« 2022年4月 | トップページ | 2022年6月 »

2022年5月の10件の記事

「必要・十分条件」省略されている重要なこと(3)

 以上踏まえて、諸富祥彦氏は次ように指摘している。
(『カール・ロジャーズ入門』~自分が自分になるということ~P211引用)

「重要なのはただ一点、クライエントが「この人の前では安心できるし、よい子を演じなくても受け入れてもらえる。ありのままの私を認めてもらえる。私の感じていることを一緒に感じてもらえるし、しかも単に仕事上の義務からではなく本心からそうしているようだ」と感じるような「関係の質」を提供することだと考えています。それに比べれば、知識や学位や資格などは、一切本質的な重要性をもたないというのです。しかもそれは、どんな問題を持ついかなるクライエントにも通じる真理であり、学派の相違を越えてあらゆるカウンセリングに通じる真理だというのです。
 この大胆な主張こそ、ロジャーズの「態度条件説」の真骨頂があります。」

 同 諸富祥彦氏の指摘(上同~P307引用)
「カウンセラーの態度こそ唯一本質的な重要性を持つものであり、それ以外の何ものも不可欠のものではない」と言い切ったところに、したがってそれはクライエント中心療法のみならず、あらゆる学派のセラピストに要求される特質であると断言しているところに、この論文の骨太な魅力を感じています。」

 以上の記述を読むと、浄土真宗の聞法や関わりにも、どこか通じるものを感じることを分かち合った。

西光義敞先生も、以上を適切にまとめておられるのて、ぜひ、以下をご熟読下さい。
『育ち合う人間関係』(62~66頁)「必要・十分条件の意味」

|

「必要・十分条件」省略されている重要なこと(2)

(3)サイコセラピーは、日常生活の中で起こる他のすべての人間関係と種類の違う、特別な人間関 係であるとも述べられていない。
 たとえばすぐれた友情関係などの日常の人間関係においても、たとえ短期間であっても、この六条件が満たされれば援助的である。つまり日常的な人間関係にも本来存在している建設的な性質を深め、時間的にも拡大したものが、この条件だという主張である。
 ※逆からいえば、六条件は、カウンセリングや心理療法のみならず、親子関係、友人関係、夫婦関係などの日常的な人間関係が、「よい関係」であるときに当てはまるのである。「暮らしの中のカウンセリング」「育ち合う人間関係」という名称にも現われる。

(4)特別な、知的な・専門的な知識-心理学的な、精神医学的な、医学的な、あるいは宗教的な- がセラピストに要求される、ということも述べられていない。
 特殊な専門的知識の獲得がセラピストの本質的な条件ではない。特に、セラピストに求められる第3、第4、第5条件(自己一致、受容・共感的理解)は、知識ではなく経験的な性質のものである。知的な学習や知識の獲得は貴重なものではあるが、セラピストになるためには、知的学習ではなく、経験的な訓練によって獲得されていくものである。
 ※治療関係において、特殊な専門知識は必ずしも有益ではなく、むしろかえって妨げになる場合もあると言い切った。

(5)セラピストがクライエントについて正確に心理学的診断をしていることが、サイコセラピーに 必要なことだとも述べられていない。
 診断的な知識が、ある安定をセラピストに与え、それで援助を促進することもあるだろが、そのような場合においても、心理学的診断、診断的な知識が、サイコセラピーにとって必須なものとはいえないのだと主張した。
 ※決して、診断無用論ではなく、それに固執するあまり、クライエントを防衛的にしてしまい、肝心の「関係の質」そのものを破壊してしまうこともあると指摘した。

 サイコセラピーの必要にして十分なものとして私が仮説設定した条件は、主としてそこに述べなかったことによって、かえって印象的で、特異なものとなる。

|

『必要・十分条件』省略されている重要なこと(1)

 昼間の輪読法座に続いて、真宗カウンセリング研究会の月例会。

 会館には3名だが、ZOOMは12名の参加がある。

 僕自身3度目の『必要にして十分条件』を読んでいる。終盤だが、担当することにした。六条件が終わって、「どんな意味があるか」の章である。六条件では語られなかったで、逆に深い意味があることを示す大切な章だ。レジュメがあるので、簡単に要約しておこう。

