない。中国や朝鮮半島の王朝では、古来(隋の時代、つまり聖徳太子の時代)より20世紀初頭まで続くのが、「科挙」という官吏登用試験がある。もう一つが「宦官」という賎しい身分ものは、自ら去勢して権力に近づく制度があった。なぜか、先進国の中国を真似た日本なのに、この制度は導入されていない。中華では、異民族王朝でも引き継がれ、近代化によってやっと廃止されるが、受験戦争の激しさ、学閥のさは、現在も中国や韓国つづいているのも、科挙の影響だとぼくは考えている。法律は代わっても、人々の精神のにまで影響するの簡単ではない。
 
 とてもいい映画だったので、関連上映されていた同じ監督、主演女優の『ソウルメイト』~七月と安生~ も観た。こちらは、女友達の青春グラフィテー。タイトルどおり、女性同士のソウル(魂)レベルでの絆。同性同士、男女間の違いはあってても、両作品には地続きのテーマがしっかりしているのが、見どころだ。

 

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アップリンク京都~『名も無き日』~『いとみち』

 ぼくが見に行く映画の半数以上は、京都シネマで上映されているものだ。残り半分は、京都みなみ会館と、2つあるイオンシネマ そしてMOVIX京都で分けあい、たまに二条TOHOシネマズに行くこともある。ここまではみんな会員になっていて、割引と特典がある。小学校の隣に立つTジョイは徒歩でも行けるのだが、割引や会員制度がないので滅多にいかない。

 ほかに京都市内の映画館は2つのミニシアターがある。
 一つが「出町座」。名前のとおり出町柳にあるで遠くてご縁がない。
 もう一つが、新風館内の「アップリング京都」で、一番新しい映画館だ。京都シネマより地下鉄一駅分だけ遠いが、MOVIX京都よりは若干近く、自転車で行ける。やはり3スクリーンあって、上映数も多い。今でも年間200本以上見ているのに、この映画館を守備範囲に入れると、ますます訳がわからなってしまいうそうで、これまで避けてきたのだ。

 が、その禁を破る日がきた。イオンシネマで上映されていたのを見逃した『名も無き日』を観に行った。

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 リニュール前には利用していた新風館だが、ずいぶん久しぶり。映画館は、商業施設やホテル、そして地下鉄とも直結していた。駐輪場もあって、アクセスもいい。そして、座席がゆったりして映画が見やすいのがいい。ネット予約の段階で、座席の高低についても説明があるのは驚いた。小さなシアターだったが、隣とも離れ見下ろせる席を予約したが、とても見やすかった。同じミニシアターでも、京都みなみ会館せ新しくて、座席もすり鉢になっていて見やすいのだが、座席のサイズ、前後の間隔が狭くて窮屈。京都シネマは座席はゆったりしているが、後方以外はほぼフラット構造で、うまく座席を選ばないと、前席の方の頭で画面がとても見づらい。メーンシアターなので、どのスクリーンならどの座席を選べばいいかが分かっているので、見づらいというのは映画館としては致命的な欠点だと思っている。その点、ここは座りやすく、かつ見やすさかった。プログラムも、大手シネコンの2番目もあったが、なかなかいいプログラムを組んでいた。
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 『名も無き日』は、名古屋市熱田区を舞台に、永瀬正敏を主演に、弟、オダギリジョーの孤独死という不可解な現実に向き合い、また親友の死から停まったままの時間を送る今井美樹などが、予期せぬ別れ、死んでいくものの理解しがたい苦しみと、残されたものが抱える不条理などの現実に向き合っていくというもの。個々の背景が分かりづらく、すぐには共感しずらかったが、そこも含めて媚びない、骨太の映画の印象を受けた。生きていく中で、一人一人が抱えているさまざまなものは、まさに業であって深いということかなーと。

 ランチした後に、京都シネマでもう1本、青森を舞台にした青春映画『いとみち』。津軽三味線の名手を祖母に仕込まれた女子高生が、津軽のメイド喫茶でバイトしながら、自分を見つけていくという青春映画。津軽弁なので、彼女のセリフの半分くらいは分かりづらいのだか、そのことも十分折り込まれた造りになっていて、好感が持てた。

 

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『けったいな町医者』『痛くない死に方』

 さて、長女と『AGANAI(あがない)~地下鉄サリン事件と私~』を見に行った時、連れ合いは、別の映画を見に行った。ぼくが勧めた『けったいな町医者』と、『痛くない死に方』だ。

 共に尼崎に実在する長尾和宏医者が関わっている映画で、『けったいな町医者』は、長尾医師を追いかけたドキュメンタリー。『痛くない死に方』は、彼の原作を基にした在宅医療を題材にし、柄本佑が主演したドラマ(長尾医師役は、奥田英二が演じている)。ぼくは、3月に京都シネマで見て連れ合いに勧めていたが、5月にみなみ会館でも上映されることになって、2週続けて見に行った。

 ぼくは、ドキャメンタリーの『けったいな町医者』の方が面白かったが、連れ合いは、『痛くない死に方』に涙したようだ。2本をみた方が在宅医療の現実への理解が深まるだろう。

 結局、医者が向き合うのは、病気ではなくて目の前の患者さん、いやその人であり、誰もが死ぬことを免れえない以上、死とも向き合わねばならない。しかし、病気を完治させるのが医者の役目であるというのが第一義なので、当然、町医者よりも、大病院や大学病院の、さらには高度な最先端医療おこなう医師のランクが上で、治療よりも看取りを行う在宅医者や町医者は、ランクが下だという偏見を、一般人はもとりより、医者自身がもっているというのである。上位にランクされているものほど、その優越感が強いのであろう。医療云々の前に、人としての生き方と同時に、死に方をどう向き合うかのは、それぞれの人間観にも深く根ざしている。

 その意味では、長尾医師のやっていることは、今の医療現場からみれば、非常識なことばかりである。住み慣れた時に散らかった部屋に、家族が普通に生活していく中で、点滴などの管につながれて溺死するのでなはく、脱水を恐れずに枯れるように死んでいく姿には、人間らしさ、その人らしさが表れて、自然で、温かい景色に見える。また救急車を呼ぶのでも、それがどういうことかを問われる(病院で死ぬことを意味する)、薬=医療ではない、などなど目からウロコのシーンが多かった。結局、医者に、覚悟と信念と、経験が裏打ちされているのである。それでも現代医療を否定するのではなく、その恩恵をうまく受けるために力をになろうというのだが、一方で、製薬会社から大学病院の教授に流れる研究費を指して、「医学部教授は、薬屋の手先、広告塔で、魂を売っていないといえる人がいるのか」と辛辣な批判も口にされる。
 この人、絶対に業界から嫌われ、きっと変人として無視されているだろうと思うと、俄然、親近感が湧いてきた。

 

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