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2022年10月の15件の記事

名古屋での寺院布教

 納骨法要の翌日は、翌日は、名古屋の寺院布教。10月から12月の寺院布教は、すべて報恩講の会座である。ここは一座勤め。一席だけで、すべてをお伝えするのは難しいが、今の自分の居所を含めて聞いてもらった。

 特に前席は、法話らしからぬ話もした。

 自分のほんとうの気持ち、願いをよく知って、それを相手にも伝え、共有する形で歩んでいく道を求めてることを伝えた。ほんとうの気持ちとは、社会や教育で刷り込まれた「こうせねば~」「〇〇であらねば」「〇〇でねばならない」では、また単なる喜怒哀楽といった感情に巻き込まれることでもなく、わたしの根底に流れるいのちの流れに触れていくことである。文章にすると易いようだが、これを実践することは難しく、ほとんどの場合、自分のほんとうの気持ちに気づかず、目を背けてきたり、誤魔化したり、または無意識に押さこんだりとして、妥協したり、我慢して、周りと折り合いをつけながら生きているのである。それは念仏者であっても同じことである。特に、真宗念仏に生きることは、時に社会の常識を超えることであり、決して多数派の楽な道ではないからだ。それは、今の真宗教界の中での、自分の立場でも同じことである。そのことを分かり合えないことを嘆き、憤りのでも、単なる他者批判で終わるのでもなく、同じいのちのところで分かち合い、共に進んでいく道はないのか。そこを、より正確に気づき、表現し、誤魔化さずに生き続けられたのが親鸞聖人ではなかったかと思うからだ。まだまだ自分自身でも道半ばのところなだか、何か今のところで表現して起きたかった。反応は「?」であったが、自分自身でも、このあたりしっかりと考えていきた。 
 
 終了後、カフェでおいしいコーヒを頂き、お参り下さっていた華光の皆さんと「世界の山ちゃん」で懇親会。

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納骨法要

 一昨年の2月22日にご往生された法子さんの納骨のために、お墓に向う。

 車を北に走らせて福王子まで。福王子神社に突き当たり、左に進むと御室・仁和寺、右手の鳴滝方面に進む。このまま直進すると周山街道となり、紅葉の名所の神護寺がある(来月のブログで紹介予定)。細い道を左折し、坂道を登る。両サイドにはお屋敷が並んでいる。昔の映画スターの別荘もあったという。かなりの急坂を登っり切った場所に霊園はあった。

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 京都中心街が一望できる場所できる。紅葉にはまだまだ早いが、京都駅周辺の再開発の様子も遠目に見えていた。

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 勤行の後、「南無阿弥陀仏」と刻まれた墓地に、無事に納骨された。短い法話もした。「こんな暗い穴の中に法子さんはおられませんよ。南無阿弥陀仏として還相されています」と。ご主人も子供たちも、ここは頷いて聞いてくださる。むしろ、故人の追悼というより、葬儀や年忌法要、そして納骨も、残されたものが、その現実、悲しみをどこかに収めて、次ぎに進むための大切な儀式(区切り)となるものである。十数年経ても、納骨出来ないまま遺骨を奉っておかねばならない方もおられるが、どこかで現実を受けいれて、止まった時間を進めて行かねばならない。

 三回忌を区切りに納骨をすませて、老舗の料理屋で会食をする。コロナ禍で会食ができなかったこともあって、喪主の強い希望で実現した。何分、葬儀も納骨も、喪主さんが仕切るのは初の経験で、いろいろと心配が絶えなくて細々と相談が続いたが、無事に、ここまで来ることができた。故人の一番の願いであった法の話も出来る人達であるので、故人を偲びつつ、いいお酒を呑ませてもらった。ありがとうございました。南無阿弥陀仏

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映画「千夜、一夜」を新潟で見る

 法座は2日間だが、最終日は夜に食事会(懇親会)があって、例年、もう1泊させてもらう。今年は、午前中の予定はなく、少し観光を考えたが、交通の便がうまくいかなず、このまま帰ろうかと思った。が、初日、ホテルの窓から映画館が見えていた。歩いて2~3分、駅前にある。しかも会員になっている劇場で、上手い具合に朝一番に観たい映画が上映されていた。

