カテゴリー「映画(アジア・日本)」の152件の記事

『なぜ君は総理大臣になれないのか』

  8月に観た刺激を受けたり、目からウロコのドキュメンタリー映画が続けて4本(プラス以前の1本)のシリーズの第4弾は、『なぜ君は総理大臣になれないのか』

 これら4本の映画を連続3日間(『沖縄戦』と『鈴木邦男』は、15分の休憩を挟んで1日)で観たが、その最後が『なぜ君は総理大臣になれないのか』である。

 現役の野党(今は何党になるのかな?)の中堅、国会議員、小川淳也を追いかけたドキユメンタリー。とにかく面白かった。政治家の選挙運動、家族とのかかわり、悩みや葛藤、人間の弱さや意志、そんな人間性が、記録映画というよりエンターテーメントとしても、充分に楽しめたのだ。

「地盤、看板、カンバなし」からの負け戦か出発して、選挙区では、地元を牛耳る四国新聞・西日本放送のオーナー一族に挑戦し続ける。巧みな情報操作(一見、公平を余所いながらも)の記事やニュースに接する。結局、弱い野党の中でも、いくら小選挙区で善戦しても勝てず、野党内でもいまひとつ地位をえられない。それでいながら世の中を良くしたいという青臭い志をもち、どこまでも誠実であろうと苦悩し、それを「政治家に向いていない」と言いいつつ家族が一丸となって支え続けている。

 何よりも面白かったのは、民主党ぐるみでの希望の党への合流のドタバタ劇と、小池百合子の「排除します」発言(今となっては懐かしい)から逆風が吹き荒れる中での壮絶な選挙。前原誠司の側近としての苦悩、同じ香川で、高校・大学(東大・官僚としての先輩・盟友でもある玉木雄一郎との関係で苦闘する姿だ。そして、応援弁士の井手教授の演説に胸が熱くなったり、家族のひたむきさも胸にせまる。

 判官贔屓という言葉があるがひたむきな敗者を応援する風潮があるのかもしれない。ただ弱いだけでも、人情だけでもない、何か今の政治に欠けているものが見えてくるかのようだった。

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『愛好者に気をつけろ!~鈴木邦男~』

   8月に観た刺激を受けたり、目からウロコのドキュメンタリー映画が続けて4本(プラス以前の1本)のシリーズの第3弾。

  愛好者に気をつけろ!~鈴木邦男~』  4本の中でインパクトというか、意外性が一番だったのが、この作品だ。前の2本は、これまでの学びでの延長線にあるものであったが、この映画は、ぼく自身が、レッテルを張って決めつけていた偏見を破られたという意味で、一番、目からウロコ率が高かったのである。
 
 最初は、見ないという選択肢を取ったいた。武闘派右翼活動家として名を馳せた鈴木邦男を取り上げた映画だったからだ。右翼といいう言葉一つで、誰もが共通するような紋切り型が出来上がってしまう。愛国を叫び、天皇を崇拝し、旭日旗をはためかせ軍艦マーチの大音響の街宣車を走らせ、日教組(古いけど)や共産主義を攻撃し、反日的と決めつけたものを(映画でも芸術、新聞社でも人間で)実力行使で攻撃する。一言でいうと、自分とは対極にいる聞く耳を持たない怖い人達というイメージを抱いているからだ。

 ところが映画の主人公は、その紋切り型からの対極にある意外な人物像が映し出しされていく。

 寡黙で、質素な好々爺。本に囲まれたボロアパートに住み、さまざまな立場の人達の声に耳を傾け、若者の集会にも気軽に顔出し、孫のような娘にいじられても、ニコニコと黙っている。これが武闘派、民族派と呼ばれた人なのか。

