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2022年1月の18件の記事

賑やか

 東京から戻ってきたら、自主隔離を終えた次女が帰っていた。ぼくが新幹線で東京に向っていた時、下りの新幹線に乗っていたのだ。

 リモートでは見ていても、3年ぶりの再開である。中学3年生が終わる直前だったが、今はブラジルの高校を卒業したばかりで、この3年間の変更は大きい。見た目でも、髪を染め、化粧やオシャレに夢中で、すっかりお年頃の娘になっている。4月から法改正で、日本でも成人年齢に達することになる。

 一匹と1人が増えて、急に家庭が華やいだ。姉妹も、二人揃うといままではまた違って、賑やかだ。同時に、二人が揃うことで、姉妹でも性格や業も違うことが、よくよく見えてくるから面白い。

 一時、預かりではあるが、いろいろと味あわせて頂けそうで、楽しみだな。

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東京支部法座~無慚無愧のこの身!~

 オミクロン株の蔓延で、連日、感染者数の最多を更新し、東京の感染者数も急増している。昨年8月の法座は、緊急事態中で、急きょリモートに変更された。が、今回は予定どおり開かれ、現地組、ZOOMも含めてそこそこ参加者がある。ただコロナが広がってからは、新しい方、距離のある方の参加はなく、メンバーの固定化が課題となっている。しかし、内容的には充実した法座となったのではないか。

法座の最後に、聴き方の間違いに気づかされ、方向転換をされた方がある。

 今日の浄土真宗において、「法を求める」ということを教えられたことは、まことに尊い。しかし、いくら自力で求めても、絶対に他力の世界には至らない。教えられた求めることから、その求めたものすべて一切を捨て去り、他力に帰すことがなれば、広い世界には躍り出ることは、絶対にないのである。
 が、このここが一番難しい。求め、聞いた過程での、有り難い気持ちや、劇的な変化、不思議な体験などなど、自分の上に起こった変化を手がかりに、「よかった、ダメだった」と言っていくのだ。自分「良い」と決めつけ、自分でダメだと決めつけていく。自分の心境の変化だけを手がかりに、自分決定(機決定)の信心が横行しているようだ。
 まったく方向が違うのだが、本人だけがそのことが分からない。だから、有り難いもの、尊いもの、聞いた確かなものをつかんで、「よし」となるのが、獲信だと勘違いしていくのだ。

 法話は、初日は「末代無智章」を手がかりに、「たのむ機」と「すくう法」、つまり南無阿弥陀仏のお心で、「南無とき帰命する一念」のお取り次ぎをした。
 2日目は、「無慚無愧のこの身」と題して、和讃、そして涅槃経に説かれる阿闍世王が「慚愧」の心を懐かれた時のギバ大臣の尊い言葉をいただく。「慚愧なきものは人間ではない。それは畜生となづけるつのだ」と。自分の行為や言葉に責任がない、恥知らずのものだは、人間ではなく、そして心こそ仏法聴聞の元になるというのである。ところが、親鸞様は、阿闍世王が起した慚愧の心すら、私にはなく、まことの心は微塵もないとまで言い切られた。私が「恥ずかしい」と感じるのは、自分が人前で失敗してたり、バカにされた恥をかかれたというときであって、決して、天や地に恥じることはない。「恥ずかしい」ということまで、自分中心の心で考えているので、まったく仏法とは真逆なのに、求道者面だけは一人前になっている。

 そして『安心決定鈔』から、釈迦、弥陀二尊の命を捨てたお働きを、どれほど懇ろに教えていただいても、まったくそれを聞いていない。そして、「まだまだ、まだまた」不足だ、足りぬと、阿弥陀様にご修行を重ねさせ、釈尊のお命を捨てさせ続けているのは誰なのだ。ただ二尊のご苦労よりも、自分の心境に自惚れ、一喜一憂している。ほんとうに無慚無愧のこの身ではいなか!

