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2022年6月の9件の記事

「ブッダのお弟子さんたち」展

 龍谷大学ミュージアムに「ブッダのお弟子さんたち」展を観に行く。同展は2020年に開催直前で、新型コロナ感染拡大で中止になった展示だ。

 

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釈尊のお弟子と言えば、十大弟子が有名だ。特に指定された経典があるのではなく、伝承によって10名で、2.3名は出入りはある。それでも、舎利弗、目連、大迦葉、富楼那、須菩提、羅ゴ羅、阿難各尊者などの上足の仏弟子はだいだい同じ顔ぶれである。

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 歴史的に観れば、釈尊の成道の後、鹿野園(サールナート)での初転法輪の相手である五比丘からブッダのお弟子は始まる。彼らは、以前、共に修行したお付きの弟子でもあったが、釈尊が苦行を捨てた時、堕落したと非難して離れていった。が、釈尊がお悟りを開き「この境地を伝えたい」と思った時、すでに二人の(瞑想の)師匠は亡くなっており、彼らならばきっと聞いてもらえると思った人達である。その後の経緯は有名なので省略するが、仏教の始まりは、釈尊のお誕生でも、成道でもなく、この鹿野園(サールナート)での初転法輪で、「仏法僧」の三宝が揃った時である。特に、一番弟子のコンダンニャ(驕(りっしんべん)陳如・「大経」では了本際)が、釈尊のご説法によって、最初に法眼を得た時、おもわず釈尊も「アンニャン・コンダンニャ」(コンダンニャよ、汝は知了した)と喜ばれた。釈尊にとっての最良の時であり、その後、五名の比丘は、次々と真実の眼を開いていかれる。ここに「六人の比丘が誕生」して、仏教教団が始まるのである。

そして今度は釈尊の涅槃によって、ほんとうの意味での仏教が始まるといっていい。その時、釈尊の遺命を奉じて法灯を護っ

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て行く仏弟子十六名を、十六羅漢として尊重されている。もっとも伝説(伝承)の域をでないもので、別に『阿弥陀経』に説かれる「舎利弗」から始まり16名の仏弟子を指すこともある。それでも、実際は、釈尊の遺命を頂き、その志を引き継いで、仏教が流通していたのは、多くの仏弟子たちのおかげである。そんな伝道・伝承者たちの尊い歩みが、十六羅漢の伝承を産んだのであろう。今も有名な掛軸や絵図などに残されて語り継がれている。

他にも、釈尊滅後の第一結集の時に集った大迦葉を上首にした500名の仏弟子を、五百羅漢と称することもある。日本でも、五百羅漢の石造などをおまつりするお寺が各地にある。
 
 そして最後に、忘れてはならないことがある。この末法にあっては、無戒名字であっても念仏者こそ、立派な仏弟子であるのだ。釋〇〇という法名を頂くわけだが、本来は他力念仏を頂いたものを、釈尊は「わが善き親友よ」と讃えて下さるのである。姿、形は違っていても、他力念仏の教えには釈尊の真精神が息づいているのである。南無阿弥陀仏

 

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支部長研修会~支部長の役割~

 支部長さんに新しい顔が増えてきた。一回りして再度ベテランが受け持つ支部もあるが、主は、初参加者や2回目の方で、新鮮な顔ぶれだ。

 喜んでばかりもいられない。これまでの支部の成り立ちや背景などの学びがなく、十分なレクチャーがないまま引き受けておられる。支部長研修会の意味も分かないまま参加していると、正直に話しくださる方もある。その率直さが有り難った。とにかく支部長を決めたいと、丸投げしている支部があるようだ。そして2年ほどで、次の新人にバトンタッチでは十分な引き継ぎもできない。多くの皆さんに役割を担ってもらうことは大切だが、支部長の役割がいかなるものかを時間をかけて学んでもらう必要があるのではないか。それだけ支部長という役割は大きい。

