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2022年2月の16件の記事

華光誌輪読法座~遺弟の念力~

 午前中の「仏書に親しむ会」に続いて、午後からは「華光誌輪読法座」。午前だけの方もあれば、午後の参加の方もあって人数は増えた。

 誌上法話「遺弟の念力」を読む1回目。

 「一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば、『専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず』と、あそばされおかれ候ふ」(『蓮如上人御一代記聞書』121条)

 前半の部分を、お参りを少ない言い訳に使いがちだと反省しつつ、しかし真実の言でもある。信を獲る人、または信未信の法座にならなければ、ほんとうに意味がない。では、どうすれば繁昌するのか。後半で覚如上人のお言葉を引かれている。

 「しかれば、『専修正行の繁昌は、遺弟の念力より成ず』と、あそばされおかれ候ふ」

「専修正行」とは、自力を離れた他力の念仏を専らにすること。浄土真宗と言ってもよい。その繁昌は「遺弟の念力より成ず」。浄土真宗の繁昌は、遺弟の念力より起こるのだと。遺弟とは、親鸞聖人の残されたお弟子方のこと。そのお弟子の念力、念力と言っても別に超能力のことではなく、ご信心の力である。つまりは、自力を離れて他力念仏に帰する浄土真宗の繁昌とは、一人でも信心を取る人が生まれることである。それは親鸞様の残されたお弟子方の信心の力によるのだと。「あそばされおかれ候ふ」なので、覚如上人が『報恩講式』に示されておられるのだと。親鸞聖人から覚如上人、そして蓮如上人へと、このお心が繋がっているわけである。

 結局、先生の力でも、組織の力でもない。私達、一人一人、特に仏法を喜んでいると自称してるもの達が、いかにご法を喜び、相続しているのかが問われているのだ。

 3月も同じく午前「仏書」、午後「輪読法座」の形式です。

◎「仏書に親しむ会」=3月19日(土)朝10時~12時
『悟痰録』尾上 実著の第一回

◎「華光誌輪読法座」=3月19日(土)昼13時30分~16時30分
『華光誌』80-1「遺弟の念力」

 

 

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仏書に親しむ会~尊い一句~

   『悟痰録』に収録された貴伝名博さんの『春風吹かば』に続いて、『死を凝視して』に収録される貴伝名さんの『死の日記』を読む。喉頭結核に悶絶しながらの最後の日記である。法座の感想よりも、その一部(最後の部分)をお読みいただこう。

 「もうおそらく、今生において二度とペンを執らないであろう。何か末期の一句を残したいが、喉頭が痛くてダメだ。絶えず襲いくる症状にあえぎながら、一言を探す言葉もない。しかたなく黙って目を閉じると、出てきた。
 『南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏』
 讃嘆のお六字だ。これより尊い一句があろうか。法蔵久遠の昔より流れた、一切群生に呼びかける最初にして最後の絶句だ。
 痛む喉頭の奥からまた現われる念々の称名。ああ、もうこれで記す要もない。これでの日記は完結だ。後文は、また浄土で語ろう。

 昭和十八年十月二十六日の暮れていく。(終了)」

と結ばれている。

 その後、伊藤先生の「死の友へ」の一文が添えられている。
 そこに、最後のお見舞いに行かれた師が、聞かれた貴伝名さんの言葉がある。

「先生、苦しい。ぼくはこんなに苦しまなくては死ねないのでしょうか。恐ろしい悪業に泣いています」

「だが、先生、うれしい。腹底で落ちいています。有り難い。極楽ってエライところでしょうね……」

 二十七歳を一期してのご往生であった。

 その後に続く、伊藤先生の勇ましいお言葉が胸を打つ。法蔵菩薩の命のうえに立っている。うかうかしてはおられない。南無阿弥陀仏

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広島支部家庭法座~願いがこもる~

  今月の広島支部法座は、まん延防止措置中で会場がキャンセルとなり、zoom法座に変更されることになっていた。それも致し方なし、と思っていたが、一応、1月に年忌法要を勤められたお宅を使わせてもらえないか尋ねてみた。すると、「ぜひ使ったください」との快諾がある。
 もともと支部法座を開いていた会場だ。かなりのご高齢になられ会場提供が難しくなり、何年か過ぎていた。おかげて、しばらく法座に遠ざかったおられた施主(ご子息)も、法座に参加されたのが、一番うれしかった。