 『千夜、一夜』 は、ある北国の離島が舞台。新潟県の佐渡市や新潟市で撮影されている。地味な映画だか、地元新潟が舞台ということで、この映画館では力を入れていた。

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 テレビの連ドラは、今が旬で、視聴率の取れる同じような俳優が主演するドラマばかりだ。その点、映画には、ベテラン俳優でじっくり撮られた作品がある。これもその一本で、田中裕子が、わずかに残された幸せな時の声だけを頼りに、30年間以上、帰らぬ夫を待ち続けるという作品だ。

 日本人の失踪者が年間約8万7千人!(警察に届けられた件数)もいることに驚いた。日本海側の失踪者には拉致問題(特定失踪者)が絡んでいるが、ただ事件や事故に巻き込まれたケースは稀だ。最近は、認知症によるものもあるそうだが、大半が、自らの意志で大切な人を捨てて、ある日、突然、行方不明になるというのだ。しかも、残されたものに、失踪の理由が思い当たらない場合も多いという。昔なら「神隠し」と言われたこともあるだろう。

 ただし失踪の意志がある、なし(事件や事故)にかかわらず、残されたものは、その理由が分からず、安否すら不明なまま、その帰りを待たねばならないのだ。

 帰らない人を帰ると信じて待つ。それが愛なのか。それとも諦めるならば、何が区切りとなるのか。「待つ」ということがテーマの映画でもあった。

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三年ぶりの新潟寺院布教

 三年ぶりに新潟での寺院布教があった。これまでの2年間は、1カ月前まで開催を検討下さったが、8月の感染拡大のピークと重ねり中止となった。今年の感染状況も同じパターンだったが、コロナに対する対応や様子は違っていた。お斎や懇親会も換気のよい本堂で行なわれたが、それ以外は、例年どおりの開催となった。8月には、2年間延期れた富山での寺院布教もあって、北陸や新潟の同人方とご縁を結ぶ機会をいただけた。

 新潟は、少し変則的な法座で、法話は門徒さん向けに3座。その後、場所を移して座談会が2回あったが、こちらは新潟や富山の同人向けである。その意味では、どちらに焦点を当てるか難しいところだ、器用に使い分けができるわけではないが、なるべくテーマは分かりやすく、それでも少しでも「問い」となってもらえるようなテーマを選んだ。やはりご門徒さんには難しかっただろう。もともと仏法は易しい法ではあるが、常識や分別を超えているという点では、聞くにがこれほど難しい教えはない。常識や分別を超えていくところでの問い、自己への疑問となるようなテーマを選ぶが、もう半歩でも出てもらうことの難しさをいつも感じている。

 ところで、寺院布教では、惚れ惚れとする上手い(名人が出て来られる)声明を聞かせていただことがある。が、ここでは、住職始め出勤の僧侶たちが、全力で声を張り上げて本堂に響く声明だった。上手い、下手ではない。ぼくの腹にも、ズシン、ズシンとその声が響いてくる。これが一番、有り難かったなー。

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比叡山へ(4)~黒谷青龍寺~

  風は冷たいが天気がいい。ハイウェーの展望台からも琵琶湖が一望出来たが、峰道からの景色もすばらしい。長く滋賀県に住んでいた長女も、この風景には興味津々であった。

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  まだ時間の余裕もあるので、念願の黒谷青龍寺に拝観することにした。20~30分、山道を歩かねばならないので、明朝には東京向う連れ合いは行かず、娘と二人で黒谷青龍寺を目指した。整備された道は平坦で、下り坂が続く。比叡山は標高848Mと高い山ではないが、都会の喧騒とはまったく異なった静寂さでここまで来ると誰も会う人はない。朝から歩き続けてかなり疲れていたが、娘は駆け足ですすむ余裕がある。15分ほど歩くと、道端に石仏群が現われてきた。青龍寺示す道しるべも何度か見かけた。

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 真盛上人のお墓がある。法然聖人といば、浄土宗と西山浄土宗の祖師であり、西山派は影響を受けた時宗、そして親鸞聖人の浄土真宗の元祖であるが、天台真盛宗は、比叡山の麓、坂本の西教寺を本山としている。

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 ここから石段の長い下り坂に入る。その先に、黒谷青龍寺がある。比叡山は、三塔(東、西,横川)十六谷と総称される。黒谷もその一つだが、「谷」の意味を初めて実感した。

