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2024年1月の12件の記事

『口伝鈔』第十六条「信心称名章」~覚信房のご往生~

 『口伝鈔』第十六条は、「信心称名章」と題されるが、標題も短く「信のうへの称名の事」~「信心決定後の称名念仏のこと」という章だ。
 聖人の門弟で、聖人に乞われたことをきっかけに、病をおして上洛し、聖人の身許でご往生された覚信房の臨終の称名念仏が、臨終来迎を期待する自力ではなく、報恩謝徳の念仏であったことに対して、聖人が感涙されたエピソードが語られている。そして臨終来迎を期待しても、正念で臨終を迎えられる確約はなく、また自力の称名では化土すら難しいことを示して、浄土真宗の法義は「平生業成」であって、信心が定まる時に往生も定まるので、その後の称名念仏は、往生を願い励む自力ではなく、御恩報謝の称名念仏であることを、聖人の正信偈を通し手示される。「信心正因・称名報恩」こそが真宗安心の肝要なのであると明示される。というのが大意になろう。

 冒頭に示される、覚信房との交流が場面に心打つ。実際は、『御消息』第十三通(760頁)に詳しいが、そのお手紙でも、覚信房のご往生の様子を記述に、親鸞聖人は涙を流されいるが、その涙の意味を『口伝鈔』で明らかにされている。

 高田の太郎入道覚信房(? ~1258)は、『親鸞聖人門侶交名帳』に、下野国高田(現在の栃木県芳賀郡)の在住とある。聖人の直弟子であるが、高田(後の真宗高田派へ)の真仏上人の門弟であり、高田門徒の一人。
 聖人への教義の質問に対して、返答された御消息(聖人の真筆・重要文化財)が現存し「信行一念章」と称さる(『御消息』第七通749)。覚信房の疑問に対して、「信の一念・行の一念」は不離の関係であることを聖人が返答されている。その最後に、「いのち候はば、かならず、かならずのぼらせたまふべし」と、聖人は上洛するよう請うておられるのだ。建長八(1256)年5月28日、聖人84歳の時のお手紙である。

 その申し出に応じ、その二年後、上洛の旅に出るも、途中の「一日市」(現在の埼玉県吉川市付近)で、発病。周囲が戻るように勧めるも、「死ぬほど病ならば、帰っても、留まっても死ぬ。病も同じこと。それならば、親鸞聖人にもう一度お会いし、その身許で死にたい」との決意で上洛。その言葉どおり、聖人に元でご往生。その最期は、合掌し、「南無阿弥陀仏、南無無碍光如来、南無不可思議如来」と称えて静かにご往生された。その様子が「信心たがはずして終わられ候」と記されている。

 覚信房の子息、慶信房の質問状に、聖人が加筆訂正して返答されたお手紙(『御消息』第十三通760)に添えた、側近の蓮位房の添え状に詳しい。これはご病気の聖人の代筆をされたもので、それを読み聞かれた聖人が、覚信房の往生のところで、涙を流されたと記されている。正嘉二(1258)年、聖人八十六歳のことであった。

 その涙は単なる惜別の感傷的なものにとどまらず、臨終の念仏が臨終来迎を期待するのではなく、平生業成の報謝のお念仏であったことに、長年、常従した者が、教え通りに真実信心の身であったことへの感涙でもあったのである。

 

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ARU「聞こえない波」

 急遽、神戸にコンテンポラリーダンスを見に行くことになった。

 今週、連れ合いが劇団関連の仕事で神戸三宮に出かけた。舞台に出るのではなく、裏方(照明)のスタッフの助っ人である。その縁で、公演に誘われた。お芝居ではなく、音楽とダンスのコラボである。
 これまでまったく縁のない分野。しかも急な話、聖典講座の準備もある。ギリギリまで迷ったが、これもなにかの縁だと、三宮まで足を延ばした。会場の近くでは、神戸ルミナリエが開催されていたが、昼間の公演でライトアップにはまだ早かった。

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 レトロなビルの一角、おしゃれをカフェやライブラリーもある、旧生糸検査場、kiito のスペース会場。

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 倉庫のような会場で、照明設営もかなり大変だったようだ。3日間、昼夜の公演だが、観客も30名ほど。そんな感じのファッションをした若い人が多かった。劇団のスッタフにご挨拶。