 手間、暇という点では、京都でのZOOM法座の方が、ずっと楽だ。身も運ばずともいいし、リラックスして法座が持てる。交通費も掛からない。でも、そんな効率だけで計るのでは、勿体なすぎる。ZOOM法座ならば参加できなかった方もお参りされくださる。この足を運ぶという(お金も時間もかかる)ところから、法座は始まっているようだ。多い人数ではないが、座談会は会場とZOOMに分かれて行った。

 会場では、最近ご縁ができた方の質問に、皆さんが率直に答えてられた。その雰囲気がよかった。ある方が、「この部屋は、華光会館3階の講師室(悟朗先生の定位置)に似てますね」と。それもそのはず、同じ人(施主)の設計だからだ。家庭法座が開けるようにと、仏間の襖を開けると二間が続く形式になっている。これは、会館の講師室もそうだが、先日のM家も、そして高山のF家もすべて同じで、どのお宅も、家庭法座が開けるようにとの願いが込められている。だから仏壇の前で20数名が車座に座れるように造られているのだ。そこに、もう願いが込めているのだ。

 不思議なことだが、先日のM家の法要でも、亡くなったN子さんが出て来らる気になった。今日も座談会が始まったら、1年前にご往生されたT子さんが、そこに座っておられる気がした。いや気ではないかもしれない。影向されて、私達を導いて下さっているのだ。だから、今日の予定外の家庭法座もスッーと実現し、ご子息もご縁に遇われたのだ。ほんとうに遠く宿縁を喜べである。南無阿弥陀仏

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『御伝鈔』下巻第七段(3)「~廟堂創立の経緯とその後~

 『御伝鈔』下巻第七段の「廟堂創立」である。

 聖人ご往生10年後に、廟堂が建ち、ご影像を安置されて、多くの門弟が参拝されて、浄土真宗がますます盛んになるという一段であったが、最後に「廟堂創立の経緯とその後」に触れて『御伝鈔』を終えた。

 前段は、聖人ご臨終の様子であったが、臨終に立ち会ったお子様は、越後より上洛中の益方入道、そして常日頃から聖人のお世話されていた末娘の覚信尼公であった。覚信尼は、元仁元(1224)年に誕生し、父と共に帰洛する。久我通光に仕えてて、兵衛督局と称した。その後日野広綱と結婚し、覚恵(覚如上人の父)を産む。26歳の時(覚恵7歳)、広綱が逝去する。その後、覚恵を青蓮院に預けて、父(親鸞)と暮らし、住居が火災にあった後も、父と善法坊に移り、聖人の最後を看取る(39歳)。その時、聖人は関東の門弟(主に常陸の国)に、覚信尼と覚恵の行く末を頼むとの消息が、本願寺に残っている(聖人の遺言とも言われる・799頁)。若くして未亡人となり、幼子を抱えた娘が心配であったのだろう。聖人の葬儀を取り仕切り、母(恵信尼)に知らせている。その後、小野宮禅念と再婚。43歳の時、唯善を産む。49歳(1272年冬)の時、門弟と協力して、夫、小野宮禅念の所有の土地に廟堂を創立する(廟堂の所有は関東門弟)。元の墓所は、石碑の回りに塀を巡らしただけの粗末なもので、また不便な地にあった。関東の門弟の参拝した志で生計を立てる。その3年後、夫禅念が逝去し、覚信尼が相続する。ますます関東門弟の協力が必要となり、1277年に、その敷地も関東門弟に譲り、留守職(るすしき・廟堂の管理者)の地位を安堵される。

 留守職(るすしき)とは、元は国司が在京のままで、その全権を在国の官人に託して国を政めたものに由来する。関東門弟から廟堂を守る者として承認された者を留守職とした。聖人の廟堂の管理維持をする役で、譲り状と門弟の承認によって相伝された。覚信尼から長男覚恵へと譲り渡されたが、この間に、異父弟の唯善との相続権争いが起き、覚恵没後3年目に覚如が受け継ぐが、関東門弟の承認や本山などの安堵状でやっと保たれていた。その後、廟堂の寺院化によって住持職も含むようになり、別当職と称されるようになる。覚如上人はその生涯を、聖人の正統な後継者であることを強調し、教義面のみならず、地位確保ためにも奔走されることになる。

