修正会~虎の如く吠え叫ぶ~
大晦日は各地で大荒れで京都も雪が舞う寒い1日となった。雪もうっすらと積もり、元旦の交通を心配していた。幸い、このあたりは天気は回復。それでも、例年参加される滋賀や福井の参加者はお休みで、会館の参加者は少なめ。ZOOM参加者とほぼ同数くらい。
テーマは「利他の行」。
この2年間、コロナ禍の日常生活で、自分だけという利己的な思いを捨てて、「他者を思いやる」、「他者を気づかう」という言葉をよく耳した。自粛生活をすることも、積極的にワクチン接種することも、マスクをつけることも、自分を護るだけではなく、他者を思いやる行為(善意)だというのである。また、ぼくの回りでも、「私はコロナになってもいいけれど、もし罹って他の人にも迷惑をかけるので、まだ参加しません」というフレームも嫌になるほど聞かされた。今回のコロナは、ただ自分だけでなく、感染を広めるリスクと、またたとえ症状が出なくても濃厚接触者となれば2週間の自粛を強いられるからだ。
なんと利他の精神に溢れた、立派な日本人の多いことか。恥ずかしながら、ぼくは自分のことしか考えていない愚か者だ。他の人を思いやるからではなく、他者からの非難が怖いだけだ。もろちん「私は罹ってもいいけれど」などと思ったことも一度もない。ただ自分が感染が怖いから、マスクをつけ、密を避けている。それどころか、「他者を気づかう行動を」とテレビで連呼されると、うさん臭さを感じて反発したくなる、天の邪鬼でもある。
それで改めて、「利他とは何か」を考えてみた。人間の限界ある利己と裏腹の利他ではない。また、援助関係で陥りがちな上らか下へ、一方的に恵むという形式でもない。ほんとうに両者が生きる利他の行いはあるのか。
それを大迦葉尊者が、重病で貧窮の老婆に示した布施の精神をもとに窺った。ここに施されるものが、施し拝まれるという関係性の転換が起こる。頭を垂れるのは、施し受けるものではないのである。そのお心を端的の顕すのが次ぎのご和讃だ。
「無漸無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の廻向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ」
弥陀廻向の御名、つまり南無阿弥陀仏こそ究極の利他の行、利他が窮まった姿である。大慈悲心が極まり一歩的に発動して、「南無」と頭を垂れて、廻向される南無阿弥陀仏なればこそ、無漸無愧のこ身に届くのである。
今年は寅年だ。南無阿弥陀仏の名号の「号」とは、「號」と書く。この字の語源(白川説)が元旦の新聞に出ていた。「祈りの言葉を入れる器(口・セイ)を木の枝の「こう」で打ち、願いがかなうように大声で亡き叫び、神に訴えること。泣き叫ぶ大きな声が、虎の吠え叫ぶのにたとて「虎」が加えられたというのだ。
願いがかなうように大声で亡き叫びのは、私ではない。阿弥陀様の方である。それがお名号、南無阿弥陀仏の姿である。南無阿弥陀仏
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