京都支部法座~耳の痛いはなし~
京都支部法座は、永代経法座でのご法話でお聞かせに預かった『涅槃経』の「一切衆生・悉有仏性」の「仏性」について。浄土真宗の立場からお取り次ぎをさせていただきた。これはしばらくどの法座でも味わっていこうと思っているテーマだ。
今回は、冒頭、永代経法座の余韻から、「聞」の一字を取り上げた。皆さんへの質問から始めた。日常の聞くことと、浄土真宗の聞くとは同じなのか、違うとと思うか。もし違うとするのなら、どう違うのか。軽く尋ねて終わるつもりだったが、皆さんが次々と意見を出してくださり、これがなかなかユニークでこのテーマだけで、前席が終わってしまった。
大半の人が、器用に今生の聞と、仏法聴聞での聞を分けておられるのに驚いた。人によっては、カウンセリングの場の聞も別だという方もある。確かに、それぞれの言い分はあろうが、分けること(分別)によって生活と仏法かバラバラになっているようだ。それで味わいも薄っぺらくなってはいないか。同時に、聴く態度を分けることは、この場面では、法座では…、カウンセリングでは…、日常生活では…、と器用に棲み分けながら、結局、それぞれの場面での「正解」を語ったり、聞いたりしする上辺の姿で接しているのであって、結局は、自分自身を見失っている(それすらも分からない)のではないか。そんなことを、皆さん方が語る器用な聞法を通して感じた。
さらに面白いと思ったことは、自分の味わいのところではあれこれ語れるが、それをきっちりと先達の言葉、聖教に基づくとなるなと、とたんに怪しくなることだ。だいたい何が仰りたいのかは分かる。しかしそれだけではすべて自分の思いで終わってしまう。すると「そんな考え方もあるだろう」し、「こんな味わいもあるよ」という、それぞれの思いで終わってしまう。どんなに有り難いと言ったところで、言葉に重みがないのだ。
同時に、自分のところで終わると、実感のあるところは味わえても、実感のないことはいつまでも遠い話で終わってしまう。それで「ご恩報謝の気持ちなど毛頭ない」とか「仏になろうとは思わない」「還相回向?」などと、教えに反したことでも、恥ずかしげもなく言えてしまうのだ。確かに、わが心(機)をみれば、そんな心が起こるわけはない。しかし、法からみれば、そこを聞かせてもらい、ますます不思議な身を喜ばせてもらうところなのだが、残念ながら、この前で留まる方も多い。だから、聞法が続かないのである。わが心にだまされるからである。
本題に入るまでに十分に味合せていただいた。
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