名古屋での寺院布教
納骨法要の翌日は、翌日は、名古屋の寺院布教。10月から12月の寺院布教は、すべて報恩講の会座である。ここは一座勤め。一席だけで、すべてをお伝えするのは難しいが、今の自分の居所を含めて聞いてもらった。
特に前席は、法話らしからぬ話もした。
自分のほんとうの気持ち、願いをよく知って、それを相手にも伝え、共有する形で歩んでいく道を求めてることを伝えた。ほんとうの気持ちとは、社会や教育で刷り込まれた「こうせねば~」「〇〇であらねば」「〇〇でねばならない」では、また単なる喜怒哀楽といった感情に巻き込まれることでもなく、わたしの根底に流れるいのちの流れに触れていくことである。文章にすると易いようだが、これを実践することは難しく、ほとんどの場合、自分のほんとうの気持ちに気づかず、目を背けてきたり、誤魔化したり、または無意識に押さこんだりとして、妥協したり、我慢して、周りと折り合いをつけながら生きているのである。それは念仏者であっても同じことである。特に、真宗念仏に生きることは、時に社会の常識を超えることであり、決して多数派の楽な道ではないからだ。それは、今の真宗教界の中での、自分の立場でも同じことである。そのことを分かり合えないことを嘆き、憤りのでも、単なる他者批判で終わるのでもなく、同じいのちのところで分かち合い、共に進んでいく道はないのか。そこを、より正確に気づき、表現し、誤魔化さずに生き続けられたのが親鸞聖人ではなかったかと思うからだ。まだまだ自分自身でも道半ばのところなだか、何か今のところで表現して起きたかった。反応は「?」であったが、自分自身でも、このあたりしっかりと考えていきた。
終了後、カフェでおいしいコーヒを頂き、お参り下さっていた華光の皆さんと「世界の山ちゃん」で懇親会。
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