« 『サマー・オブ・ソウル』~あるいは革命がテレビで放送されなかった時~ | トップページ | あなたの声が聴きたい »

東京支部法座~地獄の話~

  8月は完全リモートになった東京支部法座だったが、今回は、今年2度目のリアルでの開催。現地に加えZOOM参加もある二本立て。ただ、宿泊会場と兼用だった会館が、コロナ禍以降、貸会場のみの利用となり、夜を早く切り上げねばならない。ということで、今回は、昼座の後、小休止を挟んで夕座と連続した2座の法話。19時に終了してたら、1階のレストランで希望者と夕食も食べたのも、また、2日目の終了後、懇親会も開いたが、共に1年10ケ月ぶりだ。緊急事態が長く、外食で生ビールを飲むのは、7月の福岡法座以来、ほんとうに久しぶりだった。

 連続した法座で、法話も一つのテーマでを掘り下げた。「地獄」についてである。

 「地獄行き」とか「地獄一定」か法座の常套句ではあるが、では「地獄」のことをどれだけ知っているか。主に二つの意見に分類された。地獄そのものの特徴を語る人と、自己の味わい、自覚のところで語られる方である。今日は前者の話から基本をおさえることにした。

 『往生要集』の現代語訳で「地獄」を読む。また、八大熱地獄の業相、前世での罪科、年数などまとめたもて確認していった。内省の世界では、この世の罪業とは、正反対の罪の報いを受けねばならない。この世ではあまり罪が深くない、口業や飲酒(おんじゅ)の方が身業よりも深い。さらにこの世では何の罪にも問われない、仏法を謗ったり、仏道修行者を辱めるといった謗法罪が、無間地獄に落ちる罪となるのである。しかも肉体的な苦だけでなく、精神的な苦もあり、また罪の呵責もあり、それが長時間、何度も何度も苦しみが業が尽きるまで果てることなく続いていくというのである。夕座は、『往生要集』の忠実な地獄のスライドを観た。等活地獄では、「活、活」の獄卒の轟声が響くと、バラバラだった体が再び甦って苦しみが延々と続く下りは、業報の恐ろしさである。

 皆さんの声を聞いて驚いたのは、求道の過程で地獄行きが怖くなるとか、身震いするような体験をすることが、「地獄一定」の身となるという認識の方が多かった。だから、スライドを観ても、「以前は怖かったのに、大人になったので平気だった」とか、「気持ち悪かった」とか「怖かった」などという感想を述べる人があった。しかし、「怖い」とか「怖くない」とか、「聞かねばならない」とか、聞法の発奮材料にするものでも、恐怖を植えつける手段でもないのた。

 あくまでも、地獄の闇がありのままに明かになるのは、仏様の光明のおかげ、仏智に照らされたからである。どこまでも仏様が恐れずに立ち向かってくださている私の闇の恐ろしさ、そして深さに出会うのである。しかもその内省は、身(行い)や口(言葉)に留まらず、意(こころ)の内省でなくてはならない。行いや口だけなら飾り誤魔化せずに、抑えることもできよう。だが表に出なくても、心の中で一瞬一瞬に起こる煩悩の火を誤魔化すこはできない。それが種子となって貯えられ、地獄の業相として現われてくるだけのことである。

「火の車 造る大工はなけれども
  おのが造りて
  おのが乗りゆく」

という厳然たる業の道理が横たわっている。そこにしっかり光を照らしてくださったのが阿弥陀様であり、凡夫の私が誤魔化さずに向き合っていけるのも、阿弥陀様のおかげにほかならない。なぜなら、そこに阿弥陀様のお命を捨ててくださっているからである。

 結局、地獄を聴くことは、自分と出会いことであり、阿弥陀様に出会うことなのだ。冒頭のご讃題では、四八願の第一願「無三悪趣の願」、第二願「不更悪趣の願」を頂いたのである。南無阿弥陀仏 

 

|

« 『サマー・オブ・ソウル』~あるいは革命がテレビで放送されなかった時~ | トップページ | あなたの声が聴きたい »

法座と聞法」カテゴリの記事