 そもそもなぜ、各支部法座が行なわれているのか。その支部が起こってきた経緯は? そこすら理解されていない支部長もおられる。即、実践しながら学びもいいが、2年交代となると、支部長が事務係や雑用係の役割を担っているのにすぎない。支部員間のコミニケーションがとれているのか。支部長研修会の前後で、支部で会議をもたれているのか。報告のための支部法座でも報告会がもたれていないのだ。

 自分のやりたいことをやるために支部長になるのではない。まず支部長は、本部と支部のパイブ役になり、支部員を声をよく聞き、それを報告したり、2度の会議での本部での動きを伝える役割が第一番にある。そのためには、支部員の声を聞き、支部をまとめていくことが基本だ。それがうまく伝っていないのは、そのようなにお育てをしてこなかった先輩同人の責任である。以前のことだが、ある支部で、まだ3、4年目の新人を支部長にしたいとの申し出があった。その方は、社会的には人の上に立つ方で、人柄も申し分なかった。ただ仏法の上では新人だ。それをベテランの方が、「ぼくが、しっかりフォローして育てます」と宣言され、丁寧にフォローで育てあげ、4、5年後には、華光にとっても(役員になられる)なくてはならない支部長さんに成長されたケースがあった。いま、そんな実践をされている支部があろうか。丸投げして、うまくいかいなと批判するのでは、人は育たない。

 もちろん華光の場合、支部長は信仰の上で支部をリードする役割も担ってほしい。信の上で、不審がおった時、その相談を支部長にされる支部が、どれほどあるだろうか。まず、互いに信未信を厳しく問う。喜んでいる方は、さらにその味わいを深めていく。そのための支部長研修会であった。当然、真剣なビリビリするような集いだったが、何時の間にかそんなムードは消えてしまった。今回も、その点を指摘されるベテラン勢があった。しかし、それは新人の責任ではない。その時のムードを知る我々の責任であることはいうまでもない。結局、華光に関わる、またリードする一人一人の責任であることに、もう一度立ち返ろう。

 釈尊当時から、仏教教団(サンガ)には、一人前の比丘・比丘尼に育てるための教育機関という役割を果たしてきた。決まった師匠に付き、一定(5年間)の見習い期間、教育期間を経ることが必要で、それは現在に至るまで(律がない日本を除く)すべての仏教教団で受け継がれいることだという。

 その点では、我々も大いに考え直す必要があると実感させられた。今回は意味のある研修会となった。南無阿弥陀仏

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伝通院を散策

 朝、少し早起きして、ホテルから会場に向かう途中の無量山伝通院に立ち寄る。

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 伝通院(でんづういん)は、文京区小石川の高台にある浄土宗の寺院。正式名称は、無量山 伝通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)という。徳川家の菩提寺だ。

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 室町時代の浄土宗第七祖聖冏上人の開基で、本尊は源信(恵心僧都)作とされる阿弥陀如来だ。

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<歴代住職の墓所↑>
 徳川家康の生母・於大の方の法名伝通院殿にちなんで、伝通院となった。ちなみに、徳川家康の菩提寺も浄土宗で、有名な芝の増上寺だ。徳川家(特に江戸時代初期)ゆかりの墓所でもあり、立派な墓石が並んでいる。
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<家康の孫で、秀忠と江の長女。 豊臣秀頼に嫁ぎ大阪の陣で救出された千姫のお墓↑>
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<家康の生母・於大の方↑>

他にも高名な作家や文化人のお墓があったが、ぼくが知っているのは、作家の佐藤春夫氏と柴田錬三郎氏くらいだろうか。
けっこう見どころがあって慌てて会場に向う。方向は同じなのだが、高台に登ったこともあって、会場は思ったよりも遠かった。少し焦りつつも、携帯がないのは申し訳がない。朝は、余裕をもって出発したが、法座は勤行が終わったところで、息を切らしたまま法話に入ったのは、反省点。 <近くあった小石川善光寺も浄土宗の寺院↓>

