« 大須演芸場での「釈迦内柩唄」 | トップページ | 9月の高山支部法座 »

教行寺永代経

 京都の同人と一緒に、奈良県河合町の教行寺に出かける。朝、昼の2座に、終了後に少し座談会も予定されている。日常とは違う演芸場や芝居の雰囲気が、まだ続いているような不思議な感覚でいる。ご門徒さんに混じり同人の方も多くお参り下さっていた。

Img_6302

 朝座の法話は、「あなたは誰ですか」という、今、一番味わっているテーマ。難しい語句や教えでないが、自分に引き寄せるともっとも難しい問いである。大号尊者のエピソードや、先日の九州支部での出来事をとしてお一人お一人に問う。聞き覚えた正解では通れない厳しい世界。この関門を通っていくのは誰か?

 午後からは、「煩悩具足の凡夫」の煩悩について詳しくお話する。煩悩というと、腹が立つとか、嫉妬や欲深い浅ましい姿ぐらいで終わりだと思っている。でも、「具足」と言われる以上は、そんな生やさし話ではない。ちょっとした表面的な浅ましさで、大雑把に分かったことにしないで、少しだけ丁寧にお話した。

 煩悩とは、文字通り、「汚れたもの」という意だが、「身を煩わし、心を悩ます」ものである。煩悩に狂っているというこは、結局、我が身を狂わすことにほかならない。
   ます、隨煩悩という、いわば病気の症状のような煩悩が、二十個に分類されている。怒ったり、嫉妬したり、落ち込んだり、浮かれて平静を失うのも、煩悩の所為である。これらは、樹木でいうと枝葉のようなもので、その根には「根本煩悩」という大きな根が張られている。「無明」(痴)「貪」「愼」の三毒煩悩に加えて、「慢」「疑」「悪見」を合せて「六大煩悩」とも言われる。三毒煩悩については、よく聞かれているだろから、「慢」の七慢、「悪見」の五見(特に辺執見の「常見」(ずっと永遠に続く)「断見」(死んだらお終い)、そして「疑」(「あれこれ迷うさま、自信のない迷い」などについてお話した。日頃聞かないので実は聞いている。お正信偈でも「邪見驕慢悪衆生」とあり、「有無二見を離れる」と説かれているからだ。そして、そのさらにその一番の根っこにはあるのが、「我」への執着である。結局、これが煩悩の元ということである。そう考えると、ちょっといいことすることか、腹立ちは反省するといった生易しいものではないことが分かる。「オレが」の心の故に深く、永く迷い続けているのである。

 短時間だったが、華光の皆様との座談会も一言だったが、よかった。お世話になりました。

Img_6298
<雨が降ったり止んだり、蝸牛もノロノロと>

 

|

« 大須演芸場での「釈迦内柩唄」 | トップページ | 9月の高山支部法座 »

法座と聞法」カテゴリの記事