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 黒谷青龍寺は、法然聖人ご廻心の聖跡である。
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 『和語燈録』によると、その時の法然様は、自らの凡夫としての悪業煩悩の身を嘆き、自らは、戒・定・慧の三学の器ではな、聖道自力の落第生としての自覚の上に、報恩蔵といわれる経蔵にこもり、「なげき、なげき経藏にいり、かなしみ かしなみ聖教にむかて」おられる。また法然様の伝記『拾遺古徳伝』(覚如上人の著作)によると、この時、一切経を披くこと五遍、そしてその中でも、『往生要修』を指南として、善導大師の『観経四帖疏』を別して、披くこと3度、ついに、

「一心に専ら、弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者これを正定の業と名く。彼の仏願に順ずるが故に。」(一心專念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故)

 の文によって回心体験される。

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 法然様43歳の時のことであった。その廻心体験は、自己の内だけに留まらず、比叡山を降りる決意となって、吉水の地での専修念仏の布教がはじまるのだから、この年をとって、浄土宗の立教開宗とされているのである。

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 ここまで訪れる方は少なく、芳名録に記入したが、平日には1~2名にというところか。ある意味、ここでの法然様の善導様の出会いがなければ、親鸞様と法然様との出会いもなかったわけで、ぼくのところまで真宗念仏が届くこともなかったと思うと、感激も一入だった。
 南無阿弥陀仏
 感激で青龍寺を後にしたが、帰路は長い上り坂が続いて大変でした。

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比叡山へ(2)~椿堂~

 車なら比叡山ドライブウェーを使えば(別料金になるが)、すぐに西塔につく。

 駐車場からは、すぐのところに目的地の椿堂があった。 

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   思っていたよりも、ずいぶん近く、また小さなお堂であった。もうすっかり忘れていた。

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 聖徳太子1400年御遠忌を記念して、この椿堂がご開扉されている。その伝承されるおいわれはこうだ。「その昔、比叡山に登られた聖徳太子が、山の一角に光を放つ霊地を見つけられ、そこにお堂を建立され、守り本尊である観世音菩薩を安置された。そしてそこ持っていた椿の枝を突き刺されたら、その枝がみるみると成長して大きな椿となり、いつしか椿堂と呼ばれるようになった」というのである。もちろん、その後、焼き討ちにあって再建されたものである。

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 本尊の千手觀音像が光り輝いていた。この中に、胎内仏として弥勒菩薩像も収められているのだが、現在、国宝殿で見ることができるが、もちろん初公開である。

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 せっかくの勝縁です。機会があればぜひお参りください。12月4日まで、開扉中。

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比叡山へ(3)~浄土院~

 椿堂の真向かいにこんな石碑が建っていた。

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「聖光院跡」~親鸞聖人住持の寺~。あくまでも伝承だが、親鸞聖人が住職をされていたお堂の跡だという。

 しばらく進むは、「親鸞聖人修行の地」という石碑があり、弁慶が担いだことから「にない堂」と呼ばれる「常行堂」と「法華堂」がある。いま、堂内で修行中なのでで、静粛にするように掲示される。ここは観光地はではなく、出離大事の修行の場なのである。

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 西塔の中心である「釈迦堂」にお参りすると、すぐ脇に黒谷青龍寺の方角を示す案内の石碑がある。が、ここからだとまだかなり距離がある。

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 来た道を「椿堂」まで戻った。「浄土院」を目指すかどうかは迷った。2016年の聞法旅行ではここは行かなかったが、東塔から西塔への徒歩ルートの途にあるから逆戻りの道となるからだ。行きは下り坂、帰路は登り坂となる。

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 「浄土院」は、伝教大師の御廟で、比叡山でもっとも清浄な聖域だという。別名、掃除地獄とも言われる場所で、塵一つ残さぬようにきれいに掃き清められている。

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 ここで十二年間の籠山行を行なう侍真僧は、生前同様に伝教大師に仕えるというのである。昨年(3年)4月に、戦後7人目の満行のニュースが報道に接して、久々にお参りさせてもらったが、静かな感動があった。

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 まだ3時前だ。黒谷青龍寺を目指すために車で、峰道レストランへと向った。

京都の親鸞聖人聖跡巡拝の旅(6)~ご修行の地・比叡山(西塔篇): かりもんの実践的!真宗法座論 (cocolog-nifty.com)


 

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比叡山へ(1)~修復工事中の根本中堂~

 今年の12月4日まで、聖徳太子1400年御遠忌を記念して、太子ゆかりの「椿堂」が初めて一般にご開扉されているので、ぜひ、訪れたかった。長女は比叡山に行ったことがないといのうで、彼女の創立記念の休講日に出向いた。