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「聞こえない波」は、音楽とダンス(からだ)の共演で、ある意味で即興集団音楽に、コンテンポラリーダンスが呼応するというもの。楽器も琴、笙 (しょう)などの雅楽や和楽器に、ドラムやトロンボーンなどが、自由に奏でているように感じられた。ダンスも感じるtものがあった。
 今月は、バレエを鑑賞し、すぐにコンテンポラリーダンスと、日ごろ触れることのない世界を垣間見ることができた。

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報恩講~法然上人のご恩徳~

 夜座は『御伝鈔』の拝読。今年は下巻第一段から第四段まで。拝読も、三年目になるとかなり慣れてきて、余裕もでてきて、それらしく聞こえて来るようだ。

 親鸞聖人のご恩徳を明らかにし、そのお徳に報うていくのが、報恩講である。報恩講は、覚如上人が、親鸞聖人三三回忌に始められて以降、今日まで一度も欠かされることなく700年以上続いているという。その時、拝読する『御伝鈔』は(正確には、伝絵で、そこから言葉の部分が『御伝鈔』、絵画の部分が親鸞聖人『御絵伝』である)、その三十三回忌の翌年、覚如上人が26歳の時に作製されたもので、その後、報恩講では欠かさず拝読されるようになった。

 今回は下巻なので、冒頭の第一段が、流罪の顛末を聖人の『化身土巻』の後跋(ばつ)から引用しておられる。師資遷謫-「ししせんちゃく」で師匠と弟子が共に、流罪に遭うという意味-の段に始まり、第二段は稲田興法で、流罪によって関東に真実仏法が流布したのも、六角堂での聖徳太子(観音菩薩)の夢告の通りだったことを示し、第三段では、山伏弁円(後の明法房)の帰依、救済が示される。そして関東での布教を終えて帰京される聖人は、ただ人ではなく、まさに弥陀の化身であることを「箱根霊告」をとして示唆されていく。若いころは、馴染めなっ方この第四段も、今では、そのまま有り難くいただけるようになった。それは親鸞聖人だけではない。親鸞聖人からすれば、御師匠様の法然上人こそが、勢至菩薩の化身であり、究極は、弥陀の化身であることを喜ばれていくのである。  

 浄土真宗なので、聖人のご恩徳、ご苦労は常にお聞かせに預かっている。では、同じように流罪になれらた法然上人はどうか。とうしても、浄土宗の開祖ということで、親鸞様に比べると、今日の真宗ではその比重がけっして重くはない。が、しかし、法然様がおられなければ、親鸞様の活躍もなかったわけだし、「師資遷謫」の段名が示すように、法然上人こそ、専修念仏の門徒たちの先頭にたち、法難、弾圧の矢面に立たれ、命をかけて真実を貫かれたことは、決して忘れてはならないことである。それで、親鸞聖人ではなく、法然上人が度重なる法難の対処された姿勢や、承元の法難で流罪となられた顛末を頂くことにした。 

 主に、長く講読中の「法然上人行状絵図」(「四十八巻伝」とも言われる)によって窺うことにした。

 まず元久の法難の顛末、そして(親鸞聖人が釋綽空時代の署名が残る)「七ケ条起請文」や前関白九条兼実公の天台座主へのお手紙、さらには法然上人の「登山状」などの一部を頂きながら、承元の法難(流罪)の経緯をしめして、法然上人が流罪道中、遊女(2月の仏青大会ではこの地を窺います)や漁師など、涙と共に業に生きざるおえない悲しみを抱えた凡夫への、温かくも、深いお言葉をいただいた。それは、親鸞聖人の流罪やその後のご布教の態度と、まったく符合するものであった。当たり前といえば、当たり前のことではあるが、お二人とも、ただ人ではなく、弥陀の化身といわざるをおえない姿が、この非常事態に明らかになってくるのである。後の私ども、そのご恩徳をただただ仰がざるをおえなかったのである。親鸞聖人の報恩講に、その善知識であられる法然聖人のご恩徳を明らかにさせていただけるご縁を頂き、ほんとうに有り難かった。南無阿弥陀仏

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報恩講~初心忘るべからず

 親鸞聖人の報恩講法要を勤める。
 
 今回は、昨年6月に得度長女の出勤デビュー。得度習礼で同班だった方にも出勤をお願いする。年齢も性別も違うが、初々しい二人組で臨む。娘は、お母さんの色衣に、ぼくが初めて着けた五条袈裟で出勤した。あまり緊張している様子は感じないが、年長の方から緊張ぶりが伝わって来る。

