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2022年3月の22件の記事

華光誌発送

 華光誌の発送をする。誌上法話や体験記のみならず、未信者の方の文章が面白かった。今、ところを隠さずに伝えてくださると、その心境がよく分かる。同時に、ご本人は分かっておられなくても、どこでつまずき、引っかかっておられるのかも分かるような気がする。ただ、一方的に正しく指摘しても、なかなかあいての聞く耳に届かない。結局、自分自身の気づきが起こらなければ、所詮、理屈で終わったり、スローガン的な理解で留まってしまうようだ。その意味では、正しい指摘よりも、相手の引っ掛かり、こだわりを、こちらがより正確に理解する方が早道のように思うのだが、座談会になると、このアプローチを行うのがなかなか難しい。いまだに、その時、その時の対応しかできない。まだまだ道半ば

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講習会~『御伝鈔』にみる親鸞聖人のご生涯

 今年の講習会は、約2年間、聖典講座で講義してきた『御伝鈔』を総まとめの意味で取り上げた。

 聖典講座で、すでに詳細なレジュメを造っているが、そのまま使うには時間がない。2日間の講義にどうまとめるのか。ダイジャストにするのか、総花的に味わうのか。今回が初めての方にも分かりやすく、かつこれまで参加者にも満足して頂きたいとの欲張った思いがある。それにしては、2日間は十分な時間ではない。

 いろいろ考えた結果、各段を分科してその大意を説明し、それから現代語訳で読み進め、各段の問題点を1点だけ取り上げて深めることにした。そして上巻が終わった時点で、スライド(幻燈)の『御伝鈔』(上)を45分。下巻は、逆にスライドから始めて、各段の分科とその大意を説明し、それから現代語訳を味わった。そして上・下巻の総まとめ、一言でいうと何がテーマを探り、最後に、『御伝鈔』を貫いてる問題を味わうことにした。改めて通読して発見したことがあって、とても面白かった。

 聖典講座で取り上げる以前、『御伝鈔』に対するマイナスのイメージを抱いていた。仰々しい飾った言葉、歴史的事実かどうか怪しい逸話、夢告では聖人を阿弥陀仏の化身と仰ぐなど、史実の聖人、もしくは凡夫として聖人像ではない飾られたイメージ、どうも苦手だった。しかし、今回の講座で『御伝鈔』作製までの覚如上人の学びの足跡をたどり、また当時の状況を窺っていくと、どのエピソードも、覚如様が、聖人を心から崇拝し、阿弥陀如来が来現したお姿を聖人の上に見いだすと同時に、臨終に見られるような、なんの奇瑞もない凡夫の姿としてありのままに伝え、かつ平生業成の真宗安心の要点を伝えてくださるなど、聖人を生涯を通したご法語として、尊く頂くことが出来たのである。

 それにしても、親鸞聖人と蓮如上人の両巨人の狭間で、一般の門徒には知名度はほとんどないお方ではあるが、本願寺も、報恩講も、覚如上人がおられなければなかったし、また聖人のお心、浄土真宗の正統安心をお示しくださったという意味でも、覚如様のご功績がもっと讃仰されてもいいと思うのだが、専門家や僧侶からの批判の声が多いのが残念である。

 今回、覚如上人を通じて頂いた親鸞聖人のご生涯をじっくり頂けたことが尊かったのである。南無阿弥陀仏

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大阪家庭法座~連続無窮のお働き~

 お彼岸の連休は、3連続で4法座のスケジュール。ぼくと同じように4法座、すべてに参加された方があるのが、頭が下がる。

 日曜日は大阪支部法座。コロナの影響で、2年前3月の法座が、家庭法座になって以来、華光会館での開催が続いたが、まる2年ぶりに、あるご家庭を会場(会所)に開かれた。ぼくも初めて参加する。着物教室にいった連れ合いと、京都駅ホームで待ちえわて、新快速に飛び乗った。大阪でメトロ御堂線に乗り換えて、長居まで。改札口で、お出迎えをうけて、地上にあがると、目の前に長居公園が広がっていた。駅の出口をでてすぐ側にあるマンションの8階が会場だ。交通至便で、回りには気楽な飲食店も多くて賑やかな場所であるしかも、公園前、眺望もいい。