 しかも、その政治姿勢にも驚いた。安保法制に異議をとなえ安陪内閣が勧める憲法改憲に反対し、反対勢力(立憲民主の議員)の選挙応援の演説をする。クジラ問題を取り上げ映画(ザ・コープ)が反日映画であると、映画館前での右翼の妨害活動の現場では、「映画も見ないで上映禁止はおかしい」と、体を張ったカウンター行動をとる。オウム真理教の信者たとも交わり、特に麻原の三女(アーチャリー)を娘のように可愛がり舞台ではその父親役(つまり麻原彰晃)を演じ、村井殺害犯で刑期を終えた徐裕行氏と上祐氏を引き合わる。または元拉致被害者家族会の事務局長で、今は安陪さんに批判的な蓮池亨氏と親交を結んだり、元連合赤軍のメンバーとの会合せ持っている。

 要は、さまざま政治、宗教、そして思想をもつ人達と、立場を超えて本気で付き合っているのである。そこにあるのは、相手に立場を尊重して耳を傾ける姿勢である。そして、立場で行動するのでも、世間の風潮や空気を読んで発言するのでもなく、自分自身が本気でその問題に向きい、自分の言動に対して責任を負う覚悟が滲み出ている。

 「批判精神がないところでは恐ろしいことしかおきない。批判精神と、批判される精神である」

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『日本人の忘れもの』~フィリピンと中国の残留邦人

 8月に観た刺激を受けたり、目からウロコのドキュメンタリー映画が続けて4本(プラス以前の1本)のシリーズの第2弾。

『日本人の忘れもの』~フィリピンと中国の残留邦人

 企画・製作(出演も)は、弁護士の河合弘之氏だ。彼自身が、満州生まれの引揚者で、兄弟を失くしている。有名な経済大型事件を担当しているが、原発差止訴訟でも有名で、映画『日本と原発』などの製作・監督している。映画を観たり著書を読んで、大いに教えられた。そして本作でも目から鱗だった。

  中国(満州)での残留日本人孤児の問題は、80年代に大きな話題となって関心も高かった。テレビでは、感動的な家族の再会シーンが繰り返して流されていた。感動的な美談が消費されたあとは、帰国後の苦悩や問題点は関心がもたれることはない。中年になってからの日本での新しい生活。言葉や習慣の違いで苦しみ、経済的苦悩がつきまとう。高齢となっても年金が受け取れず、大半が生活保護受給で、辛うじて生き延びるが、中国に残る養父母の葬儀にも出れない。何よりも、同じ日本人から差別的な扱いがあるのだ。国も世論におされて、帰国政策を勧めてきたが、包括的な生活支援の法整備は無策のまま放置してきた。感動的な家族の再会シーンに涙し熱中した人々が、帰国邦人の正当な国の支援(つまり税金)に対しては「特別扱いをするな」とクレームをつけるというアンビバレンスな構造もある。そこには、帰国邦人が環境に適応するための労力に対して、まったく想像力が欠如し、また国策としてなされた移住、そして戦争責任についての歴史認識の欠如という問題もある。その点では、まさに日本人の忘れものというタイトルがピッタリである。

 帰国事業が進めれた中国残留邦人よりも、悲惨なのはフィリピンの状況だ。戦前、多くの日本人が渡り、そこで現地の女性と結婚し、日本人として家庭をもっていた人たちが多い。3万人以上の日本人の移民社会があったという。しかし、戦争が激しくなり、現地では男性が徴兵や徴用で戦争に駆り出され、戦死や負傷したものや日本に戻されたもが多い。そして、敗戦。残された妻子は、日本人であることが分かると殺害の恐れがあるので、身分を隠して山岳地帯に逃げ延びるのだが、その子が日本人であるという証明がなく、またフィリビン国籍もない、無国籍状態のまま取り残されるのてある。国は、その実体を知りながらも、フィリピン移住は国策ではなく各自の意志であったこと、大半がフィリビン人との混血児(ママ)であること、そして終戦のどさくさで現地に残ることを奨励。混乱の中で日本人だという証明も残っていなどの理由で、無国籍状態を放置してきたのである。国策で渡り、また両親が日本人である中国残留邦人とは事情が違うというのが、国家の言い分である。父親を戦争で徴兵しながら、この言い分がまかり通るのだ。

