« 飛騨大鍾乳洞 | トップページ | 6月の東京支部法座 »

真宗法座の集い~体験告白からのグループ分け~

  真宗法座の集いは、少人数(20名)を厳守し、全日程参加を原則としている。少人数のグループに分かれて、座談会をじっくり行うことに意味があるので、法話もない。信・未信に関わらず、それぞれが自分の課題をもって臨み、創造していく法座だ。

 コロナ禍でも休まずに開いていたが、やはり人数は少なめだった。今年は久々に定員まで集い、懇親会の参加も多くて盛り上がった。華光会館での公式な懇親会(非公式ではあったが)は、やっぱりいい。徐々にではあるがもとの形態に戻りつつある。ただこの3年間、参加しなくなった人の出足は戻らない。このままフェイドアウトしていかれるのだろうか。それではあまりに寂しい。

 さて、今回の集いの進行は予想外の展開となった。毎回、グループ分けに時間がとられる。無駄に見えても、それぞれの居場所を確かめていくことに意味があるプロセスだ。ただ、2日間という限られた時間の中では、長時間、相談が続く、時間が惜しいという声も上がるのも、一理ある。

 が、今回ほど、自然な流れで、グループ分けが出来たることも珍しい。最初の全体会で、一通り、みんなが声をだし終わってから、ある長期間悩んでおられる方が、自らの心境を話す機会を申し出られた。でもその方に関心のある方も、ない方もある。皆で話し合う流れの中で、他の方からも、同じような体験告白(今の居所を聞く)を聞いてはどうかという展開になった。最初に声を出された方は、直前の支部法座でも話しておられて、手製パネルまで造ってこられていた。他の方は、その場で募り、ぶっつけ本番である。いつもの信仰体験発表のように、「生まれは…」「ご縁は…」といった部分は省略して、いま、いまの、自身の居所を中心に話して頂くことになった。いま、どこで仏法を喜んでいるのか。またはどこが疑問で、引っ掛かっているのが、率直な告白である。持ち時間も、15~20分程度。強制はしないこと、また喜んだと自称する人ばかりではないこと。不審は不審のまま、ありのままに話してもらい、まずはしっかりお聞かせ頂こうということになった。
 老若男女、聞法の長短を問わず、また(自称)信、未信を問わず、4名の方が登壇されたが、これがとてもよかった。話の聞く方も言葉尻や、上辺をとらえるのではなく、そこにひっかかったり、こだわたり、また冷静な自己分析ありで、こちらで見ている目と、自己で見ておられる目とのギャップがはっきりしたりと、なかなか意味があった。

 そしてそのまま、先生や世話人ではなく、お話くださった方を中心にしてグループ分けてなったが、これが自然で、グループ内でも活発な分級座談会になったのではないか。その内容は、いろいろと言いたいことや感じたことがあったが、今回はこの辺で。

|

« 飛騨大鍾乳洞 | トップページ | 6月の東京支部法座 »

法座と聞法」カテゴリの記事