 Ⅰさん宅での初の支部法座だ。ご聴聞をする側も、ご法話をする側も、設備の整ったホールや貸し会場の方が条件はいい。イス席に、黒板やマイクもあり、環境が整っている。が、しかし、たとえ畳で、法話の机も、黒板やマイクがなくても、また少々手狭までも、そしてトイレが一つしかなくて不便でも、家庭法座には家庭法座の味があるのだ。施主の方の意気込みも違う。参加の皆さんも物珍しくて、大勢お参りくださる。徳がないと法座を開くことができないのた。
「お釈迦様のお命が捨てててある場所なればこそ、法座の席が起こるのです。どうぞ、この壁にそして柱に、お念仏をしみこませてください」と、冒頭に申し上げていた。

 1月の同人会ニュースの巻頭に掲げた、昭和20年の伊藤康善先生の「おみとさん」の文章を読む。仏敵にも登場する、野口道場の念仏者のお一人「奥村みと」さんのご往生を偲ぶ一文である。そのおみとさんのご往生を知らせてきたのが、『悟痰録』の筆者、尾上実さんである。その彼も、同じ年(昭和20年)、27歳で肺結核のためにご往生されるのである。おみとさんと尾上さんの出会いを綴った『悟痰録』の文章を読んだ。

 尾上さんも貴伝名さん、おみとさん、戦時中の昭和20年にはご往生され、書物の中の伝説の人だ。まったく面識もない方々に、突然、現われてくる面識ある青田さんや赤江さん、みんな華光の先輩同人として、ぼくの前を歩かれていた先達のほんの一部の人たちだ。他にも名も知らない多くの念仏者がおられたのである。そこには道の前を歩く人が、後ろの人を導き、後ろの人が前の人を訪ねて、無辺の生死海尽くすために連続し尽きることも休むこともなく働き続けておられる弥陀の本願に生きた遺弟たちの姿がある。そんなお命が捨てられ上に、今の僕の歩みがあるのだ。じっくりそのあたりを味わった。

 余談ながら、そのあとの懇親会では、Ⅰさんが心を尽くしてご接待くださり、久しぶりににぎやかで楽しかったです。ありがとうございました。
 

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広島法供養法座

 今月の広島支部法座は、昨年亡くなった同人の1周忌を兼ねた法供養法座として、ご遺族が施主となってくださった。
 
 前日、広島支部の長老Sさんの訃報が届いた。昨年の華光大会が最後になったが、その篤い思いを新年号の年賀交換に歌として披露してくださった。広島のみならず、いまの華光では誰もが知る人であったし、あのように喜びを爆発される方は、これからの世では稀になってくるだろう。歌うようにお念仏をされ、仏教唱歌を交えながら、嬉々として法悦を語れていた。ご高齢とはいえ、支部法座に直前までお出でになっていただけに、皆さん驚いておられた。が、これもまた驚くべきことではない無常の理である。

 法要は、親鸞様のお正信偈をあげ、和讃をいただき、最後に蓮如様の御文章を頂いた。何も珍しいもではないが、できるかぎり、ゆっくりと丁寧に頂き、皆さんと心を合せてお勤めさせて頂いた。ご法話は、「連続無窮お働き」と題して、親指のふしの智子さんをテーマ。智子さんの従姉妹にあたる方もお参り下さる。先輩同人が相次いでご往生される、いまの状況にぴったりの内容だった気がする。

 3年華光大会参加を終えて

 法性の みやこに帰る 華光会座(けこうえざ)
   つきぬ思い出  今、こにに幸  

 老いの身に 下がりて嬉し、藤の華
   まかせよと聞き、なおも嬉しき 

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今日は「仏書」と「輪読法座」

 今日は、午前(仏書に親しむ会)、午後(華光誌輪読法座)と法座が続く。彼岸の3連休は「仏書」「輪読法座」、そして「広島家庭法座」(法供養法座)と、「大阪支部(家庭)法座」と、3日間で4法座が列なっている。