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『御伝鈔』奥書

そして、最後に本文とは別に、奥書がある。
『御伝鈔』(『伝絵』)作製の意図を後書きとして述べられているが、時代の異なる三つの奥書からなっているのが特色である。その大意のみを述べる。

第一=根本奥書といわれ、永仁三(1295・覚如上人26歳)年に、『伝絵』が初めて作製された時のもの。聖人の「知恩報徳」のためのみに作製されたことが明記される。絵は、康楽寺浄賀による。「善信聖人絵」と題された。

第二=その44年後、暦応二(1339)年に、書写して作り直す。初版原本は、建武三(1336)年、足利尊氏の京都侵攻の兵火により、本願寺と共に焼失したことが記される。

第三=その4年後、康永二(1343)年、覚如上人74歳の時、最終版として「本願寺聖人親鸞伝絵」が作製された時の記述である。
      
以上で『御伝鈔』が終わった。南無阿弥陀仏

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『御伝鈔』下巻第七段「廟堂創立」(1)

 『御伝鈔』も、最終回を迎えた。下巻第七段の「廟堂創立」である。

 前回は、聖人のご往生の様子と、荼毘にふされた一段であったので、聖人の伝記としては、一応終わっている。最後は、ご往生10年後に、廟堂が建ち、ご影像を安置されて、多くの門弟が参拝されて、浄土真宗がますます盛んになるという一段で、『御伝鈔』が結ばれていく段である。

 ここを3段に分かって頂いた。今は、大意のみを述べる。

(1)まず一、「文永九年冬 ~ 影像を安ず」が、「廟堂創建」である。
1永九(1272)年冬(西暦1272年で、聖人入滅(1262年)から10年後にあたる)に、東山の西の麓、鳥辺野の北にあった大谷のお墓を改葬して、少し北の吉水の北辺に移したという段だ。

(2)次の二、「この時に当りて ~ 年々廟堂に詣す」が、「廟堂参拝」である。
2ご往生後、聖人によって相伝された真宗念仏の教えは、いよいよ興り、聖人のお言葉やお聖教はますます尊く、ご在世の昔よりもはるかに盛んだった。聖人の門弟は諸国に広まり、沢山の門徒が生まれた。皆、聖人の教え重んじ、報謝のまことを示す僧侶も俗人も、老人も若者も、みな遠近より廟堂に参拝するようになった。

(3)そして「おおよそ聖人 ~ 略するところなり」が、「むすび」にあたる。
3聖人のご在世中、奇特なことが多数あったが、詳しく述べる術がない。今は、述べること略した。

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コロナ禍の三回忌法要

 京都支部の中心的メンバーであったMさんの三回忌法要を営む。

 法要や法事も、新型コロナに翻弄された二年間だった。今回も、葬儀ホールで、故人の姉妹、親族や友人も招いて、会食も開く計画で進んでいた。ところがオミニクロン株の広がりで、いろいろな声が出てきて変更が続いた。まず会食がなくなり、そのうち不参加が増えてホールは取り止め。一時は、延期や中止の声も出るは、当日も欠席は出るわで、喪主さんも右往左往してたいへんだったと、愚痴っておられた。
 
 それでも尊い仏事には変わりはない。むしろ、年2回、家庭法座を開かせていただいたいるご自宅のお部屋で、一番因縁深い、ご主人とお子様2名が座ってくださったことかよかった。

 勤行が終わり、法話が始まると、今にもMさんが台所から現われて、うれしそうに頷きながら聴聞され、また涙され、そしてお念仏されていた姿がそこににあった。とにかく仏法が好きで、法を語り合うの好きで、賑やかなのが好きな人であった。時には、感情的にすねって愚痴一杯になられたり、本気で怒ったりもされた。一度、そうなるとなかなか収まらず、毒も吐き続け、辛辣な言葉や感情的な態度で同人間でのトラベルも多かった。それも含めて、すべて凡夫の生地のままを出し、仏法をこの身で喜んでいかれたのである。そして、自らの余命を知ると、気にかかっていた同行の方にますます働きかけ、そして、最後は後に続く念仏者の仏法相続の一助にと尊い配慮までして下さっで、逝かれたのである。南無阿弥陀仏