 結局、国家は国家の論理で動く。決して、弱者を護るためにあるのではない。もちろん終戦直後の混乱期はしかたなかったもしれない。しかしその後の高度経済期においても、決して日本人の忘れものを取りにいくことはなかった。現状を認識しながらも、高齢(76歳以上)になっている残留邦人が死に絶えることを待っているかのような無策ぶりだ。

 それに対して、残された時間が少ない中で、一人でも多くの日本人の国籍を取り戻そうとする人達の活動を描いている。国連が動き、フィリピン政府が動く。しかし、一番張本人の日本は動かない。「戦後レジュームからの脱却」を目指すアベ政権が、本来取り戻さねばならない忘れ物ではないのか。でも現実はまったく方向違いだ。

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『ドキュメンタリー 沖縄戦』

毎年8月に入ると、京都シネマでは、戦争に関する映画が上映される。またこの時期は、ドキュメンタリー映画も多い。刺激を受けたり、目からウロコのドキュメンタリー映画が続けて4本(プラス以前の1本)を観たので、簡単に紹介しておこう。

 第1弾は、『ドキュメンタリー 沖縄戦』を観た。

 特筆すべきは、制作が「浄土真宗本願寺派」であることだ。しかし宗教色をあえて押さえている。冒頭に、ブッダの言葉や『大無量寿経』の言葉が字幕で出る程度であった。

 第二次世界大戦、日本で唯一の地上戦となった沖縄の惨状の歴史を、いくつかの重大事件を通して、総合的に扱った作品だ。1944(昭和19)年、米国の潜水艦の攻撃で本土に疎開中の多数の子供たちが犠牲(総数1500名)になった疎開船・対馬丸の撃沈に始まって、米軍が上陸した渡嘉敷島での強制的な集団死、そして沖縄本島上陸からの約3カ月間に渡る戦闘の激戦地や主な出来事が取り上げられている。それを当事者(生き残った体験者)が淡々とした口調で、当時の現実や惨状を語り、また専門家の証言も加わえて、単なる一般的な戦争の悲劇に留まらず、沖縄が本土防衛の捨て石として、本土上陸を遅らせるための時間稼ぎのために利用され見捨てられていく、沖縄の人達に対する差別が明かになってくるように思えた。結局、国家権力による軍隊とは、決して民衆を護るためにあるのでなはく、民間人から搾取しその犠牲を楯にしてでも、任務を遂行するおぞましい実体が浮き彫りになってくるようである。

 映画は、沖縄戦に焦点があたっているので、沖縄での組織的戦闘が終了するところまでの映像が主である。だか実際は、その後も部分的な戦闘が続き、疎開地でのマラリアや飢餓での大量死などの苦悩が続いていく。その構造は、戦前からのもので、終戦以降も現在にいたるまで変わらず、未だに沖縄が差別され抑圧されているのである。このあたりは、現地の施設の展示でも体系的に詳しく語られる。

http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/3-d58d.html

(余談)最後の字幕での協力者の中に、仏青のメンバーだった九州のお寺の方のお名前が…。一番びっくりしたかもしれない。 

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『人間の時間』は衝撃作

 韓国映画の奇才、キムキドクの問題作。

 キムキドクという人は、異端の人だ。今の世で、最終学歴が小学校卒。映画もすべて自己流で学び、社会のタブーに挑戦する。超学歴社会の韓国、また映画を文化・芸術とする考えからも、その経歴も、作風も、好ましいものではなく、評価はとても低い、一方、カンヌ、ヴェネチア、ベルリンの世界三大映画祭を制覇し、特に日本で評価は高い。しかし、そんな中でも、この作品の評価はみごとに分かれている。5点満点で5点の人もいれば、1点どころか0点の人もいた。それほど、賛否両論を巻き起こすセンセンョナルなテーマを扱った。