 打ち合わせを済ませて、「それではよろしくお願いします」と立ち上がった時、「もう一度トイレにいきます」と。一般参列では絶対に味わえない緊張感だろうが、致し方ないことだ。長女と一足早く向って、勤行内容を皆さんにお伝えているうちに、全員所定の場所へ。
 まずはお二人でスタート。うまくこなされているのが、緊張気味に見守る。大師影供会作法なで、頌讃、画讃は独吟に、最後の乙回向句は一緒に練習をした。何事もなく最後まで無事に勤められて、一安心。

 控室に戻ると、連れ合いが「背中の首のあたりにタグがついていますが、おかしくないですか」と。ぼくも後ろ姿に違和感を感じていたが、トイレに立った後、慌てて裏返しのままで着られたようだ。本人を含めて大半は気づかれなかったが、これもデビュー戦の想い出となろう。

  「初心忘るべからず」

 世阿弥の金言である。回数を重ねるうちに経験を積み、余裕が生れるのは悪いことではないが、ともすれば緊張感を無くし、手ですることを足でする無精をし、解怠に陥るのが、凡夫の性でもある。初心を忘れずに臨みたい。

 聞法でも同じこと。慣れきった村雀は、鳴子にも乗って、無常と聞こうが、落ちると聞こうが、平気になっていく。ご用心、ご用心。

 「驚かす かいこそなかれ 村雀 耳慣れすれば 鳴子にも乗る」
 

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ウクライナ国立バレエ「ドンキホーテ」を鑑賞    

 お昼を食べたカフェで、「今夜、ロームシアターにウクライナのパレエを見にいくねん」と話すと、「バレーポールですか」という惚けた返答。「ロームシアターでバレーはないよ」と笑ったら、「バレエなんか見たことないわ」と。ぼくも本格的なバレエを見るのは生れて初めてだ。でも「本格的ではない」ものなら何度か見ている。子供がバレエを習っていたので、年1度の発表会で見たことがあるからだ。

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 自力整体のお仲間のご縁で、今回もお声かけて頂いた。これまでは、コロナ禍やウクライナ侵攻で中止なることもあり、昨年8月に、「キーウ(旧キエフ)の友と愛と平和」という、ウクライナバレエ団が客員するバレエを見たのが、初めてだった。不出馬宣言直後の門川京都市長が、表彰や挨拶をしていた。京都はキーウとも姉妹都市でもあるが、大晦日の紅白歌合戦で、審査員を勤めた寺田宣弘氏(写真中央)が劇団の芸術監督を勤めていることもあり、京都との縁は深い。

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 前列7番目の真ん中の特等席は、18-19-20番と三願転入のような席番だ。連れ合いと娘は、着物姿で鑑賞する。

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 昨年12月から1ケ月近く日本公演が続いていて、京都での演目は「ドン・キホーテ」だ。有名な小説がパレエとして上演されてから100年以上、「バレエの祝祭」といわれるようで、明るく華やかで美しい舞台だった。何よりも、ダンサーの体幹やスタイルのよさはすごかった。バレエ経験者の娘の解説によると、バレエは究極の様式美なので、プロの人でも、基本動作は変わらず、それを何度も何度も反復し、からだを鍛え、節制をて、より美しく、よりたくましく、自然に身につくまで、絶え間ない鍛練を行なうのだという。
 初めてでも、堪能するステージでした。

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24時間体制といっても、、。

 年末、出張法座の日に、消防署から査察点検の連絡。「今夜は遅くしか戻りません」との対応に、「宿直なので、消防署は24時間対応しています。遅くでも電話ください」との伝言が残っていた。消防署は、24時間体制、所年末年始もない。ご苦労さまです。とはいっても、、緊急性もないので、夜遅い電話はやめて、翌日に電話をした。ところが、すでに担当者は帰宅しており、別の職員が「伝えておきます」とのこと。でもなかなか連絡がなく、もう1度こちらから電話して、12月29日に査察が決まった。
 3年毎に、業者に依頼し、消火器、非常灯、非常ベルなどの点検結果を提出するが、先駆けで定期的な査察も行なわれる。館内を一回りし、各所を点検の後、これまで書類を確認したら、自衛消防隊の人員が昔いのままだった。

 確かに古い。総括と連絡係がぼくなのは代わりないが、父や母が誘導役になっている。消火活動も今や兵庫たつの市にお住まいの方で、そこから駆けつけてもらったところで手遅れだ。ということで、年明けに、人事異動での消防計画書の一部変更書類を提出することになった。提出書類はHPでダウンロードしたが、どれを提出するのか、また書類のことでも不明点もあったが、とにかく何種類か書いて提出に出かけた。担当者が休暇の日で、要領を得なかったが、提出書類が不足していること、2部提出せねばならないことなどが分かった。帰宅して、すぐに作製し直して、再提出に出かけた。