 開始直前、広島のお同行さんからの電話は、お母様の訃報。ご高齢とはいえ、かくしゃくとした姿は誰もが知るところだったので、驚いた。ご臨終のありさま、ご家族にかけられたお言葉、まさに仏法に貫かれたSさんそのものであった。

 そんな気分を引きずりながら、尾上実先輩の『悟痰録』を読む。今日が、第1回目。まだ尾上さんも、聞法の緒という感じてノンビリした風情である。伊藤先生のおおらかな性格がユニークが、皆さんも笑われる場面もあった。また播州法座の旅では、古い同行(青田寅市さん)の名が出てきて、母が驚いていた。いまから80年も前のことである。ぼくが出会ったころの青田さんは、腰の曲がった好々爺という風情であったが、信のところでは筋金入れで、報恩講や華光大会などで、うれしそうにご聴聞されている姿を懐かしくを思い出された。

 午後からの華光誌輪読法座は、誌上法話の「遺弟の念力」の後半を輪読したが、一連の目の前で起こり、ぽくに届いている事実が、まさに遺弟の念力の働きでないものはない。そのことを目にものみせていただく3日間となった。

 

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橘寺~聖徳太子御生誕~飛鳥巡り(9)

 聖徳太子の父上、用命天皇の離宮で太子がお誕生になられた地に建立されたのが、橘寺である。ここを飛鳥巡りの最後にした。

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 「仏法最初」という石碑にゾックとくる。ここから日本の仏教が始まったのだ。

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 またこの地は、『勝鬘経疏』が誕生した地でもある。太子が、推古天皇のために講義された『勝鬘経』は、女人である勝鬘夫人に説かれたもので、推古天皇にはビッタリの内容である。講義跡のすぐ側に、善悪二つの顔が彫られているという二面石もあった。

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 他にも、太子の愛馬の像とか、尊いおいわれがある三光石があったり、お堂が点在していたが、正直、お寺そのものの印象はあまり残らなかったかなーと。親鸞聖人の像は見落としました。

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 最後に、「仏法最初」の石碑の前にある川原寺跡の遺跡を見学した。ここは跡地だけ。
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 これだけ回ったもまだ時間があったが、みんなかなり疲れていた。カフェでお茶をし、道の駅を覗いて帰宅の途についた。が、そのルートもまた太子町経由で、太子ゆかりのルートであった。飛鳥の旅はこんなところまで続いていた。

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 とにかく50年ぶりに感激の旅でした。

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飛鳥寺~大仏と入鹿の首塚~飛鳥巡り(8)

    蘇我馬子が発願し、推古天皇の時代に創建された日本最初のお寺だと言われる。発掘調査から、創建当時は壮大な伽藍(法隆寺の3倍!)もあったそうだが、度々の火災などで、室町期に荒れ果てていたものが、江戸時代に再建されたのもので、いま、安居院とも呼ばれて、田園の中に小さなお堂が並んでいる。

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   その中心に鎮座するのが、推古天皇の勅願により、止利仏師が造ったといわれる日本最古の仏像、飛鳥大仏だ。大仏は釈迦如来像である。やはり何度も火災で焼け落ちて、お姿せ痛々しくもある。飛鳥時代のものは、お顔の一部と右手の指の一部のみで、大半が後世に補修されたものだ。それでもご住職の説明では、創建当時の場所に鎮座しておられるというのである。聖徳太子もこの場所で拝まれたのであろう。
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 また ご本尊の写真撮影がOKなお寺は稀で、しかもわざわざご住職が説明くださったのは、有り難かった。他に、聖徳太子の孝養像(室町時代)や、阿弥陀如来坐像は藤原時代のものだという。

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 お寺をぬけて数百メートル行くと、田園の中に五輪塔がある。蘇我入鹿の首塚だという。

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   聖徳太子一族(山背大兄王)を滅ぼし、その後、中大兄皇子(後の天智天皇)に殺害された、大化の改新の始まりである。飛鳥寺の境内こそ、蹴鞠の会で、中臣鎌足(後の藤原鎌足)と中大兄皇子が蘇我氏討伐を図ったあまりにも有名のな故事の舞台だ。まさに古代史のロマン。今は長閑で静かな風景に、往時の面影はないが、そこがまたしんみりとさせられる。 