 『人間の時間』 (2020年・韓国、Human, Space, Time and Human)は、あまりにも設定が不自然、映画にリアリーティを与えるディテールもいい加減。脚本の筋立てにも、かなり疑問点があって、随所につっこみどころは満載だ。これだけでも難癖をつける人がいるだろう。しかし、この映画に関してはそれは末節なことなのかもしれない。単なる質の悪いB級映画、また気持ち悪いスプラッター映画を超えて、普遍的なテーマが隠されているからだ。

 日韓の名優による競演も見どころだ。 主人公の「イヴ役」を日韓で活躍する藤井美菜、キム・ギドク監督の作品に出演しているたオダギリ・ジョー。「アダム役」は、日韓で人気のチャン・グンソクが、これまでのイメージを壊した弱い人間のいやらしさを演じて、ファンの悲鳴を叫びそうなクズの役柄。種子から実の植物を、卵からニワトリを育てる謎の老人は、韓国の国民的俳優アン・ソンギ。他にカメレオン俳優と称されるイ・ソンジェ、個性派リュ・スンボムなど、個性派が揃った作品だ。

 退役した軍艦に、いろいろな階級(大統領候補親子と、日本人カップルに、あとはヤクザや娼婦、チンピラ、クズ学生の類)の人間が乗り合せてクルーズに出る。最初から階級格差が起こり、夜にはレイプなどの不穏な雰囲気が漂う。それが、なぜか軍艦は、制御不能の異次元に迷い込み、漂流していく。閉じ込められた極限状態の中で、政治家とヤクザが結託し、クルーたちが対抗し、他の乗客は支配されていく中で、限りある食料をめぐって、道徳や倫理を越えてむき出しになる業ともいうべき欲望だけが露わになっていくのだ。常識や善悪の境界線が揺らぎ、暴力や性欲が剥き出しになっていく。

 結局、地獄から人間界、一部の程度の低い天上界まで含めた六道の大半は「欲界」である。欲界は、食欲と性欲に支配された世界なのである。要は、生き延びたいという生存欲と、自分の子孫(DND)を残したいという欲望に支配され逃れられない。その目的を達成するためには、手段を選ばない醜悪な姿が露わになる。人間としてのタブーであるカニバリズム食人人肉食)や近親相姦などが容赦なく描かれていく。カニバリズムをテーマにした映画(今年も8月には大岡昇平原作の『野火』がリバイバル上映)もあるが、ここの映画の毛色は少し違う気もした。

 ここからはかなり仏法的な感想になってしまうが、自らの肉を相手に与えるシーンが何度か登場する。それを「まずい」と「飽きた」とかいいながら貪り喰う。手の肉を割き、足の肉を割き、そして最後はすべてを与える。いつも法話で聞いている「シビ王とタカ」「鳩をたすけたシビ王」の話そのものではないか。それは、そのまま法蔵菩薩と、その血肉を貪りながら文句ばかり言っている私そのものの姿ではないか。これまで観念的にしか味わえなかったシーンが、こんなにもリアルに描かれているのだ。気持ち悪いを超えて、有り難くなってきた。南無阿弥陀仏 

 

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レバノン映画『存在のない子供たち』

  閉まっていた京都の映画館も5月22日に京都シネマと出町座が再開。順次、大手のシネコン映画館も再開する。6月1日からはイオンモール京都にあるTジョイ京都が再開。昨年、見逃した名作3本(うち2本はキネマ旬報でもベストテン入り)が、ライナップに並び、しかも各1100円とお得なお値段。これは観ないわけにはいかない。久しぶりに京都シネマ以外の劇場に通った。小学校の並びに建っているので歩いても15分もかからない。ただこれまでと違うのは、検温とマスクの確認があること。

