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『御伝鈔』下巻第七段(3)「~廟堂創立の経緯とその後~

 『御伝鈔』下巻第七段の「廟堂創立」である。

 聖人ご往生10年後に、廟堂が建ち、ご影像を安置されて、多くの門弟が参拝されて、浄土真宗がますます盛んになるという一段であったが、最後に「廟堂創立の経緯とその後」に触れて『御伝鈔』を終えた。

 前段は、聖人ご臨終の様子であったが、臨終に立ち会ったお子様は、越後より上洛中の益方入道、そして常日頃から聖人のお世話されていた末娘の覚信尼公であった。覚信尼は、元仁元(1224)年に誕生し、父と共に帰洛する。久我通光に仕えてて、兵衛督局と称した。その後日野広綱と結婚し、覚恵(覚如上人の父)を産む。26歳の時(覚恵7歳)、広綱が逝去する。その後、覚恵を青蓮院に預けて、父(親鸞)と暮らし、住居が火災にあった後も、父と善法坊に移り、聖人の最後を看取る(39歳)。その時、聖人は関東の門弟(主に常陸の国)に、覚信尼と覚恵の行く末を頼むとの消息が、本願寺に残っている(聖人の遺言とも言われる・799頁)。若くして未亡人となり、幼子を抱えた娘が心配であったのだろう。聖人の葬儀を取り仕切り、母(恵信尼)に知らせている。その後、小野宮禅念と再婚。43歳の時、唯善を産む。49歳(1272年冬)の時、門弟と協力して、夫、小野宮禅念の所有の土地に廟堂を創立する(廟堂の所有は関東門弟)。元の墓所は、石碑の回りに塀を巡らしただけの粗末なもので、また不便な地にあった。関東の門弟の参拝した志で生計を立てる。その3年後、夫禅念が逝去し、覚信尼が相続する。ますます関東門弟の協力が必要となり、1277年に、その敷地も関東門弟に譲り、留守職(るすしき・廟堂の管理者)の地位を安堵される。

 留守職(るすしき)とは、元は国司が在京のままで、その全権を在国の官人に託して国を政めたものに由来する。関東門弟から廟堂を守る者として承認された者を留守職とした。聖人の廟堂の管理維持をする役で、譲り状と門弟の承認によって相伝された。覚信尼から長男覚恵へと譲り渡されたが、この間に、異父弟の唯善との相続権争いが起き、覚恵没後3年目に覚如が受け継ぐが、関東門弟の承認や本山などの安堵状でやっと保たれていた。その後、廟堂の寺院化によって住持職も含むようになり、別当職と称されるようになる。覚如上人はその生涯を、聖人の正統な後継者であることを強調し、教義面のみならず、地位確保ためにも奔走されることになる。

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