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「熊野霊告」(2)~お勧めも、さらにわたくしなし~

 下巻第五段を四分類していただいた内、第3節は親鸞聖人が、浄土真宗の根本である一向専念の伝統を示すと共に、真宗の神祇観を説かれる一節である。この「聖人のご教説」を、さらに三につ分けて頂いた。
 (a)時機相応の教え(三国七高僧の伝承)
 (b)一向専念の教え
 (c)本地垂迹のこころ(真宗の神祇観)

 親鸞聖人の教説(1)時機相応の教え(三国七高僧の伝承)

 釈尊のみ教えは対機説法で、聖教も千差万別であるが、今、末法の世では、浄土一門のみが、私達が救われる唯一の教えである(時機相応の教え)。それは釈尊の金言であり、また「三国の祖師、おのおのこの一宗を興行」されたものである(三国七高僧の伝承)。

 末法とは、釈尊の滅後(仏滅後)の時間の経過と共に、その広大な威光も徐々に薄れ、仏法が衰退してくを経過を顕している三時の一つである。まさに時の一大事である。まず、仏滅後、五百年間を正法(教・行・証)、次の一千年を像法(教・行)、次の一万年が末法(教)で、末法では教法のみが残り、修行する者も証る者もいない時代だといわれる。

 その末法の時代では、聖道門=「聖」は大聖、釈尊のごとく今生で悟りに至る「道」。つまりお釈迦様のごとく修行し、この世で仏となることが難しい時代であり、それに対して浄土門こそが盛んになるといのうである。

「我末法時中億々衆生 起行修道 未有一人得者」(道綽禅師『安楽集』)
「わが末法の時のなかの億々の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るものあらじ」(親鸞聖人の訓点)

「唯有浄土一門可通入路」(道綽禅師『安楽集』) 
「ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり」(『化身土巻』の訓点)

「道綽決聖道難証 唯明浄土可通入」(『正信偈』道綽章)

 それは、まず、インドにおいて、龍樹菩薩が『易行品』で、難易二道を判じ、現生正定聚の義を示され、天親菩薩は『浄土論』を造って、一心帰命の安心を宣布された。
 中国では、曇鸞大師が『浄土論註』で、他力廻向(往還二廻向・自力他力)の義を明かし、道綽禅師は『安楽集』において、聖浄二門を判じて浄土往生を勧め、善導大師は『観経四帖疏』で釈尊の正意を明かにして凡夫往生を示された。
 日本の源信僧都は『往生要集』を撰して、報化二土を弁立し、源空(法然)聖人は『選択集』で信疑決判されて、念仏往生の浄土真宗を興行された。
 あくまでも釈尊、七高僧という先達の示された道であって、「愚禿すすむるところ、さらに私(わたしく)なし」なのである。

 お勧めでも、「さらにわたしくがなし」という言葉に出会たのが、今年一番の収穫。

*「ひとたび他力信心のことわりをうけたまはりしよりこのかた、まったくわたくしなし」(上巻・第七段)「自信」
*「愚禿すすむるところ、さらにわたくしなし」(下巻・第五段)「教人信」

 わが信の上でも、またお勧めのところでも、「わたしくがなし」、つまり自力を離れるが浄土真宗のご安心の真骨頂であるということを明かにされているのだ。南無阿弥陀仏気

 

 

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