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2月の月利会~共感的理解~

  カウンセラーの対人的態度としての第三番目は共感的理解である。

 「共感」という言葉が巷に溢れ、共感(もしくは共感力)がキーワードになっている時代だと思う。SNS上では、「いいね!」が連発されて、共感されたい、また「分かってもらいたい」と願う人達で溢れている。しかし、この場合の共感とは、同情だったり、同意だったり、またはほんとうに私の気持ちなのか、相手の気持ちなのかも分からないままでも、とにかく批判や反対ではなく、「同感」という言葉で安心する程度のものが、大半ではないだろうか。

 しかし、ここでの共感的理解は、明らかに単純な同意でも、また自分の感情と相手の感情をごちゃ混ぜにして同情的に理解することでも、もちろん相手を知るために、あれこれ詮索して原因を探ったりするような診断的な理解とは明らかに一線を画している。
 
 この点を、西光義敞先生の『暮らしの中のカウンセリング』では次ぎようにまとめておられる。

 共感的理解は、クライエントと共に、クライエントが感じているかのように感じとる、しかもクライエントの感情に中に巻き込まれないような理解のしかたです。クライエントの心の内側に入りきって、クライエントの目で周囲や自分自身をみればこういうふうにみえるのだなー。クライエントの身になってみればこういう感じがするんだなーと、「感じ」を共有しあうかのようなわかり方です。こういう理解のしかたを「内部的照合枠」によるクライエント理解といいます。

 共感という感情に関わる問題なので、まずは自分と他者の気持ちに気づき、敏感でそれを分けつつも、決して「あなたはあなた」「私は私」と冷たく分かつのでなく、クライエントの私的世界を自分のことのように、それでいてその感情に巻き込まれるのではなく、「あたかも~のごとく」を見失わないで聞いていこうという態度なのである。そのとき、相手を外からの情報で客観的に理解しようという「外部的照合枠」(外側の枠組み)ではなく、どこまでも、クライエントの内側にある「内部的照合枠」による理解によるのだ。相手の「内部的照合枠」による理解というところが、大きなポイントであると思う。

 また他のカウンセラー態度条件である、自己一致や受容(無条件の肯定的配慮)とも有機的なつながり合っているのは言うまでもない。知的な理解にとどまらず、たゆまぬ努力による訓練や経験を通して、体験的にその態度を身につけていくことが必要なのである。たとえ道は険しくても、だれでも、またどんな時でも、その努力の第一歩を踏み出すことこそ、大切なのである。まず、体験的な一歩を踏み出そう。

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「世間虚仮・唯仏是真」(2)

 以上のような背景が、たった8文字の「世間虚仮・唯仏是真」のお言葉には含まれているのだ。

 「世間虚仮」の世間とは、インドの言葉の、ローカ(loka)を訳したものだが、もともとは広々と開放された空間を現わす言葉であって、世もその人も、開放的であって、常住ではなく無常であると示されている。また虚仮について、親鸞様は、「虚は、空しくして実がなく、仮は、かりにして真がない」と言われた。つまり、世間は、世も、私も、無常であって、真実とは真反対の仮の空しいものであるというのだ。

 常々、味わうことだか、真面目に、この世を生きていくならば、さまざまな場面で、または人間関係において、「世間虚仮」ということを、いやというほど実感させられるであろう。しかし、この「世間虚仮」とは、一般に語られるような、厭世的な気分や世を嘆いて発せられた言葉でもなく、また、日々の暮らしの中で「世間虚仮」と実感された、人間の視点からで言葉ではないのた。だから、「世間虚仮」の視点をいくら深めて、決して「唯仏是真」、「ただ仏のみ真実」と言い切ることはできないのである。なぜなら、

 「世間虚仮」は、迷いの世界、権で、無常 であり、
 「唯仏是真」は、悟りの世界、実で、常住 なのだ。

 つまり、ほんとうに「世間虚仮」と頷けるのは、実で、常住の世界である「唯仏是真」の世界に躍り出たからであって、決して「世間虚仮」の私からは届く世界ではない。ともすれば、前句の「世間虚仮」だけで、もうこの言葉が分かったように勘違いしているが、実は「唯仏是真」と躍り出て、初めて「世間虚仮」と頷けるのだ。自分の実感からでた言葉ではなく、仏智に出会って初めて権実の真実に触れることが出来るのである。

