比叡山へ(4)~黒谷青龍寺~
風は冷たいが天気がいい。ハイウェーの展望台からも琵琶湖が一望出来たが、峰道からの景色もすばらしい。長く滋賀県に住んでいた長女も、この風景には興味津々であった。
まだ時間の余裕もあるので、念願の黒谷青龍寺に拝観することにした。20~30分、山道を歩かねばならないので、明朝には東京向う連れ合いは行かず、娘と二人で黒谷青龍寺を目指した。整備された道は平坦で、下り坂が続く。比叡山は標高848Mと高い山ではないが、都会の喧騒とはまったく異なった静寂さでここまで来ると誰も会う人はない。朝から歩き続けてかなり疲れていたが、娘は駆け足ですすむ余裕がある。15分ほど歩くと、道端に石仏群が現われてきた。青龍寺示す道しるべも何度か見かけた。
真盛上人のお墓がある。法然聖人といば、浄土宗と西山浄土宗の祖師であり、西山派は影響を受けた時宗、そして親鸞聖人の浄土真宗の元祖であるが、天台真盛宗は、比叡山の麓、坂本の西教寺を本山としている。
ここから石段の長い下り坂に入る。その先に、黒谷青龍寺がある。比叡山は、三塔(東、西,横川)十六谷と総称される。黒谷もその一つだが、「谷」の意味を初めて実感した。
『和語燈録』によると、その時の法然様は、自らの凡夫としての悪業煩悩の身を嘆き、自らは、戒・定・慧の三学の器ではな、聖道自力の落第生としての自覚の上に、報恩蔵といわれる経蔵にこもり、「なげき、なげき経藏にいり、かなしみ かしなみ聖教にむかて」おられる。また法然様の伝記『拾遺古徳伝』(覚如上人の著作)によると、この時、一切経を披くこと五遍、そしてその中でも、『往生要修』を指南として、善導大師の『観経四帖疏』を別して、披くこと3度、ついに、
「一心に専ら、弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者これを正定の業と名く。彼の仏願に順ずるが故に。」(一心專念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故)
の文によって回心体験される。
法然様43歳の時のことであった。その廻心体験は、自己の内だけに留まらず、比叡山を降りる決意となって、吉水の地での専修念仏の布教がはじまるのだから、この年をとって、浄土宗の立教開宗とされているのである。
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