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下巻第六段「洛陽遷化」(2)

 聖人のご往生の様子は、他の資料によって、葬送の日時を詳しく知ることができる。たとえば、西本願寺所蔵の『教行信証』奥書によると、

「弘長二歳 壬戌 十一月二十八日未剋 親鸞聖人御入滅也、御歳九十歳、
 同二十九日戌時、東山御葬送 同三十日御舎利蔵」

とある。ご往生は、午時(昼12時)から2時間後の未時、十一月二十八日午後二時であったという。
またご葬送は、十一月二十九日午後八時ころ。そして、納骨は、十一月三十日に行われいてる。
          
 また恵信尼公のお手紙にから経緯を述べると

「去年の十二月一日の御文、同二十日あまりに、たしかにみ候ひぬ。なによりも、殿(親鸞)の御往生、なかなかはじめて申すにおよばず候ふ。(略)
 されば御りんず(御臨終)はいかにもわたらせたまへ、疑ひ思ひまゐらせぬうへ、おなじことながら、益方も御りんずにあひまゐらせて候ひける、親子の契りと申しながら、ふかくこそおぼえ候へば、うれしく候ふ、うれしく候ふ。」(『恵信尼消息』第一通・811)

 とある。納骨(11月30日)の翌日(12月1日)に、末娘の覚信尼公(覚如上人の祖母)から、恵信尼公へご往生の様子を知らせる手紙が出されて、20日後には越後に届いてる。そこには、臨終に立ち会っても何の奇瑞もなかったことという娘の疑問に対して、聖人の比叡山での修行、六角堂への参籠、そして「生死出づべき道」を求めた法然聖人との出遇い、地獄一定の自覚の身となられたこと。さらに、観世音菩薩がその本地だったという夢告を語られて、「(聖人の)浄土往生には少しも疑いがない」と示される。

 また、越後から、聖人の第五子、益方が臨終に立ち会えたことを喜んでおられる。益方とは、越後の居住の地名(新潟県上越市板倉区)に由来。有房・益方大夫入道と号し、法名は、道性である。つまり聖人の臨終には、二人のお子さま(益方入道と覚信尼公)が立ち会われたのである。

 他の資料から、聖人の弟である尋有僧都。門弟では、蓮位房(常従)、顕智房(高田)、専信房(遠江)などが立ち会ったと思われている。

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