東京支部法座、2日間、4座のテーマは決めていた。最近の連続している「善き知識、善き友」の働き、遺弟の念力である。全体は、このテーマで貫くことになったが、会場に入って、その雰囲気を感じて、冒頭の話題はアドリブ的に出した。
東京法座は隔月で2日間の法座が開催され、その合間にも有志の講義や聴聞会に参加されている方もある。それでも月に数回のご縁に過ぎない。その他の日常生活、法座と法座の間は、どのように求道しておられるのか。日頃のご聴聞の姿勢や態度についてを尋ねてみた。今は、答えを記さず、各自が我が身に振り返って問いかけてほしい。
そして、次ぎの問いかけがインパクトがあったようだ。
よく「後生を取り詰めて聞け」とか「臨終を今に取り詰めてつめて聞け」と言われる。そう問われると、だいたい「詰まりません」「無常だとは思えません」「何もありません」といった答えが定番になっている。誰も、いい加減に聞いているわけではないが、真剣に考えようとしても、わが心は「屁の河童」なのである。
それなら実際にやってみようということになった。後生も分からず、臨終を取り詰められないまま死んでしまい、今、みんなは、閻魔王の前に立ている。そのときに、何が言えるのかを一人一人に問うといった。
閻魔王は問う。
「お前は娑婆で何をやってきたか?」
「お前を何を聞いてきたのか?」
順番に、前に出て問いに真剣に答えていく。涙ぐむ方、震えている方もある。思わず「南無阿弥陀仏」と称える方もある。別に、巧みな上手い答えを求めるためではない。今の自分に向き合って引き寄せて聞いてほしいのだ。そうすると、ほんとうに、私は、毎日、毎日、毎刻、毎刻、何をやっているのか。恥ずかしい、お粗末な自分が立ち上がってくるではないか。地獄種を造り続け、仏法を蔑ろにしている自分が浮き彫りになってくる。そんな奴が、閻魔王を前に何が言えるというのか。第一、言い訳の声すら出せないかもしれない。そんな私が、今、出て行くとなったらどうなのか。
閻魔王が続けて問う、「では、お前はどこに行くのか!」と。
後生は、閻魔王が裁き、決めるのではない。私か、私の業で、その行き先に赴くだけのことである。ほとんどの方が、間髪いれず「地獄」と言われた。人によっては迷う人もあった。「往生極楽としかいいようない身になった」という方もおられた。「地獄行き」と言われた方には、「それでほんとうに後悔がないのか」と問い返したこともあった。「後悔しています」との声もある。しかし、もうここに至って後悔しても遅いのだ。「悔怖交々至る」と『大経』の五悪段にある。頭下足上と地獄に墜ちながら、ずっと地獄に墜ちる恐怖と、仏法を聞かなかった後悔とが、交合に起こり続けるというのだ。その時では手遅れなのだ。
今、ここで、今の自分のまま聞くものはいないのか。それが臨終を今に取り詰めることである。
こうして東京支部法座の2日間は始まった。南無阿弥陀仏