 ただ土下座して、号泣するしかない。

 帰路、東京駅まで地下鉄をご一緒する。その口から、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」が留まることなく出ている。出るはずでのない場所で、そして出るはずのない者の口から、溢れ出る南無阿弥陀仏。如来の一人働き。功徳は十方に満ち満ちているのである

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連日の一周忌法要

  広島での一周忌法事の翌日は、京都の宇治市での一周忌法要である。年に3~4軒もない法事だが、今年は、1~3月に集中している。やはり寒いころに亡くなる方が多いということだろうか。

 昨日のご縁は、歴史の浅い華光では珍しく5代に渡るのものだが、今日は、まだご縁ができて5年になるか。それなのに、定年を機に会館に近い京都に引っ越して聞法されている。昨年からは、ご夫婦で京都支部長と運営委員の行事係をお願いしている。華光の法座運営では、ご夫婦でご尽力いただいているのだ。

 その出会いもまたドラマテックであったが、いったいどんな過去世のご因縁があったのだろう。ほんうとに遠く宿縁を慶べである。結局、出会うこともご因縁なら、また別れもまたれご因縁である。ならば、今、ある出会いを、そして一座一座のご縁を、大切にせさてもらうしかない。

ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。

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もう一歩出る

 広島へ一周忌法要に窺う。

 報恩講あたりからオミクロン株が猛威をふるっている。特に米軍基地の関係で、沖縄、山口、広島では早くまん延防止の措置が取られた。直後に、先方から連絡。遠方のご姉妹が欠席されるなどで開催の有無のご相談だった。この二年間、この手の相談はたびたび受けている。でも、こちからお断りしたことはない。これもまたご因縁事だと考えているので、一度、お引き受けしたかぎりはお参りさせてもらう覚悟をしている。

 華光との深いご因縁を思う。歴史の浅い華光にあっては、祖父、母、子、孫、さらに曾孫と、すでに五世代にご縁が広がっている。しかも、それも広島から移民としてアメリカカルフォルニアで、羽栗行道先生のご教化に遇われて、この一大事を日本の親族にもと、逆輸入の形で法縁が広がっている。この四名のごきうょだいは三代目で、そのお子さま方も仏の子供大会からの深いご縁のある方ばかりだ。

 改めて『親指のふし』の「智子さんの遺書」を中心にお話する。たった一度のご縁、病床説法で、聞き抜かれた智子さんのご縁である。そしてその後、脳腫瘍で、わずか19歳の春に、ご往生された。クライドさんも、智子さんも、ご親戚として身近な存在の方々である。
 喪主からすれば、智子さんは「いとこ」にあたり、しかも同級生にあたる。幼いころは広島の近くにおられたのだ。他のご姉妹の方もよくご存じで、そのご往生もショックなら、遺書の内容にも驚いたという。その智子さんは来年五十回忌を迎えられる。『親指のふし』のこの場面は、何度も読んだといわれるが、改めてその章を聞いていただいた。すると「何度も聞いてきたが、この歳になって初めて聴こえてくることがある」と言われた。

 智子さんの遺書も、また亡くなられたお母様のご遺志も、「仏法を聞いてください」の一点に掛かっている。みな、「散る桜、残る桜も散る桜」なのだ。そのことをお子さま方は、身にしみて分かっておられる。あとは、もう一歩出るだけだ。その一歩にこそ、智子さんの命が捨てられ、阿弥陀様のお命がかけられているのだ。南無阿弥陀仏

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おイヌさま

  報恩講の朝、長女が東京の羽田空港に出かけていた。どこかに出かけるのではない。空港で、イヌを預かるためだ。

 ブラジルから一家が帰国したが、次女が飼っているワンちゃんも一緒にきたのだ。今はコロナ、特にオミクロン対策で、海外からの帰国後の行動制限がされている。帰国後にすぐにPCR検査後、国の用意した宿泊施設に入り、3日間そこで過ごす。陰性でも、一緒に帰国した家族、夫婦でも親子でも、一切の接触も外出も禁止されて、それぞれ個室で過ごす。食事は、放送があって、誰とも接しないで食事だけを受け取り、また所定の場所に置くというのである。娘曰く「まるで監獄みたいや」と。

 3日後には、再度PCR検査があり、もし陽性ならその施設に留まることになる。陰性でも、公共交通機関は仕えず、10日間の自主隔離生活を送ることになっている。15日に帰国したので、29日までは東京に留まることになっている。

 問題は、一緒に帰ってきたワンちゃん(聞ちゃん)である。どの施設でもペット同伴は認められないので、この間だけ、一時預かりとなった。

 ワンちゃんにしてもたいへんだ。長時間の移動を強いられている。飛行機だけでも、ドイツで乗り換えがあって、正味の飛行時間だけでも24時間はかかる長旅を、小さなゲージ中で過ごす。今度は新幹線に乗って見知らぬところ地までやってきた。もともと寒い地域(ボーランドやドイツ北部)の産であるが、ブラジルの中でも暑い地域の生まれで、経験したことのない寒さや雪にも驚いている。

