修正会(2)~地震~
法話の後は、信仰座談会である。新年は、一言ずつ、昨年を振り返ったり、今年の抱負を語ったりすることにしている。法話を感想を述べる方もあったが、だいたい2/3ぐらい終わったところで、「あれ? 揺れている」と思ったら、誰かが「地震ですね」との声。すごく大きく揺れたわけではないが、長く、ゆっくりした揺れで、外の行事鐘が大きく揺られいるのがみえる。どこかで大地震が起こったことを直感させられる。みんなが一斉にスマホを出して、能登地方が震源地であること、京都南部の最大震度は4などという情報が飛び交う。自然と座談会は中断となって、皆が、口々に感想を言い合っている。「ひとりならもっと怖かった」とか、「この建物は大丈夫だ」とか、「避難通路のドアを開けておきましょう」とか、中には「ぼくのスマホでは京都は震度1です」という方まで現われる。震源地に近い富山からの参加者は、切実な心配になっている。ぼくも、ただ不気味な感じがして、怖いなーしかなかったが、防火、防災の責任者として、会合時の避難の段取りも、冷静に身につけておかねばならないとも思った。
結局、いくら有り難いとか、勿体ないとか言ったところで、一たび地震でも起これば、もうこの有様で凡夫の生地があらわになってくる。もしこの地域が震度6以上の揺れに襲われていたなら、だれも呑気に座っておれず、みな必死で、身をかばい、騒ぎ、逃げまどい、仏法も完全に失せてしまうことだろう。いや、まったくお聞かせに預かっているとおりのお粗末な姿である。そこが有り難いところなのだが、どこかでそんな虚仮の身を頼りに、そこに起こった有り難いことを証拠に、信者面していくのだから、本末轉倒である。
身で聞くとは、まさにこのようなことをいうのであろう。
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