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岡寺~飛鳥巡り(7)

 主な古墳や石像物めぐりを終えて、ここからはお寺巡りである。仏教伝来や聖徳太子など古刹ばかりである。

 最初は岡寺。

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 残念なから、このお寺の思い出は、お寺そのものではない。駐車場の顛末にある。お寺に入る入り口に、門前有料Pを示す表示が、逆方向を指したいる。それにしたがって進むも、かなり距離が離れている。車を入れかけて、「こんなに離れているのなら、岡寺はパスする」という声が出てた。結局、2対2で、行きたいものだけが行くことになった。それならお寺の近くまで車で行き、待っていることになった。もとの道を戻りグルグル細い坂道を進む。ここを歩く(しかも往復)となると、かなりしんどいだろう。道が細くなって車が行けるか心配していたら、岡寺まで着いて、そこには無料駐車場が多数設置されていた。いやこれどういうことなのか?  有料、かつかなり遠い駐車場と、無料で隣接している駐車場があるとは?入場口に、「有料P(民営)は当山とは無関係」との注意書が掲示されている。たぶんトラベルや苦情があるのだろう。おかげで4名、みんなで岡寺にお参りすることができたが、お寺の印象があまり残らなかった。

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 本堂も、この時期は行事のために入れず、窓越しに「観音坐像」を拝ませていただいた。一見、無骨で観音様には見えないが、日本最大、最古の塑像(粘土や石膏で造られた像)の如意輪観音像である。

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 同時に、日本最初の厄除けの霊場で、盛んに「厄払い」祈願のCMがあった。還暦も中厄ですか、、。真宗念仏の尊さを思った。南無阿弥陀仏

 

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石舞台古墳~飛鳥巡り(6)

 午前中、いろいろ回って疲れた。日差しも強くて、気温が上がったのもあるのだろう。遅い昼食はお目当ての店が休みで、石舞台古墳まで進んで農村カフェで古代米のランチを楽しんだ。回りに桜の木に取り囲まれるように石舞台を眺めるテラスで、光を浴びながらのランチ。もう2~3週間すれば桜が見事だろう。

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 飛鳥巡りのメーンである石舞台古墳へ。一番(といっても鄙びているが)このあたりが賑やかで、人ともあった。それでも、疎らで、家族だけで石舞台古墳を堪能することができた。

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 石舞台古墳 は、日本最大級の方墳で、盛土をがすべて失って横穴式石室が露出している。天井石の上面が広く平らで、まるで舞台のように見えるので、古来から「石舞台」と呼ばれている。7世紀初頭の権力者で、聖徳太子と共に、仏教を守護した蘇我馬子の墓だと伝承されている。

 50年前に唯一、ボンヤリでも記憶があるところだ。ただ外部からしか眺めていないような気がしたが、しっかり中にも入ることができた。恐ろしいほどの石組みである。それが1500年も頑丈に残っている、古代の人々の技術の高さにおどろいた。

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〈奈良といえばシカなのに、ここはヤギ〉

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〈しかもどうして二宮金次郎? 不思議空間〉

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謎の石造物~飛鳥巡り(5)

 飛鳥には、古代の謎の石造物が点在している。

 まずは、猿石。吉備姫王の円墳にあり、男、女、法師、そして山王権現だと言われているが、確かにサルに見える。

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 続いて、のどかな田園の中の歩行者専用道を脇にあったのが、古墳の石窟の側室、および天井石が、鬼の雪隠と呼ばれる。

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〈鬼の雪隠↓〉
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 <鬼の俎板↓〉
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 こちらは、少しだけ山間にあって、古墳の石室の基礎石だといわれる。
 この街道にいた鬼が旅人を捕らえ、俎板で料理し、厠で用をたしたという伝承が残されている。 
 それにしても一気に春本番で、歩くうちに汗ばむ陽気。

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 橘寺に向う途中にボツリとあるのが亀石。「亀石前」の交差点名でわかる。

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亀石↓ユーモラスな笑顔〉

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 聖徳太子誕生の寺ともいわれる橘寺の境内にある二面石は、善悪二つの顔が彫られている。