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6月の東京支部法座

6月の東京支部法座。

真宗法座の集いから1週間。まだその余韻が残っている。今回の世話人が、真宗法座の集いに参加され、参加者による今、今の心境告白の機会に深く感銘を受けられ、みんなが率直に声を出す機会を、東京支部法座でも持ちたいとの提案を頂く。ぼくも、その良さを味わい提案に賛成した。

日頃、関わりながらも、もう一声聞きたい。気になっている方の違う角度から話してもらいたい。もし、今、どこに留まっておられるのか、率直に声をだし、ありのままを話してもらいたい思った。加えて、東京に集う同人には、もう一歩踏み出してもらたいとの願いがある。だいだいが自称「獲信者」(たぶん)に属していると思われるが、どこで喜んでおられるのか。Aさんにも、Bさんにも、そしてCさんにも、Dさんにも、Eさんの声を聞きたかった。

もう一つは、分級座談会での発言がよく分かっておられないと思われる方が増えている。ただ正解を並べたり、事なかれとやり過ごすような無難な発言に終始しているだけなら、なんのために法座に出てくるのか。ただ法話を一方的に聞いて、それを自分に取り込む聞法なら、華光の法座に出る意味はない。その意味では、まず率直に声を出すところから初めてもらいたかった。

最初、一言ずつ話し合ったが、大半の方が、前に出ることは尻込みされていた。今度が2度目で他の先生のご縁から参加者と、企画提案のご本人が手を挙げられただけ。お願いしたいと思った方に促してみるが、せっかくのチャンスに及び腰の方が多い。

それでもやっと一人の方が惑いながらも応じてくださった。この方の話を聞いてみたいと思っていた方だ。

そして、そのことがとてもよかった。これまでのご縁を語り、おかげを喜んでおられるのはよく分かる。が、ほんとに今生のご縁のところでだけで、仏法なかたっことに、本人自身が、一番驚くことになった。後生の一大事、そして自力・他力の廃立、この2点の聴聞の結び目かない聞法は、いくら喜んだとしても、ただ今生のご縁を喜びだけで終わってしまうのである。それなら浄土真宗でなくてもいいのだ。真宗は、後生の一大事を、今に、取り詰めて、飛び込んでいかねばならない。そして、一念の時に、捨てもの(自力)と、拾いもの(他力)がはっきりする教えなのである。外からの指摘ではなく、自ら語ることで、聞法の原点に立ち返ってもらえたことが、一番、有り難い。おかげで、その後も、法座の感想メールをやりとりする機会もいただけ、改めて要点を示すことが出来た。この先は、どう進まれるのか。ここからが本当の聞法。

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真宗法座の集い~体験告白からのグループ分け~

  真宗法座の集いは、少人数(20名)を厳守し、全日程参加を原則としている。少人数のグループに分かれて、座談会をじっくり行うことに意味があるので、法話もない。信・未信に関わらず、それぞれが自分の課題をもって臨み、創造していく法座だ。

 コロナ禍でも休まずに開いていたが、やはり人数は少なめだった。今年は久々に定員まで集い、懇親会の参加も多くて盛り上がった。華光会館での公式な懇親会(非公式ではあったが)は、やっぱりいい。徐々にではあるがもとの形態に戻りつつある。ただこの3年間、参加しなくなった人の出足は戻らない。このままフェイドアウトしていかれるのだろうか。それではあまりに寂しい。

 さて、今回の集いの進行は予想外の展開となった。毎回、グループ分けに時間がとられる。無駄に見えても、それぞれの居場所を確かめていくことに意味があるプロセスだ。ただ、2日間という限られた時間の中では、長時間、相談が続く、時間が惜しいという声も上がるのも、一理ある。