 まずは レバノン映画『存在のない子供たち』。レバノン映画を観るのは2本目。少年が主役の傑作映画。でもね、子供が虐待されたり、危ないシーンに巻き込まれると、「もうやめて」と堪えられなくなってしまう。その意味では、この手の映画は苦手でもある。でもこれが、世界の現実。目をつむって避けて通るわけにはいかない不都合な真実がある。

 衝撃的なシーンで始まる。未成年(日本なら中学生くらい。生年月日が分からず正式な年は不明)の子供が刑務所に収監され、その裁判の過程で両親を訴えるというのである。親の罪はなんと「ぼくを産んだこと…」。

 いくら日本の格差社会で貧困が広がるといってみても、この苦悩はなかなか理解しがたい。
 周辺国で子供を含む民間人が平気で虐殺される内戦が激化し、難民が溢れ、人間としての安心安全、最低限の基本的な人権すらない中で、ますます弱者は虐げられていく。弱いものは、さらに弱いものを虐げていく。しわ寄せは、子供たち、特に女の子の立場はもっとも弱い。貧困と無知のゆえに、親は自分の子供を利用してでも生き延びようとする。

 親には戸籍もなく、学もなく、貧困にあえぐ。子供も当然、戸籍がなく教育は受けられない。幼児期から強制労働や犯罪の強要、そして家庭内暴力、ネグレクト、(特に少女に対する)性犯罪等、直視に堪えない現実が浮かび上がる。

 ふとしたことから、未婚で赤ちゃんを育てるアフリカからの不法移民との出会いう。ぎりぎりの生活だが、その優しさに触れてひと時の安らぎをえるが、不運が重なって黒人の赤ん坊を抱えた2人暮らしが始まる。少年が懸命に生きよとする生命力、究極サバイバルの力強さなども描かれるが、不安な心情を著すような不安定な近接撮影、少ないのセリフ描写など、ストーリー以外のタッチで少年の不安さ、揺れる思いを表現sれる。

 是枝監督の代表作の一つ『誰も知らない』(2004年)のテイストもあるけれども、現実の世界はもっと悲惨であるということ。でも、どこか人間のたくましさも垣間見る1本。

 ちなみに、残りは、ポーランド映画『Cold War あの歌、2つの心』と、イタリア映画『幸福のラゼロ』の3本。これもよかったです。

 

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京都シネマの再開

 京都シネマが営業再開をし、約40日ぶりに映画を観る。自粛中、テレビ映画はもちろん、ネット配信もDVDでも、1本の映画も見なかった。案外、これでもOKだと過ごしていたが、再開されるとなるとやはり観たくなるものだ。劇場は一段と厳戒状態で、入り口で手を消毒し、マスク着用が入場の条件。座席も半分以下に制限されている。窓口で座席指定を受けるが、タッチしない。ロビーも長いできないようにイスが撤去。スタッフもゴム手袋やフェイスガードでの対応し、極力、接触をさけている。これが当たり前になってしまうのか。時が過ぎて「あの頃は…」と滑稽な思い出になるのか。今週は、平日に訪れたが、15~20名程度、1本だけ30名ほどの入り。もし満席になっても、通常の半分以下で、採算が採れるのか心配なところ。経営破綻しているだけに、映画館の存続に関わる問題。

 他の映画館もこれから再開するが、ほとんどが鑑賞済みのものや旧作。上映作品の難しさがある。新作も交じっている京都シネマに通った。。
 フランスのドキュメンタリー映画、『21世紀の資本』を皮切りに、
 香港のハートフルな映画『淪落の人』、
 インド映画『プルーム兄貴、王になる』は絢爛豪華で、エンタテーメントと温かさがマッチングした1本。
 そして韓国のコメディー映画『エクストリーム・ジョブ』の4本。アジア映画を観ることが多かった週。

 