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 他に有名なところでは、酒船石があるが、近くまでいくも、疲れて歩く元気がなく今回はパスした。
 まったく古代遺跡とは関係ないが、お地蔵さんが、辻々に点在していた。
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欽明~吉備姫王~天武・持統陵 飛鳥巡り(4)

 欽明天皇陵の入り口は分かりづらかった。でも是非訪れたかった。細い参道を歩くと、突然、鳥居と共に視界が開けてくる。四面に堀が巡らされる前方後円墳だが、その全体像は空からでないと分からない。

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 欽明天皇の538年に、百済の聖明王が仏教をもたらされた。その時に招来された仏像や経典が蘇我氏に下賜されるも熱病が流行り、廃仏派の物部氏に破棄される。その後、またしても疫病が流行り、再び蘇我馬子に仏教信仰の許可がおり、飛鳥寺が造営されていく。そして、推古天皇の時代、蘇我氏と聖徳太子が廃仏派の物部氏を破って勝利し、仏教が日本の政治の中心思想となっていく。これらの歩みは親鸞聖人も和讃されているところだ。

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 欽明天皇陵の西側の小さな森に、吉備姫王(孝徳・皇極両天皇の生母)の円墳がある。ここは、猿石と呼ばれる石造物が有名だ。玉石垣の墓域でお墓を守護するかのように4体の石像が置かれていた。

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 欽明天皇陵から、鬼の雪隠、鬼の俎板を挟んで、天武天皇・持統天皇陵があった。持統天皇は初めて火葬された天皇で、天武天皇の皇后であり夫婦が合葬儀されている。登らないで、離れた場所から撮影した。鳥居見えてます。

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高松塚古墳~飛鳥巡り(3)

  次いで、高松塚古墳 に向かう。快晴だ。

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 住民の生姜の貯蔵庫に使われていたというのが、発見のきっかけであるという。高松塚古墳の発見は空前の考古学ブームを巻き起こし、記念切手を求めて長蛇の列ができことまで子供心によく覚えている。前回の旅では、まだ発見直前だった気がするが…。今年は、その発見から50年目の節目の年にあたるという。

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  やはり古墳時代の終末期の小型の円墳だか、鮮やかな色彩の壁画が残されてることで世界的に有名になる。古代中国思想に乗っ取った四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)と日月に、天上の星宿図に加えて、男女四名ずつの群像が繊細なタッチで描かれている。劣化が防ぐために密封されて実物は観ることができないが、「高松塚壁画館」で、その忠実な摸写や石室を観ることができた。想像以上に、石室も壁画も小さなもので、有料の割に「エッ、これで終わり」という小さな展示館ではあったが、複製とはいえ、一瞬で、色鮮や絵画に古代のロマンを感じさせられた。

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キトラ古墳~飛鳥巡り(2)

 平城京跡近くのホテルに一泊して、明日香(飛鳥)に向かう。

    まずはキトラ古墳からスタート。国営公園として整備されているが、周りは長閑な風景が広がる。国営施設のいいところで、駐車場も入館料も無料(税金ですが)というのは、うれしい。雨の心配があったが、好天となった。

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 高松塚古墳の発見が空前のブームを巻き起こしたことがきっかけで、キトラ古墳が世に知られるきっかけとなる。亀虎古墳とも表記されるが、「キトラ」が一般的だ。
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 古墳時代の終末期(7世紀末頃)の小型の円墳で、高松塚古墳同様に、古代中国思想に乗っ取った四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)や天上の星宿図が描かれ、四神が完全な形で残っている希有な古墳である。人身獣首の十二支像も描かれているのも見える、大変価値の高い古墳だ。まだ発見から新しいこともあって展示館もきれいだった。発掘や保存作業に関する展示も充実していて、その精細な前代未聞の保存作業の大変さ、苦労には驚いた。少しでもいい状態で保存したいとの願いから、壁画は外されて展示されている。定期的に一般公開されているが、今はその時期ではなかったのが、残念でした。
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50年ぶりの明日香(飛鳥)に感激(1)

   明日香(飛鳥)を訪れるのは、50年以上ぶりだ!
 小学生の時に家族で旅行した。写真を見た思い出が残っているが、それでものどかな風景と、石舞台に到着した時には夕暮れになっていたような気がする。それから半世紀。どの観光地でも同じだが、回りの風景はずいぶん様変わりしているのだろうと予想していた。

