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聴聞不足~言葉に囚われる~

 土曜日、名古屋での「東海支部法座」、日曜日は「広島支部法座」、そして翌日は祝日で「華光誌輪読法座」。3連休は連続法座で、「聴聞不足」をテーマに、東海と広島はご法話をし、京都では華光誌の巻頭言を輪読して、分かち合った。

 法話の内容は同じ素材でも、前日の法座でのエピソードが加わることで力点が変わっていった。その都度、その都度の皆さんの反応のおかげで、ぼく自身も改めて理解や味わいが深まっていったし、メンバーが変わることで、こんなにも反応が違うことに驚かされたりもした。

 ただ、どこにもずいぶん偏っていた聴き方をしておられる方がおられる。とことん自分のこだわりを大切に、そこで教えのよしあしを判断されているのである。残念ながら、その聴き方では、百座、千座の聴聞もなんの役にも立たない。約立つととか意味があるを第一に、しかもその基準がすべて自分の方にあるのだから、いくら聞いても仏法にはならない。仏法は、その判断している自分こそが、迷っている、間違っていると聞くばかりなのである。でも、世間的には頭のいい、学や社会的地位もある方に限って、理性を中心に、学問でわかったり、根拠で判断して、自分が納得したものだけを受け入れていこうとする傾向にあるようだ。しかし、そんな姿勢では、佛様がみそなわされた私自分、その自分が問われてくることは絶対にないのである。残念ながら、それをいくら指摘したとしても、平行線で終わっていくようだ。結局は、自分の判断での「分かった」とか「そう思う」「ここは信じられる」「ここはそう思わない」を繰り返すばかりである。つまりは、文字通り「さっぱり」のなのである。このサッパリにはもう一手あって、スカッと抜けたさっぱりの方もあるのだが、こちらち極々少数で、支部に一人おられるかどうかだ。

 みんな言葉に囚われていくのだ。

「聴聞不足」と聞くと、「不足」の言葉に囚われて、回数や量を増やすとする。熱心に聞いている人は、不足ではないと自惚れていくだけだ。聴聞の質を問うとても、所詮は、「もっと熱心に聞かねば」「真剣に聞かねば」と、自分の聴聞姿勢を叱咤するばかりで、法に真向きになることはない。

 そうではなく、「捨てもの・拾いもの」と「後生の一大事」の結び目のない聴聞は意味がないと聞かされると、「これからはその二点を結び目に聞きます」などと、すぐ分かったように宣言する。

 何故、言葉に囚われていくのか。言葉に囚われるのは、その言葉が理解できる、分かると自惚れているからである。そして、理解することが聴聞だと勘違いしている。だから、そうなっていないと嘆き、またそうなるように頑張ると宣言し、その仰せをスローガンのように唱え続けるだけでは、せっかくご法を聴聞しながら、自分に触れることのないまま、この貴重な人間界を空しく終えてしまうだろう。

 それでは、あまりにも勿体ないのではないか。

 聴聞はこの世の常識は役に立たない、つまり賢い私も、善い私も、役立つどころ法の妨げになるばかりだ。聞くのなら、ここを聞かせてもらいたいのだ。

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