引き続き華光誌輪読法座
午前の貴伝名博著『死の日記』に続いて、午後は、華光誌輪読法座。新年号(81-1号)。いつも輪読の初回は「巻頭言」と「聖教のこころ」を読むのだが、今回は「巻頭言」と「随筆」を読むことにした。図らずも、同級生、僧侶の方の文章である。
まず「巻頭言」の「何度生まれかわっても」。東京リベンジャーズという漫画を手がかりに、もし私がタイムリープして、何度も過去に戻ったとしても、私は何も変わらない。どこまでも自分中心で、自分のこと、自分の損得のことを求めていく迷いは、絶対に変わらないのだという所感から始まる。本論とは別だが、参加者の大半は、「東京リベンジャーズ?」「タイムリープ?」、分かりやすいだろうと出された譬えが「?」で、逆に興味をなくしかねない状態となる。このあたりは世代間のギャップが色濃い。それはそれとして、漫画の主人公は別として、もし私が過去に何度戻ろってやりなそうとも、同じ迷いを繰り返し続けていくという、私の凡夫性を取り上げていた。そして、そこにかけつづけられている阿弥陀様の大悲の呼び声があることをお伝えくださる。
本文を補足してポイントを確認していた。
何度も過去に戻らなくても、今もまた、そしてこれからもまた、迷いを出ることは不可能だというのである。ここで一番押さえたいのは、過去に戻らなくても、今も、そして「これからもまた」、つまり未来においても、出離の縁がないところである。今も、そして今後も、助かる手がかりがないのだ。それは何故か。自分のことだけを考えているとは、つまりは自分に執着して、自分が無常とも知らず、また無我とも分からない「無明」の存在であるからだ。これが迷いきもとである。だからこの無明の闇が晴れぬかぎり、何度も生き行にを繰り返しても、その迷いから離れることはないのである。
ではなぜ、そんなものに阿弥陀様は救いの手をさしのべ、呼び続けておられるのか。それは、阿弥陀様の大慈悲心が発動せずにおられなかったとしかいいようがない。他行の究まりこそが、その南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏とは、絶対に迷いから離れることのない無明の私こそに、今も、働き続けているのである。そのことを押さえて、文章を何度も頂いた。南無阿弥陀仏
メーンは、随想の「一念業成と廃立の伝統」であった。ぼくにとっては、昨年の後半以来、ずっとテーマにお伝えしていたところを、うまくまとめてもらっていてうれしかった。ところが、皆さんは悪戦苦闘。語句や文脈の理解のレベルでの質問ばかりで、なかなか核心(肚)のところに触れて喜んでおられる方は少なく、ちょっと寂しかった。でも、これは大切な肝である。今後も、この点をしっかり押さえてお取り次ぎをさせてもらいたい。南無阿弥陀仏。
さて、2月の仏書&輪読のお知らせです。
「仏書に親しむ会」=27日(日)朝10時~12時
『死を凝視して』に収録の貴伝名博先輩の『死の日記』の続き。貴伝名氏の遺言(享年27歳、肺結核でご往生)。お持ちでない方はコピーを用意します。
「華光誌輪読法座」=27日(日)昼13時半~16時半
81-1号の誌上法話を輪読します。少し先ですが、皆様、奮ってどうぞ。
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