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 が、公園として整備されたりはしていても、のどかな風景は相変わらずで、山に囲まれた田園の中の古墳や遺構、そしてお寺を堪能することができた。その時、まだ発見されていなかった高松塚古墳とキトラ古墳、そして日本仏教の初めの地であり、聖徳太子のゆかりのお寺や遺構を訪れるのを楽しむことができた。順を追って紹介しよう。

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国宝、聖林寺十一面観音展

 久しぶり(5年ぶりか)に家族4名で旅にでた。こんな時期なので近郊の奈良旅行への1泊旅行である。

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 初日は、奈良国立博物館で国宝 聖林寺十一面観音展 を見る。「日本彫刻の最高傑作、24年ぶりに奈良はく公開!」がうたい文句だ。24年前は「天平展」で展示されていた。あれ? じゃ、以前も見てるのか。帰宅後、図録を調べたら、24年前にも鑑賞していたのだが、まったく記憶にはなかった。

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  仏教伝来以前、日本の神は山、滝、岩や樹木等に宿ると信じられ、自然のままの依代を礼拝対象とされてきた。三輪山を御神体とする大神神社もその一つだが、仏教興隆の奈良時代になって神仏が接近して神社に付属する寺(いわゆる神宮寺)が造られるようになる。大神神社にも大神寺(後に大御輪寺)が建立された。ところが、今度は、明治維新に国家神道が強要されて、新政府による神仏分離令で、仏教、寺や仏像は苦難にさらされていく。そして廃仏毀釈の大きなうねりの中で、多数の仏像や寺院が破壊されるという悲劇が起こったのだ。

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 幸いなことに、大御輪寺の仏像は周辺の寺院に移されて、今日まで守られてきた。今回の展示は、かつて大神寺にあった4体の仏像が、150年ぶりに奈良博に一同に会するというものである。国宝 十一面観音菩薩立像(聖林寺蔵)、国宝 地蔵菩薩立像(法隆寺蔵)、そして月光菩薩立像、日光菩薩立像(正暦寺像)である。中でも、十一面観音菩薩は、日本仏像の中でも傑作の誉れが高い逸品で、確かに、均整のとれた体く、気品高く、美しい仏像であった。ただ、この展示は、思った以上にあっさりしたものだった。

 むしろまったく予定外の特別陳列、「お水取り」に魅せられた。ちょうど二月堂のお水取り(修二会)の真っ最中だった。厳粛、荘厳な雰囲気が伝わり、感動的だった。

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 例によって一番楽しかったのは、鹿へのエサやり。土産物屋前の常連の鹿は凶暴で、みんなかまれたり、突かれたりしてなかなか大変だったが、これも奈良の楽しみ。
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春の一日子供会

 オミクロン株は子供たちへも感染が広がっている。春の子供大会の宿泊を残念せねばならなかった。これで3年連続の中止だ。それでも1日(半日)だけで、「春の一日子供会」と称して開催することができて、ほんとうによかった。

 子供たちの参加は多くなかったが、10、20代の仏青の皆さんが参加してくれた。そこに大人も、京都や大阪、滋賀の近郊だけななく、子供大会出身のOGが、名古屋や豊岡からの参加もあり、全体としては賑やかな顔ぶれであった。

 朝に法話を1座を担当。短い分級座談会を挟んで、昼食。午後からは、大人は分級座談会、子供たちは創作活動で念珠作りをした。そして、最後に法話を拝聴して、全体で分かち合い、最後の最後にみんなで一つだけームをして終わった。

 法座とは関係ないが、子供や仏青の皆さんと一緒に近くの公園に出かけた。ブルーシートを敷いて、みんなでハンバーガーを食べた。2月の寒波がうそのように、日差しが強く、もう初夏の陽気のようで、時より吹く風も心地よかった。ただみんなでハンバーガーをほほ張るだけだったが、ちょっとしたビクニックのようで、それだけでも気分が晴れた。

