九州支部もZoom法座
計画では、広島から直接、九州(大分もしくは福岡)に向う予定だったが、コロナ感染拡大でそれもなくなった。九州支部はコロナ感染拡大を理由に中止にならないと思っていたが、会所がコロナの影響を受け直前に中止が決定。第5波の感染は身近に迫っている。支部長さんに提案してZOOMで開催してもらう。参加できない方もあるが、九州組に加えて、広島や名古屋、横浜、高山、そしてアメリカからの参加もあり、Zoomでもいい法座になったのではないか。
午前中は、餓鬼について、『往生要集』の現代語訳を読み、それにもとづいたスライドを見てもらう。これはZOOMならでは手法で、餓鬼の生々しい映像に感じる方も多かった。餓鬼の中でも食法餓鬼を問題に、次号の巻頭言も読む。「くれ、くれ」と求めるばかりではなく、一度は身を差し出せとの一文に、では私の何を差し出すのか。みんな頭で作った正解が並べられる。が、ここは身を捨てる体験に出ないと、その真意は分からない関所なのだ。いくら正解や思いを語っても、意味はない。
午後からは、「まったくわたしくなし」のテーマにする。今、ぼくの中で、一番響いてるところであり、皆さんに聴いてもらいたいところだ。
座談会のやりとりでは、頭でっかちになる人、自分の感情に引きづられる人、正解を言って満足する人、自分の思いや考え方の表明ではなく、自分を開かないと面白くない。こう思う、こう考えるだけなら、「わたくしあり」なのだ。それがなん役に立たない、法に照らされたら、どんな奴が浮き彫りになってくるのか。その一点で聴くしかない。そして一度、死んでしまったらそれで終わる。自力が死ねば、もう聴き間違うこともできないのだ、という法話だった思うが、「聴き間違わないようにしっかり聴きます」という程度の表明が出る。いやいや、「これまでも、これからも、私は聴き間違いしかしない。その方向の聞法は自己満足にすぎない」と、厳しくお伝えした。
でもこれも一例。自称獲信者の方でも、感情のところだったり、味わいのところだったりでしか、仏法が喜べないので、そのあたりの自己満足の味わいには、次々と突っ込んで指摘しまくった。もしかすると、対面法座よりも、遠慮なく伝えられたのかもしれない。その意味では、Zoomだったが、意味深い法座となったのではないか。
| 固定リンク
「法座と聞法」カテゴリの記事
- 京都支部法座~2月の連続法座(6)(2024.02.23)
- 第3回「長命の集い」2日目~2月の連続法座(5)(2024.02.21)
- 第3回「長命の集い」初日~2月の連続法座(4)(2024.02.20)
- 久しぶりの広島法座~2月の連続法座(3)(2024.02.19)
- 華光誌輪読は「同人さん…」~2月の連続法座(2)(2024.02.18)