京都支部法座~2月の連続法座(6)
23日(祝)の「京都支部法座」。
「長命の集い」の余韻が残るなか、法話の前半はその時の感想。内容よりも、進め方での世話人と一参加者との温度差で感じたことで、伝道という観点から、自分なりには大切なテーマだったが、如何せん、「長命」に不参加の方が多くて、共有できなかったことが残念だった。
後席は、広島と同じく、聖人88歳、最後のご消息を取り上げる。ただテーマは異なる。
飢餓や疫病で、多くの人々が無残な死を迎えるなかで、それは如来(釈尊)が説かれた無常の理であって、別に驚くべきことではないこと。
そして、親鸞の身には(ここでも「身」です!)「臨終の善悪をばもうさず」、つまり死にざまの善悪は問題にはならず、「信心決定のひとは、疑いなければ正定聚に住する」のであって、たとえ、「愚痴無智の人も、おわりもめでたく候」と、信心決定の身となれば、その時、必ず正定聚不退の位に住するのだから、どんな死にかたであっても、その臨終は、浄土往生に定まっているのだから、「めでたい」のであると。
つまり、「信心が定まるときに往生も定まる」のであるならば、その後の「死にざま」も「生きざま」の善悪は、問題ではなく、ただ信心が定まる、信心決定の身となることこそが、肝要なのである。といこうで、信心が定まる、決定するとうこきとはどういことかという問いを、皆さんに投げかけて答えてもらった。
さまざまな答えがでたが、誰からも「地獄一定の身」になるとか、「本願の実機が知れる」という、わが身に引き寄せる答えが出なかったのは、「信心が定まる」とか「往生が定まる」というと、助かる(法)の一面にしか心が寄らなかったからであろう。どこまで共有し、伝ってたかは知れないが、それが明らかになっただけでも、尊い法座ではなかった。
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