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映画『東京裁判』

 これはなかなかすごい映画だった。

http://www.tokyosaiban2019.com/

  10分の休憩を含めて、上映時間は4時間50分に及んだ。別に長さではない。その内容である。4時間40分ほどの映画は、古い記録映像を繋いだけの映画なのに、(特に後半は)あきることもなく観ることができた。2年6ケ月に及ぶ裁判の過程は、約170時間の記録映像と全10巻の速記録に収められいる。そこに近代の日本の影響のあった事件や戦争の映像と共に、たった4時間40分の時間に収めるという気の遠くなるような作業の末、とても濃厚なものとなっている。
 ただ歴史のお勉強的な映像が続いたり、色濃く映像作家の意見や解釈が映し出されてはいる。また個人的には、昔、好きだったNHKの大河ドラマ『山河燃ゆ』(原作 「二つの祖国」)での、日系二世のアメリカ人通訳からみた東京裁判の印象が思い出される場面が多く、面白かった。が、それ以上に、再現映像にはない、臨場感が伝わってきたのである。

  儀式である。政治ショーといってもいい。
 A級戦犯が決められたプロセス、人数から、すでにシナリオがある。また、国際法に照らしても、果たして罪に問えるのかというそもそも論でも不可解である。特に、平和に対する戦争犯罪という訴状なら、同じように戦勝国のアメリカの行った、多数の民間人を焼き殺した大空襲も、沖縄の地上戦も、そして2度に渡る原爆投下も、平和に対する残忍な戦争犯罪ではないかという、米国の弁護士の主張にもある。そして、天皇の戦争責任にしても、アメリカの政治的思惑と、その意向をうけた首席検事と、被告中、首謀者とされた東條秀樹とが、敵味方(検事と被告)であるのにも関わらず、天皇を訴追を回避する一点では協力し合うという奇妙な裁判でもある。

 ただ儀式的だとしても、また形式的で、結論ありきの裁判だとしても、ここまでしっかりした審査(2年6ケ月に及ぶ)がなされていたことには驚いた。
 特に、敵国である日本人を弁護するために本気になって闘ったアメリカ人の弁護士がおり、法の正義に則って公平な判決を行うとした判事の存在もあっことが分かる。11ケ国の判事にしても、天皇の訴追にこだわり続けたオーストラリアのウェブ裁判長(アメリカから政治的圧力も加わる)、極刑を主張するフィリピンの判事、全員無罪の少数意見で有名なインドのパル判事(しかも膨大な量の)などの少数意見のあったことも、あわせて記録されている。

 結局、十二年戦争に向かうまでのプロセスも、太平洋戦争の開戦も、ほとんどが十分なシナオリ(検察の訴状は、被告が共謀して行った戦争犯罪だと主張するが)も、しっかりしたビジョンや構想もないまま、ほとんどが行き当たりばったりの辻褄合わせので、ズルズルと進んでいたことがよく分かる。さらには、天皇、上官への忖度の賜物であったことが、その証言でも明らかになる。誰も責任をとらない、いや誰も責任とれない。それでいて、日本を滅亡へと道に邁進するという恐ろしさを感じた。
 ある意味、これは昭和から平成、そして令和になって、日本の現状そのものではないか。図らずも、近・現代の「日本人とはなにか」を教えられる気がしたのである。

 

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『誰がために憲法はある』

憲法記念の日、京都シネマで2本ドキュメンタリー映画を見る。

まずは、『誰がために憲法はある』である。まもなく米寿を迎えベテラン女優である渡辺美佐子が、日本国憲法を擬人化した「憲法クン」役になって、ボク(憲法)を巡る情勢を語っていく。「古くなった」「現実にそぐわない」という理由で、リストラの危機にある状況を述べ、その「前文」を暗唱していくのである。この憲法の3本柱である「国民主権、平和主義、基本的人権の尊重」が生まれてきた背景が、先の大戦のあまりにも深い傷と反省によるものにほかならないこと。それは崇高な理想であって、現実に合せるものでないことなどが語らされるのだ。第九条の戦争放棄が注目されるが、改めて暗唱される前文を耳に聞くと、とても新鮮であった。