 娘からは、詳細な伝言があり、「聞ちゃん、取り扱い説明書(トリセツ)」としてまとめると、A4用紙3枚分もあった。これがすこぶる面白く、法話のネタになりだろう。うまくトイレができれば褒めちぎり、無闇に名前を呼ばず、叱るときも「聞ちゃん、ダメ」と言うと、名前を入れると自分が否定されているようなので、上から、低い声「ダメ」と言う、名前は本当に用事のある時だけ。食事の時間、量も10グラム単位で、、、と続いていく。

 いやいや、もう「お犬さま」です。

 

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墨絵のごとく

 今年の冬は寒い。豪雪地帯では大雪になっているが、京都の平野部でも、雪が降り、積もったとも何度かあった。今年は、週末前には雪が降るらしく、年末、先週に続いて、21日の金曜日も、京都市内で積雪がある。

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 雪で午前中の自力整体が中止になったので、東寺で開かれている弘法さんを覗くことにした。連れ合いは、自力教室の始まる前にと思って早朝から出かけていた。初弘法だ。しかし、オミクロン株が猛威をふるい、蔓延防止措置の発令直前でのギリギリで開催。しかもこの雪。出店も人出も、まったく寂しいものだった。

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 でも、ぼくのお目当ては縁日ではなく、東寺の雪景色を撮影にある。本尊の薬師如来様にお参りだけしてシャッターをきる。

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 雪は、時折、強く降ったりして、寒かった。

 それでも朱(八幡宮や講堂)、金の施された建物(国宝御影堂)と雪とのコントラストは美しかった。

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   さらに、五重の塔との黒白のコントラストは格別。まるで墨絵のごとく、とても美しかった。

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下巻第六段「洛陽遷化」(3)~旺盛な著述活動~

 『御伝鈔』では、京都に戻られた後(約30年間)のことは、上巻第四段(蓮位夢想)と下巻第五段(熊野霊告)で関東時代の門弟の夢告がメーンで、いきなり最後のご往生の様子が語られている。実際、帰洛後、どのような活動や日暮らしをされていたのだろうか。聖人のお手紙や著書の奥書などで窺いした。

 六十二、三歳のころに京都に戻らってこられるが、五条西洞院(松原通西洞院の光円寺)あたりに住まわれ、主に執筆活動や上洛してきた関東門弟を直接指導したり、お手紙でのご教化が中心で、京都では目立った教化活動はされない。一つには、念仏弾圧の歴史を振り返ると、活発な活動は難しかったも思われる。

 その生計は、関東門弟からの「御こころざしの銭」(750頁)で賄われていることは、聖人のお礼状からも窺える。
「御こころざしのもの」=門徒個人の懇志。(804頁)
「念仏のすすめのもの」=毎月「二十五日の御念仏」(法然聖人の祥月命日の法座)での同行方の懇志である。

 一方、晩年になるほど旺盛な執筆活動をなされている。執筆だけでなく、自ら書写もされている。主な著述と、晩年の出来事を示すおこう。

74~75歳頃=『顕浄土真実教行証文類』(131頁)完成。後に門弟が書写。
76歳=『浄土和讃』(555頁)
   『高僧和讃』(578頁)
78歳=『唯信鈔文意』(699頁)
80歳=『浄土文類聚鈔』(477頁)
   『入出二門偈』(545頁)
83歳=『尊号真像銘文』(643頁)
   『浄土三経往生文類』(625頁)
   『愚禿鈔』(501頁)
   『皇太子聖徳奉讃』(七十五首) 

    12月10日・火災に遭い、善法坊(ご舎弟・尋有僧都の里坊)へ移住。
   「この十日の夜、せうまう(焼亡・火事のこと)にあうて候」(804頁)
   天台僧は、比叡山上以外に京都市中にも支坊・里坊をもつことがある。

84歳=5月29日・長男、善鸞大徳を義絶(義絶状754頁、性信房にも報じる)。
   但し、『御伝鈔』では善鸞事件には一切言及されていない。

   『如来二種廻向文』(721頁)
85歳=『一念多念文意』(677頁)
   『大日本粟散王聖徳太子奉讃』(百十四首)
86歳=『正像末和讃』(600頁)
88歳=『弥陀如来名号徳』(727頁)       
   年月日が分かる最後の手紙(文応元年十一月十三日)
(『親鸞聖人御消息』第十七通・771頁)

