「山伏済度」(3)~修験道~
さて、本段は、山臥(山伏)の廻心なので、「修験道」も話題にする。といっても、ぼくもほとんど知らないが、3年前に聖護院のご門跡の宮城泰年猊下と、トラベルサライさんの主催の「インドの夕べ」という集いでお話を窺うことがあった。宮城先生に興味をもって、何冊か修験道に関する本を読んだ。特に、宮城泰年、田中利則、内山節著の『修験道という生き方』(新潮選書)が面白かった。一言でいうと、日本人の身近な存在でありながら、何も知っていないということだ。そして、これまで加持祈祷というまやかしで民衆をたぶらかせてきた弁円さんのというイメージが払拭された感もあった。
身体性のもつ猥雑さを嫌い、定着しない行動力は、権力の規制の外にあり、そして民間習俗ではあっても民衆との距離は近いことは、権力にとっては邪魔な存在で、何度も規制の枠にはめ込もうとし、近代には弾圧の対象になって禁止されている。民衆のために、民衆聖として、日々の生活に密着している。加持祈祷に加えて、薬草などのいわゆる漢方薬にも精通していて、民衆にとっては、遠く堅苦しい教えより、身近な頼りになる存在だということだ。
修験道とは、山へ籠もり、厳しい修行を行って悟りを得ようとする日本古来の山岳信仰で、古来の土着信仰に仏教が融合した日本独特の宗教、道教の仙人思想も影響があり、修験宗ともいわれる。「修行して迷妄を払い験徳を得る修行してその徳を驗(あら)わす」(普段の会話でも、「霊験あらたか」などと身近だ)ことから「修験者」とか、山に伏して修行する姿から「山伏」(山臥)とも呼ぶれる。日本各地の霊山を修行の場とあた、厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力」を得て、衆生の救済を目指す実践面も強い。修行の場は、日本古来の山岳信仰の中心の大峰山(奈良県)や白山(石川県)などの「霊山」。中でも熊野三山(和歌山県)への信仰は、平安時代中期から、天皇や貴族が競って参詣し隆盛を極める。(熊野信仰は、三所権現・五所王子・四所宮の祭神が重要。これを勧請した九十九王子が有名。『御伝鈔』下巻第五段の平太郎の熊野詣にも関連する)。他にも、豊前の彦山、伯耆の大山、伊予の石槌山、加賀の白山、駿河の富士山、信濃の戸隠山、上野の日光山、出羽の羽黒山、常陸の筑波山など。弁円さんの筑波山もその一つなのだ。また、神仏習合なので、日本の神と仏教の仏(如来・菩薩・明王)がともに祀られ、表現形態として権現(神仏が仮の姿で現れた神)現われるが、もっとも有名なのが、役小角(役行者)が吉野山中で感得したという、蔵王権現(過去の釈迦仏、現在の千手観音、未来の弥勒弥勒を念じ、三体が融合した日本独自の仏)であろう。
その修験道の歴史は、飛鳥時代に役小角(役行者)が創始したといわれる。役小角は、『続日本史』に験力と流罪が記載。『日本霊異記』にも伝承。大和国葛城郡の出身で、葛城山で30年の苦行、摂津の箕面山で孔雀明王の呪力。吉野山中で、蔵王権現を感得する。終生を在家のまま通したので(民衆聖)、いまも在家主義が貫いている。
修験道が盛んになるのは平安時代。その源は、仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と、仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の広まりと関連する。神社の境内には「神宮寺」が、寺院の境内に鎮守としての守護神の社が建てられ神仏習合が盛んになる。その中で、密教(天台宗・真言宗)での山中の修行と、日本古来の山岳信仰が結びつく形で、「修験道」という独自の信仰が成立する。
鎌倉時代後期から南北朝時代には独自の立場を確立する。密教との関わりから、仏教の一派と見なされる。江戸時代には、修験道法度が定めれ、真言宗系の当山派(真言宗総本山醍醐寺塔頭の三宝院を本山)か、天台宗系の本山派(天台宗寺門派の園城寺末の聖護院を本山)に属することを義務づけられ、両派を競合させた。
修験道への弾圧は、明治期に強化される。明治元年に神仏分離令、明治5年に修験禁止令が発令、修験道は禁止。里山伏(末派修験)は強制的に還俗。廃仏毀釈により、修験道の信仰も破壊された。薬事法で漢方薬などの禁止も痛手となる。その後、脈々と水面下で信仰されるが、本格的に復活するのは終戦後というから、その歩みをみるだけでも興味深い。
といっても、真宗的にみても、現世の救いであったり、超えねぱならない面もあって、それも含めて味わうと弁円さんの廻心はまたくもって尊い。
| 固定リンク
「聖典講座」カテゴリの記事
- 『口伝鈔』第七条「凡夫往生章」(2023.01.29)
- 『口伝鈔』第五条「仏智護念章」(2022.11.13)
- 『口伝鈔』第四条(2022.10.16)
- 聖典講座『口伝鈔』(1)(2022.10.15)
- 『御伝鈔』下巻第七段(3)「~廟堂創立の経緯とその後~(2022.02.22)