 ところが、窓口は真っ暗である。昼休み中。留守番の人がいうには、13時にならないと再開しないとのこと。戻ろうと帰りかけたが、徒歩で来ているので待つほうが早い。しばらく待たせてもらうことにしたら、13時きっちりになって、先程の方が対応してくださって、すぐに終わった。やはり消防署でも事務仕事は、役所としての時間制限があるようだ。

 元日の地震の時も感じように、法座時に、火事や地震などの不測の事態が発生した時の対応について、運営や世話役の皆さんとも、今以上に念入りにしておく必要性も痛感させられた年末年始だった。
 

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報恩講のご案内

 輪島市在住の同人から、お電話をいただく。ニュースでみる厳しい状況で、電話も通じなかったので、お声を聞けて安心した。しかし、ライフラインは復旧せず、自衛隊の応援で「なんとか生きています」とのこと。勤務先の施設のこと、孤立集落の実家のことなど、厳しい状況の様子をお伝えくださる。
「楽しみにしていましたが、残念ながら、報恩講法座をキャンセルします」と、申し込まれていた報恩講の欠席のお知らせをしてくださった。

 改めて、今、ぼくがやらねばならないことを考えさせられた。

 命のあらん限り、お念仏を相続し、歪めることなくご法をお伝えしていくこそが、凡夫のぼくに与えていただいたお役目だと思うと、身が引き締まる思いである。

 さて、令和6年1月13日(土)~14(日)は、華光会の親鸞聖人の報恩講法要を厳修いたします。
祖師聖人のご恩徳を讃仰し、共に「わが信やいかに」とご聴聞させていただきましょう。遠方の方は、ZOOMでご法話の拝聴もできます。
皆様のご参詣をお待ちしております。まだご参加いただけますて、奮ってどうぞ。合掌

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日曜礼拝~超久々のオルガン~

 先生方の都合で、10数年ぶり(もっとか)に、勤行の伴奏のためにオルガンを弾くことになった。30数年前、一人で日曜学校をやっていた時、必要に迫られて、猛特訓してなんとか弾けるようになり、しばらくはぼくの担当だったが、布教活動が忙しくなって以降は、日曜礼拝を若手にお願いすることになったので、オルガンに触れてもいなかった。
なんとかなるだろうと、当日の朝、練習を始めたが、すぐに事前に練習しておかなかったことを後悔するはめになった。うまく弾ける時も1度はあったが、ほぼどこかで躓くとあとはガタガタになることがわかった。手堅く右手だけでもいいかともおもったが、メンバーもよく知っている方ばかりだったので、まあお許しねがうことにして、本番に臨んだ。プチ発表会にでた気分である。まあ結果は、あんなものである。でも、ちょっとまた練習しておこうとは思うきっかけになった。

 今年の最初の日曜礼拝は、次女が法話のトップバッター。昨年の1月デビューだったので、これが2回目だが、堂々とした話ぶりである。
自分の身の回りの人間関係、友人も、恋人も、常に関係は無常で刻々と変化し、末通らず、結局、空しさをであったというのである。しかし、無常も、人生の空しさも、実は2500年前にすでにお釈迦様が説いてくださっていた人生の実相であり、末通る幸せを教えくださっている、その教え出会った幸せというようなテーマであっただろうか。あまりにも身近なテーマすぎたこと、そして「自分の薄っぺらさを知らされた」と座談会で話していたが、もうそれが知らされたならば、たいへん尊いことでもある。

 子供の参加もなく、参加者は少なめだったが、長女が司会進行し、次女が法話を担当し、ぼくがオルガンを担当できたことだけでも、うれしいことである。

 

