「山伏済度」(2)~山臥・明法房~
さて、主役は、有名な山伏弁円である。山臥・明法房が、弁円と表わされるのは江戸時代の『正統伝』に、山伏の名が「弁円」と記載されて、このエソードが有名となるからだが、もともと『御伝鈔』にはその名はなく、聖人が命名された「明法房」と出ているだけだ。
「播磨公弁円」と名のり、筑波山地の修験道を束ねる存在であった。聖人と出会いは、聖人が49歳、弁円が32歳の頃か?(実際の往生の歳とは合致せず)。回心の後は、地域の門徒の中心的な弟子の一人だったことが、聖人のお手紙から窺える。二十四輩の19番目、上宮寺の開基。建長三(1251)年にご往生。68歳頃か?。兵庫県宍粟市山崎町にも墓があるのは、母方の出生地であるといわれる。
廻心懺悔の後に詠まれたという歌には、深い味わいがある。
「山も山、道も昔にかわらねど、かわりはてたる わが心かな」
また、親鸞聖人の『御消息』(お手紙)には、重複した内容だが、明法房(弁円)の往生のことに関して、何度も言及されている。それをすべて出すと、。
一、「明法御房の往生のこと、おどろきまうすべきにはあらねども、かへすがへすうれしく候ふ。鹿島・行方・奥郡、かやうの往生ねがはせたまふひとびとの、みなの御よろこびにて候ふ」(第二通・737)
*これは、建長四年(聖人80歳)の日付のお手紙で、その前年(つまり聖人79歳)に往生されている。大意は、
「明法房が往生されたこと、驚くべきことではないが、ほんとうにうれしいことだ。また鹿島・行方・奥郡(いずれも常陸国で、聖人の布教地が窺える)の往生を願う人にもうれしいことだ。」
二、「この明教房ののぼられて候ふこと、まことにありがたきこととおぼえ候ふ。明法御房の御往生のことをまのあたりきき候ふも、うれしく候ふ。」(第三通・742)
*「その様子を、明教房というお弟子が上洛してきた時に、明法房のご往生のことを親しく聞くことができたが、ほんうにうれしいことだ。」
三、「なにごとよりも明法御房の往生の本意とげておはしまし候ふこそ、常陸国うちの、これにこころざしおはしますひとびとの御ために、めでたきことにて候へ。往生はともかくも凡夫のはからひにてすべきことにても候はず。(中略)
明法房などの往生しておはしますも、もとは不可思議のひがごとをおもひなんどしたるこころをもひるがへしなんどしてこそ候ひしか。」(第四通・742)
*「明法房が往生の本意をとげられたことは、常陸国の往生を願っている人たちにとっても、よろこばしいことだ。往生は、凡夫のはからいでは超えられないのだ。(略)
明法房が浄土往生されるのも、かってはとんでもない誤った考えをもっていたものを翻して回心されたからだ」。この後に造悪無碍について誡められる。
四、「明法御房の往生のことをききながら、あとをおろかにせんひとびとは、その同朋にあらず候ふべし。」(第五通・745)
*「明法房の往生のことを聞きながら、その意志を疎かにするような人達は、念仏の仲間(御同朋)ではない」。明法房の往生をもとにして、造悪無碍の人々を強く誡められている。
つまりとんでもない間違った思いを持っていたものが、聖人と出会いによって、廻心懺悔して弥陀の本願に帰す身となられたことは、常陸国の人々にとっても大きな存在で、聖人も、当時の造悪無碍の間違った道を進む人々を戒め、正意安心の身に翻ってほしと、明法房の往生に即して切々と訴えておられるのである。南無阿弥陀仏
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