『口伝鈔』第十六条「信心称名章」~覚信房のご往生~
『口伝鈔』第十六条は、「信心称名章」と題されるが、標題も短く「信のうへの称名の事」~「信心決定後の称名念仏のこと」という章だ。
聖人の門弟で、聖人に乞われたことをきっかけに、病をおして上洛し、聖人の身許でご往生された覚信房の臨終の称名念仏が、臨終来迎を期待する自力ではなく、報恩謝徳の念仏であったことに対して、聖人が感涙されたエピソードが語られている。そして臨終来迎を期待しても、正念で臨終を迎えられる確約はなく、また自力の称名では化土すら難しいことを示して、浄土真宗の法義は「平生業成」であって、信心が定まる時に往生も定まるので、その後の称名念仏は、往生を願い励む自力ではなく、御恩報謝の称名念仏であることを、聖人の正信偈を通し手示される。「信心正因・称名報恩」こそが真宗安心の肝要なのであると明示される。というのが大意になろう。
冒頭に示される、覚信房との交流が場面に心打つ。実際は、『御消息』第十三通(760頁)に詳しいが、そのお手紙でも、覚信房のご往生の様子を記述に、親鸞聖人は涙を流されいるが、その涙の意味を『口伝鈔』で明らかにされている。
高田の太郎入道覚信房(? ~1258)は、『親鸞聖人門侶交名帳』に、下野国高田(現在の栃木県芳賀郡)の在住とある。聖人の直弟子であるが、高田(後の真宗高田派へ)の真仏上人の門弟であり、高田門徒の一人。
聖人への教義の質問に対して、返答された御消息(聖人の真筆・重要文化財)が現存し「信行一念章」と称さる(『御消息』第七通749)。覚信房の疑問に対して、「信の一念・行の一念」は不離の関係であることを聖人が返答されている。その最後に、「いのち候はば、かならず、かならずのぼらせたまふべし」と、聖人は上洛するよう請うておられるのだ。建長八(1256)年5月28日、聖人84歳の時のお手紙である。
その申し出に応じ、その二年後、上洛の旅に出るも、途中の「一日市」(現在の埼玉県吉川市付近)で、発病。周囲が戻るように勧めるも、「死ぬほど病ならば、帰っても、留まっても死ぬ。病も同じこと。それならば、親鸞聖人にもう一度お会いし、その身許で死にたい」との決意で上洛。その言葉どおり、聖人に元でご往生。その最期は、合掌し、「南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可思議如来」と称えて静かにご往生された。その様子が「信心たがはずして終わられ候」と記されている。
覚信房の子息、慶信房の質問状に、聖人が加筆訂正して返答されたお手紙(『御消息』第十三通760)に添えた、側近の蓮位房の添え状に詳しい。これはご病気の聖人の代筆をされたもので、それを読み聞かれた聖人が、覚信房の往生のところで、涙を流されたと記されている。正嘉二(1258)年、聖人八十六歳のことであった。
その涙は単なる惜別の感傷的なものにとどまらず、臨終の念仏が臨終来迎を期待するのではなく、平生業成の報謝のお念仏であったことに、長年、常従した者が、教え通りに真実信心の身であったことへの感涙でもあったのである。
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