通夜~素晴らしい法名~
華光の先輩同人が、また一人ご往生された。ZOOM法座を終えて、大阪で開かれたお通夜にお参りする。仏法聴聞の上でも、ご相続やお勧めの上からも、またカウンセラーの資格を取得された学びの上からも、華光同人のお手本のような存在であった。
世間的に言っても、生きざまも、その死にざまも、まったく見事な100歳での大往生だ。しかし真宗の上からはもっと深い意味がある。長寿であったことや、死にぎわの見事さではなく、平生、元気を時に、しっかりとお念仏に会われて業魂のお葬式をすませたお方、つまり平生業成の人が、ついに往生の素懐をとげられたのであるから、ほんとうの意味での往生「おめでとうございます」である。
法名は、「諦聴院 釈尼聰耳」。いやこれには参った。これほど見事に、故人の生きざまを現わした法名があろうか。
まず院号の「諦聴」とは、釈尊がこれから大切なご説法が始まるぞ「諦かに聴け」と、キーとなるお言葉を発せられる。たとえば、『観経』第七華座観では、難しい定善のご説法が続く中で思わず居眠りをされていた韋提希夫人に、お釈迦様が、「諦聴(たいちょう)、諦聴」と揺り起こされる。「諦(あき)らかに聴け、諦(あき)らかに聴け。これから汝がために苦悩を除く法を説くぞ」と宣言されると、お釈迦様が消えて、目の前に阿弥陀様が立ち上がられるのである。
また法名の「聰耳」も見事だ。俗名の聰の一字に耳を加えられたものである。これは聖徳太子の別名である「豊聰耳命(とよさとのみみのみこと)」から「聰耳」とされたのだろうが、また他力によって頂いた聴く耳を現わす言葉ではないか。それにしても、仏法を聴聞の上でも、またカウンセリングで聞く耳を育まれた故人には、最高のご法名である。
ご法話も、故人に対する種々の暖かい思い出と共に、一番大切なのは、ほんとうに仏法を喜ぶ身となったか。もしそうでなければ、なんのための人生なのか。空しすぎるぞ。故人は、仏法を決して押しつけたり、厭味にもせず、それでいてブレることなく、要所、要所で語られた仏法聴聞へのお心を、時に厳しくお伝えくださった。参列のお子さまも、お孫さまもすべてが、仏の子供大会でご縁のあった方々で、再会が懐かしくもあった。同時に、ぜひもう一歩出たご聴聞を願わずにはおれなかった。南無阿弥陀仏
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