 不思議なことだか、このお言葉を、親鸞聖人はご存じなかった(鎌倉時代に発見されたのは、聖人ご遷化後)。にも関わらず、『歎異抄』後序のお言葉には、

「煩悩具足凡夫火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつて
そらごと(空言)たはごと(戯言)、まこと(真)あることなきに、
ただ念仏のみぞまこと(真)にておはします」

とまったく同じ御心である。念仏のみぞまことが光輝いている。

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「世間虚仮・唯仏是真」(1)

「世間虚仮・唯仏是真」は、有名な聖徳太子のご持言(常の仰せ)だ。東海、京都のご法話は、この聖徳太子「世間は虚仮、ただ仏のみこれ真(まこと)」という常のお言葉を頂いた。このお言葉が残った経緯と、そしてその意味を簡単に述べておこう。

 これを残してくださったのは聖徳太子自身ではない。太子の4名おられたお妃のお一人で、推古天皇の孫にあたる橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が作製した天寿国繍帳(しゅうちょう)にあるお言葉。実は、この作製のおいわれを知ることで、お言葉のお心に触れることができるのである。
  
 天寿国繍帳とは、飛鳥時代に作製された日本最古で現存する刺繍作品である。この数奇な経緯を語るだけでも長くなるが、簡単に述べておく。
 橘大郎女が、太子のご往生の直後、追悼のために製作をされたのだが、太子一族の上宮家が滅亡して、長らく忘れられていた。それが鎌倉時代に中宮寺の尼僧信如によって完全な形で発見された(親鸞聖人のご往生の後)。その時に複製品が造られるのだが、その後の戦国期の長い混乱の中でまた忘れられ、江戸時代再発見された時には断片になっていた。そして、江戸時代に、飛鳥、鎌倉、江戸期のものが無神経に張り合わされた断片が今日残れているものである。(45年前には中宮寺でガラス越しに見た記憶があるが、今は複製か。昨年の奈良国立博物館の聖徳太子展で展示されていた)。

 もともとこれは聖徳太子が来世に往生を願った天寿国に往生するありさまを、太子ご逝去の後で、推古天皇の許可をえて妃の橘大郎女が作製されたものだ。天寿国とは何か。これもいろいろ議論あることろが、阿弥陀様の無量寿国である説が有力だ。しかも蓮華化生の姿や女人往生の姿など貴重な宗教表現がみられる、希有なものである。

 そこに、亀甲が100個刺繍され、その一つ一つ亀甲に4文字ずつの文字確認されている。あわせると400文字の文章となっているのだ。残念なから、現存の天寿国繍帳に残るのは5個のみであるが、幸いなのことに、全文が記録されたテキストが残れてた。知恩院に伝わる国宝『上宮聖徳法王帝説』である(国宝だが写本でオリジナルはない)。そこに以下のb文章が残されている。

「我が大王(聖徳太子)、告りたまはく、『世間は虚假、唯だ仏のみ是れ真なり』と。其の法を玩味(がんみ)するに、謂(おも)えらく、我が大王は応(まさ)に天寿国(てんじゅこく)(無量寿国)の中に生まるるべし、と。而かれども彼の国の形、眼(まなこ)に看みがたき所なり。ねがわくは図像(ずぞう)に、因(よ)り、大王往生の状(さま)を観たてまつらんと欲す。」

 常々、愛妻の妃や子供たち、回りの方々にも、このお言葉を語っておられたのである。そして、確かに、まっとうにこの世を生き行くならば、世間虚仮の事実を実感することがあるだろう。だか問題は「唯仏是真」である。これは言葉で語れても、それを実感をもって頷け、そう言い切ることができるのか。「ただ仏のみまこと」。その如来の浄土のみがまことで、常住の世界であると。時は、日本に仏教が伝来して日も浅く、十分に仏教が受容されていない中である。にも関わらず、在俗の身でありながら、太子は正統に、そして深い仏教理解を示され、それを伝えておられる。まさに「和国の教主」、日本に生まれられたお釈迦さまなのである。単なる現世利益を超え、来世への往生を願う、つまり現当二世利益にまで心寄せて、それを体現することはほんとうに希有なことであったのだ。

 だから、妃といえでも、「世間虚仮」は理解できても、「唯仏是真」の体解は難しく、太子が往生された無量寿国のありさまが理解しがたかい、目に見えない涅槃の世界なのだ。それで、少しでもその世界を知りたい。太子の往生された世界に触れたい。同時に、太子の追悼にもなるという願いから、この天寿国繍帳が作製されたのである。(続く)

