壮年の集い~法にかける執着~
壮年の集いの印象を一言でいうと、懇親会が楽しかった。会館での懇親会は3月から再開している。今回は同世代の気楽さもあるが、2年ぶりにお会いする方やコロナ以降で初懇親会など、再開ムードの楽しさもあって、全体にも高揚感があった。個人的には、最後の方にある先生からの問いに心を奮い立たったからだ。
「先生は、毎週、毎週、法座の連続で、『今日は行きたくないな』ーとか、虚しい気持ちになることはありませんか」
というような問いだった。意外だったのでその質問の根のところを聞き返した。華光同人といえども、真に分かち合える法友がほとんどいない。下手をすると、自己満足の独りよがりの法座で終わってはいないか。参加の皆さんが、「よかった、よかった」と喜んだとしても、単なるご縁のところ、今生のところで終わっているのはないか。そんな意味内容だっただろうか。
改めて、問いをわが胸に落としこんでみる。
確かに、体調の悪い時や忙しくて億劫な時もある。また発言しすぎたり、不要なことを言って、落ちこむことも多い。がしかし、基本的に、ご法座はいつも楽しみにしている。特に、最近はその思いが強くある。出会いが待っているからだ。そう感じさせてもらう背景には、一つはカウンセリングを学ばせてもらったことで場を信じる力をもらったことがあるだろう。が、一番は、法座に臨む姿勢を示してくださった先達に出会ったおかげである。善知識でもある父の存在が大きい。それをお手本に歩むことが出来るからだ。
たまたま目にした父が54歳の仏青大会での「誌上座談会」の文章(今は要約)を思い出した。
法にかける執着(法執ではない)。すべてが法の中での出来事、生活のすべてがそこに集約されていく。今まで歩いてきた道筋は、より頑固に法に強くなってきたという気持ちが強い。法に生かされているのだから、一人で喜んでいては勿体ない。一人でも聞いてもらいたいという願いになる。見事に育てられてきた。
朝のご法話は、世間、今生や自分事ではなく、法にかける執着を一つのテーマに。
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