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名古屋での寺院布教

    広島法座の翌日は、名古屋での寺院布教は報恩講のご縁をいただく。

    報恩講なので、改めて「報恩講」の意味や意義から入る。親鸞聖人のご恩徳に報いるといっても、そのご恩徳が遠いお話に終わっているのが現実ではないか。親や先祖ならまだ分かるだろうし、他人でも目の前の先生のおかげも味わうことはできる。がしかし、今の私にどう親鸞様が関わってくるのかは、話として聞けても、どこかボンヤリしいる方が、大大半ではなかろうか。でもそれは当たり前の話で、いくらご苦労があると聞かされても、結局、私自身が仏法を喜ぶ身にならなければ、聖人のご恩徳に知ることはない。それで蓮如上人は、

「御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。もつてのほかの大事なり。そのゆゑは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし」

「日ごろの信心のとほり決定せざらん未安心のひとも、すみやかに本願真実の他力信心をとりて、わが身の今度の報土往生を決定せしめんこそ、まことに聖人報恩謝徳の懇志にあひかなふべけれ。」

と、何度もおっしゃている。

   要は、そこを話で終わるのではなく、いかに我が身に引き寄せることができるのか。正解を覚えて言うのなら、いくらでもできる。しかし、ほんとうにその身になっているのか。「弥陀五劫思惟の願をよくよく案ずれば,親鸞一人(いちにん)がためなりけり」は、聖人のご持言、つまり常の仰せのひとつで、何度も何度も、回りの人達に語っておられる。「親鸞一人」は、「わたし一人」である。そこまでご本願を引き寄せ、お救いを引き寄せているのか。口先だけ、もしくは昔の体験だけを握って、「救われた」といっているだけなら、それはカビのはえた喜びだ。法は生きている。生きものを握りしめていると、必ず腐ってくる。腐ったものでも、捨てられないのが私だ。「必ず救う」というお言葉をどう聞くのか。あらためて、わたし一人のお救いを問うご法話となった。

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