 聞法旅行や日校の遠足など何度も訪れてきた比叡山だが、久々にプライベートでの参拝だ。行きは、白川から山中越で登る。クネクネとした細い山道だが、距離には案外近くて、1時間もかからずに到着。
 紅葉にはまだまだ早いが、ほんの一部は赤くなっている。風は冷たく、さすがに一足、季節が早く、厚着をしてきて正解だった。

 まずは東塔にある国宝殿へ。いま「比叡の霊宝」という特別展が開かれている。ここは初訪問だが、国宝の衣や書物、重文の絵画や祖師像に不動明王と、見覚えのある展示品が多かったのは、今春、京都国立博物館で「最澄と天台宗のすべて」を観たからだ。それでも十分、見応えはあった。

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 比叡山で修行した高僧たちが顕彰される大講堂(重文)から、国宝の根本中堂へ。

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 ところが根本中堂は、現在、大改修中だった。前回(2016年)の拝観はは、その直前だったようだ。V

京都の親鸞聖人聖跡巡拝の旅(5)~ご修行の地・比叡山(東塔篇): かりもんの実践的!真宗法座論 (cocolog-nifty.com)

 初めての方には残念だろうが逆に新鮮で、貴重な風景だ。10年もの歳月をかかるというのだから、たいへんな作業である。伝教大師最澄が結んだ草庵が元だといわれ、本尊は秘仏だが、最澄が刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられている。特に有名なのが、最澄の灯した灯火が、1200年間一度も消えることなく輝き続けている「不滅の法灯」である。比叡山延暦寺の中心なので根本中堂と言われている。

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 急な石段を登って重文の文殊樓へ。延暦寺の山門にあたるそうで文殊菩薩か奉られていた。

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そこから延暦会館に出て法然堂に行こうかと想ったが、道はまだ長いので、急坂を降りかけて引き返し、腹ごしらえをして、西塔に向った。

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笹の墓標展示館 全国巡回展の法要

 朝から雨が降っている。着付教室に出かけていた連れ合いを京都駅前で拾って、そのまま二人で本願寺聞法会館に出向いた。

 「北海道・笹の墓標展示館」の全国巡回展の京都会場(本願寺聞法会館)の初日に合せて、追悼法要が営まれる。ぼくも法中として法要に参列。導師が、昔からよく知る信楽ゼミの大先輩である。他に、浄土宗西山派の僧侶がお二人、浄土真宗は本願寺派と大谷派の僧侶が各一名。宗派は違うが共通の経典がある。『阿弥陀経』という話もでたが、呉音と漢音(かんのん)違いがあるので、『重誓偈』(浄土宗は『四誓偈』、大谷派『三誓偈』)が勤まる。表白から始まり粛々と進む。

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 法要の後、しばらく毛利悠先生と歓談。その後、連れ合いがお世話になってきた宗平協(宗教者平和協議会)の方に引き合わせてもらう。聖護院門跡の宮城泰年先生も、今週はここに助っ人にお出でなるのだが、残念ながら今日はお会い。

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 これまで体験することのなかったこと、会うことのない方々の出会いもあって、不思議な気分で帰宅する。

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 夕方、突然の訪問者がある。これまで2度(その方のお父さん(ぼくには父親と同世代の遭った事のない従兄弟)のご往生の時にお世話するご縁)で会ったきりの親戚が訪ねてくる。「ああ、こんな頼みごともあるのね」とまたまた驚いたが、これもなにかのご因縁なのだろうからと引き受ける事にしたが、ほんとうに大丈夫かは不安。まったく予想外のことでかなり驚いた。
 
 そんな気持ちのまま、次女の誕生日に祝いを兼ねて家族で会食する。場所は、親鸞聖人の霊夢の地、六角堂のビルで、エレベーターから六角堂を眺められる。ライトアッされた六角堂を、不思議な気分で眺める。

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 なんか朝から晩まで不思議な1日が終わった。

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『口伝鈔』第四条

 5月 第一条「安居院参向章」
 6月 第二条「光号因縁章」
   (「光明名号の因縁といふ事」
 7月 第三条「無碍光曜章
   (「無碍の光曜によりて無明の闇夜はるる事」)
 8月 第四条「善悪二業章」の前半
   (「善悪二業の事」
 