 聖人が長生きされ、多くの書物を残してくださったことが、今日の浄土真宗の一つの礎になったのであるから、結果ではあるが、帰洛された意義は大きかった。後の者は、そのおかげを今頂いているのである。

 

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下巻第六段「洛陽遷化」(2)

 聖人のご往生の様子は、他の資料によって、葬送の日時を詳しく知ることができる。たとえば、西本願寺所蔵の『教行信証』奥書によると、

「弘長二歳 壬戌 十一月二十八日未剋 親鸞聖人御入滅也、御歳九十歳、
 同二十九日戌時、東山御葬送 同三十日御舎利蔵」

とある。ご往生は、午時(昼12時)から2時間後の未時、十一月二十八日午後二時であったという。
またご葬送は、十一月二十九日午後八時ころ。そして、納骨は、十一月三十日に行われいてる。
          
 また恵信尼公のお手紙にから経緯を述べると

「去年の十二月一日の御文、同二十日あまりに、たしかにみ候ひぬ。なによりも、殿(親鸞)の御往生、なかなかはじめて申すにおよばず候ふ。(略)
 されば御りんず(御臨終)はいかにもわたらせたまへ、疑ひ思ひまゐらせぬうへ、おなじことながら、益方も御りんずにあひまゐらせて候ひける、親子の契りと申しながら、ふかくこそおぼえ候へば、うれしく候ふ、うれしく候ふ。」(『恵信尼消息』第一通・811)

 とある。納骨(11月30日)の翌日(12月1日)に、末娘の覚信尼公(覚如上人の祖母)から、恵信尼公へご往生の様子を知らせる手紙が出されて、20日後には越後に届いてる。そこには、臨終に立ち会っても何の奇瑞もなかったことという娘の疑問に対して、聖人の比叡山での修行、六角堂への参籠、そして「生死出づべき道」を求めた法然聖人との出遇い、地獄一定の自覚の身となられたこと。さらに、観世音菩薩がその本地だったという夢告を語られて、「(聖人の)浄土往生には少しも疑いがない」と示される。

 また、越後から、聖人の第五子、益方が臨終に立ち会えたことを喜んでおられる。益方とは、越後の居住の地名(新潟県上越市板倉区)に由来。有房・益方大夫入道と号し、法名は、道性である。つまり聖人の臨終には、二人のお子さま(益方入道と覚信尼公)が立ち会われたのである。

 他の資料から、聖人の弟である尋有僧都。門弟では、蓮位房(常従)、顕智房(高田)、専信房(遠江)などが立ち会ったと思われている。

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『御伝鈔』下巻第六段「洛陽遷化」(1)

 新暦の1月16日。『御伝鈔』の話題に触れておこう。下巻第六段「洛陽遷化」、聖人のご往生と葬送の様子を示す段が終わった。以下の四段に分けて頂いた。

 (1)聖人は、弘長二年十一月下旬頃、ご病気になられた。口には世俗事は交えず、仏恩の深きことを述べ、声には他の言葉を出さず、ただ称名念仏されていた。
 (2)十一月二十八日の十二時、釈尊の入滅のように頭北面西右脇に臥し、ついにお念仏の息が断えられた。御歳九十歳であった。
 (3)ご往生の地は、押小路の南、万里小路より東で、そこから鴨川を渡り、東山の鳥辺野の南の辺の延仁寺で荼毘(火葬)、翌日、その北の大谷に遺骨を納められた。
 (4)聖人のご往生にあった門弟や、ご教化を受けた方々は、聖人の在世を追慕し、いまご往生に接して悲泣せぬものはなかった。

 覚如様は、親鸞聖人のご往生の様子を

「口に世事をまじへず、ただ仏恩のふかきことをのぶ。声に余言をあらさず、もっぱら称名たゆることなし。しかうしておなじき第八日 午時 頭北面西右脇に臥したまひて、つひに念仏の息たえをはりぬ」

と記載されている。奇瑞も、不思議もなにもない、また臨終の行儀もない、まことに静かな静かなご往生の様子を淡々と記されている。そこが、た一段と尊く、真宗教義の特色、核心部分でもあるからだ。

 親鸞聖人もお手紙の中で

「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。」(『御消息』第一通)