 が、今回ほど、自然な流れで、グループ分けが出来たることも珍しい。最初の全体会で、一通り、みんなが声をだし終わってから、ある長期間悩んでおられる方が、自らの心境を話す機会を申し出られた。でもその方に関心のある方も、ない方もある。皆で話し合う流れの中で、他の方からも、同じような体験告白(今の居所を聞く)を聞いてはどうかという展開になった。最初に声を出された方は、直前の支部法座でも話しておられて、手製パネルまで造ってこられていた。他の方は、その場で募り、ぶっつけ本番である。いつもの信仰体験発表のように、「生まれは…」「ご縁は…」といった部分は省略して、いま、いまの、自身の居所を中心に話して頂くことになった。いま、どこで仏法を喜んでいるのか。またはどこが疑問で、引っ掛かっているのが、率直な告白である。持ち時間も、15~20分程度。強制はしないこと、また喜んだと自称する人ばかりではないこと。不審は不審のまま、ありのままに話してもらい、まずはしっかりお聞かせ頂こうということになった。
 老若男女、聞法の長短を問わず、また(自称)信、未信を問わず、4名の方が登壇されたが、これがとてもよかった。話の聞く方も言葉尻や、上辺をとらえるのではなく、そこにひっかかったり、こだわたり、また冷静な自己分析ありで、こちらで見ている目と、自己で見ておられる目とのギャップがはっきりしたりと、なかなか意味があった。

 そしてそのまま、先生や世話人ではなく、お話くださった方を中心にしてグループ分けてなったが、これが自然で、グループ内でも活発な分級座談会になったのではないか。その内容は、いろいろと言いたいことや感じたことがあったが、今回はこの辺で。

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飛騨大鍾乳洞

 高山には会館の車で向った。京都出発組は、ぼくは黒一点。女子会の様相で賑やかだった。しかも京都の大学にゆかりの方ばかりで(在学中か、出身者)で、共通の話題もあったよう。高山でもう一台と合流し、法座まで高山見物をする。高山が初めての方もあったが、定番の古い町並みではなく、郊外の鍾乳洞に向った。会場の前から鍾乳洞に向う看板があって、1本道を奥飛騨温泉郷に向けて進んでいく。距離はあるが、もっと山道を想像していたが、観光ルートにもなっていて道の左右には土産物屋や飲食店、民宿が続いていた。数年前に、拡大壮年の集いの会場もこの方向にある。

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 飛騨大鍾乳洞&大橋コレクション館も、土産物屋が並ぶ観光地で、他の客も多かった。大橋コレクションという世界の美術品を展示された美術館もあった。以前、展示されていた金塊が強奪されその後取り戻したもののて、いまはその経緯とレブリカが展示されていた。

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 そして鍾乳洞へ。よく考えると、そう人生で鍾乳洞に入ることは少ないなと思った。修学旅行でた山口の秋吉台の秋芳洞、福岡の平尾台の千仏鍾乳洞 、そして京都の質志鐘乳洞の3回だけだろうか。質志鐘乳洞は、子供たちと広島のM君も一緒だったことが懐かしい。

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 今日は少し肌寒く、鍾乳洞もヒンヤリと寒かった。飛騨の鍾乳洞は全長が800mとあって、足腰に応じて、3カ所の出口が設定されていた。前半の方が見事ではあるが、奥に行くほど迷路のようで、また急な坂や階段もあって、探検気分が味わえるようになっている。若い仏青の皆さんのなので、一番、奥までいったが、これがなかなか楽しかった。最後に、妙な神社があるが、このあたりは不明。全体に商魂たくましいのと、コレクションの成金趣味のセンスと、その俗っぽさが昭和の観光地らしくてよかった。

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<大仏の耳↑>

 終わってから天然温泉に行き、夕食。ああ。このまま懇志会があれば最高なおのだが、これからが本番。法座が始まる。でも、このインターミッションがよかった。みんなの心が開けてくるのだ。おかげで、楽しく、かつ充実の法座となった。南無阿弥陀仏