 今月は、9月の休みを挟んで、第四条「善悪二業章」の後半を読んだ。たいへんボリュームのある章で前・後半二回に分けて頂いた。善悪の二業については、真宗安心の味わいの上でもポイントになるところで、『歎異抄』の主要なテーマでもある。その点を、若き覚如上人は唯円房に懇ろに教示されたと伝わっている。歎異抄の第一章のテーマに、第十三章のエピソード(千人殺害すれば往生は治定)が少し違った表現で登場することで、改めて『歎異抄』を読み返すと明確になる点があり、その意味でもよかった。改めて宿善や宿業の問題にも触れることができたが、善悪と本願の関係がテーマであった、おかげで、後半だけでもかなり時間を要し、講義が終わったのが16時50分になって、ほとんど分かち合えなかったのが残念であった。

 11月は、第五条「仏智護念章」を頂く。「自力の修善はたくはへがたく、他力の仏智は護念の益をもつてたくはへらるる事」と標題される章。初めての短い章で、分かち合いの時間も取れそうである。華光大会前ですが、奮ってご参加ください。

 11月13日(日)13時30分~17時
 『口伝鈔』第五条「仏智護念章」
 ZOOM配信もあります。

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聖典講座『口伝鈔』(1)

 『御伝鈔』が終わって4月から同じ覚如上人の『口伝鈔』を読んでいる。これがとても勉強になり、かつ面白い。華光に流れる法脈をヒシヒシと感じさせてもらっている。 
 『口伝鈔』は、その冒頭に「本願寺の鸞聖人、如信上人に対しましまして、をりをりの御物語の条々」とあるように、「本願寺のご開山である親鸞聖人が、孫である如信上人に対して機会のあるごとにお話された物語を(曾孫である私=覚如が承り)、そのいくつか列挙いたします」と始まる。いわば、もう一つの『歎異抄』なのである。

  4月に総説を行ない、5月から第一条から第四条まで進んできた。
  5月 第一条「安居院参向章」
(この 第一条と第九条だけとには標題はついていない。第一条「安居院参向章」の安居院とは、法然聖人の高弟「聖覚法印」のことで、朝廷が専修念仏を聖覚法印に批判させようという動きがあったことを察した法然聖人が、その使者として親鸞聖人を聖覚法印のもとに向かわせて、説得させようという時のエピソードが主題である。多くの法然門下の中でも、親鸞聖人こそが法然聖人が信任していた門弟であったことを、他の門弟(聖覚法印や西意善綽房)の言葉を通して明示される章である。聖覚法印を親鸞様は尊敬され、関東門弟たちにもその書の拝読を勧めれているのでも有名である。ところで、法然様の伝記である『法然上人行状絵図』は「四十八巻伝」とも言われるが、弥陀の本願に即して四十八巻もある。その第十八巻では『選択集』など法然さまの大切な教義が説かれるが、十八卷目が十八願に対応しているからだろう。そうすると、第十七巻は聖覚法印のエピソードが収めれている。比叡山の説教師として天下一と称された聖覚法印が、天台宗の高僧でありながら、法然さまに随順し他力念仏の教えを説かれたこととを考えると、これは十七願の諸仏称讃に対応するのではないかと味わっている。)

 

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東京支部法座~出遇い~

 今年、最後の東京支部法座。12月もあるが、別のご講師の法座である。

 改めていうまでもないが、仏法とは出会いである。親鸞様の「値遇」ではないが、たまたまの出遇いを、遠き宿縁を慶べと仰っている。出会いは、ほんとうに自分に出遇うことであり、またそこでしか阿弥陀様との出遇いもない。同時に、法友との出会いがまたそのすべてだといってもいい。

 「会うは別れの始め」という言葉もあるが、出会いがあれば別れもある。がしかし、ほんとうに出会った関係には別れはないのだ。出会いは必ず別れはあるが、出会った関係には別れがないのである。だからこそ、もうすでに往生されて現実には出会うことがなかった尾上実さんにも、おみとさんにも、お出会いさせてもらう不思議があるのだ。

 では、今、目の前にいる皆さんと、ほんとうに出会っているのか。聞いた、覚えた、分かったという世界ではない。お互いが、今、自分を「出」て「会」う世界。一度もあたことのないほんとうに自分に出会わせてもらう勝縁がここにあるのだが、東京の皆さんは、どうであったのだろうか。