 と述べておられるとおりのご臨終であった。死に際は善し悪しは問題にならないのである。がしかし、凡夫の心情としては、臨終の善しや不思議を求めたいものであろう。事実、臨終に立ち会た末娘の覚信尼公(覚如上人の祖母)は、尊き僧侶である父に何の奇瑞もなかったことへの疑問を、母である恵信尼公に手紙を問うておられるのだ。
 しかし、覚如様は自督でもある『執持鈔』で、

「しかれば平生の一念によりて往生の得否は定まれるものなり。平生のとき不定のおもひに住せば、かなふべからず。平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば、そのときをもつて娑婆のをはり、臨終とおもふべし。」(『執持鈔』)

 と、一念帰命の平生業成の教えを、端的に述べてくださっているおかげで、聖人の教えが正しく伝わってきたのである。覚如様、ありがとうございました。南無阿弥陀仏

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仰せをかぶりて

 さて、1月16日。聖人のご命日である。報恩講の2日目。朝座、ご満座の昼座と法話を担当する。

 7年前に頂いた「聖人三つの常の仰せと、三つ(+一つ)の遺言」の法話を手直しして、聖徳太子のご持言と、聖人の耳残る法然聖人の「仰せ」を頂いた。ぼく自身にとてもたいへん学ばせていただくことの多い法話となった。

 仰せはシンプルであるが、シンブルであればあるほど滋味深く、豊かな金口説法である。まさに、「平生のとき善知識のことばのしたに帰命の一念を発得せば」とあるが、「善知識のことばのした」なのである。そのことば被りて、撃たれていくのである。それが浄土真宗の伝統なのだ。

 今は、それだけに留める。特に、聖徳太子のご持言、法然聖人の常の仰せ、そして聖人の耳に残る「仰せ」については、また項を改めて触れていきたい。不参加の方は、ぜひ、報恩講の法話CDやDVDをお聞きください。

 聖人のご回向を賜り、今年も報恩講を勤めさせていただくことができました。南無阿弥陀仏

 

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親鸞聖人報恩講

 今年も、親鸞聖人の報恩講を勤めさせて頂けた。

 昨年から、コロナ禍の影響で、法中の人数を制限している。会館は道場なので、一般の本堂のようなお内陣がなく、余間も、結界もない。皆さんと同じスペースに登礼盤があるので、複数の法中がでればそれだけスペースが必要となって、参集者が密になってしまう。それで2人だけでのお勤めにしている。勤行をリードしてくれていた方々がお休みになるので、声明は頼りないぼくが、皆さんをリードしなければならない。

 逮夜の法要は、「大師影会供作法」にならい、頌讃、画讃、正信偈は十二礼譜、そして乙回向句の勤行がある。例年のことだが、1年に1度だけなので、何度も練習をして臨んだ。

 『御伝鈔』の拝読もある。こちらも、これまでは誰かにお願いしていたが、昨年、初めて担当した。この十数年は、夜座でも少しでも信仰座談会の時間を長く持つため、『御俗姓』を拝読に切り換えていたこともある。でも今は、聖典講座で『御伝鈔』を講読しているのだから、報恩講でも、再び『御伝鈔』の拝読をさせてもらわないわけにはいかない。しかも、親鸞聖人のご往生を伝える下巻第七段を終えたばかりだ。

 『御伝鈔』は上巻の第四段~第八段だけに絞った。事前に何度も練習した。うまくあげられなくても、丁寧にお勤めしたいと思った。上巻の半分でも、40分近くはかかった。皆さんも、テキストを追いながらだったが、途中で、諦めた方や退屈された方もあったようだ。

 夜座のご法話も、これに合せて、第四~八段のご法話であった。特に、五段(信行両座)、六段(信心一異)を中心であったが、まとめという意味でも有り難かった。

 今、寺院では廃れている信仰座談会が華光の持ち味ではあるが、悟朗先生も、決して仏事を粗末にはされなかった。それで、上手い、下手というよりも、一同で唱和し、そのお心をご法話でたずね、そして座談会で分かち合い、我が身に問うといくのである。

 結局、たいへんであった分、一番トクをしたのはぼくで、初日だけでも報恩講様をお勤めさせていただいた充実感があった。

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引き続き華光誌輪読法座

 午前の貴伝名博著『死の日記』に続いて、午後は、華光誌輪読法座。新年号(81-1号)。いつも輪読の初回は「巻頭言」と「聖教のこころ」を読むのだが、今回は「巻頭言」と「随筆」を読むことにした。図らずも、同級生、僧侶の方の文章である。