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<昭和の秘宝館ぽく終了↑>

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高山支部・仏教青年会合同法座

  コロナ感染拡大の影響で、会館以外での宿泊の支部法座は、支部限定が中心であったが、久しぶりに合同法座。しかも高山支部と仏教青年会だ。今、高山支部は高齢化が進み、毎年のようにご往生される方があって、支部単独では盛り上がりにかけている。もう一歩となると、受け身の方が多い。それでも富山や北陸からの聞法者が来られたら盛り上がるのは、法の威力があるからだ。

 今回は、仏青の皆さんが集う。仏青も、ある年代の方が抜け一気に寂しい状態になっていた。それが、徐々に子供大会出身者を中心に、学生世代(10~20代前半)の方が集まりだしてきた。今回の高山も、元子供大会出身者が集うメリットで企画された。おかげで、仏青も二桁の参加者は久々だ。高山の仏青の方がお世話をくださったのも有り難かった。高山支部の方も、差し入れや準備やらでお世話になった。ありがとうございました。

 今回もF家が会場だ。最近は、コロナもあって、宿泊も1人あるかないかだが、久しぶりに10名も泊めて頂く。懇親会が深夜まで盛り上がったのも久しぶり。コロナの影響もあって、最近は0時台で終わっていたが、今夜は3時近くまで続いたようだ。何か20年前のことを思い出した。こんなところでも仏法の勢いがでるもので、分級座談会も活発になった。3分級に分かれ、仏青世代も心を開いて語ってくれた。

 ぼくも元気をもらって張り切った。大事な一点を聞いてもらいたい。今日の浄土真宗では、後生の一大事は語られるとしても、「捨てもの、拾いもの」の廃立の一点は、どんどん曖昧になっている。それが実践的に、しかもお一人お一人に問うのが、華光の法座だ。そのことが、もし次世代へも相続されるようなら、法が繁昌している証拠だ。たぶん、ここまで熱心な若い方もそうおられないだろうが、華光ではまだまだこれからだと見られている。そんな厳しい法縁が時代を超えて相続されてきたことが尊かった。3代、4代と続く血脈(法脈)に立っておられる方と新しいご縁の方が融合している法座だった。南無阿弥陀仏

 

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今熊野神社

   NHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」を観ている。子供のころから歴史物が好きで、大河ドラマも観てきた。あまりテレビ番組には関心のない娘二人も、喜んで観ていることだ。アニメ『平家物語』の影響が大きいか。

 親鸞聖人や法然上人が活躍された時代。関連する人々がしばしば登場する。毎日、経典を開かれない日がなった法然上人が、唯一出来なかった1日が、木曽義仲が平家を京都から追放した混乱の時だというエピソードが残る。やっと登場した九条兼実公が、意外の人が演じ「エー」という違和感。以前、映画で、一遍上人をウド鈴木が演じたほどの衝撃はなかったが、真宗念仏の大恩人である兼実公には思い入れはある。これからは、承元の法難の時の帝だった後鳥羽上皇が、敵対する主役となっていくのであろう。

 さて、博物館へは自転車で出かけた。東大路通の高架を下ると、東福寺、泉涌寺、今熊野と続いていく。東福寺には、僕が生まれ、父が往生した京都日赤病院があり、その奥に、母校日吉ケ丘高校がある。次ぎは江戸期の天皇の御陵がある「御寺」泉涌寺で、長女の幼稚園である。すぐに、今熊野があり、今熊野神社がある。ここを東山の方にクネクネと登っていくと、親鸞聖人の荼毘地、延仁寺がある。そして、続いて智積院や妙法寺があり、法住寺という後白河天皇の御所があり、ゆかりの三十三間堂(法然上人が御白河天皇陵の戒師となったという名号碑)や御白河天皇陵、そして新日吉大社が列なっている。法然上人と後白河天皇との関係も深い。

