『御伝鈔』では、京都に戻られた後(約30年間)のことは、上巻第四段(蓮位夢想)と下巻第五段(熊野霊告)で関東時代の門弟の夢告がメーンで、いきなり最後のご往生の様子が語られている。実際、帰洛後、どのような活動や日暮らしをされていたのだろうか。聖人のお手紙や著書の奥書などで窺いした。
六十二、三歳のころに京都に戻らってこられるが、五条西洞院(松原通西洞院の光円寺)あたりに住まわれ、主に執筆活動や上洛してきた関東門弟を直接指導したり、お手紙でのご教化が中心で、京都では目立った教化活動はされない。一つには、念仏弾圧の歴史を振り返ると、活発な活動は難しかったも思われる。
その生計は、関東門弟からの「御こころざしの銭」(750頁)で賄われていることは、聖人のお礼状からも窺える。
「御こころざしのもの」=門徒個人の懇志。(804頁)
「念仏のすすめのもの」=毎月「二十五日の御念仏」(法然聖人の祥月命日の法座)での同行方の懇志である。
一方、晩年になるほど旺盛な執筆活動をなされている。執筆だけでなく、自ら書写もされている。主な著述と、晩年の出来事を示すおこう。
74~75歳頃=『顕浄土真実教行証文類』(131頁)完成。後に門弟が書写。
76歳=『浄土和讃』(555頁)
『高僧和讃』(578頁)
78歳=『唯信鈔文意』(699頁)
80歳=『浄土文類聚鈔』(477頁)
『入出二門偈』(545頁)
83歳=『尊号真像銘文』(643頁)
『浄土三経往生文類』(625頁)
『愚禿鈔』(501頁)
『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)
12月10日・火災に遭い、善法坊(ご舎弟・尋有僧都の里坊)へ移住。
「この十日の夜、せうまう(焼亡・火事のこと)にあうて候」(804頁)
天台僧は、比叡山上以外に京都市中にも支坊・里坊をもつことがある。
84歳=5月29日・長男、善鸞大徳を義絶(義絶状754頁、性信房にも報じる)。
但し、『御伝鈔』では善鸞事件には一切言及されていない。
『如来二種廻向文』(721頁)
85歳=『一念多念文意』(677頁)
『大日本粟散王聖徳太子奉讃』(百十四首)
86歳=『正像末和讃』(600頁)
88歳=『弥陀如来名号徳』(727頁)
年月日が分かる最後の手紙(文応元年十一月十三日)
(『親鸞聖人御消息』第十七通・771頁)
聖人が長生きされ、多くの書物を残してくださったことが、今日の浄土真宗の一つの礎になったのであるから、結果ではあるが、帰洛された意義は大きかった。後の者は、そのおかげを今頂いているのである。