 まず「巻頭言」の「何度生まれかわっても」。東京リベンジャーズという漫画を手がかりに、もし私がタイムリープして、何度も過去に戻ったとしても、私は何も変わらない。どこまでも自分中心で、自分のこと、自分の損得のことを求めていく迷いは、絶対に変わらないのだという所感から始まる。本論とは別だが、参加者の大半は、「東京リベンジャーズ?」「タイムリープ?」、分かりやすいだろうと出された譬えが「?」で、逆に興味をなくしかねない状態となる。このあたりは世代間のギャップが色濃い。それはそれとして、漫画の主人公は別として、もし私が過去に何度戻ろってやりなそうとも、同じ迷いを繰り返し続けていくという、私の凡夫性を取り上げていた。そして、そこにかけつづけられている阿弥陀様の大悲の呼び声があることをお伝えくださる。
 
 本文を補足してポイントを確認していた。

 何度も過去に戻らなくても、今もまた、そしてこれからもまた、迷いを出ることは不可能だというのである。ここで一番押さえたいのは、過去に戻らなくても、今も、そして「これからもまた」、つまり未来においても、出離の縁がないところである。今も、そして今後も、助かる手がかりがないのだ。それは何故か。自分のことだけを考えているとは、つまりは自分に執着して、自分が無常とも知らず、また無我とも分からない「無明」の存在であるからだ。これが迷いきもとである。だからこの無明の闇が晴れぬかぎり、何度も生き行にを繰り返しても、その迷いから離れることはないのである。
 ではなぜ、そんなものに阿弥陀様は救いの手をさしのべ、呼び続けておられるのか。それは、阿弥陀様の大慈悲心が発動せずにおられなかったとしかいいようがない。他行の究まりこそが、その南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏とは、絶対に迷いから離れることのない無明の私こそに、今も、働き続けているのである。そのことを押さえて、文章を何度も頂いた。南無阿弥陀仏

 メーンは、随想の「一念業成と廃立の伝統」であった。ぼくにとっては、昨年の後半以来、ずっとテーマにお伝えしていたところを、うまくまとめてもらっていてうれしかった。ところが、皆さんは悪戦苦闘。語句や文脈の理解のレベルでの質問ばかりで、なかなか核心(肚)のところに触れて喜んでおられる方は少なく、ちょっと寂しかった。でも、これは大切な肝である。今後も、この点をしっかり押さえてお取り次ぎをさせてもらいたい。南無阿弥陀仏。

 さて、2月の仏書&輪読のお知らせです。

「仏書に親しむ会」=27日(日)朝10時~12時
『死を凝視して』に収録の貴伝名博先輩の『死の日記』の続き。貴伝名氏の遺言(享年27歳、肺結核でご往生)。お持ちでない方はコピーを用意します。

華光誌輪読法座」=27日(日)昼13時半~16時半
 81-1号の誌上法話を輪読します。少し先ですが、皆様、奮ってどうぞ。

 

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貴伝名博著『死の日記』を読む

 今日は、午前中(10時~12時)が『仏書に親しむ会』、昼食休みを挟んで、午後(13時30分~16時30分)が「華光誌輪読法座」である。ということで、平日ではなくて、日曜日の開催となった。

 11月もダブルヘッダーで行ったが、その時は、13時30分~19時という時間枠。
 12月は、通常どおり夜に開いたが、コロナの感染対策として、頻繁に換気をするので、とても寒くて風邪を引かれてもこまる。それで、冬季の間(3月まで)は、日曜日(もしくは土曜日)に、昼食を挟んでこの時間帯で行うことになったのだ。

 おかげで参加者も多く、またZOOMからの参加もそれなりにあった。

 今回は、華光の先輩同人である貴伝名博さんの『死の日記』を読む。前回で、『悟痰録』に収録された、彼の『春風吹かば』を読んだが、その後に書かれたもので、こちらは『死を凝視して』に収録されている。『春風吹かば』は、善知識である伊藤康善先生と貴伝名さんが、信疑廃立の関門で向き合う求道文であった。『死の日記』は、貴伝名さんが、若くして(22歳で発症、27歳でご往生)して喉頭結核におかされ、病と死の前に綴られた、2週間ばかりの「死の日記」であり、死の直前の遺言でもある。読む人によっては、自分や家族の病や死を重ね合せて、涙される方もあった。

