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東海支部法座~阿弥陀様が決めてくださる~

 10月も半ばを過ぎたのに、半袖でもまだ汗ばむ陽気である。
 今年2回目の碧南市での東海支部法座。新幹線、JR、そして名鉄の碧南線と乗り継いで会場入りした。「華光」の大きな文字が目印だ。支部法座でも会場に大きな仏壇のあるところで法座が開かれるのは、それだけでも尊い。大声でお念仏しようが、泣き喚こうが、出入り禁止になる心配はない。

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 法話の後の座談会はご示談となる。

 「如来様は見えません。どうしたら食べてもらえますか」という質問に、白熱したやりとりが続く。だか、求める側と勧める側のやりとりがかみ合わないまま進んでいく。それでも「なんとか」という思いが強く関わり続けた。

 「今、ここで葬式をせよ」と迫る。

 が「真宗は信心正因。往生のためにはまずそれが第一で、そこがはっきりしていないうちに、このいのちを捨てるわけにはいかない」という常識的な答えに、勧める方の声も一層熱くなる。自分中心にしか求められないのだ。そんな保険や保証など一切を捨てて、阿弥陀様はお命を差し出してくださっているのだ。
 
 かと言って、それを正しく指摘したところでも始まらない。相手が鎧兜なら、こちら先に裸にるなしかない。覚悟をもって最終宣告。が、それもすべて自分の頭で分別できる常識の範囲でしか捉えてもらえない。どこまでも自分の造った「こうならねばならない」という範囲で考え続けておられる。それは「教えに沿っていく」ことが仏法だという常識だ。それでいて、自分自身は教えに沿っていないのも分かっおられる。だからこそ、理想どうりになろう、なろう。そうならねば聞けない、という歪みから離れることがでなきない。残念ながら、その添うべき理想の教えこそが、自分自身が勝手に造りあげた妄念に過ぎないのだ。それに合せて「こうあるべきだ」「こうならればならない」という理想像ばかりを追う聞法は、何百年やっても他力廻向信になるはずがない。

 それでも、頑張ることに意味があるように思うのは、この世の常識の範囲での話。むしろ、不実な自分を(自分の理想とする)正統な教えの名のもとで正当化するだけで、法にかななっていないのだ。

 もしかすると見えないのは仏様だけではない。目の前に向き合っているぼくの姿も見えず、その声も届かないようだ。

 それでいて、その当事者よりも、その姿を通して回りの人達に法が響いていくのが不思議だ。結局、グズグズ畏れているのは私の方だ。宝の山を目の前にグルグル回るだけで、この命を終えるようならあまりにも勿体ないではないか。

 今、ここで、聞いてくれ!

 グズグズして決めらな私のために、阿弥陀様がそう決めてくださった。教えに添わねばと言われるのなら、この仰せの一言に沿うだけでいい。浄土真宗の信の一念、廻向信の凄まじさがここにある。

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<この「華光会」が目印↑>

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