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今年最後の法座で

 一年の締めくくりはM家の家庭法座であることが多いが、今年は、華光会館での最後のご法座でもあった。

 今年の後半戦(8月以降)のご法話では、「餓鬼道」(往生要集)、「修行者と羅刹」(雪山童子)、「まったくわたしくなし」(御伝鈔)、「救われるとは」、そして大会以降は、『末代無智章』を繰り返しいただいてきた。今は、ZOOM参加があって、だいたい同じような方が参加されているので、同じ題材の法話を複数回聞いてもらうことになった。それでも有り難いことに、毎回、顔ぶれによって違う反応があるおかげて、改めて気づかせていただくことがあるのだ。その意味では、ぼくも新鮮な気持ちで法話をさせていただけたし、前回にことが、次回の法話に反映されるので、いわば少しずつだがアップデートされていたのではないかと思う。

 今回は、初めてのテーマ「無漸無愧」について。和讃や安心決定鈔を中心に、何が大いに恥じるべきことなのかをお話申し上げた。冒頭で、「罪悪感」と「罪悪観」に違いを、具体的に座談会での発言に即しながら考えていただいた。座談会で語られるのは、自身の罪悪感が中心で、それを慰めてもらうようなことではないか? 法の上での罪悪観とは似て非なるものだが、この見極めが結構難しいようだ。これは大切な課題のように思うので、皆様に助けてもらいながら、今後も深めていこうと思っている。

 ところで、今日はこの冬一番の寒気に覆われて、寒い一日だったが、同時に忙しい1日だった。
 法座の前には、運営委員と京都支部などの有志の皆さんが、大掃除。窓やブライド、外回りなども丁寧に掃除してくださる。終了後、連れ合いが粕汁をふるまっていたが、皆でワイワイ会食したいところだか、壁に向って黙食をする。

 そして法座終了後は、報恩講(R4年1月15日(土)16日(日))リアルとZOOM併用会議。運営委員に加えて、お世話役の二人も参加くださった。どうぞよろしくお願いします。

 会議を終えた頃には外は雪が舞っていた。法座参加者の有志での懇親会にも顔を出す。京都支部法座の後にあるのは珍しいが、メンバーは京都支部というより、大阪や広島、東海各支部の有志連合軍だ。みなみ会館(映画館)の隣の居酒屋に、かなり遅れた参加したら、もうすでに皆さん出来あがり盛り上がっていた。法座や座談会では見せない姿で、はしゃいでいる方もある。ああそうそう。法座のよそいきの姿は捨てて、今のそのままで聞いていけばよいよと指摘すると、急に神妙になられたりする。今日のテーマなのだが、誰も法に帰られることはないので、思わず「なかなかのポンコツ揃いやな」と。ここが一番有り難かった。

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