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東海支部法座、懇親会にて

   名古屋市での東海支部法座。昨日は、愛知県で過去最高のコロナ感染者だと報道gがあった。そのせいか参加者は少なかったが、いつも顔ぶれに交じり、新聞の告知で初参加の方もあった。予め出していた「聖徳太子と親鸞聖人」のテーマで法話した(詳細は次ぎの文章で)。

 法座終了後、懇親会があった。まん延防止措置で、名古屋も時短やアルコールを停止している店(選択性)も多く、さすがにこの状況では懇親会はないのかなとは半分ぐらい思っていたが、さすがに東海支部の有志の皆さん、しっかり懇親会ありました。喜んでぼくも参加したら、8名も参加があった。感染対策の認証されたているお店に入り、4名ずつ分かれたテーブルに着席した。広い店内に、他の複数の客はなく、一人飲みの客がある程度。貸し切りである。

 ほぼ同年代の、ある会の出身の、しかも長年かなり活発に活動されていた皆さんが揃った。その中で、長年、真摯に求めながら、なかなか闇が破れないある方が、率直な心境を語ってくださった。ほんとうにお育てのおかげで、今日のご法話にしても一点の計らいもなく頷けられるようになった。後生の対する不安もない。なんとかせねばという思いも払われて、ただそのまま聞かせて頂きたいという、いまの飾らぬ心境を語られた。しかしだだ一点ひっかかりがあるという。それは、「たのむ一念(南無の心)のところが、(体験的)分からない」というのである。

 確かに、調熟のお育てのおかけが、力みなく聞いておられる様子は、傍目からも分かる。ただ、ここはあやふやしてはおられない大切な要である。皆さんにも大切な一点だ。それで、各人に自分の言葉で、「たのむ一念」をどう頂いておられのかを尋ねてみることにした。いわば、それぞれの領解出言である。

 これがとてもよかった。お酒の席とはいえ、ちょっと真顔になったり、力を取れたなかで「たのむ一念」の領解をされ、率直に話してくださった。「こちらには、たのむ心などない。阿弥陀様が頭をさげて、先にたのんでくださっていたに出会っただけだ」とか、「ほんとうに分からないの一点」だととか、「逆に、本気になってたのませもらった。任せきらないで、飛び込んだだけだ」とか、よく似たニアンスもあれば、法か、機か、どこに力を入れるかで、まったく逆の言葉にもなるのだが、それもまた尊かった。  僕もわが胸に問うてみたら、「ただ地獄一定だった」と顕かになった時に、すべてが決していたところが浮かびあがってきた。そのものに、南無されていたお力があったのだ。だから、僕のととろでは、こちらは「ただ落ちていく」それだけだった。理屈でも、感情でもない。この身このまま、裸のままで飛び込んでいくしかない一大事なのである。南無阿弥陀仏 

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還暦

 還暦、60歳の誕生日である。自分でもこの響きに驚いている。両親が還暦の時は何とも思わなかったが、姉の還暦祝いをしたときには不思議な感覚があったし、また初めて身近に感じることがあった。

 徐々に身にかけて老いを実感してる。からだは正直だ。でも、若いときに味わえなかった、この年まで来なければ味わえないことや感じることができないことが増えてきた。何歳になっても、己の詰まらない自性は変わらないが、見えてくる風景、味わいが豊かになってきた感じがするのだ。その意味では、老いを迎えるこれからの人生、何が経験できるのか楽しみである。

 同人の皆様から、メールや電話で祝福を頂いたり、またプレゼントをくださる方もある。正直、どれもサプライズであって驚いたが、損直にうれしかった。ありがとうございます。お祝いというとこでお酒を頂戴した。赤、白、ロゼ、泡のワインに、日頃見たこともないような日本酒も頂いた。ぼくは、呑んベエーとしてはかわいい部類だが、それでも好きなのは間違いない。連れ合いの好物でもあるので楽しみながら頂きたい。

 夜には、家族からもお祝いをしてもらった。こんな時なので外食はやめて、みんなで賑やかに食卓を囲んだ。二人の子供たちが揃った誕生日は6年ぶにある。しかも今は、5名プラス1匹にお祝いしてもらった。長女がバースディーケーキケーキを焼いてくれる。また、メッセージを添えた誕生日プレゼントも用意してくれていた。

