« 全休 | トップページ | 華光誌データ渡し »

東海支部法座~すばらしい勝縁~

  東海支部法座は、あるお寺が会場。具体的には触れられないが、そこで、いま、起ころう動きだしたことがとても尊い。新たに動きだした場面は、なかなか出会いない勝縁だと思ったので、ぼくも気持ちだけだが協力させていただくことにした。2年後が楽しみである。

 法話は、華光大会でも触れた『末代無智章』である。華光大会でも取り上げたが、そのときは、「末代」や「無智」、そして「在家止住」という冒頭の一文が中心になった。時機相応の教えとはどういうものかということである。時間の関係で、詳しくは話せなかった「たのむ機」、すなわち「ころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生」をテーマ^にする。

 皆さん、難しかったようだ(もっとも、翌日の寺院布教でも同じテーマでご法話したら、おそろしいほど反響はなかった)。それで、「分かりやすい」ところ、また有り難いところで、「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。」と、自分に都合よく読んでいる。これなら本当に都合がいいいし、おおかたの説教も、喜びはここで留まっているのではないか。
 
 結局、一番ア大切な「たのむ機」「たのむ一念」のところを飛ばしていることになる。それが、蓮如上人が批判される「無帰命安心」そのものなのだ。

 「たのむ機」と「すくう法」の南無阿弥陀仏のおいわれを聴くことが浄土真宗の安心だ。南無の機、たのむ一念、帰命の一念、ここが浄土真宗の肝要なのである。

「末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。」「末代無智章」

Img_5012



 

 

|

« 全休 | トップページ | 華光誌データ渡し »

法座と聞法」カテゴリの記事