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東京支部法座~無慚無愧のこの身!~

 オミクロン株の蔓延で、連日、感染者数の最多を更新し、東京の感染者数も急増している。昨年8月の法座は、緊急事態中で、急きょリモートに変更された。が、今回は予定どおり開かれ、現地組、ZOOMも含めてそこそこ参加者がある。ただコロナが広がってからは、新しい方、距離のある方の参加はなく、メンバーの固定化が課題となっている。しかし、内容的には充実した法座となったのではないか。

法座の最後に、聴き方の間違いに気づかされ、方向転換をされた方がある。

 今日の浄土真宗において、「法を求める」ということを教えられたことは、まことに尊い。しかし、いくら自力で求めても、絶対に他力の世界には至らない。教えられた求めることから、その求めたものすべて一切を捨て去り、他力に帰すことがなれば、広い世界には躍り出ることは、絶対にないのである。
 が、このここが一番難しい。求め、聞いた過程での、有り難い気持ちや、劇的な変化、不思議な体験などなど、自分の上に起こった変化を手がかりに、「よかった、ダメだった」と言っていくのだ。自分「良い」と決めつけ、自分でダメだと決めつけていく。自分の心境の変化だけを手がかりに、自分決定(機決定)の信心が横行しているようだ。
 まったく方向が違うのだが、本人だけがそのことが分からない。だから、有り難いもの、尊いもの、聞いた確かなものをつかんで、「よし」となるのが、獲信だと勘違いしていくのだ。

 法話は、初日は「末代無智章」を手がかりに、「たのむ機」と「すくう法」、つまり南無阿弥陀仏のお心で、「南無とき帰命する一念」のお取り次ぎをした。
 2日目は、「無慚無愧のこの身」と題して、和讃、そして涅槃経に説かれる阿闍世王が「慚愧」の心を懐かれた時のギバ大臣の尊い言葉をいただく。「慚愧なきものは人間ではない。それは畜生となづけるつのだ」と。自分の行為や言葉に責任がない、恥知らずのものだは、人間ではなく、そして心こそ仏法聴聞の元になるというのである。ところが、親鸞様は、阿闍世王が起した慚愧の心すら、私にはなく、まことの心は微塵もないとまで言い切られた。私が「恥ずかしい」と感じるのは、自分が人前で失敗してたり、バカにされた恥をかかれたというときであって、決して、天や地に恥じることはない。「恥ずかしい」ということまで、自分中心の心で考えているので、まったく仏法とは真逆なのに、求道者面だけは一人前になっている。

 そして『安心決定鈔』から、釈迦、弥陀二尊の命を捨てたお働きを、どれほど懇ろに教えていただいても、まったくそれを聞いていない。そして、「まだまだ、まだまた」不足だ、足りぬと、阿弥陀様にご修行を重ねさせ、釈尊のお命を捨てさせ続けているのは誰なのだ。ただ二尊のご苦労よりも、自分の心境に自惚れ、一喜一憂している。ほんとうに無慚無愧のこの身ではいなか!

 ただ土下座して、号泣するしかない。

 帰路、東京駅まで地下鉄をご一緒する。その口から、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」が留まることなく出ている。出るはずでのない場所で、そして出るはずのない者の口から、溢れ出る南無阿弥陀仏。如来の一人働き。功徳は十方に満ち満ちているのである

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