 が気分が晴れたのはそれだけではない。わずか10数名の顔ぶれだったが、大人も子供も、みんな仏の子供大会出身であったことだ。若い人達の話題も、自然と過去の子供大会の話題になる。スタンツのこと、会場のこと、班のこと、分級座談会のこと、とにかくいろいろと共通の話題が尽きない。その時の先生がおられ、班長だったものがいれば、同じ班だったというものもいる。規模は縮小し、人数は減っても、イキイキと語り合っている姿を眺めるだけでも、何かウキウキするものがあった。ただこの3年間は開催できず、いまの現役の子供たちは、華光会館での子供大会しか知らないのである。この伝統がここで途切れていくのかと思うと、とても残念ではある。

 でも一方で、前のものが後を導き、後のものが先をならっていく。こににも連続無窮のお働きがあることを尊く思った。何も宝物も財産もない華光の集いだが、唯一続いてきた、華光の宝である仏の子供たちである。

 最後の全体会で、高齢の女性が仰った。「いくつになろうとも、私も仏の子供なのです」と。

「我等は仏の子供なり。幼きときも、老いたるときも、み親の袖にすがりなん」

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町内会一斉清掃が法話のネタ

 朝から、町内会一斉清掃である。年4度ある南区全体の清掃日であるが、この町内では、ほぼほぼ役員や世話役(組長・班長)しか出席しない。朝から法座があったが、京都に居たので参加出来た。10時までには終わるので、行事には差し支えなかった。

 いかに世間のつきあいというのが、うわべの世間体であるのかがよく分かる。同時にわが心も、善いことをしても、善い心でやっていない。むしろいろいろ煩悩が起こってくることをイヤというほど知らされる。

 いろいろと味わうことが多かったので、すぐその後のミニ子供会の法話のネタに使わせてもらった。今年の子供大会のテーマは「善い心、悪い心」。善い行ないであっても、腹底には、悪い心がうごめくのが、凡夫の私の正体なのである。人間の私には、善し悪しは分からず、阿弥陀様(如来様)だけが、よくそれをご存じなのである。結局、人間の相対的な善し悪しでは計れないのが、善悪を超えた阿弥陀様の真実があることを、なるべく平易にお伝えした。

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聞ちゃんとのお別れ

 もともとは2週間の予定だった。そうはいってもまだ借り住まいの内は難しいとは思っていたが、何時の間にか2ケ月になっていた。ということで、おイヌさま、聞ちゃんとのお別れとなって、新居に移っていくことになった。サヨナラである。

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 寂しいような、ホッとしたような、とにかくもういいなーという感じは強い。というのも、人間の都合で生かされていく畜生の哀れをイヤというほど見せられたからだ。たった1段だけなのに哀れなものだが、悟られた如来様からみれば生死の苦海を彷徨っている点では、私も同じ哀れな衆生になんら変わりない。せっかく人間に生まれても、真実を聞かぬままに終わったなら、これまた虚しいことである。南無阿弥陀仏

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80-2号の編集作業

 華光誌の編集を急ピッチでおこなった。Iさんも編集作業に慣れて、仕事がスムーズに進む。おかげでいつもより1週間は早く9日には完成。印刷所の都合などもあって、華光誌データ渡しが11日になったが、それも十分、3月中には発送できる。
 誌上法話(講話)は「正信偈の大意」で、信心の五徳の3回目。信仰体験記は新しくなって、「信心獲得病にかかった求道者アルアル」の描写には、大きく頷くと共に、クスッと笑ってしまう。本人は至って大真面目なのだが、冷静に見てみると、とても滑稽な求め方をしている。それが自力の正体なのだが、なかなかそこを手放すことがてきない。他にもいま熱心に求めておられる方々の率直な告白が、それぞれに味があっていい。その気持ちに頷きつつも、そこを翻っていかねばこの難関はと超えられない一大事。そんなこんなで、いろいろと読み応えのある号となったと思う。

 最後になったが、編集作業してくれていたIさんが、今月一杯で退職されるので、これが最後の編集作業。お疲れさまでした。 

 

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高山での法供養法座

 