 それでも、常に病床で苦しむ場面ばかりではない。街でビフカツを食べる場面もあり、体調も、精神面もすこぶる調子のよい時もある。が、その何気ない日常にも、常に死の影が迫っているのが分かる。体調と共に、心境もさまざまに揺れている。たった2週間の間でも、それが現実の姿である。しかし、凡夫の心境がどんなに揺れ、また何が出ようとも、その底の底には揺るがぬ真実が光輝いているのである。なんとも尊い一文。この仏法が、今、ここに流れているのである。南無阿弥陀仏

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濱口竜介監督『ハッピー・アワー』

 2015年に封切られた濱口監督の『ハッピー・アワー』の評判を耳にしていた。が、その時は、見ることはなかった。演劇ワークショップに集う素人劇、5時間を超える長尺ということが、二の足を踏ませたのだ。

 それが、『ドライブ・マイ・カー』と『偶然と想像』が世界中で高評価を得ていることもあって、お正月に6日間、再上映されることなった。その間、何作か濱口作品を観ているので抵抗もなくなった。上映時間は休憩が挟まれて計5時間45分。でもうまい具合に2度の休憩が入り、とても楽だった。

 それ以上に内容が素晴らしかった。30代後半、それぞれの仕事や家庭、異なる環境の中で生きる4名の女性たちのリアルな生きざまを共に生きるような不思議な感覚を味わった。もちろん、素人が演じる科白や演技に未熟さところもあったし、また退屈する場面もあったけれども、それを超えて伝わってくるリアルリティは何だろうか。ドキャメンタリーではないのにまるでその自身の人生が立ち上がったくる感覚だ。

 ちょうどサイコドラマのようなもので、演技ではなくても、その人の人生が立ち上がり、感情が動き、それが見るものを揺さぶるような感覚に通じていた。演技だからこそ伝わる真実があるという体験でもる。

 また、4名の女性だけでなく、それぞれのパートナーや恋人たち、男性側にも共感する部分も多かった。最初、まったく理解できなかったと生物学者を話を丁寧に聞いていくと、どことなく頷ける部分も出てきたのは、驚いた。

 ところで、ぼく感銘をうけた本に、野口体操の野口三千三先生の「かちだに貞(き)く)」「おもさに貞(き)く」という本があるが、ここではちょっとあやしげな講師が、「重力にきく」というワークショップを開催。自身も実際に体験したり、またやってもらったりするワークも入っていたし、その後のシェーアリング(分かち合い)も、リアリティーがあった。セリフではく、実際に体験した感想を語っていたのではないか。からだの中心にきく、声にならない声で伝える。真のコミニケーションとは何かが問われいる。
 三部目の小説の朗読といい、この場面といい、長尺映画ならではで一部の触りだけなく、そのWSに実際に参加しているかのような時間配分で、このあたりも新鮮だった。

 

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迎春

 映画館の帰り、勤行用の書籍を買うために西本願寺に立ち寄る。

 「迎春」の字が踊る。

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 今、西本願寺とお隣の興正寺は、改修工事中だ。本願寺さんは、来る親鸞聖人ご誕生八百五十年、立教開宗八百年にあたり、阿弥陀堂を改修中。今は阿弥陀堂内に入ることはできるが、それもまもなくのことで、しばらくは閉鎖される。

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 阿弥陀堂から御影堂の中央にご本尊の阿弥陀如来立像が移られ、親鸞聖人は脇に移動中である。一般寺院の内陣と同じなのだが、「見真」の扁額の中に阿弥陀如来像が拝めるのも、今だけのこと。

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新春新月断食

年末、連れ合いと、娘がお節料理を造っている。昨年までは、既製のものを買っていたが、今年は、少量でいいので、母も含め、みんなで少しずつでも造ることにしたのだ。一番、張り切っていたのは娘で、特に、お重に詰める作業は楽しかったようだ。

 お雑煮は、元旦は、京都風で白味噌に、丸餅、そこに金時人参や大根が入る。何故か2日目は、すましで、穴子と牡蠣が入り、3日目は、また元旦に戻るということにてっている。

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<元旦のお雑煮>
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<2日のお雑煮>

 1月3日は新月、三が日に新月断食の日が回ってくる。でも、三ケ日は、お正月のご馳走を食べたい。それで、断食を4日に延ばそうと思った。予定した。ところが、2日の昼頃からお腹の調子がよくない。下痢ではないが不調。北海道に帰省中の連れ合いに代わり、娘が食事を作ってくれるが、暦どおり新月断食をすることにした。

