「世間虚仮・唯仏是真」(2)
以上のような背景が、たった8文字の「世間虚仮・唯仏是真」のお言葉には含まれているのだ。
「世間虚仮」の世間とは、インドの言葉の、ローカ(loka)を訳したものだが、もともとは広々と開放された空間を現わす言葉であって、世もその人も、開放的であって、常住ではなく無常であると示されている。また虚仮について、親鸞様は、「虚は、空しくして実がなく、仮は、かりにして真がない」と言われた。つまり、世間は、世も、私も、無常であって、真実とは真反対の仮の空しいものであるというのだ。
常々、味わうことだか、真面目に、この世を生きていくならば、さまざまな場面で、または人間関係において、「世間虚仮」ということを、いやというほど実感させられるであろう。しかし、この「世間虚仮」とは、一般に語られるような、厭世的な気分や世を嘆いて発せられた言葉でもなく、また、日々の暮らしの中で「世間虚仮」と実感された、人間の視点からで言葉ではないのた。だから、「世間虚仮」の視点をいくら深めて、決して「唯仏是真」、「ただ仏のみ真実」と言い切ることはできないのである。なぜなら、
「世間虚仮」は、迷いの世界、権で、無常 であり、
「唯仏是真」は、悟りの世界、実で、常住 なのだ。
つまり、ほんとうに「世間虚仮」と頷けるのは、実で、常住の世界である「唯仏是真」の世界に躍り出たからであって、決して「世間虚仮」の私からは届く世界ではない。ともすれば、前句の「世間虚仮」だけで、もうこの言葉が分かったように勘違いしているが、実は「唯仏是真」と躍り出て、初めて「世間虚仮」と頷けるのだ。自分の実感からでた言葉ではなく、仏智に出会って初めて権実の真実に触れることが出来るのである。
不思議なことだか、このお言葉を、親鸞聖人はご存じなかった(鎌倉時代に発見されたのは、聖人ご遷化後)。にも関わらず、『歎異抄』後序のお言葉には、
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつて
そらごと(空言)たはごと(戯言)、まこと(真)あることなきに、
ただ念仏のみぞまこと(真)にておはします」
とまったく同じ御心である。念仏のみぞまことが光輝いている。
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