 建設的なパーソナリティ変化をもたらす必要にして十分な条件として、六条件を述べ終えた後、「セラピーの必要な条件について述べられた公式に、何か驚くべき特質があるとすれば、それはおそらく省略されているいくつかの要素にあるであろう」と続けて、省略された重要な要素、つまり述べなかったことで、逆にその本質、特質が明確になってくる重要なこととして、、以下の5点を挙げている。

(1) ここにあげた条件は、あるタイプのクライエントに適用されるものであって、他のタイプのクライエントのセラピー的な変化をもたらすためには、別の条件が必要だとは述べられてはいない。
 神経症にはある条件や方法、精神疾患にはまた別の条件や方法といったようなことが、それまでの臨床分野の常識であった。それに反してロジャーズは、ただ一つの本質的条件がどのようなクライエントにも適用できるという極めて革新的な仮説を提示した。

 ※これまでの常識を覆して、どんな問題を持ついかなタイプのクライエントに対しても、この条件さえ満たせば十分だと言い切っている。

(2)これら六条件は、クライエント・センタード・アプローチの基本的条件であるとか、他のタイ プのサイコセラピーには他の基本的条件が必要である、ということは述べられていない。
 さまざまなサイコセラピーがそれぞれの異なったパーソナリティ変化を生み出し、すべてのセラピーに違った条件が必要であると考えられてきた。それに対してロジャーズは、効果的なセラピーはどのようなものであろうと、パーソナリティと行動で同じような変化を生み出すもので、そのためには、ただ一つの前提条件のみが必要であると主張した。

 ※この条件は、あらゆる学派に通じる普遍的な理論である。もしクライエント中心療法以外のセラピーでパーソナリティ変化が起こったのであれば、それが用いられた技法によるのではなく、治療的な人間関係がその条件を満たしているからなのだ。

 

|

御同行、御同朋との華光誌輪読法座

 水曜日、昼座の華光誌輪読法座

 時間になっても参詣の形跡がない。道場にあがると誰もおられない。Fさんが洗面所から戻っられたが、まだ1人。少し遅れてOさんもお出でになった。母の定期検診と重なり連れ合いも送迎に出る。近鉄電車の事故の影響もあったが、ここまで少ない法座は初めてだ。「私達だけならお休みしてもらっても…」とご配慮下さるが、それは逆である。土曜礼拝、京都支部法座、そして水曜日の華光誌輪読法座と、連続皆勤されているお二人が、ぼくに「仏法聞けよ」と現われて下さった菩薩方である。華光誌を3人で、丁寧に読ませてもらい、またお聞かせに預かった。「正信偈の大意」(9)で、信心の五徳の、3番目の心光常護、4番目の横超五趣で、3つの心(黒い心、白い心、暗い心)の説明がある、ご聴聞のポイントにもなる箇所だった。

 前半が終わったところで、Nさんも加わる。近鉄事故で2時間も待たされたという。お疲れ様でした。

 ~御同行、御同朋~ 3回連続のご法座で少数での座談会を通じて、このお言葉を味わわずにはおれなかった。お参り下さり、ありがとうございました。

 

|

京都支部法座~耳の痛いはなし~

 京都支部法座は、永代経法座でのご法話でお聞かせに預かった『涅槃経』の「一切衆生・悉有仏性」の「仏性」について。浄土真宗の立場からお取り次ぎをさせていただきた。これはしばらくどの法座でも味わっていこうと思っているテーマだ。

 今回は、冒頭、永代経法座の余韻から、「聞」の一字を取り上げた。皆さんへの質問から始めた。日常の聞くことと、浄土真宗の聞くとは同じなのか、違うとと思うか。もし違うとするのなら、どう違うのか。軽く尋ねて終わるつもりだったが、皆さんが次々と意見を出してくださり、これがなかなかユニークでこのテーマだけで、前席が終わってしまった。

 大半の人が、器用に今生の聞と、仏法聴聞での聞を分けておられるのに驚いた。人によっては、カウンセリングの場の聞も別だという方もある。確かに、それぞれの言い分はあろうが、分けること(分別)によって生活と仏法かバラバラになっているようだ。それで味わいも薄っぺらくなってはいないか。同時に、聴く態度を分けることは、この場面では、法座では…、カウンセリングでは…、日常生活では…、と器用に棲み分けながら、結局、それぞれの場面での「正解」を語ったり、聞いたりしする上辺の姿で接しているのであって、結局は、自分自身を見失っている(それすらも分からない)のではないか。そんなことを、皆さん方が語る器用な聞法を通して感じた。