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修正会(2)~地震~

法話の後は、信仰座談会である。新年は、一言ずつ、昨年を振り返ったり、今年の抱負を語ったりすることにしている。法話を感想を述べる方もあったが、だいたい2/3ぐらい終わったところで、「あれ? 揺れている」と思ったら、誰かが「地震ですね」との声。すごく大きく揺れたわけではないが、長く、ゆっくりした揺れで、外の行事鐘が大きく揺られいるのがみえる。どこかで大地震が起こったことを直感させられる。みんなが一斉にスマホを出して、能登地方が震源地であること、京都南部の最大震度は4などという情報が飛び交う。自然と座談会は中断となって、皆が、口々に感想を言い合っている。「ひとりならもっと怖かった」とか、「この建物は大丈夫だ」とか、「避難通路のドアを開けておきましょう」とか、中には「ぼくのスマホでは京都は震度1です」という方まで現われる。震源地に近い富山からの参加者は、切実な心配になっている。ぼくも、ただ不気味な感じがして、怖いなーしかなかったが、防火、防災の責任者として、会合時の避難の段取りも、冷静に身につけておかねばならないとも思った。

結局、いくら有り難いとか、勿体ないとか言ったところで、一たび地震でも起これば、もうこの有様で凡夫の生地があらわになってくる。もしこの地域が震度6以上の揺れに襲われていたなら、だれも呑気に座っておれず、みな必死で、身をかばい、騒ぎ、逃げまどい、仏法も完全に失せてしまうことだろう。いや、まったくお聞かせに預かっているとおりのお粗末な姿である。そこが有り難いところなのだが、どこかでそんな虚仮の身を頼りに、そこに起こった有り難いことを証拠に、信者面していくのだから、本末轉倒である。

身で聞くとは、まさにこのようなことをいうのであろう。

 

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修正会(1)~華光出仏~

 今年も、新年の初頭にあたり、一同で、『正信偈』「現世利益和讃」をお勤めさせていただくことからスタートした。

 法話の前半は掛軸の説明。江戸時代の浄土宗の高僧、徳本上人の「南無阿弥陀仏」の拓本のおいわれ(若い日、増井先生と伊藤先生が、和歌山のお寺で拓本されたもの)、もう一幅の善導大師のご旧跡である玄中寺で購入した雪景色の玄中寺の風景画について説明する。そして、いつも見慣れている扁額の「華光出仏」から、その意味をもう一度お話しした。『大経』上巻の最後にある極楽浄土の有様を「華光出仏」のご文として出されているが、そこから、親鸞様は次ぎの3首の和讃を造っておられる。

 一々のはなのなかよりは 三十六百千億の
 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし

 一々のはなのなかよりは  三十六百千億の
 仏身もひかりもひとしくて 相好金山のごとくなり

 相好ごとに百千の  ひかりを十方にはなちてぞ
 つねに妙法ときひろめ 衆生を仏道にいらしむる

   昨年12月の聖典講座が『口伝鈔』の開出三身章だった。平たくいうと、釈尊を始めすべての諸仏方は、みな阿弥陀様のお浄土から現われて、そしてその諸仏の国々で弥陀の本願を説くことを出世の本懐として、極楽浄土から現われてお出でになったというのである。だから、諸仏方からみれば、報身仏の形をとっているが阿弥陀如来こそが、すべて諸仏の本師本仏というのである。

 お浄土の美し蓮の華の、一つ一つの花びらから、六×六=三十六、それが百億千、つまり三十六百億千の光を放ち、またその一つ一つの光から三十六百億千の仏が現れ、またその御仏方がみ光を放ち、それぞれの国において、その国の衆生のために、阿弥陀様の本願の法、南無阿弥陀仏一つで仏と成ることがきでることをご説法されているのである。お釈迦様のその一仏だというのである。

 華から光が現われ、そしてその光から仏がでて、三世を貫き、十方に響きる無量寿・無量光の阿弥陀如来のご活躍が、このようにダイナミックに説かれているのである。南無阿弥陀仏

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元旦

令和6年1月1日。

雨も上がり、穏やかな元旦を迎えた。ただ風があって、拾い集めたばかりの落ち葉が、また駐車場を覆っている。

娘たちも、妻も、今年は着物姿。3名揃っての着物は初めてのことだ。

お節は、妻と長女の共同作業。娘は、30日、31日、新年も2日からデパートでバイトがある中での作業

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昨年同様に、今年も元旦を5名揃って迎えることが出来た。

午後からは修正会が始まる。

 

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明けましておめでとう

 恭 賀 新 年 

 皆様、明けましておめでとうございます。
 本年もどうぞよろしくお願い致します。

 京都は温かめですが、雨がシトシトと降っています。

 昨年は、ほぼ休業状態の「かりもんブログ」でしたが、心機一転、今年はボチボチでも進めたいと思っています。

 皆様、どうぞよろしくお付き合いください。 

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<左の掛軸は、雪中の玄中寺、右手は、徳本上人「南無阿弥陀仏」の拓本>

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