『悟痰録』最終回
今、華光会で販売している『悟痰録』には、貴伝名博著『春風吹かば』と尾上実著『悟痰録』の二編が収められている。今は、大先輩同人である尾上実さんの信仰体験記である『悟痰録』を輪読しているが、今月が最後だ。伊藤先生の書かれた手紙から、一気に、最後まで読み終えた。
褌(ふんどし)担ぎが無謀にも横綱にぶつかるように、何度も何度も、倒されて転び、そして起き上がってはまた倒されるを繰り返す求道の心境の描写は、24、5歳の青年の筆とは思えない。主には伊藤先生だが、おみとさんや同時代の同人にも叱咤激励されながら、時には自暴自棄になり、時には勇猛果敢にぶっかり、または冷静沈着だったり、あきらめたり、または率直に、自分の心境を語ったりと、とにかくあの手この手で求め続けておられる。
しかし、後生の夜明けはなかなか明けない。尾上さんも諦めないが、そこには、親身に、時に厳しく突き放しなからも、決して妥協せずに伝え、関わっていかれた伊藤先生という善知識がおられたからだ。そのお言葉が尊い。また求道の核心、廃立の要をついておられるのだが、今の華光でここを喜んでおられる方はどれほどあろうか。
そして思わぬところから宿善開発の時尅がやってくる。法座の時でも、また身構えて待っていた時でもない。まったく日常生活の予想だにしないところでお念仏が飛び出す。しかし、それだけでは終わらなかった。その時の心境を聞かれた伊藤先生の一言。
「やっぱりあんたは抜けているなー」と。
それを聞いた尾上さんは、逆に狼狽して、こんなことが獲信だとは認めずに否定の言葉を出しつづける。ところが、そうすればそうするほど、「さき程の電話をかけぶりを観ていてもわかる」などと言われる。「冗談じゃない」と否定する尾上さんとの対比が面白い。私が法を追いかけうちは法は逃げるのが、法に追いかけられてくると、否定しても逃げることが出来ないものだ。
約3年近い求道の歩み。2月から半年近く読んでくると、尾上さんと現実でも聞法上で関わっている錯覚を覚えていく。だから、結末は分かっているのに、最後は「間に合ってよかったー」とお念仏申さずにはおれない。また法を勧められる伊藤先生のお気持ちや心境をいろいろと味わうことが出来るところまでぼくもお育てを頂いてきたのである。
最後に尾上さんに送られた伊藤先生のお手紙の一部を引用して結ぼう。
「君達は何故獲信し損ねたと喜べぬか。『獲信せよ』とは教えるけれども、『獲信した』と受け取っては一つの驕慢の喜びである。これに反して『獲信せぬ』と思うのは卑下慢の悲しみである。これでは囲碁に勝って喜び、負けて悲しむのと同様だ。更に強い名人が前に現われた時に、また獲信の喜びを取られるであろう。
信心は棚からボタ餅が落ちるのを待つようなものではない。自分がボタ餅になって棚から落ちるのだ。信も如来も念仏も語り得る資格のない自分を知らせてもらうのではないか。子が慈悲を喜ぶのは孝養が出来るからではない。孝養出来ない自己を知る時に、慈母の前に悲泣する我を発見ずくのではないか。
我等は久遠の昔より如来を求めたのではない。我等の求めたのは自己の浄化のみだ。我等が諸行無常と知り、罪悪深重と気づくのは、実は如来から呼ばれているからだ。」
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