 しかし、この映画はこれだけで終わらなかった。「憲法クン」の一人芝居は20分ほどの作品で、映画の大半は、複数のベテラン女優による広島原爆の朗読劇の舞台やその裏側が中心になっている。結局、戦争の悲惨さを繰り返してはならないという憲法の理念をあらわしているのだろう。

 有名な女優さんばかりだが、ほとんどが舞台の制作には携わったことがない。主催者を探し、支援者を集め、宣伝をして、チケットを売り、そまざまな段取りをしていくことは、みな不慣れだったという話が続いてく。そして、三十三年に渡って続いてきた取り組みも、女優陣の高齢化にくわえ、支援者の高齢化もあって、今年一杯で幕を降ろすことになったという話である。

 まるで連れ合いの劇団のような話で、これだけでも共感せざるおえなかった。制作の苦労などは普通は分からない。観客は、俳優さんに拍手する。照明や音響、大道具、小道具などの裏方の仕事も、裏方でもまだ見えている。演出や脚本の善し悪しも語られる。しかし、いちばん大切なのは、その芝居の主催者を探し、支援者を集め、集客をしなければ、芝居は成り立たないのだが、そこは、普通はまったく見えてこない。実は、制作がしっかりしないないと、いい芝居などできないというである。

 たぶん、制作も担当する劇団員と結婚していなければ、制作の苦労、高齢化による持続の困難、若い後継者不足、、、。連日、食卓の話題になることもなく、この映画でも違ったところが印象に残っていただろう。

 もうひとつ、心に残ったことは、朝ドラのヒロインに抜擢されて、突然、売れっ子になり、仕事に謀殺されていた日色ともゑに、宇野重吉は、仕事を選ぶ基準は「その仕事に正義があるのか」という言葉を送ったという。今は、「その仕事が儲かるのか」とか「効率がいいのか」とか、「役立つのか」、せいせい「自分が好きか」といった基準でよし悪しが判断される。効率よく、楽で、儲かる仕事に価値があるのだ。もし「人さまに喜んでもらえるか」が入れば、かなり上等である。そんな中で、儲からず、効率も悪く、たいへんな仕事であっても、「そこに正義がある」というものに打ち込めるとしてなら、その人生は豊かで、幸せだということになるのだろう。この言葉を聞いただけでも、この映画の収穫である。

 

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『カメラを止めるな!』は面白い

映画『カメラを止めるな!』を観た。

https://kametome.net/index.html

300万円の低予算のインディーズ映画が、異例の大ヒットで、今年の映画界の最大の社会現象になっている。

もう各種メディアで盛んに紹介されているので、ストーリーはいいだろ。

とにかく面白い! 大声で笑ってしまった。

ゾンビ映画の撮影シーンが、37分のノーカットで描かれている。手持ちカメラで振れたりする。妙な間や音が入ってくる。おかしなカメラワークに、妙な設定や動きがある。出来の悪い学生映画のようだが、後半、逆に、これが伏線となって、ドンドン氷解していくのだ。前半に違和感を感じれば感じるほど、後半が大爆笑という構図に、完璧にやられた。ただ面白いだけでなく、映画作りの困難さや映画愛に溢れている一本。

すべてタネ明かしが分かったとして、もう一度みたたらどうなるのだろうかな? 

ところで、京都新聞の紹介記事では、この監督(ほんとうの)が、高校生の時に手作りの筏で琵琶湖横断を試みて、行方不明になった時の実際の記事が掲載されていた。当日は、迷惑な無謀な話でしかないのに、これがこの映画「不可能とと言われれば燃える」の原点みたいな、、。掌を返しもいいところ。

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