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 多くの方から祝福を頂いたのも、すべて仏法のおかげだ。ほんとうにありがとうございました。

 

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映画『名付けようのない踊り』

    国際的ダンサーである田中泯を追いかけたドキュメンタリー名付けようのない踊り』 を見る。ぼくが、初めて田中泯の演技を見たのは『メゾン・ド・ヒミコ』という映画だったと思うが、その映画の犬童一心監督のドキュメンタリー作品だ。一般にはダンサーというより、映画、ドラマで存在感のある俳優として有名だ。1年前の2月、近く(南区東九条)の小劇場で公演があったのに見逃したのが、残念だ。

 ダンサーと言っても、テレビで見るようなダンスや舞踏のイメージとはずいぶん異なったものだ。場踊りという、その場のフィールド(土)と観客と、その場でおこるすべてに身を委ねて躍動する、いわば身土一如としてのありように感動した。

 2年間の世界ツアーを追いかけたものだか、単なる実写ではなく、その生い立ちなどの重要な子供時代のエピソードは、山村浩二のアニメーションとして描かれていた。また日本では、たとえばすべての毛を剃り陰部に包帯のみを巻いた裸で踊る姿は異端で、何度も逮捕をされる一方、国際的には高い評価を受けた行くもの、決して群れることなく孤高の存在として立っていることなど過去のエピソードや数々の出会いも紹介されるなど、2年間の活動を追いかけるというより、田中泯の半生期の綴る映画だった。

 不自然なダンサーとしての鍛え方ではなく、大自然のなかで野良仕事をしてできてくる身体で踊ると決め、生活、踊りが一体化していること。さまざまな異質、もしくは同業との出会いが、いかに大きな力になるのか。出会うべき時に出会えることこそ、人生の幸せだなと感じさせらるなど大いに刺激をもらった一本だった。

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赤いチャンチャンコと頭巾で、、。

 10日の誕生日を前に、一足早く暦のお祝いをしていただく。福岡(大分や岐阜の方もいたが)の皆さんでお祝いしてくださるとは聞いていたが、「赤いチャンチャンコと頭巾」までお店が用意されているとは思わなかった。
 壬寅(みずのえ とら)の年。十二支と十干の組み合わせが60年で一回りして、生まれたときと同じ暦が回ってくる。それで古来から、赤ちゃんに帰るということで、赤いものを身につけるようである。頂いた写真を母に見せると、「やっぱりお父さんに似てきたな~」と。そんな歳になりましたか。

 福岡もまん延防止の措置が出ていてアルコールはなし。それでもずいぶん楽しい席になり、最後はご法の話題に華が咲いた。ありがとうございました。

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 翌日のお昼は、箱崎宮の門前のお店で博多ラーメンを頂く。御存じない方もあって目の前の箱崎宮も見学。ああ、還暦も中厄なんですね、まったく関係ないけれども。

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 厄は外からくるものではなく、この罪業の私の身から出ているものなので払ってなくならない。凡夫の身は、雑行を捨て弥陀の本願に帰し、仏と成る以外に、迷いから離れることはできないのだ。ここは蒙古襲来の時の亀山天皇の「敵国降伏」の有名な扁額がある。厄と同じく、敵とは外(外敵)ばかり思っているけれど、ほんとうに手強い敵は自らの中にあった。それに騙されて迷い続けているのである。今、本願に降参させられた身の幸せを思う。南無阿弥陀仏。
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2月の福岡家庭法座

   2月と7月、福岡博多でのY家の家庭法座である。滋賀県の大雪で新幹線は遅れた。関門トンネルを抜けると福岡も雪が舞って、寒かった。

   2日間の法座だが、初日は会計事務所で昼座のみで、夜座はなく早めに会食となる。2日目は、家庭法座となって、朝座はY先生がご法話、昼座がご満座となる。つまり、ぼくの法話担当は、事務所と家庭の昼座2座のみである。

 テーマは、南無阿弥陀仏が成就するための利他行は、すべて陰徳(陰に隠れて見えない、知れないお徳)であり、その根源には、私一人にかけられた、釈迦、弥陀二尊の種々の善巧方便があることを、身近な具体的な例話として『親指のふし』の智子さんの遺言によって、連続無窮の働きかが続いていること、そしてその根源にある二尊のお働きを「安心決定鈔』から窺った。

