あなたの声が聴きたい
「どうすれば」という方法論を尋ねる方。
「なぜか?」と理由を尋ねる方。
「それはどこにありますか?」と根拠を尋ねる方。
そして、自分の意見や考えを滔々と述べる方。
中には、法話の要点をしっかり復習しながらまったく言葉と離れている方もある。
雄弁だったり、澱(よど)みなく話されたすることが多い。
そんな自分の意見や考えを滔々と語られた時は、語り終わられたら、その問いに答えるよりも、「それで、今、どう感じておられますか?」とか、「語り終わって、どんな感じがしていますか?」などと、「今、体が味わっている、感じ」を、言葉にするように求めていることが多い。特に最近はしつこく「で、今の感じは?」と聞き返している。
そうすると、だいたいが「え? 感じですか。感じと言われても…」と戸惑い、言い澱んで、「エー」とか「ウン」となって、やっと事柄ではなく、自分自身に向き合ってもらえる。が、それも束の間、また頭で造った正解や、こうならればならないという理想、自分の枠に戻って、自分の考えを繰り返して話されていく。それが自分の中でのゆるぎない「正解」だからだ。
ぼくの方も、それでもめげないずに、また「で、今の感じは」とか「今、語り終えてどんな感じがしますか?」と聞き返している。今回の座談会はそれの繰り返しだった。だから、他の皆さんは、ずいぶん退屈されたかもしれない。
でも、いくら澱みなく続く正解よりも、「ああでもない」「こうでもない」と戸惑いながら、自分に少しでも触れてもらいたいのである。特に、きっちりと正確に法話の要点を返される方ほど、「耳で聞いただけで、実感はありません」とか、「頭では分かりますが、胸が承知しませんが」などと、腑に落ちないことを語られている。それはこちらにも十分伝わってくる。その方と、発せられている言葉との間の乖離が、聞いていてもよく分かるからだ。要は、腑に落ちませんと、顔に書いてある。
それもこれも、自分の実感に触れることがないからで、「実感がない」のも当然なのだ。だから常に「頭では分かりますが、、、」で終わっていく。それで、こちらは実感に触れるように聴き返しすのだが、なかなかそう聞いてくださる方は稀だ。
よくあるのは、それは「本音を話すことですか」とか、「正直な考えを話せばいいのですか」との聞き返しだ。または「そんな感じを話しても、意味はない」という自説を述べる方もある。でもいくら「本音」であろうが、「正直な考え」であろうが、すでに自分の中で出来上がった思いならば、いくら語っても新たな気づきになることはない。もうすでに自分で気づいていることなのだからね。またはいくら感情的になっでも、一時の感情の起伏であるから、すぐに覚めたり、落ち込んだするのがオチだ。
気づきとは、からだ感じているがまだ言葉になる前の、もしくは気づいてきることの周辺で、まだはっきりしないモヤモヤした感じに焦点があたり、それがハッキリと形になり、それに名付けがおこってぴったりした言葉になったときに、「ハッ」とする体験的一歩を踏み出すのである。いくら、頭での絶対的な正解に、気持ちの方を合せていこうとしても、絶対に、もやもやした不全感が残りつづける。
だから、単純な喜怒哀楽といって感情ではなく、まだ言葉になる前のからだ感じている感じ(ほんとうの意味での実感)に触れてもらって、それを言葉にしていく作業の方が、ずっとみのりがあるのだ。なかなかそこに気づかないままの語り合いが続くのは、けっこう勿体ない。むしら、これが正解、座談ではこうするべきだ、という自分の枠を壊して、モトモト、ノツノツしながらでも、自分の声を出してもらいたいのだ。
| 固定リンク