 さらに面白いと思ったことは、自分の味わいのところではあれこれ語れるが、それをきっちりと先達の言葉、聖教に基づくとなるなと、とたんに怪しくなることだ。だいたい何が仰りたいのかは分かる。しかしそれだけではすべて自分の思いで終わってしまう。すると「そんな考え方もあるだろう」し、「こんな味わいもあるよ」という、それぞれの思いで終わってしまう。どんなに有り難いと言ったところで、言葉に重みがないのだ。

 同時に、自分のところで終わると、実感のあるところは味わえても、実感のないことはいつまでも遠い話で終わってしまう。それで「ご恩報謝の気持ちなど毛頭ない」とか「仏になろうとは思わない」「還相回向?」などと、教えに反したことでも、恥ずかしげもなく言えてしまうのだ。確かに、わが心(機)をみれば、そんな心が起こるわけはない。しかし、法からみれば、そこを聞かせてもらい、ますます不思議な身を喜ばせてもらうところなのだが、残念ながら、この前で留まる方も多い。だから、聞法が続かないのである。わが心にだまされるからである。 

 本題に入るまでに十分に味合せていただいた。

|

5月は土曜礼拝

 久しぶり日曜礼拝のご法話をした。厳密には、土曜日なので、土曜礼拝である。来週、5月21日が親鸞聖人のお誕生をお祝いする御誕会である。しかも、来年は、ご生誕850年(並びに立教開宗800年、『教行信証』が一応の完成を見たときから数える)にあたる。前回の、ご誕生800年(誕八)は、ぼくにとっては忘れられない行事となった。その思い出にも触れながら、聖人のお誕生から、法然聖人とのお出会いの前半生をお話した。

4日間の永代経法座が終わって、すぐ聖典講座、カウンセリングWSと続き、土曜礼拝で、明日日曜日は京都支部法座である。京都や大阪の皆さんも、法座続きで大変である。さすがに、今日のお参りは少なかった。先生、子供たち以外の大人の分級は、会館の4名を除くと3名だけである。0さん、Fさんは、近所の常連。お花やトイレ掃除に、毎週1度は顔を出して助けて下さる方である。日曜礼拝の分級座痰会は長い。このメンバーでも気軽に話題は出るが、下手をすると今生事、雑談で終わってしまうか、または、ぼくの法話的な話で終わることも考えられた。

 ということで、いつも聞いているようで聞いていない、語ってるようで語っていない、それぞれの今ご心境、居所を、じっくりお話していただくことにした。詳しくは述べないが、これがとてもよかった。雑談でもなく、また堅苦しくなるのでもなく、分からないことは分からないと率直に、居所を語り、聞かせて頂いた。そして、語ったたけで終わらず、今後の聞法の態度、姿勢にも影響する転機となるかもしれない座談会となった。
 
 いつもの顔ぶれでも、少人数でじっくり関わり、また胸を開き、率直に語り合うことが、真の仏徳讃嘆になるのだ。尊かったです。 

|

今月2度目の新月断食

 新月断食を初めて2年以上が経過したが、初めて一ケ月に、新月が2度ある月となった。永代経法要の前日の5月1日と、真宗法座の集いの翌日の5月30日だ。月の満ち欠けは28日周期なので、そんな月もあるのは当然なのだか、1月の2度目の断食となった。カレンダーを調べてみると、今年は1年で13回の新月がある年だった。明治時代、これまでの太陰暦から太陽暦に変わったのは、1年が13ケ月あって月給を13回支支払わねばならない前に、太陽暦の毎年12回に切り替わったという説をどこで聞いたことがある。真偽を確かめたことはないが、もし太陰暦なら、今年は13ケ月(閏月)の年ということになる。

 さて新月断食の方は、法座の翌日ということで疲れていて、いい休養になった。華光会館でも久しぶりに懇親会をもったこともあって、結構、飲みすぎた。おかげで、あまり苦にならない断食日でした。