 ぼくは、いつも欲張りすぎているのだろうかなー。

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尾上実法兄『最後の手紙』

 仏書に親しむ会は、尾上実さんの「最後の手紙」を読む。『悟痰録』から始まり、遺言となった27歳の時の『最後の手紙』を通して読ませてもらった。今年、一番、尊かったこときは、80年も前にご往生された尾上さんとの出会いである。そこから改めて「おみとさん」とも出会わせてもらった。もう今生では会うことはかなわないのに、なぜか、出会ったと想わされる不思議がある。ほんとうに懐かしい方だ。

「仏説がウソだと言われても出てくる念仏が承知しません。私はこの法と27年の生涯を取代えてもちょっとも惜しくないです。では、お浄土にてお待ち申します。南無阿弥陀仏」(最後の手紙より)

 11月は、同じく『華光出仏』に収録されている伊藤先生の『宿善の実の熟する頃』を読んでいきたい。

 11月3日(祝) 10時~12時「仏書に親しむ会」
  同 13時30分~16時30分「華光誌輪読法座」
 
 ダブルヘッダーです。輪読法座は80-4号の誌上法話。著者の追悼する思いもこめて輪読させてもらいましょう。
 

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仏青大会

 二次会のお誘いを受けたが、姫路からすぐに京都に戻る。連れ合いは、最後まで着崩れすることなくデビュー戦を無難にこなした。夜からは、華光会館での仏青大会に合流する。昼間は、親鸞聖人や法然聖人のご旧跡を回っていた。六角堂、青蓮寺、知恩院にお参りしてきたという。ちょっど『御伝鈔』で読んできたところなので、感慨も一入とのことであった。

 結婚式で出会った若者たちと同じ世代の皆さんである。ある意味、宗教二世ならぬ三世、四世、人によっては二十数世の方もある。一方で、成人するまで真宗とはまったくご縁のなかった方もある。宿善の不思議を想うしかない。今回は、決して活発な法座とは言えなかったのは寂しかったが、どうか、自称、仏法を喜んでいるという人も、また今求道中という人も、聞法の焦点を定めて求め、伝えていってもらいたい。「聞いた」の想い出にしたるには、まだまだ若すぎる(でもそんな輩も多いが、、。)。大いに働かせてもらおうではないなか。

 

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姫路での披露宴

 久方ぶりに夫婦で結婚式(披露宴)にお招き頂いた。しかも200名を超える大きな式である。コロナ禍で、披露宴が中止や延期となったニュースをよく聞いたが、今はコロナ対応をしながら大規模な式も行なわれるようになっていた。

 新郎・新婦とも20代前半。新婦は大学卒業を待っての式なので、参列者の大半が20代の若者。新郎側はお寺関係の方が多く、地元のお寺さんや役員さんで顔見知り方ばかりで、懐かしい方との再開もあった。

 連れ合いは、2年間通い続けている着物(着付)教室の成果を発揮して、着付けをして列席することになった。いわば公式戦初デビューだ。でも、それを決定するまでは紆余曲折。決まってからも特訓、特訓の日々で、結構大変だった。稽古も大切だが、実践、本番の席を経験しないと力は付かない。経験こそが自信につながることを、身をもって教えてくれた。

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 ぼくはぼくで、仲人のお隣の主賓席で、両家に向けてのあいさつだと会場で頼まれた。スピーチ依頼はあったけれど、よもやの大役である。新婦は初対面だし、新郎とは、何度か酒を酌み交わすしてはいるが、それほど親しくしている気持ちがない。ほとんどがお父様とのご縁である。とはいっても、その父親のことはよく知っているのかといえば、知っているようで知っていない。そう問うていくと、隣に座っている連れ合いのことが分かっているのか。結局、どれだけ、どけで出会っているのか。表面的なことは言えても芯のところでの出会いである。そして、ご法の上での出会いとなると、新郎との出会いはまだこれからだ。ということで、率直にその思いを述べた。新郎は新郎なりのご法の喜びをもっているし、自分を開きうち出せる力ももった希有な人である。だから、檀家さんたちはその姿を喜び、涙する。が、そご縁を離れた、真の仏法の喜びとなるとどうか。そこのところで出会えたとは思えないので、祝福の席だからこそ率直にそう述べさせてもらった。ぜひ、伴侶を得た節目に、真摯な仏道を歩んでほしい。それ以外に、ぼくが彼に贈る祝福の言葉はなかった。南無阿弥陀仏

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<ホテルから姫路城を臨む>

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