 夜、映画館から戻ってくると、母と娘がおいしそうに食べている。でも、こちらに食欲がない。お腹の調子を戻す感じがして、この2年間で、一番楽な断食日となった。

 翌日、用心気味に食べたのに、夕方から下痢となる。冷えが大きいのだろう。といことで、もう一度、断食をすることにした。といっても、今度はプチで、朝、昼を食べなかった。おかげで徐々に回復に向う。

 「食べない」(食べなくてもいい)という選択が加わったことは大きい。

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修正会~虎の如く吠え叫ぶ~

  大晦日は各地で大荒れで京都も雪が舞う寒い1日となった。雪もうっすらと積もり、元旦の交通を心配していた。幸い、このあたりは天気は回復。それでも、例年参加される滋賀や福井の参加者はお休みで、会館の参加者は少なめ。ZOOM参加者とほぼ同数くらい。

 テーマは「利他の行」。

 この2年間、コロナ禍の日常生活で、自分だけという利己的な思いを捨てて、「他者を思いやる」、「他者を気づかう」という言葉をよく耳した。自粛生活をすることも、積極的にワクチン接種することも、マスクをつけることも、自分を護るだけではなく、他者を思いやる行為(善意)だというのである。また、ぼくの回りでも、「私はコロナになってもいいけれど、もし罹って他の人にも迷惑をかけるので、まだ参加しません」というフレームも嫌になるほど聞かされた。今回のコロナは、ただ自分だけでなく、感染を広めるリスクと、またたとえ症状が出なくても濃厚接触者となれば2週間の自粛を強いられるからだ。

 なんと利他の精神に溢れた、立派な日本人の多いことか。恥ずかしながら、ぼくは自分のことしか考えていない愚か者だ。他の人を思いやるからではなく、他者からの非難が怖いだけだ。もろちん「私は罹ってもいいけれど」などと思ったことも一度もない。ただ自分が感染が怖いから、マスクをつけ、密を避けている。それどころか、「他者を気づかう行動を」とテレビで連呼されると、うさん臭さを感じて反発したくなる、天の邪鬼でもある。

 それで改めて、「利他とは何か」を考えてみた。人間の限界ある利己と裏腹の利他ではない。また、援助関係で陥りがちな上らか下へ、一方的に恵むという形式でもない。ほんとうに両者が生きる利他の行いはあるのか。

 それを大迦葉尊者が、重病で貧窮の老婆に示した布施の精神をもとに窺った。ここに施されるものが、施し拝まれるという関係性の転換が起こる。頭を垂れるのは、施し受けるものではないのである。そのお心を端的の顕すのが次ぎのご和讃だ。

 「無漸無愧のこの身にて  まことのこころはなけれども
  弥陀の廻向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ」
 
 弥陀廻向の御名、つまり南無阿弥陀仏こそ究極の利他の行、利他が窮まった姿である。大慈悲心が極まり一歩的に発動して、「南無」と頭を垂れて、廻向される南無阿弥陀仏なればこそ、無漸無愧のこ身に届くのである。

 今年は寅年だ。南無阿弥陀仏の名号の「号」とは、「號」と書く。この字の語源(白川説)が元旦の新聞に出ていた。「祈りの言葉を入れる器(口・セイ)を木の枝の「こう」で打ち、願いがかなうように大声で亡き叫び、神に訴えること。泣き叫ぶ大きな声が、虎の吠え叫ぶのにたとて「虎」が加えられたというのだ。

 願いがかなうように大声で亡き叫びのは、私ではない。阿弥陀様の方である。それがお名号、南無阿弥陀仏の姿である。南無阿弥陀仏

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恭賀新年

 恭賀新年

 昨年はたいへんお世話になりました。
 
 昨年もブログの更新は遅れ気味で、特に後半は休み休みで、11月~12月中旬は全休したりもした。本当は、短くても、小まめに早めに更新すればいいのだが、性格上、書くならば詳しくてってしまって、逆に、あれここれもと考える内に筆が停まり、次ぎの行事がやってくるという感じである。

 今年は、もう少し効率よく行きたいと思っている。これは毎年思っていることだが、そうなった試しはないのではあるが、今年、どうぞ皆様、よろしくお願いいたします。合掌

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