 ということで、博物館の帰り、初めて今熊野神社に立ち寄ってみた。

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 『御伝鈔』にある平太郎の熊野詣でにある熊野神社の本地は、阿弥陀如来である。紀伊国(和歌山県)熊野三社権現の本宮「証誠殿」と称し、本地は「阿弥陀如来」。現当二世の広大なご利益を賜るとして、平安時代より上皇、天皇、貴族、武家、庶民に至るまで競って参詣され、そのさまは「蟻の熊野詣」と称された。後鳥羽上皇は二十三年間の在位中に毎年御幸。白河、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇の四帝だけで、百数回も行幸されている。ただ都から熊野参詣はなかなか容易なことではない。ということで、後白河帝の勅命で、京都に熊野権現を勧請し、平清盛によって創建されたのである。自らが住まう法住寺殿のすぐそばだ。今は、地名は今熊野(いまくまも)だが、もともとは新熊野と言われていたという。新熊野神社ホームページ (imakumanojinja.or.jp)

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 京都の熊野信仰の中心地として大いに栄え、室町時代には、将軍足利義満の前で、観阿弥、世阿弥父子による猿楽、能(今熊野猿楽)を舞ったことから「能楽発祥の地」ともされている。

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 今は小さな御社だが、それでも裏手にこんな熊野古道のルートができていて、いろいろとオブジェが展示されていた。

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 <後白河帝のお手植えの楠木は天然記念物。影向の大樟とも↓>

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<八咫烏は、日本サッカーチームのエンブレム↓>

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「最澄と天台宗のすべて」~伝教大師1200年大遠忌記念~

 もう終了しているが、5月に京都国立博物館で開催されていた「最澄と天台宗のすべて」を観てきた。

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伝教大師最澄の千二百年大遠忌を記念した特別展だ。昨年の聖徳太子の千四百年の大遠忌に続いて、日本仏教の偉大な高僧の大遠忌が続いている。伝教大師は、平安時代に比叡山延暦寺を開き、天台宗を広め、それ以降の日本の仏教の発展につながる最大の功労者であり、仏教界最大のスーバースターの一人であることは間違いない。ところが、同世代のライバルでもある弘法大師空海の人気に比べると、功績ほどの名声は、一般では低いかもしれない。このPCでも「弘法大師」は一発変換できるのに、「伝教大師」は「電業大師」となってしまう。しかし、空海の密教に対して、顕教の天台宗だが、同時に密教(台密)も盛んで、日本浄土教もここで花開く。鎌倉新仏教で開祖となる高僧方(法然、親鸞、一遍、日蓮、道元)もすべて比叡山で修行したことは有名である。比叡山が日本仏教の中心であり、その後の日本仏教の母胎となる。宗教面だけでなく、比叡山が政治に与えた影響も大きいことは、さまざまな歴史的事件が証明している。

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 福岡、東京でも開催されてきたが、京都会場でのみ展示されるものも多く、国宝23件、重文71件という豪華な内容で、仏像や仏画、経典、絵巻物のみならず、国宝の袈裟や経店箱などの工芸・美術品に、国宝の文書や消息類など多彩な展覧会だった。

 僧兵による強訴で有名な山王神社(日吉大社)の御神輿の絢爛で迫力ある姿に驚いた。
 また、東京国立博物館で展示されていた六波羅密寺の空也上人像(口から六体の阿弥陀様が飛び出す)の別バージョンがあるのにも驚いた。六体の阿弥陀様がでる構図は同じだが、愛媛の空也上人は、一、二回りは大きく、お顔の造詣も違っていて(ちょっと間が抜けた感じがした)見慣れた六波羅密寺の空也上人像の方が緊張があるように思えた。空也上人も、今年がご往生一、〇五〇年の節目にあたり、東京開催されていたとようだ。
 他には浄土教に関心があるので、恵信(源信)僧都関連のものに、一段と親しみか沸くのは、当然といえどは当然。

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 とにかく勉強にもなりました。
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<不滅の法灯↑>

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