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10月の華光誌輪読法座

「一度も、自らを差し出すこともなく、欲望を満たすために法を取り込もうと、必死に求めている。実はあり余るほどの法水を浴びているのだが、「分からん、分からん。もっとくれ、くれ」と、法を貪り続けている私の姿ではないか。
厄介なのは、そんな聞法でも、仏法求道という美名の下に正当化されて、醜い餓鬼の姿が見えなくなっているのだ。それで、必死に法を求めながらも、まったく法に出会うことがなかった。

 ところが、阿弥陀様は、そんな愚かな私に、一方的に自らのお命を差し出しておられる。昨日今日のことではない。無始以来、迷い続ける私に、ずっと命を差し出し続けておられるのだ。

 しかもだ。悪業で固められて腐り切った私を、喜んで食べてくださるというのも、阿弥陀様である。「閻魔さんに食べてもらってよい。鬼に食べてもらってもいい。仏・菩薩ならなお結構だ」とは、伊藤先生のお言葉。さあ、法を貪り求めることをやめて、一度、さっぱりと食べられてみてはどうか。」

 一段目に関して、自分が食法餓鬼だとは思う。
 二段面に関して、阿弥陀様がお命を差し出しておられるとは信じられない。
 三段面に関して、食べられると言われても、どうすることかさっぱり分からない。

という意味内容のことを仰る方があった。率直な気持ちの表明ではある。そんな思いをもたれる方も多いようだ。しかし、いくら率直な表明をしたところで、それだけではご聴聞にはならない。「私が思う。私は信じられない。私には分からない」。結局、全部、「自分」が思ったことから離れならない。もし「私は固く信じています」と言ったところで、結局、同じことなのだ。

 私こそ食法餓鬼であったと聞かせていただいのなら、それで終止符が打つではないか。食法餓鬼には、分かるの分からないの、信じるの信じられないの、そんなことを言う資格さえない。ただ必死に自分を満足さるために貪るばかりで、自分が餓鬼だとも分からない哀れな身なのである。もしも、そんなものが「私は餓鬼です」と言えるとしたならば、それは仏智に照らされたからにほかならない。そのために、阿弥陀様が餓鬼の私に頭を下げ、お命をお捨てくださっている。そこを聞かせていただきたい。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

 11月は変則開催で、「華光誌輪読法座」と「仏書に親しむ会」の連続で行います。『仏書』の時間帯にご注意ください。また一方だけでも出席でます。

 11月3日(祝)13時30分~16時30分=華光誌輪読法座
 (誌上法話『弥陀の一心』)
  同      17時(夕5時)~19時(夜7時)
  =仏書に親しむ会
 (『春風吹かば』『悟痰録』収録(二)電報が飛ぶ)

 

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