宍粟市での報恩講法座
11月に引き続いて宍粟市山崎町での寺院布教だ。
それでも、師走の楽しみの法座の一つである。僕もおつきいはずいぶん長いが、連れ合いの方が古くて、深いおつきあいを頂いていて、同士のようである。山崎町でのお寺の布教はいつも夫婦でお邪魔している。彼女の活躍の場も用意されていて、懇親会が深まればその力を発揮する。今年の懇親会では、朝4時過ぎまで住職と指しで飲んでいたようだが、これもまた恒例である。昨年は、コロナでいろいろたいへんな中だったが、今年は少し落ち着きあって、参詣も、また懇親会の出席者も、かなり例年並みに戻ってきていた。お斎も1年ぶりに復活した。
3日間で、6座の法話を担当する。法要もとても丁寧であるが、法話の形式も本堂での講演台からだけなく、昔ながらの高座からお説教もあり、お内仏法座もあり、また広く座談会をもったりと、バラエティに富んでいる。教案の準備もしていくが、だいたいそのときの雰囲気を大事にしている。また最後は、事前の準備はせずに、3日間のまとめとるなような法話をしている。今年は、3年後に継職が決まった新発意(しんぼっち=新たに菩提心を起した菩薩、転じて次ぎの住職後継者)のリレー法話を、その場で決めて行った。結局、何かお経や教えのためになる解説をしても、ここでは喜ばれない。それよりも、自分を開いてお伝えすることが、お互いのご聴聞である。結局、ぼくは何を喜び、お伝えしたいのか、その原点に返ったお話となる。それがうまく伝るどうかは,かなり難しいことではある。座談や懇親会での反響を聴ければ、わかるのだ。それでも、ご縁のある方もおられるし、念仏者が生きておられるのか尊い。有縁のご住職、僧侶、坊守さんのお参りも多くて、座談会や懇親会はに盛り上がるので、遠慮なくお話をさせていただけるのである。
それでも、長年、育まれてきている本的な信仰や因習を破ることは難しいとも痛感させれらた。まさに超世の法の絶望的な難しさと、広大な素晴らしさを味わわすにはおれなかった。尊いご縁でした。
| 固定リンク