 

|

『悟痰録』の輪読

 「仏書に親しむ会」は、尾上実さんの『悟痰録』を読んでいる。

 今月は、84頁の「十」からで、伊藤先生との播但地方への聞法旅行のあと、河内に奥村みとさん(おみとさん)を訪ね、そのあと大和の伊藤先生に、厳しくご指導をされた後の章。ここは、伊藤先生のお言葉よりも、ご自身の心境、その時の気分の描写が多いところだ。いつまでも「また」も「次ぎ」もない。ここで大死一番と、これを最後と踏み出す覚悟で、伊藤先生にぶつかっていかれた。が、惨めにも見事に討ち死にし、虚しく帰っていかねばならかった。「もう聞かない。自分には無理。止めた!」との聞法とのげ決別の決意から、寂しそうな伊藤先生の姿に接して、再び、聞きぬく決意をされるまでの章である。でも、そう簡単にはいかない。再びおみとさんを訪問したりするも、ただ虚しく時ばかりが過ぎていくといった内容。でも、聞法の苦悩まだまだこれから。

 次回は、6月22日(水)18時50分~21時。ZOOM配信もありますのでお申し出ください。

|

法に追い立てられる幸せ

   今月は、あっという間に月末になった。ブログも月初めに1度だけだ。特に法座や座談会が続いた。2日おきくらいで法座がある感じがするなーと思っていたら、1ケ月の内、15日間が法座があったので、実際は、1日おきということになる。加えて、永代経が4日間、高山・仏青合同法座、真宗法座の集いと、本部関連の宿泊法座が集中したこともある。

 ということで、しばらくは永代経法座の余韻を味わっていたが、思いが大きい分、言葉にはまだなりきっていないうちに、すぐに次の法座、次の法座と、次々と法が追いかけられてきた。もうまるで、逃げるものを追いかけ摂取するぞ! ように法が負いかけてくる。ご法からはけっして逃げらないのである。休息(くそく)なしで働き続けられる如来様や菩薩様のご苦労でもある。ならば、逃げるのではなくその渦中に飛び込んでいくことにしている。おかけで充実した法座が続いている。高山と仏青の合同法座でも、真宗法座の集いでも、皆さんから聞かせてもらうことが多かった。

 思いつくままに短くても、まとめたものにふれていきいた。

 

|

4日間の永代経法要法座終わる

  人数制限のある前期・後期の二部制になって3回目の永代経法座。過去、2回は運営委員会でお世話だったが、今回は例年どおり支部当番での開催とし、希望される当番の方のみ、両日程共に参加をして頂いた。広島支部やお当番の皆様、また役員の皆様、4日間に渡りご苦労さまでした。ほんとうにお世話になりました。

 2泊3日間、3回の法要と7座の法座から、4日間、4回の法要と8座の法座と、日数も法座の回数も増えたが、おかげで、無事に厳修することができた。さすがに4日の法座、法要もあるので、からだは疲れたけれど、法水を浴び続けて、どんどんと堅い鎧、化けの皮が剥がされていくとの同時に、お念仏によって活性化されていくプロセスでもあった。ご法は、ほかでもない、この身を通して躍動していくのだ。

 法話や信仰座談会、休み時間のちょっとした会話、そして法要や勤行もまたその一翼を担っていた。一同で、声を揃えてあげる法要もなんともいえず有り難かった。

 法座が8座あったので、8座の勤行があったが、「正信偈」「阿弥陀経」「観無量寿経」、そして(新制ですが)「無量寿経」と偈文で、浄土三部経をお勤めすることができた。不思議なことに、呼応するからのような3名のご講師からのご法話は、大経」の弥陀と衆生の因果のお取り次ぎであり、また「観経」のおこころから宿業のこの身こそがお目当てであるというお取り次ぎであり、それを諸仏方によって証明されるという法座となった。なんの打ち合わせないのに、不思議なつながりを感じた。ほんとうに懇切丁寧なご説法を賜ったのである。

 インドの霊鷲山で、釈尊が弥陀三昧に入られ、金口説法で弥陀の本願が説かれたのと同じように、華光会館の道場が、霊鷲山の会座となり、弥陀の本願をまこと!との金口説法が響いた。それは阿弥陀様の今現在説法であり、私のこの凡夫の身を働き場として躍動する無碍のご法のお働きであり、それを、諸仏方が念仏の声で讃嘆くださる場であった。
 この私は、ただご説法の、そして讃嘆の、そのみ声をお聞かせに預かるだけだ。もうそれだけですべてが整っている尊さに、南無阿弥陀仏。

|

« 2022年4月 | トップページ | 2022年6月 »