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「箱根霊告」(3) 何故聖人は帰京されたか?

 さてなぜ聖人は帰京されたのであろう。『御伝鈔』には帰京の年齢、理由には一切触れておられず、山伏帰依から、関東から京都に帰京途中のエピソードに移っている。しかし、なんの理由もなく、20年におよぶ関東の布教を終え、京都に戻られたとは考えられない。それを他の資料から補ってみる。

 まず、聖人の帰京の年齢だが、諸説はあるが六十歳~六十二、三歳頃だと推測されている。途中、相模(神奈川県)、三河(愛知県)、近江(滋賀県)などに逗留されて教化活動をされたご旧跡が残っている。また、妻子が一緒だったかどうかも諸説がある。晩年、恵信尼公が越後に戻っておられるので、いろいろな推察を生むが、いまは妻子を伴った帰京とみていいのではないか。

 では二十年間の関東教化を終え、京都に戻られた理由は何か。それにも諸説がある。家庭の事情、善光勧進聖に関係すること、望郷の念、執筆活動の専念、門弟間での騷動、鎌倉幕府による専修念仏の取り締まりの強化などがあげれられる。もっとも鎌倉以上に、京都では専修念仏者の活動制限されていた。当たり前のことだが、今日の私達は、聖人が九十歳まで長命であったことを知っているが、しかし、当時の聖人は、残りの余生を知るよしもない。当時、六十歳の還暦を過ぎれば余命はわずかだっただろう。もう最晩年の実感をお持ちだったろう。そして、その結果は長生きされ、晩年の京都で多くの著作が残ることになった。

 ここからは推論だが、いくら同信の念仏者とはいえ、人が集うということはそれだけ問題が起こるということだ。声聞が集う釈尊当時の教団でもトラブルがあった。いわんや末法の凡夫の集いにおいてをや。また純粋な念仏者であればあるほど起こる信仰面の軋轢にしても、ちっぼけな華光の集いでも日々痛感させられることである。その時、仰ぐべきは親鸞聖人の言動であった。みな聖人を仰ぎ頼っていたのは、想像に難くない。これは釈尊でも、法然聖人の上でも起こった信仰や運営をめぐる師弟関係の大問題だ。そしてまたいかなるカリスマでも、このパワー、権力の問題で躓く凡人が大半で、そこが宗教界の常である。 このあたりは、晩年の関東の門弟の『御消息』や『歎異抄』の異義をみても明らかだ。

 たとえば、『歎異抄』の第六章には、

「専修念仏のともがらのわが弟子、ひとの弟子といふ相論の候ふらんこと、もつてのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたず候ふ。」

と語られている。続いて、「つくべき縁あればともなひ、はなるべき縁あればはなるることのあるをも…」と言われた。付く縁もあれば、また同じように離れる縁もある、そのすべてが仏縁であるというは、聖人の実体験であろう。

 最晩年の『三帖和讃』を終える結示の和讃は、聖人の深い内省の歌である。文字も知らない田舎の人々を前にした名利に人師をこのむ我が身の恐ろしさ、愚かさを切実と懺悔され、和讃が結ばれていく。この和讃には関東での布教を通した内省があるのではないか。法に帰ってこそ、聖人が関東を離れられた深い思いが窺える気がしてならない。南無阿弥陀仏

 よしあしの文字をもしらぬひとはみな まことのこころなりけるを
 善悪の字しりがほは おほそらごとのかたちなり

 是非しらず邪正もわかぬ このみなり
 小慈小悲もなけれども  名利に人師をこのむなり
 

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