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広島法供養法座

 こちらは年忌ではないが、通常の支部法座を法供養法座として、ひとりでもご縁のある方にお参りいただこうと営んでくださった。おかけで、真宗カウンセリングではご縁結びながら、法座では初参加の方や久しぶりに参加くださる方もあって有り難かった。

 ただ導師を勤めるぼくは間抜けそのもの。五条袈裟や輪袈裟は持参しながら、黒衣を入れ忘れるという大失態。いやお恥ずかしいかぎり。気分的にはひきずりつつ、「ごめん、ごめん」と頭を下げて気持ちを切り換え、「救われるとは」と題したご法話。

 このところ続けて、『御伝鈔』の「まったくわたくしなし」、いろは歌のもとになった「雪山童子と羅刹」、そして「食法餓鬼」の3つの法話を味わってきた。同じテーマでも、聴衆や会場の雰囲気によって、内容は同じでないから不思議だ。また皆さんの反応や声を聞いて、ぼく自身が気づかされ味わい直すことも多く、一番最初にご法話をした時とは違ったものになってくるから不思議だ。

 今日は、初めて話すテーマ。最初なので、モタモタもするが、率直にいま味わっているところ、一番、伝えたいところに絞って話させてもらった。

 「お救い」とか「お助け」、「お救いあう」という風に使われ、真宗では最重要なテーマだ。それでいて、有り難いような、どこかぼんやりして、ハッキリしたようでしないのが、「救い」ということではないか。今日の浄土真宗のお救いの説ぶりを批判的に捉えながらも、人のことではなく、自分の上で、はっきりとその一点に焦点を絞って聴聞しているのか。「私はほんとうに救われいるのか」「そこがハッキリ喜べるのか」、そのうえで「真宗のお救いとは何か」という要点を、皆さんに問いかけながら聞いていただいた。

 しばらく、このテーマでご法話をさせていただくことになるが、皆さんのお声に触発されながら深めていきたいと思っている。

 

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