 短い時間だったが、信仰座談会もビリッとした内容。それにしても、どんな適格を指摘があっても、聞く方が自分の思い、自分の都合でスルリとすり替えていくのだから恐ろしい。本願の手強さという法話はよく耳にするが、それだけわが心、わが身を頼りにとする自力心の根強さ、執拗さが恐ろしいのである。

 

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カウンセリグの学び~大段先生との出会い~

 8月の広島真宗カウンセリングWSから派生したZOOMワークショップの2回目。

 ミニカウンセリングの逐語録作製をめぐって、ぼくがカウンセリングに取り組むようなったきっかけを話せさてもらった。

 ぼくのカウンセリングの学びは、真宗カウンセリング研究会での先生方の導きが基盤であり、ほぼすべてだ。でもそれだけではない。同じ人間性心理学関連のグループやWS経験を通じて、有名無名の先達や先生方に出会い、ずいぶんご指導頂いた。それは単なる知識や技術を学ぶこと以上の意味があった。書物や講義だけでは得られない貴重な人生の体験である。特に、聞くということは、援助関係における対人的態度、姿勢として現われてくるものだ。つまり聞く態度に触れるとは、その方のカウンセリング観や人間観、人間性から滲み出る態度や姿勢に触れることになるのだ。そして、今から振り返っると、若いときから大きな財産になる出会いをさせてもらってきたのだ。

 中でも、大段智亮先生との出会いは、その後のぼく自身のカウンセリングの歩みに指針となるものであった。

 カウンセリングを学びだして数年たっていた。大学院の終わり頃、短大生や大学生に混じって開設された龍谷カウンセリング課程を受講した。受講に際してのいきさつもまた不思議なのだが、今は触れない。

 カウンセラーの聴き方の訓練としてのロールプレーニングを担当されていたのが大段先生だった。興正会館での3泊4日間の合宿だったと思う。

 真カ研の仲間も複数参加し、聴き方の怖さをしっておられた先生は、未熟な我々に、ロール(役割、演技)での聴き方の訓練を勧めれた。それに対して、自分たちが学んでいたミニ・カウンセリングの手法を提案したのだ。しっかり理由をあげ、難色を示された先生だたが、生意気にも反論してミニカングループを作ったのだ。なまじっかの学びだけでうぬぼれ、カウンセリング、対人関係の恐ろしさなど何も知らなかったのである。

 合宿はとにかく楽しかった。若いものが集まって、中には遊ぶ半分のものもいて夜の懇親会も盛り上がった。そんな中で、ケース検討の時の先生の態度は、鬼気せまる厳しさだった。ご病気のために、余命がないことをわかっておられたのであろう。酸素ボンベを持参し、看護師さんの介助を受けながら、未熟な学生にも、遊び半分のものにも、真摯に向き合ってくださった。指摘も容赦はなかく、泣きだすものもあったが、聴くことの厳しさ、援助的関係の真摯をお伝えくださった。

 僕自身に、なにか指導があったわけではなかったが、最後のワークを終え、全体の分かち合いで、みんなが感想を述べ、先生がコメントされているそのやりとり聞く内に、その真摯な態度に、自分のうぬぼれ、未熟さをいやというほど知らされた。穴があれば入りたいと、そんな心境だった。

 みんなが帰っていく中で、先生の前で号泣し懺悔した。とにかく恥ずかしかった。分かりもしないのに、分かったとうぬぼれ、いかに未熟で、聴くことが恐ろしことかということをからだで知らされたようだった。先生は黙って聞いてくださり、最後までお付き合ってくだった。もう部屋には、他にだれもいなくなっていた。温かいまなざしを向けてくださっていたが、言葉はなかった。
 しかし先生との出会いは、これが今生での最初で最後、まさに一期一会だ。まもなく先生は帰らぬ人となられたのである。たぶんWSに出れるような体調ではなかったのだろう。しかも、未熟で経験もない学生相手のWSなのに、命をかけて伝えようとされたのだ。

 その後、カウンセリングの学ぶことを止めようかと思ったことや挫折しかけたこともある。しかし、あの時の大段先生の真摯な態度に出会ったことが、どんな時でもカウンセリングの学び続けていく原動力となったのである。もしカウンセリング的な廻心があるとしたらば、その瞬間だったと思っている。

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