 日髙支部が以前そうだったが、最近の高山支部も毎年のように法友が一人、また一人とご往生が続いて、この3年間、支部法座の一座が法供養法座となっている。

 昨年12月の支部法座が終わった日の深夜、会所の家主でもあったT子さんが危篤となり、翌日にはご往生された。支部法座が無事に終わったタイミングは、T子さんらしい。今回は特別なことはしなかったが、まもなく百ケ日ということで、皆さんと声を合せてお正信偈を唱和し、そしてT子さんを偲び、また法座にかけてくださったご苦労を味わい、ご法話のテーマとした。

 20年以上に渡り、父も、私もお世話になってきた。例年、12月の支部報恩講でふるまわれたお斎も、T子さんがおられなければできなかった。懇親会でも、さまざまな御馳走を並べてくださった。講師のお世話だけではない。毎回、6~7名の方のお宿もお世話されていた。中には、法座の前泊、後泊をする強者もあった。T子さんを「高山のお母さん」と慕っておられる方も多い。ご自宅を法座会場に提供されると、世話のためにゆっくりご聴聞ができない。それで、率先して華光会館の宿泊行事に参詣された。しかも一人ではなく、高齢(80、90歳以上)の方を、三人、四人と手を引いて引率されるのが、常であった。その会館でも、宿泊される女性陣のまとめ役で、布団の世話役だった。ご子息曰く「道場の牢名主」はぴったりのネーミングたった。布団係とは、ちゃんと後継者も育ててくださっていた。聞法旅行も大好きで、宴会では見事な踊りを披露された。インド仏跡も、シルクロードもご一緒した。まあ思い出を語りだしたらきりがないほど、お世話になった。

 そして、その具体的に凡夫の姿となってさまざまな感情や体験をさせてくださった方を通じて、その背後にある阿弥陀様のご恩徳の深さに触れさせて頂く。もしそれがなければ、単なるお世話になった方への人情話に終わってしまう。それではあまりにも勿体ない。そのことを十分に味わえる方々と、T子さんを通じて、仏徳讃嘆をさせていただいた一座となった。

 2月、3月と、京都、広島、高山と月連続して家庭法座の会所(会場)のお世話をくださった方の法供養法座を開いている。先達方の命のうえに立っているということを味わうしかない。南無阿弥陀仏

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高山は雪

 3月の高山法座。岐阜県は、蔓延防止処置が延長となったが法座は予定どおり開かれる。

 高山本線は、美濃には雪はなく、下呂をすぎて、高山に近づくと、雪景色になっていた。お迎えのOさんが、「今年は寒かったし、雪もよく降ったけれど、今週から一段落して、もう大雪はないでしょう」との談。それでも、高山駅を出たら寒かった。夜は当然、氷点下の冷え込みだ。みぞれもすぐ雪になって、翌日も続いてる。朝、寝室のカーテンを開けるとこんな風景が見られた。

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  雪は強く降ったり、風にまったり、または止んで青空に反射して美しい。

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雪国の皆さんには見慣れた当たり前で、または嫌になる風景も、ぼくには珍しい。たぶん、今シーズンみる最後の雪じゃないかなーと。
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白梅・紅梅

 今年の冬は、いつまでも寒かった。日本海側の大雪も記録的。でも、3月を迎えると、寒暖の差は激しくても日中は温かくなって、ホッとする日が続いている。

 今日は3月の新月断食である。一昨年の4月から始まったのでちょどう丸2年、24回目の断食日にあたる。

 朝、散髪に出かける。例によって、新型コロナやワクチン摂取の話題に華を咲かせた。店主は、相変わらずマスクもしていない。

 帰りに散歩を兼ねて梅小路公園を歩く。

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  今年も梅園の梅が咲いている。早咲き、遅咲きと種類が豊富だが、今は、早咲きが満開近くなっている。
 よくみる紅白の梅が交互に植えられるが、紅にもいろいろ、また白にもいろいろ、その中間のピンクにもあって、美しい。桜まで、当分は楽しめそうである。

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<冬至↑>
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<白加賀↑>
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<月影↑ 薄緑がかかり美しい>
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<新平家↑ 淡いピンク>
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<枝垂れ梅↑>
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<大盃↑>
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<八重梅↑>
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<緋の司↑>
 きれいでした。


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